(収録作品の犯人等を明かしています。またモーリス・ルブランの長編小説に注で触れていますので、ご注意願います。)
『エラリイ・クイーンの新冒険』[i]はクイーンの第二短編集だが、一番目立っているのが中編の「神の灯」である。同作は、江戸川乱歩が惚れ込んで、ディクスン・カー(カーター・ディクスン)の「魔の森の家」とともに自分名義の翻訳を雑誌に掲載したことでも有名[ii]で、本短編集が売れたのは「神の灯」のおかげだとまで言っている[iii]。
現在においても、本短編集と言えば「神の灯」というのは変わらないようだ。「『神の灯』とその他」というのが、本書の手っ取り早い紹介で、残りの短編八編のほうは、どうも影が薄い。全体の構成は、なかなか凝っていて、「神の灯」を巻頭に据え、次の四編は題名に「冒険」がついた前短編集の続編的作品、残りがスポーツをテーマにした連作四編というテーマ別の組み合わせは、最終短編集の『クイーン犯罪実験室』(1968年)に似通っている。
『冒険』に比べると分が悪い短編集であるが、前作との比較を含めて、読み直してみようと思う。
01 「神の灯」(1935.11)
エラリイ・クイーンの中短編小説の代表と言えば、何といっても本作である。石造りの邸宅が一晩で消滅するという家屋消失の大トリックであるが、作者も、この謎が与えるインパクトに大いなる自信をもっていたらしく、冒頭2ページ以上を費やして煽るだけ煽っている[iv]。
もっとも提示される謎は空前絶後のスケールだが、その解法は空前絶後というわけではなく、いわゆる「二つの家」のトリックで前例のあるものだ[v]。解決の意外性で言えば、ずっと後になって書かれた、我が国の泡坂妻夫の短編小説[vi]などのほうが上だろう。
そのせいか、近年では、冒頭の謎に負けず劣らずスケールの大きな手がかりの卓抜さを評価する声のほうが大きい[vii]。確かに、これほど雄大なミステリの伏線は存在しないだろう。まさにミステリ史上、最大級の手がかりだが、自分が見たものが信じられなくて、再度確認せずにいられないエラリイは、認知症の初期症状かと心配になる。いくら何でも見誤ったりしないだろう。まあ、そこは雪が降りやんで車を動かせるようになるのを待っていたのだと好意的に理解しておこう。
本作には、もうひとつ大掛かりな人間入れ替わりのトリックが使われているが、家屋消失の大トリックがあるのだから、そちらだけでまとめても短編としては十分だったのでは、という気もする。そのほうがインパクトも強く、トリックを増やせば、むしろ全体の印象が分散してしまうのではないか。
なぜ複数トリック小説にしたのかを考えると、家屋消失の破天荒な謎をドラマティックに盛り上げようとすれば、演出に筆を費やすことになって、どうしても短編には収まらない。しかし、中編となると、今度はメイン・トリックだけでは少々心もとない。じゃあ、もうひとつトリックを考えよう。こんな風にまとまったのかな、と思うが、あるいは、単純に世界最高の中編ミステリを書いてやろうと思って、入れられるだけ贅沢にトリックをぶち込んだのだろうか。
この入れ替わりのトリックも手がかりがうまく考えられていて、映画やテレビ・ドラマだったら、いかにも不自然に映りそうだが、そこを文章でさらりと流して、読者に気づかせないあたりは、さすがだ。
ただ、また細かいことを言うようだが、このトリックは、ソーン弁護士がアリス・メイヒューの消息を伝えにメイヒュー家を始めて訪れたとき、すでに計画されていたのだろうか。最初の訪問でオリヴィアがソーンに会っていたら、その時点で入れ替わりは事実上不可能になったはずだから、偶然出くわさなかったのだろうか。たまたま会わなかったからこそ替え玉トリックを思いついたのか。それとも、ソーンの訪問以前、アリスの写真を見る前から、すでに入れ替わりを画策していたのだろうか。さすがに、それはないだろうが、しかし、写真を見て計画を立てたのだとしても、身長は正確にはわからないはずだから、もし実際に現れたアリスが2メートルののっぽだったら、どうしたのだろう(「わたしを食べて」という菓子をつまんでいたりして?)。やっぱり、このトリックは無理な気もするなあ。
無論、現実のアリスを見て、入れ替わりは不可能と判断したら、そこで計画を取りやめればいいのだが、そうすると、オリヴィアをいつまでも隠しておくわけにもいかない。
ライナック博士「ああ、姪がいるのを忘れていたよ。紹介しよう。」
オリヴィア「ハーイ、オリヴィアよ。」
エラリイ、アリス、ソーン「・・・・・・」
これはこれで、結構面白そうだ。
もうひとつ問題なのは、入れ替わりが行われたあとも、アリスが「アリス」と書かれている点である。アリスがオリヴィアにすり替わっているのだから、以後のアリスを「アリス」と書くわけにはいかないのだが、しかし、「アリス」以外に書きようがないというのも理解できる。それとも、こういう解釈だろうか。客観描写で「アリス」と書かれていても、実はそれはエラリイの視点である。本作は一人称小説ではないが、基本的にエラリイ探偵の見たままが記録されているので、彼がいる場面で「アリス」と書かれているのはエラリイがそう思っているからである、と。
しかし、エラリイのいない(会話に加わっていない)場面で、弁護士のソーンとアリスが会話していて、そこでも彼女は「アリス」と書かれている[viii]。ここはソーンの視点で書かれているのだと言い張るのは、さすがに無理があるだろう。また、屋敷の消失が発見された(言い方が妙だが)シーンで、「誰もそちらを見ていない」とわざわざ断っておいて、「アリス」が窓から顔を出した、と書いてある[ix]。この辺は、もう少し慎重に表現を考慮して書くべきだったのではないか。それとも、ひょっとして、クイーンの小説は名探偵エラリイが現実に起こった事件を書いたという設定だから、すべての描写はエラリイの主観描写だ、とでもいうのだろうか。
02 「宝捜しの冒険」(1935.12)
本編からは前短編集『エラリイ・クイーンの冒険』の続編という体裁で「~の冒険」とタイトルが付いているが、作風はだいぶ異なっているように思える。
高価な首飾りが盗まれて、現場の屋敷と周辺の敷地のどこからも見つからないという家屋ならぬ、物品消失の謎である。しかし、隠し場所のトリックは、屋敷の主が軍人で川を見下ろす絶壁の上に大砲まで据えているという意味ありげな設定があって、それを利用しているのだが、しかし、まあ、それほどのアイディアではない。本当の趣向は、エラリイが宝捜しのゲームを装って、疑わしい人物に心理的な罠を仕掛けるところである。
『エラリイ・クイーンの冒険』を読んで気付いたが、クイーンの論理的推理には、しばしば犯人や被害者の心理に矛盾がある。それは重大な欠点に思えるが、本作では、むしろ犯人の心理をエラリイが推理の基礎に置いているところが珍しい。意外性もある。
確かに、この手がかりのアイディアは、正直、もっと巧妙に、もっと説得力豊かにできたかもしれない。そうなれば、長編にもなって、傑作が生まれていただろう。
とはいえ、本作は本作で、十分面白い。初読時は大して印象に残らなかったが、その後読み返して感心して、今回の再々読か再再々読でも、面白く読んだ。ラストの軽いオチまで、本短編集でも出色の出来といえる。
03 「がらんどう竜の冒険」(1936.12)
富豪の屋敷で当主が失踪し、衣服やトランクとともに竜の姿を彫った石のドアストッパーが紛失している。当主の生死は、果たして・・・というミステリ。
屋敷の主が日本人で、名前がカギワ・ジト。カギワって、鍵輪?それとも香際、いや香木和かな。ジトというのも、すごい名前だが、案外、今風でもある。次人なんてどうだろう。滋十、治都、時渡、自屠、児賭、・・・。
「宝捜し」で、エラリイは珍しく心理的な推理を披露したが、本作も、犯人が咄嗟についた嘘を推理によって見破る。つまり、名探偵と犯人の心理的かけひきを主とした異色の展開で、前作に続いて、犯人の心理に重点を置いているのは、『冒険』の諸編で、犯人の行動が不自然だという批判があったのだろうか(そう感じたのは私だけではないと思いたい)。いずれにせよ、本編も従来の作風から少し外れた部分が面白い。
内容とは関係ないが、作中に「一年ほど前の日中戦争が起きる前ならまだ」[x]という文章が出てきて、『ハートの4』(1938年)にも日華事変に関する言及があったので、おや、と思った。本編の発表が1936年だからで、一般に「日中戦争(日華事変)」というのは1937年に勃発したとされているのではなかったか[xi]。あるいは短編集にまとめられたときに加筆されたのか。(それでも単行本が出たのは1940年だから、「一年前」というのは計算が合わないが、もっとも、「がらんどう竜」事件が起こった年月日は明記されていない。)もし加筆されたのだとすると、クイーンにも改稿癖があって、雑誌掲載ヴァージョンと単行本のそれとで内容の異なる場合があるのだろうか。
04 「暗黒の家の冒険」(1935.1)
遊園地のアトラクションの内部で殺人事件が起こる。中は暗闇なのに、犯人は背後から被害者の心臓付近に正確に四発の銃弾を撃ち込んでいた。どうすれば、そんなに正確な射撃が可能だったのだろうという一種の不可能犯罪もの。
横溝正史がパクっている[xii]ように、なかなか巧妙な奇術的トリックが用いられている。しかし、今回読み直してみると、犯人を突き止める色覚異常に関する手がかり(こちらも横溝に類似例がある[xiii]。ただし、正史のほうが早い)を含めて、型通りのパズル短編という読後感で、従来ほど感心できなかった。
それに、一人二役のトリックも使われているのだが、妻がその場にいて、しかも彼女は夫が殺人を犯すのを案じて後を追ってきたというのに、変装しているとはいえ、全然気がつかないというのは違和感がある(暗闇という条件下ではあるが)。
ところで、これも内容と関係ないが、真っ暗闇のアトラクションって、面白いんですかね。この遊園地、ディズニー・ランドほど人気はなさそうだ。
05 「血をふく肖像画の冒険」(1937.9)
最初読んだときには、エラリイ・クイーンの短編小説の中で、もっともつまらないと思った。
妻が浮気をすると、初代当主の古びた肖像画が血を吹くという奇怪な伝承が伝わる一族。その貴族の末裔が住む小島に招かれたエラリイが、再び血を流す肖像画の謎に挑むという内容だが、なんだかぱっとしない推理の挙句に、事件全体が茶番であったことが明らかとなる。どっと白けて、なんで、こんなものを時間をかけて読まされなきゃならんのだ、と、げんなりした思い出がある。
ところが、今回読んだら、意外と面白かったのだ。わざとひねくれて見せているわけではなくて、魅惑的な背中の持ち主である野性的な美女をめぐって対立する二人の獰猛な男たち-夫とストーカー-を描く小説なのだが、とくに付きまとい男のほうが気持ち悪い。クイーン作品には珍しい、といっても、これまでもピントの狂った変な登場人物は多かったが、ここまで歪んだ危ないキャラクターは、本作以前にはいなかったように思う。もっとも、そうした畸形的な人物がうまく描かれているのかというと、そうでもないのだが、作者も手探りで描いているようなところが、逆に気持ち悪くていいのだ。
犯人だけでなく、夫のほうもどこか歪(いびつ)で、作品自体も変なのだが、そんななかで、いつもどおり物的データを精査して、冷静に理詰めの推理を構築するエラリイが、まったくもって場違いで、作品から完全に浮いているところも気持ち悪くて良い(屈折しすぎ?)。
以上の四編、タイトルと裏腹に『冒険』の続編などでは、まったくなかった。しかし、小説として、ゆとりも出てきて、新たなスタイルも見られ、そこが面白かった要因のようだ。『冒険』の諸作は、短編小説を書き始めて間もないこともあってか、全体に折り目正しすぎた。堅い、堅いなあ、エラリイ君。もっと肩の力を抜かないと。というわけで、肩どころか、恋愛遊戯で腑抜けになったエラリイを楽しめるのが、続く四編である。
06 「人間が犬を噛む」(1939.6)
野球場で、観客席に座っていた元メジャ・リーガーが青酸毒を摂取して死亡する。男は死の直前にホット・ドッグを食べていたが、隣のボックス席には別居中の元映画スターの妻が男友達と観戦に来ていて、やはりホット・ドッグを買っていた。被害者は間違えて妻のホット・ドッグを口にしたらしい。元大リーガーには愛人が同行していて、離婚を承諾しない妻と険悪な関係だった。容疑は、妻にかかるが・・・。
スタジアムの殺人ということで、『アメリカ銃の謎』を思わせるが、もちろん、短編なので、容疑者は数名に限られる。エラリイとクイーン警視は、殺人事件の解決より、ジャイアンツとヤンキースのニュー・ヨーク対決(この頃は、ジャイアンツもニュー・ヨークが本拠地だったんですね)のほうに関心があるらしく、犯人のことなど、どうでもよいようだ(エラリイはともかく、警視がそれじゃ駄目だろう)。
実は、ホット・ドッグではなく、スコア・カードと一緒にくれる(らしい)鉛筆に青酸が塗られていたというトリックで、映画スターの妻からサインをもらってくるよう買収された少年が、野球ファンだったので、元名選手の被害者のほうにサインをねだってしまう。被害者に鉛筆をなめる癖があって毒を摂取してしまうのだが、ところが、結局、犯人は被害者自身で、妻を殺そうとして、偶然のいたずらで自分が命を落とす結果となったのだった。
エラリイの推理はかなり大ざっぱで、むしろ偶然によって事件が複雑化するプロットに重きが置かれている。従って、謎解きの推理より、意外な結末で読ませる短編といえる。
しかし、被害者が「花粉症」だったので青酸の匂いに気がつかなかったというエラリイの説明[xiv]は、仮に妻に鉛筆が渡ったとしても、匂いで気づいて未遂に終わっていた可能性があるということで、随分杜撰な殺人計画だ。これは、本編が『ハートの4』の続編シリーズで、ハリウッドものが「間抜けな犯人」がテーマなので[xv]、本編もそれを引き継いでいるということなのだろうか。
大体、いくら自分のもとには毒鉛筆は回ってこないと安心していたにしても、また鉛筆を舐めるのは無意識の癖だとしても、うっかり舐めたりしないよう、もっと気を付けるものなんじゃないの。
07 「大穴」(1939.9)
私は午年だが、競馬に興味はない。馬の駆けっこのどこが面白いのか理解できない。
従って、本短編が競馬ミステリとしてどうなのか、ディック・フランシスもまともに読んだことがないので、コメントできない。というか、競馬ミステリであろうとなかろうと、その出来ばえがどうだろうと、実にもって、どーでもいい。
競馬レースで、一番人気の馬が出場取り消しになり、対抗馬が闖入者に銃を乱射されて傷つき、出走不可能となる。当然、賭けをめぐる陰謀が背景にあって、誘拐やら、脅迫やらが絡んでくる。
エラリイの推理は相変わらず理詰めだが、小説としては、終盤まで何が何やらわからない展開で進んで、クライマックスで上記の銃撃シーンが来ると、そのあと、一気に解決に至る。
明らかに、国名シリーズを短編化したような『冒険』の諸編に比べると、ストーリー展開で読ませる作風になってきている。それが、幅の広がりなのか、ネタに困ったからなのかは、何とも言えないが、面白く読ませる技術は向上していることがわかる。
08 「正気にかえる」(1939.10)
久しぶりに、エラリイ・クイーンらしいロジックが堪能できる一品。
ボクシングのチャンピオン戦で、ヘヴィー級の王者が挑戦者にノック・アウトされた後、車の中でめった刺しにされて死亡しているのが見つかる。どうやら試合は八百長だったらしい。犯人は、金を払う代わりに元チャンピオンを殺して逃げ去った模様だが、果たして・・・。
エラリイの古ぼけたコートが盗まれているというのが謎で、被害者の血を浴びた犯人がコートを捨てて、エラリイのぼろをはおって逃げたらしい。『スペイン岬の謎』を連想させる状況だが、血まみれのコートを脱ぎ棄てたら、そのまま逃げだせばよさそうなものを、なぜエラリイのコートを着ていかなければならなかったのかが問いとなる。その解答は見事で、長編ミステリであってもおかしくないが、少々引っかかるのは、シャワー・ルームにコートかけがあるということで、この控室はどういう間取りになっているのだろうか。ドアを入って、すぐのところにシャワー・ルームがあるのか。まあ、単にシャワー・ルームのフックにコートをかけるのが習慣になっていて、それを犯人が利用したと考えれば、それほど問題ではないか。
09 「トロイアの木馬」(1939.12)
大学対抗のアメリカン・フットボールのゲームで、試合前の控室で宝石の盗難が起こる。アメフト部パトロンの富豪がクウォーターバックと娘を婚約させて、そのお祝いに贈ったのだが、試合会場のどこからも宝石は見つからないという隠し場所のトリックである。
本作でも、犯人の言動が決定的手掛かりとなる組み立てで、ただし「宝捜し」ほどの機知は感じられなかった。隠し場所も、一読感嘆するまでには至らないが、タイトルに引っ掛けたところがしゃれている。12月号掲載の割にはクリスマス要素ゼロだが、犯人の意外性も含めて快調な出来で、結構なお点前で、というところか。
本短編集は、タイトルからして『エラリイ・クイーンの冒険』の続編の扱いだが、作品の傾向はだいぶ異なっているようだ。
『冒険』は、長編をそのまま縮めた、エラリイが捜査陣を代表して事件を扱うかたちの作品が多かったように思うが、本短編集では、エラリイが人々の間に混じって、犯人の発言や行動を推理のデータとする作品が多い。「神の灯」、「宝捜し」、「がらんどう竜」、「トロイアの木馬」などがそうだが、その分、エラリイの推理は論理性がやや薄れてシンプルなものに変わった。エラリイ・クイーンらしい個性は薄れたが、その分、ストーリー展開は柔軟になり、ロジックによって犠牲にされていた不自然さは少なくなったのかもしれない(事件自体は突飛なものが多いが)。意識的なものかは不明だが、この対比ないし変化は興味深い。『冒険』と『新冒険』、どちらを選ぶかで、そのファンが好むクイーンらしさがどこにあるのか、わかるのではないだろうか。
[i] 『エラリー・クイーンの新冒険』(中村有希訳、創元推理文庫、2020年)。
[ii] 『エラリー・クイーンの新冒険』(井上 勇訳、創元推理文庫、1961年)、「解説」(中島河太郎)、437頁。
[iii] 江戸川乱歩「フダニット随想」『随筆探偵小説』『江戸川乱歩全集25 鬼の言葉』(光文社、2005年)、357-58頁。
[iv] 『エラリー・クイーンの新冒険』(2020年)、11-13頁。
[v] 例えば、モーリス・ルブランの『謎の家』(1929年)。
[vii] 飯城勇三『エラリー・クイーン完全ガイド』(星海社新書、2021年)、101頁。
[viii] 『エラリー・クイーンの新冒険』(2020年)、50-51頁。
[ix] 同、65頁。
[x] 同、213頁。
[xi] それとも満州事変(1931年~)を指しているのだろうか。
[xv] あくまで個人的な意見です。