クリスチアナ・ブランド『疑惑の霧』

(本書の犯人およびアイディアを明示していますので、ご注意ください。)

 

 クリスチアナ・ブランドの代表作といえば、昔は『はなれわざ』(1955年)、近年は『ジェゼベルの死』(1948年)だが、『疑惑の霧』(1952年)[i]も一貫して代表作のひとつに挙げられてきた。

 都筑道夫は、翻訳刊行以前に『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』のコラムで取り上げると、「ユーモラスでシャレた雰囲気」で書かれており、「本格ファンにも、小説としての面白さを重んじるファン」にも楽しく読めると称揚している。『はなれわざ』に比べるとトリックは「ずっと小味ですし、独創的なものでもありませんが、現代の本格探偵小説は在来のトリックを新しい生かし方で組みあわせてゆく方向に進んでいるので、これは格好のサムプルといえるでしょう」[ii]というのが、氏の結論だった。

 また翻訳刊行後は、小林信彦が「物理的に不可能と考えられる殺人のトリックを、最後にたった一行で明かされたのにはアッとおどろきました」と感嘆し、ブランドの翻訳がひととおり出尽くした後も、全体に否定的な論調なのだが「本当に面白いのは『疑惑の霧』と『はなれわざ』の二つ」と総括している[iii]

 近年では、森英俊が、「その鋭い切れ味で結末の意外性を満喫させてくれるブランドの比類なき才能が、極限まで発揮された」作品で、「ラストの一行で謎をすべてを解きあかすというはなれわざが成功している」と絶賛している。類似の趣向がみられる『自宅にて急逝』(1946年)と比べても、「盲点をつく意外性」では上だという[iv]

 以上の評価に、本書の長所は尽きているといえる。結末の意外性、とりわけ、小林や森が強調するように、ラスト一行で意外な真相が明らかになる「はなれわざ」は、エラリイ・クイーンの『フランス白粉の謎」(1930年)などと比べても、遜色ない。

 しかし、一方で、このアイディアは、都筑がいっているように、案外「小味」なものでもある。森の言にある「盲点をつく」という表現も、まさにそうで、読者がついうっかり見落としてしまう、あるいは読んでいるうちに忘れてしまいそうな小説冒頭の子細な描写にトリックが隠されている。もうちょっと注意していればわかったのに、と読み終わった読者は皆思うだろうが、そう思わせるのが本書の、そしてブランド・ミステリの真骨頂である。

 実際、本書のメイン・アイディアは非常に繊細なもので、作者も、このトリックを効果的ならしめるために、極めて慎重に筆を運んでいる。トリックをそれと気づかせずに明かすタイミング、隠されていた重要な事実が露わになる段取りを、綿密に計算したうえで執筆していることがよくわかる。

 事件は、霧に包まれたロンドンの夜、メイダ・ヴェイルにあるエヴァンズ邸で起こる。当家を訪れていたフランス人のラウール・ヴェルネが木槌で頭を打たれ死亡しているのが見つかったのだ。事件当時、ヴェルネは当主である医師のトーマス・エヴァンズの妻マティルダを訪問して、しかし、ちょうど事件が起こった時間には、彼女は二歳になる娘の世話で二階に上がっていた。やはり階上にいた義母のミセス・エヴァンズの身づくろいを手伝ったあと、マティルダが階段を降りかけたところに、トーマスの妹のロウジーとトーマスの同僚の医師エドワーズが玄関の扉を開けてホールに入ってきた。そしてホールにある電話のそばに、ヴェルネが受話器を握りしめたままこと切れていたのである。

 実はヴェルネは、ロウジーがフランスの学校に通っている間の世話を頼まれていたのだが、戻ってきたロウジーは、なんと妊娠していた。ヴェルネの訪問は、そのことに関するものだったらしいのだが、肝心の話をする前に事件が起こってしまったのだ。

 兄のトーマスはロウジーを天使のように溺愛しており、妊娠を知れば、とんでもないショックを受けるだろう。はるか年長ではあるが、ロウジーに恋しているエドワーズも同様で、しかも彼は、ヴェルネがロウジーを妊娠させた張本人であると思い込んでいたらしい。マティルダも実は以前ヴェルネと深い関係にあって、ミセス・エヴァンズを含む一家全員とエドワーズに何らかの動機があったものとわかってくる。

 ブランド長編で毎度お馴染みの、容疑が登場人物全員に順番に降りかかってくる「疑惑のロシアン・ルーレット」の始まりで、ただし、今回状況証拠から重大な疑いがかかるのはトーマスと、次にエドワーズの二人。とくに後半はエドワーズに対する疑惑が焦点となるが、それは彼が死体を発見したときロウジーと一緒だったのかどうかということ。つまり、最初、ロウジーを残して、自分一人が家に入り、ヴェルネを殺害した後、彼が死んでいるとロウジーに告げ、二人で戻ってきたのではないか。そこをマティルダに見られたのではなかったか。

 トーマスが逮捕されたことで観念したのか、エドワーズは罪を認め、警部らの前で、上記のとおりであると告白する[v]。けれど、それを聞いたロウジーは、なぜか肯定も否定もしない。しかも、エヴァンズ家の手伝いをしていたメリッサという娘が、ロウジーは身ごもっている子どもの父親さえわからないのだと、ふしだらな彼女を非難する。すると、ロウジーはショックのせいか、気絶してしまう(結果、エドワーズの告白をロウジーが否定も肯定もしないままとなる)。

 その後、薬を飲んで朦朧としているロウジーをコックリル警部が問い詰めると、ついに、彼女は、エドワーズが一人で先に家に入ったことを認める[vi]。コックリルは満足して立ち去るが、翌日、彼女はベッドで冷たくなっていた。堕胎薬の過飲による死である(ただし、事故死ではないとわかる)。

 このロウジーという娘は、自己中心的で気まぐれ、我儘で奔放な少女で、ブランド長編で馴染み深い天然系美少女の系譜なのだが、そこから少々逸脱している(本書が日本の読者にさほど受けていないとすれば、ロウジーが純情な男性読者には苦手なタイプだからか、と愚考する)。しかし、ブランドの創造した「ヒロイン」の中でも際立った個性の持ち主なので、彼女の早すぎる死は結構ショックである。いずれにせよ、ロウジーの証言で、犯人はエドワーズと決まったかにみえる。

 ところが、公判の日、メリッサが再び驚くべき爆弾証言を投下する。結局のところ、エドワーズはロウジーとともに玄関に入ってきたのだ。それを彼女は目撃していたという。それでは、結局、ロウジーが嘘を言っていたのだろうか。しかし、すでに彼女は死亡している。メリッサの証言を疑う理由もなく、かくして、エドワーズが犯人の可能性もまた消滅し、事件は迷宮入りになるやに思われる。

 この矛盾、ロウジーは、エドワーズがひとりで家に入ったと言い、メリッサは二人が一緒だったと証言する。この食い違いに本書最大の謎がある。エドワーズは犯人なのか、そうではないのか。嘘をついているのはロウジーなのか、メリッサなのか。それとも、実は「二人とも真実を語っている」のか?この展開に、大半の読者は面食らい、犯人が明らかになっても、怪訝な気持ちのまま最後の一行にたどりつくだろうが、そこですべての「霧」が晴れる趣向である。まさにブランド流サプライズ・エンディングの極致といえる。

 読了後、読み返すと気がつくが、ロウジーを車に残して、ひとり家に入りヴェルネを殺害した、とエドワーズが皆に告白した時、彼女は「なにも言わなかった」[vii]。すなわち、このときは、ロウジー自身、エドワーズの告白が腑に落ちていないのだ。ところが、チャールズワース警部が、改めて、エドワーズは口実をもうけて先に一人で家に入ることができた、と指摘すると、「はっとしたように顔を上げた」[viii]。つまり、ここでロウジーはトリックに気がついたわけである。このあとコックリル警部に、エドワーズは一人で家に入った、と証言したのは真実だったのだ。しかるに、その証言の真の意味を、読者も、コックリル警部さえも取り違えてしまう。そこが本書のアイディアの卓抜なところで、実は同様の手口は次作の『はなれわざ』でも再度使用されている(使い方は異なる)。

 しかし、なぜロウジーは好意を抱いていたはずの、そして好意を抱かれていると知っていたはずのエドワーズの罪を暴くようなことを言ったのだろう。無論、プロット上は、彼女がそう証言してくれないと困る(本書の肝は、彼女の証言が生む矛盾にある)のだが、ロウジーという少女の心理という角度から考えると不思議ではある。このことを指してのことか確かではないが、文庫版解説を書いている西澤保彦が「ロウジーらが、いったいどういう損得勘定によって動いている人間なのか、わたしは最後に至るまで特定できなかった」[ix]と語っているのは、もっともである。だが、この真意の見えない不可思議さと危うさが、ロウジーというキャラクターの魅力ともいえる。

 本書は、大胆不敵なメイン・アイディアを、ガラスの知恵の輪を解きほぐすような繊細さで綴ったパズル・ミステリである。同じく、あっといわせる大胆なトリックを使った『ジェゼベルの死』とは、しかし、対照的と思える。『ジェゼベル』がテキパキと不可能状況を整理して、先へ先へとストーリーを加速させ、すべてのデータを提示し終わった瞬間に謎解きに突入していくのに対し、本書では、じっくりと人物関係と雰囲気を描写して、まさに霧が忍び込むように、じわじわと謎解きのサスペンスを盛り上げていく。無論、必要な伏線を張り終われば、あとは一気にクライマックスへと雪崩れ込んでいくのだが、そこに至るまでの語り口は、都筑が述べたように「小説としての面白さを重んじるファン」を惹きつける味わいがある。同時に、「在来のトリックを新しい生かし方で組みあわせてゆく方向に進んでいる」という指摘にも納得する。例えば、アガサ・クリスティの代表作のひとつに、アイディアは似ている(注で書名を挙げます[x])。もちろん、『疑惑の霧』はオリジナリティにあふれた秀逸なパズル・ミステリである。個人的な好みでは、ブランドの最高作と思う。

(補足1)

 アメリカ版『疑惑の霧』のまえがきに、こんなことが書いてあった。作者がある本を読んでいて(ミステリとは書いていない)、結末がひらめいた。なんて素晴らしいアイディアなの、と感嘆したそうだ。ところが、読み終えてみると、その予想ははずれていた。そこで、思いついた結末のアイディアを自作に使った、それが本書なのだという[xi]。一体、なんという本だったのでしょうね。

(補足2)

小説冒頭で、霧に包まれた車の中で待つロウジーに、付近の探索から戻ってきたエドワーズが「ここはサザランド街だった」と言って、懐中電灯で標識を照らす[xii]。すなわち、この場面は犯行直後ではなかったらしい。ロンドンには、Sutherland Avenueという地名はいくつもあるが、メイダ・ヴェイル近くにも見つかる。

 エドワーズの言葉に、ロウジーが「前にもそう言ったわ」と言い返す[xiii]ので、実際の犯行は、そのときに行われたようだ。実にさりげないセリフで、読者に悟られないよう細心の注意を払っているのがわかる。

 ちなみにメイダ・ヴェイルはブランドの住まいのあった場所である。参考:A-Z London (2001)。

 

[i] 『疑惑の霧』(野上 彰訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1958年、ハヤカワ・ミステリ文庫、2004年)。

[ii] 都筑道夫「ぺいぱあ・ないふ」(1957年8月号)『都筑道夫ポケミス全解説』(小森 収編、フリースタイル、2009年)、471-75頁。

[iii] 小林信彦『地獄の読書録』(1980年、筑摩書房、1989年)、40、89頁。本当に面白いのは二冊だけというのは、『ゆがんだ光輪』までの九冊のうち、『ジェゼベルの死』を除く八冊についての感想。

[iv] 森 英俊編著『世界ミステリ作家事典』[本格篇](国書刊行会、1998年)、570頁。

[v] 『疑惑の霧』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)、160-61頁。

[vi] 同、177頁。

[vii] 同、161頁。

[viii] 同、162頁。

[ix] 『疑惑の霧』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、430-31頁。

[x] アガサ・クリスティ『シタフォードの秘密』(1931年)。『疑惑の霧』は、『シタフォード』の不備な点を改善すべく書かれたものかもしれない。同作では、小説冒頭で、犯人が死体を発見して驚く描写があるが、犯人が誰にも見られていないのに驚くふりをするのは、読者に対して芝居をしていることになる、との批判がある。本書では、二人(マティルダを含めれば三人)で死体を発見するので、当然驚くふりをするのである。

[xi] Christianna Brand, Fog of Doubt (Carroll and Graf Publishers, New York, 1984), Introduction (1979), p.vi.

[xii] 『疑惑の霧』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)、9頁。

[xiii] 同。