エラリイ・クイーン『犯罪カレンダー』

(収録短編の大半について内容や真相を明かしていますので、ご注意ください。)

 

 1952年に出版された『犯罪カレンダー』[i]は、過去二冊の短編集『エラリイ・クイーンの冒険』(1934年)、『エラリイ・クイーンの新冒険』(1940年)にはない新しい趣向が盛り込まれた。1月から12月までの各月に関連する風習やアメリカの歴史事象を題材にした「枠」付きの短編集である。

 このアイディアは、パズル・ミステリ(PM)ならぬポップ・ミュージック(PM)の世界で見てみると、いわゆるコンセプト・アルバムとかトータル・アルバムと呼ばれるLPレコードもしくはCDに相当する。代表的作品は、いうまでもなくザ・ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(1967年)である。しかし、同作品は楽曲の順番に法則性はないので、また、「暦」がテーマの『犯罪カレンダー』に似た作品を探すとなれば、ザ・ムーディ・ブルースの『デイズ・オヴ・フューチュア・パスト』(1967年)のほうがふさわしいだろう。同LPは、夜明けから夜までの一日の時間の流れを人間の一生に当てはめたコンセプト・アルバムだった。

 とはいえ、もっとも『犯罪カレンダー』に似たアルバムと言えば、伊藤咲子の『私のカレンダー』(1974年)[ii]にとどめを刺すだろう。何しろ、タイトルが半分被っている。

 『犯罪カレンダー』は、1月(January)の語源となったローマ神話ヤヌス(Janus)にちなんだ事件に始まって12月のクリスマスまでの1年間、エラリイ・クイーンとニッキー・ポーターのコンビが毎月定期的に犯罪(ではない場合もある)に遭遇するミステリ・クロニクルである。同一探偵による単なる連作短編集を超えた、この「枠」付き短編集の発想は、アガサ・クリスティの『ヘラクレスの冒険』(1947年)に範を取ったもの[iii]だというので、無論クイーンの発明というわけではない。そして、単なる共通の枠組みにとどまらず、短編集全体に大きな仕掛けがある。すなわち、最後に探偵に関する謎が解かれるとか、全体としてひとつの物語を形作るなどのテーマをもった短編集としては、むしろクリスティなら『クィン氏の事件簿』(1930年、「クィン」と「クイーン」って、似てますね)[iv]が、さらに、もっと鮮烈な結末の短篇連作としてはT・S・ストリブリングの『カリブ諸島の手がかり』(1929年)[v]がある。

 だが、こうしたコンセプト短編集というか、短編集が長編小説的構造をもっている作品というのは、むしろ我が国のミステリで優れて発達してきたように思われる。代表となるのが、長編ミステリ扱いされてはいるが、山田風太郎の『誰にも出来る殺人』(1958年)[vi]、『明治断頭台』(1978-79年)[vii]などの諸作である。また、もっとはっきりと、短篇集でありながら長編としての結構を備えているものとしては、中井英夫の『幻想博物館』(1970-71年)[viii]以下のシリーズがある。同シリーズは、『悪夢の骨牌』(1973年)、『人外境通信』(1975-76年)、『真珠母の匣』(1977-78年)を合わせた四作品に、短編二編が加わった全54編の『とらんぷ譚[ix]としてまとめられているが、四つの短篇集が、それぞれトランプのハート、ダイヤ、スペード、クラブにちなんだ独立した長編でもあり、全体でトランプ・カード一組を構成するという凝りに凝ったコンセプト短編集である。同じく凝りに凝った文体を含めて、この類の作品集の最高峰に位置するものであろう[x]

 ・・・・・・。

 そういえば、『犯罪カレンダー』の話でしたね。

 同短編集は、実はラジオ放送されたエラリイ・クイーンのドラマ台本を小説化したものだそうで、マンフレッド・B・リーの発案によるのだという[xi]

 そう言われると、『冒険』や『新冒険』よりも、ずっと小説としてこなれてきているように感じるのは、年季が入ってきたからだけではなく、リーが乗って執筆しているせいなのかもしれない。

 無駄話をしている暇はないので(?)、早速、各短篇を見ていくことにしよう。

 

1月 「双面神クラブの秘密」(1947.1)

 大学がテーマの学校ミステリ。といっても、卒業生がつくった「双面神クラブ」という団体のなかに、さらに秘密クラブがあって、そのメンバーを探すミステリなので、大学とはまるで関係ない。ただ、推理の手がかりが大学に関係しているところは、なるほどクイーンらしい、というか、それが手がかりだから大学のクラブが舞台になっているわけである。

 話は、例のトンチン年金とかいうやつで、最後に残った一人が全額を手に入れるミステリ愛読者(とくにクイーンの)が大好物の設定。誰が同窓生を殺して回っている不埒者かを当てるのだが、正直、ただのクイズなので面白いとはいえない。おまけに日本人には馴染みの少ない名前で難しすぎる。ハーヴァードとかエールにしてくれないと(さすがに、やさしすぎて駄目か)。

 それに、誰と誰が秘密クラブ員なのかは、当然、卒業生同士でも仲の良い悪いがあるはずなので、地道に捜査を続ければ、自ずと明らかになりそうなものだ。もっとも、それじゃクイーンのミステリにならないが。

 

2月 「大統領の5セント貨」(1947.2)

 またクイズだが、こちらは楽しめました。

 ジョージ・ワシントンが埋めた貴重な硬貨を探す、一種の歴史ミステリだが、ワシントンの数字愛好癖(どこまで本当か知らないが)やアメリカ建国当時の歴史背景などが手がかりとなって、これはこれでフェアなパズルになっている。謎解きもごくごくシンプルなものだが、エラリイの推理を聞くと、なるほど、それ以外にはないだろうという必然性のある答えなので、すっきり爽快な後味もいい。

 しかし、「やさしすぎた」という声もあるそう[xii]なので、みんな頭がいいんだなあ、と感心するが、作中の日記の一節[xiii]を信用するかぎり、絶対に正解にはたどり着けないと思うので(誤訳というのは、ここのことなのだろうか[xiv])、答えがわかったという人は、ちゃんと文章を読んでいないんじゃないか(あるいは原書で読んだか)と反論したくなるけれど、やっぱり負け惜しみかな。

 

3月 「マイケル・マグーンの凶月」(1947.3)

 確定申告に追われるショボクレた私立探偵が主役の短編に、レイモンド・チャンドラーの名前を出すとか、クイーンも人が悪い[xv](そんな揶揄するようなことを書くから、ハードボイルド・ファンに嫌われるのだ。いや、そんな問題じゃないか)。

 富豪の娘がクレプトマニアで、脅迫が絡んで、私立探偵の事務所で火事騒ぎが起こると、今度は家主の女性が殺害される。なかなか複雑な事件で、元クイーン警視の部下だった探偵から相談を受けたエラリイが解決に乗り出す。

 鍵となる新聞紙の手がかりは相変わらず巧みで(いささか細かすぎるが)、本短編集のなかでも佳作だと思うが、犯人は意図せぬ殺人を犯したために書類の盗難をでっちあげた、というわけではないのだから、放火の小芝居を実行する前に書類と新聞紙をすり替えておいたのではないのか。脅迫を実行する前に、書類が盗まれたことを第三者(つまりエラリイ)に確認してもらっておく必要があるのだから、予めそのくらいの事前準備は済ませておくべきだ。それなのに、殺人の翌日、エラリイの住居を訪ねる間際になって、あわてて証拠を捏造したというのでは、この犯人、あまりに頭が雑すぎる(そんな間抜けな私立探偵にするから、ハードボイルド・ファンに・・・。)

 

4月 「皇帝のダイス」(1951.4)

 4月の短編なのに3月31日に事件が起こる。

 というわけなので、この時点で、すでに勘の良い読者は結末を予想しただろう。あいにく私は勘がよくなかったが、読み終わって考えれば、4月の短編なら、こうなるのがお約束か。

 ただ、9月の短編「三つのR」があるので、なんで、とも思うのだが、その話はまたあとで。

 

5月 「ゲティスバーグのラッパ」(1951.5)

 アメリカの歴史とくればこれ、という南北戦争にまつわる物語。

 またトンチン年金が出てくるが、誰が最後に生き残るのか、というところに一ひねり加えている。ただ偶然の結果なので、推理パズルというより、皮肉味のある意外な結末の短編という印象である。

 それと、二番目に死亡した人物が自然死だというのは、正式の遺体解剖などを経た結論ではないので、こんな安易に断定してしまって大丈夫なのか、という気もする。解剖したら、やっぱり殺人だった、となったら面白い、いや、困るだろう。

 むしろ、自然死らしいが殺人でないとも断定できない、という曖昧な結末のリドル・ストーリーにでもしたら、クイーン短編としては画期的だったんじゃなかろうか。

 

6月 「くすり指の秘密」(1951.6)

 初読のとき、つまらなかった記憶しかなかったが、読み直してみると、やっぱり面白くはなかった。なかったのだが、つまらなくもない。ある意味で、面白かったともいえる。

 なに言ってんだ、と思われるだろうが、ミステリの構成としては、最初から疑わしい人物が、そのまま犯人だったという「意外性」を狙った短編である。工夫としては、当該人物が犯人であることに異議を唱えるのがエラリイだということで、そのことが読者にも疑いをもたせることになる(エラリイが言ってるんだから、という風に)[xvi]。しかし、結局、名探偵が、またしても右利き左利きの推理から真犯人に気づくのだが、クイーン警視がとっくに犯人を逮捕していて、それを聞かされたエラリイは、ぐぬぬ、となる。エラリイが失敗する話を書きたかったのだろうか(実際は、失敗しているわけではないが)。『十日間の不思議』(1948年)を連想したりもするが、1942年の放送らしいので[xvii]、こちらのほうが早いようだ(脚本の結末も小説と同じなのかどうかは、わからない)。

 ただし、エラリイの推理は、ネヴィンズが指摘するように、自分から、他に二人の容疑者がいることを指摘しておきながら、彼らが左利きでないことを証明しようとはしない[xviii]。不完全な推理なのだが、無論、そこが面白かったというのではない。

 ヴィクター・ラッズという登場人物が異様なのだ。「血をふく肖像画」(1937年)に出てきたストーカー男を思い出したが、(その言葉は使われていないが)明らかなサイコパスとして描かれている。恋する女性が恋敵と結婚すると宣言したとたんに、相手の男に襲い掛かる。ひとりぶつぶつ、殺してやる、殺してやる、とつぶやく。内面描写はないが、明白な異常者で、同様のテーマの『九尾の猫』(1949年)が、犯人を隠そうとしてか、サイコ・キラーを思わせる描写が皆無だったのに比べると、この犯人の異常さが目立つ。最初からサイコパスとしか思えない人物を登場させておいて、犯人当てミステリに仕上げるところが注目点で、エラリイのつまらぬ推理より(コラコラ)、そこが面白い。

 もちろん、『九尾の猫』と違って、短編だからこそ、こうした描写が可能だったともいえるし、そもそも、元のラジオ・ドラマでもこのようなキャラクターだったのだろうか。短編の発表は1951年で、間に『九尾の猫』が挟まっているのを見ると、同長編執筆の経験を経たリーが独自に肉付けしたとも考えられる。1942年の放送を確認できれば、すぐ解決することだが。

 

7月 「墜落した天使」(1951.7)

 単純なアリバイ・トリックを使った殺人(未遂)事件で、エラリイが暖炉で燃やされた物品から組み立てる推理は、典型的なクイーン・スタイルで、そこは、まったくわかりやすいパズル短編小説である。

 わかりにくいのは、登場人物の心理で、ニッキイが旧友のドロシーと、マンハッタンの川沿いの大邸宅でおしゃべりをしている。ドロシーは邸宅の主である富豪のセンターと結婚したばかりで、ところが、夫以外の男に恋をしてしまった、とニッキイに打ち明けるのである。一方、センターのほうもエラリイを訪ねて、妻が弟のデイヴィッドと通じて自分を殺そうとしている、現に、昨日、屋根に乗っていた石の像が落下して命中するところだった、と訴える。調査依頼を受けたエラリイとニッキイが屋敷に赴くと、秘書のハートが出迎えるが、その時銃声が響く。急ぎ駆け付けると、センターは背後から撃たれて重傷を負い、デイヴィッドは姿を消している。

 このあと、ドロシーが恋していたのはハートだったとわかるのだが、彼女は、男をかばおうとしてか、夫を撃ったのは自分だと告白する。それは簡単に嘘だとわかって、再びデイヴィッドの行方が問題となるが、今度は、ハートが、やったのはデイヴィッドではない、自分だと打ち明けるのである。しかし、ハートには完全なアリバイがあって犯人ではありえない。

 遺産相続と不倫の二つの動機と、義理の弟と秘書の二人の容疑者を組み合わせてプロットを複雑にしようとしたようなのだが、ドロシーが夫の殺害未遂を告白するのは、ハートをかばうためだからよいとして、ハートがデイヴィッドをかばって自白する理由がわからない。ドロシーの疑いは晴れているし、デイヴィッドをかばうことで自分を潔白に見せようとしたらしいのだが、銃声(のような音)が聞こえた時にエラリイたちといたという事実があって、明らかに誰の眼にも犯人ではないのに、告白するのは、はなはだ奇妙である。むしろ、何かしらのトリックがあったのでは、と疑いを起こさせかねない発言ではないか。「では、どのようなトリックを使ったのか、説明しろ」と言われたら、何と返事するつもりだったのだろう。

 作者にすれば、一旦、ハートの容疑を晴らしておくための手順を考えたのだろうが、どうも、あまり手際が良くなかったようだ。

 

8月 「針の目」(1951.8)

 マンハッタン沖の小島に建てられた見晴らし台のような部屋のなかで死体が発見される。被害者は島の持ち主で、戸口に部屋の内側に向かって倒れていた。室内の何者かに撃たれたのだが、彼も発砲していて、しかし、内部に銃弾は見つからない。どうやら、犯人に命中したらしいが、容疑者たちの体を調べても、銃の傷跡など見つからない。一体、銃弾はどこに消えたのか?

 巧みな謎で、解答も、それに劣らず巧妙である。言われてみれば、なるほど、という単純明快さで、手がかりの出し方、カムフラージュの仕方は、いつもながら見事なものである。

 ただ、キャプテン・キッドが残したという宝を捜す主題と、被害者の娘の結婚相手とその父親の企みを結び付けるエラリイの推理は、なんだか飛躍しすぎていて、あれよあれよという間に、真相をまくしたてて事件を解決するが、話がうますぎるというか、エラリイの小説のプロットとしか思えない(メタ的発言ですな)。

 

9月 「三つのR」(1946.9)

 再び大学を舞台にした犯罪事件(?)。

 夏季休暇中に山間の別荘に出かけたはずの教授が、新学期を間近に控えた九月になっても戻らない。学長に相談を受けたエラリイが調査に乗り出すと、教授がE・A・ポーの高価な初版本を入手したこと、休暇中にミステリを執筆すると学長や知人の教授に手紙を出していたことなどが明らかとなる。教授が残した草稿は簡単に見つかるが、それを読んだエラリイは驚愕する。現実に起きた失踪事件が、すでに草稿の中に書かれているではないか!ミステリの原稿通りの事件が現実に起きていたのである!

 という具合に、『Yの悲劇』(1932年)をも上回るエラリイ・クイーン渾身のメタ・ミステリが、ここに誕生した。と言いたいところだが、実際は、もって非なるというか、とんだ茶番の悪ふざけで、読み返してみると、作者自身、初めから笑いをこらえきれない様子で、おふざけの度が過ぎると言えよう。

 最大の謎は、「皇帝のダイス」があるのに、なぜ二作も冗談小説を入れたのかということだが、本作品のほうが先に書かれているので、四月の作品に何を選ぶか、まだ決めていなかったのだろう。しかし、案の定、四月とくれば・・・、ということで、ああなって、こうなったものと思われる。まあ、本作をはずして、九月だけ欠番にするというわけにもいかなかったでしょうからね。

 

10月 「殺された猫」(1946.10)

 すっかり日本でもお馴染みのハロウィーンの殺人事件。

 黒猫の扮装をして、尻尾までつけて乱痴気パーティとか、大概にしろニャア、というわけで、随分エラリイも軽くなったと思うが、前半のテンポの速い、内面描写を連ねた文章は、コーネル・ウールリッチかハードボイルド・ミステリを意識してのものだろうか。

 しかし、殺人ゲームのさなかに本当の殺人が起こると、すっかりクイーンらしい雰囲気が戻り、暗闇の中、部屋中に置き散らかされた家具や陶器の間をぬって、いかにして犯人は物音を立てずに動き回ることができたのか、という魅力的な謎が提出される。

 しかし、ネヴィンズが指摘する問題点ももっともだが[xix]、それ以前に、いくら自分で迷路をつくったにしても、障害物に一切躓かずに暗闇のなかを歩けるものだろうか。

 しかし、そこをひとまず脇に置けば、絶妙な謎に絶妙な解決が合わさって、シンプルかつクリアなロジックが際立つ名作短編といえるだろう。エラリイが犯人を明らかにするクライマックスの息詰まる演出からラストの一言まで間然するところのない、本短編集随一の佳作と思う。

 

11月 「ものをいう壜」(1946.11)

 本書収録の短編は、冒頭で、この時期のクイーンらしい気取った文章で始まることが多いが、本編はさらに輪をかけてペダンティックな印象で、少々嫌味なほどである[xx]

 だが、お話のほうは動きが多く、テンポも速い。感謝祭の贈り物を配りに出かけたエラリイとニッキイが、ひょんな偶然からコカインを入手すると(ひょんな偶然すぎます)、麻薬密売グループの摘発に協力することになる。取引現場のレストランで働く掃除婦のアパートを訪ねてみると、彼女の挙動が怪しくて、何事かを隠している。隠していたのは夫のケアリイとわかるが、彼は麻薬取引容疑で逮捕され、しかし、それは罠にかけられたのだという。脱獄したケアリイが売人の家に向かったとの通報を受け、あとを追った警察が到着すると、すでに売人の男は殺されており、ナイフを握ったケアリイが立ちすくんでいる。

 事件に巻き込まれたエラリイとニッキイが警視らとともに、ニュー・ヨークの街中を駆け巡る様は、87分署シリーズ(まだ書かれていないが)のような警察小説っぽくもあり、ハードボイルド・ミステリのようでもある[xxi]

 肝心の謎解きの部分は、とくに推理もなく(ミセス・ケアリイのアパートで、エラリイがちょっとした推論を披露するが、そこが一番理屈っぽい)、エラリイ自身がネタバレしているように[xxii]チェスタトンのパロディが狙いのようだ。

 ところで、エラリイがレストランで簡単に聞き出したミセス・ケアリイの住所を、ヴェリー部長刑事が突き止められないのって[xxiii]、どうなの?

 

12月 「クリスマスと人形」(1948.12)

 最終短編は、コーマスを名乗る怪盗が、ルイ16世が王子に贈った巨大なダイヤを埋め込んだ人形を盗むと予告してくる。警察が防備を固めたデパートの展示会場で、エラリイやクイーン警視が監視するなか、まんまと人形がすり替えられ、ダイヤが消え失せる不可能犯罪ミステリである。

 まるでアルセーヌ・リュパン怪人二十面相だが、前者の名は、エラリイ自身が口にする[xxiv]。そして肝心の不可能犯罪トリックは二十面相並み、とは、『帝王死す』(1952年)について書いたときに、ついでに本作に触れて述べたことだが、読み返してみても、まあ、そんなところです。

 本短編は、リーが単独でプロットも考案して書いたというので[xxv]、どおりで、ロジックよりも、不可能犯罪トリックのほうに比重が置かれているはずだ。

 もっとも、トリックには大して感心しなかったが、だから、つまらないということでもない。むしろ楽しく読めた。楽しいのは、クリスマスが背景だからかもしれない。お伽噺めいた雰囲気も悪くないし、そもそも怪盗紳士対名探偵という構図がメルヘンである。本作を読んで、つくづく思うが、欧米のクリスマス・ミステリというのは、どうしてこう、わくわくするのだろう。日本のお正月ミステリは、どうして、そんなにわくわくしないのか。

 

 全12編を読み直して佳作と思ったのは、「大統領の5セント貨」、「マイケル・マグーンの凶月」、「ゲティスバーグのラッパ」、「針の目」、「殺された猫」あたりで、以前読んだときと変わらなかった。しかし、箸にも棒にもかからないと思っていた「くすり指の秘密」や「ものをいう壜」などが意外に面白く読めた。全体を通して、同時期の長編にはない軽みとテンポの良さ、硬軟併せ持った語り口が小説としての楽しさを高めているような気がする。一編一編取り上げると不満もあるが、こりゃあ、エラリイ・クイーンの短編集のなかで、一番いいかもしれない。

 

[i] 『犯罪カレンダー〈1月~6月〉』、『犯罪カレンダー〈7月~12月〉』(宇野利康訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1962年、ハヤカワ・ミステリ文庫、2002年)。

[ii] 本年(2023年)復刻された。1曲目の「プロローグ」はヴォーカル抜きで、収録曲のメドレーが5分強続くという、デビュー間もないアイドル系シンガーのアルバムとしては、なかなか攻めた内容になっている。

[iii] 飯城勇三エラリー・クイーン・パーフェクト・ガイド』(ぶんか社文庫、2005年)、157頁。

[iv] 『クィン氏の事件簿』(一ノ瀬直二訳、創元推理文庫、1971年)。

[v] T・S・ストリブリング『カリブ諸島の手がかり』(倉阪鬼一郎訳、国書刊行会、1997年)。

[vi] 山田風太郎山田風太郎ミステリ傑作選① 眼中の悪魔』(光文社、2001年)、413-618頁。

[vii] 山田風太郎山田風太郎明治小説全集7 明治断頭台』(筑摩書房、1997年)。

[viii] 中井英夫『幻想博物館』(平凡社、1972年、第二版、1975年)。

[ix] 中井英夫『トランプ譚』(平凡社、1980年)。

[x] 最近のミステリは不案内なので、もっとすごい短編集が生まれているかもしれませんが。

[xi] 飯城勇三エラリー・クイーン完全ガイド』(星海社、2021年)、148-49頁。

[xii] 同、149頁。

[xiii] 『犯罪カレンダー〈1月~6月〉』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、90-91頁。

[xiv]エラリー・クイーン完全ガイド』、149頁。

[xv] そういえば、リーがチャンドラーの悪口を書いていたっけ。ジョゼフ・グッドリッチ編『エラリー・クイーン 創作の秘密 往復書簡1947-1950年』(飯城勇三訳、国書刊行会、2021年)、236-37頁。

[xvi] この読者を瞞着する試みは、『シャム双子の謎」(1933年)でも用いられていた。

[xvii] フランシス・M・ネヴィンズ『エラリー・クイーン 推理の芸術』(飯城勇三訳、国書刊行会、2016年)、271頁。

[xviii] 同。

[xix] 同、272頁。

[xx] 小林信彦が『悪の起源』のペダントリーを批評していたのを思い出した。小林信彦『地獄の読書録』(筑摩書房、1989年)、93頁。

[xxi] 訳者もそう思ったのか、エラリイまで父親に向かって「~ですぜ」などと口走る。『犯罪カレンダー〈7月~12月〉』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、257頁。

[xxii] 同、279頁。

[xxiii] 同、246、258頁。

[xxiv] 同、306-307頁。

[xxv]エラリー・クイーン 創作の秘密 往復書簡1947-1950年』、150-55頁、とくに脚注を参照。