ハードな女王様-『クイーン警視自身の事件』

(本書と『九尾の猫』とを比較していますので、どちらかを未読の方、どちらも読んでいない方は、ご注意ください。)

 

 1950年代に入って、いよいよエラリイ・クイーンは、エラリイ・クイーンを持て余し始めたようだ(なんだか面白そうな文章なので、つい書いてしまいました)。

 『ガラスの村』(1954年)に続いて、エラリイを引っ込めたのが『クイーン警視自身の事件』(1956年)である。しかも、今回は父親に主役の座を奪われてしまった(ということは、エラリイは父親から事件の話を聞いて、小説化したのだろうか?リチャードは、自分のラヴコメ話を息子にしたの?これは恥ずかしい)。

 長編の発表間隔も空いてきて、次作『最後の一撃』(1958年)まで一年おきの出版が続く。そのあと、四年間の沈黙期間がやってくるので、快調に走っていたランナーが段々足取りが重くなって、ついに立ち止まってしまったかのようだ。1932年に、『Xの悲劇』、『Yの悲劇』、『ギリシア棺の謎』、『エジプト十字架の謎』と、ミステリ史に残る傑作を四冊も書いた黄金の日々は、今は遠く記憶の彼方に泡と消えた。

 個人的意見としては、1956年には「動機」という傑作中編が書かれているので、長編は別にいいよ、という気持ちであるが、他にも「ライツヴィルの盗賊」(1953年)や「キャロル事件」(1958年)など、代わり映えのしないパズル中短編小説を同時期に書いている。しかし、代り映えしなくとも、個人的には、傑作である。一方、チャレンジ的長編の『ガラスの村』や本書はパズル小説としては凡庸で、とくに『最後の一撃』などは、くずかご行きでよい。

 しかも、そもそも、本書『クイーン警視自身の事件』は、パズル・ミステリですらない。なぜなら、リチャード・クイーンに論理的推理などできようはずがないからである(言い過ぎたか)。

 大体、タイトルからして、もはや退職しているリチャードを警視と呼ぶなど、矛盾している。書名からして論理的整合性がとれていないうえに、作中でクイーンは何度も警視と偽って官憲を装う。身分詐称の犯罪者なのだが、それを皮肉った題名なのだろうか。

 事件は、富豪のアルトン・ハンフリイ夫妻が養子に迎えた赤子が、枕を顔に押し付けられて窒息死するという残酷な殺人である。赤ん坊の世話を任されていた看護士のジェシイ・シャーウッドと偶然知り合ったリチャード・クイーンは、事件に興味を抱き、昔取った杵柄で-昔じゃなくて、去年まで警視だった-探偵を始めるが、次第に謎の暗部に深入りしていくことになる。その捜査の過程で、ジェシイとリチャードは、互いに惹かれあっていくのだが、決して若くはない彼らの関係の進展が、もうひとつのストーリーを形作っていくわけである。

 リチャード・クイーンが63歳、ジェシイ・シャーウッドが49歳という設定で、登場人物の多くが老年に属していることから、本書は「老人学」がテーマだとされている[i]。確かに、発表当時は、斬新な発想の異色のミステリとして注目を浴びたことだろう。ただ、超高齢化社会まっしぐらの現代日本では、63歳など、もはや壮年である。老人学というなら、登場人物全員を少なくとも75歳以上の後期高齢者にしなければならない(将来のことまで考えるなら、全員90歳以上にしておくべきか)。

 また、F・M・ネヴィンズは、本書の特徴をゴシック・ロマンスと捉えている[ii]。確かに、ジェシイの視点からみれば、孤独なヒロインが、いわくありげな怪しい屋敷に導かれて、次々に降りかかる危険と戦う。そこに現れる白髪の、いや、白馬の騎士がリチャード・クイーン、63歳、である(そこ、強調してやるな)。

 しかし、リチャードの視点からすれば、いわくありげな富豪の一家で起こった陰惨な嬰児殺しの謎に、徒手空拳で立ち向かう元警察官の物語ということになる。養子の手配をした悪徳弁護士、赤子の母親など、元警視が追う重要参考人たちは、次々と、秘密を語る前に殺されていく。それでもへこたれずに真相を追い続ける主人公の前に、やがて暴かれる無残な一家の秘密とは・・・。

 これって、明らかにハードボイルド・ミステリでしょ。

 主人公の私立探偵が、63歳のリチャード・クイーンなので、むしろパロディというところなのだろうが、ハードボイルド・ミステリの歴史もすでに百年におよぶ。私立探偵にもいろいろな種類がいるから、もはや63歳の探偵だって珍しくもないだろう(よく知らないけど)。フィリップ・マーロウリュウ・アーチャーだけが、ハードボイルド探偵ではない。

 なぜかネヴィンズは、執拗にハードボイルドという言葉を避けているようにみえるのだが、クイーンのファンは、ハードボイルド陣営から、人間が書けていない、などと散々言われてきたので、アレルギーがあるのかもしれない。だが、そもそもアメリカ作家のエラリイ・クイーンがハードボイルド小説の影響を受けていないわけがないのだ[iii]。ましてや、ダシル・ハメットを高く評価し、幾つも短編集を編纂しているクイーンである[iv]。本書がハードボイルド・ミステリを意識して書かれているのは間違いないだろう。

 そこで、ハードボイルドの女王(クイーン)-表題を見て、S〇の話と思った人、あいにくです-は、直感と経験に頼って、足を棒に捜査を続け、真実に到達しようとする。実際、作中のリチャード・クイーンは推理しないし、そもそも論理的な推理を可能にする手がかりさえない。真相は、推理されるのではなく、「わかってしまう」のである。仮にエラリイが手助けに現れたとしても、犯人を論理的に突き止めるのは難しいだろう。その意味でも、確かに、本書はリチャード・クイーン自身のための事件である。

 事件の構造が『九尾の猫』(1949年)とそっくりなのも、すでにネヴィンズによって指摘されている[v]。最後の種明かしでそのことがわかると、いささか興ざめするが、実際、子どもの誕生と殺人という生と死の主題も『九尾の猫』と重なっている。犯人当ての二重の解決も、AがかばうのはB以外にいない、という具合で、まるっきりの二番煎じだし、『猫』を読んでいなくとも、どんでん返しというほど意外でもない。ただ、『クイーン警視自身の事件』が『九尾の猫』の焼き直しであるということは、裏返せば、前者がパズル・ミステリではない以上、後者もそうではなかったことが改めて浮き彫りにされたということである。『九尾の猫』も、連続殺人の被害者の年齢が次第に若くなっていく謎の答えは、推理されるのではなく「発見される」。真犯人が誰かも、論理的に突き止められるのではなく、自ずと明らかになるのである。

 だから、どちらも傑作ではないなどというつもりはないが、エラリイ・クイーンの本来の作風とは異なるタイプの小説であったことは確かで、しかし、1950年代になっても、本質的にクイーンはパズル小説の作家であった。だからこそ、むしろ『九尾の猫』と本書とは、非クイーン的作品の代表となったのである。

 クイーンがリチャード・クイーンを主人公に(クイーン流)ハードボイルド・ミステリを書いたのは、作風の変化を求めた結果なのだろうか。次の『最後の一撃』を読む限りでは、そういうわけでもなかったようだが、本書には、『11月の歌』という副題がついているのだという[vi]。クイーンのミステリが終わりに近づいていることを暗示している(『最後の一撃』が12月の事件で、クイーン作品の最終作となるという推定)[vii]らしいのだが、ということは、クイーンのミステリを終わらせるに当たって、一冊ぐらいリチャード・クイーンを主人公にした長編を書いておこうと思ったのか。そして、クイーン父を主役にするなら、現役のままの警察小説か、引退して民間探偵となった彼を描くハードボイルド・ミステリのいずれかになる。それなら、権力の歯車ではなくなった「孤独な」リチャード・クイーンを描こう、と、こんな風に決まったのではないか。そして、エラリイの力に頼らないリチャード・クイーンを描くことに意欲的だったのは、マンフレッド・B・リーのほうだったのではないだろうか。ハードボイルド・ミステリのスタイルに興味を抱くとすれば、執筆担当のリーのほうだろうし、『九尾の猫』をなぞった、お手軽なプロットをみても、本書の構想は、フレデリック・ダネイがリーに譲歩して実現したものだったのではないか。そんな気がする。

 

[i] フランシス・M・ネヴィンズJr.『エラリイ・クイーンの世界』(秋津知子他訳、早川書房、1980年)225-26頁、フランシス・M・ネヴィンズ『エラリー・クイーン 推理の芸術』(飯城勇三訳、国書刊行会、2016年)、303頁。

[ii] 『エラリイ・クイーンの世界』、227頁、『エラリー・クイーン 推理の芸術』、305頁。

[iii] 1940年代以降のクイーン作品に、ハードボイルド・ミステリの影響がみられることは、すでに江戸川乱歩が指摘している。江戸川乱歩「内外近事一束」『子不語随筆』(講談社文庫、1988年)、70頁。

[iv]エラリー・クイーン 推理の芸術』、「エラリー・クイーン書誌」、45頁。

[v] 『エラリイ・クイーンの世界』、228頁、『エラリー・クイーン 推理の芸術』、305頁。

[vi] 『エラリイ・クイーンの世界』、228頁、『エラリー・クイーン 推理の芸術』、307、310頁。

[vii] 『エラリイ・クイーンの世界』、228頁、『エラリー・クイーン 推理の芸術』、307頁。