エラリイ・クイーン『間違いの悲劇』

(収録作品、とくに「間違いの悲劇」のプロットを細かく説明しているので、ご注意願います。)

 

 本書は、1999年に刊行されたThe Tragedy of Errors and Others[i]に基づいて日本独自に編集されたエラリイ・クイーン作品集である。原書の巻頭を飾るのはタイトルの「間違いの悲劇」の梗概で、ひょっとしてフレデリック・ダネイ執筆による初のクイーン作品なのだろうか?

 日本語版[ii]は「間違いの悲劇」を巻末に回して、中編「動機」を頭に据えている。おいしいものは最後に残す日本流たしなみか。他に五編の短編(というかショート・ショート)に原書には未収録の短編「結婚記念日」まで入れる大サーヴィスぶりで、ただし、オリジナル版に含まれていた22編にも及ぶ著名作家、批評家(森英俊を含む[iii])のエッセイはカットされている。

 原書に関して、なぜこんなに詳しく述べるのかというと、わたしも一冊所有しているということを吹聴したいからである(どうです!)。しかも私の持っている本の遊び紙の見返しには、201という数字が手書きされている。どうやらクロス製本したハードカヴァー本は250冊しか印刷していないので、一冊ごとにナンバーを書き入れているらしい(どうです!)。もっとも、同ハードカヴァー版を所有する日本国民は、もしかしてアメリカ人よりも多いかもしれない。

 原書は、フレデリック・ダネイ(1905-1982年)およびマンフレッド・B・リー(1905-1971年)没後に、本来40冊目の長編として発表されるはずだった未完の『間違いの悲劇』のシノプシスに、生前刊行された六冊の短編集に漏れた作品を加えて、作者たちの意志とは無関係に編集刊行されたものである。『間違いの悲劇』のアウトラインをダネイが存命中に発表した可能性(あるいは代作者によって小説化した可能性)はゼロではなかったかもしれないが、結果として二人の本意ではなかったとみられる出版であった。しかし、そうであったとしても、クイーンのファンあるいは研究家にとっては、この上ない貴重な贈り物になったことと思われる。「間違いの悲劇」の小説化を一旦は引き受けながら、ついに実現しなかったという有栖川有栖による日本語版への寄稿エッセイも興味深い。翻訳、解説は飯城勇三で、完璧にして鉄壁の布陣である。ただ、全体でも300頁に満たないことを考えると、エッセイもみな入れてくれてもよかったような気もする・・・。読者側からの勝手な要望ではあるが。

 ということで、本書の目玉は、当然「間違いの悲劇」なのだが、他にも「動機」を始めとする単行本未収録短編およびショート・ショートが網羅されており、その点でも見逃すことのできない作品集といえる。

 以下、「結婚記念日」を含んでいる日本語版に従って、見ていこう。

 

01 「動機」(The Motive, Argosy, 1956.8)

 初出時には、“Terror Town”というタイトルで発表された中編。翻訳は『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』に掲載された[iv]ようだが、わたしが読んだのは、各務三郎編の『エラリー・クイーン傑作集』[v]収録のものが最初だった。

 題名からして『災厄の町(Calamity Town)』(1942年)をもじっているが、ライツヴィルより、もっと鄙びた田舎町を舞台に起こる連続殺人事件を描いた作品。日本語版では「ミッシング・リンク中編」と見出しが付けられているように、被害者に共通する要素を探すミステリで、別の言い方をすれば、犯人の殺害「動機」の謎を扱っている。

 農夫の息子、食堂の主人、町の名士の女性、一見無関係とみられる三人の被害者に殺人動機を持つのは、いったい何者か。副保安官のリンカン(リンク)[vi]・ピアスと幼馴染の図書館司書スーザン・マーシュが、何度も衝突を繰り返しながらも事件解決に向かって苦闘する。

 ミッシング・リンクといえば『九尾の猫』(1949年)を、町の住人の非難の矢面に立たされるピアスの姿は『ガラスの村』(1954年)あたりを思わせる。そしてもちろん「ライツヴィル・シリーズ」の諸作品を。

 つまり、過去に書いた複数の小説の焼き直しにもみえるが、むしろ、過去の諸作を土台にして新たな物語を紡いだ、といったほうが適切だろう。一言でいって、出来ばえは素晴らしい。

 ミッシング・リンクの謎解きは『九尾の猫』に劣らないし、意外性では上回っているとも思える。被害者がなぜ、皆、同じ場所で、同じ様子で、同じような傷を受けて死んでいたのか。論理的な推理があるわけではないが、真相が明らかになると、連続する殺人がすべて論理的に繋がっていたことがわかる。いわば事件そのものの論理によって謎が解けていく鮮やかさは、本作の最大の魅力といっていいだろう。

 正直、エラリイ・クイーンの中短編およびショート・ショートでは最高作ではなかろうか(ちょっと微妙なところのある「キャロル事件」より上かもしれない)[vii]

 もちろんパズル小説としては、肝心なデータが隠されていたり、明示されなかったりするので(注で詳しく述べているので、ご注意ください)[viii]、フェアとはいえないが、それを補って余りある面白さがある。

 もう一つの特徴として、登場人物の行動原理を支えるのが信仰である。クイーンの小説で宗教が最も重要な役割を果たす作品といえるかもしれない。『十日間の不思議』(1948年)を彷彿させるともいうが[ix]、むしろ、よりリアリティを感じられるのは、こうした人物像が、小説や映画を通じて我々にも見知ったものに思えるからだろうか。

 主役であるリンクとスーザン[x]の描き方は、いささか通俗的で深みに欠けるが、スリリングなクライマックスまで、きびきびした簡潔な文体で綴られる物語は、クイーンの到達点のひとつを示していると思う。とりわけ、主人公二人のその後を想像させながら、解けきれない謎が余韻となって終わるラストは、クイーンの最良のものだろう。

 

02 「結婚記念日」(Wedding Anniversary, EQMM, 1967,9)

 本作も、前記『エラリー・クイーン傑作集』に収録されていて[xi]、初読時に感心した覚えがある。

 再読してやはり面白かった。例によって三人の容疑者がいて、ダイイング・メッセージの謎を解く。被害者は、一年前に再婚したばかりのライツヴィルの新興の資産家で、宝石商という設定。むき出しのダイアをいつも持ち歩いていて(宝石商の習慣らしい。本当なの?)、毒を飲まされて絶命する間際に宝石を握りしめていた。それがメッセージで、それが結婚記念日だったということで、またしてもエラリイが変なこじつけ推理を披露する。

 三人の容疑者のなかから犯人を探すと見せて、第四の人物が犯人、と思っていたら、さらに、もう一ひねりあった。真相は珍しいものではないが、上手く読者の疑いをそらせておいて意外な結末にもっていく手腕は、1960年代になっても健在だ。

 

03 「オーストラリアから来たおじさん」(Uncle from Australia, Diner’s Club Magazine, 1965.6)

 ここからはショート・ショートで、「オーストラリアから来たおじさん」も、またしても三人の容疑者から犯人を探すダイイング・メッセージもの。掲載誌の『ダイナーズ・クラブ・マガジン』には、同年の3月に「替え玉」(『クイーン犯罪実験室』収録)が掲載されている。

 コックニーなまりのあるオーストラリアの資産家が、姪一人と甥二人のうちの一人だけに遺産を遺すと言ったら、早速殺されたという気の毒な話。訳者が、コックニーなまりについて訳注で説明してくれているので[xii]、日本人にとっても易しいだろう。訳注も面倒くさがらずに、ちゃんと読みなさいという教訓つきか。

 真相は、いつものパターンでもなく、第四の人物パターンでもない、新手法である。といっても、これもミステリではおなじみのもの。タイトルは、「オーストラリア」ではなく、「オリエントからきたおじさん」のほうが、よかったかな?(あっ!)

 

04 「トナカイのてがかり」(The Reindeer Clue, National Enquire, 1975.12)

 本作が、クイーンの作品集に収録されるのは、どう考えてもおかしい。エドワード・D・ホックによる代作だからである。「ダネイがチェック」[xiii]したといっても、それなら、いわゆる「ペイパーバック長編」もすべて、エラリイ・クイーンの39冊の長編ミステリと同等に扱うべきだろう。

 と、正論を言っても始まらないので、本ショート・ショートに話を戻そう。

 クリスマス・ストーリー一編に5000ドル提示されて、動揺したダネイが思わずホックに電話して代作を依頼したというエピソード[xiv]は、なんか生々しい。クイーンほどの名前でも、作家というのは、なかなか大変らしい。やっぱりスティーヴン・キング(女王といえば、王様なので)ほどのベスト・セラー作家にならないと、生活は楽ではないのでしょうね。

 最初『風味豊かな犯罪』[xv]で読んだときは、もちろん代作とは知らなかったが、いずれにしても、大して期待していなかったので、やっぱりね、という程度の出来と感じた。読み返してみると、結構面白い。ダイイング・メッセージものの解法のひとつとして、「殺人者に気づかれないよう工夫をこらしたために複雑になった」というパターンがあるが、本作では「殺人者が戻ってきてメッセージを改変した」というパターンに面白味がある。さすがはホックというべきか。

 

05 「三人の学生」(The Three Students, Playboy, 1971.3)

 ここからの三編は、パズル・クラブのシリーズ。

 大学学長が息子に買ってやった婚約指輪を学長室にもって来たら、盗難にあって、窃盗の疑いが三人の学生にかかる。毎度おなじみの「三人のうちの誰が犯人でしょう」と問うクイズ。

 犯人が落とした紙片に記してあった妙な詩が手がかりになるが、こんな特定の学生にしか馴染みのない知識では、知っている人には易しすぎるし、知らない人はチンプンカンプンだと思うけど。

 『プレイボーイ』誌なので、学生向きの題材を選んだつもりなのか?

 

06 「仲間はずれ」(The Odd Man, Playboy, 1971.6)

 続いてパズル・クラブ・シリーズ二作目。『プレイボーイ』誌も、よくクイーンに二編も執筆を依頼したなあ。読者はグラビアに夢中だから、このくらい短くて単純な話でないと、活字なんか読んでもらえないと判断したのだろうか?

 それでも「三人の学生」より、ちょっと長いのは、解答者のエラリイが逆に出題者に変貌するというプロットのひねりがあるから。

 それにしても、クイーンは案外レイモンド・チャンドラーが好きだったのだろうか(そんなはずないか)?恐らく、彼の名前から思いついたのだろう(もうひとりのほうも有名だが)。同じような名の小説家を(森英俊編みたいな)『ミステリ作家事典』で、一生懸命探しているダネイの姿を想像してしまう。

 

07 「正直な詐欺師」(The Honest Swindler, Saturday Evening Post, 1971. Summer)

 本作がクイーンのショート・ショート最終作になるのだろうか。

 パズル・クラブも、どんどんたわいなくなって、本当の謎々になった。ウラニウム鉱の採掘に生涯をかけた老人が、五百人から五万ドルを集めて、たとえ失敗しても全額返金すると約束する。案の定駄目だったが、元金はちゃんと返済されましたとさ。さて、どうすればそんなことが可能だったのでしょう?(めんどうくさくなったので、以下省略。)

 

08 「間違いの悲劇」(The Tragedy of Errors)

 いよいよ大トリは、幻の長編『間違いの悲劇』(ただし、その梗概)が登場する。

 タイトルは、まるでドルリー・レーン四部作を連想させるが、実際にシェイクスピア好きの女優が登場して、住まいはエルシノア城と呼ばれるなど、本当にレーンみたいだ。ただし、モーナ・リッチモンドは名探偵ではなく、被害者である。

 舞台はハリウッドなので、クイーンのハリウッドものの新作とも言えそうだ。といっても、例によってハリウッドである必然性は感じられないが[xvi]

 被害者のモーナは、三十歳も年下の愛人バック・バーンショウとエルシノア城に住んでいるが、バーンショウがチェリー・オハラという恋人と密会していることを知り、激怒する。弁護士のカーティスを呼び寄せ、誰にも内容を知らせぬまま遺言書を作成する。ところが、バーンショウは抜け目なくモーナが保管する遺言書を盗み出して隠してしまう。その場面がわざわざ描かれるうえに、遺言書の中身は読者にも知らされないので、いかにも、いわくありげである。

 予想通り、モーナは殺害され、バーンショウが逮捕されて公判となるが、土壇場で、彼女の遺書が発見され、自殺で片が付く。無罪判決を受けたバーンショウは、事件を捜査していたペルツ警部補やエラリイを集めて、モーナを殺したことを自白する。驚く一同に、彼が突きつけたモーナの遺言書には、「わたしを殺した犯人に全財産を譲る」と書かれていたのである。司法の一事不再理の原則を利用して、殺人犯人であることを公にしたうえで遺産をせしめようというのだ。

 ところが、一事不再理原則があろうと、殺人を犯した者に遺産相続は認められないだろうと言われたバーンショウは逆上し、錯乱して首を括ってしまう。

 その後、モーナがかつて結婚していたリード・ハーモンという男が現れ、モーナの遺産相続人と認められて、愛人志願したオハラとともにエルシノア城に住むことになる。事件に違和感を抱くエラリイらが、なおも調査を続けていると、モーナの財産の半分が消えていることがわかる。事情を知るはずのハーモンを追求しようとエラリイたちが訪ねたとき、彼もまた既に殺害されていたのだった。

 随分複雑なプロットだが、真相もビックリ仰天で、奇想天外なことではクイーン作品中でも一、二を争うといってよさそうである。そもそも、モーナの奇怪な遺言書とそれを逆手にとって殺人を企てるバーンショウの企みからして、奇想が天外すぎる。恐らくこれが、最初にダネイが思いついたアイディアなのだろう。ところが、実際に小説中で描かれているように、この殺人のアイディアは法的に無理があると気がついたものと思われる。そこで、このアイディアを全体の一部とする、さらに奇想天外なトリックを考案したらしい。

 すなわち、ダネイ必殺の「操り」、マニピュレーションである。

 なんと、モーナもバーンショウも、そしてハーモンさえも犯人に操られて自滅していったという、奇想が天外どころか宇宙の果てに飛び去る妄想的トリックなのである。

 これはまた、なんというか・・・、究極の人形使いテーマであろう。なにしろ、三人の人間の心を操って次々に消去していくのである。これじゃミステリというよりSFだよ。

 もっとも、度肝を抜くアイディアに慣れた現代の若い読者は、この程度では驚かないかもしれないが、さりとて、1971年という時代に、これほど作り物めいたプロットを発想するフレデリック・ダネイには驚かされる。やはりダネイは、すごい。すごいというより、恐い。怖いというか、変だ。果たして、この梗概を読んだリーは、どう思ったのだろうか。

 というのも、てっきりリーのスランプは、ダネイの人工的プロットについていけなくなったからと思っていたのだが、こんな粗筋を突きつけられたら、またリーのスランプがぶり返してしまうんじゃないか。それとも、全てわたしの邪推で、スランプはダネイのプロットとは無関係、リーも案外平気で、この筋書きを小説化しようとしていたのだろうか。彼の死によって、すべては霧のなかになってしまったが、本当にこのプロットで小説になったのだろうか。誰にそれが可能だったのだろう。有栖川有栖氏にはできたというのなら、ぜひとも読んでみたかったものだが・・・。

 この超絶的プロットを前にしては、ツッコミを入れるのもためらわれるが、色々疑問がある。

 バーンショウが犯人の口車に乗って、モーナ殺害を実行し、それをエラリイたちに告白するという展開も無茶苦茶だが、それより、遺産獲得の見込みが消え失せたと知れば、自分をだました人間を暴露して告発するのでは、と、犯人は危惧しなかったのだろうか。バーンショウは自殺したことになっているが、殺されたのではないのか?どう考えても、生かしておくのは危険すぎるし、そもそも、ハーモンのほうは、さっさと始末したではないか。

 エラリイは、犯人として、まずカーティスを名指しするが、途中で間違いに気づく。カーティスを犯人に見せる必要はあっただろうか?クイーンの好きな多重解決だが、真犯人がカーティスをも操って犯人に見せかけようとしたというならともかく、そうでないのであれば、どんでん返しを一つ増やしただけで、またかと思わせるだけのように思える。

 モーナの邸宅の居候で劇作家のディオン・プロクターという黒人の登場人物がいる。意味ありげな存在なのだが、ほとんどまったく事件には関わってこない。単なる容疑者のひとりとして設定しただけなのだろうか。それにしては、登場させる意味がないと思えるほど、ストーリーと無関係なのである。この時代(1971年)に黒人を犯人にすることはないだろうとは思ったが、プロクターの存在には、どういう意図があったのだろうか[xvii]。読者にオセローを連想させて、疑いを向けさせる狙いだったのか(実際に『オセロー』が本作の最大の手がかりになる[xviii])。

 ダネイによれば、『間違いの悲劇』は現代の狂気を描くミステリになるはずだった[xix]。エピローグのエラリイと犯人の対話を読むと、深遠なようにも、勿体つけてるだけのようにもみえるが、狂気がテーマなら、犯人に物的動機を付与する必要はなかったんじゃなかろうか?ハーモン殺害の表層的な動機が必要だったということは、狂気の殺人を納得させる自信が作者になかったことの表われのようにも見える。

 もっとも、このような常識を踏みにじるプロットの動機が金銭では、それもまた読者を納得させられないだろう。どう考えても、狂人以外の犯人はありえないが、だから狂気の殺人にしたというわけでもないだろう(そうだったりして)。本作でダネイがことさら狂気を強調するのは、なぜなのか?(少なくとも、小説のなかで、作者が、本書は現代の狂気を描こうとしている、などと宣言し始めたら、おしまいである。)

 そんなこともわからないのか、とダネイは笑うかもしれないが、リーと二人でプロットの研磨に議論を尽くしていたら、果たしてどんな小説が出来上がっていただろうか。やはり、そこが、一番想像がふくらむ。

 

[i] Ellery Queen, The Tragedy of Errors and Others (Crippen & Landru Publishers, USA, 1999).

[ii] エラリー・クイーン『間違いの悲劇』(飯城勇三訳、創元推理文庫、2006年)。

[iii] Hidetoshi Mori, “Ellery Queen: One of the Most Popular Mystery Writers in Japan”, The Tragedy of Errors and Others, pp.206-208.

[iv] フランシス・M・ネヴィンズ(飯城勇三訳)『エラリー・クイーン 推理の芸術』(国書刊行会、2016年)、「エラリー・クイーン書誌」、32頁。

[v] 各務三郎編『エラリー・クイーン傑作集』(真野明裕訳、番町書房、1977年)、103-46頁。

[vi] クイーンはリンカン大統領のことが、よほど好きらしい。ピアスのキャラクターも大統領をモデルにしているのだろうか。

[vii] ついでに、個人的なクイーンの中短編ショート・ショートのベスト表を記しておきたいと思う(聞かれてもいないのに、ついつい言いたくなるのが、ミステリのベスト・テンである)。①「動機」(1956年)、②「キャロル事件」(1958年)、③「ライツヴィルの盗賊」(1953年)、④「殺された猫」(1946年)、⑤「賭博クラブ」(1951年)、⑥「ドン・ファンの死」(1962年)、⑦「針の目」(1951年)、⑧「宝捜しの冒険」(1935年)、⑨「七匹の黒猫の冒険」(1934年)、⑩「いかれたお茶会の冒険」(1934年)。

[viii] 第一事件現場で発見された最重要証拠が「ガラスの破片」としか書かれていないのでは、推理のしようがない。『間違いの悲劇』、25、60頁。ただ、小説冒頭で、スーザンの車のヘッドライトが壊れているという描写がある。同、11頁。また、第二の被害者が、事件の鍵となる車の最初の所有者であったことが明記されていない。新車を乗り回している描写だけでは十分ではない。同、24頁。もちろん、はっきり書いたら、すぐにわかってしまうけれど。

[ix] フランシス・M・ネヴィンズJr.、『エラリイ・クイーンの世界』(秋津知子他訳、早川書房、1980年)、271頁、『エラリー・クイーン 推理の芸術』、302-303頁。

[x] 人の悪い想像をすると、実はスーザンが「犯人」であった可能性が依然として残っていると思う。

[xi]エラリー・クイーン傑作集』、147-66頁。

[xii] 『間違いの悲劇』、92頁。

[xiii] 同、「解説」、246頁。

[xiv]エラリー・クイーン 推理の芸術』、401頁。

[xv] E・D・ホウク編『風味豊かな犯罪』(『年間ミステリ傑作選’76』、創元推理文庫、1980年)、82-89頁。ホウクは、もちろんホックのこと。原著は1976年刊行なので、当然代作のことは伏せて「クイーンの新作」だと、しれっと書いている(すっかり、だまされたよ)。同、82頁。

[xvi] 『間違いの悲劇』、「解説」、252頁参照。

[xvii] 有栖川氏も、同様の疑問をもったらしい。同、「女王の夢から覚めて」、239頁。

[xviii] 同、222頁。

[xix] 同、233頁。