ニコラス・ブレイク『闇のささやき』

(本書のアイディア、真相等に触れています。)

 

 『闇のささやき』(1954年)[i]のタイトルは、例によって、ライオネル・ジョンソンという19世紀のイギリス詩人の引用のようだが、作品ジャンルとしては、『短刀を忍ばせ微笑む者』以来のスパイ・スリラーである。

 ロンドンのケンジントン公園の池で船の模型を走らせようとしていたバート・ヘール少年(12歳、年齢を覚えていてください)の傍らに、うらぶれた小男が近づいてくる。男はぶつぶつ何事かをつぶやくと、ボートのなかに紙切れを投げ入れて勝手に船を走らせてしまった。慌てて追いかけるバートを見送った男は、そのまま水際に突っ伏したきり動かなくなる。集まった人々は彼がすでに死んでいるのを発見するが、その頃船を回収したバートに怪しげな二人組が近づいてくる。少年から高額でボートを買い取ろうというのだ。

 そこからバートとその友人の「キツネ」と「オマワリ」(父親が警察官)の三人の少年たちが国際的な陰謀に巻き込まれる冒険ミステリが始まるという具合である。つまり、スパイ・スリラーといっても、『短刀を忍ばせ微笑む者』がそうであったように、シリアスなスパイ小説というより、少年を主人公とした冒険小説といったほうがよさそうなのだ(女性や子どもが主人公ではシリアスなスパイ小説にならないという意味ではない)。

 しかし、ブレイクのことだから、無論、空想的な冒険活劇というわけではなく、当時の国際情勢を踏まえた現実味のある冒険ミステリである。書名の「ささやき」とは、殺された男デイ・ウィリアムズ-元すりで、今は警察の手先-がある場所で耳にした重要な秘密を指している。当時の国際情勢というのは、ソ連と西欧との間の冷戦のことで、本書が執筆されたのも、いわゆる「雪どけ」の時代である[ii]。イギリスを訪れたソ連外務大臣に対する暗殺計画が本編の主題となっている。

 プロットは、『短刀を・・・』と同様、悪役は最初からそれとわかる仕組みで、作者が意外性を狙っているのではないことは明らかである。少年探偵たちが敵の三下を罠にかけて、あとを「キツネ」が追跡すると、男は丸顔の青年紳士と落ちあう。今度はそちらを尾行していくと、仮装パーティを開いている立派なお屋敷にたどり着く。「キツネ」はうまく立ち回って、青年紳士と深い関係にあるらしい当主の妻に気に入られるという少年小説にありがちの展開となる。見るからに怪しい青年紳士のアレック・グレイ、当主の大資本家ルドルフ・ダーバー、その妻のヘスが疑惑の中心で、アレックは盗品故買と関わりがあるとわかってくる。ダーバーはさらに大きな陰謀であるソ連外務相暗殺に関与している疑いが大きくなる。しかも、ダーバー家の裏手に住むクレア・マッシンジャーという女流芸術家がナイジェル・ストレンジウェイズの恋人でした(!)、という、あっけにとられる偶然から、逃げ込んだ「キツネ」を助けて、ナイジェルも事件に直接関与することになり、後半では、頭を殴られて人事不省となる。

 クライマックスでは、バート少年と「キツネ」が囚われたサフォークの一軒家に、ダーバーとグレイに雇われた犯罪者たちが立てこもり、軍隊まで出動して派手な銃撃戦となる。この辺は、地味な脱出劇が中心だった『短刀を・・・』に比べると、びっくりするような映画的展開で、ブレイクもこうしたスペクタクル描写に自信をもつようになったらしい。

 少年探偵団的なミステリは、正直あまり好みではないのだが、子どもゆえに、警官の聞き取りにもなかなか本当のことを言えず、警察が救助に駆けつけても、かえって逃げ出そうとしてナイジェルたちを慌てさせるなど、少年らしい予測できない行動が、なかなかうまく書けている。ブレイクといえば、本名で出版した『オタバリの少年探偵たち』(1948年)[iii]も有名だが、ダニエル・デイ・ルイスを含めて四人の子持ちであったことも、こうした少年探偵ものの執筆に影響しているのだろうか(もっとも、本書の発表時には、まだダニエル・デイ・ルイスは生まれていない)。

 少年の冒険ミステリなのでか、ブレイクの特色である推理愛好癖はあまり現れていない。そのなかで最もパズル・ミステリ的な趣向というと、最初にバートに手渡された新聞の切れ端で、そこに書かれていたのは、なんとバートの名前と年齢だった(!)。いわばダイイング・メッセージなのだが、見ず知らずの男から自分の名前と年齢を記した紙片を渡されるという素晴らしく意外で、魅力的な謎で、パズル・ミステリ好きならハアハア舌を出して食いつきそうな見事な餌である。

 ただ、その解決というのが、それほど意外ではないのはやむを得ないとして、少々曖昧な点がある。クレアにグレイを誘い出させて、彼の部屋に忍び込んだナイジェルが、吊るしてあった服のポケットから、くしゃくしゃに丸めた紙切れを探し当てる。そこには「3号バース(桟橋)オール12」と書かれていた[iv]。つまり、Bert Haleと思ったのは、実はBerth allだったということらしいのだ[v]。3号桟橋とは、ソ連外相が密かにイギリスを発つハリッジの港の桟橋を指していたと判明する。これで解決かと思いきや、案の定、グレイの仕掛けた罠だったのだが、それを明らかにするナイジェルの推理は彼らしい[vi]巧みなもので、ここらへんにブレイクらしさが表われている。結局、謎は解けないまま話は進み、最後、囚われていた屋敷から救出されたバートが名探偵振りを発揮する。実は、問題の文章はAlbert Hall 12と書かれていたのが、bのところで破り取られたためにBert Haleと読めたのだ[vii]。少年探偵物に相応しい頭脳明晰さだが、小文字のbを大文字と読み間違えるというのは少々苦しい気がする。現物の手書きのメモが印刷されていないのでわかりにくいし、ちょっとズルい。エラリイ・クイーンなら、ちゃんと読者に提示しただろう(例えば『ギリシア棺の謎』)。あるいは、大文字のブロック体で書かれていたということなのかとも思ったが、そうするとHALLの最後のLをEと見間違えるというのはありそうもない。小文字の筆記体のlをeと読み違えるというのなら、わかるが。

 それはさておき、最後の最後のクライマックスはロイヤル・アルバート・ホールにおける暗殺者対警察の攻防戦で、おなじみブラント捜査部長[viii]が間一髪のところで暗殺者に体当たりを喰わせ、未然に事件を防ぎ、ダーバーとグレイを逮捕して幕となる。

 ブレイクはやはりパズル・ミステリのほうがいいなあ、というのが正直な感想だが、こうした冒険スリラーも器用にこなすところは、それもまたブレイクらしいともいえるし、あるいはむしろイギリス作家らしいというべきかもしれない。

 

[i] 『闇のささやき』(村崎敏郎訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1960年)。

[ii] 1953年にスターリンが死んで、1956年にフルシチョフによる「スターリン批判」があった。まさに「雪どけ」直前の時代を取り上げたということのようだ。

[iii] セシル・デイ・ルイス『オタバリの少年探偵たち』(脇 明子訳、岩波少年文庫、2008年)。同書は、始めから少年ミステリとして書かれているので、むしろ面白かった。ジュニア・ミステリとはいえ、ブレイク名義の小説同様に、彼らしい理詰めの推理が見られるのも好ましい。

[iv] 『闇のささやき』、212頁。

[v] 原書をもっていないので、このとおりなのかは、わからない。

[vi] 『闇のささやき』、239-41頁。

[vii] 同、268頁。

[viii] ブラントは登場人物表では部長となっているが、課長と訳されているところもあって、何だかよくわからない。同、214頁。ところで、村崎敏郎訳は、ディクスン・カーの場合は、それほど気にならなかったのだが、本書はどうも読みづらい。意味の取りにくい文章も多いような気がする。

ニコラス・ブレイク『呪われた穴』

(本書の犯人について明言はしていませんが、かなり踏み込んでいますので、ご注意ください。)

 

 『呪われた穴』(1953年)[i]は、ニコラス・ブレイクの第十長編で、お馴染みナイジェル・ストレンジウェイズが登場する。前作の『旅人の首』から四年後で、少々間が空いたが、そもそも10冊書くのに19年もかかっている。七冊目の『雪だるまの殺人』(1941年)までは年一冊の割合で執筆していたが、第二次大戦を挟んでペースが落ちた。

 ちなみに、しょっちゅう比較されるマイクル・イネス(1906-1995年)はどうかというと、ブレイク(1904-1972年)より長命だったこともあり、1936年から1986年までの51年間に45冊を発表している[ii]。実働34年間で20冊のブレイクは、やはりイネスなどと比べると、詩人ないし詩論家の余技という印象が強い。

 その一方で、しかし、後半の10冊は15年間で達成していて、創作意欲は晩年まで衰えることはなかった。後輩のエドマンド・クリスピン(1921-1978年)が若い頃に立て続けにミステリを刊行した後、パタッとやめてしまった[iii]のとは対照的だ。いかにもイギリス作家らしい悠々たる執筆態度で、着々と冊数を重ねていった。本業があるとはいえ、日本の作家からすれば、うらやましい作家人生だったろう。同時に、これだけ長期にわたって一定のペースをくずさずにミステリを書き続けたということは、心底好きだったのだろうと改めて思う。

 『呪われた穴』に戻ると、今回のテーマは「匿名の手紙」もしくは「中傷の手紙」である。これもミステリではありふれた題材で、1950年にはジョン・ディクスン・カーの『わらう後家』が刊行されている。ブレイクなら、この主題をどう扱うかというのが興味の対象ということになるだろう。

 冒頭、ナイジェルが、アーチボルド・ブリック卿という富豪を訪ねて、エレヴェーターでビルを昇っていく様子が描かれるので、おや、今回はまたロンドンが舞台かな、と思わせるが、アーチボルド卿はドーセットシャのプライヤーズ・アンボーンという村にホール館と呼ばれる屋敷を所有して、二人の息子が住んでいる。近くの街に工作機械の工場があり、弟のチャールズが支配人を務めているが、兄のスタンフォードは機械製作の技能は優秀だが、気まぐれで奇矯な変わり者。その二人の住む村で、今、「匿名の手紙」が広まっているというのだ。最初は、牧師のマーク・レイナムに送られてきたが、次に、村の郵便局長の未亡人の息子であるダニエル・ダードル、そして三人目の標的となった工場長のジョン・スマートが自殺したことで、アーチボルド卿がナイジェルに調査を依頼することになったのだった。

 というわけで、舞台はすぐにプライヤーズ・アンボーンに変わって、そこでナイジェルはシャンメール家の二人の姉妹と知り合う。父親のエドリック・シャンメールは郷土の地誌学者だったが、二十年前に事故死しており、そのとき遺体を発見した姉のセランディンはショックのあまり足が動かなくなり、以後車椅子での生活を余儀なくされている。妹のローズベイはその姉の世話を長年続けて、こちらはこちらで鬱々とした生活を送っている。実は、ホール館はもともとシャンメール家が建てたもので、一時、チャールズはセランディンと恋人同士だったが、父親の事故と彼女の障害が明らかになって別れてしまった。アーチボルド卿の指図だったのだが、しかし、現在では、密かにローズベイと交際している。さらに、手紙を送られたひとりであるダードルは、どうやらエドリック・シャンメールの隠し子らしい。こうしたシャンメール家とブリック家を取り巻く複雑な人間関係が露わになってくるのと並行して、「毒の手紙」が猛威をふるって、ブレイクらしい、表面では穏やかな日常を送りながら、内面に闇を抱える登場人物の間で、丁々発止の攻防戦が繰り広げられることになる。

 題名のDreadful Hollowは、訳者の解説によると、アルフレッド・テニソンの詩「モード」から採られたものだ[iv]が、同時にシャンメールの遺体が見つかった村はずれの崖下にある石切り場を指している。そして、物語の中盤で、不意にアーチボルド卿が村に戻り、姉妹の住むリトル・マナ荘を訪れる。チャールズがローズベイと付き合っていると告発する手紙が送られてきたからだが、二人を別れさせようとしてセランディンと口論になった挙句、カンカンになって飛び出していった卿は、翌日になって、石切り場、すなわち「呪われた穴」で死体となって発見される。ここから、小説の主題は殺人事件に移り、ブリックとシャンメールの両家族に容疑の焦点が絞られてくる。

 「匿名の手紙」の書き手の正体は、殺人事件より前、ナイジェルと担当のランダル警部との間のディスカッションで明らかとなる。前半は「毒の手紙」、後半は殺人の謎と、構成がはっきりしているのがプロットの特徴である。ナイジェル(とランダル警部)の推理は、相変わらずブレイクらしい、心理的ながら理詰めの論証で、とくに手紙が投函「されなかった」ポストに関する推論は鮮やかだ。この辺の推理の組み立て方は、いつもながら巧みなものである[v]

 本書にはしかし、もうひとつ大きなアイディアがある。意外な犯人のそれで、ブレイクにしては大胆な発想だが、江戸川乱歩の「類別トリック集成」に分類されているように、必ずしも珍しいものではない[vi]。しかし、本書の場合、推理によって、この真相にたどり着けるかというと、明確な手がかりがあるわけでもなく、疑問と言わざるを得ない。無論、ブレイクも相応に手がかりをばらまいており、中でも重要なのは、物語の前半で、セランディンの誕生日に不審な贈り物が届けられる。開けてみると双眼鏡が入っていて、レンズに目を当ててピントを合わせようとすると針が飛び出す、ミステリでは「定番」の凶器[vii]であることがわかる。その贈り主は、実はスタンフォードとローズベイなのだが、無論、姉を傷つけることが目的ではない。すでに、ほぼネタバレしてしまっているが、作者も苦労して伏線を張っているのがわかる。だが、○○ができないと思われていたのが、実は、できた、という解決法は、推理のしようがないので、意外ではあっても、犯人当ての謎解きとしては、何だか狐に化かされたような気がしなくもない。

 やはり訳者解説によると、本書はアントニー・バウチャーが『野獣死すべし』以来の傑作と誉めそやしたそうで、訳者の早川氏自身も、ブレイクの戦後長編の代表作に間違いないという[viii]。確かに、意外な結末で、途中のナイジェルの推理も面白く、反面、全編に陰鬱なムードが漂い、ラストで、犯人が村人に追い詰められて石切り場から転落する場面は異様な迫力がある。とはいえ、ブレイクのベストの一つといえるかどうか、ここは思案のしどころだろうか。

 

[i] 『呪われた穴』(早川節夫訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1955年)。

[ii] 森 英俊編著『世界ミステリ作家事典[本格派篇]』(国書刊行会、1998年)、48-49頁。

[iii]  同、242頁。1944年から1951年まで、年一冊ずつ8冊書いた後、突如休筆、最後の長編は1977年刊。

[iv] 『呪われた穴』、238頁。

[v] 同、95-96頁。

[vi] 江戸川乱歩『続・幻影城』(光文社文庫、2004年)、「類別トリック集成」、176頁参照。エラリイ・クイーンの国名シリーズの一冊における解決法(ただし偽の解決)を連想させる。

[vii] ディクスン・カー「黒い塔の恐怖」(1935年)『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』(宇野利奏・永井淳訳、創元推理文庫、1983年)、123-64頁、「とりちがえた問題」(1938年)『カー短編全集3/パリから来た紳士』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1974年)、135-62頁。

[viii] 『呪われた穴』、237-38頁。

ニコラス・ブレイク『旅人の首』

(本書の犯人を明かしています。)

 

 「復刊アンケート第9位」。私が持っているハヤカワ・ポケット・ミステリの『旅人の首』(2003年、原書刊行1949年)には、例のあのビニール・カヴァーの下に、こう謳い文句が載った帯が付いている。ハヤカワミステリの50周年記念で43年ぶりに再版されたものである[i]

 待望の復刊だったらしいのだが、本書を読んだミステリ・ファンは、さすがブレイク、埋もれていた傑作だ、と感嘆これ久しゅうしたのだろうか。それとも、幻のままのほうがよかったなあ、と嘆息したか?

 初めて読んだのが、この再版本だったのだが、内容はきれいさっぱり忘れていたので、再読してみた。そして思ったのは、・・・パッとしないなあ。

 初読時の感想をまるで覚えていなかったのをみても、多分、感心はしなかったのだろう。ニコラス・ブレイクの第九長編で、『殺しにいたるメモ』の二年後の刊行。戦後のロンドンを舞台とした前作とうって変わって、ブレイク、あるいはイギリス作家お得意の田園ミステリである。オクスフォードシャのはずれにあるプラッシュ・メドーというお屋敷で事件が起こる。例によって、イギリス地方の風景を描くブレイクの筆は抒情を感じさせ、そこに、こちらもブレイクらしい、ちょっとエキセントリックで、しかし、表面上は穏やかな登場人物たちが、皮肉に満ちた、でも、一見和やかな会話劇を繰り広げる。ファンなら、戦前のブレイクに再会したような懐かしさを感じるだろう。

 が、前作で健在だったブレイクらしい中毒気味の理屈っぽさは薄れて、『野獣死すべし』のような大胆な語りのトリックも見られない。中心となるシートン一家を見渡しても、意外な犯人になりそうな人物は皆無で、そこから容疑者がさらに絞られて、疑わしい人物が二人になると、Aが犯行を置き手紙に残して死んでしまう。でも、結局真犯人はBだったとわかるという結末で、でも、どちらが犯人でも意外なことは何もない。一向に映えない幕切れで、最後、ナイジェル・ストレンジウェイズが、真相を公けにすべきか、迷いを吐露しつつ小説は終わるのだが、勝手に悩んでろよ、といいたくなるラストである。はたして、作者は何がやりたくて、この小説を書いたのだろうか?

 ストーリーはなかなか面白くて、冒頭、ナイジェル・ストレンジウェイズが友人の紹介で、シートン一家を訪ねる。家族は当主のロバート・シートンと妻のジャネットと子どもたちで、二人は、ロバートの前妻が死去した後結婚したのだが、もともとジャネットの父親が所有していた屋敷をシートンの父親が買い取って住むことになったという、何やらいわくありげな夫婦である。彼らの間に子はないが、先妻が産んだライオネルとヴァネッサの兄妹がいる。他には、昔夫妻がドーセットに旅行したときに連れ帰ってきた唖で小人のフィニー・ブラックという謎めいた使用人。さらに、母屋から離れた一棟に、彫刻家のレンネルと娘のマラのトランス親子が借りて住んでいる。登場人物は、ほぼこの二家族に限られて、ナイジェルが訪問してから二カ月たったある日、プラッシュ・メドーの傍らを流れる小川から、首無し死体が見つかる。付近に行方不明者はおらず、ナイジェルがシートン夫妻を問い詰めると、十年前に行方不明となり、死んだと思われたシートンの兄オズワルドの存在が浮き彫りになってくる。そして、屋敷内にたたずむ古木の枝から、男の首を包んだ網の袋が発見され、死者は案の定オズワルドと推定される。

 フィニーが隠したとみられる被害者の首が転げ落ちてくるシーンはショッキングだが、あっさり死者の身元が明かされて、首なし死体はオズワルドと見せかけて別人だろうと予想した読者のあてははずれる。それでも、実はオズワルドとロバートが入れ替わっているのでは、と推測すると、ナイジェルの友人のポール・ウィリンガムが先回りして同じ推理を口にする[ii]。もはや登場人物のなかに意外な犯人になりそうな者は見当たらないので、それなら、一家全員の犯行だろうと思っていると、やはりウォリンガムが、推理に行き詰るナイジェルに、シートン一家総出の殺人ではないかと示唆する[iii]。クリスティの読み過ぎです。

 どうやら本書は、首なし死体と奇妙な一家の暗い秘密という、おあつらえ向きの餌をぶら下げて、実は読者の予想を微妙にはずしていくことを狙いとしたミステリのようにも思えてくる。しかし、その挙句の果ての結末が平凡そのものとあっては、作者の捻った企みも、あわれ不発ということになりそうである。

 事件が大詰めを迎えるあたりで、ナイジェルは重要な論点に行き当たる。行方知れずでプラッシュ・メドーと結びつけられる心配のないはずだったオズワルドをわざわざ当地に呼び寄せて殺害し、首を切って正体を隠そうとしたのは、殺人が計画的でないことを意味する、と[iv]。この辺りのナイジェルの推理は、ブレイクらしい理詰めの面白さがあるが、この推理が発展していかない。その後の犯人を特定する推理は、何だか曖昧な憶測ばかりで、一向に感銘をもよおさない。やはりブレイクにしては物足らない、というのが再読しての感想である。

 だが、と、ここでいわなければならない。本書はブレイクにとって、いつか書かなければならなかった宿命的な作品だったのかもしれない、と。

 というのも、本書の主人公ともいえるロバート・シートンが詩人、それも天才詩人という設定だからである。

 しかも、シートンの詩作に感動したナイジェルは、何の根拠もないのに、シートンだけは犯人ではありえないし、どうあっても守らなければならない、と心に決める。何という無茶苦茶な論理、無茶苦茶な探偵であろう。ドーヴァー警部のほうがまだましだ。

 要するに本書は、自身が詩人であるブレイクが、犯罪に巻き込まれ、運命に翻弄された天才詩人を描いて、その人物像をナイジェルを通して創り上げようとした小説なのだろう。

 その意味で、本書でブレイクが書きたかったのは、ロバート・シートンの遺書[v]とそれに対するナイジェルの分析を描いた最終章[vi]だったと思われる。なぜロバートは犯人であるジャネットの罪を引き受けようとしたのか、彼女にいかなる感情を抱いていたのか、十年間詩を書くことができなかったロバートがなぜ事件後、再び書けるようになったのか。これらの問いに対するナイジェルの考察は、謎解きというより、詩作と詩人とに対するブレイクの自己省察とでもいうべきものなのだろう。生憎、シートンの詩が作中で紹介されているわけではないので(さすがに、ブレイクも「天才詩人が書いた詩」を自作する度胸はなかったのだろう)、天才詩人といわれても、あまりピンとこないのだが、ナイジェルがいつもの彼にも似ず、やたら深刻で、事件の締めくくり方に思い悩むのは、ブレイク自身の心情を投影しているのだろうか。彼が本書で天才詩人を描いたのはコンプレックスからなのか、いやいや、桂冠詩人ともあろう人がそんなことはないか-。

 

[i] 『旅人の首』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1960年、再版2003年)。

[ii] 同、71-72頁。

[iii] 同、179頁。

[iv] 同、180-81頁。

[v] 同、241-47頁。

[vi] 同、250-61頁。

ニコラス・ブレイク『殺しにいたるメモ』

(本書の真相を明らかにしているほか、他のブレイク長編の犯人についても、注で言及しています。)

 

 『殺しにいたるメモ』(1947年)[i]は、ニコラス・ブレイクの第八長編ミステリだが、前作の『雪だるまの殺人』(1941年)からは六年ぶりの発表である。

 自伝[ii]でも読めば、はっきり書いてあるのかもしれないが、五年のブランクの原因は、恐らく第二次世界大戦の影響なのだろう。ブレイクも戦時中は情報省に勤務し、本業の詩作の刊行は続けていたようだが、ミステリの執筆にまでは手が回らなかったようだ。

 戦後第一作の本書は、まさに、そんな戦争の時代を背景に、架空の戦意昂揚省の宣伝広告局なる部署を舞台としている。ドイツ降伏直後の解放感と、しかし、戦争の終結とともに組織は解体されようとして、そのなかで目的を見失いつつある人々の空虚で不安な感情を全編に漂わせている。そうした空気の中で、動員職員として勤務していたナイジェル・ストレンジウェイズが殺人事件の解決に挑むという内容である。

 局長のジミー・レイクの妻アリスの双子の兄で、やはり同省職員だったチャールズ・ケニントン少佐は、ドイツで死んだものと思われていたが、実は諜報員として活動し、ドイツの大物スパイを逮捕して、イギリスに凱旋してくる。かつての職場を訪れたケニントンをレイクやナイジェルらが出迎えるが、レイクの秘書ニタ・プリンスは、もともとケニントンと婚約していたのに、彼が消息不明となった後、レイクの愛人になったと、もっぱらの噂だった。しかもケニントンがアリスを同伴してきたため、居合わせた人々の間に緊張が走る。おまけに、ケニントンはドイツのスパイから奪ったという自決用の青酸入りカプセルを戦利品として持参して、それを皆に披露しようと回覧させるので、当然、読者は凶事の勃発を予想する。案の定、コーヒーを飲んで、突如苦しみだしたニタがそのまま死亡すると、青酸による毒殺だったと判明する。その場には、ニタに思いを寄せるブライアン・イングルや、彼女に言い寄ったことのあるメリアン・スクワイアーズといった職員たちが集まっており、疑わしい人間ぞろいである。さらにそのあと、今度はレイクに対する殺人未遂事件が起こって、ニタの死は、レイクを狙って誤って起きた間違い殺人だった可能性も浮上する。果たして、連続する事件の真相は・・・。

 本書は、森 英俊が、パズル・ミステリの傑作と称揚し、翻訳まで手掛けた作品で、同氏によると、あの『野獣死すべし』をもしのぐ出来ばえだという[iii]。さらに、本書あとがきでは「エラリイ・クイーンばりの緻密な論理、フェアプレイに徹したもの」[iv]と激賞している。

 確かに長いブランクのあとで、満を持してというか、再びパズル・ミステリに意欲をもって取り組んでいることをうかがわせる力作である。不倫関係にあった男女が続けて狙われるというプロットなので、ブレイクのことだから、また、こういう「ただれた関係」(?)に天誅を下そうとするサイコパス的犯人なのだろう[v]と予想していると、案に相違して、局長の殺人未遂のほうは、秘密ファイルを持ち出して金に換えようとしたドッグ・レース狂いの職員の仕業とわかる。ファイルの紛失を局長に知られることを恐れての犯行だったのである。この作半ばでの第二の事件の真相解明で容疑者が整理されると、結局、ニタ殺しの犯人は、レイク、アリス、ケニントンの三人に絞られてくる。ニタを中心とした四者間の複雑な愛憎関係に事件を解く鍵があることが読者にも示され、事件は山場を迎える。こうした容疑者を減らして枝を刈りこんでいくようなプロット展開は、ある意味、作者の自信の表われであるようにも見えるし、ブレイクらしい技巧的な筋立てとも映る。

 しかし、「エラリイ・クイーンばり」の推理というと、少し異なるようにも感じる。クイーンの、あの数学的な、図形を描くような均衡のとれた推理に比べると、ブレイクの、いやナイジェルの推理は、容疑者の性格を推し量り、彼らの発言の意味を推測していくというやり方なので、解釈はひととおりではない。それらの可能性のある複数の解釈のうちから、全体の推理とうまく組み合わされる最適解を選んで、矛盾のないように積み上げていくというやり方なので、クイーンほど明快ではないし、意外性もない。

 とはいえ、ねちねちと推論を重ねていくナイジェル、いやブレイクの理屈好きは本作でも健在で、例えば、レイク殺害未遂事件における犯人の行動を細かく推論して、被害者は犯人の顔を目撃していない、と証明する手際[vi]などを見ると、ニコラス・ブレイクという作家の推理好みが、戦中のブランクを経ても枯れていないのが確認できる。

 その一方で、本作には、ストレートなパズル・ミステリにとどまらない特異性があるように思える。最大の謎となるのは、犯人が青酸入りのカプセルをこわしてコーヒーに注いだ後、残った容器をどのように処分したのか、ということである。犯行直後に床に捨てておけば、直接疑いをかけられる恐れはない(指紋がつく心配はないのかな、とは思う)。むしろ身につけているのを発見されれば致命的となるのだが、ところが、カプセルは誰の身体からも、室内からも発見されない。例えば、本来の隠し場所である口中の奥に隠せば、容器に残った数滴の青酸を飲み込むことになり、とても平静ではいられないだろう。にもかかわらず、警察の捜査によっても、部屋のどこからもカプセルは発見されないという一種の不可能犯罪である。ところが、実は、この謎は、ある人物の嘘によって成り立っていることが最後に明らかになる。嘘というか、ある重要な事実を隠しているのだが、もちろん、その人物には真実を打ち明けない理由がある。しかし、不可能状況が嘘に寄りかかっているというのは、少々引っかかるところではある。ただし、この嘘がフェアプレイに抵触するとまではいえない。

 特異なのはクライマックス・シーンで、上記の嘘を推測して、カプセル消失のトリックを看破したナイジェルが、ケニントンとレイクとを招いて、二人を対決させる。こうなると、読者にも、どちらかが犯人とわかるのだが、実はここからが本書の最大の見せ場である。ケニントンがある事実を隠していたことを暴露したナイジェルは、アリスとの共犯による犯行の可能性を示唆する。すると、いきなりケニントンがレイクこそ犯人だと名指して、まるでナイジェルのような精緻な推理を開陳するのである。それはもう、見事な論証で、例えば、事件発覚の直前にレイクがニタの腕を取って、彼女を誘導して机を離れた意味の解釈[vii]など、名探偵顔負けの頭脳の冴えを見せつける。ところが、ケニントンの弾劾が終わると、今度はレイクがケニントンの推理を打ち砕く論証を始める。ナイジェルは、ぼーっとしたまま(?)二人の論戦を黙って眺めるだけなので、読者はどちらが犯人で、どちらの言い分が正しいのか迷わされることになる。まるで、ミステリにおける名探偵の推理など、いくらでも引っくり返せると言わんばかりの光景である。

 これより前にも、レイク襲撃の犯人である職員が副局長のことを、自分を犯罪に引きずり込んだ敵方のスパイだと詰ると、相手の副局長も負けじと、自分はスパイのふりをして件の職員の忠誠心を試しただけだ、と反論する[viii]

 どうも、本書は、推理などとえらそうなことをいっても、物は言いようで、いくらでももっともらしく論じられるし、どうとでも言いくるめられる、と主張しているようなのだ。

 これはパズル・ミステリに対する皮肉なのだろうか。それとも、ブレイクの理屈好きがいささか暴走しているだけなのか。

 いずれにせよ、本書はパズル・ミステリとしても面白いが、パズル・ミステリのパロディとして見ても、はなはだ興味深い作品である。

 

[i] 『殺しにいたるメモ』(森 英俊訳、原書房、1998年)。

[ii] セシル・デイ・ルイス『埋もれた時代-若き詩人の自画像』(土屋 哲訳、南雲堂、1962年)、筆者未読。『短刀を忍ばせ微笑む者』、「訳者あとがき」、340頁参照。

[iii] 森 英俊編著『世界ミステリ作家事典[本格派篇]』(国書刊行会、1998年)、604-605頁。

[iv] 『殺しにいたるメモ』、313頁。

[v] ブレイクが以前書いた長編がそうでした。『証拠の問題』。同じような犯人像としては、『死のとがめ』、『死のジョーカー』、『死の翌朝』などもそうです。

[vi] 『殺しにいたるメモ』、131-32頁。

[vii] 同、278頁。

[viii] 同、184-96頁。

エラリイ・クイーン『帝王死す』

(本書の犯人、トリックを明らかにしているうえに、「クリスマスと人形」、「七月の雪つぶて」の真相、他にアガサ・クリスティ横溝正史の作品のアイディアに言及しています。)

 

 飛び切りの異色作、というのが『帝王死す』(1952年)[i]に与えられた一般的評価と言ってよいだろう。この後、『盤面の敵』(1963年)だとか、『第八の日』(1964年)だとか、とんでもない作品が陸続と現れるので、すっかり目立たなくなったが、本書が異色作であり、それ以上に、「怪作」であることは間違いない。

 世界有数の大富豪が支配する孤島に招かれたエラリイとクイーン警視が、不可能犯罪の謎に挑戦するという内容だが、その突拍子もない状況設定は、すでに言い尽くされたように、第二次大戦後の国際政治に対するクイーン、もしくはフレデリック・ダネイの観察結果を反映したもの[ii]なのだろう。しかし、専制国家を思わせるこの島の描写と、富豪ケイン・ベンディゴの造形があまりに突き抜けているので、果たして本当にまじめな意図があって本作を執筆したのか、計りがたいところがある。

 何しろ、島全体が世界最大規模の軍需工場で、何千という人間が雇用されて、家族とともに居住している。島には飛行場や港湾まであって、私有の軍艦が何隻も停留している。それでいて、島の所在は、世界の限られた政治指導者達以外に知られていないというのだから、さすがに飛躍しすぎている。

 おまけに、ケイン・ベンディゴは、弟のジュダとエーベルとともにライツヴィル(!)の生まれで、とくにエーベルを参謀としてから「死の商人」として、のし上がってきた。第二次大戦中は、ヒトラーを背後で操って(!)戦争に踏み切らせて莫大な富を築き、今や、アメリカ政府の手も及ばない権力者として君臨している、というのだから、まるで『サイボーグ009』のブラック・ゴーストみたいですね。もっとも、ブラック・ゴーストは、それでも三人の合議体(脳みそだけだが)だったが、ベンディゴの王国は、王様はひとりだけ。ライツヴィルもとんだ怪物を産み出してしまったものだ(その割に、街の人々の反応がのんきなのは、これが世界を動かす闇の秘密組織の実体、隠された歴史の真実というものなのか)。

 その帝王ケインに対する殺害予告が届いたことから、エーベルがクイーン親子の自宅に、事件の調査を依頼すべく訪れるところから、小説は始まる。しかし、そのやり口は乱暴極まりなく、大勢で乗り込んでくると、いきなり銃を突きつけて、まるでギャングの襲撃だが、そのくせ、エラリイと警視が頑固に同行を拒否していると、とうとうアメリカ大統領の親書まで取り出す。そんなものを持っているなら、最初から出せばいいので、突然現れてホールド・アップするなど、まったく無意味な行動だろう。作者としては、最初が肝心で、劇的な幕開けにしたかったのだろうが、すでにこの時点で、馬鹿馬鹿しさが滲み出してくる。エラリイが大統領に電話をして、直々に出馬を要請される場面もあほらしさの極みで、クイーン警視はともかく、エラリイは単なる民間の素人探偵だろう。この時期のエラリイ・クイーンは大統領も一目置く名探偵だったのだと言いたいのかもしれないが、元腕利きの秘密諜報員だとかいうのならまだしも、政府と無関係の民間人にこんな重大事を任せるなど、出だしからして、このうえなく嘘くさい。

 つまり、1940年代以降のクイーン作品に見られるような寓話[iii]かパロディのようなのだが、それら長編でも、事件の背景には現実味があった。初めから作者がリアリティを無視するほど誇張した書き方をしてもらっては困る。不可能犯罪の謎を含めて、何ひとつ本当に見えないような書きぶりでは、真剣に読み進めることができない(それとも、アメリカン・コミックか何かの原作のつもりで書かれたのだろうか?)。結局、マンフレッド・B・リーの筆に問題があるのか、ダネイの構想自体に無理がありすぎるのか、多分、両方なのだろうが、基本的にリーはリアリズムの作家なので、かつての『チャイナ橙の謎』や『靴に棲む老婆』などもそうだったが、不可思議な雰囲気のミステリを書こうとすると、必要以上に戯画的になる。本書のような多元宇宙的パラレル・ワールドに説得力を持たせるなら、もっと根本から設定をつくって、具体的な細部を書き込む必要があっただろう。ヴォリューム不足も気になるが、それ以前に、エラリイ・クイーンなぞ出すべきではなかった。

 とはいえ、パズル・ミステリとしての部分は、なかなか魅力的だ。ベンディゴの島には、多くの人間が住んでいるが、容疑者と言えるのは、ケインの身内の二人の弟と美貌の妻カーラの三人だけで、クイーン親子の捜査により、脅迫状の犯人は簡単に弟のジュダと知れる。正体を明かされた彼は、逆に開き直って、兄に対し、日付けと時間まで指定して殺害を予告する。当日、ケインの部下に厳重に見張られたジュダは、空の拳銃をケインがカーラとともに閉じこもる金庫同然の機密室めがけて発射する。もちろん実弾は出ない。ところが、エラリイ達が機密室に入ると、ケインは銃で胸を撃たれ、瀕死の重傷を負っているのが見つかる。カーラもまた気絶して倒れている、という密室の謎である。

 これ以上ないくらいの完璧な密室で、読んでいてわくわくさせるが、あまりにも完璧すぎるので、答えは一つしかないとすぐにわかる。直後にクイーン警視が指摘するように[iv]、つまり、カーラ以外の犯人は考えられないので、問題は、凶器の銃をどこに隠したかに絞られることになる。もちろん、部屋のなかに銃は見つからない。しかし、これも、ベンディゴ家の住まいには、酔いどれのジュダがブランデーの壜をいたる所に隠している、という胡散臭い設定があるので、当然、機密室でもブランデー壜が見つかる。当然、これが一番怪しいので、どうにかして銃を壜のなかに隠したのだろう、と推測するが、どうやらそうではない。そうではないのだが、ではどのようにして銃を隠したのかというと、なんだ、結局そんな手か、というような、みみっちい方法なので、密室のシチュエイションが完璧なわりに、感銘は薄い。

 どうも、クイーンの不可能犯罪小説は、海外の評価は高い[v]ようだが、それほどとも思えない場合が多い。この手の作品としては、中編の「神の灯」(1935年)、短編の「クリスマスと人形」(1948年)、ショート・ショートの「七月の雪つぶて」(1952年)あたりが代表だろうが、手がかりが秀逸な「神の灯」はともかく、他の二編は傑作かと言われると躊躇する。「七月の雪つぶて」の、駅と駅との間で列車が消失する、という謎は、他にも傑作短編[vi]があって、大変魅力的だが、列車が通過したというのは駅長の嘘でした、という解決はそんなに素晴らしいのか[vii]?(もっとも、作者も半分ジョークのつもりなのかもしれないが。)「クリスマスと人形」にしても、警察が監視するなかで、高価な人形がいつのまにか偽物にすり替えられていた、という謎の答えが、人形の持ち主が「偽物だ!」、と叫んで、皆の注意が逸れた瞬間にこっそりすり替えた、というのでは、確かに盲点をついてはいるが、何となく拍子抜けする。江戸川乱歩の常套的なトリックを連想するからだろうか。乱歩を馬鹿にしているかのような言い方だが、そうではなくて、そのトリックというのが「少年探偵団」のシリーズで使い回されたものだからである。怪人二十面相から、宝石を頂戴する、と予告状を送り付けられた富豪が、探偵とともに密室のなかで宝石を監視している。いつの間にか二人が眠りこけて、眼が覚めると宝石がなくなっている。犯人は富豪(あるいは探偵)で、実は二十面相の変装でした、というのは、何度も読まされたお馴染みの手である。「クリスマスと人形」も、これとあまり変わらない、つまりジュニア・ミステリ並みのトリックという印象なのだ。

 脱線はそのくらいにして、本作のトリックもプレゼンテーションは見事だが、解決法はいささかしょっぱい。

 もうひとつのミステリのアイディアは、犯人の正体で、密室トリックから明らかなように、カーラとジュダは共犯である。そこにさらにエーベルが加わって、実は、ケイン以外の三人ともグルだった、とわかる。まるで横溝正史の代表作のようでもあるし、アガサ・クリスティの有名長編のパロディのようでもある。しかし、このような複数犯人で、一体、誰が最初に兄(または夫)を殺そう、と言い出したのだろうか。そしてまた、妻と弟たちの真意をまったく感じ取れなかったケインも鈍感すぎるだろう。独裁者の末路を描きたかったのかもしれないが、まわり皆が自分の命を狙っているって、むしろ、不憫に思えてくる。

 しかし、一番問題なのは、フランシス・ネヴィンズ・ジュニアが指摘している[viii]ように、この回りくどいケイン殺害計画がまったく無意味なことだろう。小説のラスト、回復したケインがエラリイにプールに突き落とされて(なんて乱暴な探偵なんだ!)、そのあと、再び銃で撃たれ、今度は本当に死んで発見される。エーベルら三人は、ケインの部下たちに指図して、全員が島から撤退、島はケインの遺体とともに爆破され(!)、海の藻屑と消えた(のかな?)。一体、何のために、わざわざクイーン親子を島に呼び寄せたのか。それも、あんなに無理やりに。

 実は、これが冒頭からエラリイが抱いていた疑問だった[ix]。なぜ、エーベルは、ケイン自身は反対していたにもかかわらず、エラリイとクイーン警視に事件の解決を要請したのか、と。その答えは、二人を事件の目撃者にして、ケインは不可能な状況で殺害された、と証言させるためだった、というのだが、ケインの部下たちがいそいそとエーベルらに従うのなら、ケイン殺害の目撃者をでっちあげる必要などどこにもない。三人全員が共犯なのだから、ことが終わったあと口裏を合わせてごまかせば済むことだ。さらにいえば、実質クーデタなのだから、ごまかす必要さえない。新しい君主が号令をかければ、それで収まる。ひとつ考えられるとすれば、クイーン親子からアメリカ政府に、ケインの不可解な死を報告させるのが目的、ということだが、実際には、エラリイ達に洗いざらい真相を知られてしまっている。エーベルの目的はなにか、という本書の最重要手がかりとなるはずの謎の答えが無意味とあっては、まったく始末が悪い。鏡よ鏡、一体、なぜに、エラリイ親子は拉致同然に連れて来られなければならなかったのですか。・・・それは、エラリイ・クイーンが主人公のミステリだから・・・。

 というわけなので、上述のとおり、本書は、エラリイ・クイーンなぞ出さないで、ベンディゴ一家だけでストーリーを組み立てればよかったのである(名案)。

 

(追記)

 『帝王死す』は、『フォックス家の殺人』などとともに、原書で読んだ数少ないクイーン作品である。そのときは、楽しく読んだことを覚えている。本文では、結構ひどいことを書いてますが、決して過小評価しているわけではありませんので、・・・あ、これも悪口か。

 

[i] 『帝王死す』(大庭忠男訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1977年)。

[ii] フランシス・M・ネヴィンズJr(秋津知子他訳)『エラリイ・クイーンの世界』(早川書房、1980年)、206-210頁、フランシス・M・ネヴィンズ(飯城勇三訳)『推理の芸術』(国書刊行会、2016年)、273-76頁。

[iii] 『エラリイ・クイーンの世界』、209頁参照。

[iv] 『帝王死す』、202-204頁。

[v] 『エラリイ・クイーンの世界』、205-206、223-24頁。

[vi] ヴィクター・L・ホワイトチャーチ「ギルバート・マレル卿の絵」、コナン・ドイル「消えた臨急」など。

[vii] もっとも、日本でも、小林信彦が誉めている。小林信彦『地獄の読書録』(筑摩書房、1989年)、114頁。ところで、偽証した駅長は、事件後、首になるどころか、共犯で逮捕されただろうが、割に合うのか(それとも、駅長に扮した一味の者だった)?

[viii] 『エラリイ・クイーンの世界』、208頁、『推理の芸術』、275頁。

[ix] 『帝王死す』、67-68頁。

ジョン・ディクスン・カー『三つの棺』(その2)

(本書のトリックのほか、G・K・チェスタトン「マーン城の喪主」の内容に触れています。)

 

 松田道弘は、ジョン・ディクスン・カーの『三つの棺』(1935年)[i]で作者がやりたかったことについて、次のように述べている。

 

  「カーがやりたかったのは、この作品の最後でフェル博士に棺の中の死体を指ささ 

 せて、『この男が犯人だ』と大見得を切らせたかったのだと思う。つまり死人が犯人 

 という飛び切りの意外性を狙ったのだろう。」[ii]

 

 なるほど、確かにクライマックスの場面としてはそうかもしれないが、犯人の着想としては、違った見方もできるかと思う。本書では、二件の不可能殺人事件が相次いで起こるが、二人の被害者は同時に犯人でもある。すなわち二重の「被害者=犯人」というアイディアである。詳しくいえば、最初の事件の犯人がもう一つの事件の被害者で、その犯人が最初の事件の被害者である(何言ってんだ)。決闘で相打ちになったようなものだ、と別稿で書いた。

 G・K・チェスタトンの短編に「マーン城の喪主」というのがある。ブラウン神父のシリーズの一編で、決闘をテーマに、「被害者=犯人」のトリックを用いている。『三つの棺』は、アイディアは異なるが、発想をそこから得ているのではないか。決闘でともに倒れた二人の死体を別々の場所に運べば、不可思議な連続殺人のように見えるだろう。同じ銃で撃たれているとすれば、不可解状況の度合いはさらに増す。

 本書を構成する「密室」と「足跡のない殺人」の謎は、上の基本アイディアの副産物のようなもので、しかも、一般的に『三つの棺』の代名詞とされている密室殺人のトリックよりも、後者のトリックのほうが格段に優れている(トリックの原理は両方とも一緒であるが)。

 前者は、始末に困る小道具(大道具?)を用いねばならず、ややこしい図解まで提示して、作者は面白がっているが、トリックとしては実に不格好だ。犯人消失の謎が素晴らしいだけに、長々とした複雑な解説で、どうしても見劣りしてしまう。この密室トリックの唯一の長所は、「密室講義」をミスディレクションに用いたことぐらいだろう。

 それに比べると、雪の街路を歩いていた男が銃声とともに倒れ、傍らに拳銃が落ちているが、周囲には本人の足跡以外、真っ白な雪が広がっている、という謎には、大方の読者の予想を越えた解決が用意されている。とりわけ、銃声とともに目撃者が耳にした、「二発目はお前に」[iii]、という叫び声の意味が明らかになる瞬間は、思わず目からうろこが落ちるというか、目やにが落ちるというか、自分で自分の横っ面をひっぱたきたくなる。一瞬で被害者が犯人へと反転し、すべての謎が解ける爽快感は真夏のビーチで飲む生ビールどころではない。これこそパズル・ミステリを読む快感というものだろう。

 この叫び声の謎の解明がもたらす驚きは、いわば殺人の順序に関する錯覚がもたらす意外性だが、ただし、その時間的錯覚というアイディアを実現するトリックとなると、ここでもまた、とたんに手際が悪くなる。

 複数の証人が、それも警官まで含めて、そろって狂った時計で時間を誤認するというのは、やはり、あまりにお手軽過ぎた[iv]。作者も、「遅かれ早かれ、このことには誰かが気づいただろう。もう気づいた人がいるかもしれない」[v]、とフェル博士に言わせているが、これでは不可能殺人も形無しである。

 松田は、本書について「まるでヤジロベエ的なきわどさ」[vi]という形容をしているが、けだし言い得て妙である。密室トリックも、この「時間の錯覚」トリックも、まことに危なっかしい。命綱なしで空中ブランコをしているようで、ハラハラする。正直、欠陥が大きすぎて、『三つの棺』は傑作なのか、失敗作なのか、見極めが難しい。そこがまたカーらしいと言えなくもないが。

 とはいえ、根本の二重の「被害者=犯人」の着想に、あれこれ尾ひれをくっつけて、ここまで見事な不可能犯罪ミステリに仕上げた作者の技巧は、やはり天才的と認めざるを得ない。大小様々な謎が、次から次へと途切れることなく繰り出されて、解決直前になっても、まだ不可解な事件が起こるので、こんな謎の供給過多で収拾つくのだろうか、と思うのだが、結末を読むと、これがまた、すべて説明されつくしてしまう。

 これ以上の謎とインポッシブル・クライムに満ちたパズル・ミステリが今後登場することは、期待できそうにない。

 

[i] 『三つの棺』(加賀山卓朗訳、早川書房、2014年)。

[ii] 松田道弘『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、228-29頁。

[iii] 『三つの棺』、180頁。

[iv] 「密室」における小道具の扱いと、「足跡のない殺人」における目撃者の時刻の誤認についての問題点は、江戸川乱歩がすでに戦中に指摘している(例の戦前の悪訳に基づいてであるが)。さすがに乱歩大人、見逃していない。江戸川乱歩『書簡 対談 座談』(講談社文庫、1989年)、154-55頁。伝説の井上良夫との往復書簡から。

[v] 『三つの棺』、356頁。

[vi] 松田前掲書、227頁。

アーサー・コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの回想』

(「最後の事件」のネタバレをしています-断る必要ないでしょうけれど。)

 

 『シャーロック・ホームズの冒険』に続けて、『シャーロック・ホームズの回想』[i]を読み返してみた。こちらも数十年ぶりである。そしてやはり、大変楽しめた。

 『冒険』は、1891年から翌年にかけて『ストランド』誌に連載された12の短編を1892年のうちに出版したもので、続く『回想』は、1892年から翌年まで、やはり同誌に連載された短編11編を1894年に刊行している(ただし、「ボール箱」は内容がどぎついという理由-切り取られた耳が郵送されてくるという発端-で『回想』ではカットされ、後に『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』(1917年)に収録された)。以上は書くまでもない周知の事実だが、つまり、『冒険』と『回想』は、ほとんど連続して発表、公刊された短編集で、後続の断続的に刊行された短編集とは少し異なり、二冊でひとつのクロニクルをなしている。『回想』のラストを飾る「最後の事件」で、ホームズに飽き飽きしたドイルが、わざわざモリアーティ教授というミステリ史に残る名悪役まで創造して、強引にホームズを始末しようとしたからで、一旦は完結したシリーズ第一期とでも呼べるものである。ま、こんなことも改めて記す必要のないことだが。

 一般的に『回想』は『冒険』に比べると、一段落ちるとされてきた。そもそも、ミステリという小説形式自体が長短編を問わず、作品数が増えれば反比例して質が低下する、というのが定説[ii]になっている(ただし、パズル・ミステリの場合)。ホームズものもその例にもれず、「赤毛連盟」、「唇のねじれた男」、「まだらの紐」などが収められている『冒険』に対して、『回想』には、これといった代表作がない。せいぜい「シルヴァー・ブレイズ号事件」(これは、やっぱり「銀星号事件」というタイトルがしっくりくる)くらいだろう。

 もっとも、瀬戸川猛資によると、「赤毛連盟」や「まだらの紐」はちっとも面白くないとのことで、氏のホームズものの評価をみると、『冒険』からは一編も採り上げられていない。随分徹底したものだが、いかにも瀬戸川らしい捻った見方である。『回想』からは、二編挙げられているので、氏にとっては、『回想』のほうが『冒険』より上ということになるのかもしれない。その二編というのも「グロリア・スコット号事件」と「マスグレーヴ家の儀典書」というのだから、やってくれますなあ[iii]。氏の好みは要するに、謎解きよりも怪奇冒険小説風の短編にあるということのようだが、確かにドイルの小説の読み方としては、それも正しい読み方といえる。しかし、その一方で、『回想』の諸編をみると、パズル・ミステリの短編としては、『冒険』よりもこなれてきているとも感じられる。

 その典型が「シルヴァー・ブレイズ号事件」で、例の「犬が吠えなかったのがあやしいのです」という名言を始めとして、いくつもの伏線が張られて、物的データに基づくホームズの推理も鮮やかである。ホームズ人気で、各雑誌に短編ミステリがこぞって連載されるようになり、競争も激しくなって、おかげでドイル自身のミステリを書く技量も向上した結果なのだろうか。これなら、1920年代のアガサ・クリスティやF・W・クロフツの時代の作品と比べても遜色ないようだ。

 同じようなことは、例えば「ライゲートの大地主」にも言えて、なかなか鋭い推理がみられる(ただし、被害者の衣服に銃の焦げ跡がついていないとか、目撃証言にあった謎の人物の足跡が見当たらないとかの重要なデータがきちんと示されていない[iv]、という欠点もある)。が、本作で面白いのは、病み上がりという設定のホームズが、同行の警部が余計な発言をするのを止めようと、いきなりめまいを起したふりをしたりして、クサい芝居をすることで、そのあとの場面では、突然テーブルを引っくり返しておいて、ワトスンのせいにする。まるで小学生だと思っていると、それらがすべて犯人の証拠をつかむための演技とわかる。最後は犯人に首を絞められて、あわや名探偵お陀仏か、となるが、ホームズが臨機応変に策を練るプロットが面白く、彼のお茶目さかげんがよく表れている。

 しかし、実をいうと筆者が一番感心しているのは、最後から二番目の「海軍条約文書」である。なぜか、この短編のみ前後編に分けて掲載されており[v]、それだけ作者も力を入れたようにも見える(単に枚数が増えただけかもしれないが、そのこと自体が、力を入れた証拠とも取れる)が、それが優れていると思う理由ではない。

 ワトスンの古い友人である外務省の役人が、保管していた重要な外交文書を盗まれるという変事が起こる。彼、フェルプスが仕事をしていた役所の個室は、ドアを出た通路が少し先で二つに分かれて、ひとつは小使い室、もうひとつは裏口に通じている。フェルプスが一休みして小使い室にコーヒーを飲みに行くと、個室に通じているベルが鳴り、不審に思ってあわてて戻ってみると、机の上に広げていた書類がなくなっている。公僕にあるまじき、実に粗忽な男だが、家に戻ったフェルプスは、ことの重大さに打ちひしがれ、昏倒してしまう。そのまま自室に運ばれ寝込んでしまうが、今度は深夜に何者かが寝室に忍び込もうとする。一体、病に伏したフェルプスを襲撃する目的とは何なのか。

 というストーリーなのだが、盗難があった役所の見取り図[vi]が掲載されていて、謎解きミステリでお馴染みの、重要そうに見えて、さして重要ではない図解付きというのは、このあたりから始まったのだろうか(それにしても、この役所とやらの間取りを見ると、長々と続く通路の両側に部屋ひとつないようだが、一体どうなっているのだろう)。もっとも、ベルが鳴った理由についての推理はなかなか面白いが、盗難事件そのものは、やっぱり、わざわざ見取り図を付けるほどのからくりがあるわけではなかった。

 面白いのは、犯人がフェルプスの寝室に忍び込もうとした理由で、ホームズが単純だが見事な推理をみせてくれる。盗まれた文書のありかについても皮肉味があり、良い出来だと思うのだが、本編を褒めた文章はみたことがない。欧米の傑作集にも選ばれていない模様だ。残念なような、自分の批評眼のなさに自信をなくすような・・・。でも、ストーリーのなかで謎をつくるなど、なかなかの佳作だと思いますけどね。トリックより謎を中心に据えたところも現代的である(我ながら、必死になってるなあ)。ホームズ・シリーズのベストのひとつではないかと思う、・・・いやっ、断言する!(引くに引けなくなりました。)

 とはいえ、本短編集の白眉といえば、やはり「最後の事件」だろう。昔読んだときは、独立した短編とも言い難いし、単なる付け足しか、おまけの一編としか思っていなかったが、読み返してみると、なかなか訴えかけてくるものがある。

 とりわけ、嘘の伝言におびき出されて宿に戻ったワトスンが、騙されたと気づいて急ぎライヘンバッハの滝に引き返すと、すでにホームズの姿はない。残された足跡からホームズとモリアーティの行方を辿って、滝つぼをのぞき込む場面の臨場感と切迫感はさすがである。そして、岩の上に残されたホームズの別れの置き手紙も、彼らしくもない(?)人間味をのぞかせて、ちょっと胸が熱くなる。ホームズ譚に夢中になったイギリスの多くの読者が、まるで親しい友を亡くしたかのようなショックを受けたというのもわかる気がする。

 いかにもといったモリアーティ教授の造形もいい。ホームズとの対決の場面は、まさにヒーロー探偵対悪の天才犯罪者の定番をつくったといえるもので、ホームズもモリアーティも相手の言葉を聞いているふりをして、全然聞いていない偉そうな態度が最高だ。それに、モリアーティは元数学教師で、ヴァン・ダインの代表作もそうだが、数学界における犯罪者発生率の高さは一体どうしたことか(考えてみると、これら二作ぐらいしか思いつかないのだが、あまりにもキャラクターが強烈すぎる)。確かに、数学者というのは得体が知れぬ存在で、何を考えているのかわからない恐ろしさがある(文系人間からの、ひどい中傷だ)。

 ともあれ、「最後の事件」は、ホームズ・ファンならずとも忘れがたい、ある意味、シャーロック・ホームズ短編の最高峰と言いたくなる印象的な一編である。

 

[i]シャーロック・ホームズの回想』(大久保康雄訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1981年)。

[ii] 江戸川乱歩英米短編探偵小説吟味」『続・幻影城』(光文社、2004年)、37-38頁参照。

[iii] 瀬戸川猛資「原初の記憶をたどって-『四つの署名』」『夜明けの睡魔-海外ミステリの新しい波』(早川書房、1987年)、239-43頁。

[iv]シャーロック・ホームズの回想』、193頁。

[v] 『ストランド』の1893年10月号および11月号に分載されたらしい。『シャーロック・ホームズの回想』、訳者による解説、369頁。

[vi] 同、294頁。これがまたへたくそな図なのだが、原作に付いていたものなのだろうか。