J・D・カー『カー短編集1/不可能犯罪捜査課』

(収録短編の幾つかの結末を明かしていますので、ご注意ください。)

 

 ジョン・ディクスン・カーの初の短編集は、1940年にカーター・ディクスン名義で刊行された。処女作刊行から十年目というのは、早いのか遅いのか。もっとも、カーは最初の五年間ほどは、ほとんど短編小説を書いていない(というか、買い取ってもらえなかった?)。それと、ディクスン名義での出版の理由は何だったのだろう。1940年には、同名義で『かくして殺人へ』と『九人と死で十人だ』の二冊が公刊されている(ただし、『かくして殺人へ』は、イギリスでは1941年刊だったようだ)[i]。一方、カー名義の本は1940年には『震えない男』一冊きりしかない。1930年代を通じて、どちらの名義でも二冊の長編ミステリを発表するのが通例だった。なんで、カー名義のほうの出版社は、もう一冊長編を書けないなら、短編集を出さないかと提案しなかったのだろうか。

 と、答えの出ない問いをしても仕方がないので、先に進もう。The Department of Queer Complaintsは直訳すれば、「奇妙な訴え取り扱い課」とでもなるだろうか。日本語題名は『不可能犯罪捜査課』[ii]で、確かにこのほうが売れそうだ。創元社の翻訳は、例によって例のごとく、一編(「見知らぬ部屋の犯罪」)は他の本に収録したので割愛するという不親切さでいらつかせるが、それ以外は10編を原書通りに収録している。

 中心となるのはマーチ大佐のシリーズで、シリーズ名が書名にもなっているのだが、『ストランド・マガジン』という由緒ある雑誌の大舞台で、不定期とはいえ短編シリーズとなれば、カーとしても気合が入ったのだろう。(「見知らぬ部屋の犯罪」を含めて)7編のマーチ大佐ものは、いずれもトリッキーで明解な不可能犯罪ミステリで、いかにもカーらしい手際のよい短編ぞろいである。ただ、この手のトリック小説は、短編だと、どうしてもあっけないし余韻に乏しい。やはりコナン・ドイルのようにはいかなかったか。

 そのあたりを考慮すると、シリーズ以外の4編が短編集として幅を広げており、重しになっている。「不可能犯罪捜査課」シリーズ(全9編)だけでは、どっちにしろ短編集一冊分にも足りなかったかもしれないので、トリック小説と奇談・怪談を取り混ぜることで、カーの第一短編集は代表作に相応しい一冊になったといえるだろう。

 

01 「新透明人間」(The New Invisible Man, 1938.4)

 通りを隔てた向かいのアパートの一室を覗き見ていた男が、警察に駆け込んでくる。テーブルと椅子一脚しか置いていない部屋の中で、怪しい老人が銃で撃ち殺されたという。しかも、室内にほかの人間はおらず、なんと、テーブルの上に載っていた手袋が浮き上がって銃を掴み、発射した、と。しかし、警察が現場に到着すると、室内に死体は見当たらず、住人の若夫婦は何も見ていないと証言する。果たして、透明人間による殺人なのか。

 事件を持ち込まれたマーチ大佐は、あっさりと事件の真相を見破るが、この手品のタネはどの程度知られていたものだったのだろうか。まったくの奇術的トリックで仰天するほどでもないし、複雑すぎるということもない。全体に軽快で小気味よく、ユーモラスなストーリーは掲載誌を意識したものかもしれない。

 現代なら、さしずめストーカーを撃退する軽いタッチのミステリといったところだろう。

 

02 「空中の足跡」(The Footprint in the Sky, 1940.1)

 二番目の本作は、実際は、本短編集に収録された不可能犯罪課シリーズ作品のなかで、最後に書かれたものである。そのせいでか、作品中に、他のシリーズ短編への言及がある[iii]。どうも不手際だなと思うが、足跡のない殺人という謎が引きが強いと判断されたのだろうか。

 事件は、ある雪の晩に、一人暮らしの女が自宅で頭を打たれて死亡している。あたり一面雪景色で、玄関と隣家との間に往復する女性の靴跡だけが残されていた。

 隣家には実際に娘がひとりいて、死んだ女と険悪な仲で動機はある。しかも、彼女は夢中遊行の症状があって、知らぬ間に罪を犯したのでは、と不安を抱いている。住人は他に、女性の父親と従兄の青年のみ。犯人は彼女以外にはいないとみられたが、ひとつ奇妙な手がかりが見つかる。両家の間に置かれたアーチ門の頭のあたりに、大きな靴跡が印されていたのだ。真犯人は空中を飛んで現場を往復したのだろうか。

 今回もマーチ大佐は、到着して早々にトリックを暴くが、足跡のない殺人といっても、例えば『白い僧院の殺人』(1934年)ほど冴えたトリックではなく、やはり少々あっけない。だから短編で使ったのだろうが、アーチに残された空中の足跡の手がかりが、まあ工夫といえる。

 実は本作のトリックは、前年の『テニスコートの殺人』(1939年)で、仮説として持ち出されて、あとで否定される方法なので、それも物足りなく思う要因かもしれない。

 

03 「見知らぬ部屋の犯罪」(The Crime in Nobody’s Room, 1938.6)

 いわゆる家屋消失ものの一編。

 酔っぱらって帰ってきた男が、自室と思って入ると、まったく見覚えのない部屋で、おまけに椅子には死体が腰かけている。酔いも醒めてあわてて部屋を出ようとすると背後から殴られ、意識を失ってしまう。眼が覚めると廊下のソファに横たわっていた、という謎である。家具据え付けのアパートだが、並びのどの部屋にも、主人公が見た室内の様子に合致する部屋はない。

 この類の謎は解決法は決まっているし、本作の場合、家具が据え付けなので、存在しない部屋を作り出すのに手間はかからない。その分、意外性もないわけだが、主人公を殴り倒した後に部屋の模様替えをしたのではなく、模様替えをした部屋に入り込んだという逆説的解釈がミソというところだろうか。

 それと、古典的なミステリでおなじみの色覚異常をトリックに用いており、そちらのほうが細かく伏線が張られている。

 この手のトリックでは、エラリイ・クイーンの「神の灯」(1935年)という傑作が発表されたばかりなので、見劣りするのは止むを得ない。それでも、まずまず練られたパズル短編だとはいえるだろう。

 

04 「ホット・マネー」(Hot Money, 1939.2)

 珍しく、いきなり銀行襲撃の派手な場面から始まる。襲撃犯は、すぐに逮捕されるが、盗まれた金が消え失せているという謎である。犯人たちの弁護士が実は悪名高い人物で、銀行員の恋人の女性が彼の屋敷に勤めている(どんな偶然だ)。書斎で盗んだ金を前にしているところを目撃すると、すぐに警察官を連れて戻ってくるが、大量の札束を隠す余裕はなかったのに、書斎のなかに金は発見できない。一体、どこへ消え失せてしまったのか。

 今度は、物品消失の謎だが、要するに「隠し場所」のトリックである。真相はというと、果たして警察が見落とすような隠し場所なのかとも思うが、例によって、マーチ大佐は話を聞いただけで真相を見破る。前々から、この隠し場所を利用する犯罪者が現れるのを待っていたのだという(まるで自分もやってみたかったと言わんばかりだ)。日本では、こうした温水式のセントラル・ヒーティングはなじみがないので、わかりにくい。本当に隠せるのだろうか。

 

05 「楽屋の死」(Death in the Dressing-Room, 1939.3)

 今度はナイト・クラブが舞台。ショーが終わったばかりの踊り子が楽屋で死んでいたという事件である。

 このシリーズではめずらしく、オーソドックスな一人二役を用いたトリック小説になっている。

 しかし、犯人が殺人を実行しようとしているときに、人と会う約束をするのは不自然な気もする。しかも、恐喝している相手である。犯行の邪魔になったらとか、逆に脅迫されたらとか思わないのだろうか。無神経なのか、自信過剰なのか。

 無論、関与する人間を増やさないと謎解きが単純になりすぎるから、という作者の都合なのだが。

 

06 「銀色のカーテン」(The Silver Curtain, 1939.8)

 第六作(実際は七番目に書かれた)にして、突然舞台がフランスに移る。カジノで金をすった主人公が、大勝ちした男から奇妙な頼みごとをされる。雨の中、男の後について袋小路の奥にある医者の家にたどり着くと、突然玄関前で男が倒れてしまう。駆け寄ると、首の後ろに短剣が突き立っているではないか。しかし、主人公の青年の周囲に怪しい人影は見当たらない。

 なぜフランスなのか不明だが、フランス警察のゴロン署長が登場する。このあと『皇帝の嗅ぎ煙草入れ』(1942年)にも登場する、太って愛想の良い警察官で、どうやら同一人物らしい。本作のほうが古いので、こちらが初登場作ということのようだ。

 絵にかいたような不可能犯罪のシチュエイションで、解決はまたしてもシンプルだが、その単純さが意外性となって効果を上げている。マーチ大佐のシリーズでは一番良いのではないか。

 G・K・チェスタトンの「神の鉄槌」(1910年)にインスパイアされたようにもみえる。

 

07 「暁の出来事」(Error at Daybreak, 1938.7)

 海辺に朝の散歩に出かけた男が突然倒れる。駆け寄ると、すでに脈がなく、死亡している。しかし、居合わせた家族や友人たちが人を呼びに離れたわずかな間に、遺体は海に流されてしまう。死亡を確認した友人の医師は、殺人をほのめかすが・・・。

 読み返すと、遺体が潮に流されてしまう(!)という展開が、あまりに無理やりだが、そこに目をつぶれば、カー作品らしい人物配置やキャラクターで、短編にしてはドラマ性が感じられるところは長所だろうか。

 トリックのほうも、いかにも短編でなければ使いようがなさそうなもので、カーとしては、誰かに先を越されないうちに書いておきたかったアイディアなのかもしれない。

 

08 「もう一人の絞刑吏」(The Other Hangman, 1935)

 本短編集では一番の異色作というところだろう。

 19世紀末のペンシルヴェイニア(カーの生地)を舞台にした一種の歴史ミステリで、M・D・ポーストのアンクル・アブナーものの雰囲気[iv]である。

 殺人の罪で絞首刑を宣告された街のならず者が、死刑台の不具合で刑の執行が一時延期となる。その間に真犯人が自白したとの知らせが届き、人々が留置場に赴くと、男は後頭部を殴られたうえ、ロープで首を吊られて殺されていた。

 狙いは犯人探しにはなく、犯行を自白しても、法の解釈に従う限り殺人の罪を問われない、まさに「アンクル・アブナー」的(?)な結末にある。ラストの一行は、むしろ奇談ないし「奇妙な味」の短編といったほうがよいかもしれない。

 初出がG・K・チェスタトン編の『短編小説の世紀』(1935年)[v]だそうで、それはカーも腕が鳴ったことだろう。実際「長篇を書くためだいじにあたためていた、いちばんいいプロットの一つをつぎ込んだ」[vi]のだという。日本語版解説の中島河太郎も「本巻での佳作と見ていい」[vii]とのことなので、大御所お墨付きの短編といえそうだ。

 翌年加入することになるディテクション・クラブのセイヤーズ、バークリー、クリスティら、錚々たる面々に加え、チェスタトンの短編と並んで収録されたのだから、作者にとっても本望というか、これ以上ない晴れがましい舞台でのパフォーマンスだったのではないだろうか。

 

09 「二つの死」(New Murders for Old, 1939.12)

 最後の三編は、クリスマス怪談もの。

 そのなかで「二つの死」は一番新しい短編だが、もともとは1935年に発表された「死んでいた男」[viii]の改作であることは、よく知られている。「死んでいた男」は主人公の一人称で書かれていて枚数も少ないせいか、やはり書き急いでいる感じがする。

 本作のほうは、警察官(語り手)と主人公の恋人(聞き手)の二人の対話形式になっていて、描写も詳しく、徐々に恐怖感を高めていく語り口も堂に入ったものである。

 本質的に、ミステリ要素を含んだ怪談であるが、替え玉による遺産強奪のトリックは、解説の中島河太郎が「甘過ぎる」[ix]と批判したとおりの出来で、しかしまあ、そこが狙いではないので、大目に見てやってください。

 語り手の人物と主人公の関係に説明がないので、なんとなく最後のセリフが唐突に感じられるが、そっちのほうが気になるなあ。

 

10 「目に見えぬ凶器」(Persons or Things Unknown, 1938.12)

 「めくら頭巾」に続いて『ザ・スケッチ』という雑誌に掲載された短編らしい[x]。「めくら頭巾」が好評だったので、再び依頼がきたのだろうか。

 「めくら頭巾」は、「二つの死」同様、ミステリ要素のある怪談だが、本作は、怪談と見せかけたパズル小説で、無論、こちらが本来のカーのスタイルである。

 舞台を1660年-すなわち、カーお気に入りのチャールズ2世時代-にして、歴史事象を取り入れながら、密室内における凶器消失の謎を扱っている。部屋には、美貌のヒロインをめぐって対立する二人の男がいた。部屋の明かりが消えて、再び灯ったときには、男の一人は鋭い短剣で体をめった刺しにされて死んでいた。ヒロインのドレスに血をぬぐった跡があるが、肝心の短剣は部屋のどこからも見つからない。

 はは~ん、氷の短剣だな、と思っていると、残念でした、という展開で、単純だが鮮やかな短編ミステリになっている。シンプルといえば、これ以上ないくらいシンプルだが、トリックの活かし方はやはりうまい。

 

11 「めくら頭巾」(Blind Man’s Hood, 1937.12)

 最後もミステリ風怪談の「めくら頭巾」で、クリスマス・ストーリーとして書かれた最初の短編のようだ。1937年には、あの『火刑法廷』が刊行されているので、その評判を受けて、クリスマス怪談の注文が来たのだろうか。

 若い夫婦が友人宅を訪れると、遅れたせいもあって、誰も迎えに出ない。家に入ると婦人が一人残っていて、この家ではクリスマスの夜一時間は、誰も家にいないことになっているのだという。訝しむ二人に、婦人が聞かせるのが、かつてその家で焼死した女性の話で、不倫相手の男が友人とともに立ち寄り、立ち去ったあと、蝋燭の火がドレスに移って焼け死んだのだという。不倫相手に疑いがかかるが、家の中には入っていないので、犯人とはいえない。ところが、数年後、同じ男が持ち主の変わった屋敷に招待される。招待客がめくら鬼の遊びを始めると、いつの間にか、誰ともわからぬ女が鬼になっており、袋を被った姿のまま例の男を追いかけ、抱きつく。カーテンの向こう側に倒れこんだ二人のもとに一同が駆け寄ると、なんと、男は死んでいる。

 焼死した女の亡霊が、彼女を見捨てた男を殺したという怪談なのだが、女の死の謎は偶然の事故で、ただ、救えるはずだった男が女を見捨てたのである。

 以上の話を打ち明けた女性が何者なのか、誰でも見当はつくが、彼女の打ち明け話のなかで、自分が第三者であるかのような発言をする箇所がある[xi]。読んでいて、ちょっと引っかかるが、カーなら、そんな疑問を抱かせない書き方をしてほしかった気もする(それとも、これも技巧なのか)。

 それでも、この語り手の女性が、「ぴょんぴょんと跳ねるような、おかしな歩き方を」[xii]するとか、「手を下まぶたのはしへもっていって、そこをなにげないふうに、ぐっとひっぱってみせる」[xiii]くせがある、といった描写には、作者の怪奇を演出する語りの技量が存分に発揮されている。

 

 本短編集を最初に読んだ時には、「新透明人間」とか「銀色のカーテン」のようなトリック小説が面白いと思ったのだが、そしてもちろん、今回読み直しても十分楽しめたのだが、どうも「不可能犯罪捜査課」のシリーズはトリックだけが記憶に残って、最初に述べたとおり、カーらしさはあるが、いささかあっけないし、物足りなく思う。同じトリック小説でも、怪談風味の強い、そして歴史ミステリの味もある「目に見えぬ凶器」などのほうが面白いと感じた。それ以上に面白いのは、「めくら頭巾」のような怪談で、そう考えると、やはりカーの小説は長編が優る。トリック自体が面白いというより、不可解な人間関係と不可思議な状況のなかで事件が起こり、ストーリーが進むにつれてサスペンスが高まってくる。主人公がどうこうというより、怪奇な謎がもたらすサスペンスである。どんな謎解きの快感が待っているのだろうという期待で散々焦らしてくれないと、カーの小説は満足できない(なんか、変態っぽいなあ)。十八番の怪奇趣味は単なる装飾ではなく、あれがないとカーではないということが短編を読むとよくわかる。もちろん、怪奇以外の要素でもよいのだが、怪奇の意匠がカーにとって書きやすく、好みであったのだろう。好きなればこその熱のこもった筆が、読み手を作品世界に引き込む動力となっている。

 そうみてくると、(あくまで個人的意見として)本短編集から佳作を選ぶとすれば、「目に見えぬ凶器」と「めくら頭巾」のクリスマス怪談二編ということになる。

 

[i] 『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』(宇野利泰・永井淳訳、創元推理文庫、1983年)、266頁。

[ii] 『カー短編全集1/不可能犯罪捜査課』(宇野利泰訳、創元推理文庫、1970年)。

[iii] 同、62頁。

[iv] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、234頁を参照。

[v] G・K・チェスタトン編『探偵小説の世紀 上下』(宇野利泰他訳、創元推理文庫、(上巻)1983年、(下巻)1985年)。ただし、本作は割愛されている。

[vi] 『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』、234頁。

[vii] 『カー短編全集1/不可能犯罪捜査課』、333頁。

[viii] 『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』、72-89頁。

[ix] 『カー短編全集1/不可能犯罪捜査課』、334頁。

[x] 『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』、274-76頁。

[xi] 『カー短編全集1/不可能犯罪捜査課』、312頁。

[xii] 同、295頁。

[xiii] 同、299頁。