『第八の日』あるいは「泣き虫エラリイの冒険」

(本書の内容にかなり立ち入っていますので、未読の方はご注意ください。ただし、犯人は明かしていません。)

 

 ハヤカワ・ミステリ文庫がスタートして、エラリイ・クイーンのファンが一番驚いたのは、本書『第八の日』が出版されたことだろう。ポケット・ミステリではなく、文庫版が本邦初訳だったのだ[i]。それくらい、本書は早川書房を戸惑わせ、読者さえ戸惑わせた変な本だった。訳者の青田勝が、短いながら的確な解説を書いてくれているし[ii]、同氏が引用しているフランシス・M・ネヴィンズ・ジュニアのクイーン評伝も、その後早川書房から出版され、本書をどう読めばよいのか、懇切丁寧に説明してくれている[iii]。それらに眼を通して、充分な心構えをしてから手に取った方がよいかもしれない。

 

 ところで、わたしは、以前『盤面の敵』(1963年)について感想を書いたときに、マンフレッド・B・リーが書いてこそのエラリイ・クイーンであって、彼の筆にならない作品はクイーンのミステリではない、だから代作者による小説については論じる対象とはしない、と述べた。その考えには、今でも一切、変更はない。わたしは、リーが書いたものしか、クイーンとは認めない(エッヘン)。

 ・・・認めないのだが、しかし、本書を再読して思ったのは、リーの文体との違いが、わたしには皆目わからない(あーあ、言っちゃったよ)。これはアヴラム・デイヴィッドソンが書いたんだよ[iv]、と言われたところで、リーと見分けなどつかないのだ(なんで、えらそうなんだ)。しかし、プロットは、いかにもフレデリック・ダネイが思いつきそうな、奇妙奇天烈なものである。これまでのクイーンの小説と比べても、あまりにも奇天烈だが、それでいて、クイーンそのものといった強烈な体臭が感じられる。というわけなので、まあ、クイーンが書いたと思って読めば、それでいいんじゃない?(テキトーな奴だなあ。)

 

 そこで『第八の日』だが、本書は「宗教小説」だという[v]。それを受けて、青田のあとがきも、クイーン研究家の飯城勇三も、その線に沿って紹介している[vi]。ダネイが「死海文書」にインスパイアされて思いついたというし[vii]、そうなのだろう。しかし、宗教がテーマと言われても、日本人にはピンとこないし、そもそもキリスト教ユダヤ教の区別などつかないし(それは、ひどい)。いかにも神秘的な雰囲気が漂って、啓発的とも思える文章も散見されるが、その一方で、そこもクイーンらしく、ハッタリめいたところもある(失言だったかな)。

 数十年ぶりに読み返して思ったのは、本書は、要するに江戸川乱歩がいうところの「別世界怪談」[viii]だということである。最初に連想したのが、乱歩は「動物怪談」に分類しているが[ix]、アルジャーノン・ブラックウッドの「いにしえの魔術」(1908年)[x]である。旅人が迷い込んだフランスの小村で、夜になると、住民たちが猫に変身して太古の魔術の饗宴が繰り広げられる。主人公も変身して宴に加わるよう誘われるが・・・、という話だが、まあ、怪談など持ち出さずとも、ジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』(1726年)やルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』(1865年)でもいいかもしれない。それらと同じ、ユートピア(あるいはディストピア)を描いた幻想小説もしくはファンタジーとして読めばいいのではないだろうか。

 エラリイが車を走らせて、「世界の涯の店」にたどり着くあたりの雰囲気[xi]は、なかなかいいし、クイーンナン(舞台となる集落の名前)に着いてからあとの、白日夢を見ているような、ぼやぼやっとした感覚[xii]など、全編にわたってファンタジーっぽい書き方がされていて、デイヴィッドソンを起用した効果が出ているのではないだろうか。リアリズム作家のリーには、こういう幻想小説ないしSF風のスタイルは相性がよくなさそうだ。このタイプの小説を真顔で書く、というか、作品世界にのめり込んで書くのには向いていなさそうな気がする。

 このあと、雑品係のストリカイが村の聖所のなかで撲殺され、ようやくエラリイが本領を発揮する展開となる。後半は、夢幻的な雰囲気が薄れて、いつものクイーン調が戻ってくる。簡単に犯人を突き止めたエラリイだったが、それは彼をクイーンナンに導いてくれた教師だった。コミュニティの掟に従い、彼に死の評決が下されるが、「例によって」自分の推理が誤っていたことに、エラリイは気づく(何度目だ)。処刑は象徴的な儀式に過ぎないと、たかをくくっていたエラリイだったが、ところが、教師は本当に毒を呷って死んでしまう。あまりのショックに、エラリイは、またしても打ちのめされてしまうのである。(そして泣き出してしまう、「例によって」。)泣き虫エラリイにも困ったものだが、こういうのが人間らしいと作者が思っているのだとしたら、少々安易ではなかろうか(盛り上げるために、泣かせただけとは思うが)。同じことを何度も繰り返すのも、どうかと思う[xiii]

 しかし、本書の本当の驚きは、この後にくる。最後、「ムクー(Mk‘h)の書」の正体が明らかになって、ここは確かに衝撃的だ。『Yの悲劇』のマンドリンや『Xの悲劇』の「X」の謎解きさえ上回る驚愕である。ただ、ちょっと、あざとい気もする。この「オチ」のために1944年という時代設定にしたのだろうし、神秘的なストーリーで引っ張っておいて、最後に現実を突きつける狙いかもしれないが、一挙に通俗になった印象もある。どうだ、びっくりしたろう、と鼻をひくつかせるダネイの顔が浮かんできて、やっぱり、ちょっと、あざとすぎやしませんか?(もっとも、ユダヤ教徒のダネイとしては、とてもシリアスな気持ちで出してきたアイディアなのかもしれないが、エンターテインメントでやることはないだろう。)

 しかし、さらにそのあと、もうひとつオチがあって、パラシュートで降下してきたマニュエル・アクイーナという青年の登場は面白い。こちらが「第二の人」[xiv]ということなのだろうが、これも、言ってみれば、思わせぶりに、ぶん投げるがごとき結末の付け方ではある。だが、怪奇小説やスリラーなら、こうくるよね、と納得もする。

 もちろん、本書は宗教小説もしくは宗教をモチーフにした神秘小説であって、スリラーでも、ましてや怪談でもない、と言われれば、恐縮するが、まあ、いろいろな読み方ができる小説だということで。

 それに、昔、読んだときには、なんだこれ、ぺっ、と思ったが(念のためにいっておくが、冗談です)、今回、読み返してみて、少なくとも、別世界怪談としては、なかなか面白かった。これなら、前言撤回して、エラリイ・クイーンの代表作に入れてもよい。執筆がリーじゃなくて、よかったとさえ思う(お前なあ)。

 

(追記)

 わたしは、怪奇小説幻想小説も好きだが、数はそう読んでいない。ことに長編では、本当の意味で満足できる作品にぶつかったことがない。スティーヴン・キングも20冊ほど読んだが、心底夢中になれる小説はなかった。唯一の例外は、G・K・チェスタトンの『木曜の男』(1908年)である。あと、ウンベルト・エーコの『フーコーの振り子』(1988年)(唯一の例外じゃなかったのか)。それから、古風で通俗ではあるが、デニス・ホイートリーの『黒魔団』(1935年)が記憶に残っている。

 

[i] 『第八の日』(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)。

[ii] 同、「訳者あとがき」、253-54頁。

[iii] フランシス・M・ネヴィンズJr.『エラリイ・クイーンの世界』(秋津知子他訳、早川書房、1980年)、237-40頁。フランシス・M・ネヴィンズ『エラリー・クイーン 推理の芸術』(飯城勇三訳、国書刊行会、2016年)、324-27頁も参照。

[iv]エラリー・クイーン 推理の芸術』、324頁。

[v] 『エラリイ・クイーンの世界』、240頁、

[vi] 飯城勇三エラリー・クイーン完全ガイド』(星海社新書、2021年)、179-80頁。

[vii]エラリー・クイーン 推理の芸術』、324頁。

[viii] 江戸川乱歩幻影城』(講談社、1987年)、328-34頁。

[ix] 同、311-12頁。「猫町」同、349-59頁、も参照。

[x] A・ブラックウッド『妖怪博士ジョン・サイレンス』(「ドラキュラ叢書」第三巻、紀田順一郎/桂千穂訳、国書刊行会、1976年)、7-58頁。

[xi] 『第八の日』、20頁。

[xii] 同、50-51頁。

[xiii] エラリイは、すでに『緋文字』(1953年)でも、パパの胸で泣いていた。『緋文字』(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)、230頁。しかし、今回は、あいにく、ひとりぼっちであった。

[xiv] 『第八の日』、40頁。

ジョルジュ・シムノン『メグレ推理を楽しむ』

(犯人は一応伏せていますが、本書のプロットを詳しく紹介していますので、ご注意願います。)

 

 『メグレ推理を楽しむ』[i]は、1957年作で、『メグレと火曜の朝の訪問者』と同年の長編のようだ。後者に感心していたのと、なにより、本書のタイトルが面白そうなので、期待して読んだ。初読である。もっとも、原題はMaigret s‘amuseで、「推理を」楽しむ、とは言っていない。

 休暇をとることになったメグレが、最初はパリを離れて気候のよいリゾート地に出かけるつもりだったが、結局、自宅で過ごすことに決める。夫人と毎日、散歩や映画を観に出かけ、レストランで食事をとる。そんな熟年夫婦の日常が描かれるのも、ファンにとっては珍しく、楽しい作品なのだろう。

 あいにく、わたしは、メグレのようなオッサンの日常に興味はない。関心があるのは、美女の日常を別とすれば、犯罪の謎とその解決で、そこはメグレも同意見らしい。ちょうど、パリでは、著名な医師をめぐる殺人事件が起きていて、そのニュースがメグレの心をとらえる。警視ではなく、一市民として、新聞記事を読みふけっては、パイプをふかしながら、あれこれ事件の真相を思い描く。名警視が、ミステリ好きの素人探偵に変身するというのが本書の面白味で、いわゆるアームチェア・ディテクティヴものでもある。もっとも、メグレは、死因となった薬剤について知り合いの医師に尋ねたり、挙句の果ては、我慢できずに、匿名で、事件を担当している部下宛てに投書したりする。とんだ、お節介オヤジだが、毎朝、自宅近くのカフェテラスでビールを飲みながら新聞を読むメグレの姿は、なかなか新鮮だ。

 事件は、上流階級相手に診療を行っている高名な医師ジャーヴの妻が、診察用のアパルトマンの一室で戸棚に押し込まれた死体となって発見される。ジャーヴは、一つのフロアにあるふたつのアパルトマンを両方とも所有して、一方を住まいに、他方を診察用にあてているのだが、数日前から、妻のエヴリーヌ、幼い娘と子守りの女を連れて、カンヌにヴァカンスに出かけていた。事件の前日、エヴリーヌは、友人の家を訪ねると言い出して、翌日別荘を出たのだが、実は、こっそりパリに戻って、自宅で奇禍にあったらしい。しかし、発見されたのは自宅ではなく、診察用のスペースで、しかも全裸という不可解な状態で発見されたのだった。

 一方、ジャーヴのほうも、妻が出かけた後、慌ただしくカンヌの別荘を出て、パリに戻っていたことが明らかになる。休暇中の代診は、ネグレルという知り合いの若い医師に頼んでいて、事件のあった土曜の午後、アパルトマンには、彼と、ジャーヴ家の家政婦のジョゼファという中年の婦人が留守を預かっていた。診療が終わって、二人がアパルトマンを出て行った前後に、エヴリーヌは自宅に戻り、そこでジギタリンの皮下注射を打たれて死亡したと思われる。彼女は、もともと心臓に疾患があり、注射のアンプルを間違えた事故という可能性もある。しかし、死体には殴打ともとれる痣があって、殺人だったのかもしれない。

 実は、エヴリーヌとネグレルの間には不倫の疑いがあり、おまけに、ジャーヴにも愛人がいて、それが、ジョゼファの娘のアントワネットである。つまり、エヴリーヌはネグレルと、ジャーヴはアントワネットと逢うために、こっそりパリに戻ってきたのではないか。一方、ネグレルには、著名弁護士の娘という婚約者がすでにいる。

 こんな具合に、男女関係がもつれあって、『火曜の朝の訪問者』同様、このドロドロの絡み合いのなかからパズルが浮かび上がってくる。焦点となる謎は単純で、エヴリーヌを殺害したのは、夫のジャーヴなのか、それとも愛人のネグレルなのか、の二者択一である。厄介な妻を始末したい浮気医者の犯行なのか、それとも、金持ち娘との結婚のために、邪魔な愛人を殺そうとした不倫医師の犯行なのか。決め手がないままに、警察も、そして、今回は部外者のメグレも頭をひねる。

 本書は、例によって、シムノン好きの都筑道夫が書評で取り上げている[ii]が、シムノンにとってメグレものの持つ意味について、鋭い考察を行っている。反面、本書のミステリとしての具体的な特徴については、(感心はしているのだろうけれど)さほど言葉を費やしてはいない。しかし、謎解き小説としても、『メグレ推理を楽しむ』は大変面白い。都筑は、別の書評で、メグレものには「なまじっかのいわゆる本格ミステリイより、論理的思考の場面のあること」[iii]を強調しているが、本書にも、それは、よく当てはまる。とくに、第7章で事件が大詰めに近づいて、メグレが夫人と食事をとりながら、二人の医師や被害者のパーソナリティ、事件を担当するジャンヴィエ刑事の思考、なによりも、被害者が裸にされていた理由について推理を巡らす。この場面、単にメグレが気の向くままに、あれこれ考えを遊ばせるだけなのだが、息詰まるようなサスペンスを感じさせる[iv]

 推理の結果、メグレは、カンヌに残されている子守り女のジュスランに電話をかけて、ジャーヴを装って、ある問いを発する。そして、その答えが得られた瞬間に、事件は大きく転換する[v]。メグレが、聞いたことのないはずのジャーヴの声色をつかって情報を聞き出すのは、ちょっと、いや、だいぶおかしいが、このデータの追加で、事件の道筋が一気に晴れてくる展開は鮮やかだ。通常のパズル・ミステリのように、集まったデータから推理を組み立てるのではなく、探偵が推理に必要な手がかりの存在を想定して、欠けていたピースを探しだすところが面白い。探偵の想像力が事件の輪郭を明らかにする、メグレものらしいパズルである。

 いま少し具体的にいうと-未読の方は、くれぐれも、ご注意ください-、要するに、エヴリーヌがネグレルとの逢引きのためにパリに向かった直後に、ジャーヴもまたパリへと出かけていった、その目的いかんということで、アントワネットとの逢瀬のためだったのか、それとも、そうと見せかけて、実は、エヴリーヌ殺害を目的とする計画的な行動だったのか、そのいずれかを決定する鍵がジュスランとの会話にあり、それが、メグレがクサい猿芝居をしてまで求めたものだったのだ。

 事件そのものは、ごくありふれた、男女間の愛憎のもつれによる痴情犯罪なのだが、そこから、これだけスリリングなパズルを生み出すシムノンの腕前は、さすがと言わなくてはならない。1950年代における欧米のパズル・ミステリは、かなりの部分、シムノンによって支えられていたといっても過言ではないだろう。

 

(付記)

 余計な感想だが、本書では、(メグレ視点であるため)具体的な行動は描かれないものの、ジャンヴィエ刑事が大活躍する。できれば、最後の解決まで、ひとりで頑張ってもらいたかった(メグレ・シリーズだから、そうもいかなかったのだろうが)。それに、メグレが届けさせた伝言の情報だけで、そんなに短時間のうちに犯人を落とせるかなあ。

 

[i] 『メグレ推理を楽しむ』(「メグレ警視シリーズ43」、仁科 祐訳、河出書房新社、1979年)。

[ii] 都筑道夫都筑道夫の読ホリデイ 上巻』(小森 収編集、フリースタイル、2009年)、77-80頁。

[iii] 同、32頁。

[iv] 『メグレ推理を楽しむ』、169-96頁。

[v] 同、196頁。

ジョルジュ・シムノン『メグレと火曜の朝の訪問者』

(犯人は伏せていますが、プロットを詳しく紹介していますので、未読の方はご注意ください。)

 

 『メグレと火曜の朝の訪問者』は、1957年刊らしい。処女作(がどれかも、よくわからないのだが[i])から五十作以上書かれた時期の作品のようで、中期、いや、それとも後期だろうか。

 題名はLes Scruples de Maigretで、「メグレのためらい、不安」という意味のようだが、邦題どおり、火曜の朝に一人の男性がメグレを訪ねてくる。妻が自分を殺そうとしている、という訴えに半信半疑のメグレだったが、しばらく席をはずしている間に、男の姿は消え失せてしまった。ところが、午後になると、今度は男の妻なる女性がメグレに面会を求めてくる。自分に殺されるかもしれない、と、夫が相談に来たはずだ、そう述べて、メグレを面食らわせる。

 こうして、夫婦双方から奇妙な訴えを聞いたメグレは、彼らの家で起こるかもしれない事件の予兆を嗅ぎ取って、密かに刑事を遣わして彼らの身辺捜査を進めていく。

 というわけで、これが「メグレのためらい、不安」ということになるのだろう。メグレの予想に反して、というか、むしろ読者の予想に反してかもしれないが、肝心の事件は、なかなか起こらない。メグレものなので、大体、そんなに長くはないのだが、全体で255頁の長編小説で、殺人が起こるのは200頁近くになってから[ii]シムノンは、アガサ・クリスティの『ゼロ時間へ』(1944年)でも読んだのだろうか。殺人へと至るまでの経緯を描くことが本書の狙いのひとつであるのは確かなようで、その間、夫-デパートのおもちゃ売り場主任であるグザヴィエ・マルトン-と、その妻-ランジェリー・ショップの経営を任されているジゼール-、ジゼールの妹で、アメリカ人と結婚したが、すぐに離婚してフランスに戻り、姉夫妻と同居しているジェニー、そしてジゼールの店のオーナーであるモーリス・シュウォッブといった主要登場人物の人となりや複雑な関係が詳細に語られていく。

 この時期のシムノンは、精神病理にも関心があったのか、途中で、メグレが精神医学の本を読む場面が出てくる[iii]。そのあと、マルトンの精神分析を試みる箇所もあって、どうやら、そこも本書における作者の関心であるようだ。かといって、そうした精神に闇を抱えた人間が犯罪に至る過程を描くことがテーマかというと、そうでもない。

 確かに、マルトンとジゼールふたりの特異なキャラクターが分析的に語られるのだが、前半のある箇所で「ジグソー・パズル」という言葉が出てくる[iv]ように、一旦、殺人が起こってしまうと、パズル的興味が強くなってくるのである(ロジックという言葉も出てくる[v])。

 事態の急変に備えるメグレのもとに、深夜、マルトン邸から来訪を求める伝言が届く。急遽駆け付けてみると、案の定というか、マルトンが一階の階段脇で倒れて、こと切れている。ジゼールとジェニーは階上の自室に籠ったままだが、無事で、他に同居人はいない。マルトンの死因は、燐化亜鉛の摂取で、妻が自分を殺すために買い込んだ、と、メグレに語っていたとおりのもの。三人が毎晩飲む煎じ茶の中に含まれていたことがわかる。三人分のカップを用意したのはジェニーだが、マルトンが毒を入れる機会も十分あった。ジゼールに話を聞くと、彼女は、グザヴィエの挙動を怪しんで、毎夜、こっそりカップの載った盆を動かすことで、自分にあてがわれたカップを取らないよう気をつけていたという。

 マルトンとジェニーが密かに愛情を感じ合い、ジゼールはシュウォッブと関係があることが、すでに前半で明らかにされていて、この二重の三角関係が、当然、事件と関わってくるのだが、果たして、マルトンを殺害したのは、やはりジゼールなのだろうか。それとも、実はマルトンが妻を殺そうとして、逆に命を落とすはめになったのか。ジェニーは事件と無関係なのか、と、数々の疑問が浮かんできて、普通の犯罪捜査ものにみえて、意外に難解なパズルになっている。

 といっても、残り50ページほどなので、さほど複雑ではなく、メグレによるジゼールの聞き取りから、事件は次第にほぐれてくる。メグレは戸惑う様子もなく真相を突き止める。ほとんど短編ネタではあるが、この謎解きが、思ったより面白い。事件の外観は、マルトンがメグレに訴えたとおり、彼が毒を飲まされて死んでいる、いわば「予告殺人」なのだが、そのままジゼールの犯行というのでは、あまりにも当たり前すぎて、よほど意外な動機がジゼールにないと、シムノンらしくない。では、マルトンがジゼールを殺そうとして、誤って自ら毒を飲んでしまったのか、と考えると、それはそれで、ありふれている。

 言い方を変えれば、予告どおりの事件が、いかにして予測できない経緯を経て、その結末に至ったかを問うミステリである。完成した絵柄は同じだが、ピースのかたちが異なるジグソー・パズルを組み上げていくような、とでも言えばいいだろうか。メグレは、誰がどんな行動を取ればこうなるのか、マルトン、ジゼール、ジェニー三人の個性と組み合わせを推量して事件を再構成していく。横溝正史の短編「百日紅の下にて」(1951年)を連想した。

 欧米ミステリでいうと、アガサ・クリスティの『忘れられぬ死』とエラリイ・クイーンの『フォックス家の殺人』(ともに1945年作)が、近い時期の作品として思い浮かぶ。いずれも不可能状況の毒殺トリックを扱った面白いミステリだが、本書の特徴は、それらともまた異なっている。

 S・S・ヴァン・ダインが試みたとされる「心理的探偵法」[vi]、あれほど大上段に構えたものではないが、上述のとおり、登場人物の性格に基づく謎解きで、マルトン、ジゼール、ジェニー、それぞれのキャラクターを描いてきた前半が、ここで生きてくる。この人物の性格ならこう、この人物ではこうはならない、そんな風にしてパズルを解いていく。パズル小説といえばエラリイ・クイーンだが、クイーン流のロジックでは、しばしば、なおざりにされがちな(『フォックス家の殺人』がそうだというわけではない)犯人や被害者の心理に沿った推理で、いわば「性格のロジック」によるパズル小説といえるだろう。

 シムノンの創作方法として、人物が動きだすと、物語も動きだす、といわれるが、本書でも、登場人物たちが個々の性格に応じた行動をとることで生じる謎を扱っている。そこに、トリックによるパズルから一歩踏み出した創意が見てとれるように思う。

 もっとも、本書において、そうした「性格のロジック」が充分な説得力を持って示されているかというと、(わたしの読解力では)二度読んでも、よくわからない。鍵となるふたりの人物の行動は、やや極端すぎるようだし、彼らが同じ日を選んで異常な行動に出るのは-一応、理由は説明されるが[vii]-偶然が重なりすぎたようにも思える。結局、謎解きに合わせて人物の性格をつくっていったように見えなくもない。

 とはいえ、人間の心理や行動は、数学と違って法則化できないし、機械的に論理を適用できるものでもない。すっと一刀両断、とはいかないのは、やむを得ない。ミステリでは定番の毒殺パズルを心理的な手法で解こうとした点に本書の独自性を認めるべきだろう。

 1957年といえば、その二年前まで、シムノンアメリカに在住していた(1945-55年)[viii]アメリカ探偵作家クラブ会長も務めたそうだ(1955年?)[ix]英米のミステリにも親しんで、上記のクリスティやクイーン作品にも目を通していたかもしれない。そんな想像をするのも面白いが、なにより、シムノンが、この時代に、こうしたかたちのパズル・ミステリを書こうとしたところに、大きな意味があったと思う。

 

[i] 『怪盗レトン』が、最初のメグレものだと聞いていたのだが、『サン=フォリアン教会の首吊り男』(伊禮規与美訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、2023年)の瀬名秀明による解説(同、210-12頁)を読むと、色々なとらえ方があるらしい。なんだか、えらく複雑で、読み返しても、よくわからない。

[ii] 『メグレと火曜の朝の訪問者』(谷亀利一訳、河出文庫、1983年)。以下の引用は、新版からとする。

[iii] 『メグレと火曜の朝の訪問者』(新装新版、2000年)、80-81頁。

[iv] 同、94頁。

[v] 同、66頁。

[vi] 江戸川乱歩『探偵小説四十年』(上巻、光文社、2006年)、391-96頁。

[vii] 『メグレと火曜の朝の訪問者』(新装新版、2000年)、214-15頁。

[viii] ウィキペディアジョルジュ・シムノン

[ix] ウィキペディアアメリカ探偵作家クラブ

ジョルジュ・シムノン『メグレとマジェスティック・ホテルの地階』

(犯人は伏せていますが、内容に立ち入っていますので、未読の方は、ご注意ください。)

 

 2023年に、ハヤカワ・ミステリ文庫で、ジョルジュ・シムノンのメグレ・シリーズ作品が三冊続けて刊行された[i]のには驚いた。

 あの伝説の河出書房版メグレ・シリーズ(1976年~)が文庫化された(1982年~)ときも驚いたが、あっという間に中絶した。20世紀末になって再開した(2000年~)と喜んでいたら、すぐまた中断してしまった。

 最初の河出書房シリーズはともかく、その後の文庫化、とりわけ2000年以降の再文庫化のときは、欠かさず買い求めてきた。それだけに、出してはおしまいが繰り返されて、まったく失望した。初期の代表作として名高かった『サン・フォリアン寺院の首吊人』(1930年)も、仕方なくKindle版で読んだのだが(無料だったので、いいのだが)、そうしたら、新訳の『サン=フォリアン教会の首吊り男』[ii]が刊行されてしまったではないか。続けて出たのが、本書『メグレとマジェスティック・ホテルの地階』(1942年)[iii]である。

 『サン・フォリアン教会』らと一緒に出したということは、それなりの理由があるのだろうと思っていたら、トーマ・ナルスジャックが評価しているからだという[iv]。そういえば、以前、都筑道夫が本書についてコメントしていた[v]。雑誌『EQ』に掲載されたもの[vi]を書評しているのだが、単行本でもないのに、わざわざ取り上げるとか、シムノン好きの都筑らしい。それを読むと、やはりボワロとナルスジャックメグレ警視もののベスト・スリーに入れている、と紹介していて、ところが「もっとも、ふたりの評価はあまり信用できないから、パズラーとして、手がこんでいるだけだろう、と思った」[vii]とは、都筑先生、相変わらず手厳しい。それでも、「犯人の意外性はあるけれど、動機の意外性のないのが、ものたりない」とも書いていて、やっぱり「犯人の意外性」も重視してるじゃん、と思った。

 事件は、超高級ホテルのカフェトリで働くプロスペル・ドンジュという、あばた面の冴えない中年男を中心に語られる。毎朝、自転車で出勤する彼が、珍しく遅れてホテルに到着すると、スタッフの更衣室にあるロッカーの中から、身なりのよい女性の絞殺死体を発見してしまう。大学が舞台だが、ニコラス・ブレイクの『死の翌朝』(1966年)という長編の死体発見場面と似ているなと思った(シムノンとブレイクも同世代作家である。シムノン1903年生まれ、ブレイクが1904年)。

 殺されたのは、宿泊客のクラークという人物の妻で、数日前から、一家でスウィートルームに宿泊していた。クラークはアメリカの大物実業家で、殺されたフランス人の妻エミリエンヌのほかに、息子と家庭教師のエレンを連れて、パリにやってきたのだった。

 客のエミリエンヌが、なぜまた地下の従業員用の更衣室で死体となって発見されたのか。プロスペルがわざわざ自分のものでもないロッカーを開けてみたのも不思議で、捜査が進むと、驚くべき事実が明らかになる。なんと、プロスペルとエミリエンヌは、かつてカンヌの同じホテルで働いており、一時恋人同士だった。プロスペルが現在同棲しているシャルロットも同じ仲間で、さらにカンヌに調査に出向いたメグレは、やはりプロスペルやエミリエンヌの元同僚で、今でもそこに住むジジという女性から、エミリエンヌが同棲していたプロスペルを捨てて、クラークの愛人となってアメリカに渡った過去を知る。そして、クラークの息子が実はプロスペルとエミリエンヌの間の子どもだということも。おまけに、現在、クラークは家庭教師のエレンと不倫中で、エミリエンヌとの離婚を考えていることまで判明して、事件は、かつての恋人同士、今は、片や富豪夫人、片やホテル従業員に運命が分かれたプロスペルとエミリエンヌを中心に、クラークやシャルロットを交えて、過去の因縁が糸を引く「恩讐の殺人」であった可能性が高まってくる。

 まるで横溝正史の小説のようだが、冒頭の部分に趣向があって、プロスペルの出勤場面が延々と描かれる。シャルロットが深夜の仕事から戻ってくると、入れ替わりにプロスペルが眠気覚ましのコーヒーを入れて、早朝のパリの街へと出ていく。途中、自転車がパンクしてホテル到着が遅れてしまう。そうした日常風景が描かれるのだが、そのあと、突然、以上の記述はプロスペルの供述に基づいて再現されたものである、との(作者の)アナウンスが入る[viii]。つまり、三人称視点の描写と思われたのは、プロスペルの証言に過ぎない、だから真実とは限らない、と作者が、したり顔で語るのである。いかにもミステリらしい趣向だが、シムノンは、あまりこういうトリッキーな仕掛けをする作家ではないと思っていたので、ちょっと意外だった。

 また、「解説」でも取り上げられている[ix]ように、第7章では、帰宅したメグレが妻にその日の出来事を語るのだが メグレの主観描写を追いながら、時間を自由に前後させて、臨場感を持たせつつ、しかし回想である、という凝った演出を見せてくれる[x]。どうやら、こうした技巧的な語り口が、本書の狙いのひとつらしい。

 この「『何と言ったんだ?』の夜」の章は、英語がわからないメグレと、フランス語がわからないクラークが、ホテルのティールームで敵意むき出しの鉢合わせをすると、思わずメグレを殴ってしまったクラークをメグレが逮捕して、警察署に連行する。この展開も笑わせるが、そもそもアメリカ人のクラークに手を出すな、と上層部にくぎを刺されていて、プロスペルに共感するメグレは面白くない。となれば、当然、上流階級の傲慢な実業家をメグレが叩きのめして留飲を下げる展開を期待してしまうのだが、実際は、そうはならない。ならば、外国の有力者には逆らえない現実を突きつけられたメグレが、渋い顔を浮かべて終わるのかと思いきや、クラークは、予想に反し、はなはだ公平で寛容、プロスペルに対しても、決して見下した態度を取らない紳士として描かれる。メグレとのやり取りには、むしろ、気持ちのよいユーモアが漂う。

 こう見てくると、本書は、いわゆるメグレ的「雰囲気」小説ではなく、しゃれてスマートなエンターテインメントであることがわかってくる。

 事件は、このあと終盤に大きく展開して、都筑の言う「意外な犯人」が明らかになるのだが、この真相は、さして面白くない。面白くないというか、どうやら、面白くないのも計算のうちというか、動機の意外性がないので物足りない、という都筑の意見も、もっともである。意外な動機による殺人を描くなら、クラーク=エミリエンヌ=プロスペル=シャルロットの四角関係を中心に据えるべきだが、あにはからんや、事件は、まったく無関係な常習犯罪者による犯行とわかる。最後は、プロスペルが息子を引き取る人情噺のようなハッピー・エンドで終わって、ある意味、人を食った展開である。メグレものらしい、心理が火花を散らすドラマにする気など、最初からなさそうなのだ。

 ミステリとしての組み立ても、それほど「真面目に」練られたものではなく、例えば、自転車のパンクという偶然が事件のポイントになるのは、まあ、よいのだが、それよりも何よりも、たまたまクラーク一家が宿泊したホテルでプロスペルが働いている、とか、とんでもない偶然が最初に出てきて、これは、なにか裏がありそうだ、エミリエンヌかプロスペル、あるいは他の何者かが企んだ策略に違いない、と予想していると、本当にただの偶然で[xi]、びっくり仰天である。

 「フェアな謎解きミステリとして、本書はシリーズの中でも屈指の完成度を誇る」[xii]と、「解説」では熱く評価しているが、本当かなあ?この言葉に釣られて、パズル・ミステリ好き、例えばエラリイ・クイーンのファンが本書を読んだら、ウーム、論理性が弱い、などと、眉間にしわを寄せてつぶやくだろう。権威ある早川書房編集部が、安易にこんな風に書いては、かえって若い世代をシムノンから遠ざける結果になってしまうんじゃなかろうか。

 本書は、しゃれた趣向で書かれた軽みを身上とするミステリで、むしろパズル小説のパロディと思ったほうがよい。最後のメグレの名探偵ぶった謎解きもそうだが、主人公のプロスペルという名前自体(原文はわからないが、prospèreから取ったのだとすれば)冗談らしいから、そこからも本書の位置づけがわかる。パロディとまで言わずとも、謎解きは、本書を構成する要素のうちのひとつに過ぎない。(ベルギー生まれだが)シムノンのフランス風エスプリに満ちた自在な小説テクニックを味わうべきである。

 

[i] 『メグレと若い女の死』(平岡 敦訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、2023年2月)他。

[ii] 『サン=フォリアン教会の首吊り男』(伊禮規与美訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、2023年5月)。

[iii] 『メグレとマジェスティック・ホテルの地階』(高野 優訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、2023年10月)。

[iv] 同、「解説」、264-65頁。

[v] 都筑道夫都筑道夫の読ホリデイ 上巻』(小森 収編集、フリースタイル、2009年)、426-28頁。

[vi] 『メグレと超高級ホテルの地階』『EQ』(1988年3月号)所収。都筑は「五月号」と書いているが、本書の解説によると「三月号」らしい。『メグレとマジェスティック・ホテルの地階』、270頁。

[vii]都筑道夫の読ホリデイ 上巻』、426頁。

[viii] 『メグレとマジェスティック・ホテルの地階』、12-13、18-19頁。

[ix] 同、267-70頁。

[x] 同、152-75頁。

[xi] 同、256頁。

[xii] 同、267頁。

江戸川乱歩『大暗室』

(本書の内容を詳しく紹介していますので、未読の方はご注意ください。)

 

 最初、本書を手に取ったとき、その題名に、まず、しびれた。なにしろ、「暗室」(写真部か)に「大」をつけただけで、これほど怪しい魅力に富んだタイトルにしてしまうのである。何か原典はあるのだろうか。

 「陰獣」にしても、もともと「陰気な獣」からきているので、「淫獣」のような意味はない[i]、と乱歩本人は、世間的な反応に不満げだが、「陰気な獣」を縮めて「陰獣」にしてしまうところが、そもそも天才的である。

 無論、『大暗室』と「陰獣」では狙いがまったく異なる。後者は、本質は謎解きミステリだが、『大暗室』は、いわゆる通俗長編で、しかし、同時に、乱歩長編としての、ひとつの節目に当たる作品に思える。通俗ミステリも、当初は、「チャンバラ長篇」[ii]とはいいながら、謎解きと犯人当て探偵小説の形式を保っていた。『蜘蛛男』(1929-30年)も『黄金仮面』(1930-31年)も、『猟奇の果』(1930年)でさえ(?)当初案はそうであった。それが変わってくるのは『黒蜥蜴』(1934年)あたりからだが、まだ「明智小五郎もの」でもあり、謎解きの要素もなくはなかった。『大暗室』(1936-37年)も、皆無とは言わないが、犯人当てどころか、探偵小説ともいいがたい、善玉悪玉が最初から明白な冒険活劇で、乱歩の嗜好に合わせた言い方をすれば、完璧な「決闘小説」である。

 善玉は明智小五郎でも、他のいかなる探偵でもなく、悪玉もルパンとかではない(というか、ルパンを小ばかにしている[iii]が、いいのか?)。父親違いの兄弟同士が善と悪に分かれて死闘を繰り広げる、恐ろしく時代がかった冒険小説である(乱歩本人が、黒岩涙香を基にしていると告白している[iv])。いわば、乱歩が怪奇冒険小説に振り切った、そして、完全に「開き直った」長編小説であるといえるだろう。

 冒頭、「メデューズ号事件」を思わせる海洋漂流譚から始まる。海原を漂う筏の上で、有明友定男爵を殺害し、その付き人の久留須左門を海中に追い落とした大曾根五郎は、海難事故から生還すると、男爵夫人の京子と結婚する。京子には、すでに友定との間に一子友之助がいたが、大曾根との再婚で次男の竜次を生む。ところが、そこに骸骨のような無残な相貌に変わり果てた久留須が現れ、大曾根の悪事を暴露し、糾弾するのである。秘密を知られた大曾根は京子と久留須を部屋に閉じ込め、屋敷に火を放つ。京子は死亡するが、かろうじて脱出した久留須は幼い友之助を抱きかかえ、滂沱と涙しながら大曾根に復讐を誓う。かくして大曾根竜次対有明友之助の世紀の決戦の火ぶたが切られるわけである。

 成長した二人は、民間飛行競技大会(そんなものが、この時代にはあったのか)で技を競い合うが、飛行機が不時着したあと、互いの力量を認め合い、思いを語り合う。大野木隆一こと竜次は、大曾根の息子だけあって、とんでもないサイコ青年だが、正義の騎士である有村清こと友之助のほうも、けっこうなイカレっぷりである。竜次が、自分は地獄の使者だ、東京を壊滅させてみせる、と広言すれば、友之助のほうは、ぼくは悪を滅ぼすことを使命に育てられた、君を止めて見せよう、と応戦する。両者は今後の健闘を誓いあって(?)、まるで永年の親友のごとく堅く握手をかわす(いや、そんな危ない奴は、警察に通報しろよ)。

 このシーンから推察できるように、友之助と竜次の間に直接の遺恨はないので、なんで二人が争い合うのか、動機付けが難しい。友之助の母親は竜次の父親に殺害されているが、竜次は同腹の弟であるから、母親を殺された点で変わりはない。元凶の大曾根五郎は、とっくにいなくなって、復讐のしようがない。結局、竜次と友之助は、それぞれが薫陶を受けた五郎と久留須に叩き込まれた信念に基づいて対決するほかない。従って、このあと明らかになるように、両者の対決はゲーム的で、真剣味が足りない(?)。しかも、実の兄弟だから、兄さん、弟よ、と、なんだ、こいつら、と思わざるを得ない。相変わらず、乱歩特有の真面目なような、とぼけたような語り口と相まって、血を分けた兄弟だからこその、原始的な憎悪による闘争劇には発展しない。カインとアベルのようなわけにはいかないのである。

 第一部「陥穽と振り子の巻」では、竜次が、伊賀屋伝右衛門なる人物が残した財宝を狙って、その子孫である星野清五郎と真弓親子、彼らと同居する辻堂という老人に近づく。あるときから辻堂の振る舞いに奇妙な違和感を覚えるようになった真弓は、早朝のそぞろ歩きの最中に偶然出会い、言葉を交わすようになった凛々しい美青年に苦しい胸の内を訴える。その白馬の王子こそ友之助である(いや、どういう偶然?)。

 数日後、辻堂老人は星野清五郎を財宝探しに誘って、山梨県韮崎(わたしの父の生家があった。関係ないか)へ、そこから人里離れた山間の湯治場へと案内する。そこで、案の定、辻堂老人に扮していた竜次が正体を現すと、星野氏も負けじと扮装を解けば、それは友之助である。実にもって乱歩らしい種明かしが来て、お約束通りに二人が取っ組み合いを始めると、竜次が足を滑らして崖から転落しそうになる。正義の味方のくせに俺を見捨てるのか、と泣き言をいう竜次を仕方なく助けた友之助は、観念した風を装い神妙に従う竜次を連れて、仲良く帰りの列車に乗り込む。が、トンネルに入って、あたりが暗闇になるや否や、竜次はトンずらする。逃走した竜次は、そのまま星野親子に辻堂までさらって姿を消してしまう。これが第一部なのだが、竜次という男が、悪の化身を名乗る割には、やりやあがったな、とか、まるでチンピラのような捨て台詞で、小物っぷりがひどい。一方の友之助にしても、竜次の口車に簡単に騙されて、悪人め、悪人め、とくやしがるなど、思った以上に頭が干上がっているので、善と悪の対決という謳い文句の物々しさの割に、その辺の隅っこでゴチャゴチャやっている、しょうもなさが隠しきれない。いやいや、それとも、そうではなくて、この乱歩特有の変なノリを楽しむのが正解なのか。

 第二部の「うずまきとどくろの巻」では、悪魔のうずまきの印を残す賊、すなわち大曾根竜次と友之助の激闘第二幕が、少女歌劇の女王、花菱ラン子(この名も、乱歩の自虐ネタなのだろうか)をめぐって繰り広げられる。このラン子の取り巻きのファンがすごくて、花菱会なるものを結成しており、「わたしたちのラン子さん」を守ろうと、えらい鼻息なのである。煙草をプカプカふかして、「そいつはおもしろいや」などと口走るので、本当にいいとこのお嬢さんたちなのか?

 事件のほうは、例によって一人二役トリックで竜次がまんまとラン子を拉致するが、出し抜かれた久留須老が息まいて、いやいや、友之助様がお前の裏をかいてみせるぞ、覚悟するがよい、と高笑いする姿がすさまじい。「どくろは、耳まで裂けた口をものすごくひらいて、腹の底から哄笑した」、「黒マントの化鳥の羽根をひろげ、羽ばたきをうって、気違いのように、いつまでもいつまでも笑いつづけた」[v]と、どうみても、こちらのほうが悪の化身である。

 対抗する友之助も、読者の誰もが予想するとおり、竜次の手下に変装して、隅田川沿いの倉庫に敵を追い詰める。逃げる竜次を追って、地下水道に飛び込んだ友之助は、ついに相手をとらえるが、そこから、この二人、プカプカ浮いたまま、またのんきに話しを始めるのである。ここでようやく、互いが実の兄弟同士であることを確かめ合った二人は、またいきなり水中で取っ組み合う。この変な兄弟げんかを見せられる読者は、ハラハラドキドキ手に汗握ったのか?体力を使い果たしてグロッキーになった友之助を振り切って、再び竜次は逃げ去る。これが第二部の終わりである。

 第三部は、いよいよ「大暗室の巻」で、ついに竜次が帝都崩壊の大陰謀をめぐらす。まずは六人の新聞記者を誘拐して、地下の根城に連れてこさせる。そこで彼らが目撃するのは、地下に広がる竜次の悪の王国、すなわち「大暗室」で、第三部の半ばを使って、その全容が紹介される。乱歩自身が「パノラマ島奇談」(1926-27年)に言及しているように[vi]、同作における孤島の人工楽園を地底にもってきたもので、天女に扮した美女が宙を舞い、人魚が水中を泳ぐのだが、地下なので、どうも地味である。都市というほどのスケールはなく、せいぜい怪人二十面相が地面を掘って作った穴倉程度の印象なのだ。

 地中の破壊兵器によって首都を壊滅させるアイディアは、SFパニック小説として悪くない。しかし、数カ所に爆薬を仕掛けて爆破させる竜次の大犯罪はスケールに乏しく、やっぱり、がっかりするほど、みすぼらしい。現代作家なら、もっと綿密な取材調査のうえで、専門的な知識や想像力を動員して、帝都消滅の一大スペクタクル巨編に仕上げることもできただろう。作家の想像力も時代の技術水準や常識に制約されるということかもしれないが、それ以上に、全体が乱歩の個人的妄想の範囲にとどまってしまって、近未来SFエンターテインメントにまで昇華しきれなかったところに、物足りなさが残る。悪の地底王国にしては貧相で、そこが一番惜しまれるところである。

 大曾根竜次という本編の主人公(読み返してみると、友之助の方が、むしろ引き立て役)が小悪党に過ぎないのも、「大暗室」というテーマをタイトルどおりにまでスケール・アップさせられなかった一因であるが、作品の厚みも足りなかったようだ。乱歩作品のなかでも大長編に属するのだが、やはり、まだまだ書き込み不足で、構想の練り具合も十分ではなかった。

 実をいうと、乱歩長編のなかでも、その荒唐無稽さに魅かれてきたので、再読して、そこは少し残念に思う。

 それでも、本作のラストは強烈である。作者の解説によれば、いや、そうと聞かされなくとも「火星の運河」(1926年)の引用なのだが[vii]、万策尽きた竜次が、女たちを道連れに(友之助たちも、それを、ただ見てちゃだめだろう)、全身を血のりで真っ赤に染めて断末魔の踊りを踊る。そして、最後の文章。

 

  そのなんとも形容のできないぶきみな表情が、みるみる大きく大きく広がっていっ 

 て、やがて、人々の全視野をおおいつくしてしまったのである[viii]

 

 これは幻覚なのだろうか。いや、現実の描写なのか。そんなはずはないが、この文章で小説を閉じる乱歩の奔放な、というか、あとは勝手に想像してくれ、と言わんばかりの投げっぷりに、当時の読者は戸惑ったりしなかったのだろうか。

 

 それとも、すべては幻想で、大曾根竜次の大陰謀も、地底の王国も幻でしかなかった。『大暗室』の物語は、ただ友之助が見た、つかの間の夢に過ぎなかったのだろうか。

 

[i] 江戸川乱歩「探偵小説十年」『江戸川乱歩コレクションⅥ 謎と魔法の物語 自作に関する解説』(新保博久・山前 譲編、河出書房新社、1995年)、122-23頁。もっとも、最初は「恐ろしき勝利」という「平凡な」タイトルだったそうだ。題名に関する横溝正史とのやり取りについては、以下に詳しい。横溝正史「『パノラマ島奇譚』と『陰獣』ができる話」『探偵小説昔話』(「新版 横溝正史全集18」、講談社、1975年)、225-26頁。横溝は、元のタイトルを失念していたらしい(「探偵小説十年」は読んでいなかったのか、読んだけれど、忘れていたのだろう)。

[ii] 「探偵小説十年」、137、145頁。

[iii] 『大暗室』(春陽文庫、1972年)、42頁。

[iv] 「乱歩 自作自解 コラージュ」(1962年)『江戸川乱歩コレクションⅥ 謎と魔法の物語 自作に関する解説』、358頁。

[v] 『大暗室』、186-87頁。

[vi] 「乱歩 自作自解 コラージュ」、358頁。

[vii] 同。

[viii] 『大暗室』、303頁。

江戸川乱歩『黒蜥蜴』

(本書のトリック等を紹介していますので、未読の方はご注意ください。)

 

 戦前の江戸川乱歩は、次々にヒット作を生み出す大衆文学界の巨星だったから、代表作には事欠かない。『蜘蛛男』(1929-1930年)や『黄金仮面』(1930-1931年)などと並び、本書もそのなかのひとつだが、ひと際異彩を放っているのは、「黒蜥蜴の異名をもつ暗黒街の女王」(すごいな、こりゃ)を主人公に据えて、明智小五郎との対決を描く新機軸を生み出しているところである。

 本書は、また、戯曲化されたことでも有名で、あの三島由紀夫による脚本(1961年)[i]は、もうひとつの『黒蜥蜴』として、原作に劣らぬ独自の文学的地位を獲得している。

 以上の評価は、しかし、乱歩自身の自己評価とも、ミステリ批評における「乱歩は短編作家で、長編は不出来な通俗小説」という一般的評価とも合致しない。とりわけ、本作が連載された昭和9年前後は『悪霊』(1933-34年)中絶もあって、乱歩長篇に対する批評家の酷評と大衆的な人気が際立った対照を示した時期であったようだ。酷評の第一は横溝正史によるものだが[ii]、それについては別稿に記したので、ここには繰り返さない。後年、大内茂男は乱歩長編評論のなかで、「この時期の三作(筆者注:『妖虫』、『人間豹』と本作)の中では、この『黒蜥蜴』が一番まともである」[iii]と述べ、これまでのように犯人当てに拘泥せず、女賊の側から描くことで「すっきりした出来栄えになった」と評した。また「『黄金仮面』のバリエーションとみなされる」と適切にも指摘しているが、同時に、それゆえに「乱歩特有の官能的な刺激の強烈さを要求する読者たち」は満足しなかったのではないか、と推測している[iv]

 上記の大内の評言の最後の部分については、三島の戯曲版が、まさにその官能的な美を特徴とするのと矛盾するようだが、乱歩の原作にも本来備わっていたはずの美学を鋭敏な感性で掬い取って耽美主義的文体で描いたのが、三島版『黒蜥蜴』ということなのだろう。

 大内による『黒蜥蜴』論のもうひとつのポイントである『黄金仮面』との関連については、確かに、本書における黒蜥蜴と明智小五郎の対決の構図は『黄金仮面』と類似している。同時にそれは「少年探偵団シリーズ」における、明智怪人二十面相の対決の構図とも一致しており、とくに終盤の汽船のアジトで黒蜥蜴こと緑川夫人が明智の存在の影に脅える場面は、『黄金仮面』にはなかった展開で、「女賊の視点からの明智小五郎もの」という本書の特性が充分に奏功している(黄金仮面が明智の幻影に怯えるのでは、あまり色気がない)。こうした、犯人のほうが明智のだまくらかしに翻弄されるラストは、この後、怪人二十面相シリーズでは定番となる。例えば「少年探偵シリーズ」第二弾の『少年探偵団』(1937年)を読むと、警察の手を逃れた二十面相が地下の秘密美術室で、飾ってあった仏像が小林少年に変わっているのを知って、肝をつぶすシーンが出てくる。おまけに部下のひとりが明智にすり替わっていて、怒りの鉄拳をふるおうとしたら逆に投げ飛ばされてしまう二十面相は、けっこう情けない[v]。この、まるで明智のほうが怪人のごとくふるまう「明智の二十面相化現象」がはっきりとしたかたちでお目見えするのが本書である。『黄金仮面』と『黒蜥蜴』によって、「少年探偵シリーズ」の骨格はすでに出来上がっていたのだといえるだろう。

 悪女対名探偵の本書の構図について、もう少し続けると、乱歩自身は、「美しい女賊と明智小五郎との、おそろしくトリッキイでアクロバティックな冒険物語」[vi]と自己解説している。それほどトリッキーでアクロバティックかなあ、と、正直思うが、黒蜥蜴が繰り出す「人間椅子」トリック(これは『吸血鬼』でも使用済み。短編名作「人間椅子」を思うと、苦笑せざるをえない)に、明智明智で、こっそり桜山葉子なる替え玉をスカウトして[vii]、対抗するので、もうひとりのヒロイン岩瀬早苗をめぐる黒蜥蜴と明智の攻防は、攻守の切り替えが確かに目まぐるしい。前半は黒蜥蜴の攻勢に明智が防戦一方だが、上述のように後半は逆転して、黒蜥蜴側から見た明智が魔王のごとき不気味な存在と化すので、これは言ってみれば、乱歩の独壇場である「決闘小説」の新ヴァリエーションとなっている。

 シリーズのヒーローが女性側の視点から描かれるのは、イアン・フレミングの『わたしを愛したスパイ』(1962年)[viii]が有名だが、本作はその系列においても先んじていたと言えよう(もっとも、ジェイムズ・ボンドは一冊も読んだことがないので、聞きかじった範囲での話である)。

 『黒蜥蜴』は、女賊と探偵の対決なので、ということは、明智は黒蜥蜴にとってのヒーローというよりライヴァルであり、かつ、男対女の決闘だから、男女間の色恋感情が混じってくる。そこがもう一つの特徴で、乱歩自身、「追うものと追われるものの、かたき同士が愛情を感じ合う」と説明している。しかし、死の間際に明智の口づけを求める黒蜥蜴の描写は、乱歩がそもそも女性を描くのが得意とも思えないので、急に小娘っぽくなって、まるで学芸会である。そもそも、小説の冒頭、帝都の秘密のナイトクラブに黒蜥蜴が現われると、「ダーク・エンジェル!」の歓声に、いきなり服を脱いで全裸で踊り出すトンチキぶりで、興奮した紳士たちに担ぎ上げられると、「おみこしのかけ声勇ましく、室内をぐるぐると回り歩」[ix]く男祭りの頓狂さには、読んでいて茫然とする。「二銭銅貨」の頃からは想像もつかない馬鹿騒ぎだが、乱歩は休筆期間中にキャバレーめぐりでもしたのだろうか。戦後、別人のように社交的になったと評され、しかし、戦前は、むしろ人との交わりを避けて逃亡者のごとき人外の生活を送っていたという、あの乱歩が、である。横溝正史が激怒したのは、この『黒蜥蜴』冒頭のアチャラカぶりを読んだからではなかったろうか[x](正史は正史で、病気療養前の行状は、到底模範青年のそれではなかったようだが)。

 話を戻すと、このあとも運転手に変装した途端、いきなり、ぼくはねエ、などと言いだして、いわゆる「ボクッ娘」の先駆みたいになったり、明智が隠れている(と思いこんだ)長椅子をぐるぐる巻きに縛らせて海に放り込んだ後、早苗と一緒になってワアワア泣き出す情緒不安定さで、乱歩としては、黒蜥蜴の少女のような天真爛漫な一面を描きたかったのだろうが、最後は、早苗を剝製にしてやる(〇〇〇〇閣下のようだ)などと息まいて、サイコっぷりのほうが目立ってしまった。今さら言うことでもないが、いろいろ属性を揃えた割に、外形的特徴ばかりで、リアリティに欠ける。もっとも、こんな女賊にリアリティがあっても困るが、犯罪実行の場面は、乱歩的怪人らしく、イカレ具合がある意味リアルなのである。黒蜥蜴の人間的側面を描こうとすると、途端にぎこちなくなるので困るのだが、もちろん、乱歩にしてみれば、それは承知のうえのことで、最後の明智と黒蜥蜴の抱擁シーンも、どこからか借りてきたような陳腐なセリフ回しになったのは、そうでもしないと、照れてしまって、到底書けやしなかったのだろう。言い方は悪いが、所詮通俗探偵小説だから、というのが自身に対する言い訳だったように思われる。

 とはいえ、おかげで乱歩の作風がひとつ広がったのは事実であるし、進んで広げようとする意欲もまだ健在であった。そこは確かなことのようだ。

 

 ところで、本書は東京の銀座?(作中ではG街[xi])で始まるが、富豪の岩瀬氏の屋敷が大阪にあるという設定なので、誘拐した早苗の引き渡し場所として、通天閣が出てくる[xii]。それほど詳しい描写ではないが、場末の屋台通りのような展望台の様子が描かれていて、関西人でないわたしには、なかなか興味深い。わざわざ舞台を大阪に移したのは、終盤の山場が、東京へと向かう汽船のなかなので、それが理由なのだろうが、もともと関西出身だった乱歩である。「押絵と旅する男」で浅草の十二階を取り上げたように、一度は馴染み深い大阪を描きたいと思っていたのだろうか。

 

[i]江戸川乱歩コレクション・Ⅵ 謎と魔法の物語 自作に関する解説』(新保博久山前譲編、河出書房新社、1995年)、「黒蜥蜴」、352-53頁。乱歩に魅せられ、三島の親友でもあった中井英夫の以下の文章も参照。中井英夫「美への愛憎」(1973年)『ケンタウロスの嘆き』(潮出版社、1975年)、93-98頁。

[ii] 江戸川乱歩『探偵小説四十年(上)』(光文社、2006年)、570-73頁。

[iii] 大内茂男「華麗なユートピア」『幻影城 江戸川乱歩の世界』(1975年7月増刊号)、227頁。

[iv] 同。

[v]怪人二十面相/少年探偵団』(講談社、1987年)、419-29頁。

[vi] 『謎と魔法の物語』、353頁。

[vii] 『黒蜥蜴・湖畔亭事件』(春陽文庫、1972年)、65-73頁。

[viii] イアン・フレミング『007 わたしを愛したスパイ』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1963年)。

[ix] 『黒蜥蜴・湖畔亭事件』、5頁。

[x] 『悪霊』は『新青年』の昭和9年1月号まで掲載され、その後二か月休載したあと、同年4月号で中絶が決まった。同号に、正史の罵倒文が掲載されたという。『黒蜥蜴』は、『日の出』の同年1月号から連載を開始している。『探偵小説四十年(上)』、569-70、575頁。

[xi] 同、2頁。ほかにも「U公園(上野公園?)」(10頁)とか、「T大学(東京大学?)」(11頁)とか出てくるが、京橋は「京橋」(9頁)である。

[xii] 同、99-109頁。

江戸川乱歩『一寸法師』

(本書の構成、トリック等のほかに、エラリイ・クイーン、ジョン・ディクスン・カーの代表作について触れているので、ご注意願います。)

 

 江戸川乱歩の処女長編小説というと、『闇に蠢く』(1926年)ということになっている。しかし、この作品は雑誌『苦楽』に連載したものの中絶し、その後、全集本に収録の際に結末を書き足して完結したものである[i]

 その次は「湖畔亭事件」(1926年)、そして「パノラマ島奇談」(1926-27年)だが、これら二編は、分量的に、果たして長編なのだろうか。上記『闇に蠢く』の完結版を含む平凡社の最初の全集を見ると、乱歩自身は、これら二作とも連載長編とみなしていたようだ[ii]。どちらも文庫本で、せいぜい120-130頁ほどで、現代の標準からすれば中編に過ぎないと思えるが、(長編が苦手だったと自他ともに認める)乱歩にとっては、これでも長編と映っていたのだろうか。あるいは、戦前のこの時代には、このぐらいの分量でも長編というのが常識だったのだろうか。

 以上を勘案すると、1926年、上記三作に続いて『朝日新聞』に連載された『一寸法師』こそ、本当の意味で処女長編小説と言えないこともない。といっても、同作も文庫本にして200頁に満たない、短めの長編ミステリなのだが。

 しかも、『一寸法師』は、乱歩に最初の(!)休筆を決心させたいわくつきの小説で、「愚作『一寸法師』に嫌悪を感じ、当分筆を絶つことを決意」[iii]したと、正々堂々発言し、さらには「(同長編で)愈々ペシャンコになってしまった」[iv]と、正直に告白するほどであった。従って、乱歩自身は、この作品の内容について、ほとんど語っていない。書くのが嫌で嫌で、催促されても駄目、口述でもよいと言われたが、それはもっと駄目だから、「そんなら書きます」と泣く泣く筆を取ったというエピソード[v]を読むと、大乱歩に失礼ながら、思わず吹き出すほど面白い(「そんなら」が、とくに素敵です)。しかし、構想やトリックに関しては触れておらず、ただ、その評判について、数年後に甲賀三郎を通じて、『一寸法師』は「読者にはマア受けていた」と聞かされた[vi]、と、さりげなく(自慢げに)書き留めているのが微笑ましい。なんだかんだ言っても、それなりに自信と自負を持っていたのだなあ、と思わず頬が緩んでしまう。

 とはいえ、上記のとおりの散々な自己評価であるのだが、半世紀近くも後になって、角川文庫版『一寸法師』の解説を書いた中井英夫は、しかしながら、闇夜の浅草公園を描く冒頭部分をまず取り上げると、「秘密や悪徳を宝石めかせて薄絹の彼方に透かす香り高い闇」[vii]であると、中井らしい文章で賛美している。「らしい」という以上に、これぞ中井という華麗な筆で、それこそ「宝石めかした」きらびやかな賞賛の言葉の数々をみると、どんなに素晴らしい作品なのだろう、と、読者の誰しもが期待に胸を躍らせるだろう。残念ながら、現物はそこまでのものではない(失敬な!)。そうはいっても、本作を連載した大正15年当時の思い出として、わざわざ「浅草趣味」[viii]なる一文を草するくらい浅草に魅せられていた乱歩であるから、中井の言葉も、まんざら大げさではない。書きたいものを書ける嬉しさに、乱歩の筆も踊ったのだろう。

 中井が称賛する、乱歩ならではの語りが本書の魅力であることはもちろんだが、作者が書こうとしたのは長編ミステリのはずなので、その点については、どうか。連載前の口上が数少ない手がかりとなりそうだが、それによると、「(本作品は)恐らく本格探偵小説というものには当たらず」、「私好みの古くさい怪奇の世界を出でないであろう」[ix]と控えめである。(というか、こんな自信なげな告白で連載を始められては、新聞社も困ったことだろう。)確かに作者が打ち明けているとおりであったにしても、「恐らく」と付いているところが、実は重要である。この言葉から察するに、乱歩としては、本書を最初は本格ミステリとして構想し執筆したのだろう。それが、上手くいかなかったからこそ、「あまりの愚作にあいそがつきて、中絶したかったのだが、許してもらえず、死ぬ思いでともかく書き終わった」[x]という苦々しい回想になったものと思われる。それにしても、ここまで自作を忌避する発言をこれでもかと書き連ねるのは、ただ事ではない。結論からいえば、『一寸法師』は、その後の長編と比べて、特別劣っているわけではないが、最初の本格的な長編連載だっただけに、作者としても妥協し難かったのだろう。(皮肉な言いようだが)自身の持ち味に見極めがついて、ある意味開き直って書けるようになった後年の諸作のようにはいかなかったということだったようだ。

 しかし、こんなことを言っては、かえって作者に失礼ではあるが、本作には、謎解き小説としてかなり考えられた跡が見られる。一寸法師という怪人物を登場させておいて、しかし、彼が真犯人ではないというところである。後年の乱歩の通俗連載長篇の常套的展開は、怪人対名探偵の一対一の対決だが、本編は、実は、その構図にならない。怪人による奇怪な遊戯的殺人と見せかけて、真相は家庭内の偶然の惨事というのは、乱歩には珍しい解決といえる。というか、そもそも本作が明智小五郎の長編シリーズ第一作であるから、従来のパターンから外れたというのではなく、最初なので、ミステリらしい意外性に頭を絞ったのだろう。いかにも怪しい人物を出しておいて、実は狂言回しに過ぎないというのは、謎解きミステリとしてはお定まりの展開であるが、乱歩長編では、むしろ例外で、このあとの定番となる「怪人と明智の一騎打ち」は、まだここには見られない。

 より具体的にみていくと、本書では、人間入れ替わりのかなり無理なトリックも使われているが、一番大きな謎は、一寸法師の正体というか、正体を隠す一種の偽装のトリックである。本書以前に書かれた短編「踊る一寸法師」(1926年)から発想したのかもしれないが、殺人犯人の意外性より、一寸法師が誰かが謎の中心になっている。

 実は、この謎のアイディアは、後年ジョン・ディクスン・カーが書いた長編ミステリ(注で書名を挙げています[xi])のそれと基本的に同一である。カーの長編も、かなり無理があるが、本書の場合、それに輪をかけて、そもそも一寸法師の正体を見抜く手がかりとなる描写がほとんどない。例えば、主人公格の小林紋三が、浅草公園で見かけた一寸法師の後を追っていくと、養源寺という寺に入っていく。翌日、寺を訪ねると、部屋のなかに住職が座っている。「座っている」というのも住職の秘密を隠す伏線らしいのだが、その後のやり取りの場面で、彼の足や足もとについて、なんの描写もない。坊さんと聞けば、足袋を履いているが足首はむき出しとか、足元まで法衣で隠れているとか、読者は想像するだろうが、そうした描写が一切出てこない。僧衣をまとう住職という設定自体、このトリックを成立させるための工夫なのだろうが(普通のサラリーマンでは無理だろうから)、正体を隠す偽装について、まるで手がかりが示されていないのでは、謎解き小説としては破滅的である。

 『孤島の鬼』(1929-30年)や『魔術師』(1930-31年)でも、エラリイ・クイーンの代表作(注で書名を挙げています[xii])と同じアイディアで長編を書いているように、乱歩のミステリの発想力は、同時代の欧米のトップ・ランナーたちと比べても遜色ない。しかし、それを長編ミステリのメイン・アイディアとなるまでに錬成し、綿密に組み立てていく構成力と技術が伴っていなかったようなのだ。ミステリのトリックは、本来アクチュアリティに欠けるものではあるが、それでも最低限のリアリティを感じさせるだけの状況づくりと細部の具体的な描写が必要になる。乱歩には、それを実現するだけの経験的知識と技術の蓄積が足りなかったのではないだろうか。

 例えば終生の友であり、同業者でもあった横溝正史と比べると、乱歩がエドガー・アラン・ポーコナン・ドイルを知ったのは二十歳を過ぎてからで[xiii]、それ以前のミステリの読書体験は、黒岩涙香本やその元ネタとなったボアゴベイなどに限られていたようだ[xiv]。一方、正史のほうは、十代半ばから、友人の西田徳重とともに神戸の古本屋を巡って英米雑誌を漁っていたという[xv]。八歳という年齢差と、少年時代の読書体験の相違は、二人の大作家のミステリ創作能力に思った以上に大きな影響を与えたように思われる[xvi]。加えて、正史には、『新青年』を始めとする(ミステリ専門誌ではないが)雑誌編集の経験があった。乱歩に、A・A・ミルンの『赤い館の秘密』やE・C・ベントリーの『トレント最後の事件』を「紹介」したのも正史である[xvii]英米の黄金時代の作品に若いころから親しんできた正史には、パズル・ミステリの基本的な成分が、意識せずとも体に染み込んでいたのだろう(そうでなければ、戦後の、あの本格ミステリ魂の爆発は説明できない)。それに対し、作家になってから、ようやく1920年代以降の「ミステリの黄金時代」を追尾体験するようになった乱歩にとって、フェアプレイに基づく物的データの論理的操作と理論構成というパズル・ミステリの基本技法は、目指す対象ではあっても、自ずと身についたものではなかったように思われる。乱歩と正史、二人の天才探偵小説家の足跡を比較すると、作家的資質は別として、ことに長編ミステリにおける謎と論理の作り手としての到達点の違いを、そんな風に想像してみたくなるのである。

 

[i] 江戸川乱歩『探偵小説四十年(上)』(光文社、2006年)、183、197頁。

[ii] 同、452-53頁。

[iii] 同、279頁。

[iv] 同、281頁。

[v] 同、238頁。

[vi] 同、239頁。

[vii] 中井英夫「香り高い闇」『ケンタウロスの嘆き』(潮出版社、1975年)、103頁。今頃気がついたが、目次で並んでいる「美への愛憎」(『黒蜥蜴』の解説)と「香り高い闇」に付されている副題が、前者が『一寸法師』、後者が『黒蜥蜴』と、間違って印刷されている。鬼の首でも取ったように言うことでもないが。

[viii] 『探偵小説四十年(上)』、206-207頁。

[ix] 同、240頁。

[x] 同、283頁。

[xi] ジョン・ディクスン・カー『曲がった蝶番』(1938年)。

[xii] エラリイ・クイーン『Yの悲劇』(1932年)。

[xiii] 『探偵小説四十年』、32-35頁。

[xiv] 同、26-29頁。

[xv] 横溝正史「途切れ途切れの記」『探偵小説五十年』(1972年、復刻版、1977年、講談社)、21-23頁。

[xvi] 乱歩との年齢差については、正史自身が言及している。ただし、自分の少年時代は、探偵小説暗黒時代だった、という文脈においてであった。もっとも、これは西田徳重と知り合う以前の時期についての感想である。横溝正史『自伝的随筆集』(角川書店、2002年)、127-44頁。

[xvii] 横溝正史「エラリー・クィーン氏、雑誌の廃刊を三カ月おくらせること」『探偵小説昔話』(講談社、1975年)、73頁。