横溝正史『迷路の花嫁』

(本書の真相のほか、アガサ・クリスティの長編小説の内容に注で触れていますので、ご注意ください。)

 

 『迷路の花嫁』(1954年)を最初に読んだときは、『獄門島』や『八つ墓村』はもちろん、同時期の『幽霊男』(1954年)や『吸血蛾』(1955年)と比べても、随分毛色の変わった小説だなと思った。

 冒頭から、いきなり宇賀神薬子という仰々しい名前の霊媒が一軒家で全身血まみれになって死んでいる。辺りには幾匹もの猫が血をすすり、口を真っ赤にしてうろついている。カーター・ディクスンの『プレーグ・コートの殺人』(1934年)あたりを連想させる幕開きで[i]、これはまたトリッキーな謎解きが読めそうだぞ、と期待していると、案に相違して、殺人の謎はほとんど追及されず、発見者の松原浩三という作家と、薬子を背後で動かしていた建部多門という怪物じみた心霊術師の間の闘争と駆け引きで物語が進んでいく。多門がその妖しい力で我がものとしてきた女達を松原が解放していく、善玉悪玉がはっきりしたスリルとサスペンスの冒険読み物である。

 この頃の横溝作品と比較しても、いや、戦前の由利麟太郎シリーズなどと比べても、異色のミステリで、もちろん、作者のストーリーテリングの技量に引き込まれて、すらすらと読み進めることができたが、なんとも当てが外れたような気にもなった。

 そもそも本書は、その成り立ちが、あまりよくわかっていなかった作品である。単行本は、1955年に桃源社から出たものが最初らしく[ii]、1957、1960年にも同社から新版が出ている(結構売れたみたいですね)[iii]。私が読んだのは春陽堂文庫版だったと思うが[iv]、同文庫は解説がついていないのが通例で、書誌的なことはわからなかった。角川文庫版は、お馴染み中島河太郎の解説付きで、そこでは「長編化の一つ」[v]と書かれていた。ああ、そうなのか、と思ったが、実は、これが間違いで、1950年に「迷路の花嫁」[vi]という作品が『講談倶楽部』に三か月連載されているので、河太郎先生も、この短編もしくは中編の長編化作品だと思い誤ったらしい。こちらの「迷路の花嫁」は、由利シリーズの「カルメンの死」の原題だったそうだ[vii]。横溝の癖で、気に入ったタイトルを複数の作品につけるので、とんだ誤解を生んでしまったらしい[viii]

 長編の『迷路の花嫁』は、単行本刊行の前年1954年に『いはらき』に連載された長編で[ix]、要するに新聞小説だったようだ。どおりで、19ある章のそれぞれが、細かくナンバリングされて短い節に分かれている。新聞一回分の分量なのだろう。『女が見ていた』(1949年)などと同じ新聞連載だったわけだ。

 作品に戻ると、冒頭の殺人事件では、被害者には無数の刺し傷が残されており、同居している弟子の奈津女、書生の河村は外出していた。女中のすみ江は行方が知れず、やがて死体となって見つかる。番犬までが殺されており、何かしら計画的な殺人のようにみえるというものである。

 殺人を発見したのは、作家の松原浩三のほかに本堂千代吉という浮浪者の男で、本堂は家の中から、人殺し、助けて、という悲鳴が聞こえたと証言する。通りかかった警官を呼びとめた二人が、警官とともに家の中に入っていき、惨劇を発見することになった。

 薬子の後援者には、老舗呉服店主人の滝川直衛という人物がおり、当夜、薬子のもとを訪れるはずだったが、急用で果たせなかった。ところが、娘の恭子が密かに薬子を訪ねたらしく、慌てて家を飛び出すところを、本堂と松原に目撃されている。

 といった、例によって複雑な状況設定で、薬子はなぜ体中に刺し傷を受けて殺されるという凄惨な死を遂げたのか、犯人が女中の死体を一時隠したあと人目につくように持ち出したのはなぜか、番犬を殺したのは顔見知りの人間としか思えないが、薬子自身なのか、その理由は、などの疑問が浮かんできて、なかなか面白い謎解きミステリになりそうなのだが、上述の通り、殺人事件のほうはほったらかしにされて(無論、作中の警察によって捜査は続いており、等々力警部も出てくるが、全然活躍させてもらえない)、以後、怪物多門の毒牙にかかった女性たち、すなわち「迷路の花嫁」をめぐる松原と多門の死闘が描かれる。

 殺人の謎はどうなっちゃったの、と思っていると、ようやく半ばすぎたところで、警察の捜査会議が始まる。奈津女は薬子と直衛の娘であるという爆弾発言が放り込まれて、突然、あの複雑怪奇な血の縁が絡まりあう「横溝正史劇場」が開幕するので[x]、おおっ、来たぞ、と思うが、事件の真相に決定的に作用するというほどでもないので、どうも作者は、こういった何重にも入り組んだ血縁関係を考えるのが、ただ好きなだけではないかという気がしてくる。

 そういえば、本書は金田一耕助シリーズの一編なのだが、肝心の名探偵は、忘れたころに姿を現わすと、思わせぶりなセリフを吐いて、また去っていく。ちっとも仕事をしないので、不精なことこの上ない。

 ただ、一応ミステリらしい伏線はそこそこ張られていて、前半のある個所で、本堂と松原が出会って別れた後、その様子を隠れて見守っていた河村を、松原がからかう場面がある[xi]。何かありそうと思っていると、あとのほうで、河村が実は本堂のスパイだったことが明かされる[xii]。横溝らしい細かい伏線が楽しい。

 それと、と、ついでに言うことではないのだが、本書には、ひとつ大きなトリックが仕掛けられていて、意外な犯人のそれである。意外な、といっても、最後まで読むと、あまり意外ではないのだが・・・。つまり物語が進行して、松原と多門ないし薬子の間に何かしら因縁があることがわかってくるので、結局、松原が犯人なのだが、真相が自然と割れてくる展開なのだ。

 しかし、最初の薬子殺害事件では松原は発見者であるから、すなわち「発見者=犯人」というアイディアなのである。この型の犯人ではアガサ・クリスティの長編が有名である(注で作品名を挙げます)[xiii]。明らかに、同作品を下敷きにしていると思われるが、このクリスティ長編には、ひとつ問題点が指摘されていたと記憶する(注で書きます)[xiv]。本書は、その点について抜かりはなく、松原は本堂や警官とともに死体を発見して、当然のごとく、おおいに驚愕してみせる。犯人が現場に戻ってこなければならなかった理由も一応用意されていて、松原の内面描写にも目立った不自然さはない(冒頭、戦後の東京の風景に感慨を抱きながら歩く場面は、殺人直後の犯人にしては、のんきすぎるとは思う[xv])。

 かなり思い切ったトリックを仕掛けているのだが、上記のとおり、ストーリーの流れで段々と松原に何か隠し事があるとわかってくるので、せっかくのトリックがあまり活かされていない。それに金田一の解説では、松原は、薬子に殺されたすみ江の死体を運び出して隠したと説明されるのだが[xvi]、この冷静さは、殺人後に指紋のついた凶器のナイフを残して慌てて逃げ出した行動と釣り合っていない。(ただし、死体の隠匿は、薬子を殺害する前に行われた可能性もある。しかし、松原が着いた時には、女中は殺されていたとすれば、薬子がその後も当初計画していたお芝居を続けるとは思えない。薬子が松原に背中に刺し傷をつけるよう頼んだとすれば、それは、自分も被害者であると装うことで、女中殺しの罪を免れるためだったと考えるほうが理に適う。そして、その場合、松原に女中の死体を隠すよう依頼することはなさそうだ。しかしまあ、金田一の解説は詳細にわたってはいないので、この辺の経緯は、よくわからない。)

 被害者の薬子の行動も不可解で、そもそも自分の体に傷をつけようと思った理由が今一つはっきりしない。奇跡を見せようとしたというのはどういう意味か[xvii]。思いがけなくすみ江が早く帰ってきたので殺してしまったとか、飼い犬が邪魔だったので殺してしまったとか、あまりにも行動が異常すぎて、果たして説明になっているのか[xviii]。被害者の不自然な行為やそれらに関する説明不足が目に付くのは、やはり新聞連載ということで、少々論理の組み立てに甘さが出たようである。

 ただ、改めて、金田一ものとしてみると、過去の長編には見られなかった大きな特質がみてとれる。仕事をしていないと書いたが、ある意味で、本書ほど、金田一が事件に対して優位に立っている作品はない。要所々々で松原の前に現れ、遠回しに情報を提供して、次の行動の指針を示す[xix]。事件を最終的に決着させた山村多恵子を巧みに誘導して、未来の行動に決意を促す暗示ときっかけを与えている[xx]。多門など目ではない、事件の裏で糸を引くラスボス感が半端ない。

 恐らく、金田一はかなり早い段階、恭子が現場から持ち出した凶器のナイフを入手するよりも、はるか以前に犯人を突き止めており、そのうえで意図して泳がしていたのだろう。松原が本懐を遂げるまで、その行動を見守っていたと思われる。『獄門島』や『八つ墓村』では翻弄されっぱなしだった金田一だが、本作において、ついに彼は事件を完全に掌握し、人々を動かして望む結末に導く超越的な地位についた。なにしろ、松原が多門の襲撃にあって人事不省になるやいなや、待ってましたとばかりに指紋を採取する周到さである(みんな、引いてますよ[xxi])。『迷路の花嫁』は、名探偵金田一の底の知れない智略と謀略が読者の前に露わになった記憶すべき作品であるといえるだろう。

 本書こそ、金田一耕助の最高にして最大の事件なのである。

 

[i] 実際は、江戸川乱歩の中絶作『悪霊』の冒頭部分をなぞる、あるいはパロディ化しているそうだ。『悪霊』は一応読んでいるはずだが、今手元にない。あらすじを検索してみると、どうやら本当らしい。

[ii] 島崎 博編「横溝正史書誌」『本陣殺人事件・獄門島』(『別冊幻影城』創刊号、1975年9月)、333頁。

[iii] 同、336、338頁。その後も新版が繰り返し出ている。

[iv] 『迷路の花嫁』(『横溝正史長編全集19』、春陽文庫、1975年)。

[v] 『迷路の花嫁』(角川文庫、1976年)、375頁。

[vi]横溝正史書誌」、318頁。

[vii] 詳しくは、『蝶々殺人事件』(『由利・三津木探偵小説集成4』、柏書房、2019年)、「編者解説」(日下三蔵)、533頁。

[viii] 「女王蜂」など。

[ix] 4月から9月にかけて掲載されたらしい。(ダ・ヴィンチ特別編集)『金田一耕助 The Complete』(メディアファクトリー、2004年)、「発表年代順による作品番号リスト」㉒。

[x] 『迷路の花嫁』(角川文庫)、232-40頁。

[xi] 同、107-108頁。

[xii] 同、307頁。

[xiii] アガサ・クリスティ『シタフォードの秘密』(1931年)。

[xiv] 殺人犯人が殺人後に被害者宅を訪れ、何度もベルを鳴らして返事を待つ。まわりに誰もいないのに、見られているかのようにふるまうのは、「読者に対して」芝居をしていることになって、不自然ではないかというもの。

[xv] 『迷路の花嫁』(角川文庫)、5頁。

[xvi] 同、369頁。

[xvii] 同、366-67頁。

[xviii] 同、368頁。

[xix] 同、276頁。

[xx] 同、276、279、281、283頁。

[xxi] 同、363頁。

横溝正史『三つ首塔』

(本書の犯人等のほか、『八つ墓村』、『犬神家の一族』、『女王蜂』、「妖説血屋敷」、「七つの仮面」等の内容に触れています。)

 

 私はとうとう三つ首塔をはるかにのぞむ、たそがれ峠までたどりついた[i]

 

 本書の書き出しだが、角川文庫版では236頁にも、まったく同じ文章が登場する。物語は、主人公宮本音禰の上記の述懐から始まり、すぐに回想に移って、事件の発端から語り直される構成である。冒頭の文章が繰り返されて最後のクライマックスに突入するのだが、山場となる第二部の始まりを意図的に小説の頭にもってくる語りの手法は、なかなか技巧的で劇的な演出といえる。

 続くシーンも劇的で、男連れの主人公は、いきなり、お相手の高頭五郎に縋りつくと「私を捨てないで」と哀願するが、キスされると、すぐその気になってしまう(?)。どんなアバズレかと思っていると(なんか、言い方がアレだが)、回想に入ったら途端に、わたくし、つつましく花嫁修業などしていましたの、と箱入り娘を強調するので、どこがどうすれば、ここまで落ちぶれるのか。すっかり横溝の手管に乗せられて、読まずにいられなくなる。

 うら若い美女の一人称手記とか、男性作家の正史が随分思い切ったものだが、翌年にも短編ながら「七つの仮面」[ii]を女性一人称の手記の形式で書いている。戦前にも、「妖説血屋敷」(1936年)がある。また一人称小説ではないが、女性主人公の家庭小説として、戦前から戦中にかけて『雪割草』(1941年)[iii]という大長編がある。時代も異なるので、『三つ首塔』とは似ても似つかぬ品の良さだが、ヒロインが運命に翻弄される波乱万丈の物語は共通している。

 といっても、『三つ首塔』の音禰-ところで、「音禰(おとね)」という名前は、わりとオーソドックスな名の多い横溝的女性主人公としては珍しい響きだが(意外に今風?)、どこから取ってきたのだろう。「乙女(おとめ)」から?-は、最初から、いきなり怪しげな快男児(形容が矛盾しているか)高頭五郎に襲われて無理やり関係を持たされる。横溝作品でも、一番ひどい目に合わされるといっても過言ではないヒロインだが、その後も繰り返し男に呼び出されて、いやいや体の関係を続けるうちに、いつの間にか良くなってしまうという同人誌的展開となる(いや、薄い本とか、私はそんなもの知りませんよ。知りませんとも!)。けっこう現代的な主人公で、時代の先を読む横溝の先見性はさすがである。

 そんなわけで、『三つ首塔』は、いわゆる横溝正史のエロ・グロB級スリラーの位置づけ[iv]だが、同時期の『幽霊男』(1954年)や『吸血蛾』(1955年)が、エロティックでグロテスクといっても、あくまで謎解き小説の型を守っていたのに対し、本書は、前年に連載された『迷路の花嫁』(1954年)に続き、トリックや犯人探しより、スリリングなシーンと場面転換の速さで繋ぐ読み本仕立ての冒険ロマンという趣きである。

 同時に、それまでの様々な横溝作品の特徴が色々と現れている、いやむしろ、既成作品の(焼き直しといってしまうのも酷なので)奏でるこだまがそこここに響いている。一人称の伝奇ミステリといえば、男女の違いはあれど、『八つ墓村』(1949-51年)が直ちに思いつく。遺産相続が犯罪動機となるところも一緒だが、遺産相続とくれば『犬神家の一族』(1950-51年)である。もっとも、金銭的動機と見せかけて、実は愛情による殺人という解決が、いかにも横溝らしいのだが、これも『八つ墓』や『犬神』と共通する。『三つ首塔』でも、一番大きなミステリ的技巧はここで、遺産相続が動機と考えていると、思いもよらぬ意外な犯人が明らかになる(上記の横溝作品を読んでいれば、意外でもない?)。この犯人と音禰との関係は、また、『女王蜂』(1951-52年)に類似しており、老いらくの恋というか、(実際は、そうではないが)近親相姦的な危ない愛情が事件の引き金になる。そこもまた横溝らしい。

 他方、一人称小説ということは、当然「記述者=犯人」という結末が、ミステリを多少とも読みなれた読者には浮かぶはずで、ということは『八つ墓村』より、むしろもうひとつの一人称小説(注で書名を挙げます。いや、挙げる必要もないか)のほうを連想するかもしれない。とくに、本書は、『八つ墓』のように主人公の手記の前に作者の「まえがき」が置かれるわけではないので、なおさらである(音禰の手記に嘘はない、とは誰も保証していない)。まあ、いきなり奪われてしまった音禰を疑ったりしては気の毒であるが、横溝作品では(いや、ミステリなら、大抵そうだが)、きれいな女性にうかつに心を許してはならない。女は怖いのだ(女性の皆さん、すいません)。

 そこで、本書の真犯人は音禰なのか、改めて考えてみよう(どういう話の振り方だ)。すると問題になるのは、当然、音禰が見たという、横溝作品でも他に例のない奇怪な幻覚(?)の件である。地下の穴倉から救出された音禰と五郎がいっとき地面に寝かされている間に、炭焼き窯から這い出てきた古坂史郎と佐竹由香利が真田紐で音禰の首を締めようとしたという幻影[v]。というより、二人の幽霊が音禰を殺そうとした超常現象だというのだが[vi]、これはもちろん真実ではない。こんな怪談まがいの出来事が現実にあるはずがない。という以上に、このようなオカルトで非論理的な手がかりなど、パズル・ミステリにあってはならないのだ(メタです)。いうまでもなく音禰のつくり話である。

 そして、この話が音禰の嘘であるならば、史郎と由香利の死体とともに発見されたシガレット・ケースを埋めておいたのも彼女である。ケースが誰のものか、うっかり(うっかり?)口にしてしまったのも音禰だったことを忘れてはならない(これって、決定的でしょ)[vii]。いやはや、女性は怖い・・・。自分の幸福のためには、他に誰を犠牲にしようとも悔いない。高頭五郎君、いやさ、俊作君、手玉に取られたのは、どうも君のほうらしいよ!そういう女性は、でも、嫌いじゃない。なにしろ美人だし。素敵ですよ、音禰さん。結婚してください(錯乱してきたようだ)。

 我に返ると、上に挙げた二短編、「妖説血屋敷」も「七つの仮面」も、実は「記述者=犯人」の小説である。薄幸の、さらに美女の殺人鬼というのは、ある意味定番でもある。もしや音禰も、と考えるのは、決して下衆の勘繰りではない。

 それにしても、最初に人生のどん底に突き落とされて、そのあと、本当に穴に落とされたにもかかわらず、最後は愛する男性と幸福をつかんだ横溝作品でも屈指のヒロインである宮本音禰(しかし、いきなり力づくで、いたしてしまう五郎、いやさ、俊作は、やはり、とんでもない鬼畜だと思うのだが。そもそも犯罪だし)。描いた横溝は、当時53歳。どういう心境だったのでしょうね。それに、本書の公式(?)の犯人は還暦を過ぎた61歳[viii]。こちらも、横溝作品では屈指の高齢者犯人である(これも時代を先取りしているのか)。「老いらくの恋」といったが、現在ならそれほどでもないが、昭和30年当時は、結構ショッキングな犯人だったかもしれない[ix]

 ところで、執筆時に横溝が53歳だったということは、8歳年長の江戸川乱歩は、ちょうど還暦を迎えて、前年(昭和29年)盛大に祝賀会を開いていた。横溝夫妻も出席している[x]

 おやおや、本書の犯人のモデルは乱歩でしたか。

 

乱歩「横溝君。ぼくが犯人とはひどいよ。」

正史「乱歩さん[xi]、それは誤解でっせ。この本の犯人は、オツムはふさふさですさかい[xii]。」

 

 そんな失礼なこと言わないか。(関西言葉はよくわからないので、何分、ご容赦願います。)

 しかし、そのせいでか、二年後、乱歩が『宝石』の編集を引き受けたとき、長編連載の依頼を、正史が断ることはなかった。こうして生まれたのが名作『悪魔の手毬唄』(1957-59年)である[xiii]

 

 その辺にして、まとめに入ろう。

 『三つ首塔』は、「エロ・グロ」路線の風俗ミステリという印象だが、根本は、横溝作品ならではの、過去が現在に影を落とす秘密と冒険の伝奇ロマンであり、その無類の面白さから人気のほども不思議ではない[xiv]。凝った映画的演出や清々しい後味も含めて、代表作の列に加えて不足のない作品といえるだろう。

 

(追記)

 本文で、音禰の手記が真実とは限らない、と書いたが、実は、金田一がお墨付きを与えていたことに、再読して気がついた。

 「法然和尚」の章で、音禰嬢は、突然、事件はもう終わっています、と、わたしたち(読者)に向かって宣言する。最後まで書くのは、金田一耕助氏(さすがに、それまでのように呼び捨てにはしていない)にそう言われたからです、と[xv]

 『八つ墓村』の寺田辰弥は、事件後、金田一に促されて、ようやく手記を書き始めるのだが、音禰は自分から筆を取っていて、高頭五郎の悪口などを散々書きちらかしていた。事件が終結して、もう続きを書く気はなかったのに、金田一が「あのひとにも悪いではありませんか」と言うから[xvi]、仕方なく書くんです、とおっしゃるのだが、「あのひと」とは、誰かな?焦らしますね、音禰さん。金田一も、なかなか商売が上手い。

 それにしても、『夜歩く』に『八つ墓村』、そして本書と、金田一は、どうして、やたらと関係者に手記を書かせたがるのか。出版社の回し者か(横溝正史が書きやすくなるだろうという親切心なのか)。

 しかし、音禰の手記がすべて真実である保証は、依然として、ない。犯人は自白していないし、それと特定できるような推理も示されていない。物的証拠となるのは、音禰=俊作コンビ-この二人が信用できないことは、言うまでもない-が証言(シガレット・ケース)、もしくは提供(ボタン[xvii])したものだけである。金田一が、犯人のあとを追跡していただろうって[xviii]金田一など、当てにならん(暴言だあ)。

 

[i] 『三つ首塔』(角川文庫、1972年)、3頁。

[ii] 実際は、1948年の「聖女の首」が原型。

[iii] 『雪割草』(戎光祥出版、2018年)。

[iv] 大坪直行の解説からして、そういう評価だった。『三つ首塔』(角川文庫)、347頁。

[v] 『三つ首塔』、300-305頁。枚数の関係で、合理的な結末をつけられなかった、という話は有名らしい。『僕たちの好きな金田一耕助』(『別冊宝島1375号』、2007年)、62頁。しかし、枚数のせいで、というのは言い訳っぽい(『八つ墓村』などは、単純で見事な手がかりを考案している)。上手い手がかりが思いつかなかったというのが、本当のところだったのではないだろうか。

[vi] 『三つ首塔』、329頁。

[vii] 同、330頁。

[viii] 同、12-13頁。

[ix] 本書冒頭の記述では、昭和30年は「去年」と書かれている!?つまり音禰が手記を書いているのは、昭和31年のようなのだ。本書の連載は30年で完結しているはずだが・・・。音禰は未来からやってきた「時をかける(元)少女」だったのか!同、7頁。

[x] 江戸川乱歩『探偵小説四十年(下)』(光文社、2006年)、494頁。実際に、作中の還暦祝賀会の模様は乱歩のそれをモデルにしている、と中島河太郎が書いていた記憶がある。

[xi] 実際は、ある時期から、正史は乱歩のことを「乱歩さん」とは呼ばなくなったらしい。横溝正史「探偵小説昔話 2 乱歩と稚児の草紙」『探偵小説昔話』(講談社、1975年)、12頁。

[xii] 実際は、犯人の頭髪に関する描写は、作中には見当たらないようだ。江戸川乱歩「薄毛の弁」『奇譚/獏の言葉』(講談社、1988年)、18-20頁、『探偵小説四十年(上)』(光文社、2006年)、535-36頁、横溝正史「探偵小説昔話 6 浜尾四郎と春本」『探偵小説昔話』、23-24頁等を参照(参照してどうするんだという話ではあるが)。

[xiii] 江戸川乱歩「『宝石』編集の一年」『うつし世は夢』(講談社、1987年)、225-26頁を参照。

[xiv] 横溝正史「私のベスト10」『真説金田一耕助』(毎日新聞社、1977年)、98頁参照。本書の人気は、最初の「横溝正史全集」(講談社、1970年)に収録されたことも大きかったように思われる(第9巻が『三つ首塔』。『悪魔の寵児』を併録)。同全集には、『夜歩く』や『びっくり箱殺人事件』は選定されなかった。

[xv] 『三つ首塔』、247-48頁。

[xvi] 同、248頁。

[xvii] 同、342頁。

[xviii] 同、283、334頁。

横溝正史『悪魔の寵児』

(本書の内容のほか、戸川昌子猟人日記』の内容に触れていますので、ご注意ください。)

 

 都筑道夫の『二十世紀のツヅキです 1986-1993』というエッセイ集を読んでいたら、昔、『妖奇』という雑誌に、男と性行為を行った女が、別の女を殺して、その膣内に男から取った精液を注入し罪を着せる小説が載った。批評家の顰蹙を買ったが、その後、別の作家が同じトリックを用いたときには、ほとんど問題にならなかった、という話を書いていた[i]

 おやおや、と思ったのは、この「別の作家」というのが明らかに横溝正史で、作品もすぐにピンときた。本書『悪魔の寵児』(1959-60年)である。同じトリックを扱った探偵小説がすでにあったとは初耳だったが、横溝の本書に「眉をひそめるひとは少かった」[ii]というのは、伝え聞いていた話とだいぶ違うな、と感じたのである。

 ところが、さらに驚いたのは、少し後のほうで、都筑が、もう一度その話を振り返っていて、別の作家の別の作品とは、戸川昌子の『猟人日記』(1963年)だというのである[iii]。『猟人日記』は読んでいたはずだが、トリックが『悪魔の寵児』と共通していたことは、まったく覚えていなかった。しかも、同一のトリックを使用した作家が三人もいたとは・・・。

 いずれにしても、上記のトリックに象徴されるように、『悪魔の寵児』は、「性的犯罪」あるいは「性的関係」が主題になっていて、そのためか、評判はすこぶるよろしくなかった。「最低の悪作」で「大横溝の名を汚す以外の何ものでもない」[iv]という、仁賀克維の批評が代表である。角川文庫版の解説を書いている大坪直行は、こうした連載当時の手厳しい評価を紹介したうえで、こうした酷評に横溝も悩み、自己嫌悪を感じていたと打ち明けている[v]。一方で、しかし、そうした悪評は誤りだと反論、本書の本質は草双紙趣味と現代風俗を組み合わせたところにあるとして、(「解説」だから当然のごとく)高く評価した。

 同様のことは『僕たちの好きな金田一耕助』においても主張されていて、「ミスディレクションを活用した犯人の意外性と、トリックの先進性」に優れた「まだまだホメ足りない秀作」だと賞賛している[vi]。以上の近年の再評価によって、そして、もちろん横溝の名声のおかげもあって、『悪魔の寵児』は、面白いミステリとして多くの読者を獲得しているようだ。

 しかし、まあ、あまり上品とは言いかねるのも確かである。上記のトリックのみならず、そもそも、怪奇「雨男」(これが作中の怪人の自称)によって次々に殺害される女たちが、いずれも男の死体や人形と全裸で抱き合うなど、あられもない姿(などという表現では足りないが)で発見される。『幽霊男』(1954年)や『吸血蛾』(1955年)などと同工異曲、いや、それ以上に、お下劣で、いささか辟易させられる。お高くとまるつもりはないが、横溝作品の中でも、断トツにエグい小説であることは否定できない。

 ただ、『幽霊男』や『吸血蛾』と比べて、微妙な相違があるとも感じる。昭和20年代のエロ(ティック)・グロ(テスク)通俗スリラーに顕著だった見世物小屋的な非日常性、ないしは江戸川乱歩風の(よい意味でも悪い意味でも)子どもらしさが薄まって、もっと現実的な、といってしまうと、『悪魔の寵児』が現実的か?と詰め寄られそうだが、トリッキーな探偵小説から現代的な犯罪を描く推理小説に一歩踏み出した印象である。

 本書の殺人には、例によって横溝作品に欠かせない共犯トリックが使われているが、他には綱渡り的な奇術トリックは出てこない。新しいアイディアが浮かんでこなくなったということもあるかもしれないが、人間消失とか密室犯罪のような手品は使われていない。全体のストーリーは、犯罪そのものよりも、むしろ、犯罪を通して、水上三太と風間欣吾の二人の主役の間の「対抗関係」を描くことに主軸が置かれている。水上は風間を疑い[vii]、風間も水上に不信感を抱く[viii]。そこに金田一耕助が絡んで、いってみれば、本書は彼ら三人の対立と共闘を描く物語で、被害者となる女たちは、水上と風間の間でヒロイン役を務める石川早苗も含めて、案外、影が薄い。三人の男のうち、とりわけ水上三太は、三津木俊介や多門修とも、また違ったキャラクターで、お坊ちゃんタイプでありながら頭もきれる[ix]。エロティックでグロテスクな死体凌辱殺人の演出に幻惑されるが、水上の心情と行動に即して読んでいくと、雰囲気は意外にハードボイルド・ミステリ風である。

 この変化が何に起因するものかを考えると、時系列的に、前記『幽霊男』、『吸血蛾』と『悪魔の寵児』の間に来るのが、二木悦子の『猫は知っていた』(1957年)と松本清張の『点と線』(1958年)である。タイプは異なるが、どちらも新時代を切り開いた歴史的作品であり、共通するのは日常性と現実感だろう。これら諸作に比べれば、昭和20年代のミステリが大時代で非現実なことは認めざるを得ない。20年代を代表する作家横溝正史も、『猫は知っていた』や『点と線』のなかに、来るべき推理小説の時代の予兆を感じ取っていたのだろうか。『悪魔の寵児』と同時期に連載していた、こちらは代表作と自他ともに認める『悪魔の手毬唄』(1957-59年)にしても、傾向は違えども、やはり現実的な犯罪を描く方向に向かっていた。「顔のない死体」の大掛かりなトリックが演じられるのは23年前の事件においてであって、現在(1955年)の事件は、見立て殺人の装飾を除けば、あまり奇抜過ぎない、それ自体は平凡な殺人である。

 その意味では、トリックが枯渇したというより、トリックに頼らずに、現代的な小道具(精液を詰めた注射器や麻薬など)を駆使して犯罪を描く「推理小説的探偵小説」というのが本書におけるテーマであったのかもしれない。

 全編にわたって雨が降り続き、じくじくとした憂鬱な気分が、作中で描かれる事件の陰湿さと、おぞましさとを倍増させる。もちろん、それが作者の狙いなのだが、それだけに、等々力警部とともに、金田一と水上が風間を迎えるラスト・シーンは、梅雨明けのからりと晴れた空を感じさせて(実際は、すでに九月になっているのだが)、陰と陽の鮮やかな対照が清々しい。

 

 ちなみに、本書の事件が始まるのは、昭和33年6月18日[x]。連載開始が『面白倶楽部』の昭和33年7月号だから、ほぼ現在進行形の事件として始まっていることになる。はなはだメタ的だが、一体作者は、日月堂に雨男がやってくることを、どうやって知ったのだろう。最初の事件が起こったのは6月28日だが、この時点では、まだ事件は公けになっていないし、金田一も、依頼さえ受けていない。

 ちなみに、冒頭に出てくる「心中挨拶状」[xi]は、実話に基づいているらしい[xii]。『横溝正史読本』の小林信彦との対談を読んで、そのことを知ったとき、もう、とうに過ぎたこととはいえ、小説に書いちゃって大丈夫だったの、と思った。それと、雨男が本屋で挨拶状を注文する場面で、体格が五尺六寸のがっちりした男[xiii]と形容されている。一方、犯人はというと、五尺四寸で華奢[xiv]と書かれているのだ(共犯者は、もっと小柄のはず。多分)。最初に出てきたこいつは、一体誰なのだ?(風間と水上はふたりとも五尺七寸の大柄と説明されている[xv]。)最後の謎解きで、金田一は、雨男の扮装はしごく便利にできていて、「身長の二寸や三寸」[xvi]は、どうにでもなったのです、などと言うが、「がっちりした」体格は、肩パッドでも入れていたということですか?登場人物の身長体形を細かく書いておいてこれでは、なんか釈然としませんが・・・。

 それでも、本書の犯人は、なかなか思い切った設定になっている。モルヒネ等の過剰投与によって中枢神経を侵され心身喪失している、そう診断された人物[xvii]が犯人というのは、相当に大胆な着想である。『僕たちの好きな金田一耕助』で指摘されている「犯人の意外性」も、この点を指しているのだろう。「偶発性精神分裂症に起因する突発的自己喪失症」[xviii]という病名まで出てくるのだが、まさか適当にでっち上げたのではないだろう。医療関係者に取材したのだろうか。要するに佯狂(という言葉が適切かわからないが)の犯人ということになるが、そんな仮病の演技は不可能です、と医学界から異論はなかったのだろうか(そこまで評判にはならなかったのか)。

 この犯人像で連想したのは、アガサ・クリスティの某長編(注で書名を挙げます[xix])だが、あちらは、記憶喪失を装うというアイディアだった。本書の麻薬による記憶の混濁を装うトリックは現実に可能なのだろうか。取材型の作家とも思えない横溝にしては、随分挑戦的なアイディアに思える。恐らく、岡山もののような(力の入った、もしくは真面目に取り組んだ?)小説なら、使用していなかったのではなかろうか。

 そう考えると、横溝の実験的作品は、『幽霊男』などもそうだが、むしろ軽く扱われているB級猟奇スリラーのほうに見出せる気がしなくもない。「発表時期が早かったのかも知れない」[xx]とは、大坪の言葉だが、意味は多少異なっても、この指摘は正しかったようだ。

 

[i] 都筑道夫『二十世紀のツヅキです 1986-1993』(フリースタイル、2023年)、「『妖奇』の時代」、387頁。

[ii] 同。

[iii] 同、「時の流れ」、465-66頁。

[iv] 仁賀克維「横溝正史論」(1962年)『幻影城 横溝正史の世界』(5月増刊号、1976年)、77頁。

[v] 『悪魔の寵児』(角川文庫、1974年)、「解説」、372頁。

[vi] 『僕たちの好きな金田一耕助』(宝島社、2007年)、99頁。

[vii] 『悪魔の寵児』、61-62頁。

[viii] 同、247-48頁。

[ix] 同、54-55頁の、はがきに関する推理などは、なかなかである。

[x] 同、3頁。

[xi] 同、20頁。

[xii] 小林信彦編『横溝正史読本』(角川書店、1976年)、27頁。

[xiii] 『悪魔の寵児』、5頁。

[xiv] 同、52頁。

[xv] 同、10、35頁。

[xvi] 同、367頁。

[xvii] 同、207頁。

[xviii] 同、218頁。

[xix] アガサ・クリスティ『秘密機関』(1921年)。

[xx] 『悪魔の寵児』、「解説」、375頁。

江戸川乱歩『妖虫』

(本書のほか、『蜘蛛男』の犯人について触れています。また、横溝正史の某短編小説についても同様ですので、ご注意ください。)

 

 昭和8年12月から翌年11月まで『キング』誌上で連載された『妖虫』(1933-34年)は、第二回目の(に、二回目!?)休筆期間を経て、江戸川乱歩が再び探偵小説文壇に戻ってきた記念すべき「第二作」である。

 では、復帰第一作は?そう、もちろん『悪霊』である。

 同長編は、『新青年昭和8年11月号から華々しい宣伝文句に飾られて連載開始し、しかし、わずか三か月で敢え無く玉砕した。

 そして『悪霊』といえば、そう!言わずとしれた、横溝正史による「乱歩罵倒事件」である。

 「二年間の休養を経て書きだした近頃の作品は、一体何というざまだ」、「一先ず仕事のしめくくりはついたから、あとはどんな仕事をしてもよかろうというのじゃお話にならない」、「[今書きかけている四つの長篇を、]全部あやまってもう一度休養に入るべきだ」、「それよりほかに救われる道はないと思う」[i]

 わざわざ全文を自著に再録した乱歩であったが、正史に気を使ってか(あるいは自らを慰めてか)「酔余の一筆」[ii]であったろう、と付け加えている。が、それにしてはテンポがよい。酔っぱらって書いたとは思えないリズミにのった名文で、タンカの切り具合など、さすが横溝正史である(?)。乱歩にしても、弟分の横溝からケチョンケチョンにいわれて、無論面白くなかっただろうが、しかし、それはそれとして、あまりに痛快な罵倒文なので、半ば感心して全文を再現したのではないか。反面、戦後になっても、結構ネチネチと根に持っていたらしい様子も文章からうかがえる[iii]中井英夫は、「江戸川乱歩全集」解説で、この弾劾文の一件を、乱歩と正史の友情を越えた絆の物語として、はなはだ感動的に描いているが[iv]、乱歩も正史も(そして中井も)既にいない今、一読者の無責任な感想を述べれば、まさに日本ミステリ史に歴然として輝く名場面のひとつであろう。

 「ところで、横溝君が『あとはどんな仕事をしてもよかろうというんじゃあ』と書いた他の三つの仕事」[v]と乱歩が続けて記している、そのなかに『妖虫』が含まれていることは言うまでもない[vi]。これら三長編は、確かに毎度おなじみの猟奇スリラーで、乱歩本人も「本格ものでは却って困るのだし、(中略)実をいうと全体としての一貫性なんかはどうでも」[vii]よかったと、よく読むと、とんでもないことを書いている。後年、大内茂男も、こうした自己評価を踏まえてか、「『魔術師』や『黄金仮面』にみられたような通俗チャンバラ小説に対する一種の情熱はもはや見られず、どうも惰性で毎月毎月をつないでいった」と断じたうえ、「終回近くなるまで、乱歩のほうでも誰を犯人にするか、はっきりした見通しをもっていなかったのかも知れないのだが」と、通俗スリラーのなかでもさらに下方評価している[viii]

 しかし、上記の自嘲自戒の言葉とは裏腹に、別の機会に本作について語っているのを読むと、「真犯人と動機はちょっと珍しい着想であった」[ix]と、結構自慢気なのである。大内の言うとおり「通俗チャンバラ小説」に対する「情熱」は失せていたかもしれないが、必ずしも「惰性」ばかりではなく、探偵小説の新しいアイディアを盛り込もうとしていたらしいのだ。

 そしてそれは、書き出しの部分を読むと推測がつく。

 冒頭、主人公の相川守と妹の珠子は、珠子の家庭教師である殿村京子とレストランで食事をしている。すると、離れた席の青眼鏡に口髭の怪しい男の口元を見ていた殿村が、メニューの裏に何やら書き留め始める。彼女はリップ・リーディングすなわち読唇術を会得しており、聞こえない会話でも唇の動きから読み取ることができるのだ。そして、青眼鏡の男が語ったのは、恐るべき殺人計画であった。翌夜、問題の谷中天王寺町の空き家に赴いた守青年は、やがて相川家を襲うことになる残虐極まりない事件の渦中へと足を踏み入れることになる。

 上記の展開で、すでに問題なのは、たまたま殿村が盗み読んだ会話が、相川家を狙う悪人たちの計画[x]だったなどという偶然があり得ようはずがない(なんで相川家を狙う怪人たちが、兄妹を前にのんきに歓談しているのだ)。仮に、殿村に会話を読み取らせることまでが計画のうちだとしても、彼女がそうするかは運任せである。殿村が読み取ったと称する話自体が嘘なのだが、青眼鏡の男がもともと無関係な赤の他人だったのかどうかは、わからない。犯人である殿村が説明しないからである。青眼鏡の男も一味だったのか、それとも、まったく無関係の部外者だったのかは、最後まで不明のままである。

 レストランの場面のどこまでが芝居なのかはともかく、乱歩の言う「意外な犯人」とは、この読唇術で犯罪計画を明らかにした人間が犯人だったという着想を指してのことと思われる。リップ・リーディングという言葉を使っているところを見ると[xi]、外国ミステリから借りたネタなのかもしれないが、ちょっと思い当たらない。

 しかし、このアイディア、残念ながら、上記のごとき信じがたい偶然を含んでいるので、殿村が断然怪しくて、しかも、このあと乱歩作品恒例の見え透いたマジック-例えば、回りの者が気付かぬすきに、サソリのおもちゃを放り出して、あれ、あそこにサソリが、とか大騒ぎするトリック-を連発するので、犯人であることが丸わかりになってしまう。もうちょっとアイディアを練って工夫すれば、かなり面白いトリックになったはずだが、そう思うのは、実際に同一の着想によるミステリがあるからである。よく知られているので、もったいぶることもないが、ほかならぬ横溝正史の「鏡の中の女」[xii]である[xiii]

 同作品は、ずっと後の昭和32年(1957年)に書かれたもので、時代の違いを考慮に入れずとも、『妖虫』より、はるかに巧妙に出来ている。上記の不自然な偶然も改良されており、評判もよいようだ[xiv]。しかし、『妖虫』と「鏡の中の女」、読唇術がテーマであるばかりか、犯人の設定も、まったく一緒なのである。金田一耕助とカフェで同席していた女性が、別席の男女の会話をリップ・リーディングで読む。その会話が暗示する殺人が起きるのだが、結局、読唇術の女性が犯人である。『悪霊』以下の諸作(そのなかには本書も含まれる)を、「何というざまだ」とこき下ろしたはずの正史なのに・・・。

 

乱歩:横溝君、あんだけ言っておいて、パクるとはひどいよ。

正史:いや、それは、そのう、乱歩さん。・・・「要注意(ようちゅうい)」ちゅうことで、堪忍しとくれやす。

乱歩:そのトリックは、ぼくが「使用中(しようちゅう)」ちゅうこっちゃな!

(関西言葉は、よくわからないので、何分、ご容赦願います。)

 

 まあ、正史としては、乱歩に敬意を表したつもりなのかもしれない。『妖虫』のこのアイディアに、実は感心していて、上手く扱えば面白くなると考えていたのではないか。

 上述の「あれ、あそこにサソリが」トリックにしても、いわゆる「早業殺人」のトリックとして有名なアイディアで、乱歩ごひいきのジョン・ディクスン・カーもある作品で用いているほどである(『妖虫』のほうが早い。注で作品名を挙げます)[xv]。つまり、トリックの使い方がまずいので(これもひどい言いようだが)、アイディア自体は優れているのである。

 さらに推測を連ねると、これらのアイディアは『悪霊』の構想のなかで生まれたものではなかったか。『新青年』に連載する小説なのだから、あれこれと幾つもトリックや手がかりを考えていたはずである。『妖虫』は、順番からいえば、『黒蜥蜴』や『人間豹』より早く、『悪霊』に次いで連載開始されている。従って、『悪霊』のために考案したトリックの幾つかを本書に投入した可能性は低くはないだろう。

 『黒蜥蜴』、『人間豹』との対比で、もうひとつ浮かんでくる疑問は、本書の探偵が明智小五郎ではないことである。

 三笠竜介という白髭をはやした丸眼鏡の老人で、「サルに洋服を着せたような」[xvi]と形容される、うさん臭さでは『蜘蛛男』の畔柳博士さえ上回る怪人物である(名探偵の紹介じゃないな、こりゃ)。しかも探偵のくせに、自分で作った落とし穴に落とされたり、調子に乗って犯人に見えを切っているところを後ろから刺されたり、どうもデクノボーのジジイ探偵としか思えない。なんで、わざわざ明智ではなく、こんな世界のミステリでも屈指の後期高齢者探偵(年齢は不詳です)をつくったのだろう。

 ひとつ考えられるのは、上記の推論とも重なるが、実は乱歩としては、本書をできるだけ本格探偵小説らしくしたかった。それで、すっかりアクション・ヒーローと化した明智ではなく、新規の探偵を創造したということである。

 いまひとつは、三笠竜介こそ真犯人であると読者に勘違いさせる狙いだったのではないか(『蜘蛛男』方式ですね)。犯人である殿村を隠すためのレッド・へリングということであるが、もしこの推測が正しければ、やはり本書は、案外本格的な謎解き小説として構想されていたのかもしれない。ところが、肝心の『悪霊』が早々に沈没してしまい、そのあおりを食って、本書も、すっかり、いつも通りの「通俗チャンバラ小説」へ堕してしまった。三笠探偵も、年甲斐もなく頑張るお爺ちゃん探偵に成り下がってしまったというわけである。

 乱歩自身が自画自賛している犯人の動機にしても、一見すると、『蜘蛛男』などと代り映えしない殺人淫楽症的無差別殺人だが、もっと切実な人間憎悪と母性とを組み合わせることで、従来の長編探偵ものになかった狂気と情念の犯罪を描きたかったのかもしれない[xvii]

 本書は、例のごとく、冒頭の個所で不用意に「かれ」という代名詞を使用する[xviii]など、粗さが目立つが、読み返すと、そこここに見逃せない創意工夫がある。ひとくちに猟奇スリラーといっても、それぞれの作品には、一作ごとに狙いやこだわりがある。乱歩の長い作家生活のなかで書かれた多くの長編小説を、ひとくくりに通俗ミステリとして片付けるべきではないということだろう。

 

[i] 江戸川乱歩『探偵小説四十年(上)』(光文社、2006年)、571-72頁。

[ii] 同、572頁。

[iii] 「しかし戦争後、横溝君の機嫌のいいとき、彼の方から初めてこの罵倒文について謝意の表明があり、私も水に流したのだから、今では、少しも含むところはないのだが、(中略)横溝君は多少不快かも知れないけれども、(中略)敢えてのせさせて貰うことにする。見出しは『江戸川乱歩へ・・・・・・横溝正史』というので、名前も呼び捨てである。」(同、571頁。)これは1954年の文章である(同、538頁)。「機嫌のいいとき」、「彼の方から初めて」、「水に流した」、「含むところはない」、「敢えて」、「名前も呼び捨て」といった言葉の端々に、いろいろと、ホントにいろいろと思いがにじみ出ているようである。当時、すでに横溝は戦後探偵小説界の巨匠であり、乱歩にしても、もはや弟分ではないという遠慮もあったのだろう。残酷なようだが、乱歩が日本探偵小説界のトップである時代はすでに過ぎ去っていた。戦後も、もちろん売れる作家であることに変わりはなかったが、新時代の探偵小説を牽引したのは、戦前、乱歩フォロワーのひとりに過ぎなかった横溝であった。

 ところで、「謝意の表明」とあるのは、いつのことなのだろうか。乱歩の「探偵小説行脚」(昭和22年)のときだろうか。『探偵小説四十年(下)』(光文社、2006年)、278-80頁、横溝正史「『二重面相』江戸川乱歩」(1965年)『探偵小説五十年』(講談社、1977年)、118-21頁も参照。

[iv] 中井英夫銀と金」(1980年)『地下鉄の与太者たち』(白水社1984年)、109-111頁。

[v] 『探偵小説四十年(上)』、575頁。

[vi] 残りは、『黒蜥蜴』と『人間豹』。

[vii] 『探偵小説四十年(上)』、575頁。

[viii] 大内茂男「華麗なユートピア」(『幻影城増刊 江戸川乱歩の世界』、1975年7月)、226-27頁。

[ix] 江戸川乱歩「乱歩 自作自解 コラージュ」(新保博久・山前 譲編)『謎と魔法の物語』(『江戸川乱歩コレクション・Ⅵ』、河出書房新社、1995年)、351頁。

[x] 『妖虫』(春陽文庫、1972年)、30-31頁。実際は、有名女優の春川月子の殺害事件なのだが、その後に、守は青眼鏡の男から、珠子に対する殺意を聞かされる。同、31頁。

[xi] 同、8頁。

[xii] 横溝正史「鏡の中の女」『金田一耕助の冒険1』(角川文庫、1979年)、89-137頁。

[xiii] ウィキペディア:妖虫。

[xiv] 『僕たちの好きな金田一耕助』(『別冊宝島1375』、宝島社、2007年)、91頁。

[xv] カーター・ディクスン『赤後家の殺人』(1935年)。

[xvi] 『妖虫』、46頁。

[xvii] 同、121頁の「殿村さんはそういって、なぜかニッコリ笑った」という個所などは、あとになって読みかえすと、なかなか凄いというか、気味が悪い。

[xviii] 同、2頁。これを見ると、大内が推測するように、犯人をだれにするか決めていなかったという風にも解釈できる。そんなことはなかったと思うが。

江戸川乱歩『猟奇の果』

(本作の内容について詳しく触れていますので、未読の方は、ご注意ください。)

 

 『猟奇の果』といえば、大内茂男が江戸川乱歩長編小説論「華麗なユートピア」において、「乱歩の長編諸作中でも、最大の珍作である」[i]と評したように、短編小説に比べ評価の低い乱歩長編にあっても、失敗作といえば、(『吸血鬼』か)これ、と必ず名指しされるほどの作品である。作者までが「私の多くの長編の中でも、・・・珍妙な作品である」[ii]と、潔く認めている。

 連載されたのが博文館発行の『文藝倶楽部』で、編集長が横溝正史というのも、今思うと豪華な組み合わせだが、顔がそっくりの別人が方々に現れる、いかにも乱歩が好きそうな怪異譚的発端で始まる探偵小説である。それが、結局、すべて友人のいたずらだったという構想で当初書きはじめたものの、途中で行き詰って、横溝に相談すると、いっそ『蜘蛛男』のようなスリラーにしてください、と提案された[iii]。そこから、人を全く別人に作りかえる「人間改造術」(要するに整形)のアイディアを思いついて、世界征服を企む犯罪組織と明智小五郎が対決する国際スパイ・スリラーへと変貌したのは、誰もが知る「裏話」である。

 乱歩短編によくある、主人公と友人が市井のささやかな謎と出会って、そこから話が発展するご近所小説が、一気に世界規模の謀略小説へ転換とは、あまりにもスケールが違い過ぎるが、その割に登場する悪役が小物っぽいのは、最初の構想時の雰囲気が抜け切れていないからか。いずれにせよ、連載半ばで、こうも作品のあらすじからジャンルまで変えてしまって、なお悠然と書き続ける乱歩もすごいが、この逸話で思い出すのは、手塚治虫の『キャプテンKen』(1960-61年)である。同作品も、主人公の一人二役が途中でほぼばれてしまって、小学生読者相手に意地になった(?)手塚が、当初の構想を無理やり覆すと、同一人物だったのを親子に分けてしまうという無鉄砲な荒業に出た作品であった。キャプテン・ケンの正体について懸賞募集までしたのに、これでは、純真な少年少女たちが、ひねくれやしなかったかと心配でならない。

 本作に戻ると、上記の裏話からもドタバタぶりが伝わってくるが 、大内も褒めている前半部分[iv]は、なかなか面白い。主人公の青木愛之助は、友人の科学雑誌編集者である品川四郎を意外な場所で見かけるが、どうも様子がおかしい。数日後、品川自身から、偶然見た映画のワン・シーンに自分そっくりの人間が映っていたと相談される。どうやら、品川の偽者が、あちこちに出没しているらしいのだが、ついには、その偽の品川が、なんと妻の芳江と逢引きしていることに気づいてしまう。偽品川のあとをつけていくと怪しい屋敷に入っていく。忍び込んだ愛之助は、そこで偽品川と乱闘になるが、あろうことか銃で男を射殺してしまった。その場を逃げ出し、街をさ迷う彼の前に、以前出会ったことのある「お面のような顔」をした不思議な青年[v]が現われる。そのまま謎めいた地下室へと導かれた愛之助を待っていたものは・・・、というところで前半が終了する。

 この前半のラストは、すでにプロットの修正後に書かれたものか定かでないが、とりあえず後半の「白蝙蝠」篇に入ると、いきなり芳江が偽品川にさらわれて、その後彼女のものと思われる片腕が発見される。急に乱歩作品らしい残虐味が強まって、まさに『蜘蛛男』調である。ニュースを聞きつけた品川(偽者と本物の両方!)が警視庁の浪越警部のもとを訪れ、そこから、居合わせた明智小五郎が事件に介入してくるという段取りである。

 ということで後半は、完全に明智小五郎ものの冒険スリラーになるのだが、再読して驚いたことには(いや、驚かなくともいいのだが)、わたしには後半のほうが面白かった。

 登場人物の誰もが本物か偽者かを問われる、唖然とするカオスなミステリになるのである。

 正直なところ、大内や乱歩自身の言もあって、出来損ないのゲテモノ小説としか思っていなかったので、読み返すのは気がすすまなかった。しかし、後半に入ると、やめられなくなって、一気に読破してしまった。そんな私は、どうかしているのでしょうか。

 『黄金仮面』に関する感想で、登場人物の半数は明智か犯人の変装であると冗談で書いたが、本書の場合は冗談ではないのだ。実際に登場する人物の大半が偽者にすり替わる驚天動地のミステリで、なにしろ「人間改造術」というウルトラ設定を種明かしに用意してある。やりたい放題というか、好き勝手というか、誰が偽者でもおかしくない、いや、むしろ本物は誰かを当ててごらん、と、このぶっとんだ設定に乗っかって悪のりした乱歩が、徹底的にこの線で押しまくってくる(そのなかにあって、唯一、偽者が現れないのが浪越警部。端役扱いされているようで、なんとも不憫だ)。

 ことに、明智が、偶然(えっ、偶然!?)発見した品川を尾行して彼の家にたどり着くと、そこにも品川がいる。どちらが本物か、明智が迷っている間に、偽品川がこそこそと部屋を抜け出してしまうあたりは、まるでコメディ映画で、大笑いさせられる。や、それではあいつが偽者であったか、などと叫ぶ明智は、どう見ても迷探偵だ。最後のほうになると、どの明智が本物の明智なのか、作者自身が間違えやしないか気にして書いている風なのが、またおかしい。クライマックスでは、愛之助と芳江夫妻まで、思いもよらぬかたちで登場してくるので、意外性も十分だ(謎解きの意外性ではない)。この調子で、どんどん偽者を出して、もっと長く書いてくれたらよかったのにと思わずにいられない。

 飄々とした語り口の前半も、処女作の「二銭銅貨」あたりにすでに見られたオフ・ビートなテンポで悪くないが、後半の、別な意味でオフ・ビートな感覚が何とも言えない味を出している[vi]。読み終えて思い返すと、(実際は、そんな場面はないのだが)同じ顔の人間がぞろぞろ出てくるシュールな絵面が浮かんできて、まるでフィリップ・K・ディックである。SFや怪奇小説も顔負けの奇想横溢した快作、怪作?いや、会心作だ!支離滅裂?上等じゃないか。一度読めば二度おいしい、でも、二度と見たくない悪夢のような怪奇幻想探偵小説、それが『猟奇の果』だ。

 

 細かいことだが、後半に入ってすぐ、警視総監(この偽者も出てくる)が浪越警部を相手に、愛之助が遭遇した「二人の品川」事件の真相が、実は品川のひとり芝居だった可能性を指摘する[vii]。突然の理路整然とした論理的推理にはびっくりするが、実は明智から聞かされたのだと打ち明ける。ということは、恐らく、この仮説が当初乱歩の考えていた結末なのだろう。これはこれでなんとか成立しそうな謎解きなので、原案通りでも一応結末はつけられたことがわかる。それを、ここで書いたということは、乱歩も内心、当初の解決案を惜しいと思っていたのだろう。しかし、結局、偽の解決になってしまったので、今さら明智にもったいぶって解説させるわけにもいかなくなったというわけであろう。もっとも、明智のこの推理で事件が決着したのでは、本当に予定より短くなって、横溝編集長は困ったことだろう。(その後、戦後すぐに刊行されたという『猟奇の果』の別ヴァージョン[viii]を読んだが、やはり当初の構想どおりの品川を黒幕とする推理が述べられていた。)

 細かいことだが、というか、雑談だが、本作の偽品川は、途中から「幽霊男」と呼ばれるようになる[ix]。最初は地の文だけなのだが、後半になると、上記の警視総監と浪越警部の会話のなかでも「幽霊男」という呼び名が当たり前のように出てくる[x]。つまり、作品世界においても、この一件は「幽霊男事件」と呼ばれているらしいのだ。ついには、「幽霊男」と見出しにまで登場する[xi]。もちろん、本作の連載は、編集長たる横溝の長編小説『幽霊男』(1954年)より遥か昔のことである。横溝の小説のタイトルは、本作の「幽霊男」がサブリミナル効果をもたらしたものだろうか。

 細かいことだが、前半のある個所で「それから一と月ばかり、別段のお話もなく過ぎ去った」[xii]という一文が出てくる。随分雑な文章だなと思ったら、そこから数十ページあとに、また「それから二か月ばかり別段のお話もなく過ぎ去った」[xiii]という文が出てくる。これには呆れてしまったが、ひょっとして、いや、ひょっとしなくとも、わざとなのだろう。普通に読むと、小説家らしくもない杜撰な文章に思えるが、本作に濃厚なオフ・ビート感覚を考えると、意識的であるようだ。乱歩、恐るべし。

 

[i] 大内茂男「華麗なユートピア」『幻影城 江戸川乱歩の世界』(1975年7月増刊号)、221頁。

[ii] 江戸川乱歩「猟奇の果」(1962年)『江戸川乱歩コレクション・Ⅵ 謎と魔法の物語』(新保博久・山前 譲編、河出書房新社、1995年)、339頁。

[iii] 同、340頁。

[iv] 大内前掲論文、221頁。

[v] 『猟奇の果』(角川文庫、1974年)、232頁。

[vi] 例えば、次の一文。「さて、お話の速度を少し早めなければならぬ。同じことをいつまで書いていても際限がないからである」(同、352頁)。なんというスチャラカな文章であろう。

[vii] 同、295-97頁。

[viii] 「『猟奇の果』もうひとつの結末」『孤島の鬼』(『江戸川乱歩全集第4巻』、光文社文庫、2003年)、584-97頁。新保博久による「解説」(647-48頁)も参照。

[ix] 『猟奇の果』(角川文庫)、216頁以降。

[x] 同、293-99頁。

[xi] 同、320頁。

[xii] 同、166頁。

[xiii] 同、207頁。

江戸川乱歩「パノラマ島奇談」

(本作品のほか、江戸川乱歩の短編小説数編について、内容に立ち入っています。)

 

 江戸川乱歩の連載小説といえば、「陰獣」と「パノラマ島奇談」が双璧ということになるだろう。

 いずれも文庫本で100頁を少し越えるくらいの長さで、現代の標準でいえば、どちらも中編小説である。しかし、乱歩自身のとらえ方では、「陰獣」は中編だが、「パノラマ島」は長編だったようだ。自身、そう書いているし、最初の平凡社から出た全集でも、後者は「長編」扱いされている[i]。これは、「陰獣」は三か月にわたって分載されたとはいえ、ひと息に書いて編集に渡したもので、乱歩にとっては書き下ろし小説であったこと。一方、「パノラマ島」は、半年以上連載されて[ii]、締め切りに追われた作者の感覚として長編小説であったことが影響しているのだろう。

 ちなみに両作とも、横溝正史が編集担当だった時代の『新青年』に掲載されており、横溝による回想エッセイも有名である[iii]

 長編か中編かはともかく、本作の特色は、いうまでもなく後半部を占める孤島のパノラマ描写にあるが、作者の回想を読むと、意外なことが書いてある。すなわち、「初めの方の人間入れかわりの個所は面白いにしても、この小説の大部分を占めるパノラマ島の描写が退屈がられたようである」[iv]

 確かに、主人公の人見広介が、自分に瓜二つの菰田源三郎に成り代わろうとする前半のプロットは、乱歩が死ぬほど好きな(?)「変身願望」をリアリスティックに描こうとしたもので、汽船からの投身自殺の偽装、源三郎の墓あばきと遺体の隠蔽、蘇生の偽装等々の詳細な記述には、そのあたりの苦心のあとが滲み出ている。しかし、こうした倒叙形式あるいは犯罪小説的な筋書きは、すでに乱歩短編ではおなじみで、新しいものではない。「恐ろしき錯誤」(1923年)や「心理試験」(1925年)とは傾向が違うとしても、「双生児」(1924年)など、類似の着想の作品はあった。「パノラマ島」の独自性は、明らかに後半の島の描写にあるのだが[v]、異なる時期の回顧でも「書き出しは大いに好評であったが、(中略)編集部でも、終りのほうは余り喜んでもいなかったように思われる」[vi]と記して、編集者だった正史を嘆かせている[vii]。しかし、どうやらこれは照れ隠しだったようだ。後半部は、乱歩本人が楽しんで書いたので[viii]、というか、楽しみすぎたので、勝手気ままな空想を吐き散らしたことに少々気がさしていたのだろう。その証拠に、萩原朔太郎に激賞された逸話については、繰り返し書き留めるほど感激していたのだから[ix]。さすがに朔太郎と正史では、褒められるにしても、有難みに多少の差があったのは、やむを得ない。

 ただ、その目玉となるパノラマ島の人工世界の描写は、確かに乱歩らしい筆が冴えて、この手の小説が好きな読者を虜にする魅惑にあふれているが、計算違いといっては恐れ多いけれど、読んでいると若干の不調和を感じる。要するに、乱歩の少年時代の郷愁でもあるパノラマ館を文章で再現しようとしたものであるのだが、その技術的仕組みを、広介が源三郎の妻千代子に得々と解説する場面[x]と、実際に彼女と二人で体験する幻想空間の描写とが、必ずしも嚙み合っていないように感じる。ガラス張りの海底トンネルから湖水を見下ろす渓谷へ、そこから杉の巨木が立ち並ぶ大森林、そして花園のなかの湯池へと、二人が彷徨する場面は圧巻の描写だが、パノラマからパノラマへと一瞬で移動するかのごとくでは、まるで魔法である。人為的なユートピアというよりファンタジー異世界のようだ。つまり、このパノラマ島が人間の手によって建設可能なアトラクションであると強調したい作者の努力にもかかわらず、描かれているのは人の力を越えた空想世界としか思えない。

 あくまで写実主義的なリアリズムにこだわる作家としての乱歩と、ここではない彼方の異界に魅せられ続けた夢想家の乱歩の二面性がそのまま現われてしまったようだ。

 もちろん、探偵小説である以上、現実に基盤を置かないと、それこそ全体が幻想小説になって、読者を置き去りにしてしまうという意識があったのだろう。ただ、そればかりではないとも思う。つまり、乱歩には、できるものならば、実際にパノラマ島の人工楽園を自ら創造したい願望があって、それがあのくだくだしい解説となってあらわれたものであろう。それこそ財力さえ許せば、多分、郷里の三重県の離島あたりに本物のパノラマを建設していたはずだ。乱歩が夢見る空想の楽園を紙上で設計したのが「パノラマ島」で、従って、それは乱歩にとって実現可能なものでなければならなかった。実際家の乱歩と夢想家の乱歩が折り合える妥協点が「パノラマ島奇談」だったのだろう。乱歩のパノラマ島建設の資金を提供する企業や資産家がいなかったのは、残念なことである。もっとも、ディズニーランドやUSJでは、乱歩の夢見るワンダーランドの実現にはほど遠かっただろうが。

 

 ところで、作中で人見広介が執筆した「RAの話」[xi]という短編小説の「RA」とは何を意味しているのだろうか。てっきり、本作を書くにあたってモデルとしたE・A・ポーの「アルンハイムの地所」(1847年)と「ランダーの別荘」(1848-49年)[xii]の頭文字をとったのかと思ったが、アルンハイム(Arnheim)はいいとして、ランダーはLandorだった。単純にRANPOの最初の二文字だろうか(RAはイニシャルなのか[xiii])。

 RAが乱歩自身のことだとすれば、「パノラマ島奇談」は、作中に乱歩の未完の小説「RAの話」を含む、「陰獣」同様、またしてもメタ・ミステリ的構造をもっていたことになる。

 もう一点、本書は、最後に北見小五郎という探偵が登場して、広介の犯罪を暴くことになっている[xiv]。あからさまに明智小五郎を連想させる名前の探偵だが、実際に、創元推理文庫版の解説を書いた中井英夫は、彼を明智と混同している[xv]。ちゃんと読みなさいよ、と言いたいが、実は北見とは明智の変名なのだ、と中井は解釈しているのかもしれない。そのことに、今気がついた。発表当時、北見小五郎は明智小五郎なのですか、という投書などはなかったのだろうか。乱歩は、この探偵の名前について何も言及していないようだが[xvi]、当時の読者はそうした疑問を抱かなかったのか。本作に明智ではない探偵を登場させる理由は、なんとなく想像がつく。「パノラマ島」の場合、あまりにも作品が空想的過ぎて、明智向きではないし(その後、もっと空想的な長編で活躍するようになるが)、そもそもパノラマ島を描くことが目的の小説に明智が出てくれば、「明智小五郎もの」になってしまう。彼が登場することで、明智が主人公になってしまうだろう。その恐れもあって、別の探偵を創造したものと思われる。

 しかし、そうなると、なぜ明智を連想させる「小五郎」という名前にしたのかが不思議である。やはり北見は明智の変名なのか。それとも考えるのが面倒くさくなって、姓だけ変えて別人であるということにしたのだろうか。なんだかトリヴィアルな謎が残ってしまった。

 

[i] 江戸川乱歩『探偵小説四十年(上)』(光文社、2006年)、235-36、452頁。

[ii] 大正15年10月から翌年4月まで。ただし二回休載して、実際は、10月、11月、昭和2年1月、2月、4月の計五回の連載だったようだ。同、235-36頁。

[iii] 横溝正史「『パノラマ島奇譚』と『陰獣』が出来る話」『探偵小説昔話』(講談社、1975年)、208-35頁。

[iv] 「『パノラマ島奇談』-わが小説」(1962年)『江戸川乱歩コレクションⅥ 謎と魔法の物語 自作に関する解説』(新保博久・山前 譲編、河出文庫、1995年)、64頁。

[v] 「パノラマ島」に類する幻想小説としては、「火星の運河」(1926年)がすでにあったが、やはりスケールが違うというべきだろう。しかし、同短編の執筆が、「パノラマ島」の構想へと発展していった可能性はありそうだ。

[vi] 『探偵小説四十年(上)』、236頁。

[vii] 横溝正史「『二重面相』江戸川乱歩」(1965年)『探偵小説五十年』(講談社、1977年)、125-29頁。

[viii] 『探偵小説四十年(上)』、236頁。

[ix] 同、217、236頁、「『パノラマ島奇談』-わが小説」、64頁。

[x] 「パノラマ島奇談」『日本探偵小説全集2 江戸川乱歩集』(創元推理文庫1984年)、248-54頁。

[xi] 同、277頁。

[xii] 「『パノラマ島奇談』-わが小説」、64頁。

[xiii] 「パノラマ島奇談」、285頁。

[xiv] 同、276頁。

[xv] 同、「解説」、771頁。

[xvi] 『探偵小説四十年(上)』、236頁では、探偵が登場しないほうがよいのだが、と記しているだけで、名前には触れていない。

江戸川乱歩「陰獣」

(「陰獣」の犯人等のほかに、エラリイ・クイーンの『十日間の不思議』のプロットを紹介していますので、未読の方はご注意ください。)

 

 「陰獣」[i]は、言うまでもなく江戸川乱歩全作品中、もっともセンセーションを巻き起こした探偵小説である。

 『探偵小説四十年』の記事[ii]を読むと、その評判の大きさが、乱歩自身が収集した客観的資料(雑誌・新聞等の記事など)からうかがえる。さらに、掲載誌『新青年』の編集長だった横溝正史による回顧エッセイ[iii]が、当時の熱狂的反響を伝えてくれる。恐らく日本ミステリ史上、最大の注目を浴びた作品のひとつだろう。

 ただ、乱歩自身は、その出来栄えに本当の意味で満足してはおらず、それは無論、代表作と自他ともに認めてはいたものの、ミステリの新しい何かを開拓したものではないと考えていたようだ[iv]

 確かに、「陰獣」は、前人未到のトリックがあるわけではなく、乱歩が愛してやまない「一人二役」トリックがメインになっている。作家大江春泥の本名が平田一郎というところが、すでに一人二役であるのだが、作中、随所にこのトリックが顔を出す。その意味では、作者が好む素材を、少し念入りに手を加えて仕上げたというところだろう。

 むしろ特徴的なのは楽屋落ちともとれるアイディアのほうで、上記のとおり、江戸川乱歩本人をモデルにした大江春泥という怪奇幻想派のミステリ作家(平田一郎も、乱歩の本名をもじっている)が、かつて自分を捨てた小山田静子に復讐しようとして、夫の小山田六郎を殺害する。その顛末を、春泥のライヴァル作家であり、静子と出会い、彼女に魅かれていく「わたし」が一人称手記で語るという体裁の中編小説なのだが、春泥の代表作が「屋根裏の遊戯」で「屋根裏の散歩者」のセルフ・パロディであるという風に、全体が作者江戸川乱歩の戯画化になっている。つまりは「作者自身をトリックに使った」[v]、一種のメタ・ミステリである[vi]

 作品の外にいる作者が作中人物に投影されているのだが、作者が作品に登場するミステリ自体は珍しくない。例えば、高木彬光の『能面殺人事件』(1949年)では、作者が探偵役を務めるし、横溝正史の諸作でも、自身が探偵作家として登場して金田一耕助と会話したりする。しかし、作者が作中で暗躍する怪人で主役であるミステリは、なかなかないだろう。作品外の作者が作品内の犯人に扮して、二重に読者に謎をかけるミステリ的技巧ともいえる。乱歩自身は、一種の自己抹殺だったと言うにとどめているが[vii]、とすれば、期せずして生まれた、はなはだ先鋭的な着想だった。

 もうひとつ、今回、数十年ぶりに読み返して気がついた意外な点は、本作のプロットが、エラリイ・クイーンの『十日間の不思議』(1948年)という長編小説に、大変よく似ているということである。

 『十日間の不思議』は、真犯人がエラリイ・クイーンを偽の手がかりで翻弄し、誤った解決に導いて、名探偵を混迷の極に陥れる異色のミステリだが、「陰獣」も、これと同じ、というか、先んじているのである。「わたし」は、小山田邸の天井裏に落ちていた手袋のボタンから小山田六郎が大江春泥その人であったと推論する[viii]が、それが実は真犯人が残した偽の証拠だったのだ。

 真相に気付いた「わたし」は、逆上して犯人を問い詰めると、興奮のあまり鞭さえ振るうのだが(!)、この展開もまったく一緒である。もっとも、我を忘れたエラリイ・クイーンが、『十日間』の犯人を鞭でビシビシ叩いてヒーヒー言わせたりしたら面白い、というか、大爆笑だが、クイーンに日本語が読めていたら、「陰獣」パクリ疑惑が生じていただろう。

 「わたし」は、真犯人の精神も身体も痛めつけておいて、さっさと、その場を立ち去るが、犯人が自殺してしまうと、また迷い始める。どうも間違えたかもしれない、えらいことになった、などと、あとになって悔やむ自己中心的な大馬鹿者だが、この結末も興味深い。最後を曖昧にするのは乱歩の常套的締め括り方で、発表当時はいろいろと批判を浴びたようだ[ix]。ただ、本作の場合、作者がパズル・ミステリと捉えている[x]ところが重要で、犯人当て探偵小説として「陰獣」をみると、このエンディングは、これもまたクイーンのミステリについて巷間言われる「データの真偽判定の不可能性」の問題[xi]を想起させる。

 「わたし」にとって、手袋から落ちたボタンは、真の手がかりなのか、それとも偽物なのか、もはや見極めがつかなくなっている[xii]。しかし、そもそも「陰獣」の場合、最初から作中探偵には、手がかりの真偽の判定は不可能なのだ[xiii]。大江春泥が江戸川乱歩でもある、すなわち作者と犯人が同一人物であるならば、「わたし」にとって、乱歩は高次元の存在であるから、その意思を認識することはできない。「わたし」がいかに完璧な論理で推理を組み立てたとしても、作者である乱歩が手がかりを操作し、情報を上書きして推理を崩壊させることができる。「わたし」が春泥に勝利することは不可能なのだ。

 なんと、「陰獣」は「後期クイーン問題」まで先取りしていたのである。やはり乱歩は、日本が世界に誇るべきミステリ作家だった。これはもう「後期ランポ問題」と言い換えねばなるまい。(乱歩の後期というのは、いつ頃からだろうか。昭和3年以降?ちょっと早すぎるか。しかし、短編の代表作は大正時代にほぼ出尽くしている。昭和3年以降を長編中心時代と考えれば、後期と見なしても、あながち間違いではない。そうなると、前期が大正12年から15年までの四年間、後期が昭和40年の没年まで。後期が前期の約十倍の長さとは、やっぱり桁外れの作家だ。)

 脇道にそれたが、乱歩のミステリ発想力の高さは、これを見てもわかる。『孤島の鬼』(1929-30年)では、やはりクイーンの『〇の〇〇』に先行し、「陰獣」でも『十日間の不思議』に先立つこと二十年。なかなか天晴れである。長編ミステリの傑作を書く構成力と技術力では劣っていたかもしれないが、基本アイディアではパズル小説の巨匠に負けていない[xiv]。「陰獣」が、それを実証している。

 もっとも、個人的には、本作で一番面白いのは、小説の前半、「わたし」の知り合いの雑誌記者が話す、浅草公園の雑踏のなかで道化師の扮装をした大江春泥を見たという挿話である[xv]。チラシを配る、とんがり帽子に白塗りのピエロ、その顔が大江春泥だった・・・。なんとも乱歩らしい、滑稽でとぼけていて、それでいて凄味のあるシーンではないか。この謎が解けるのが「陰獣」のパズル的妙味が頂点に達する瞬間[xvi]でもあるのだが、それ以上に、乱歩ならではの謎の味わいに魅了される。

 一方、「陰獣」には、パズル・ミステリとして十分練られていない部分もあって、何度も引き合いに出すが、手袋のボタンは「わたし」を偽の推理へ誘導する手がかりなのだから、犯人は、それが小山田氏の持ち物であることを「わたし」に気付かせる必要がある。なのに、実際は何もしようとせず、「わたし」が偶然その手掛かりに気づくのを、ただ待っているだけなのである。最後の謎解きで、その矛盾を説明しようとはしているが[xvii]、周到なはずの犯人にしては、この行動は、いや行動しないのは、おかしい。(もっとも、既述のとおり、犯人は静子ではなく、「大江春泥すなわち江戸川乱歩」であるとすれば、静子が何の行動もとらないのは、彼女が犯人ではない証拠とも解釈できる。2024年3月11日)

 

 巧拙併せもった様々な面をみせる「陰獣」であるが、江戸川乱歩の代表作であると同時に、日本ミステリの里程標となる名作のひとつであることは、今後も変わらないだろう。戦前の素朴な探偵小説に見えて、「陰獣」には通常のミステリから外れた部分が幾つもあって、その面白さが独自の地位を支えてきた。現在でもそれは同じである。21世紀の今こそ、「陰獣」を読みかえすべきときなのかもしれない。

 

(追記)

 本文では、「陰獣」には前人未到のトリックはなく、「一人二役」が複数回使われているだけだと述べているが、そのなかには「作者乱歩と犯人春泥の一人二役」も含まれている。これは究極の一人二役とでもいうべきもので、前人未到のトリックと呼んでもいいかもしれない。「類別トリック集成」(『続・幻影城』)に入るべきものである(かな?)。(2024年3月4日)

 

[i] 「陰獣」、『新青年』(1928年8-10月)。

[ii] 江戸川乱歩『探偵小説四十年(上)』(光文社、2006年)、338-58頁。

[iii] 横溝正史「『パノラマ島奇談』と『陰獣』が出来る話」『探偵小説昔話』(講談社、1975年)、208-35頁。

[iv] 『探偵小説四十年(上)』、343-44、380-81頁。

[v] 同、357頁。

[vi] 同、356-57頁。

[vii] 江戸川乱歩「自註自解説」『日本探偵小説全集2 江戸川乱歩集』(創元推理文庫1984年)、3頁。

[viii] 「陰獣」『日本探偵小説全集2 江戸川乱歩集』、333、361-65頁。

[ix] 『探偵小説四十年(上)』、356頁。

[x] 同、348頁。

[xi] 飯城勇三エラリー・クイーン完全ガイド』(星海社、2021年)、168-72頁を参照。

[xii] ただし、以下の批評文を参照。井上良夫「『陰獣』吟味」(1934年)『幻影城 江戸川乱歩の世界』(1975年7月増刊号)、63頁。

[xiii] この問題については、以下の論考で詳しく論じられている。毛利 恵「神の悪戯-陰獣論」『成城文藝』172号(2000年)、1-17頁。

[xiv] 探偵が推理の結果を報告書にまとめて当局に提出しようとするが、関係当事者の女性のことを慮って断念するという展開は、E・C・ベントリーの『トレント最後の事件』(1913年)と同じである。同書の翻訳は1932年だったが、乱歩が読んだのは、もう少しあとだったようだ。『探偵小説四十年(上)』、588頁、また注67(821頁)も参照。ベントリーを紹介した雑誌『探偵小説』の編集は横溝正史だった。横溝正史「エラリー・クィーン氏、雑誌の廃刊を三ヶ月遅らせること」『探偵小説昔話』、70-73頁。

[xv] 「陰獣」、318頁。

[xvi] 同、401頁。

[xvii] 同、404頁。