エラリイ・クイーン『エラリイ・クイーンの冒険』

(短編によっては、犯人等を明らかにしていますので、ご注意ください。)

 

 先頃(といっても、2018年)新訳が出た『エラリイ・クイーンの冒険』(1934年)[i]は、作者の最初の、そして代表的な短編集との定評がある。

 『クイーンの定員』(1951年)にも選出された[ii]が、これはクイーン自身の選定なので、自画自賛では、あまり重きを置くわけにもいくまい。とはいえ、我が国のクイーン・ファンの間でも、やはりクイーンの短編集といえば、まず本書が挙げられるようだ。

 「冒険」というタイトルも、コナン・ドイルの向こうを張って付けたものだろうから、作者としても自信があるらしいのがわかる。ただ、正面切って言うことでもないが、物語の面白さでは到底『シャーロック・ホームズの冒険』(1892年)には及ばない。本書が勝るとすれば、時代の違いを当然考慮したうえで、パズル短編小説としての熟成度と洗練度ということになるだろう。

 ただ、昔読んだ感想は、やっぱりクイーンは長編にかぎる。短編も悪くはないが長編と比べると物足りない、というものだった。『ギリシア棺の謎』や『エジプト十字架の謎』が比較対象では厳しすぎるかもしれないが、全体でみて面白い短編とそうでもないのとが半々くらいというところだった。もっとも、1940年代以降になると、パズル・ミステリとしては、長編より短編集のほうがクイーンらしい推理を楽しめるように思う。クイーンの場合、長編小説は時代とともに大きく変化したが、短編は基本的に変わらなかったということだろう。もっとも、長編小説については、変わったというより、変になったと言ったほうがいいかもしれないが。

 ともかく、今回何度目かの読み直しだが、以前の印象が変わるのかどうか、そこに着目して読んでいこうと思う。

 

01 「アフリカ旅商人の冒険」(1934)

 第一短編は、雑誌未掲載の新作だったらしい。巻頭に置いたのは、書下ろし短編で読者を釣るためと、自信作だったのだろう。

 ホテルを舞台にした殺人で、(『ローマ帽子の謎』以下の)初期三作における公共の建物内の事件を思わせる。謎解きの組み立ても似ていて、つまり建物に関係のある人物、すなわちホテルの従業員が犯人というアイディアである。エラリイの推理も、物的データからの型通りではあるが、巧みな手がかりと伏線で面白く読ませてくれる(腕時計に関する解釈はどうかと思うが)。

 しかし、本編の売りは、アントニー・バークリーの『毒入りチョコレート事件』(1929年)を連想させる「推理比べ」にあり、エラリイが大学の特別講師として三人のゼミ学生と推理を競うという趣向にある。短編なので、学生の推理も単一データに基づく単純なもので、もちろんエラリイが講師の貫禄を見せる。この趣向も含めて、あとの作品にも大いに期待を持たせる好編である。

 ところで、冒頭、大学キャンパスを訪れたエラリイが、女子学生のぴちぴちした肢体や良い匂いに鼻の下を長くする描写があるのだが、彼って、こんなにおっさん臭かったっけ。旧訳のときは、気がつかなかった。

 

02 「首吊りアクロバットの冒険」(1934.5)

 二作目は、アクロバット曲芸師の美貌の女性が、舞台裏の一角で首を縊って死亡しているという劇場殺人ものである。あたりには拳銃や短剣といった凶器になりうるものがいくつもころがっているのに、なぜ犯人はロープによる絞殺という面倒な手段を選んだのか、という謎。この謎について、ロープの特殊な結び目が特定の人物を指し示すことから、犯人がその人物に罪を着せようとしたのだとエラリイは推理する。

 しかし、実はロープによる首吊りは偽装で、実際は扼殺だったことが判明する。その事実が、おなじみプラウティ医師の検死で明らかになると、一気にエラリイは真相にたどり着く。

 手際よく組み立てられているが、しかし、本作は、あまり感心できない。首吊りの偽装は、扼殺の痕跡を隠すことが第一目的で、他人に罪をおっかぶせることは二義的だったというのだが、そこまで頭の回る犯人が指の跡をロープで隠せる、あるいは時間がたてば消えると考えるのは、あまりに考えが浅い。

 構成面をみると、指の跡が逆についているというのが決定的データだが、しかし、多くの読者はこの手がかりが出た時点で、答えの見当がついてしまうだろう。作者も、そう予想したとみえ、だからこそプラウティ医師の登場を後回しにして、データの開示を遅らせているわけで、ロープによる偽装と結び目の手がかりは、そこまで話を繋ぐための作者の都合による手がかりと推理だったことになる。つまり正面から読者に挑戦していない。

 それに、この犯人は、なぜアクロバットの練習中を選んで、殺人を決行しなければならなかったのだろう。扼殺の指の跡が逆になっているというのは、作者にすれば上手い手がかりかもしれないが、犯人がわざわざ自分を指し示すような犯行方法を取る理由が、まったく理解できない。

 大体、指の跡がそんなに気になるなら、ロープで隠すより、『エジプト十字架の謎』のように、首を切ったほうがごまかせる可能性があったんじゃない?

 

03 「一ペニー黒切手の冒険」(1933.4)

 貴重な切手の盗難をめぐるミステリで、コナン・ドイルの「六つのナポレオン」(1904年)を下敷きにしていることで知られる。ただし、同じ本が何冊も盗難にあう謎は、真相を隠すための偽装に過ぎないので、プロットの組み立ては「首吊りアクロバット」に似ている。

 クイーン(フレデリック・ダネイのほうだっけ?)の趣味が切手蒐集なのは有名だが、作中のエラリイはそうでもないらしい。むしろ興味なさそうなセリフが、なんか自虐的でおかしい。

 作品の核となるアイディアは、強盗未遂に見せかけた狂言で、盗まれた当人が犯人というありふれたトリックだが、それを犯行現場の手がかりから巧みに推理する。同年の『シャム双子の謎』に似たような推理が出てくるが、本編のほうが執筆は先のようだ。

 最後の謎は盗まれた切手の在りかだが、こんな乱暴な隠し方は、コレクターならしない、という批判があったと記憶している。そう言われるとそうだが、短編のオチとしては面白い。ただ、この犯人が、ここまで必死に切手を隠す必要があるのか、とは思う。こんな際どい隠し方をしなくとも、切手一枚くらい、いくらでも隠し場所はあるのではないだろうか。

 それに盗難の偽装をカヴァーするのに本を幾冊も盗むのも、無駄に危険を犯しているように思える。強盗致傷といっても狂言だから、詐欺罪にしかならないだろう。それなのに、さらに盗難の罪を重ねて、しかもその分発覚の危険を増やすことになる。まあ、短編だし、常識的な突っ込みをしても、しょうがないが。

 

04 「ひげのある女の冒険」(1934.8)

 初期のダイイング・メッセージものの一編。このテーマとしても、またクイーンの短編のなかでも傑作とされている[iii]

 しかし、最初に読んだときも、そのあと何度読み返しても、さっぱり面白くないのだ。これは私の感覚がおかしいのだろうか。頭が論理的でないだけ?

 女性の肖像画にひげを書き加えたのは女装の男を意味している、という解答は、なんというか、平凡としか思えないのだ。じゃあ、答えがわかったのか、と聞かれると、そうではないのだが、エラリイの謎解きを聞いても、なあんだ、としか感じなかった。

 ダイイング・メッセージの解釈の意外さよりも、女装の人物が存在することを突きとめる論理が読みどころなのだ、ということだろうが、メッセージの解釈も、それほど論理的と思えないのである。「女装の男」以外の解釈を完璧に除外できているのだろうか?実際にひげの生えている女性を指す可能性は、作中でも取り上げられて、否定されるが、そんなに簡単に否定できるのだろうか?女装の男がいるから、「女装の男性」がメッセージの答えだと聞かされている気がする。

 

05 「三人の足の悪い男の冒険」(1934.4)

 富豪が愛人宅で誘拐される。現場には、三人の賊の足跡が残されていたが、それらがいずれも片足を引きずっている。誘拐犯が三人とも右足が悪いとは、果たして・・・。

 こうやって書くと、なんとなく滑稽だが、本編も初読以来、さっぱり、おかしく、いや、面白く思えなかった作品である。

 「三人の足の悪い賊」の謎の答えが、すべって転んだ犯人が靴を三足履き替えただけ、というのは・・・。無論、この謎の答えが意外かどうかではなく、この答えから、どのような推理が引き出せるかが肝なのだ、ということは重々承知したうえで、それでも大して面白くないのだから仕方がない。

 本編のトリックが誘拐の偽装で、「首吊りアクロバット」が殺人方法の偽装、「一ペニー黒切手」が盗難の偽装、同系統の趣向続きで、またかという気がするせいもある。

 

06 「見えない恋人の冒険」(1934.9)

 被害者に撃ち込まれた銃弾が体を貫通して壁に痕跡を残す。『ギリシア棺の謎』と類似のシチュエイションを利用した短編。検死官が葬儀屋を兼ねるというのは、1930年代になってもこんな風習があったのかと思うが、それが謎解きの鍵になっている。

 推理はなかなか細密に、かつ複雑に考えられているが、検死官なら、あらかじめ銃弾が貫通する可能性を考慮に入れて行動するのではないのか。登場人物のひとりが、この質問をして、貫通した弾丸をその場ですり替えればよかったはずだ、と問うと、エラリイが、それが不可能だった、「ちょうどその時、手の届かない場所に、問題の弾を置いてきてしまったのですよ」[iv]と答えるのだが、この文章の意味がわからない。エラリイ君、「手の届かない場所」って、どこ?はっきり教えてくれ!

 どこでも結構だが、もう一度繰り返すと、銃弾の貫通の可能性を予測していないのは間抜けすぎるだろう。

 

07 「チークのたばこ入れの冒険」(1933.5)

 本作も、一向に感心した覚えがなかったが、今回読み返して、ちょっと見直した(えらそうで、すいません)。

 寝室にこんなにたくさん出入り口があるものなの、と思わなくもないが、煙草が見当たらないことから、たばこ入れの存在を推定していく推理は面白い。クイーン警視の声が被害者に聞こえたのかどうかを確認するのが、エラリイが謎解きを始めてからというのは、ちょっとひっかかるが、被害者の行動を予測した犯人の動きを、さらにエラリイが予見して真相を突き止める展開も巧みだ。最初読んだときに感心しなかったのは、この複雑な推理の経路が充分頭に入らなかったからだったらしい(要するに、頭が悪すぎたせいだった)。

 それでも、ひとつ疑問を述べると、盗品を隠しているたばこ入れを、被害者が素直にエラリイに見せるのはおかしいのではないか。見せないと、エラリイが推理するきっかけがなくなってしまうのはわかるが、随分うっかり者の犯罪者だ(お前みたいだって?)。

 

08 「双頭の犬の冒険」(1934.6)

 本短編集のなかでは、もっともサスペンスに満ちた怪奇小説風ミステリ。

 そのせいか、やはり本作が一番小説として面白い。犯人のアイディアは、E・A・ポーやコナン・ドイル以来の「伝統」だが、最初から犬を登場させておいて、しかし死んでいたと明かして読者の注意を一旦そらしたり、事件の起こる宿屋の名前が「双頭の犬」で手の内を大胆にさらすなど、洗練された演出テクニックは、さすがといえるだろう。

 ただ、被害者の傷口や衣服を詳しく調べれば、当然、犬の毛が付着しているのが見つかるはずで、というより、見つからなければおかしいので、そのせいだろうか、殺人の直後にエラリイがばたばたと事件を解決してしまう。のんびり検死など待ってはいられないというわけで、作者の側の都合なのだが、おかげで緊張感が持続して、無駄のない引き締まった好短編となった。

 

09 「ガラスの円天井付き時計の冒険」(1933.10)

 ダイイング・メッセージものではエラリイ・クイーンの最高作と評判の一編[v]

 しかし、ドームの形をした置き時計が暗示するのは証券取引所のチッカーだ[vi]と言われても、全然ピンとこないのだが。紫水晶が2月の誕生石だというのは、作中でも触れられていて[vii]、それが偽の手がかりとわかると-また偽装のトリックかとは思うが-、今度は真の手がかりである誕生日祝いのカードと結びついて、そこは、複雑ではあるが、巧みなプロットで、すっきりとスマートにまとまっている。

 しかし、ダイイング・メッセージを扱った世界最高のミステリといわれると[viii]、俄かに同意はできない。犯人によるダイイング・メッセージの偽装が、逆に真犯人をあばく手がかりとなる構成の妙が評価されているのだろうが、世界最高とは、少し結論を急ぎすぎでは。

 それに誕生日のカードを贈られたパイクという男は、パーティまで開いたくせに、自分の誕生月が2月であることを打ち明けなかったのだろうか。誕生日おめでとう、と言われたら、ありがとう、本当は2月29日生まれなんだが、うるう年以外の年は3月1日に祝うことにしているんだよ、と普通言わないか。その話題が一切出ない誕生パーティとは、一体。皆、黙りこくったまま、お開きを待ったのだろうか。大体、犯人もパーティに出席しているのだから、他の連中の様子を見て、こいつら、パイクの誕生日が2月29日ってことを知らないな、と気づきそうなものではないか。

 

10 「七匹の黒猫の冒険」(1934.10)

 猫嫌いの老婦人が、毎週一匹ずつ同じ見た目の猫を買い続けるという奇妙な謎を発端とする短編。

 ペット・ショップを訪れたエラリイは、例によって美人店員にデレデレするが、現場となるアパートメントハウスに出かけてからは、現在進行形でスピーディに話が進んでいく。老婦人も、その世話をする妹も姿が見えず、最後に買った黒猫が浴槽で惨殺されているという奇怪な謎で、エラリイが介入したその日にちょうど事件が急転するのは都合がよすぎるが、現場を調査しながら推理を進めていく展開は、最後の乱闘シーンまでスリルが持続して飽きさせない。

 推理自体は、ハリイ・ケメルマンの「9マイルは遠すぎる」(1947年)のような妄想推理に近いが、発端の謎から想像力を飛躍させて予想外の結末に着地するルートは鮮やかだ。論理的には緩くとも、話がどんどん大きくなって意外な真相にたどり着く見事な短編ミステリといえるだろう。

 

11 「いかれたお茶会の冒険」(1934.10)

 旧訳では省かれていたが、今回の新訳ではめでたく収録されたクイーンの代表的短編小説のひとつ。

 ちょうど同年の長編『チャイナ橙の謎』と同様、「不思議の国のエラリイ」もの[ix]に括られる作品で、そのものずばりの『不思議の国のアリス』(正確には第二作のほう)を手掛かりに用いている。謎のギフトが贈られてくるのは、後年の『最後の一撃』(1958年)でも繰り返されるが、本編では贈り手が同作とは逆になっているのが趣向である。

 外界から切り離されているわけではないが、屋敷のなかだけで事件が進行し、短編であることもあって、クイーンの不条理な謎をテーマにしたミステリとしては、一番成功しているように思える。見えるはずの時計が見えなかったという奇妙な謎と意外な解決も、ギフトの謎と上手く呼応しあっている。面白く感じるのは、こうした逆説的な謎解きが好みというせいもあるようだ。逆説は意外性に繋がるからだろう。

 ギフトの謎自体はこじつけ気味、探偵の機略にしても大仰すぎて、論理的推理という面では物足りないが、確かに本短編集の目玉となる一編だろう。

 

 今回、推理の部分に着目して読み返すよう努めたが、結果としては、従来の評価(というほど学究的なもんでもないが)を変えるには至らなかった。

 確かに、本短編集におけるエラリイの推理を見ていくと、短編とは思えないほど細心かつ緻密で、(今さらではあるが)ほとほと感心したのだが、それでも印象が一変とはならなかった。

 その理由として、ひとつ気づいたのは、クイーンの論理的推理というのが、結局のところ、探偵の論理だということである。もっぱら探偵側の視点で組み立てられていて、そこには犯人または被害者の論理が欠落している、とまでは言わないが、破綻している、と言っては言い過ぎかもしれないので、要するに犯人や被害者の行動が論理的でない場合が、ままあるのだ。

 論理的推理といっても、ミステリの論理は数学的なものではなく、人間の常識的な心理を前提としている。金が欲しいとか、恋敵を始末したいとか、でも警察には捕まりたくない、といった極めて卑俗で、しかし「合理的な」人間心理に基づいている。『ギリシア棺の謎』で、ある人物が、自分が事件に関係づけられるかもしれない証拠の存在を進んでエラリイに申し出る。すると、エラリイは、その人物の行動は犯人のそれではないと確信する[x]。エラリイの論理的推理とは、例えば、このような(この程度の)ものである。

 ところが、クイーンのミステリでは、しばしば犯人や被害者のほうに論理的に、あるいはむしろ心理的にみて、おかしな行動が目につく。それは推理データが探偵側の視点に沿って構成されている、もっとはっきりいえば、探偵側に都合のよいように作られているからである。初期長編では、いくつかエラリイの推理に疑問を感じることがあったが、それらは、結局、犯人や被害者の論理(心理)に違和感をもったからだった、と気が付いた[xi]。本書でも、「首吊りアクロバット」で、なぜ犯人は逆さまの体勢で被害者を殺害しなければならなかったのか、理由が説明されていない。必然の理由がないのであれば、逆に被害者のほうが逆さまになっていたときに殺害した。従って、犯人はアクロバットの芸人とは限らないという推理も可能になる。

 「チークのたばこ入れ」では、被害者はそんな必要はないのに、殺された兄がたばこ入れを持っていなかったか問われると、わざわざ自分のたばこ入れを取り出して、エラリイに渡して調べさせたりする[xii]。煙草のなかに盗んだ宝石が入っているはずなのに、である。頭がおかしいだろ、こいつ。(もちろん、お揃いのたばこ入れをもっていることを教えてくれないと、エラリイが推理できない。)

 確かに、こういった「あら」はミステリにはつきものかもしれない。しかし、クイーンのミステリは、犯人や被害者が残したデータから綿密な論理を組み上げていくところに最大の特徴がある。不可解な行動や心理が目に付くと、肝心の推理にも穴が見えてくる。エラリイの論理的推理は見事でも、犯人や被害者の心理に矛盾があれば、その推理も信用できなくなる。推理を基準に出来栄えを測るとすれば、やはりそこは気になる。従って、論理的推理を前面に出した短編が、必ずしも優秀とは思えなかった。従って、評価もほとんど変わらなかったというわけである。とはいえ、今回の再読で、探偵の論理に対する犯人・被害者の論理という観点に気づくことができたのは収穫だった。

 以上から、再読前と後で、面白いと思った短編とそうでもなかったものに変更はなしという結果になった。旧訳の解説を書いた中島河太郎の評価とほぼ一致している[xiii]ので、やっぱり影響されているのかもしれない。河太郎先生が選んだのは「一ペニー黒切手」、「双頭の犬」、「七匹の黒猫」だが、これに「アフリカ旅商人」と「いかれたお茶会」(旧訳版には未収録なので、中島は選んでいない)を加えた五編が、個人的には気に入っている。

 

[i]エラリー・クイーンの冒険』(中村有希訳、創元推理文庫、2018年)。

[ii] 同、川出正樹による解説、492頁。

[iii] フランシス・M・ネヴィンズJr.『エラリー・クイーンの世界』(秋津知子他訳、早川書房、1980年)、70頁、『エラリー・クイーンの冒険』、496-97頁。

[iv]エラリー・クイーンの冒険』、260頁。

[v]エラリー・クイーンの世界』、71頁。

[vi]エラリー・クイーンの冒険』、374頁。

[vii] 同、358頁。

[viii] 飯城勇三エラリー・クイーン完全ガイド』(星海社新書、2021年)、72頁。

[ix]エラリー・クイーンの冒険』、500頁。

[x]ギリシャ棺の秘密』(越前敏弥・北田絵里子訳、角川文庫、2013年)、549-51頁。

[xi] 『Xの悲劇』、『エジプト十字架の謎』、『Zの悲劇』、『チャイナ橙の謎』、『スペイン岬の謎』など。一番不満を感じるのが『災厄の町』。

[xii]エラリー・クイーンの冒険』、279-80頁。

[xiii]エラリー・クイーンの冒険』(井上 勇訳、創元推理文庫、1961年)、378頁。