江戸川乱歩『妖虫』

(本書のほか、『蜘蛛男』の犯人について触れています。また、横溝正史の某短編小説についても同様ですので、ご注意ください。)

 

 昭和8年12月から翌年11月まで『キング』誌上で連載された『妖虫』(1933-34年)は、第二回目の(に、二回目!?)休筆期間を経て、江戸川乱歩が再び探偵小説文壇に戻ってきた記念すべき「第二作」である。

 では、復帰第一作は?そう、もちろん『悪霊』である。

 同長編は、『新青年昭和8年11月号から華々しい宣伝文句に飾られて連載開始し、しかし、わずか三か月で敢え無く玉砕した。

 そして『悪霊』といえば、そう!言わずとしれた、横溝正史による「乱歩罵倒事件」である。

 「二年間の休養を経て書きだした近頃の作品は、一体何というざまだ」、「一先ず仕事のしめくくりはついたから、あとはどんな仕事をしてもよかろうというのじゃお話にならない」、「[今書きかけている四つの長篇を、]全部あやまってもう一度休養に入るべきだ」、「それよりほかに救われる道はないと思う」[i]

 わざわざ全文を自著に再録した乱歩であったが、正史に気を使ってか(あるいは自らを慰めてか)「酔余の一筆」[ii]であったろう、と付け加えている。が、それにしてはテンポがよい。酔っぱらって書いたとは思えないリズミにのった名文で、タンカの切り具合など、さすが横溝正史である(?)。乱歩にしても、弟分の横溝からケチョンケチョンにいわれて、無論面白くなかっただろうが、しかし、それはそれとして、あまりに痛快な罵倒文なので、半ば感心して全文を再現したのではないか。反面、戦後になっても、結構ネチネチと根に持っていたらしい様子も文章からうかがえる[iii]中井英夫は、「江戸川乱歩全集」解説で、この弾劾文の一件を、乱歩と正史の友情を越えた絆の物語として、はなはだ感動的に描いているが[iv]、乱歩も正史も(そして中井も)既にいない今、一読者の無責任な感想を述べれば、まさに日本ミステリ史に歴然として輝く名場面のひとつであろう。

 「ところで、横溝君が『あとはどんな仕事をしてもよかろうというんじゃあ』と書いた他の三つの仕事」[v]と乱歩が続けて記している、そのなかに『妖虫』が含まれていることは言うまでもない[vi]。これら三長編は、確かに毎度おなじみの猟奇スリラーで、乱歩本人も「本格ものでは却って困るのだし、(中略)実をいうと全体としての一貫性なんかはどうでも」[vii]よかったと、よく読むと、とんでもないことを書いている。後年、大内茂男も、こうした自己評価を踏まえてか、「『魔術師』や『黄金仮面』にみられたような通俗チャンバラ小説に対する一種の情熱はもはや見られず、どうも惰性で毎月毎月をつないでいった」と断じたうえ、「終回近くなるまで、乱歩のほうでも誰を犯人にするか、はっきりした見通しをもっていなかったのかも知れないのだが」と、通俗スリラーのなかでもさらに下方評価している[viii]

 しかし、上記の自嘲自戒の言葉とは裏腹に、別の機会に本作について語っているのを読むと、「真犯人と動機はちょっと珍しい着想であった」[ix]と、結構自慢気なのである。大内の言うとおり「通俗チャンバラ小説」に対する「情熱」は失せていたかもしれないが、必ずしも「惰性」ばかりではなく、探偵小説の新しいアイディアを盛り込もうとしていたらしいのだ。

 そしてそれは、書き出しの部分を読むと推測がつく。

 冒頭、主人公の相川守と妹の珠子は、珠子の家庭教師である殿村京子とレストランで食事をしている。すると、離れた席の青眼鏡に口髭の怪しい男の口元を見ていた殿村が、メニューの裏に何やら書き留め始める。彼女はリップ・リーディングすなわち読唇術を会得しており、聞こえない会話でも唇の動きから読み取ることができるのだ。そして、青眼鏡の男が語ったのは、恐るべき殺人計画であった。翌夜、問題の谷中天王寺町の空き家に赴いた守青年は、やがて相川家を襲うことになる残虐極まりない事件の渦中へと足を踏み入れることになる。

 上記の展開で、すでに問題なのは、たまたま殿村が盗み読んだ会話が、相川家を狙う悪人たちの計画[x]だったなどという偶然があり得ようはずがない(なんで相川家を狙う怪人たちが、兄妹を前にのんきに歓談しているのだ)。仮に、殿村に会話を読み取らせることまでが計画のうちだとしても、彼女がそうするかは運任せである。殿村が読み取ったと称する話自体が嘘なのだが、青眼鏡の男がもともと無関係な赤の他人だったのかどうかは、わからない。犯人である殿村が説明しないからである。青眼鏡の男も一味だったのか、それとも、まったく無関係の部外者だったのかは、最後まで不明のままである。

 レストランの場面のどこまでが芝居なのかはともかく、乱歩の言う「意外な犯人」とは、この読唇術で犯罪計画を明らかにした人間が犯人だったという着想を指してのことと思われる。リップ・リーディングという言葉を使っているところを見ると[xi]、外国ミステリから借りたネタなのかもしれないが、ちょっと思い当たらない。

 しかし、このアイディア、残念ながら、上記のごとき信じがたい偶然を含んでいるので、殿村が断然怪しくて、しかも、このあと乱歩作品恒例の見え透いたマジック-例えば、回りの者が気付かぬすきに、サソリのおもちゃを放り出して、あれ、あそこにサソリが、とか大騒ぎするトリック-を連発するので、犯人であることが丸わかりになってしまう。もうちょっとアイディアを練って工夫すれば、かなり面白いトリックになったはずだが、そう思うのは、実際に同一の着想によるミステリがあるからである。よく知られているので、もったいぶることもないが、ほかならぬ横溝正史の「鏡の中の女」[xii]である[xiii]

 同作品は、ずっと後の昭和32年(1957年)に書かれたもので、時代の違いを考慮に入れずとも、『妖虫』より、はるかに巧妙に出来ている。上記の不自然な偶然も改良されており、評判もよいようだ[xiv]。しかし、『妖虫』と「鏡の中の女」、読唇術がテーマであるばかりか、犯人の設定も、まったく一緒なのである。金田一耕助とカフェで同席していた女性が、別席の男女の会話をリップ・リーディングで読む。その会話が暗示する殺人が起きるのだが、結局、読唇術の女性が犯人である。『悪霊』以下の諸作(そのなかには本書も含まれる)を、「何というざまだ」とこき下ろしたはずの正史なのに・・・。

 

乱歩:横溝君、あんだけ言っておいて、パクるとはひどいよ。

正史:いや、それは、そのう、乱歩さん。・・・「要注意(ようちゅうい)」ちゅうことで、堪忍しとくれやす。

乱歩:そのトリックは、ぼくが「使用中(しようちゅう)」ちゅうこっちゃな!

(関西言葉は、よくわからないので、何分、ご容赦願います。)

 

 まあ、正史としては、乱歩に敬意を表したつもりなのかもしれない。『妖虫』のこのアイディアに、実は感心していて、上手く扱えば面白くなると考えていたのではないか。

 上述の「あれ、あそこにサソリが」トリックにしても、いわゆる「早業殺人」のトリックとして有名なアイディアで、乱歩ごひいきのジョン・ディクスン・カーもある作品で用いているほどである(『妖虫』のほうが早い。注で作品名を挙げます)[xv]。つまり、トリックの使い方がまずいので(これもひどい言いようだが)、アイディア自体は優れているのである。

 さらに推測を連ねると、これらのアイディアは『悪霊』の構想のなかで生まれたものではなかったか。『新青年』に連載する小説なのだから、あれこれと幾つもトリックや手がかりを考えていたはずである。『妖虫』は、順番からいえば、『黒蜥蜴』や『人間豹』より早く、『悪霊』に次いで連載開始されている。従って、『悪霊』のために考案したトリックの幾つかを本書に投入した可能性は低くはないだろう。

 『黒蜥蜴』、『人間豹』との対比で、もうひとつ浮かんでくる疑問は、本書の探偵が明智小五郎ではないことである。

 三笠竜介という白髭をはやした丸眼鏡の老人で、「サルに洋服を着せたような」[xvi]と形容される、うさん臭さでは『蜘蛛男』の畔柳博士さえ上回る怪人物である(名探偵の紹介じゃないな、こりゃ)。しかも探偵のくせに、自分で作った落とし穴に落とされたり、調子に乗って犯人に見えを切っているところを後ろから刺されたり、どうもデクノボーのジジイ探偵としか思えない。なんで、わざわざ明智ではなく、こんな世界のミステリでも屈指の後期高齢者探偵(年齢は不詳です)をつくったのだろう。

 ひとつ考えられるのは、上記の推論とも重なるが、実は乱歩としては、本書をできるだけ本格探偵小説らしくしたかった。それで、すっかりアクション・ヒーローと化した明智ではなく、新規の探偵を創造したということである。

 いまひとつは、三笠竜介こそ真犯人であると読者に勘違いさせる狙いだったのではないか(『蜘蛛男』方式ですね)。犯人である殿村を隠すためのレッド・へリングということであるが、もしこの推測が正しければ、やはり本書は、案外本格的な謎解き小説として構想されていたのかもしれない。ところが、肝心の『悪霊』が早々に沈没してしまい、そのあおりを食って、本書も、すっかり、いつも通りの「通俗チャンバラ小説」へ堕してしまった。三笠探偵も、年甲斐もなく頑張るお爺ちゃん探偵に成り下がってしまったというわけである。

 乱歩自身が自画自賛している犯人の動機にしても、一見すると、『蜘蛛男』などと代り映えしない殺人淫楽症的無差別殺人だが、もっと切実な人間憎悪と母性とを組み合わせることで、従来の長編探偵ものになかった狂気と情念の犯罪を描きたかったのかもしれない[xvii]

 本書は、例のごとく、冒頭の個所で不用意に「かれ」という代名詞を使用する[xviii]など、粗さが目立つが、読み返すと、そこここに見逃せない創意工夫がある。ひとくちに猟奇スリラーといっても、それぞれの作品には、一作ごとに狙いやこだわりがある。乱歩の長い作家生活のなかで書かれた多くの長編小説を、ひとくくりに通俗ミステリとして片付けるべきではないということだろう。

 

[i] 江戸川乱歩『探偵小説四十年(上)』(光文社、2006年)、571-72頁。

[ii] 同、572頁。

[iii] 「しかし戦争後、横溝君の機嫌のいいとき、彼の方から初めてこの罵倒文について謝意の表明があり、私も水に流したのだから、今では、少しも含むところはないのだが、(中略)横溝君は多少不快かも知れないけれども、(中略)敢えてのせさせて貰うことにする。見出しは『江戸川乱歩へ・・・・・・横溝正史』というので、名前も呼び捨てである。」(同、571頁。)これは1954年の文章である(同、538頁)。「機嫌のいいとき」、「彼の方から初めて」、「水に流した」、「含むところはない」、「敢えて」、「名前も呼び捨て」といった言葉の端々に、いろいろと、ホントにいろいろと思いがにじみ出ているようである。当時、すでに横溝は戦後探偵小説界の巨匠であり、乱歩にしても、もはや弟分ではないという遠慮もあったのだろう。残酷なようだが、乱歩が日本探偵小説界のトップである時代はすでに過ぎ去っていた。戦後も、もちろん売れる作家であることに変わりはなかったが、新時代の探偵小説を牽引したのは、戦前、乱歩フォロワーのひとりに過ぎなかった横溝であった。

 ところで、「謝意の表明」とあるのは、いつのことなのだろうか。乱歩の「探偵小説行脚」(昭和22年)のときだろうか。『探偵小説四十年(下)』(光文社、2006年)、278-80頁、横溝正史「『二重面相』江戸川乱歩」(1965年)『探偵小説五十年』(講談社、1977年)、118-21頁も参照。

[iv] 中井英夫銀と金」(1980年)『地下鉄の与太者たち』(白水社1984年)、109-111頁。

[v] 『探偵小説四十年(上)』、575頁。

[vi] 残りは、『黒蜥蜴』と『人間豹』。

[vii] 『探偵小説四十年(上)』、575頁。

[viii] 大内茂男「華麗なユートピア」(『幻影城増刊 江戸川乱歩の世界』、1975年7月)、226-27頁。

[ix] 江戸川乱歩「乱歩 自作自解 コラージュ」(新保博久・山前 譲編)『謎と魔法の物語』(『江戸川乱歩コレクション・Ⅵ』、河出書房新社、1995年)、351頁。

[x] 『妖虫』(春陽文庫、1972年)、30-31頁。実際は、有名女優の春川月子の殺害事件なのだが、その後に、守は青眼鏡の男から、珠子に対する殺意を聞かされる。同、31頁。

[xi] 同、8頁。

[xii] 横溝正史「鏡の中の女」『金田一耕助の冒険1』(角川文庫、1979年)、89-137頁。

[xiii] ウィキペディア:妖虫。

[xiv] 『僕たちの好きな金田一耕助』(『別冊宝島1375』、宝島社、2007年)、91頁。

[xv] カーター・ディクスン『赤後家の殺人』(1935年)。

[xvi] 『妖虫』、46頁。

[xvii] 同、121頁の「殿村さんはそういって、なぜかニッコリ笑った」という個所などは、あとになって読みかえすと、なかなか凄いというか、気味が悪い。

[xviii] 同、2頁。これを見ると、大内が推測するように、犯人をだれにするか決めていなかったという風にも解釈できる。そんなことはなかったと思うが。

江戸川乱歩『猟奇の果』

(本作の内容について詳しく触れていますので、未読の方は、ご注意ください。)

 

 『猟奇の果』といえば、大内茂男が江戸川乱歩長編小説論「華麗なユートピア」において、「乱歩の長編諸作中でも、最大の珍作である」[i]と評したように、短編小説に比べ評価の低い乱歩長編にあっても、失敗作といえば、(『吸血鬼』か)これ、と必ず名指しされるほどの作品である。作者までが「私の多くの長編の中でも、・・・珍妙な作品である」[ii]と、潔く認めている。

 連載されたのが博文館発行の『文藝倶楽部』で、編集長が横溝正史というのも、今思うと豪華な組み合わせだが、顔がそっくりの別人が方々に現れる、いかにも乱歩が好きそうな怪異譚的発端で始まる探偵小説である。それが、結局、すべて友人のいたずらだったという構想で当初書きはじめたものの、途中で行き詰って、横溝に相談すると、いっそ『蜘蛛男』のようなスリラーにしてください、と提案された[iii]。そこから、人を全く別人に作りかえる「人間改造術」(要するに整形)のアイディアを思いついて、世界征服を企む犯罪組織と明智小五郎が対決する国際スパイ・スリラーへと変貌したのは、誰もが知る「裏話」である。

 乱歩短編によくある、主人公と友人が市井のささやかな謎と出会って、そこから話が発展するご近所小説が、一気に世界規模の謀略小説へ転換とは、あまりにもスケールが違い過ぎるが、その割に登場する悪役が小物っぽいのは、最初の構想時の雰囲気が抜け切れていないからか。いずれにせよ、連載半ばで、こうも作品のあらすじからジャンルまで変えてしまって、なお悠然と書き続ける乱歩もすごいが、この逸話で思い出すのは、手塚治虫の『キャプテンKen』(1960-61年)である。同作品も、主人公の一人二役が途中でほぼばれてしまって、小学生読者相手に意地になった(?)手塚が、当初の構想を無理やり覆すと、同一人物だったのを親子に分けてしまうという無鉄砲な荒業に出た作品であった。キャプテン・ケンの正体について懸賞募集までしたのに、これでは、純真な少年少女たちが、ひねくれやしなかったかと心配でならない。

 本作に戻ると、上記の裏話からもドタバタぶりが伝わってくるが 、大内も褒めている前半部分[iv]は、なかなか面白い。主人公の青木愛之助は、友人の科学雑誌編集者である品川四郎を意外な場所で見かけるが、どうも様子がおかしい。数日後、品川自身から、偶然見た映画のワン・シーンに自分そっくりの人間が映っていたと相談される。どうやら、品川の偽者が、あちこちに出没しているらしいのだが、ついには、その偽の品川が、なんと妻の芳江と逢引きしていることに気づいてしまう。偽品川のあとをつけていくと怪しい屋敷に入っていく。忍び込んだ愛之助は、そこで偽品川と乱闘になるが、あろうことか銃で男を射殺してしまった。その場を逃げ出し、街をさ迷う彼の前に、以前出会ったことのある「お面のような顔」をした不思議な青年[v]が現われる。そのまま謎めいた地下室へと導かれた愛之助を待っていたものは・・・、というところで前半が終了する。

 この前半のラストは、すでにプロットの修正後に書かれたものか定かでないが、とりあえず後半の「白蝙蝠」篇に入ると、いきなり芳江が偽品川にさらわれて、その後彼女のものと思われる片腕が発見される。急に乱歩作品らしい残虐味が強まって、まさに『蜘蛛男』調である。ニュースを聞きつけた品川(偽者と本物の両方!)が警視庁の浪越警部のもとを訪れ、そこから、居合わせた明智小五郎が事件に介入してくるという段取りである。

 ということで後半は、完全に明智小五郎ものの冒険スリラーになるのだが、再読して驚いたことには(いや、驚かなくともいいのだが)、わたしには後半のほうが面白かった。

 登場人物の誰もが本物か偽者かを問われる、唖然とするカオスなミステリになるのである。

 正直なところ、大内や乱歩自身の言もあって、出来損ないのゲテモノ小説としか思っていなかったので、読み返すのは気がすすまなかった。しかし、後半に入ると、やめられなくなって、一気に読破してしまった。そんな私は、どうかしているのでしょうか。

 『黄金仮面』に関する感想で、登場人物の半数は明智か犯人の変装であると冗談で書いたが、本書の場合は冗談ではないのだ。実際に登場する人物の大半が偽者にすり替わる驚天動地のミステリで、なにしろ「人間改造術」というウルトラ設定を種明かしに用意してある。やりたい放題というか、好き勝手というか、誰が偽者でもおかしくない、いや、むしろ本物は誰かを当ててごらん、と、このぶっとんだ設定に乗っかって悪のりした乱歩が、徹底的にこの線で押しまくってくる(そのなかにあって、唯一、偽者が現れないのが浪越警部。端役扱いされているようで、なんとも不憫だ)。

 ことに、明智が、偶然(えっ、偶然!?)発見した品川を尾行して彼の家にたどり着くと、そこにも品川がいる。どちらが本物か、明智が迷っている間に、偽品川がこそこそと部屋を抜け出してしまうあたりは、まるでコメディ映画で、大笑いさせられる。や、それではあいつが偽者であったか、などと叫ぶ明智は、どう見ても迷探偵だ。最後のほうになると、どの明智が本物の明智なのか、作者自身が間違えやしないか気にして書いている風なのが、またおかしい。クライマックスでは、愛之助と芳江夫妻まで、思いもよらぬかたちで登場してくるので、意外性も十分だ(謎解きの意外性ではない)。この調子で、どんどん偽者を出して、もっと長く書いてくれたらよかったのにと思わずにいられない。

 飄々とした語り口の前半も、処女作の「二銭銅貨」あたりにすでに見られたオフ・ビートなテンポで悪くないが、後半の、別な意味でオフ・ビートな感覚が何とも言えない味を出している[vi]。読み終えて思い返すと、(実際は、そんな場面はないのだが)同じ顔の人間がぞろぞろ出てくるシュールな絵面が浮かんできて、まるでフィリップ・K・ディックである。SFや怪奇小説も顔負けの奇想横溢した快作、怪作?いや、会心作だ!支離滅裂?上等じゃないか。一度読めば二度おいしい、でも、二度と見たくない悪夢のような怪奇幻想探偵小説、それが『猟奇の果』だ。

 

 細かいことだが、後半に入ってすぐ、警視総監(この偽者も出てくる)が浪越警部を相手に、愛之助が遭遇した「二人の品川」事件の真相が、実は品川のひとり芝居だった可能性を指摘する[vii]。突然の理路整然とした論理的推理にはびっくりするが、実は明智から聞かされたのだと打ち明ける。ということは、恐らく、この仮説が当初乱歩の考えていた結末なのだろう。これはこれでなんとか成立しそうな謎解きなので、原案通りでも一応結末はつけられたことがわかる。それを、ここで書いたということは、乱歩も内心、当初の解決案を惜しいと思っていたのだろう。しかし、結局、偽の解決になってしまったので、今さら明智にもったいぶって解説させるわけにもいかなくなったというわけであろう。もっとも、明智のこの推理で事件が決着したのでは、本当に予定より短くなって、横溝編集長は困ったことだろう。(その後、戦後すぐに刊行されたという『猟奇の果』の別ヴァージョン[viii]を読んだが、やはり当初の構想どおりの品川を黒幕とする推理が述べられていた。)

 細かいことだが、というか、雑談だが、本作の偽品川は、途中から「幽霊男」と呼ばれるようになる[ix]。最初は地の文だけなのだが、後半になると、上記の警視総監と浪越警部の会話のなかでも「幽霊男」という呼び名が当たり前のように出てくる[x]。つまり、作品世界においても、この一件は「幽霊男事件」と呼ばれているらしいのだ。ついには、「幽霊男」と見出しにまで登場する[xi]。もちろん、本作の連載は、編集長たる横溝の長編小説『幽霊男』(1954年)より遥か昔のことである。横溝の小説のタイトルは、本作の「幽霊男」がサブリミナル効果をもたらしたものだろうか。

 細かいことだが、前半のある個所で「それから一と月ばかり、別段のお話もなく過ぎ去った」[xii]という一文が出てくる。随分雑な文章だなと思ったら、そこから数十ページあとに、また「それから二か月ばかり別段のお話もなく過ぎ去った」[xiii]という文が出てくる。これには呆れてしまったが、ひょっとして、いや、ひょっとしなくとも、わざとなのだろう。普通に読むと、小説家らしくもない杜撰な文章に思えるが、本作に濃厚なオフ・ビート感覚を考えると、意識的であるようだ。乱歩、恐るべし。

 

[i] 大内茂男「華麗なユートピア」『幻影城 江戸川乱歩の世界』(1975年7月増刊号)、221頁。

[ii] 江戸川乱歩「猟奇の果」(1962年)『江戸川乱歩コレクション・Ⅵ 謎と魔法の物語』(新保博久・山前 譲編、河出書房新社、1995年)、339頁。

[iii] 同、340頁。

[iv] 大内前掲論文、221頁。

[v] 『猟奇の果』(角川文庫、1974年)、232頁。

[vi] 例えば、次の一文。「さて、お話の速度を少し早めなければならぬ。同じことをいつまで書いていても際限がないからである」(同、352頁)。なんというスチャラカな文章であろう。

[vii] 同、295-97頁。

[viii] 「『猟奇の果』もうひとつの結末」『孤島の鬼』(『江戸川乱歩全集第4巻』、光文社文庫、2003年)、584-97頁。新保博久による「解説」(647-48頁)も参照。

[ix] 『猟奇の果』(角川文庫)、216頁以降。

[x] 同、293-99頁。

[xi] 同、320頁。

[xii] 同、166頁。

[xiii] 同、207頁。

江戸川乱歩「パノラマ島奇談」

(本作品のほか、江戸川乱歩の短編小説数編について、内容に立ち入っています。)

 

 江戸川乱歩の連載小説といえば、「陰獣」と「パノラマ島奇談」が双璧ということになるだろう。

 いずれも文庫本で100頁を少し越えるくらいの長さで、現代の標準でいえば、どちらも中編小説である。しかし、乱歩自身のとらえ方では、「陰獣」は中編だが、「パノラマ島」は長編だったようだ。自身、そう書いているし、最初の平凡社から出た全集でも、後者は「長編」扱いされている[i]。これは、「陰獣」は三か月にわたって分載されたとはいえ、ひと息に書いて編集に渡したもので、乱歩にとっては書き下ろし小説であったこと。一方、「パノラマ島」は、半年以上連載されて[ii]、締め切りに追われた作者の感覚として長編小説であったことが影響しているのだろう。

 ちなみに両作とも、横溝正史が編集担当だった時代の『新青年』に掲載されており、横溝による回想エッセイも有名である[iii]

 長編か中編かはともかく、本作の特色は、いうまでもなく後半部を占める孤島のパノラマ描写にあるが、作者の回想を読むと、意外なことが書いてある。すなわち、「初めの方の人間入れかわりの個所は面白いにしても、この小説の大部分を占めるパノラマ島の描写が退屈がられたようである」[iv]

 確かに、主人公の人見広介が、自分に瓜二つの菰田源三郎に成り代わろうとする前半のプロットは、乱歩が死ぬほど好きな(?)「変身願望」をリアリスティックに描こうとしたもので、汽船からの投身自殺の偽装、源三郎の墓あばきと遺体の隠蔽、蘇生の偽装等々の詳細な記述には、そのあたりの苦心のあとが滲み出ている。しかし、こうした倒叙形式あるいは犯罪小説的な筋書きは、すでに乱歩短編ではおなじみで、新しいものではない。「恐ろしき錯誤」(1923年)や「心理試験」(1925年)とは傾向が違うとしても、「双生児」(1924年)など、類似の着想の作品はあった。「パノラマ島」の独自性は、明らかに後半の島の描写にあるのだが[v]、異なる時期の回顧でも「書き出しは大いに好評であったが、(中略)編集部でも、終りのほうは余り喜んでもいなかったように思われる」[vi]と記して、編集者だった正史を嘆かせている[vii]。しかし、どうやらこれは照れ隠しだったようだ。後半部は、乱歩本人が楽しんで書いたので[viii]、というか、楽しみすぎたので、勝手気ままな空想を吐き散らしたことに少々気がさしていたのだろう。その証拠に、萩原朔太郎に激賞された逸話については、繰り返し書き留めるほど感激していたのだから[ix]。さすがに朔太郎と正史では、褒められるにしても、有難みに多少の差があったのは、やむを得ない。

 ただ、その目玉となるパノラマ島の人工世界の描写は、確かに乱歩らしい筆が冴えて、この手の小説が好きな読者を虜にする魅惑にあふれているが、計算違いといっては恐れ多いけれど、読んでいると若干の不調和を感じる。要するに、乱歩の少年時代の郷愁でもあるパノラマ館を文章で再現しようとしたものであるのだが、その技術的仕組みを、広介が源三郎の妻千代子に得々と解説する場面[x]と、実際に彼女と二人で体験する幻想空間の描写とが、必ずしも嚙み合っていないように感じる。ガラス張りの海底トンネルから湖水を見下ろす渓谷へ、そこから杉の巨木が立ち並ぶ大森林、そして花園のなかの湯池へと、二人が彷徨する場面は圧巻の描写だが、パノラマからパノラマへと一瞬で移動するかのごとくでは、まるで魔法である。人為的なユートピアというよりファンタジー異世界のようだ。つまり、このパノラマ島が人間の手によって建設可能なアトラクションであると強調したい作者の努力にもかかわらず、描かれているのは人の力を越えた空想世界としか思えない。

 あくまで写実主義的なリアリズムにこだわる作家としての乱歩と、ここではない彼方の異界に魅せられ続けた夢想家の乱歩の二面性がそのまま現われてしまったようだ。

 もちろん、探偵小説である以上、現実に基盤を置かないと、それこそ全体が幻想小説になって、読者を置き去りにしてしまうという意識があったのだろう。ただ、そればかりではないとも思う。つまり、乱歩には、できるものならば、実際にパノラマ島の人工楽園を自ら創造したい願望があって、それがあのくだくだしい解説となってあらわれたものであろう。それこそ財力さえ許せば、多分、郷里の三重県の離島あたりに本物のパノラマを建設していたはずだ。乱歩が夢見る空想の楽園を紙上で設計したのが「パノラマ島」で、従って、それは乱歩にとって実現可能なものでなければならなかった。実際家の乱歩と夢想家の乱歩が折り合える妥協点が「パノラマ島奇談」だったのだろう。乱歩のパノラマ島建設の資金を提供する企業や資産家がいなかったのは、残念なことである。もっとも、ディズニーランドやUSJでは、乱歩の夢見るワンダーランドの実現にはほど遠かっただろうが。

 

 ところで、作中で人見広介が執筆した「RAの話」[xi]という短編小説の「RA」とは何を意味しているのだろうか。てっきり、本作を書くにあたってモデルとしたE・A・ポーの「アルンハイムの地所」(1847年)と「ランダーの別荘」(1848-49年)[xii]の頭文字をとったのかと思ったが、アルンハイム(Arnheim)はいいとして、ランダーはLandorだった。単純にRANPOの最初の二文字だろうか(RAはイニシャルなのか[xiii])。

 RAが乱歩自身のことだとすれば、「パノラマ島奇談」は、作中に乱歩の未完の小説「RAの話」を含む、「陰獣」同様、またしてもメタ・ミステリ的構造をもっていたことになる。

 もう一点、本書は、最後に北見小五郎という探偵が登場して、広介の犯罪を暴くことになっている[xiv]。あからさまに明智小五郎を連想させる名前の探偵だが、実際に、創元推理文庫版の解説を書いた中井英夫は、彼を明智と混同している[xv]。ちゃんと読みなさいよ、と言いたいが、実は北見とは明智の変名なのだ、と中井は解釈しているのかもしれない。そのことに、今気がついた。発表当時、北見小五郎は明智小五郎なのですか、という投書などはなかったのだろうか。乱歩は、この探偵の名前について何も言及していないようだが[xvi]、当時の読者はそうした疑問を抱かなかったのか。本作に明智ではない探偵を登場させる理由は、なんとなく想像がつく。「パノラマ島」の場合、あまりにも作品が空想的過ぎて、明智向きではないし(その後、もっと空想的な長編で活躍するようになるが)、そもそもパノラマ島を描くことが目的の小説に明智が出てくれば、「明智小五郎もの」になってしまう。彼が登場することで、明智が主人公になってしまうだろう。その恐れもあって、別の探偵を創造したものと思われる。

 しかし、そうなると、なぜ明智を連想させる「小五郎」という名前にしたのかが不思議である。やはり北見は明智の変名なのか。それとも考えるのが面倒くさくなって、姓だけ変えて別人であるということにしたのだろうか。なんだかトリヴィアルな謎が残ってしまった。

 

[i] 江戸川乱歩『探偵小説四十年(上)』(光文社、2006年)、235-36、452頁。

[ii] 大正15年10月から翌年4月まで。ただし二回休載して、実際は、10月、11月、昭和2年1月、2月、4月の計五回の連載だったようだ。同、235-36頁。

[iii] 横溝正史「『パノラマ島奇譚』と『陰獣』が出来る話」『探偵小説昔話』(講談社、1975年)、208-35頁。

[iv] 「『パノラマ島奇談』-わが小説」(1962年)『江戸川乱歩コレクションⅥ 謎と魔法の物語 自作に関する解説』(新保博久・山前 譲編、河出文庫、1995年)、64頁。

[v] 「パノラマ島」に類する幻想小説としては、「火星の運河」(1926年)がすでにあったが、やはりスケールが違うというべきだろう。しかし、同短編の執筆が、「パノラマ島」の構想へと発展していった可能性はありそうだ。

[vi] 『探偵小説四十年(上)』、236頁。

[vii] 横溝正史「『二重面相』江戸川乱歩」(1965年)『探偵小説五十年』(講談社、1977年)、125-29頁。

[viii] 『探偵小説四十年(上)』、236頁。

[ix] 同、217、236頁、「『パノラマ島奇談』-わが小説」、64頁。

[x] 「パノラマ島奇談」『日本探偵小説全集2 江戸川乱歩集』(創元推理文庫1984年)、248-54頁。

[xi] 同、277頁。

[xii] 「『パノラマ島奇談』-わが小説」、64頁。

[xiii] 「パノラマ島奇談」、285頁。

[xiv] 同、276頁。

[xv] 同、「解説」、771頁。

[xvi] 『探偵小説四十年(上)』、236頁では、探偵が登場しないほうがよいのだが、と記しているだけで、名前には触れていない。

江戸川乱歩「陰獣」

(「陰獣」の犯人等のほかに、エラリイ・クイーンの『十日間の不思議』のプロットを紹介していますので、未読の方はご注意ください。)

 

 「陰獣」[i]は、言うまでもなく江戸川乱歩全作品中、もっともセンセーションを巻き起こした探偵小説である。

 『探偵小説四十年』の記事[ii]を読むと、その評判の大きさが、乱歩自身が収集した客観的資料(雑誌・新聞等の記事など)からうかがえる。さらに、掲載誌『新青年』の編集長だった横溝正史による回顧エッセイ[iii]が、当時の熱狂的反響を伝えてくれる。恐らく日本ミステリ史上、最大の注目を浴びた作品のひとつだろう。

 ただ、乱歩自身は、その出来栄えに本当の意味で満足してはおらず、それは無論、代表作と自他ともに認めてはいたものの、ミステリの新しい何かを開拓したものではないと考えていたようだ[iv]

 確かに、「陰獣」は、前人未到のトリックがあるわけではなく、乱歩が愛してやまない「一人二役」トリックがメインになっている。作家大江春泥の本名が平田一郎というところが、すでに一人二役であるのだが、作中、随所にこのトリックが顔を出す。その意味では、作者が好む素材を、少し念入りに手を加えて仕上げたというところだろう。

 むしろ特徴的なのは楽屋落ちともとれるアイディアのほうで、上記のとおり、江戸川乱歩本人をモデルにした大江春泥という怪奇幻想派のミステリ作家(平田一郎も、乱歩の本名をもじっている)が、かつて自分を捨てた小山田静子に復讐しようとして、夫の小山田六郎を殺害する。その顛末を、春泥のライヴァル作家であり、静子と出会い、彼女に魅かれていく「わたし」が一人称手記で語るという体裁の中編小説なのだが、春泥の代表作が「屋根裏の遊戯」で「屋根裏の散歩者」のセルフ・パロディであるという風に、全体が作者江戸川乱歩の戯画化になっている。つまりは「作者自身をトリックに使った」[v]、一種のメタ・ミステリである[vi]

 作品の外にいる作者が作中人物に投影されているのだが、作者が作品に登場するミステリ自体は珍しくない。例えば、高木彬光の『能面殺人事件』(1949年)では、作者が探偵役を務めるし、横溝正史の諸作でも、自身が探偵作家として登場して金田一耕助と会話したりする。しかし、作者が作中で暗躍する怪人で主役であるミステリは、なかなかないだろう。作品外の作者が作品内の犯人に扮して、二重に読者に謎をかけるミステリ的技巧ともいえる。乱歩自身は、一種の自己抹殺だったと言うにとどめているが[vii]、とすれば、期せずして生まれた、はなはだ先鋭的な着想だった。

 もうひとつ、今回、数十年ぶりに読み返して気がついた意外な点は、本作のプロットが、エラリイ・クイーンの『十日間の不思議』(1948年)という長編小説に、大変よく似ているということである。

 『十日間の不思議』は、真犯人がエラリイ・クイーンを偽の手がかりで翻弄し、誤った解決に導いて、名探偵を混迷の極に陥れる異色のミステリだが、「陰獣」も、これと同じ、というか、先んじているのである。「わたし」は、小山田邸の天井裏に落ちていた手袋のボタンから小山田六郎が大江春泥その人であったと推論する[viii]が、それが実は真犯人が残した偽の証拠だったのだ。

 真相に気付いた「わたし」は、逆上して犯人を問い詰めると、興奮のあまり鞭さえ振るうのだが(!)、この展開もまったく一緒である。もっとも、我を忘れたエラリイ・クイーンが、『十日間』の犯人を鞭でビシビシ叩いてヒーヒー言わせたりしたら面白い、というか、大爆笑だが、クイーンに日本語が読めていたら、「陰獣」パクリ疑惑が生じていただろう。

 「わたし」は、真犯人の精神も身体も痛めつけておいて、さっさと、その場を立ち去るが、犯人が自殺してしまうと、また迷い始める。どうも間違えたかもしれない、えらいことになった、などと、あとになって悔やむ自己中心的な大馬鹿者だが、この結末も興味深い。最後を曖昧にするのは乱歩の常套的締め括り方で、発表当時はいろいろと批判を浴びたようだ[ix]。ただ、本作の場合、作者がパズル・ミステリと捉えている[x]ところが重要で、犯人当て探偵小説として「陰獣」をみると、このエンディングは、これもまたクイーンのミステリについて巷間言われる「データの真偽判定の不可能性」の問題[xi]を想起させる。

 「わたし」にとって、手袋から落ちたボタンは、真の手がかりなのか、それとも偽物なのか、もはや見極めがつかなくなっている[xii]。しかし、そもそも「陰獣」の場合、最初から作中探偵には、手がかりの真偽の判定は不可能なのだ[xiii]。大江春泥が江戸川乱歩でもある、すなわち作者と犯人が同一人物であるならば、「わたし」にとって、乱歩は高次元の存在であるから、その意思を認識することはできない。「わたし」がいかに完璧な論理で推理を組み立てたとしても、作者である乱歩が手がかりを操作し、情報を上書きして推理を崩壊させることができる。「わたし」が春泥に勝利することは不可能なのだ。

 なんと、「陰獣」は「後期クイーン問題」まで先取りしていたのである。やはり乱歩は、日本が世界に誇るべきミステリ作家だった。これはもう「後期ランポ問題」と言い換えねばなるまい。(乱歩の後期というのは、いつ頃からだろうか。昭和3年以降?ちょっと早すぎるか。しかし、短編の代表作は大正時代にほぼ出尽くしている。昭和3年以降を長編中心時代と考えれば、後期と見なしても、あながち間違いではない。そうなると、前期が大正12年から15年までの四年間、後期が昭和40年の没年まで。後期が前期の約十倍の長さとは、やっぱり桁外れの作家だ。)

 脇道にそれたが、乱歩のミステリ発想力の高さは、これを見てもわかる。『孤島の鬼』(1929-30年)では、やはりクイーンの『〇の〇〇』に先行し、「陰獣」でも『十日間の不思議』に先立つこと二十年。なかなか天晴れである。長編ミステリの傑作を書く構成力と技術力では劣っていたかもしれないが、基本アイディアではパズル小説の巨匠に負けていない[xiv]。「陰獣」が、それを実証している。

 もっとも、個人的には、本作で一番面白いのは、小説の前半、「わたし」の知り合いの雑誌記者が話す、浅草公園の雑踏のなかで道化師の扮装をした大江春泥を見たという挿話である[xv]。チラシを配る、とんがり帽子に白塗りのピエロ、その顔が大江春泥だった・・・。なんとも乱歩らしい、滑稽でとぼけていて、それでいて凄味のあるシーンではないか。この謎が解けるのが「陰獣」のパズル的妙味が頂点に達する瞬間[xvi]でもあるのだが、それ以上に、乱歩ならではの謎の味わいに魅了される。

 一方、「陰獣」には、パズル・ミステリとして十分練られていない部分もあって、何度も引き合いに出すが、手袋のボタンは「わたし」を偽の推理へ誘導する手がかりなのだから、犯人は、それが小山田氏の持ち物であることを「わたし」に気付かせる必要がある。なのに、実際は何もしようとせず、「わたし」が偶然その手掛かりに気づくのを、ただ待っているだけなのである。最後の謎解きで、その矛盾を説明しようとはしているが[xvii]、周到なはずの犯人にしては、この行動は、いや行動しないのは、おかしい。(もっとも、既述のとおり、犯人は静子ではなく、「大江春泥すなわち江戸川乱歩」であるとすれば、静子が何の行動もとらないのは、彼女が犯人ではない証拠とも解釈できる。2024年3月11日)

 

 巧拙併せもった様々な面をみせる「陰獣」であるが、江戸川乱歩の代表作であると同時に、日本ミステリの里程標となる名作のひとつであることは、今後も変わらないだろう。戦前の素朴な探偵小説に見えて、「陰獣」には通常のミステリから外れた部分が幾つもあって、その面白さが独自の地位を支えてきた。現在でもそれは同じである。21世紀の今こそ、「陰獣」を読みかえすべきときなのかもしれない。

 

(追記)

 本文では、「陰獣」には前人未到のトリックはなく、「一人二役」が複数回使われているだけだと述べているが、そのなかには「作者乱歩と犯人春泥の一人二役」も含まれている。これは究極の一人二役とでもいうべきもので、前人未到のトリックと呼んでもいいかもしれない。「類別トリック集成」(『続・幻影城』)に入るべきものである(かな?)。(2024年3月4日)

 

[i] 「陰獣」、『新青年』(1928年8-10月)。

[ii] 江戸川乱歩『探偵小説四十年(上)』(光文社、2006年)、338-58頁。

[iii] 横溝正史「『パノラマ島奇談』と『陰獣』が出来る話」『探偵小説昔話』(講談社、1975年)、208-35頁。

[iv] 『探偵小説四十年(上)』、343-44、380-81頁。

[v] 同、357頁。

[vi] 同、356-57頁。

[vii] 江戸川乱歩「自註自解説」『日本探偵小説全集2 江戸川乱歩集』(創元推理文庫1984年)、3頁。

[viii] 「陰獣」『日本探偵小説全集2 江戸川乱歩集』、333、361-65頁。

[ix] 『探偵小説四十年(上)』、356頁。

[x] 同、348頁。

[xi] 飯城勇三エラリー・クイーン完全ガイド』(星海社、2021年)、168-72頁を参照。

[xii] ただし、以下の批評文を参照。井上良夫「『陰獣』吟味」(1934年)『幻影城 江戸川乱歩の世界』(1975年7月増刊号)、63頁。

[xiii] この問題については、以下の論考で詳しく論じられている。毛利 恵「神の悪戯-陰獣論」『成城文藝』172号(2000年)、1-17頁。

[xiv] 探偵が推理の結果を報告書にまとめて当局に提出しようとするが、関係当事者の女性のことを慮って断念するという展開は、E・C・ベントリーの『トレント最後の事件』(1913年)と同じである。同書の翻訳は1932年だったが、乱歩が読んだのは、もう少しあとだったようだ。『探偵小説四十年(上)』、588頁、また注67(821頁)も参照。ベントリーを紹介した雑誌『探偵小説』の編集は横溝正史だった。横溝正史「エラリー・クィーン氏、雑誌の廃刊を三ヶ月遅らせること」『探偵小説昔話』、70-73頁。

[xv] 「陰獣」、318頁。

[xvi] 同、401頁。

[xvii] 同、404頁。

江戸川乱歩『黄金仮面』

(本書の内容等を、詳しく紹介しています。)

 

 『黄金仮面』は、雑誌『キング』に1930年から翌年にかけて連載された、江戸川乱歩最大のヒット作のひとつである。大内茂男によっても「大衆小説界に乱歩の人気を不動のものたらしめた快作」[i]と評価されている。そもそも『キング』というのが百万部売ったこともある全国津々浦々まで知れ渡った国民的雑誌だったそうだ[ii]

 乱歩も、同じ講談社の『講談倶楽部』連載作以上に、気を使って構想を練った模様で、「私の癖のいやらしい感じは、なるべく出さないように力(つと)めた」[iii]という発言が残っている。確かに、『蜘蛛男』(1929-30年)や『魔術師』(1930-31年)と比べても、残虐無残な場面は抑え気味で、あのあくの強さがだいぶ薄められている。

 いや、それ以上に、今回読み直して実感したのは、本書のノリが「少年探偵シリーズ」と同じである、あるいは、むしろ本書こそ乱歩の「少年ミステリ」の原型ともいうべき作品であるということだった。もちろん、通俗長編小説はいずれも少年ミステリと似たり寄ったりだと言われれば、そのとおりなのだが、しかし、乱歩自身が意図して「乱歩らしさ」を控えめにしたことで、少年探偵団もののもつ明朗快活さを生み出している。そこが、一番少年ミステリ・シリーズと似通っているところだろう。

 無論、殺人事件も起こるのだが、筋の中心は、犯人と明智小五郎の知恵比べに加えて、逃亡と追跡、攻撃と反撃のアクション・シーンで、次のような事件の連なりによって成り立っている。

 博覧会会場の塔の上に追い詰められた盗賊が黄金仮面の装束だけ残して消え失せる。

 日光に住む富豪鷲尾家を、F国(フランス?)大使ルージェール伯が訪問するが、貴重な美術品がいつの間にか偽物とすり替えられ、そのうえ、娘の美子が殺害される。殺人犯は明らかになるが、盗賊の正体は不明のまま事件は一段落する。

 富豪の娘である(またですか)大鳥不二子が黄金仮面と恋に落ちて(!?)、厳重に監視された自宅の部屋から姿を消す。一旦は不二子を取り戻した明智だったが、再度黄金仮面に出し抜かれて、不二子もまた行方不明となる。

 F国大使主催の舞踏会で、な、なんと、大使その人が黄金仮面であることが暴露される(誰もビックリしません)。明智や浪越警部らに取り囲まれた黄金仮面は、隙をついて部屋を脱出するが、十重二十重に取り囲むように待ち構えていたはずの警察官の姿がどこにもなく、まんまと逃げおおせる。

 著名な芸術家のアトリエに賊が入る。ところが、何も盗まれていない。しかるに、それを知った芸術家の川村雲山は、なぜか自殺してしまう。な、なんと、雲山が密かにすり替えて私蔵していた国宝の玉虫の厨子が盗まれていたのだった(これは、本当にビックリですね)。

 以上のように、連続する幾つものエピソードを通して、怪人体名探偵の対決が描かれるのだが、前述の「らしさ」を抑えたという発言どおり、人死にはあまり出ない。日光の殺人も、犯人は黄金仮面ではない。というのも、黄金仮面とはアルセーヌ・ルパンだからである。

 !!!

 モーリス・ルブランが、アルセーヌ・ルパンの物語にシャーロック・ホームズを登場させたのは有名だが[iv]、そこからヒントを得たのか、なんとルパンを登場させて、明智と対決させるのが、本作の目玉となるアイディアである。なるほど、本書が「少年探偵シリーズ」の原型たる所以はここからも明らかである。ルパンを怪人二十面相に置き換えれば、そのまま少年探偵団ものになる(ルパンのままだって、構わない)。

 使われているトリックも、すでにお馴染みの手品ばかりで、「一人二役」、「人間消失」、「盲点犯人」、「二つの部屋」、「意外な隠れ家」と盛りだくさんである。とくに、乱歩が魅せられてやまない「一人二役」がいたるところで使用される。黄金仮面が大使に扮しているかと思えば、明智が賊の一味に化けるといった具合で、作中に登場する人物の半数はルパンか明智の変装だと言っても過言ではない!(そんな無茶な。)

 そもそも黄金仮面という奇抜な扮装自体、ルパンが外国人であることを隠すためのカモフラージュだというのだが、黄金の仮面をかぶった怪人とか、怪しすぎて、かえって目立つでしょうに。明智まで黄金仮面のコスチュームを身に着けて、同じく黄金仮面のルパンと取っ組み合うに至っては、光景を頭に浮かべるだけで面白すぎる。マルセル・シュオップの退廃的な世紀末幻想小説[v]も、これではとんだお笑い草である。

 乱歩の特徴的な語り口も本作では控えめで、そのせいか、『蜘蛛男』や『魔術師』と比べて、むしろ非現実な印象が強い(少年探偵ものに特徴的な、非日常の冒険物語の雰囲気なのだ)。『蜘蛛男』が現実的だなどと言うつもりはないが、あの乱歩独特の言い回し、蜘蛛男のへらへらとした薄気味悪さは、ある意味確かな存在感をもって読者に迫ってくる。さすがに、ルパンでは、乱歩の筆でも存在感をもって描くのは難しかった。

 ただ、紙芝居的とはいえ、探偵対怪人の騙しあいの応酬と目まぐるしく攻守が入れ替わるテンポの良さは、他の乱歩長編と比較してもずば抜けており、全国の老若男女を夢中にさせただけのことはある。ちゃちな張りぼて芝居と侮ってはならない。それに本作の明智は、さすがに相手がアルセーヌ・ルパンなので、いつもほど悠然と構えてはおらず、焦ったり悔しがったり、なかなか熱血漢である(乱歩も、明智ばかりが主人公ぶって、ルパンを小物扱いするわけにはいかなかったのだろう[vi])。とりわけ、日光の事件で賊を取り逃がした明智が自らを叱咤して「俺はなんという間抜けだ」と地団太踏む姿は、いつもの明智らしくない取り乱しようで、なんか可愛げがある。しかも、この場面、わたしがもっている春陽堂文庫版では、とんだ誤植があるのだ。

 

 「ちくちょうッ(ママ)、あいつのわなだ。バカ野郎。とんま。(以下、略)」[vii]

 

 「ちくちょうッ」て、悪態ついてるチビッ子じゃあるまいし。可愛げありすぎるよ、明智小五郎。わざとじゃないですよね、春陽堂さん。

 それと、これは連載時から、そうだったのかわからないのだが、二箇所、傍点のついた文章があるのだ。

 

  「ちょうどそのころ、鷲尾氏とルージェール伯とは、まだ寝もやらず、晩餐から引 

 き続いての美術論に打ち興じていた。」[viii]

 

  「・・・歴史上にいまだかつて前例のない珍事がおこったのです。・・・」[ix]

 

 以上の引用した文章全体に傍点が打ってあるのだが、どちらも日光での事件のエピソードである。後者は、正体を明かした明智が口にする言葉だが、どうやら鷲尾家の美術品がすっかりすり替えられていることを指して、こう言っているらしい。しかし、前者のほうの傍点の意味がよくわからない。

 「ちょうどそのころ」というのは、美子が浴室で殺害される場面と同じころということであり、つまりルージェール伯(実はルパン)は殺人犯人ではないことを暗示している。ルージェール伯すなわちルパンであることは、このエピソードではまだ明らかにされないが、伯が怪しいのは明白である(「はく」だけに)。誰でも、こいつが犯人らしいと思うような書き方なのだが、しかし、殺人事件後、伯は訊問などを受けることもなく、屋敷を発ってしまう。伯が怪しいと思っている読者をはぐらかすための手なのだろうか。この後の舞踏会の場面で、ルージェール伯の正体がルパンという種明かしが来るのだが、この傍点も作者なりのヒントだったのだろうか。ここだけ特に傍点が打ってあるので、逆に怪しさが強調されるのだが、読者に先を予想しやすくさせるための余計なお世話的伏線という理解でいいのでしょうか[x]

 

 いろいろ面白い『黄金仮面』だが、乱歩全作品中で、エロティックでもグロテスクでもない、もっとも口当たりの良い怪奇冒険ミステリであって、繰り返しになるが、乱歩らしからぬ「ほがらかな」(この言い回しは乱歩っぽい[xi])雰囲気が特徴である(ほがらかな、というか、妙な明るさのある作品は多い)。

 最後のクライマックスでは、ルパンが操縦する小型飛行機から「いやがる不二子さんをこわきにかかえた明智小五郎が、身をおどらせ」[xii]る(なんだか明智のほうが悪人みたいだ)。無事パラシュートで地上に降り立った二人をあとに、ルパンを乗せた飛行機は彼方に飛び去る(ルパンが、もう一度、不二子を空中でかっさらっていくんじゃないかと思った)。数日後、洋上に漂う無人飛行機が発見されるラスト[xiii](よく考えると、鉄だから沈むんじゃないの)は、ルパンはまた来るよ、という、ありがちな続編を期待させて、おおいに読者の気を引く(実際は、もちろん続編など書かれなかった)。

 乱歩の毒に酔いたい向きには、全体があっさりしすぎていて物足りないだろうが、怪人二十面相ものとの類似性など、乱歩ミステリを考えるうえで見逃すことのできない作品のひとつと言えるだろう。(とってつけたようなまとめ方になってしまった。諒とされたい。)

 

[i] 大内茂男「華麗なユートピア」『幻影城 江戸川乱歩の世界』(第一巻第七号、1975年)、222頁。

[ii] 江戸川乱歩『探偵小説四十年(上)』(光文社、2006年)、420頁。

[iii] 同、421頁。

[iv] 初期短編のひとつ(『強盗紳士』(1907年)所収)に出てくるが、一番有名なのは、もちろん『奇巌城』(1909年)。

[v] 黄金仮面のアイディアが、マルセル・シュオップの「黄金仮面の王」(1892年)に由来することは言うまでもない。

[vi] ルパン物に出てくるホームズが、かなり酷い扱いで、ホームズ・ファンを憤慨させたのは、よく知られた事実。

[vii] 『黄金仮面』(春陽文庫、1972年)、76頁。

[viii] 同、43頁。

[ix] 同、48頁。

[x] 乱歩の「ヴァン・ダインを読む」というエッセイに、ファイロ・ヴァンスものは犯人も作者の意図もわかりやすすぎる、という風なことが書いてあって、ただし「これは大衆的興味からは寧ろいいことかも知れませんが」と付言されている。一般読者に読んでもらうには、ある程度先が読めるような書き方が必要だ、ということなのだろう。これは昭和4年(1929年)発表の文章である。江戸川乱歩『蔵の中から』(講談社、1988年)、47頁。

[xi] 『黄金仮面』、144頁参照。

[xii] 同、251頁。

[xiii] 同、252頁。

エラリイ・クイーン『間違いの悲劇』

(収録作品、とくに「間違いの悲劇」のプロットを細かく説明しているので、ご注意願います。)

 

 本書は、1999年に刊行されたThe Tragedy of Errors and Others[i]に基づいて日本独自に編集されたエラリイ・クイーン作品集である。原書の巻頭を飾るのはタイトルの「間違いの悲劇」の梗概で、ひょっとしてフレデリック・ダネイ執筆による初のクイーン作品なのだろうか?

 日本語版[ii]は「間違いの悲劇」を巻末に回して、中編「動機」を頭に据えている。おいしいものは最後に残す日本流たしなみか。他に五編の短編(というかショート・ショート)に原書には未収録の短編「結婚記念日」まで入れる大サーヴィスぶりで、ただし、オリジナル版に含まれていた22編にも及ぶ著名作家、批評家(森英俊を含む[iii])のエッセイはカットされている。

 原書に関して、なぜこんなに詳しく述べるのかというと、わたしも一冊所有しているということを吹聴したいからである(どうです!)。しかも私の持っている本の遊び紙の見返しには、201という数字が手書きされている。どうやらクロス製本したハードカヴァー本は250冊しか印刷していないので、一冊ごとにナンバーを書き入れているらしい(どうです!)。もっとも、同ハードカヴァー版を所有する日本国民は、もしかしてアメリカ人よりも多いかもしれない。

 原書は、フレデリック・ダネイ(1905-1982年)およびマンフレッド・B・リー(1905-1971年)没後に、本来40冊目の長編として発表されるはずだった未完の『間違いの悲劇』のシノプシスに、生前刊行された六冊の短編集に漏れた作品を加えて、作者たちの意志とは無関係に編集刊行されたものである。『間違いの悲劇』のアウトラインをダネイが存命中に発表した可能性(あるいは代作者によって小説化した可能性)はゼロではなかったかもしれないが、結果として二人の本意ではなかったとみられる出版であった。しかし、そうであったとしても、クイーンのファンあるいは研究家にとっては、この上ない貴重な贈り物になったことと思われる。「間違いの悲劇」の小説化を一旦は引き受けながら、ついに実現しなかったという有栖川有栖による日本語版への寄稿エッセイも興味深い。翻訳、解説は飯城勇三で、完璧にして鉄壁の布陣である。ただ、全体でも300頁に満たないことを考えると、エッセイもみな入れてくれてもよかったような気もする・・・。読者側からの勝手な要望ではあるが。

 ということで、本書の目玉は、当然「間違いの悲劇」なのだが、他にも「動機」を始めとする単行本未収録短編およびショート・ショートが網羅されており、その点でも見逃すことのできない作品集といえる。

 以下、「結婚記念日」を含んでいる日本語版に従って、見ていこう。

 

01 「動機」(The Motive, Argosy, 1956.8)

 初出時には、“Terror Town”というタイトルで発表された中編。翻訳は『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』に掲載された[iv]ようだが、わたしが読んだのは、各務三郎編の『エラリー・クイーン傑作集』[v]収録のものが最初だった。

 題名からして『災厄の町(Calamity Town)』(1942年)をもじっているが、ライツヴィルより、もっと鄙びた田舎町を舞台に起こる連続殺人事件を描いた作品。日本語版では「ミッシング・リンク中編」と見出しが付けられているように、被害者に共通する要素を探すミステリで、別の言い方をすれば、犯人の殺害「動機」の謎を扱っている。

 農夫の息子、食堂の主人、町の名士の女性、一見無関係とみられる三人の被害者に殺人動機を持つのは、いったい何者か。副保安官のリンカン(リンク)[vi]・ピアスと幼馴染の図書館司書スーザン・マーシュが、何度も衝突を繰り返しながらも事件解決に向かって苦闘する。

 ミッシング・リンクといえば『九尾の猫』(1949年)を、町の住人の非難の矢面に立たされるピアスの姿は『ガラスの村』(1954年)あたりを思わせる。そしてもちろん「ライツヴィル・シリーズ」の諸作品を。

 つまり、過去に書いた複数の小説の焼き直しにもみえるが、むしろ、過去の諸作を土台にして新たな物語を紡いだ、といったほうが適切だろう。一言でいって、出来ばえは素晴らしい。

 ミッシング・リンクの謎解きは『九尾の猫』に劣らないし、意外性では上回っているとも思える。被害者がなぜ、皆、同じ場所で、同じ様子で、同じような傷を受けて死んでいたのか。論理的な推理があるわけではないが、真相が明らかになると、連続する殺人がすべて論理的に繋がっていたことがわかる。いわば事件そのものの論理によって謎が解けていく鮮やかさは、本作の最大の魅力といっていいだろう。

 正直、エラリイ・クイーンの中短編およびショート・ショートでは最高作ではなかろうか(ちょっと微妙なところのある「キャロル事件」より上かもしれない)[vii]

 もちろんパズル小説としては、肝心なデータが隠されていたり、明示されなかったりするので(注で詳しく述べているので、ご注意ください)[viii]、フェアとはいえないが、それを補って余りある面白さがある。

 もう一つの特徴として、登場人物の行動原理を支えるのが信仰である。クイーンの小説で宗教が最も重要な役割を果たす作品といえるかもしれない。『十日間の不思議』(1948年)を彷彿させるともいうが[ix]、むしろ、よりリアリティを感じられるのは、こうした人物像が、小説や映画を通じて我々にも見知ったものに思えるからだろうか。

 主役であるリンクとスーザン[x]の描き方は、いささか通俗的で深みに欠けるが、スリリングなクライマックスまで、きびきびした簡潔な文体で綴られる物語は、クイーンの到達点のひとつを示していると思う。とりわけ、主人公二人のその後を想像させながら、解けきれない謎が余韻となって終わるラストは、クイーンの最良のものだろう。

 

02 「結婚記念日」(Wedding Anniversary, EQMM, 1967,9)

 本作も、前記『エラリー・クイーン傑作集』に収録されていて[xi]、初読時に感心した覚えがある。

 再読してやはり面白かった。例によって三人の容疑者がいて、ダイイング・メッセージの謎を解く。被害者は、一年前に再婚したばかりのライツヴィルの新興の資産家で、宝石商という設定。むき出しのダイアをいつも持ち歩いていて(宝石商の習慣らしい。本当なの?)、毒を飲まされて絶命する間際に宝石を握りしめていた。それがメッセージで、それが結婚記念日だったということで、またしてもエラリイが変なこじつけ推理を披露する。

 三人の容疑者のなかから犯人を探すと見せて、第四の人物が犯人、と思っていたら、さらに、もう一ひねりあった。真相は珍しいものではないが、上手く読者の疑いをそらせておいて意外な結末にもっていく手腕は、1960年代になっても健在だ。

 

03 「オーストラリアから来たおじさん」(Uncle from Australia, Diner’s Club Magazine, 1965.6)

 ここからはショート・ショートで、「オーストラリアから来たおじさん」も、またしても三人の容疑者から犯人を探すダイイング・メッセージもの。掲載誌の『ダイナーズ・クラブ・マガジン』には、同年の3月に「替え玉」(『クイーン犯罪実験室』収録)が掲載されている。

 コックニーなまりのあるオーストラリアの資産家が、姪一人と甥二人のうちの一人だけに遺産を遺すと言ったら、早速殺されたという気の毒な話。訳者が、コックニーなまりについて訳注で説明してくれているので[xii]、日本人にとっても易しいだろう。訳注も面倒くさがらずに、ちゃんと読みなさいという教訓つきか。

 真相は、いつものパターンでもなく、第四の人物パターンでもない、新手法である。といっても、これもミステリではおなじみのもの。タイトルは、「オーストラリア」ではなく、「オリエントからきたおじさん」のほうが、よかったかな?(あっ!)

 

04 「トナカイのてがかり」(The Reindeer Clue, National Enquire, 1975.12)

 本作が、クイーンの作品集に収録されるのは、どう考えてもおかしい。エドワード・D・ホックによる代作だからである。「ダネイがチェック」[xiii]したといっても、それなら、いわゆる「ペイパーバック長編」もすべて、エラリイ・クイーンの39冊の長編ミステリと同等に扱うべきだろう。

 と、正論を言っても始まらないので、本ショート・ショートに話を戻そう。

 クリスマス・ストーリー一編に5000ドル提示されて、動揺したダネイが思わずホックに電話して代作を依頼したというエピソード[xiv]は、なんか生々しい。クイーンほどの名前でも、作家というのは、なかなか大変らしい。やっぱりスティーヴン・キング(女王といえば、王様なので)ほどのベスト・セラー作家にならないと、生活は楽ではないのでしょうね。

 最初『風味豊かな犯罪』[xv]で読んだときは、もちろん代作とは知らなかったが、いずれにしても、大して期待していなかったので、やっぱりね、という程度の出来と感じた。読み返してみると、結構面白い。ダイイング・メッセージものの解法のひとつとして、「殺人者に気づかれないよう工夫をこらしたために複雑になった」というパターンがあるが、本作では「殺人者が戻ってきてメッセージを改変した」というパターンに面白味がある。さすがはホックというべきか。

 

05 「三人の学生」(The Three Students, Playboy, 1971.3)

 ここからの三編は、パズル・クラブのシリーズ。

 大学学長が息子に買ってやった婚約指輪を学長室にもって来たら、盗難にあって、窃盗の疑いが三人の学生にかかる。毎度おなじみの「三人のうちの誰が犯人でしょう」と問うクイズ。

 犯人が落とした紙片に記してあった妙な詩が手がかりになるが、こんな特定の学生にしか馴染みのない知識では、知っている人には易しすぎるし、知らない人はチンプンカンプンだと思うけど。

 『プレイボーイ』誌なので、学生向きの題材を選んだつもりなのか?

 

06 「仲間はずれ」(The Odd Man, Playboy, 1971.6)

 続いてパズル・クラブ・シリーズ二作目。『プレイボーイ』誌も、よくクイーンに二編も執筆を依頼したなあ。読者はグラビアに夢中だから、このくらい短くて単純な話でないと、活字なんか読んでもらえないと判断したのだろうか?

 それでも「三人の学生」より、ちょっと長いのは、解答者のエラリイが逆に出題者に変貌するというプロットのひねりがあるから。

 それにしても、クイーンは案外レイモンド・チャンドラーが好きだったのだろうか(そんなはずないか)?恐らく、彼の名前から思いついたのだろう(もうひとりのほうも有名だが)。同じような名の小説家を(森英俊編みたいな)『ミステリ作家事典』で、一生懸命探しているダネイの姿を想像してしまう。

 

07 「正直な詐欺師」(The Honest Swindler, Saturday Evening Post, 1971. Summer)

 本作がクイーンのショート・ショート最終作になるのだろうか。

 パズル・クラブも、どんどんたわいなくなって、本当の謎々になった。ウラニウム鉱の採掘に生涯をかけた老人が、五百人から五万ドルを集めて、たとえ失敗しても全額返金すると約束する。案の定駄目だったが、元金はちゃんと返済されましたとさ。さて、どうすればそんなことが可能だったのでしょう?(めんどうくさくなったので、以下省略。)

 

08 「間違いの悲劇」(The Tragedy of Errors)

 いよいよ大トリは、幻の長編『間違いの悲劇』(ただし、その梗概)が登場する。

 タイトルは、まるでドルリー・レーン四部作を連想させるが、実際にシェイクスピア好きの女優が登場して、住まいはエルシノア城と呼ばれるなど、本当にレーンみたいだ。ただし、モーナ・リッチモンドは名探偵ではなく、被害者である。

 舞台はハリウッドなので、クイーンのハリウッドものの新作とも言えそうだ。といっても、例によってハリウッドである必然性は感じられないが[xvi]

 被害者のモーナは、三十歳も年下の愛人バック・バーンショウとエルシノア城に住んでいるが、バーンショウがチェリー・オハラという恋人と密会していることを知り、激怒する。弁護士のカーティスを呼び寄せ、誰にも内容を知らせぬまま遺言書を作成する。ところが、バーンショウは抜け目なくモーナが保管する遺言書を盗み出して隠してしまう。その場面がわざわざ描かれるうえに、遺言書の中身は読者にも知らされないので、いかにも、いわくありげである。

 予想通り、モーナは殺害され、バーンショウが逮捕されて公判となるが、土壇場で、彼女の遺書が発見され、自殺で片が付く。無罪判決を受けたバーンショウは、事件を捜査していたペルツ警部補やエラリイを集めて、モーナを殺したことを自白する。驚く一同に、彼が突きつけたモーナの遺言書には、「わたしを殺した犯人に全財産を譲る」と書かれていたのである。司法の一事不再理の原則を利用して、殺人犯人であることを公にしたうえで遺産をせしめようというのだ。

 ところが、一事不再理原則があろうと、殺人を犯した者に遺産相続は認められないだろうと言われたバーンショウは逆上し、錯乱して首を括ってしまう。

 その後、モーナがかつて結婚していたリード・ハーモンという男が現れ、モーナの遺産相続人と認められて、愛人志願したオハラとともにエルシノア城に住むことになる。事件に違和感を抱くエラリイらが、なおも調査を続けていると、モーナの財産の半分が消えていることがわかる。事情を知るはずのハーモンを追求しようとエラリイたちが訪ねたとき、彼もまた既に殺害されていたのだった。

 随分複雑なプロットだが、真相もビックリ仰天で、奇想天外なことではクイーン作品中でも一、二を争うといってよさそうである。そもそも、モーナの奇怪な遺言書とそれを逆手にとって殺人を企てるバーンショウの企みからして、奇想が天外すぎる。恐らくこれが、最初にダネイが思いついたアイディアなのだろう。ところが、実際に小説中で描かれているように、この殺人のアイディアは法的に無理があると気がついたものと思われる。そこで、このアイディアを全体の一部とする、さらに奇想天外なトリックを考案したらしい。

 すなわち、ダネイ必殺の「操り」、マニピュレーションである。

 なんと、モーナもバーンショウも、そしてハーモンさえも犯人に操られて自滅していったという、奇想が天外どころか宇宙の果てに飛び去る妄想的トリックなのである。

 これはまた、なんというか・・・、究極の人形使いテーマであろう。なにしろ、三人の人間の心を操って次々に消去していくのである。これじゃミステリというよりSFだよ。

 もっとも、度肝を抜くアイディアに慣れた現代の若い読者は、この程度では驚かないかもしれないが、さりとて、1971年という時代に、これほど作り物めいたプロットを発想するフレデリック・ダネイには驚かされる。やはりダネイは、すごい。すごいというより、恐い。怖いというか、変だ。果たして、この梗概を読んだリーは、どう思ったのだろうか。

 というのも、てっきりリーのスランプは、ダネイの人工的プロットについていけなくなったからと思っていたのだが、こんな粗筋を突きつけられたら、またリーのスランプがぶり返してしまうんじゃないか。それとも、全てわたしの邪推で、スランプはダネイのプロットとは無関係、リーも案外平気で、この筋書きを小説化しようとしていたのだろうか。彼の死によって、すべては霧のなかになってしまったが、本当にこのプロットで小説になったのだろうか。誰にそれが可能だったのだろう。有栖川有栖氏にはできたというのなら、ぜひとも読んでみたかったものだが・・・。

 この超絶的プロットを前にしては、ツッコミを入れるのもためらわれるが、色々疑問がある。

 バーンショウが犯人の口車に乗って、モーナ殺害を実行し、それをエラリイたちに告白するという展開も無茶苦茶だが、それより、遺産獲得の見込みが消え失せたと知れば、自分をだました人間を暴露して告発するのでは、と、犯人は危惧しなかったのだろうか。バーンショウは自殺したことになっているが、殺されたのではないのか?どう考えても、生かしておくのは危険すぎるし、そもそも、ハーモンのほうは、さっさと始末したではないか。

 エラリイは、犯人として、まずカーティスを名指しするが、途中で間違いに気づく。カーティスを犯人に見せる必要はあっただろうか?クイーンの好きな多重解決だが、真犯人がカーティスをも操って犯人に見せかけようとしたというならともかく、そうでないのであれば、どんでん返しを一つ増やしただけで、またかと思わせるだけのように思える。

 モーナの邸宅の居候で劇作家のディオン・プロクターという黒人の登場人物がいる。意味ありげな存在なのだが、ほとんどまったく事件には関わってこない。単なる容疑者のひとりとして設定しただけなのだろうか。それにしては、登場させる意味がないと思えるほど、ストーリーと無関係なのである。この時代(1971年)に黒人を犯人にすることはないだろうとは思ったが、プロクターの存在には、どういう意図があったのだろうか[xvii]。読者にオセローを連想させて、疑いを向けさせる狙いだったのか(実際に『オセロー』が本作の最大の手がかりになる[xviii])。

 ダネイによれば、『間違いの悲劇』は現代の狂気を描くミステリになるはずだった[xix]。エピローグのエラリイと犯人の対話を読むと、深遠なようにも、勿体つけてるだけのようにもみえるが、狂気がテーマなら、犯人に物的動機を付与する必要はなかったんじゃなかろうか?ハーモン殺害の表層的な動機が必要だったということは、狂気の殺人を納得させる自信が作者になかったことの表われのようにも見える。

 もっとも、このような常識を踏みにじるプロットの動機が金銭では、それもまた読者を納得させられないだろう。どう考えても、狂人以外の犯人はありえないが、だから狂気の殺人にしたというわけでもないだろう(そうだったりして)。本作でダネイがことさら狂気を強調するのは、なぜなのか?(少なくとも、小説のなかで、作者が、本書は現代の狂気を描こうとしている、などと宣言し始めたら、おしまいである。)

 そんなこともわからないのか、とダネイは笑うかもしれないが、リーと二人でプロットの研磨に議論を尽くしていたら、果たしてどんな小説が出来上がっていただろうか。やはり、そこが、一番想像がふくらむ。

 

[i] Ellery Queen, The Tragedy of Errors and Others (Crippen & Landru Publishers, USA, 1999).

[ii] エラリー・クイーン『間違いの悲劇』(飯城勇三訳、創元推理文庫、2006年)。

[iii] Hidetoshi Mori, “Ellery Queen: One of the Most Popular Mystery Writers in Japan”, The Tragedy of Errors and Others, pp.206-208.

[iv] フランシス・M・ネヴィンズ(飯城勇三訳)『エラリー・クイーン 推理の芸術』(国書刊行会、2016年)、「エラリー・クイーン書誌」、32頁。

[v] 各務三郎編『エラリー・クイーン傑作集』(真野明裕訳、番町書房、1977年)、103-46頁。

[vi] クイーンはリンカン大統領のことが、よほど好きらしい。ピアスのキャラクターも大統領をモデルにしているのだろうか。

[vii] ついでに、個人的なクイーンの中短編ショート・ショートのベスト表を記しておきたいと思う(聞かれてもいないのに、ついつい言いたくなるのが、ミステリのベスト・テンである)。①「動機」(1956年)、②「キャロル事件」(1958年)、③「ライツヴィルの盗賊」(1953年)、④「殺された猫」(1946年)、⑤「賭博クラブ」(1951年)、⑥「ドン・ファンの死」(1962年)、⑦「針の目」(1951年)、⑧「宝捜しの冒険」(1935年)、⑨「七匹の黒猫の冒険」(1934年)、⑩「いかれたお茶会の冒険」(1934年)。

[viii] 第一事件現場で発見された最重要証拠が「ガラスの破片」としか書かれていないのでは、推理のしようがない。『間違いの悲劇』、25、60頁。ただ、小説冒頭で、スーザンの車のヘッドライトが壊れているという描写がある。同、11頁。また、第二の被害者が、事件の鍵となる車の最初の所有者であったことが明記されていない。新車を乗り回している描写だけでは十分ではない。同、24頁。もちろん、はっきり書いたら、すぐにわかってしまうけれど。

[ix] フランシス・M・ネヴィンズJr.、『エラリイ・クイーンの世界』(秋津知子他訳、早川書房、1980年)、271頁、『エラリー・クイーン 推理の芸術』、302-303頁。

[x] 人の悪い想像をすると、実はスーザンが「犯人」であった可能性が依然として残っていると思う。

[xi]エラリー・クイーン傑作集』、147-66頁。

[xii] 『間違いの悲劇』、92頁。

[xiii] 同、「解説」、246頁。

[xiv]エラリー・クイーン 推理の芸術』、401頁。

[xv] E・D・ホウク編『風味豊かな犯罪』(『年間ミステリ傑作選’76』、創元推理文庫、1980年)、82-89頁。ホウクは、もちろんホックのこと。原著は1976年刊行なので、当然代作のことは伏せて「クイーンの新作」だと、しれっと書いている(すっかり、だまされたよ)。同、82頁。

[xvi] 『間違いの悲劇』、「解説」、252頁参照。

[xvii] 有栖川氏も、同様の疑問をもったらしい。同、「女王の夢から覚めて」、239頁。

[xviii] 同、222頁。

[xix] 同、233頁。

エラリイ・クイーン『クイーン犯罪実験室』

(本書収録作品の犯人等の内容に詳しく触れている場合がありますので、ご注意ください。)

 

 大変なことに気づいてしまった。『クイーン犯罪実験室』(1968年)[i]の書誌情報を確認すると、1959年から1966年にかけて書かれた中短編およびショート・ショートが10編もあるではないか。16編中10編である。この時期は、マンフレッド・B・リーがスランプで書けなかったはず。一体、誰がこんなにたくさん書いたのか。シオドア・スタージョンではないだろう。エイヴラム・デイヴィッドソンなのか。それともエドワード・D・ホックとか?(適当に言ってます。)

 『クイーンのフルハウス』(1965年)にも、この時期の作品が含まれていたが、2編のみだった(もっとも、全部で5編しか入っていない)。数の問題ではないが、こんなに多くては、リーが吐きながら必死で書いたとも思えない。では、ダネイか?他の代作者がいたとすれば、なぜ、クイーンの二人が亡くなって40年以上にもなろうというのに、誰も名乗り出なかったのか?まさにゴースト・ライターが書いたのか(うまいこと言ったつもりになっているが、そんな場合ではない)。

 一番詳しいはずの飯城勇三も、本書について、執筆者のことには一切触れていないし[ii]、ああ、気になる!

 

 ・・・という話は置いておいて、本書は、エラリイ・クイーンの生前最後の短編集で、上記の通り、16編収録の出血大サーヴィス。これまでの短編集(中編、ショート・ショートを含む)からこぼれていたものの落穂拾い的な側面もあるが、実際は、本書に収録漏れの作品も相当数残っていた(有名なところでは、エラリイが登場しない「動機」など)。傑作と言えるほどのものはないようだが、良くも悪くもエラリイ・クイーンならではのパズルが詰まった一冊である。

 ちなみに、原題はQ. E. D. :Queen’s Experiments in Detectionで、エラリイ・クイーンの代名詞の「証明終わり」をもじっている。最後まで小じゃれたタイトルの作品集であった。

 

01 「菊花殺人事件」(Mum Is the Word, 1966.4, EQMM

 菊の花(mum)やそれにちなんだ物品の蒐集研究家で名高い富豪の死をめぐる事件。しかし、原題は「黙っていろ」という意味で、mumは「沈黙」を意味する。相変わらずクイーンらしい、題名にも凝った中編小説。

 ダイイング・メッセージ(当然、MUM)、英語米語の年月日表記の習慣の違いに関する手がかり、犯人の失言の手がかり、と盛りだくさんの内容で、読者のご機嫌をうかがう。

 ダイイング・メッセージは、MUMをめぐって、最初は犯人を指し示すものと思われたが、どうやら被害者が所有していた「天皇の首飾り」(なんと、日本の天皇が作らせたダイアをちりばめたペンダント)を保管する金庫の番号らしい、いや、やっぱり犯人を示しているようだ、と二転三転するところがミソか。登場人物がいずれもMUMに関係する特徴を二重に持ち合わせているという、例によってエラリイ得意のこじつけ推理が楽しめる。

 犯人の失言の手がかりは、「キャロル事件」にもあったが、シチュエーションを変えて、こちらも、なかなか巧妙だ。とくに、読者が、当然殺人事件だと思って読むのを想定しているあたり、まったく狡賢い。

 ただ、全体として十分楽しめるのではあるが、傑作かというと、そこまでではないように思う。それに、毎度文句ばかり言うのも気が引けるが、タイトルに関連した部分に気になる点がある。

 被害者の娘のエレンに、犯人から脅迫状が届く。それが「黙っていろ(Mum is the word)」という内容なのだが、彼女が証言を執拗に拒む理由がわからない。恐怖から言えなかったといっても、命まで狙われているのに、いつまでも告白しようとしない。かといって、最終的に犯人を名指しするので、かばっているわけでもないのだ。なんで、ここまで頑固なのか意味不明だが、作者にとっての理由はよくわかる。脅迫状には、書き手がエレン自身であることを示す(実は、偽の)手がかりが含まれているからである[iii]。すぐに秘密をしゃべってしまわれては、エラリイが推理を披露するタイミングを掴みそこなってしまう。

 しかし、それ以上に不可解なのは犯人の行動である。上記のとおり、脅迫状はエレンを犯人に仕立てることが目的で、エラリイが自分宛てと見誤るような細工までしている[iv]。ところが、実際にエレンは犯人を目撃していて、犯人も見られたことに気づいているはずなのである[v]。せっかく黙ってくれているのに、エレンが何か知っているとエラリイに教えてしまうのは、あまりに危険ではないか。しゃべられる前に、犯人にしてしまえと考えたにしても、勝算があるのか(そもそも、脅迫状の捏造だけでは、犯人である証拠にはならない)。結局、エレンを黙らせることも罪を着せることもできなかった。エラリイは、犯人がエレンを殺害しておいて、覚悟の自殺に見せかけるつもりだったと説明するが[vi]、それなら脅迫状は必要ないだろう(エレンが犯人である疑いを抱かせるきっかけにはなっても、上述の通り、犯人である論理的証拠にはなりえない)。最善の手はさっさと彼女を殺すか(エレンの殺害未遂は、事件からようやく一週間後)、少なくとも(物理的または精神的にでも)しゃべれないような状態におくことなのに、この犯人は何を考えているのだろう。

 ところで、話はまた戻るが、本作の書き手は誰なのだろうか。リーでも、ダネイでもないとすれば、一体、何者が。三人目のエラリイ・クイーンがいるのか!(いや、冗談です。)

 しかし、ひとつ注目すべき事実があって、1966年には『恐怖の研究』が出版されている。同作は、シャーロック・ホームズパスティーシュで、F・M・ネヴィンズによれば、ホームズ登場部分は、ポール・W・フェアマンというSF作家が代作しているが、エラリイ登場部分はクイーン自身が書いているのだという[vii]。ネヴィンズは「フレッドとマニー」という言い方をしているが[viii]、ということは、要するに執筆者はリーということか。だったら、同じ年の本作もリーの執筆とみなすことができるというわけだ。なーんだ。

 

02 「実地教育」(Object Lesson, 1955.9, This Week

 「菊花殺人事件』に続く4編には「推論における現代的問題」と見出しが付いている。読んでみると、社会問題を背景にしたプロットが共通しているので、そういう括りのようだ。  

 「実地教育」では、ジュニア・ハイ・スクールにおける不良少年問題が扱われている。ちなみに、エヴァン・ハンターの『暴力教室』の出版は1954年だが、その影響もあるのだろうか。もっとも、生徒による暴力描写などはないし、もしそんな展開になっても、エラリイの手には負えないだろう。

 事件は、教師が封筒に入れていた7ドルが、ただの紙切れとすり替えられていた。盗まれた紙幣は、持ち出すことはできないはずの教室のどこからも見つからない。授業時間が終わるまでに、金を見つけて盗んだ生徒が誰かを突き止めなければならない。学級ミステリとは思えないサスペンスフルな展開で、エラリイ・クイーン最大の事件かも!15歳の少年犯人にあやうく手玉に取られそうになるエラリイの焦る姿が見ものである。

 そもそも教師の私物を教室に置きっぱなしとか、非常識だと思うよ(アメリカには職員室がないのか?)。推理は、例によって新聞の日付けに基づくもの。犯人の少年が、紙幣にあてがって紙片を切りそろえたというのだが、それは自宅か、いずれにせよ学外でやったことだろうから、その1ドル札を学校に持ってきているのは不自然な気もする。子どもには大金だから、肌身離さず大事に持ち歩いていたのか。

 途中慌てまくったエラリイだったが、盗まれた紙幣をさりげなく取り出すラストは、思わず「よっ、名探偵!」。

 

03 「駐車難」(No Parking, 1956.3, This Week)

 続く本作は、ニュー・ヨークの交通事情が「テーマ」になっていて、次の「住宅難」まで『ディス・ウィーク』誌掲載なので、連続テーマのつもりだったのだろうか。『ディス・ウィーク』ということは、『クイーン検察局』の続編ともいえるわけだ(「新クイーン検察局」は次のパートだが)。

 基本、プロットも『クイーン検察局』を踏襲していて、「奇跡は起る」を含めて、どれも三人の容疑者から犯人を当てるもの。ただし、作品によっては四人目が犯人の場合もあって、本作はそのタイプである。

 エラリイが現場のアパートですれ違う犯人が「男」と書かれているのは、まあ、仕方がないが、「その男の姿のどこかに変なところがあると思った」[ix]という個所は、犯人の性別に関する手がかりとなる文章なので、「男」と断定的に書くのは、ちょっとずるい気もする(でも「男」だと「思った」から「変」だったのだから、これでいいのか)。

 犯人の車に関する推理、犯人を特定する推理と、いつもながらのクイーン十八番のロジックが炸裂する。

 被害者の求婚者三名が、そろって自分が結婚相手に選ばれたと主張するのは、リスキーじゃないかなあ?そのまま被害者が死んでしまえば問題ないが、意識を取り戻したら、三人のうち二人は嘘がばれてしまうじゃないか。

 

04 「住宅難」(No Place to Live, 1956.6, This Week)

 本編も容疑者が三人で、借りている部屋を不法に又貸ししている男が殺される。タイトル通り、ニュー・ヨークの住宅事情を題材にしている(「生きる余地がない」というのは、被害者のことでもあるのか?)。

 動機は、しかし、GIあがりの間借り人のひとりが所持する三千ドルで、盗まれた金と凶器の銃をめぐって、エラリイが面白い推理を見せてくれる。

 ただ、元GIが、盗まれた金を銃身に隠していたことを最後まで言おうとしないのは、それが凶器であることを考えると、奇妙というより、異様である[x]。それ以上に、犯人が金を盗んだことをべらべらしゃべってしまう[xi]というのも信じられない(凶器を所持していたことが、ばれるよ)。この男、頭悪すぎだろう。

 

05 「奇蹟は起る」(Miracles Do Happen, 1957.7, EQMM)

 本作は『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』に掲載されたものだそうで、病気の娘をかかえた夫婦の生活苦が主題になっている。あこぎな高利貸しが殺されて、例によって、上記の夫婦を含む三組の容疑者がエラリイの前に引き出される。推理のポイントは、殺害現場の「整理整頓」に関するもので、『クイーン検察局』のなかの「匿された金」に似ている。

 謎解きはシンプルだが、ほのぼのとした後味が印象に残る一編。

 どうやら、このパートの四作品は、リーの筆と考えて間違いなさそうですね。

 

06 「さびしい花嫁」(The Lonely Bride, 1949.12, This Week)

 ここからの八編は、「新クイーン検察局」としてまとめられている。

 発表年月日を見ると、本編が『ディス・ウィーク』誌に掲載された最初のショート・ショートだったらしい。なんで『検察局』に収録されなかったのかわからないが、出来が良くないという理由ではなかっただろう。むしろ本作品集でも、『検察局』でも、佳作に入ると思う。

 隠した金の在りかに関するダイイング・メッセージもの(ただし、残した当人は死んではいない)で、「未完成」すなわち「最後まで言い終われなかった」パターン。メッセージの解釈が、そのまま犯人の特定に結びついて、意外な結末まで見事な展開で面白く読ませる(この犯人は、見るからに頭が悪そうなのに、なぜ金の隠し場所に気がついたのか不思議ではある[xii]。エラリイより勘が良さそうだ、・・・野性の勘か)。

 

07 「国会図書館の秘密」(Mystery at the Library of Congress, 1960.6, Argosy)

 麻薬密輸組織の取引連絡が国会図書館内で行われているらしい。一味の者が借り出した書物から共通項を探し出し、それに当てはまる連絡相手を見つけるというパズル。シェイクスピアバーナード・ショーとグラント将軍に共通するものは、なーんだ?

 「さびしい花嫁」の倍くらいのページ数があるが、面白さは半分以下[xiii]

 

08 「替え玉」(Dead Ringer, 1965.3, Diner’s Club Magazine)

 スパイ同士の殺人事件で、殺された味方のスパイがMIX Cのレッテルを貼った煙草の罐を抱いて死んでいた。罐には敵スパイの資料が入っていたらしく、MIX Cが敵スパイ二人を特定するヒントになっているらしい。

 またしてもダイイング・メッセージものだが、敵スパイと通じている煙草屋主人は、なぜ彼らの正体を特定できるレッテルを貼った罐に肝心の資料を隠したのだろう。まさかリストのなかの誰がスパイか、忘れるかもしれないから?ふたりぐらい、覚えられないの?それにしたって、仲間の正体がわかってしまう罐はまずいだろう。

 

09 「こわれたT」(The Broken T, 1963.7, This Week)

 重大事件の証人である女性が拉致されて、証言しないよう脅迫される。連れ込まれた場所で彼女が目撃したのは、窓から見えるEATのネオン・サインだった。

 脅した連中を捕まえるには、連れていかれた場所を突き止めなければ、というわけなのだが、ネオン・サインなので消えている文字があって、実はEAT(食堂)じゃなかったというオチ。さて、正しい文字は何だったでしょう?

 BEATLESとかのほうが面白そうだけどな。まだイギリスでしか人気がない頃だから無理か。

 

10 「半分の手掛り」(Half A Clue, 1963.8, This Week)

 老薬剤師が毒殺されて、疑いは、例のごとく三人の義理の子どもたちにかかる。

 被害者が服用していた黄色と緑のカプセルが黄色と赤のそれにすり替えられていたのだった・・・。ということなので、なんだまた色覚異常の手がかりかと思ったら、違いました・・・。・・・してやられたようだ。

 

11 「結婚式の前夜」(Eve of the Wedding, 1955.8, EQMM)

 「菊花殺人事件」を再読していて、コンクリン・ファーナムとかいう医者が登場するので、あれ、こんな奴、どこかに出てきてたよな、と思ったら、本作の主役だった(結婚式だから、主役は花嫁のほうか)。

 ライツヴィルもののせいか、ショート・ショートではなく短編小説の分量で、いくらか人物が書き込まれている。前途有望なファーナムと結婚間近のモリー・マッケンジーの殺害未遂事件が起きて、以前「ミスター」・ファーナムと付き合っていた二人の女性が疑惑の対象となる。

 例によって、英米語の歴史的背景に基づく相違が鍵となるが、面白いと思う人もいれば、はあ?と思う人もいそう(理髪師と外科医の関連は、割とよく知られているだろうが)。

 それと、精神疾患が犯行動機というところが、第二次大戦後らしいといえるだろうか。

 

12 「最後に死ぬ者」(Last Man to Die, 1963.11, This Week)

 久々に出ました。トンチン年金。

 二人の老人のどちらが先に死んで、年金をどちらの孫が手に入れるのか、という謎解き。

 本当にただのクイズだが、言われてみれば納得の説明なので、ショート・ショートとしては十分面白い。

 

13 「ペイオフ」(Payoff, 1964.8, Cavalier)

 大実業家でありながら悪党の集まりでもある連中のなかの、誰が親玉かを当てるパズル。

 例によって、単なる言葉遊びで、三人ではなく四人のなかから正解を探すというところがいつもとの違いか(なんか、どうでもいいことだが)。

 その答えは、あまりにくだらなさ過ぎて、体中の骨が溶けて、くらげにでもなったような気分になる。

 

14 「小男のスパイ」(The Little Spy, 1965.1, Cavalier)

 クイズみたいなのが多いと言っていたら、ついに本当のクイズになった。

 著名な実業家らが集まって作ったパズル・クラブに招かれたエラリイが、一方的な入会テストを受けさせられる(なんちゅう横暴な連中だ)。問題は、ドイツのスパイが、どうやってノルマンディ上陸作戦(!)の極秘情報を持ち出そうとしたか。

 超微細な文字を書く特技の持ち主という設定では、結局どんなものにでも書けそうなので、驚けと言われても反応に困る。

 

15 「大統領は遺憾ながら」(The President Regrets, 1965.9, Diner’s Club Magazine)

 「小男のスパイ」の続編だが、掲載誌が異なる。パズル・クラブが気に入ったのだろうか、雑誌編集者ではなく、クイーンが。

 大統領をクラブに入れようとしたら、急用で来られないという。仕方なく、エラリイが問題を作って解かせることにしたという話で、今回は三人ではなく、四人のうちの三人に共通の特徴があるが、ひとりは仲間外れ。それは、だあ~れ?というクイズ。

 『犯罪カレンダー』の「双面神クラブ」と同工異曲で、出来も似たようなもの。クイーンは、大統領ネタが好きだが、考えてみると、アメリカには国王や女王はいないし、シェイクスピアもいない。文学も近現代作家ばかりだから、偉人といえば大統領なのだろうか。

 

16 「エイブラハム・リンカンの鍵」(Abraham Lincoln’s Clue, 1965.6, MD)

 最後は、またしても大統領と、アメリカを代表する作家ポーにちなんだ短編。

 二人の偉大な人物のサインが記された書物とリンカンの自筆のメモ(封筒の内側に書いたもの)の隠し場所の謎で、所持していた蒐集家は不慮の死をとげている(殺人ではないらしい)。所在の分からない本とメモを探してほしい、と美しい相続人の娘にお願いされたエラリイは、ホイホイ出かけていく。手がかりとなるのは30dという暗号のような数字と文字の組み合わせ。さて、なんと解く?

 ヒント:『レーン最後の事件』(これ言っちゃあ、まずいかな。)

 なんか、クイーンの蘊蓄を聞かされているだけのような気もするが、もってまわった書き出しといい、いかにもリーっぽいのだが、そうすると同年の「パズル・クラブ」の二編もリーの執筆なのだろうか。結局、短編、ショート・ショートはリーが書いているということ?ますますわからなくなってきた。

 

[i] 『クイーン犯罪実験室』(青田 勝訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1974年)、(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1979年)。

[ii] 飯城勇三エラリー・クイーン・パーフェクト・ガイド』(ぶんか社文庫、2005年)、202-205頁。

[iii] 『クイーン犯罪実験室』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、79-80頁。

[iv] 同、60頁。

[v] 同、81頁。

[vi] 同、83頁。

[vii] フランシス・M・ネヴィンズ『エラリー・クイーン 推理の芸術』(飯城勇三訳、国書刊行会、2016年)、357頁。

[viii] 同。

[ix] 『クイーン犯罪実験室』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、112頁。

[x] フランシス・M・ネヴィンズJr.『エラリー・クイーンの世界』(秋津知子他訳、早川書房、1980年)、255頁参照。

[xi] 『クイーン犯罪実験室』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、132頁。

[xii]エラリー・クイーンの世界』255-56頁参照。

[xiii] 雑誌掲載時には、著者たちの写真も載ったのだろうか。それなら、多少は面白かったのかもしれない。同、256頁参照。