エラリイ・クイーン『スペイン岬の謎』

(本書および他の「国名シリーズ」作品の内容に触れています。)

 

 『スペイン岬の謎』(1935年)をもって、「国名シリーズ」は幕を閉じる。しかし、「読者への挑戦」は次の『中途の家』(1936年)でも踏襲され、それなら、もう一冊、国名を冠した長編を書いて、きりのいい10冊にしてくれていたらよかったのに、と思わずにいられない。Halfway Houseというタイトルが気に入ったのだ、と言われても、はい、そうですか、と納得はできない。「国名シリーズ」と呼べばいいのか、「読者への挑戦シリーズ」と呼べばいいのか、迷うではないか(「挑戦」のない「国名シリーズ」作品もあるが)。

 『スペイン岬』について言えば、内容的に、本来の「国名シリーズ」に戻った感がある。『アメリカ銃の謎』、『チャイナ橙の謎』のようなトリック小説や、『シャム双子の謎』のようなパニック小説的作品から、推理に特化した初期三作へ回帰した印象の長編である。逆にいうと、他にあまり目立った特徴のない作品ともいえる。

 中心となる謎は、いうまでもなく、なぜ被害者はマントをはおっただけの裸にされていたのか、というもの。ほぼ、この謎だけで引っ張っていくのは、「なぜ被害者の帽子が持ち去られたのか」、という処女作の『ローマ帽子の謎』を思わせる。

 そして、この謎の解決も、意外性と単純さを兼ね備えた見事なもので、推理の部分に関しては、久々の会心作ともいえる。『シャム双子』の犯人特定推理が思いつき程度のものだったり、『チャイナ橙』では、犯人の推理よりもトリックの解明に重きが置かれていたことを考えると、とくにそう感じる。

 ただ、鮮やかな分、あっけない印象も受ける。被害者が全裸ではなく、マントを羽織っていたのは、それがなければ、エラリイが一瞬で真相を見抜いてしまい、短編小説で終わってしまうからだが、作者としても、最初から全裸死体では、エラリイと同じ推理をする読者が多数出ると危惧したのだろう。副次的ストーリーを絡めて容疑者の数を増やし、読者の疑いを登場人物に分散させておいたうえで、決定的なデータである、殺害後、第三者が被害者にマントを羽織らせた、という情報を、エラリイにも、読者にも開示する段取りになっている。ただ、かなりぶ厚い長編のわりに、延々と盗み聞きや盗み見で被害者の悪行の掘り起こしにページを費やしているので、いたずらに筋を引き延ばしたかのような印象を与えるのもやむを得ない。飯城勇三が指摘しているように[i]、中心となる謎以外はすべて不用であるように見えてしまうのは、作者の計算違いだったかもしれない。

 ミステリとしてのもう一つの仕掛けは、冒頭の誘拐事件がトリックになっていることで、「被害者=犯人」のパターンの一類型である。フランシス・M・ネヴィンズの指摘にあるように[ii]、30年代の長編では、このアイディアが多用されているので、またか、という気は確かにする。それ以上に、この誘拐シーンは、いかにも取って付けたようで、怪しさがプンプン臭う(真相がわかってしまうと、そう思えてしまうだけなのかもしれないが)。犯人にとっても、こんな茶番劇は必要なかったのではないか。まさか、ずっと行方不明のままで過ごすつもりではなかったろうし、被害者と間違われたとしても、あっさり解放されたりしたら変である。殺されたことにするつもりだったというわけでもなさそうだ。実際に、終盤で描かれている、嵐をついて脱出する、という海洋冒険小説まがいの展開を最初から考えていたとすると、天候頼りで、あまりに無策すぎる。

 もちろん、作者としては、犯人を海上に行かせなければならず、派手な誘拐のほうが小説のつかみとしても有効だし、海釣りに行ってました、などという理由より、むしろ、わざとらしくない、と考えたのかもしれない。

 その、犯人は海上にいる、というのが、犯人推理の基礎となっており、その意味でも、本書は、初期三作(『ローマ帽子の謎』、『フランス白粉の謎』、『オランダ靴の謎』)に近いといえるかもしれない。つまり、容疑者を、陸上にいるものと海上にいるものとに分類して、後者に犯人を限定していく、という推理手法である。初期三作は、公共の場で不特定多数の容疑者を、場の関係者とそうでないものとに分け、前者を有資格者(というのもおかしいが)と判定する、という手法を取っていた。人間集団を二つに分類することで容疑者のグループを限定していくのだが、それだけでは、まだ犯人の範囲を狭めたに過ぎない。

 本作でも、海上にいる、というだけでは、犯人を一人に絞ることはできないはずだが、初期三作のような、公共の場での殺人ではないので、はじめから事件当事者は限られている。そのなかで海上にいたものは一人である、と推理していくので、犯人はただちに明らかとなる。しかし、それだけでは、さすがにクイーンのミステリとしては安易だと思ったのか、犯人たりうる六つの条件を挙げて、唯一海上にいた容疑者がそれらに当てはまることを論証することで、推理を補強している。ただ、それらの条件は、泳げること、といった当たり前の前提で、結局は、殺害現場となった屋敷の住人もしくは招待客のなかで、当夜、海上にいたもの、という結論に集約される。屋敷内に共犯者がいる可能性とか、エラリイの知らない利害関係者の存在などは無視されており、果たしてこれで完璧かとなると、少々心もとない。

 もう一点、冒頭の誘拐シーンで気になるのは、デイヴィッド・クマーと姪のローザを拉致したキャプテン・キッドが、二人をさらっていった別荘で、雇い主らしき人物に電話をかけ、それをローザが盗み聞きする。ところが、誘拐は狂言なので、この電話もキッドの一人芝居のはずだが、そのなかに「海に出て・・・」[iii]というセリフが出てくる。そして、ローザが、閉じ込められた部屋の窓から外を見ると、キッドがクマーを乗せてモーターボートで海に出ていく様子を目撃する[iv]。目撃できなかったとしても、音でボートが出ていくのがローザには聞こえるだろうから、つまり、犯人は、キッドとクマーが「海に出た」という事実を強調したいらしいのだが、一体なぜだろう。犯人は、実際に海上に出て、そこから犯行に及ぶつもりのはずなのに、なぜ、ことさら、そのことを印象づけようとするのだろうか。このキッドという人物は、即興でセリフを考えつきそうな頭の持ち主には描かれていないので、電話の内容も、犯人に指示されたとおりしゃべっている、と推察される。明らかに、キッドとクマーが海に出た、とローザに証言させることが目的のようだが、動機がわからない。

 もちろん、作者にとっての目的は、はっきりしていて、「海上にいる」ということが犯人の条件だからである。しかし、作中の犯人にとっては、そうではない。むしろ、海から注意をそらしたほうがよいはずである。

 どうしても「海に出た」と強調したい理由が、もし、あるとすれば、「実際は海に出なかったから」、ということしか考えられない。つまり、海に出たとみせかけて、近くの浜辺に上陸した。それをごまかすために、海に出たように見せかけた、ということで、それなら、キッドに電話で話させて、それをローザに聞かせる意味が出てくる。だが、そうなると、犯人は海上にいた人物だ、というエラリイの推理と矛盾をきたすことになってしまう[v]

 そもそも、犯人が犯行当時、海上にいた、という事実も証明されたわけではない。キッドがボートを出して、そのなかにクマーが乗せられていた、と推測されているだけである。小説の最後、嵐のなか、クマーが浜辺に泳ぎ着き、ずっと海上に囚われていた、と証言するが、これは、上記の電話やボートを出したことと矛盾をきたさないための偽証で、実際は、どこか陸上に隠れていたとも考えられる。しかし、そうすると、今度は、クマーは、なぜそんな、わけのわからない行動を取ったのか、が疑問となる。彼が犯人であるなら、上記のとおり、海上に出て殺人を実行しようとしているのに、わざわざ海に出る、と強調するのはおかしい。・・・いけない、推理が堂々巡りしてきた・・・。

 褒めるだけのつもりだったのに、ついまた、あら捜しをしてしまったようだ。しかし、まあ、それもエラリイ・クイーンの魅力ということで(どこが?)。

 ついでにもう一つ疑問を述べると、最初に読んだ時に思ったのは、なぜ、この犯人は全裸で犯行に及んだのか、ということだった。何で水着を着ていかなかったの、ということだが、エラリイは、被害者が全裸だったのは、犯人が全裸だったからだ、と断定するだけで、なぜ犯人は全裸だったのか、そもそもの理由を説明しないが、なんで?急所は隠すものじゃないの。それとも、えーと、・・・自信があったから?(失礼しました。)

 無論、犯人が水着でやってきていたら、この謎自体が成り立たない。水着を身につけていれば、そのまま陸路を通って逃亡できる、とエラリイが説明している[vi]。それなら、遊泳禁止区域だったという設定にして、水着で公道を往来するところを目撃されたくなかったから、という理由にしては、とも思うが、水着を着けていれば、その上に服を着ればよいので、そうすると被害者の下着まで取る必要はない。パンツ一丁(失礼しました)の被害者では、なんだか間抜けだから、その設定はやめたのだろうか(いや、水着は濡れているはずだから、脱ぐか。しかし、そもそも、自分が殺害した被害者の下着まで脱がして身につける、というのも、相当度胸がいりそうだが。別に、ノーパンでいいじゃん)。

 犯人が全裸だった理由を、さらに考えてみると、もし犯行現場付近で水着姿を誰かに目撃されたとしたら、誘拐が狂言だったことが、たちまちバレてしまう。全裸なら、何とか隙をついて脱出してきた、という風に装うことができる、ということなのだろうか。でも、全裸にされていたって、なんだかイケない想像をしてしまいそうになるが・・・。いえ、それは、こちらの勝手な妄想でした。

 

[i] 飯城勇三エラリー・クイーン パーフェクトガイド』(ぶんか社文庫、2005年)、50頁。

[ii] フランシス・M・ネヴィンズ(飯城勇三訳)『エラリー・クイーン 推理の芸術』(国書刊行会、2016年)、76頁。

[iii] エラリイ・クイーン『スペイン岬の秘密』(大庭忠男訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、2002年)、47頁。

[iv] 同、48-49頁。

[v] クマーの告白では、実際に、ボートを陸に着け、キッドだけを上陸させたことになっている(同、459頁)。つまり、海に出たように見せかけたのは、キッドを陸路で逃がすためだった、ということなのだろうか。しかし、共犯者のためといっても、自身が疑われる危険を冒すのは、やはりおかしい。それに、キャプテン・キッドのような体格の人間が、陸路で逃げおおせると考えるのも、そもそも無理がある。ローザが自力で脱出して、その晩のうちに自宅に戻る可能性もないわけではない(ローザが絶対に脱出できないような状況を、この犯人がつくるはずがない)。そうなれば、直ちに海上が捜索されるだろう。

[vi] 同、440-41頁。

エラリイ・クイーン『チャイナ橙の謎』

(本書のトリックやアイディアに触れているほか、『帝王死す』の犯人、G・K・チェスタトンの短編小説のトリックについて、言及しています。)

 

 『チャイナ橙の謎』(1934年)は、作者(といってもフレデリック・ダネイのほうだが)が自作ベストに挙げた作品として知られている[i]

 また来日時にダネイが語ったエピソードとして、本書を書くきっかけとなった夫人との会話も有名である。

 

  「彼女(夫人)は、私の机の上の灰皿が吸い殻でいっぱいになっているのを見て、 

 こんなにたくさん溜める前にどうして捨ててしまわなかったのか、私に問いただした

 のです。それで私はちょっと冗談めかして、それならこの灰皿の吸い殻をどこへ捨て

 たらいいのだ、天井裏にでも、屋根の上にでも捨てたらいいのかと言ったんです。そ

 のことは笑い話で終わったんですが、私はここで考えたんです。あり得ないような、

 異様な状況の小説を書いたら面白いのではないか、とね。」[ii]

 

 大して面白い冗談でもないが、これもアメリカン・ジョークというやつなのか。よほどこの一口話が気に入っていたようだが、アイディア自体もお気に入りだったらしい。殺人現場のすべての家具や調度品、なかんずく死体の衣服までが、すべてあべこべになっている、という冒頭の謎は、確かにヴァン・ダイン風のリアリズムより、チェスタトン風の幻想的ミステリに相応しい。

 1932年の『エジプト十字架の謎』あたりを契機として、クイーンのミステリは一作ごとに趣向を変えて、読者サーヴィスを意識するようになった感がある。初期のようなパズル・ミステリ道を究めようとするような禁欲的な雰囲気は薄れ、例えば、『アメリカ銃の謎』で、スタジアムに詰めかけた数万人の観客が容疑者となる長編を書いたかと思えば、次の『シャム双子の謎』では、山火事に襲われた山中の屋敷で極端に限定された容疑者のなかから犯人を捜す作品を構想する、といった具合に。

 『チャイナ橙』では、ダネイの回想のように、それが別の方向にエスカレートして、非現実的で奇抜な殺人事件をテーマとしている。室内のすべてのものがさかさまになっているだけではなく、死体にはズボンから上着の背中まで二本の槍が差し通されており、まるで邪教の儀式のようなグロテスクな殺人現場である。

 しかし、クイーンの散文的な文章と類型的な人物描写のせいか、読んでいて、あまり幻想的な雰囲気は伝わってこない。プロットのほうも、冒頭の殺人場面が終わると、あとはスキャンダルとかゆすりとかの即物的なエピソードに終始して、登場人物もそろいもそろって俗物ばかりなので、せっかくの不可思議な殺人の謎が、作品全体のイメージに繋がっていかない。チェスタトン風のミステリを書くには、この時期のクイーンの文章もプロットづくりも平板すぎるようだ。

 また、本書は、それまでのクイーンには珍しい密室ミステリとして知られてきた。本書のほかには、『ニッポン樫鳥の謎』、『帝王死す』などが不可能犯罪ものだが、そのなかではもっとも高評価でもあった。1981年にエドワード・ホックが編纂した密室短編小説のアンソロジーは、併せて行われた密室ミステリ長編のアンケート結果を紹介しているが、本書は、堂々8位にランクしている[iii]。しかし、これもまたよく知られているとおり、本書は、実は密室ミステリではない[iv]。そうではないのだが、使っているトリックが密室ミステリのそれなのである[v]。言葉を変えて言えば、殺人現場は密室ではないが、犯人のほうが密室に閉じ込められている[vi]「逆」密室ミステリなのだ(「逆密室」、なんだかカッコいいな)。殺人現場のみならず、いろんなところが、あべこべになっている、というのが本書のミソなわけである。

 その「あべこべの謎」のほうだが、たったひとつのあべこべのものを隠すために、すべてをあべこべにする、というアイディアは確かに面白い。これもまた、チェスタトンの「折れた剣」[vii]の応用であるが。ただ、あべこべのものというのが聖職者のカラーで、ネクタイを締めていないことを隠すため、というのは、日本人にはピンとこないだろう。また、ネクタイがなければ、どこからか取ってくればよいのだが、それができない、というのが犯人を特定する手がかりになっている。

 すなわち、犯人は、隣の控室に待たせていた被害者を殺害した後、初めて神父であることに気づく(マフラーをしていたので、それまでわからなかった)。しかし犯人が在室していなければならない事務室は、通路に出るドアの外に受付けの女性がいて、気づかれずに部屋を離れることはできない。もっとも、現場となる隣室にも、事務室に通じるドアとは別のドアがあり、異なる通路に出ることができる。しかし、長時間部屋を空けること、また室外で誰かに目撃されることを恐れた犯人は、部屋の家具や被害者の衣服をあべこべにして、ネクタイの不在をごまかし、さらに事務室との境のドアを控室から施錠したように見せかけることで、自分が事務室内に閉じ込められたように装う。

 随分回りくどい思考回路の持ち主だが、現場の状況を観察したエラリイは、犯人は、すべてをあべこべにすることでネクタイの不在を隠蔽しようとした人物、すなわち、ネクタイを調達することができなかったただ一人の人物、つまり、殺人のあった部屋の側から施錠されて、その結果、事務室に閉じ込められた格好になっていた人物だ、と推理する。犯人に負けず劣らず回りくどい推理だが、しかし、事務室に閉じ込められていたなら、そもそも犯行不可能なはずだ、と最初に考えるはずで、それでも犯人であると証明するには、事務室側から控室側のかんぬきをかけるトリックが可能であることを立証しなければならない。だが、もしそれが可能であるなら、控室のもうひとつのドアから出て、受付けの女性に気づかれずにネクタイを調達することができたことになる。再び部屋に戻ってから、施錠のトリックを使えば、事務室から一歩も出ていないように見せかけられる。

 無論、エラリイの推理では、もし控室を通って外に出て、そこで誰かに目撃されれば、こっそり部屋を抜け出したことがばれて、決定的な疑いをかけられてしまう。従って、控室のドアから外に出ることができても、出るわけにはいかない、というのだろうが、素直に頷けないのは、殺害現場のものをすべてあべこべにするなどという手間をかけるのは、こっそり部屋を抜け出てネクタイを調達しに行くのと同じくらい危険ではないか、と思えるからである。

 殺人の謎もトリックも非現実的なので、常識的推理をしても意味がない気はするが、時間をかけて部屋のものをすべてあべこべにするより、ドアを施錠するトリックだけにとどめて、あとはとぼけているほうが安全だったのではないのか。つまり、なんで、そこまでして、被害者が聖職者であることを隠さなければならないのか、という疑問が払拭できないのだ。実際に被害者のトランクが発見されたように、身元を完全に秘匿し続けるのは不可能だろう。反対側からドアに施錠する方法も大掛かりなばかりか、奇抜過ぎて、従来の密室ミステリで使われていない新手をわざわざ考案したようにしかみえない。あんたは、密室マニアなのか。

 エラリイの推理を形成するもうひとつの手がかりは、施錠のトリックそのものである。結局、エラリイが犯人を疑ったのも、死体に異様な細工が施され、書棚が奇妙な角度に移動させられていたからで、その目的はドアに施錠することである、ドアに施錠することによって殺人の疑いを逃れられるのは事務室に籠っていた犯人だけである、と、エラリイは断定する。だが、死体や家具の奇妙な状態から、ドアに施錠することが目的である、と直ちに結論できるのは、相当頭が飛躍している人間に限られる。もちろん、エラリイ・クイーンは頭が飛躍しっぱなしの名探偵だが。

 被害者の背中に刺し通されていた槍が意味するのは、なんらかのトリックが使われたということだ。そのトリックとは、ドアに施錠するトリックだ。そのトリックによって利益を得るのは犯人だけだ、という論法は、果たして論理的なのか、それとも超論理なのか。密室に限らず、トリックをメインとしたミステリでは、名探偵が断片的な手掛かりから、トリック全体を丸ごと再構成して、それが可能な犯人をいきなり推断するが、本書の場合もそれらの不可能犯罪ミステリとさして変わらないような気がする。つまり、エラリイ・クイーンならではの論理的推理には見えない。トリックを解明することで犯人を論理的に指摘する、という手法は、案外と難しいようだ。

 上記のあべこべの謎と施錠のトリックに関する複雑な推理を、もっと単純化する手っ取り早い方法がある。犯罪現場の部屋には、犯人が待機している事務室との間のドアしかない、という設定にすればよい。つまり、控室から廊下に出るドアをなくす。そうすれば、「犯人は殺害後、被害者が聖職者であると知る」→「しかし、受付けの女性がいるので、ネクタイを調達にいけない」[viii]→「部屋中のものをあべこべにして、ネクタイの不在をごまかす」→「自分が疑われないように、控室側から施錠したようなトリックを施す」→「結果、唯一のドアが内側から施錠された密室内で、被害者が発見される」、という具合に、犯人特定の推理も、密室さえも完璧になる。もっとも、この状況設定にすると、真犯人以外、疑わしい人間はいなくなってしまう。いくら完全な密室だといっても、逆に完全すぎて、トリックが可能なのは、隣室にいた真犯人しか考えられないからである。それで、作者も密室にするのは断念したのだろう[ix]。トリックよりも、犯人の意外性を重視したというべきか。しかし、その結果、犯人特定の推理も、トリックも、どちらも、はなはだわかりづらいものになってしまったのは皮肉である。

 いずれにしても、犯人は、目撃されるのを恐れてネクタイ調達のために部屋を出ることができなかった、それぐらい慎重だった、と推理しておきながら、誰かが突然入ってくる危険もかえりみず[x]、ドタバタと部屋中の家具を動かしまくったりする奇天烈なパズル・ミステリなので、くどいようだが、常識的論理を振りかざしても始まらない。

 1950年代以降に顕著となる、エラリイ・クイーンのヘンテコ・ミステリの原点というべき作品だろうか。

 

[i] 『九尾の猫』(越前俊哉訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、2015年)、飯城勇三による解説、496頁。

[ii] 『EQ』(1978年1号、光文社)、「対談:エラリー・クイーンVS松本清張」、23頁。

[iii] エドワード・D・ホック編『密室大集合』(井上一夫他訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1984年)、「まえがき」、7頁。投票には、ダネイも加わっている。彼がどの作品を挙げたのか、興味あるところだ。

[iv] 飯城勇三エラリー・クイーン パーフェクトガイド』(ぶんか社文庫、2005年)、94頁。

[v] 飯城勇三エラリー・クイーン完全ガイド』(星海社新書、2021年)、62頁。

[vi] 同。

[vii] チェスタトン『ブラウン神父の童心』(1911年)所収。

[viii] 控室側から施錠されているのだから、堂々と受付けの女性の前を通って、ネクタイを手に入れに行けばよい、とも言えるが、通路側のドアがないとすると、容疑者が極端に限定されることになるので、目的の知れない不審な行動は取りづらいだろう。

[ix] 1952年の『帝王死す』では、開き直って、密室を優先させたように見える。同作の場合も、密室が完璧すぎて、犯人は被害者と密室内にいた人間以外にはあり得ず、実際にその人物が犯人(実行犯)である。

[x] 実際に、殺人直後に、何人もの関係者が事務室にやってくる。家具を動かしている最中に、誰も入ってこなかったのが不思議なくらいだ。『チャイナ・オレンジの秘密』(乾 信一郎訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1980年)、32-38頁。

J・D・カー『引き潮の魔女』

(本書の犯人やトリックを明かしてはいませんが、ほのめかしてはいます。また、『帽子収集狂事件』、『白い僧院の殺人』のトリックに言及しています。)

 

 本書は1961年出版のディクスン・カーの歴史ミステリである。1957年の『火よ燃えろ!』、1959年の『ハイチムニー荘の醜聞』に続く「スコットランド・ヤード三部作」の完結編ということになっている[i]

 タイトルは、海水浴用に砂地に建てられた小屋の一室で女の死体が発見される。発見者の主人公の医師が、恋する女性に向かって口にするのが「引き潮の魔女」である。引き潮で露わになった砂の上には、発見者の主人公と、後から駆けつけた恋人の二人の足跡しか残されていない。「引き潮の魔女」の仕業なのか、というのが上記のセリフとなる。1958年の『死者のノック』に続いて、懐かしの不可能犯罪、足跡のない殺人事件である。しかし、かつてのような怪奇ムードはかけらもない。イギリスの保養地の明るい陽光のなかで、事件はいたって淡々と進行する。

 「スコットランド・ヤード三部作」とはいうものの、警察の捜査が事細かに描かれるわけではなく、もっぱらトウィッグという警部ひとりが警察を代表して主人公であるデイヴィッド・ガースにつきまとう。というより、恋人のベティ・コールダーを犯人と疑い、ガースを共犯者と睨んで追求するので、またしても恒例の主人公の敵役扱いで、丁々発止のやり取りを繰り広げるが、これで一体どこが「スコットランド・ヤード三部作」なのか、という感が拭えない。

 それに歴史ミステリと銘打っているが、前述の『死者のノック』や前作の『雷鳴の中でも』(1960年)と比べて、それほど内容や背景が異なるわけでもない。もちろん、1907年が舞台なので、自動車が登場したり、初期の海水浴で用いられた車輪付きの小屋が「18世紀の遺物」[ii]として紹介され、まだまだ人前で肌を晒すことが憚られた風潮を暗示している。しかし、全体の印象は、カーの現代ミステリとさほど変わりなく、時代はエドワード朝だが、カーとしては、ヴィクトリア朝ないしシャーロック・ホームズの世界を舞台にミステリが書いて見たかったのだろう、と推察する。

 そう思うのは、これもカーについては毎度のことだが、しゃべり方が現代ミステリと全然変わらないからだ。カーの場合、現代ミステリの登場人物も大時代な話し方をするので、歴史ミステリで登場人物が同じような口調でしゃべっても、まったく違和感がない。というか、どっちがどっちでもいいようなものだ。

 しかも、もはや取り上げるのも億劫だが、どうしてカー作品の登場人物たちは、こうも話が回りくどいのか。そのうえ、喧嘩っ早い。ガースとトウィッグの猫と鼠、あるいはハブとマングースのような戦いは本作の見もののひとつだが、その他の登場人物では、友人のヴィンセント・ボストウィックの妻マリオン、同じく知人で警視総監秘書のカリングフォード・アボット、そして助手のマイケル・フィールディングに対してまで、ガースがやたら喧嘩腰なのはどういう性格なのか。以上の人々の会話も、相変わらず、言質を取られないことだけを目的としているような曖昧さで、この連中、どれだけ人に知られて困ることを隠しているんだよ、と呆れてしまう。

 肝心の足跡のない死体のトリックは、1934年の代表作の焼き直し[iii]で、同作はさらに前年の代表作[iv]の応用なので、オリジナルのトリックとはいえ、二次使用どころか、三次使用で、コスト・パフォーマンスは抜群だ。そつなく、手際よくまとめられているのだが、何となく白けてしまうのは、元ネタがわかっているからばかりではなく、やはり時代が変わってしまったからかもしれない。

 それでも、犯人の正体はなかなかよく隠されている。前半、マリオンの後見人のジョン・セルビーがガースを訪ねて、助言を求める。ここでの会話が、また、意味の掴めないモダモダしたものなのだが、この会見自体が重要な手掛かりになっている。『ハイチムニー荘の醜聞』や『雷鳴の中でも』においても用いられた曖昧な会話の中に手がかりを仕込む常套的手法で、ここ数年のカーが凝っていたテクニックである。性的な関係が動機となっているのも、戦後のカー作品の特徴であるが、この犯人の設定は、作者自身が初老の年齢に入りかけていたことと関係しているのだろうか。それとも、前作の『雷鳴の中でも』の犯人とちょうど対照的な構図で、要するに、年齢差のある不倫関係が動機なのだが、前作とは逆になっているのだ。要するに、単純に前作と男女の年齢を入れ替えて犯人とした、というだけなのかもしれない。

 実は、第二部になって、ガースの甥ヘンリー・オーミストンが登場して、この男がカー作品に典型的な「嫌な奴」で、読者は、「出た、出た、こいつが犯人だ」、と、半ば苦笑しつつ予想するのだが、この甥の若造、次に出て来たときには、すっかり従順な態度になっている。一体、最初の勢いはどうした。エピソードをひとつ読み飛ばしたのかな、と思うがそうでもなく、なんだか、作者も、「また、こういうタイプか、書くの飽きたな」、と思って、「めんどうだ、適当なこと言わせて、引っ込めちまえ」、とでも考えたかのような雑な扱いかたなのである。それとも、毎回似たような犯人を登場させていることに、カー自身も気づいて、それを逆手にとって、「またこいつが犯人と思った?ざーんねーんでーしーた」、と読者にしっぺ返しを食わせたかったのか。

 もっとも、カー作品で極端に嫌な奴というのは、主人公にコテンパンにボコられるためだけに登場するザコなので、最初から犯人にするつもりはなかったのかもしれない。しかし、それならそれで、例によって、ガースがボクシングかなにかで叩きのめすのかと思いきや、前述のとおり、急にしおらしくなって退場してしまう。一体、何のために出て来たのか、本書の最大の謎だ。

 

[i] 『引き潮の魔女』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1963年)、「歴史探偵小説三部作」(訳者あとがき)、265-66頁、ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、435-36頁。グリーンによると、イギリス版のみ「好事家のための覚書」が付いているらしい。翻訳では訳されていない。しかし、そうすると、『恐怖は同じ』(1956年)にも、イギリス版原書には付いていたのだろうか。

[ii] 『引き潮の魔女』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1980年)、105頁。

[iii] 『白い僧院の殺人』(創元推理文庫)。

[iv] 『帽子収集狂事件』(創元推理文庫)。

J・D・カー『雷鳴の中でも』

(本書および『ハイチムニー荘の醜聞』の内容に触れています。)

 

 ディクスン・カーの小説技法というか、悪癖というか、演出のひとつに、緊迫感を高めるために天候を利用する、というのがある。事態が急転したり、登場人物のひとりが「明日までに、私たちのうちの誰かが殺されるでしょう」、などと口走ったりしようものなら、突然、雷が轟いて嵐に見舞われる、という例のやつである。このマンネリズムは、我が国のカー評論でも散々馬鹿にされてきた[i]のだが、カー存命中にも言われ続けていて、ついに開き直ったのか、それとも、「ふん、私は気にしてないもんね」というポーズなのか、ついにタイトルにまで雷が出て来たのが本書である[ii]

 かつて人気映画女優だったイヴ・イーデンが婚約者とともに、アドルフ・ヒトラー(!)の山荘に招かれたとき、絶壁を見下ろすバルコニーから、婚約者が墜落死するという「事故」が起きる。それから二十年ほどたった1958年、元映画俳優のデズモンド・フェリアと結婚していたイヴは、巷間密かに囁かれていた、イヴが婚約者を突き落とした、という噂を打ち消すために、当時、同じく山荘に招かれていた画家でもあるジェラルド・ハサウェイ卿とジャーナリストのポーラ・キャトフォードをジュネーヴの自宅に招待する。

 同じく、フェリア家に招待された富豪令嬢のオードリー・ペイジは、デズモンドの先妻の子フィリップに求愛されているが、彼女には、ジェラルド卿の友人である画家のブライアン・イネス(例によって、アイルランド出身で46歳の頑固者、主人公)も密かに思いを寄せている。イネスは、オードリーの父親が、何かと悪い噂のあるイヴの屋敷に娘が招かれて心配しているのをよいことに、オードリーを説得してイギリスに連れ戻そうとする。

 ところが、説得に応じたはずのオードリーが、結局、フェリア邸に出かけて行った、と知ったイネスは、翌朝、急いで同家に向かう。イヴの書斎で、オードリーと彼女が口論しているのを耳にしたイネスが書斎に面したバルコニーに駆けつけると、イヴがふらふらと手摺に寄りかかり、そのまま真下の樹海の中に転落してしまう。呆然とするイネスとオードリー。彼女に殺人の疑いがかけられるのを阻止しようとして、やはり同家に招かれていたフェル博士や探偵マニアのジェラルド卿、そしてジュネーヴ警察を向こうに回し、イネスが策を練る、というお話。

 どうやら、フィリップだけではなく、父親のデズモンドまでがオードリーに懸想していて、オードリーが誘惑したからだと誤解したイヴが彼女を詰ったらしい、と判明するが、彼女が墜落したとき、周囲には誰もおらず、突き落とされた可能性はない。果たして、イヴの死は事故なのか、自殺なのか、それとも殺人か、という不可能状況における墜落死がテーマである。

 墜落死テーマというと、トリックではないが『髑髏城』(1931年)、それから、密室トリックと組み合わせた『連続殺人事件』(1941年)が連想されるが、後者に近いと言えば近いだろうか。結局、墜落したのは偶然で、死因はニトロベンゼンという薬品、気化したガスを吸って死亡したことがわかる。そこで今度は、どのようにしてガスを吸わせたのか、という毒殺トリック・テーマに転化する。その方法は、まあ、二階堂黎人は褒めている[iii]が、なあんだ、という類のもので、短編ネタ程度の出来である。

 それに対して、犯人の隠し方は、なかなかうまくいっている。といっても、カー作品では、まさにマンネリズムそのものの犯人なので、こう言えば、誰しも見当がつく、つまりフィリップ・フェリアである。大抵のカー愛読者は、登場人物がひととおり紹介された瞬間に、こいつが犯人だ、と直感するだろう(やはり、言い過ぎ?)。が、動機がわからない。いや、真相が明らかになると、やっぱり、という、カー作品では、毎度お馴染みの下司な野郎だったことが判明するが、動機の隠蔽というところに本作の読みどころがあるようだ。

 一番大きな作者の仕掛けは、殺人直前のイヴとオードリーの会話で、ちょうど前作の『ハイチムニー荘の醜聞』[iv]がそうであったように、登場人物の間の会話が嚙み合わない。二人がそれぞれ別の人物のことをしゃぺっている[v]ので、読者も惑わされる、というもので、まるで、すれ違いコントのような引っ掛けである(ア〇〇〇〇シュか!)。要するに、動機となるのは義理の母と息子の不倫で、セクシュアルな面が強調されるようになった戦後のカー作品の特徴が現れている。それを、前作に続き、登場人物の会話を通じて作者が仕掛ける錯覚トリックで隠蔽した作品である。

 本書は、ディクスン・カーの作家生活三十周年を記念して巻末を封印して発売された[vi]、という。しかも、フェル博士シリーズの20作目の長編ミステリである。それだけ、カーも、出版社も、犯人の意外性に自信があったらしい。村崎敏郎による旧訳は、本国での出版直後の刊行で、カーの最新作が英米とほぼ同時に読める、という、現代のカーのファンなら狂喜しそうな早さだった。村崎の解説は、巻末封印のことから、上記の叙述トリック、近年のカー作品の変貌の傾向まで、漏れなく論じており、至れり尽くせりといえる。ただ、ジュネーヴ[vii]といえば、ジャン・カルヴァン宗教改革だが、小説中で、カルビン、カルビンと訳されているのは違和感があった。-と思ったら、村崎の解説を読むと、「我が国の通称」[viii]と書いてある。へえ~、そうだったの。でも、新訳では、カルヴァンにしたほうが良かったんじゃないの(英語表記だと言われれば、それまでだが)。

 それと、本書でも、例によって、(何度同じことを言わせるのか)主人公イネスとオードリーの痴話喧嘩が小説を進める動力となっているのだが、彼が最初からフィリップ・フェリアに対して喧嘩腰なのは、どうにかならんものか。読了すれば、犯人とわかって、しかもオードリーの財産目当ての最低男と判明するのだが、そうはいっても、イネスの態度は四十過ぎた、いい大人のものではない。まして、相手は二十歳以上年下の若造だ。さらに、オードリーのほうも、何度も何度もイネスに念を押されたにもかかわらず、男の気を引く手管かなんか知らないが、約束を破って勝手な行動を繰り返す。惚れた弱みとはいえ、よくイネスも我慢して、オードリーをバルコニーから突き落としたりしないものだと感心する。フェル博士もフェル博士で、相変わらず、いいところで話をやめてしまい、「いや、それはまだ言えない」などと、能書きを垂れ流す。本書では、ジェラルド・ハサウェイ卿がフェル博士の敵役で、傍若無人で図々しい貴族。得意気に真相の一部を明かすが、最後はフェル博士にやり込められて、道化を演じる。しかし、他の連中を見渡すと、一番裏表がなくて好感がもてるのは彼じゃないかと思えてくる。

 

[i] 松田道弘『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、239頁、芦辺 拓/有栖川有栖/小森健太郎二階堂黎人編緒『本格ミステリーを語ろう![海外編]』(原書房、1999年)、215頁、ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、429頁も参照。グリーンは、結構褒めている。

[ii]マクベス』からの引用らしいので、シェイクスピアだぞ、恐れ入ったか、という怒りの反論なのかもしれない。『雷鳴の中でも』(村崎敏郎訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1960年)、219頁、『雷鳴の中でも』(永来重明訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1979年)、281頁。

[iii] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、388頁。

[iv] 『ハイチムニー荘の醜聞』(真野明裕訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1983年)、73-77頁。

[v] 『雷鳴の中でも』(永来重明訳)、134頁。

[vi] グリーン前掲書、429頁。

[vii] これまた、カーが休暇で訪れた体験に基づく舞台設定だったそうだ。同、429頁。

[viii] 『雷鳴の中でも』(村崎敏郎訳)、286頁。

J・D・カー『ハイチムニー荘の醜聞』

(本書の犯人とトリックを明かしているほかに、アガサ・クリスティの『オリエント急行の殺人』の内容について、注で言及しています。)

 

 フェル博士のカムバックを祝した、前作『死者のノック』(1958年)から一転して、再び歴史ミステリに戻ったのが本書である。しかし、前作とそれほど雰囲気が変わっているわけではない。歴史ミステリといっても、どんどん時代が下っていっており、『火よ燃えろ!』の1829年から、さらに進んで1865年が舞台となる。『死者のノック』とは、百年ほどの隔たりがあるとはいえ、『ビロードの悪魔』のごとき騎士道小説のような舞台背景ではなくなっている。

 よく知られているとおり、『火よ燃えろ!』(1957年)と本書『ハイチムニー荘の醜聞』(1959年)[i]は、スコットランド・ヤード三部作の第一作、第二作ということになっている。イギリス警察の草創期を描くシリーズで、さながら山田風太郎の『警視庁草紙』(1973年)である(カーのほうが先だが)。もっとも、本書では、さほどスコットランド・ヤードについて詳しく語られているわけでもなく、警察官が主人公で大活躍するというわけでもない。大体、『火よ燃えろ!』の段階では、まだ三部作の構想はなかったらしい[ii]

 タイトルに「醜聞(スキャンダル)」とあるが、具体的に何をもって醜聞といっているのかもよくわからない。レディング近郊のハイチムニー荘の主人である弁護士のマシュー・デイマンが、かつて自身が関わった殺人事件の裁判で死刑を宣告された被告人の女性に言い寄った、という噂を、第1章で、登場人物のひとりが述べるので、これが醜聞ということなのだろうか。もちろん、本当の意味でのスキャンダルは、この後の二重殺人事件の真相であるわけだが。ドメスティックな印象の題名も含めて、ある一家における出生の秘密とそこから生じる殺人を描く本書は、ヴィクトリア朝を描いた歴史ミステリというより、その時代に書かれたクラシカル・ミステリの趣である。作中でも言及されているが、ウィルキー・コリンズの『月長石』(1868年)か、あるいは、少し後だが、シャーロック・ホームズ風のミステリ、もしくはそのパロディのようにも見える。イギリス警察の創成と同時に、近代ミステリの創世記を題材としたという意味での「歴史」ミステリともいえそうだ。

 内容もそれに見合った、ヴィクトリア朝ミステリ的なプロットである。デイマン家には、金髪のシーリアと黒髪のケイトという美しい姉妹がいる。物語は、この姉妹のいずれが「悪い血」を受け継いでいるか、を中心に展開する。何やら、『眠れるスフィンクス』(1947年)の焼き直しのような設定だが、筋書きは無論異なる。主人公のクライヴ・ストリックランドは、姉妹の兄であるヴィクター・デイマンの頼みで、姉妹に対する結婚申し込みの代人としてデイマン家に向かう。途中、パディントン駅で、デイマン家の当主マシューと後妻のジョージェットと邂逅し、車中で、マシューから、前日深夜、コートを着た謎の男が邸内に現れ、執事の娘を脅した、という話を聞かされる(産業革命時代の列車の旅を描くのも、歴史ものとしての狙いのひとつなのだろう)。ヴィクターの悪質ないたずらを疑うマシューとの間で険悪な雰囲気になるが、デイマン家に着いたクライヴは、ケイトを一目見た瞬間に恋に落ちる[iii]。カー作品のお約束なので、もはや読者もいちいち反応せずに読み進めるだけだが、クライヴの思い込みの激しさは情熱を通り越して、少々怖い。いずれにしろ、クライヴがケイトに惚れることで、この後、例によって、犯人がケイトでは、と、いらぬ苦悩を抱えることになる。これまたお馴染みの展開であるが、作者にしてみれば、サスペンスを高める手っ取り早い手法なのだろう。多くの読者は、読み飽きた展開に麻痺していると思うが。

 改めて、何やら不安に駆られている様子のマシューに呼ばれたクライヴは、異様な昔話を聞かされる。噂通り、かつてデイマンは、最初の妻を亡くしたころ、パトロンを殺した容疑で起訴されたハリエット・パイクという女の裁判で検察側に立って、彼女を厳しく追及した。女は死刑判決を受けたが、あまりに一方的で厳しい態度だったのでは、と後悔を覚えたデイマンは、獄中の彼女に面会する。彼女の打ち明け話から、その無実を信じたものの、ハリエットは結局処刑されてしまう。デイマンは罪滅ぼしのつもりで、彼女の遺児を自分の子どもとして引き取った、というのである。ところが、時を経て、デイマンはパイクのもっともらしい告白が嘘だったことを知る。そして引き取った子どものその後を見てきた彼は、母親から犯罪者の血を受け継いでいるのでは、と恐れを抱くようになった。

 このような打ち明け話を聞かされたクライヴが、シーリアとケイトのどちらがパイクの娘なのか、とデイマンに詰め寄ったそのとき、突然ドアが開き、コート姿の怪人物がデイマンに向けて銃を発射した。デイマンが倒れると、犯人はドアに鍵をかけて逃げ去ってしまう。クライヴは、デイマンの遺体とともに、部屋に閉じ込められるが、その後、事件勃発前から屋敷はドアも窓も施錠され、何者も出入り不可能だった、とわかる。そのうえさらに、妻のジョージェットも殺害されて、クライヴは、愛するケイトとその姉のシーリアのいずれがパイクの娘で、殺人犯人なのか、懊悩することとなる。

 本書の趣向のひとつが、探偵役を実在の人物であるジョナサン・ウィッチャー元警部が務めることである。有名なコンスタンス・ケント事件を捜査し、コンスタンスを逮捕したものの、無実が証明された結果、警察を追われるが、事件後、五年たって、コンスタンスが殺人を告白した、というのが事実のようだ。それが1865年だった。

 旧訳の訳者である村崎敏郎が解説で述べているように、本書の事件がコンスタンス・ケント事件にわざと似せて考案されているのが趣向なのだが、さらに村崎が指摘しているとおり、ケント事件を模倣していると見せかけて、その裏をかく、というのが本書のミステリとしての狙いになっている[iv]

 つまり、女性が犯人というコンスタンス・ケント事件と同じく、二人の娘のどちらが犯人かを謎の中心と思わせておいて、実は真犯人は息子のヴィクターだった、という捻りを加えている。ケント事件で、犯人が男装していた事実に合わせて、謎のコートの怪人物が男装の女だと読者に思わせて、ひっかけようというわけである。

 しかし、本書の注目点は、こうしたどちらかと言えば平凡なトリックにあるのではない。ジョナサン・ウィッチャーを探偵役にすることで、いかにも本作はコンスタンス・ケント事件のような女性犯人のミステリと思わせるのだが、それだけではない。

 カーの小説における会話の渋滞は、もはや東名高速道路どころではないが、本書はまたさらに悪化して、むしろ、評論家に批判されて、むきになっているのではないかとしか思えない[v]。しかし、それは表面上、そう見えるだけで、本書の場合は、二階堂黎人が指摘しているように、そこにこそミステリとしての最大の技巧が準備されている[vi]。つまり、第5章のクライヴとマシュー・デイマンとの会話で、前者はパイクの遺児は娘だと思って話しているのだが、デイマンのほうは、息子であると「ほのめかして」いるのである。しかも、ほのめかしているだけで明言はしていない。

 要するに、これは『墓場貸します』あたりから、カーがことのほか「熱中」している叙述トリックのヴァリエーションである。同作や『疑惑の影』、『ビロードの悪魔』、『九つの答』といった諸作品で、カーは手を変え品を変え、曖昧な文章で誤解させたり、省略の技法を用いて、読者をペテンにかけ・・・、いや楽しませてきた。それが今度は、いよいよ登場人物に曖昧な話し方をさせて、読者を騙そう(男を女だと思わせよう)としているのである。

 それにしても、このマシューという男、とにかく話が回りくどい。もっとはっきりしゃべれよ、と胸ぐらをつかんで揺さぶりたくなるが、他の登場人物も、継母のジョージェット、そしてケイトと、いずれも犯人がヴィクターであると薄々感付いていながら、それでも容易に疑いを口にしようとしない。知らないのはクライヴだけという、まるでクリスティの有名長編のパロディ[vii]のようだが、身内のことだから、疑っていてもはっきりとは言いにくい、ということのほかに、これがヴィクトリア時代の人々の態度であり、会話なのだ、という作者の弁解も含まれていそうだ。本書の会話のぼかしのテクニックが、どこまで巧みにできているかは、評価が分かれそうだが、作者がそこまで考えてヴィクトリア時代を舞台にミステリを書いたのだとすれば、カーの作家魂もまだまだ健在のようだ。

 

[i] 『ハイチムニー荘の醜聞』(村崎敏郎訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1960年)、『ハイチムニー荘の醜聞』(真野明裕訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1983年)。

[ii] 『引き潮の魔女』(1961年)を書いてあとになって、三部作構想を思いついたように見える。ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、436頁。

[iii] 『ハイチムニー荘の醜聞』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、55頁。

[iv] 『ハイチムニー荘の醜聞』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)、293-94頁。

[v] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、428頁。

[vi] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、388頁。

[vii]オリエント急行の殺人』のこと。つまり、探偵以外はみんな真相を知っている、という意味です。

J・D・カー『死者のノック』

(トリックや犯人は明かしていませんが、ちょくちょく暗示的なことは書いています。)

 

 9年ぶりのフェル博士シリーズで、博士はアメリカで探偵の腕を振るう。『墓場貸します』(1949年)のヘンリ・メリヴェル卿に続くアメリカ上陸だが、H・Mのようなおちゃらけたところは微塵もない。それどころか、終始真面目な表情を崩すことなく、冗談ひとつ言わない深刻さである。

 『死者のノック』(1958年)[i]は、ディクスン・カーの小説の変化を如実に表わしている。戦後のミステリの動向として、ゲーム性が薄れ、シリアスな人間ドラマの傾向が強まるが、カーの作品も紆余曲折を経つつも、その方向に向かっていった。本書はそうした変化の一つの到達地点で、全体が四部に分かれるその第一部などは、主人公のマーク・ルースベンと妻のブレンダの不信と嫉妬をぶつけ合う会話から成り立っている。マークは妻の不倫を疑い、ブレンダは学究生活に閉じこもる夫から無視されていると思い込む泥沼状態で、まるで、1940年代の諸作で最後に結ばれた恋人同士のその後を描いているかのようだ。

 無論、二人のいさかいの背後に、ミステリの伏線が張られているのだが、第二部までの前半を見る限り、パズル・ミステリというより、むしろ心理スリラー。カーの小説としては、もっとも普通小説に近い雰囲気である。

 もっとも謎解きのテーマはこれ以上ないくらいのパズル趣味で、これもまた久々の密室もの。しかも、ウィルキー・コリンズが書簡のなかで言及した未完の密室小説を現実に模した犯罪という趣向だから、本来なら、ミステリ・マニアを歓喜させるようなお膳立てである。それがあまりピンとこないのは、コリンズと密室ミステリという組み合わせのせいか。「モルグ街の殺人』に続くエドガー・アラン・ポーの未発表密室小説の原稿というなら、もっと盛り上がったかもしれないが、すでにポーは『帽子収集狂事件』で扱っている。最終作の『血に飢えた悪鬼』(1972年)で探偵役に起用した所を見ても、カーはコリンズがえらく気に入っていたらしいが、やはり19世紀ミステリへの郷愁なのだろうか。

 ワシントン近郊のクイーンズヘイヴンという大学町で、悪名高い美女のローズ・レストレンジが自宅の寝室で胸を刺されて死亡しているのが見つかる。発見したのは主人公とその友人トビー・サンダーズ、および、トビーの婚約者キャロラインの父親であるサミュエル・ケント教授。問題の部屋は窓もドアも内部から鍵がかけられており、三人は、ドアの鍵穴に内側から刺さったままの鍵を外から突っついて、ドアの下の隙間に差し入れた新聞紙の上に落とし、鍵を取り出すという方法でドアを開くことができた。・・・という細かい描写にトリックが潜んでいるのだが、この密室のアイディアは、カーには珍しいというか、1940年代以降の密室もので多用するようになった、ちょちょいのちょいの小手先トリックで、日本作家の思いつきそうな手品である(失礼な言い草?実際に、日本のミステリで似たようなすり替えトリックを使った小説があったと記憶している[ii])。しかし、これはこれで、小味ながら、カーとしては新鮮でなかなか気が利いている。しかも、人間関係の軋轢を扱ったミステリに見合った、現実味のあるトリックと言えるだろう[iii]

 1930年代のカー作品は、天翔ける奇想天外なトリックに、これでもか、という怪奇の衣装を着せて、さながら、観客の度肝を抜く野外アトラクションのごときスケールだったが、40年代の小体なパズル小説を経て、50年代に入ると、次第に現実味のあるトリックとシチュエイションにシフトしてきた。それは確かに、『囁く影』や『わらう後家』のような、底が抜けたような冗談すれすれのトリックもあったが、全体としては、おとなしい現実的な方向に変化してきた。そもそも不可能犯罪にさほど拘らなくなった。

 また、50年代のカーは、一方で歴史ミステリに軸足を移し、H・Mものを含む現代ミステリは、軽く流している風な作品が目立ち始めた。『死者のノック』は、そんなカーが、現代を舞台に、まさに第二次大戦後の「現代ミステリ」を意識して書いた一編だったように思える。

 殺人が起こって、フェル博士が登場する第三部以降は、当然、事件の解決と密室の謎解きが中心となるが、カー一流のねじ曲がった会話と文章のオンパレードで、フェル博士も他の登場人物も、誰一人として率直な話をせず、思わせぶりな発言を散々繰り返す。まるで、誰が一番はぐらかすのが上手か、競っているようだ。そして、どうやらカーは、こうした曖昧な会話劇が、心理ドラマっぽいと思い込んでいたようだ[iv]

 それが、カーにとっての50年代に相応しいミステリだったとすれば、相変わらず、カーの小説観は偏向しているが、時代に即応したミステリを書こうという奮起の表われだったとすれば、カーの努力も認めてあげなければいけないだろう。

 とはいえ、マークとブレンダの夫婦間の危機から始まった本書は、いつの間にか、二人の関係が曖昧なまま元のさやに納まって、「やっぱり君を愛しているよ」、「今でもあなたを愛しているわ」という、カーらしいハッピー・エンドで終わる。最初の心理小説風のシリアスなドラマはどこに行ってしまったのか。二人の間の問題は何も解決しておらず、こいつら、また同じ騒動を起こすぞ、と思わせる。小説の最後、マークを残して、ブレンダが家を出ていくラストにすれば、フランス・ミステリ風になっただろうが、カーにそれを求めても仕方ないし、その必要もないか。

 

[i] 『死者のノック』(村崎敏郎訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1959年)、『死者のノック』(高橋 豊訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1982年)。

[ii] 多分、森村誠一の長編小説に、これと似た発想のトリックが使われていた記憶がある。

[iii] 二階堂黎人によると、トリックの解説部分の訳が間違っているそうだ。二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、387、395頁。

[iv] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』、421-22頁参照。

J・D・カー『火よ燃えろ!』

(犯人やトリックは明かしていません。)

 

 第五作『火よ燃えろ!』(1957年)[i]で、ディクスン・カーの歴史ミステリは新たな段階に入ったといえる。

 いわゆる「スコットランド・ヤード三部作」[ii]の第一作で、イギリス近代警察誕生秘話(フィクションだが)というべき内容である。

 警察機構の発展は、より大きな枠組みで捉えれば、近代国家形成の一局面で、死刑執行権を始めとして近代国家が暴力を独占行使していく過程で、外に対しては軍事力によって国家主権を担保する一方、内に対して、個人の暴力行使を原則禁止して法の支配を貫徹する歴史段階を表わしている。

 ハワード・ヘイクラフトの有名な評論によれば、ミステリは、独裁国家においては抑圧され、民主国家において栄えるという[iii]が、その観点からすれば、公平で客観的な捜査に基づいて犯罪を摘発する近代警察の創設は、エドガー・アラン・ポーによる近代ミステリの誕生と時間的に一致している点に注目すべきである。いくら名探偵が警察の無能を嘲笑っても、名探偵の推理を受け入れてくれる警察が存在しなくては、ミステリは成立しないし、犯人が明らかになっても、法の処罰を免れてしまうのでは、読者にとっても、およそフラストレーションのたまる結末にしかならないだろう。ミステリの発展も、近代警察機構の確立あってこそのものである。

 カーが果たしてそこまで意識してイギリス警察の草創期を歴史ミステリで扱うことにしたのかどうかはわからないが、警察官を主人公にすることによって、従来の歴史ものとはかなり違った印象の小説となった。もちろん、活劇シーンは健在で、本書でもヴァルカン(実在の人物らしい)の賭博場での乱闘場面は圧巻の迫力だし、もう一人の嫌な奴、ホグベン大尉との再三にわたる対決は、最後のカタストロフィに至るまでプロットを引っ張っていくが、これまでの剣戟(『ビロードの悪魔』)やボクシング(『恐怖は同じ』)対決とはだいぶ様相が異なる。そもそも、本書以前の歴史ミステリでは、主人公は爵位をもつ貴族が多く、名誉とかスポーツマンシップとかが主人公の行動規範となっていたが、そして、本書の主人公のジョン・チェビアトも、性格は彼らとさほど変わらないのだが、その行動を支えているのは、草創期の警察官が社会のなかで蔑視され、貶められることも多かった時代だからこその職業人としての矜持と使命である。

 また、カーの歴史ミステリは、1930年代のDevil Kinsmere (または『深夜の密使』)のようなロマンスや『エドマンド・ゴッドフリー卿殺害事件』のようなノンフィクションが17世紀の王政復古時代、すなわち近世を扱っていたことを考えると、少々意外なことに、18世紀末から19世紀にかけての近代を舞台にしたものが多い。『ニューゲイトの花嫁』がナポレオン戦争終結直後の1815年、『喉切り隊長』がまさにナポレオン戦争真っただ中の1805年、『恐怖は同じ』は、その直前の1795年である。つまり、1660年から1689年の王政復古時代が描かれるのは『ビロードの悪魔』のみということになる。そして『火よ燃えろ!』は、ナポレオン戦争の余韻が残る、従って反動的なウィーン体制下の1829年のロンドンで事件が起こる。一方で19世紀は、本書でも(第一次)選挙法改正(1832年)への言及が見られるように、自由主義の広がりと国民国家の世界的叢生とが進展する時代でもある。カーがこの時代を多く舞台に選んでいることから見ても、テーマが近代における警察機構創立の歴史へと向かうのは必然だったのかもしれない。

 恐らく、この時代(18世紀末から19世紀)のほうが書きやすいということもあるのだろう。資料も豊富で、風俗や習慣、人々のしゃべり方もそれほど現代と変わらない(ということもないだろうが)。17世紀のイギリス社会を正確に再現するのは、チャールズ2世大好き人間のカーにも骨が折れるということだろう。読む側からしても、新しい時代を対象とした小説のほうが読みやすいし、親しみやすい。19世紀も後半ともなれば、近代ミステリが生まれ、シャーロック・ホームズの登場もすぐそこである。新しい時代をテーマにという、読者からの要望もあったのかもしれない。もっとも、いっそ現代ミステリを書いてくれ、という声のほうが大きかったかもしれないが。

 ミステリとして見た場合、他の歴史ものと比べて、パズル興味が強まっていることが指摘できる。密室状況における不可能犯罪で、屋敷の広い廊下で、主人公を含む三人の目撃者に見つめられていた被害者が、誰ひとり銃を持った者はいないのに、どこからか発射された銃弾を受けて死亡する。

 そのトリックは、現実の事件で使用されたもので、カーにしては平凡であるが、その分、現実味がある。ここが本作のミステリとしての大きな特徴で、事件そのものがはなはだ現実的で、この作者には珍しい。チェビアトは、現代警察における指紋鑑定などの技術が利用できない不便さを嘆きながらも、手堅い捜査で事件の真相に迫っていく。名探偵ものというより、警察小説のようである(いや、「警察」小説なのだが)。意図的に、現実的なミステリを書こうとしたのではなく、スコットランド・ヤードをテーマにしたので、自然と現実味のある事件になったのだろう。『ビロードの悪魔』などとは大違いである。

 しかし、一方で、小説の主題自体は『ビロードの悪魔』に酷似している。現代人が過去に戻って、殺人事件に巻き込まれる(あるいは、自ら関与していく)というもので、このテーマでは、『ビロードの悪魔』(1951年)、『恐怖は同じ』(1956年)に続く「タイム・トラベル三部作」とも言える。もっともチェビアトは、悪魔と契約はしないし、現代でも過去でも殺人の罪で逃亡中というわけでもない。警視庁までタクシーに乗ったら、いつの間にか、1950年代から1829年に飛んでしまったのだ。その後、これはいつも通りだが、フローラという美女と乳くり・・・、いや、いい雰囲気になったり、猛烈に怒らせたりしながら、最後には、絶体絶命の瞬間に現代に舞い戻る。説明は一切なくて、一体何のために過去に戻ったのか、なんでそんなに都合よく現代に戻れたのか。そんな疑問をこの作者にぶつけても無駄である。

 しかし、このラストの鮮やかさは、カーの作品中でも屈指のもので、本書はこの最後の一行でミステリの快作たりえている。事件そのものの現実味とは対照的だが、この現実的なプロットと幻想小説のような結末の対比が見ものである。

 

 まったくの蛇足だが、本作でも、警察官がもつrattle(rattlerではないらしい[iv])は、「がらがら」である。旧訳の村崎敏郎訳だけではなく、新訳(といっても1980年)の大社淑子訳でもそうで[v]都筑道夫には気の毒だ[vi]が、やっぱり「がらがら」としか訳しようがないようですね。

 

[i] 『火よ燃えろ!』(村崎敏郎訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1960年)、『火よ燃えろ!』(大社淑子訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1980年)。

[ii] 第二作は『ハイチムニー荘の醜聞』(真野明裕、ハヤカワ・ミステリ文庫、1983年)、第三作は『引き潮の魔女』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1980年)。

[iii] ハワード・ヘイクラフト『娯楽としての殺人 探偵小説・成長とその時代』(1941年:林 峻一郎訳、国書刊行会、1992年)、「第15章 独裁者、民主主義と探偵」、350-56頁。この文章は、江戸川乱歩によって、しばしば引用されてきた。江戸川乱歩「論理性を」『幻影城通信』(講談社、1988年)、13-14頁、「探偵小説の再出発」、同、19-22頁。

[iv] John Dickson Carr, Fire, Burn! (Carroll & Graf Publishers, 1987), pp.9, 136, 179.

[v] 『火よ燃えろ!』(村崎敏郎訳)、20頁、『火よ燃えろ!』(大社淑子訳)、19頁。

[vi] 都築道夫『死体を無事に消すまで』(晶文社、1973年)、30-31頁。都筑がエッセイに書いているのは『恐怖は同じ』ではなく、本書のほうだったようだ(出版が本書のほうが先)。