J・D・カー『弓弦城の殺人』

 『弓弦城殺人事件』(1933年)はカーター・ディクスン(正確にはカー・ディクスン)名義の最初の長編で、この一作のみの探偵ジョン・ゴーントが登場する。

 例によって、本作も日本では長い間絶版が続き、幻の長編と化していた。ところが、1976年にハヤカワ・ミステリ文庫が創刊されると本作も収録され[i]、広く(?)読まれるようになった。

 ジョン・ゴーントという名は、よく知られているとおり、イングランドエドワード3世(在位1327-77年)の三男で、リチャード2世(在位1377-99年)を廃位してランカスター朝を開いたヘンリ4世(在位1399-1413年)の父親ジョン・オヴ・ゴーント(John of Gaunt, 1340-99年)から取られている。ランカスター朝といえば、バラ戦争で有名である。カーの歴史趣味がよく発揮された名前といえる。もっとも、一作きりの探偵ということもあり、名前以外は、酒ばかり飲んでいるアル中探偵のイメージしかない。アンリ・バンコランをアルコール、いや水で薄めたような(というのは言い過ぎか)キャラクターである。

 また、本作は同年のカー名義の長編『魔女の隠れ家』と同じく、イギリスを舞台にしている。東部海沿いのサフォーク州のオールドブリッジ(実在の地名かどうかは知らない)で、『魔女の隠れ家』の舞台リンカンシャも近い。カーがイギリスに旅行した際、訪れた場所だったのだろう。

 ダグラス・G・グリーンによれば、別名義による執筆は、カーがイギリス人女性クラリス・クリーヴズと結婚した後、イギリスに移住して生活するための資金稼ぎが直接の動機だった、という。このために速攻で書かれたのが本作だった[ii]

 となれば、杜撰なやっつけ仕事という印象を受けそうだが、実際グリーンの評価はそのようなものである[iii]。カー自身も同じように考えていたらしい(ただし、よく売れたともいう)[iv]。物語は、終始タイトルにあるボウストリングという古城で展開し、『魔女の隠れ家』におけるようなイングランドの田園風景の描写は見られない。しかし、別名義でもイギリスを舞台に選んだのは、『魔女の隠れ家』と同じ気分のまま書けるということもあったのだろうか。

 日本での評価はと言えば、江戸川乱歩の「カー問答」では第三位の十作のひとつ[v]で、密室トリックに関して、やや詳しく解説しているので、そこはかなり感心したもののようだ[vi]松田道弘の「新カー問答」では、「密室テーマ」のうちの一冊として挙げられているだけで[vii]、評論の対象とされていない。二階堂黎人は、探偵がヘンリ・メリヴェル卿だったら「佳作へと昇華する素質を持っていた」、とし、「古城の描写」や「手がかり兼ミスディレクション」は「冴えている」、と結論している[viii]。ジョン・ゴーントにとってはお生憎さまというところか。

 確かに、続くヘンリ・メリヴェル卿の『プレーグ・コートの殺人』や『ホワイト・プライオリの殺人』に比べると、だいぶ見劣りすると言わざるを得ない。

 そうはいっても、カーの他の長編に比べて、著しく劣っているというようなことはなく、古城を舞台とした密室殺人の謎は頁を繰る手を休ませないし、パズル・ミステリとしても充分面白い。

 ただし、肝心の密室トリックは、グリーンが指摘しているとおり[ix]、『夜歩く』の焼き直しで、ありあわせのものをアレンジして出したという感は否めない。ただ興味深いのは、『魔女の隠れ家』もそうだが、この時期のカーは、基本的に一人二役をもとにトリックを案出していることで、後年の多彩なトリックの引き出しがまだ作られていない。ある意味、非常に幅が狭い。

 また、被害者は最後に目撃されてから数分後に死体で発見されるが、足を折り曲げたような不自然な姿勢で倒れている、と描かれる。わずか数分で死後硬直が起こったかのような描写なのだが、実際このようなことがあるのだろうか。それについて何の説明もないまま、捜査は進展し、そもそも死亡推定時刻も明確にされない。これも充分推敲されずに出版社に渡してしまったのでは、と勘繰りたくなるところか。

 他に興味深い点は、ゴーントが解説で強調しているように、本作では「死体の落下」がテーマになっていて、乱歩が説明している「密室に死体を投げ込む」トリックのほか、第二の殺人でも死体の落下によって捜査陣(と読者)を錯覚させるトリックが用いられている[x]。このあたりはなかなか面白い。ただし、城内の見取り図がないので、少々わかりづらい。

 というわけで、短期間で書かれたという先入観のせいか、色々と練られていない部分や考え抜かれていない点が目立つが、全体としては一定のレヴェルを上回っていると言ってよいだろう。

 最後に探偵の交代について触れると、ジョン・ゴーントが印象の薄い探偵であるのは確かだが、そういう探偵ならば、カー以外の作家にもいくらでもいる。何も戯画化した探偵を必ず登場させなければならないわけでもない。その後の長編で、ゴーントをそのまま起用することも可能だったはずだが、次作からはヘンリ・メリヴェル卿に主役の座を譲ることになる。確かに、H・Mの毒舌で天衣無縫のキャラクターは、その後イギリスのパズル・ミステリでいわばひとつの定番となるタイプ(レジナルド・ヒルのダルジール警視など)でもあるが、今度はフェル博士と区別がつかない、という(主に日本での?)弊害をもたらした。カーがそれまでのバンコランのような痩身でミステリアスな探偵から巨漢で饒舌な探偵に180度転換したのは、カーがこうしたキャラクターを好んだのだ、と推測できるだろう。前者に欠けていて、後者に特徴的なのは父性の有無だろう。別名義のペンネームが必要になった際、まずニコラス・ウッドという父親の名前をもじったものを考えた[xi]、という挿話も示唆的である。

 別稿でも書いたが、カーが作品中に自身を投影したアメリカ人青年は、フェル博士やヘンリ・メリヴェル卿に父親に対するような感情を抱いているように見える。その行動に飽きれ、からかい、文句を言いつつも、無限の信頼と敬意を寄せている。それがカーの抱く理想の強く賢い父親像だったのだろう。

 

[i] 『弓弦城殺人事件』(加島詳造訳、早川書房、1976年)。

[ii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、109-110頁。

[iii] 同、137頁。

[iv] 同、138頁。

[v] 江戸川乱歩「カー問答」、ディクスン・カー『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』(創元推理文庫、1983年)、315頁。

[vi][vi] 同、326頁。

[vii] 松田道弘「新カー問答」『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、214頁。

[viii] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、348頁。

[ix] グリーン前掲書、137頁。

[x] 『弓弦城殺人事件』、262頁。

[xi] グリーン前掲書、110頁。

J・D・カー『魔女の隠れ家』

 『魔女の隠れ家』(1933年)はディクスン・カーの長編第六作。いよいよギデオン・フェル博士が登場する。

 例によって、本作も日本では長い間絶版が続き、幻の長編と化していた。ところが、1979年に創元推理文庫に収録される[i]と、1981年にはハヤカワ・ミステリ文庫でも復刊され[ii]、一挙に二種類の翻訳が読めるようになった(、と『夜歩く』でも書いたような)。

 『魔女の隠れ家』が執筆された1932年の6月に、カーはイギリス人女性クラリス・クリーヴズと結婚した。秋に彼女が妊娠したことから、二人はクラリスの両親が住むイギリスに移り住むことを決意する。翌1933年1月にニュー・ヨークを出港し、2月にイギリスに到着。以後、カーは16年間にわたって、イギリスで執筆活動を続けることとなる[iii]

 『魔女の隠れ家』はこの慌ただしい時期に、1932年秋に書き上げられた、という[iv]。舞台は、イングランド中東部のリンカンシャのチャターハムという小村落。「魔女の隠れ家」と呼ばれる、かつて罪人を絞首した地、その近くに18世紀末に建てられた監獄を望む場所にフェル博士の住まいがある。そこを訪れたアメリカ人青年タッド・ランポールが遭遇する二重殺人事件が主題となる。

 リンカンは、典型的なイギリスの田園地方で、リンカン・グリーンという当地の緑の伝統的な織物は、ロビン・フッドのバラッド(四行連句の物語詩)にも描かれ、実際本書でも冒頭にロビン・フッドに言及されている[v]。まだイギリスに移住する前に書かれたものとは思えない緻密な描写で、この架空の村の様子がヴィヴィッドに描かれている。もっとも、カーは以前にも何度かヨーロッパ旅行でイギリスを訪れており、バンコランものの第一短編であった「山羊の影」もやはりイギリス中部のノッティンガムシャを舞台にしている。よほど、この辺りの土地に魅せられたとみえる[vi]。ただし、「山羊の影」は短編だけに情景描写も上っ面にとどまっており、『魔女の隠れ家』とは比較にならない。

 イギリス人探偵の登場の理由は、グリーンによれば、単純なことで、クラリスとの結婚のおかげだという[vii]が、『魔女の隠れ家』におけるイングランドの田園地方の憧れと郷愁に満ちた情景描写も結婚がもたらした効果なのだろう。

 イギリス田園地方を舞台とすることで、バンコラン・シリーズの特徴だった残虐味の強い煽情的な殺人描写は影を潜め、英国ならではの足元から恐怖が忍び寄るゴースト・ストーリーの雰囲気が濃厚に立ち込めている。一つ一つの動作が恐怖を煽るカーならではの執拗な情景描写が全開である。

 しかし、比較的短い小説のせいもあり、人物描写はそれほど細密ではない。というよりも、カーとクラリスを投影したようなランポール青年とドロシーの邂逅と深まっていく関係、そして何よりもフェル博士の造形に力を注いだせいか、他の登場人物の描写が相対的になおざりになっている。登場人物もさほど多くなく、見分けがつかなくなるようなことはないが、一番重要なスタバース家の次期当主マーティンと従弟のハーバートがほとんど印象に残らないのはマイナスだろう。

 物語は、マーティンが監獄内の一室で夜を過ごし、そのことによってはじめて当主と認められるという、ミステリならではの意味不明な家訓を果たそうとするところから始まる。

 スタバース家の代々の当主は首を折って死ぬという、これまた怪談につきもののお題のような伝承に不安を感じたフェル博士やチャターハムの司祭が博士の家で様子を見守ることにするが、予定の時間より10分早く、監獄の明かりが消えてしまう。驚いたランポールと司祭が駆けつけると、マーティンが首を折られた死体となって発見される。しかも、夕刻どこへともいわずに出かけたハーバートがそのまま行方不明となっていた。マーティン殺害の容疑はハーバートにかかるが。・・・というところで、物語は佳境に入る。

 本作は、江戸川乱歩の「カー問答」[viii]では取り上げられていない。1936年の『アラビアン・ナイトの殺人』以前の作品では、本長編のみ未読だったようだ。松田道弘の「新カー問答」では、フェル博士ものの第一作ということのみ言及されている[ix]。どうも、扱いがぞんざいなようで気の毒な気がする。二階堂黎人の評価は、「すっきりしたストーリーと、舞台となるイングランド中東部の深みある情景描写が素晴らしい」、「不可能犯罪が出てこない点が物足りなくもある」[x]、と短いながら的確なものである。

 諸家の評価を見るに、本作はあまり特徴のないカーとしては平均的な作品というところだろうか[xi]

 しかし、本作は、カーのミステリ作法の進化を見ていく上では非常に重要な作品である。とくにトリックの扱いかたについて。本作を二階堂は「不可能犯罪が出てこない」と言うが、他方、解説を書いている戸川安宣は、不可能犯罪を本作の特徴に挙げている[xii]。この対立する見解は何に起因するのだろうか。メイン・トリックは、一人二役、というより、二人二役によるアリバイ・トリックである。従って、いわゆる不可能犯罪ではないが、犯人には完全なアリバイがあるように見え、その意味では不可能犯罪という評価も可能なのである。

 実はこのように一人二役ないし入れ替わりによるトリックは、初期のカーの常套的なトリックである。『髑髏城』のトリックが典型だが、密室ないし不可能犯罪のトリックでも、この入れ替わりトリックが応用されている。バンコランの第一作である短編「山羊の影」がそうだし、長編第一作の『夜歩く』もそうである。つまり初期のカーは、一人二役というもっともありふれたミステリのトリックを多用してプロットを組み立てていた。ある意味ワン・パターンである。バンコランの第四短編「四号車の殺人」で、かなり創意のある不可能犯罪のトリックを考案しているが、これは相当無理があった[xiii]

 こうした使い古されたトリックを用いながら、カーは次第にセンスのあるアイディアを考案するようになる。『魔女の隠れ家』も一人二役トリックはありふれているが、なかなか巧妙に無理なく使用して、効果をあげている。時計が10分進んでいるところがミソで、これは犯人が予期しなかった偶然だが、そのために犯人のアリバイが完璧になるのである。次作の『帽子収集狂事件』のアイディアを先取りしたかたちだが、ただし、被害者の時計が10分進んでいたのがただの偶然のように書いているので、ミステリの結構としては、やや雑な印象を与える。被害者同士が入れ替わりを画策し、それを目撃者と犯人が監視するという段取りも、トリックを成立させるための要になる部分であるがゆえに、いささか強引ではある。

 気になる点はあるが、本作ではトリックの扱いがこなれてきており、パズル・ミステリとして難点が少なくなってきている、という印象である。翌年の『プレーグ・コートの殺人』あたりから、カーは奇術的なアイディアに様々な小道具を組み合わせて不可能犯罪のトリックの案出に熱を入れるようになる。同時に、本書の怪奇小説的装いも、カーター・ディクスン名義の長編のほうに受け継がれ、カー名義では、次の『帽子収集狂事件』以降、不可解な謎に満ちた諧謔味の濃い作品がしばらく続くことになる。そうした意味でも、本作は過渡期に位置する長編であるといえる。

 ちなみに、本作の結末は、『絞首台の謎』や『蝋人形館の殺人』に比肩する印象的なものだが、前二作のようなグロテスクな風味はやや薄れて、しかし、かなり皮肉味のあるラストになっている。フェル博士は、なぜ犯人に自殺の自由を与えたのだろうか。この作品の犯人はそれほど博士の同情を引くような人間ではないように感じるのだが。それともこの結末は、フェル博士のキャラクターを際立たせるためだけの演出だったのだろうか。

 再びグリーンの見解を引用すると、イギリス人探偵の登場は、イギリス人女性と結婚し、イギリスに移り住もうとしていたカーにとっては、ごく自然な成り行きだったというが、そして実際そうなのだろうが、ではなぜパット・ロシターでは駄目だったのだろうか。ロシターの奇矯な性格や言動は確かにフェル博士にも受け継がれており、その意味では探偵交代の必然性はなかったように思える。

 にもかかわらず、カーが新探偵としてフェル博士を創造し、以後も起用し続けたのは、彼が作中探偵に父親のような存在を求めたからかもしれない。同時代作家のエラリイ・クイーンが自分(達)自身を探偵に投影したのとは対照的に、カーが自身を投影した作中人物は、ワトスン役のアメリカ人青年たちだった。ジェフ・マールにとってのアンリ・バンコランは、自分を真実へと導いてくれる導師のような存在である。しかし、バンコランは父性のイメージとはあまりにかけ離れている。パット・ロシターやジョン・ゴーントも同様である。それに対し、タッド・ランポールや後続のフェル博士ものに登場する青年たちは、いずれもフェル博士を父親に代わる庇護者として見ているように思える。これはカー自身が求めていた父親像だったのだろうか[xiv]。ディクスン名義のヘンリ・メリヴェル卿は、父ニコラス・カーがモデルで、ペンネームも、最初は父親の名前にちなんだニコラス・ウッドを名乗るつもりだった、という。フェル博士とヘンリ・メリヴェル卿が、ときに見分けがつきにくいほど似かよっているのは、カーが彼らのなかに無意識に父親の姿を求めていたせいかもしれない。さらに憶測を加えれば、妻の妊娠も影響したのではないか。自身が父親になる、という喜びと不安[xv]が、作中探偵の造形に父親のイメージを知らず知らずのうちに埋め込んでいったのではないだろうか。

 結婚の影響ということでいえば、冒頭に述べたように、本作はクラリスとの結婚後、最初に書かれた長編である。イギリス人探偵が活躍するイギリスを舞台としたミステリ。カーなりの新妻(古臭い言い方だなあ)への結婚プレゼントだったのだろう。

 

[i] 『魔女の隠れ家』(高見 浩訳、創元推理文庫、1979年)。

[ii] 『妖女の隠れ家』(斎藤数衛訳、早川書房、1981年)。

[iii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、108-110頁。

[iv] 同、150頁。

[v] 『魔女の隠れ家』、10頁、『妖女の隠れ家』、8頁。

[vi] ノッティンガムシャはロビン・フッド伝説の中心となる地域で、「山羊の影」のなかでもロビン・フッドの名前が出てくる。『カー短編全集4/幽霊射手』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1982年)、65頁。

[vii] グリーン前掲書、108頁。

[viii] 江戸川乱歩「カー問答」、ディクスン・カー『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』(創元推理文庫、1983年)、300-35頁。

[ix] 松田道弘「新カー問答」『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、217頁。

[x] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、346頁。

[xi] 創元推理文庫版の解説を書いている戸川安宣によると、本作はアンソニー・バウチャーが「カーの作品中のベストの一つとして推奨した」、という。また、戸川自身も、(解説だからある意味当然のことだが)絶賛している。『魔女の隠れ家』、306-307頁。

[xii] 同、306頁。

[xiii] 停車中の列車の窓から手を突っ込んで、車中の被害者を絞殺するというもの。こうやって書くと、あほらしく見えますな。

[xiv] カーが母親と非常に折り合いが悪かったことは、グリーンの伝記で明らかになったことだが、父親とは良好な関係だったようだ。『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』の諸所参照。

[xv] グリーンによれば、カーは「自分は子どもが持てないと思い込んでいた」、という。グリーン前掲書、109頁。

J・D・カー『毒のたわむれ』

 『毒のたわむれ』(1932年)はディクスン・カーの第五長編で、パット・ロシターを主人公とした唯一の作品である。

 例によって、本作も日本では長い間絶版が続き、幻の長編と化していた。ところが、1993年にハヤカワ・ポケット・ミステリで復刊され[i]、・・・とここまではまったく『蠟人形館の殺人』と同じだが、『毒のたわむれ』は、今のところ新訳版は出ていない。

本作で、カーはついにアンリ・バンコランを見限って(?)、新探偵を創造した。ダグラス・G・グリーンによると、「カーはバンコランをアメリカで活躍させたくて、五作目の『毒のたわむれ』を書き始めたようだ」、という[ii]。この推測が正しいとして、それでは、なぜ探偵を交代させたのだろう。グリーンの見解では、「この小説には、バンコラン物のあらゆる特徴-陰鬱な雰囲気、グロテスクなイメージ、狂気につきまとわれ凶運に打ちひしがれた家族-があり、ジェフ・マールが語り手となる」[iii]。ならば、バンコランをロシターに変更する理由はないように見える。ジェフ・マールをそのまま起用したことをみても、バンコラン・シリーズにおける「ワトソン役による一人称小説」というスタイルを変えるつもりはなかった、と思われる。

 もうひとつの変化は、本作で初めてアメリカが舞台となることである。アメリカ人作家であるカーが、母国のしかも郷里であるペンシルヴァニアを舞台にしたミステリを書こうとした理由は理解できる。いつかは、自分が生まれ育った土地を小説に書こうと思うのは自然である。これまでもバンコランは、パリそっちのけで、さんざんドイツやイギリスで探偵仕事をやってきたのだから、グリーンの推定どおり、アメリカを舞台とした新作にバンコランを登場させることになんら問題はなかったはずである。

 カーはバンコランを持て余し始めたのだろうか?さすがに演出過剰で装飾過多なミステリに飽きてきたのかもしれない。『毒のたわむれ』はバンコランものと変わらない、とグリーンはいうが、本作では、被害者はひざまずいて首を切り落とされたりはしないし、火だるまになって城壁から墜落したりもしない。そもそも毒殺がテーマだから、刺殺されて蝋人形に抱かれたりもしない。少なくとも『夜歩く』以下の諸作に見られた、凄惨で残虐な殺人シーンは出てこない。それが探偵交代の理由ではないか。アンリ・バンコランは(カーにとっての)異国の絢爛たる犯罪絵巻のなかでこそ映えるが、さすがに地元アメリカを舞台に、『髑髏城』や『蝋人形館の殺人』のようなエキセントリックな殺人とエキセントリックな探偵を書くことには気がさしたのではなかろうか。

 カーの描写はリアリズム的だが、プロットはリアリズムではない。少なくともバンコラン・シリーズは。『毒のたわむれ』の第一章で、ジェフ・マールはクエイル元判事と対話しながら回想にふけるが、まるで普通小説のような趣がある。アメリカの地方の旧家を舞台にしたミステリには、確かにバンコランは似合わない。しかし、続く作品で再びバンコランのシリーズに戻るつもりがあったのかどうかは何とも言えない。次の作品は、言うまでもなくギデオン・フェル博士が探偵役でイギリスが舞台の『魔女の隠れ家』(1933年)である。同作品は、まだアメリカに在住中に執筆されたが、1932年にカーはイギリス人女性クラリス・クリーヴズと結婚して、翌年早々にイギリスに移住している。『魔女の隠れ家』執筆中から、カーは近い将来イギリスに移り住み、イギリスを主な舞台にミステリを書くことを考えていたのかもしれない。アガサ・クリスティのポワロ探偵のような例もあるとはいえ、当然探偵もイギリス人で、と考えたことは想像に難くない。とすれば、やはりバンコランに代わるシリーズ探偵を創出するつもりだったのか。これもグリーンの分析では、「ロシターの性格-不器用さ、とりとめのない空想癖、穏和な優しさ、謎めいた言葉、悪魔祓いの能力-の多くは、まもなくギデオン・フェル博士に受け継がれ」[iv]ることになる。それなら、シリーズ探偵は、パット・ロシターでもよさそうである。そうしなかったのは、やはりロシターの造形に不満があったからだろうか。

 以上を整理すると、バンコランからロシターへの交代には、それなりの理由があったとして、その次の作品については、三通りの可能性が考えられた。バンコランを再び起用するか、ロシターを続投させるか、あるいはまったく新しい探偵を登場させるか。答えは三番だが、そこに至る経緯はいかなるものだったのか。

 ところで、上記のグリーンの文章における「悪魔祓いの能力」という指摘は興味深い。グリーンは「カーの作品の変遷を見るうえで、『毒のたわむれ』は重要な作品である」[v]という意見だが、重要という意味が、まさにこの「悪魔祓い」にあるからである。つまり、パズル・ミステリにおいては、非日常的な謎を論理によって解決することで日常世界を回復するという理が貫徹しなければならないが、バンコランは存在自体が非日常的過ぎて、日常世界を取り戻すには不向きだった。グリーンの解析が妥当なら、やはり早晩バンコランが退場することは必然だったということになる。ただ、そういうためには、カーが非日常世界のまま完結するミステリからの脱却を目指していたと考えなければならないが、『毒のたわむれ』はその第一歩だったのか。

 さて、ひとまず『毒のたわむれ』に戻ろう。例によって、江戸川乱歩の「カー問答」をみると、『毒のたわむれ』は、「もっともつまらない」第四位の六作のひとつである[vi]松田道弘の「新カー問答」はどうかというと、まったく言及されていない[vii]。カーの長編は70冊にも及ぶから、まったく挙げられなくとも不思議ではないが、乱歩に大いに異論のあった松田にとっても本書はその程度の存在に過ぎなかったということだろう。二階堂黎人の評価では、D級ではないので、B級らしい。具体的には、「何とも珍妙な味のある作品」で、泡坂妻夫『毒薬の輪舞』の「先駆的作品」とのことだ[viii]が、パズル・ミステリとしての特徴については、とくに言うべきことがないらしいことはわかる。

 しかし、グリーンとは言わんとするところは異なるが、「カーの作品の変遷を見るうえで、『毒のたわむれ』は重要な作品である」、と思われる。バンコラン・シリーズからの脱却という点とも関連するが、『毒のたわむれ』でカーは、過度な装飾を排したパズル・ミステリに取り組んでいるからである。

 本作にも怪奇的な味つけはあって、カリギュラの石像から欠けた右腕が暗がりで蠢くところが目撃される。しかし、グリーンが「カーはもぎ取られた腕のことは忘れてしまい、最後になっておざなりに持ち出す。それはプロットとはほとんど無関係なことが判明する」と説明する程度のことで、中心は同時多発する毒殺および毒殺未遂事件に置かれる。基本アイディアは、カーがエピローグで述べている「(毒殺者は)いつも同じ毒薬を使う」[ix]という事実から(逆の意味で)ヒントを得たものだろう。先駆的という意味では、本書は、毒殺講義で知られる『緑のカプセルの謎』(1939年)の先駆であり、すでにカーが歴史上の毒殺事件を研究していたらしいことがわかって興味深いが、現実の毒殺事件とは違い、三人の被害者が異なる毒を盛られ、一人が死に、二人が助かる。なぜ異なる毒が用いられたのか、犯人が本当に狙っていたのは誰か、そして動機は、という風に、いくつかの謎を組み合わせることで、プロットを組み上げていく。真相はわかってみれば単純だが、動機にひとひねり加わっている(日本のミステリにも類似例がある)[x]ので、パズルとしてはなかなかよく考えられている。

 つまり本作は、犯人がいかなる動機で誰を狙って犯行を企てたのかを明らかにする、その意味ではごくストレートなパズル・ミステリである。家族のなかの少ない容疑者の間で、読者に容易に的を絞らせない手際は見事で、傑作とまでは言えないが、パズル・ミステリ好きなら十分に満足できるだろう。ただし、この方針転換は永続的なものだったのか、それともアメリカを舞台にした本作限りの試みだったのか、本作からだけではわからない。

 カー自身は、『毒のたわむれ』を「私の最大の失敗作」と言ったらしい[xi]。多分、あまり売れなかったのだろう。それはバンコラン・シリーズと比べてみても、想像がつく。なんとも地味で、内容以前の問題として、バンコランものほど面白そうには見えない。そうすると、バンコランに戻ることも考えていたのか。そうではなかったのか。結果から見れば、バンコランは忘れられ、1937年まで再登板はない。

 前述のように、バンコラン・シリーズのような、あくの強いミステリを書き続けるのは易しいことではない、とカーが悟ったのかもしれない。早晩飽きられるだろう、と思ったのだろうか。1920年代以降、英米で次々にパズル・ミステリの作家が登場し、本格ミステリの黄金時代を現出する。読者にとっては黄金時代だが、作家にとってはマーケットの占有率をかけて鎬を削る状況になった、と想像する。そこで思い浮かぶのはエラリイ・クイーンである。カーが、一年早くデビューしたこのアメリカ作家のことを知らないはずはなく、そのミステリの特徴にも関心をもっていただろう。しかも、クイーンの『オランダ靴の謎』(1931年)、と『エジプト十字架の謎』(1932年)は、全米ベストセラー一位を獲得した[xii]、という。後者は『毒のたわむれ』と同年の出版だが、カーがベストセラー一位になったとは聞かない。その正体(カーと同年代の二人の青年による共作)は知らなかったとしても、同じ新進作家同士、意識しなかったわけがない。クイーンの現代アメリカの都市社会に即したパズル・ミステリの成功を目にしたことが、カーのこの方向転換にも影響を及ぼしているのではないか。だが、派手な外観で装った無国籍ミステリから、アメリカを舞台としたパズル重視のミステリへの移行の第一作は、結局地味で退屈な印象を与える結果になってしまった。しかし、いまさらバンコランを呼び戻すわけにはいかない。この現状を打開する道としてカーが選んだのが、イギリス伝統の怪奇小説とパズルを組み合わせたギデオン・フェル・シリーズだったのではないだろうか。しかし、その検討は『魔女の隠れ家』に譲らなければならない。

 

[i] 『毒のたわむれ』(村崎敏郎訳、早川書房、1958年)。

[ii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、106頁。

[iii] 同。

[iv] 同、108頁。

[v] 同。

[vi] 江戸川乱歩「カー問答」、ディクスン・カー『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』(創元推理文庫、1983年)、317頁。

[vii] 松田道弘「新カー問答」『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、201-41頁。

[viii] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、340、346頁。

[ix] 『毒のたわむれ』、247頁。

[x] 同、123頁。横溝正史『魔女の暦』(1958年)で同一のアイディアが使われている。横溝が本書から拝借したのかどうかはわからない。

[xi] 『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』、107頁。

[xii] エラリー・クイーン(越前敏弥・佐藤 桂訳)『エジプト十字架の秘密』(角川文庫、2013年)、飯城勇三による解説、538-40頁。

カーター・ディクスン『五つの箱の死』

 『五つの箱の死』(1938年)は、カーター・ディクスン名義の第九長編で、ヘンリ・メリヴェル卿シリーズの第八作である。

 例によって、本作も日本では長い間絶版が続き、幻の長編と化していた。1993年にハヤカワ・ポケット・ミステリで復刊され[i]、容易に入手できるようになったが、現在再び幻の長編になろうとしている(ように見える)。

 その理由は、多分評判がよくないのだろう。例えば、「絶対さいしょに読んではいけないカー作品」[ii]、あるいは「ヴァン・ダイン等の推理小説の戒めに挑戦する特殊な犯人を狙っている。ただし、その点はみごとな空振りに終わった」[iii]、そしてまた「私は肯定するが、『五つの箱の死』は反則だと言う読者もいるだろう」[iv]、など。もはやノック・アウト寸前である。

 もともと本作の評価は高くはなかった。江戸川乱歩の「カー問答」では、未読だったためか、取り上げられていない[v]松田道弘の「新カー問答」でも無視されている[vi]。ダグラス・G・グリーンの評価は、「面白いが小粒な作品」で、「殺人犯はきわめて巧妙に隠されているので、少なくとも研究者の一人は、この作品では罪のある人間が演じる役割が小さすぎると不満をもらしている」、と付け加えている[vii]

 以上の諸氏の評価には、共通点があるようだ。「推理小説の戒めに挑戦する特殊な犯人」、「『五つの箱の死』は反則だ」、「罪のある人間が演じる役割が小さすぎる」、これらはいずれも犯人の設定に関する言及である。一言でいえば、「意外だが、フェアかどうか疑問だ」。それが「絶対さいしょに読んではいけないカー作品」という結論に結びついているのだろう。そして、グリーンの発言は別として、これらの批評はいずれも、ある評論に基づいているように思われる。瀬戸川猛資による本作へのコメントである。

 瀬戸川は、「ジョン・ディクスン・カーが好き」というエッセイのなかで、本作について言及していて、「意外性の極致を狙ったのだが、いくらなんでもこればかりは無理だった」、と述べている。これだけでは要領を得ないので、単行本化した際に、次のように追記した。「カーはこの作品で、〈登場人物外の犯人〉という趣向を試みようとしたのだ」[viii]

 瀬戸川は別のエッセイで、「腹立たしいことがひとつある。私がこんなにも好きなのに、世間には『カーなんか大きらいだ』と広言するミステリ・ファンが少なからず存在するという事実だ」[ix]、などと評論家にはあるまじき客観性を著しく欠いた文章を書いているが、お気に入り作家への偏愛ぶりが感じられて微笑ましくもある。

 閑話休題(あだしごとはさておき)。『五つの箱の死』の犯人に関する、上記の瀬戸川の指摘が、その後の本作への評価に影響していることは確かで、グリーンの文章は海外でも同様に考える評論家がいることを示唆している。

 しかしこの指摘は正しくない。『五つの箱の死』の犯人は、ちゃんと登場人物のリストに載っている。もちろん、リストに載っていない人物が犯人だったら、早川書房に苦情が殺到しただろうから、瀬戸川の言いたいことはそういうことではなく、名前が挙がっているが、作中に登場しない人物[x]、という意味なのかもしれない。しかし、そうだとしても、本作には該当しない。犯人はワン・シーンだけだが、姿を見せて、捜査陣と会話も交わす。グリーンが紹介している意見は、登場シーンが少なすぎるということかもしれないが、このワン・シーン・マーダラーは、カー作品では珍しくない。『蝋人形館の殺人』(1932年)、『剣の八』(1934年)、『死者がよみがえる』(1938年)なども、犯人の登場シーンは(逮捕の場面は別として)ひとつだけである。それがアンフェアだとすれば、カーの作品は結構な数が「反則」である。

 要するに、二階堂が引用しているように、ヴァン・ダインの二十則の十番目「犯人は物語の中で重要な役を演ずる人物でなくてはならない。最後の章でひょっこり登場した人物に罪を着せるのは、その作者の無能を告白するようなものである」[xi]に抵触するということなのだろう。確かに、『蝋人館の殺人』や『剣の八』の犯人は、重要な利害関係者である(注で犯人を明かす)[xii]。しかし、『五つの箱の死』の犯人も、執事や料理人のような明らかな端役ではない。事件の鍵となる証拠品に関わっているし、殺害現場にも出入りしていたことを証言しており、「反則」とまでは言えないだろう。むしろ、二階堂のある意味で好意的な評価を否定するようだが、ミステリの既成概念に挑戦したといえるほどの意図がカーにあったとは思えない。いつもの手を使って、読者の眼をくらまそうとしたのだろう。

 それでは、お前は、本作がカー初心者に勧められる長編だと思うのか、と聞かれれば、正直そうとは思わない。また、カーの傑作だ、ともいうつもりもない。ただし、例えば、同じ1938年作で、トリック以外に(パズル・ミステリとして)あまり読みどころがなく、しかもトリックに重大な欠陥がある『ユダの窓』などよりは面白かった。

 『ユダの窓』より『五つの箱の死』のトリックのほうが面白かったというのか、正気なのか、とさらに突っ込まれそうだが、そうではない。

 『五つの箱の死』のトリックは、推理クイズ本などに必ず出てくるような、例のあれで、はっきり言ってしまうと、-(以下、トリックを明かす)

 

氷を使ったトリックである。

 

 事件は、被害者の自宅に招かれた人々が、ハイボールやカクテルを飲むと、入れられるはずのない毒が入っている、という不可能犯罪で、真相は、飲み物ではなく、あらかじめ凍らせてあった氷に毒が仕込んであった、というものである。飲酒の際の習慣に着目した、酒飲みのカーらしいトリックと言えるが、氷を使用する、というのは、当時でもすでに陳腐なアイディアだと作者も考えたのだろう。『ユダの窓』について悪口を言ったが、カー自身は同作のトリックには絶大な自信を持っていたようだ。反対に、『五つの箱の死』では、メイン・トリックに自信がなかったからか、ほかにいろいろとミステリの仕掛けを施している。本作で面白いのは、それらメイン・トリック以外の部分である。一番面白い工夫は、上記の犯人の設定と関わっている。

 本作で被害者となるのは、社会的地位がありながら犯罪を犯した人物を見つけて、強請るでもなく、単にいたぶって快感を覚えるという、いかにもカー的なトンでも性癖の持ち主である。彼は、わざわざ犯罪の証拠品を箱に詰め、外側に当該人物の名前を記して顧問弁護士事務所に預けている。そのうえで、犠牲者(犯罪者)たちを自宅に招いてパーティを開くと、その席上で毒を飲まされたうえ、刺殺される。自業自得である。招かれた客たちも毒を飲まされたところを発見されるが、同じ夜に弁護士事務所に賊が入り、証拠の五つの箱(これが原題)は盗まれているのがわかる。当然、毒を盛られた人々には殺人の動機があるので、そのうちの一人が毒を飲んだと見せかけて殺人を実行し、弁護士事務所から証拠の品を奪った後、また戻ってきたものと推定される。ところが、奪われた五つの箱のなかに、招待客以外の名前が記されたものがあった。犯人は、自分の犯罪の証拠だけを持ち去れば、直ちに疑われることを知っているので、当然、すべての箱の中身がなくなっているのだが、この該当者のいない五番目の箱が一体誰の犯罪の証拠を納めていたのか、そもそもなぜひとつだけ無関係と見える名前が記されていたのか。これが、この作品の一番大きな謎になっている。その答えは、単純だが、言われてみればなるほど、と膝を叩きたくなるような鮮やかさがある。

 このほかにも、殺人の現場に、もう一人、謎の人物が潜んでいたことがわかる。その人物はこの後殺害されてしまうが、彼は、犯罪現場で目撃したことを手記に残していた。そのことを種に真犯人を脅迫しようとして殺されたとわかるが、手記には思わせぶりな記述が散見され、実はアクロイド的な叙述トリックになっていることが最後に明かされる。この辺りも、カーらしい手練れの技を見せてくれる。

 このように、『五つの箱の死』は、メイン・トリック以外に、題名にちなんだ謎や手記を用いた叙述トリックが組み合わされて、読み応えのある長編に仕上げられている。最初に読まなくてもよいが、もっとも脂ののった時期に書かれた、パズル・ミステリの愛好者を充分楽しませてくれる作品である。

 ただ、さすがに西田政治訳は古くなったので、新訳が望まれる。

 

[i] 『五つの箱の死』(西田政治訳、早川書房、1957年、第3版、1993年)。

[ii] 『死が二人をわかつまで』(仁賀克維訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、2005年)、若竹七海による解説「やっぱりカーが好き」、328頁。

[iii] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、370頁。

[iv] 『貴婦人として死す』(高沢 治訳、創元推理文庫、2016年)、山口雅也による解説「結カー問答」、309頁。もっとも、山口が面白いと思うカー作品6作のなかに本書も選ばれている。

[v] 江戸川乱歩「カー問答」、ディクスン・カー『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』(創元推理文庫、1983年)、300-35頁。

[vi] 松田道弘「新カー問答」『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、201-41頁。

[vii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、175-76頁。

[viii] 瀬戸川猛資『夜明けの睡魔 海外ミステリの新しい波』(早川書房、1987年)、46-47頁。

[ix] 同「異次元の夢想」、『夜明けの睡魔』、232頁。

[x] 実際にこのアイディアで書かれた作品がある。しかし、当然というか、傑作とは見なされていない。横溝正史『扉の影の女』(1961年)。

[xi] ヴァン・ダインの二十則ウィキペディア」。

[xii] 前者では、被害者の父親、後者では、被害者の娘(だが、実際は愛人)。

J・D・カー『蝋人形館の殺人』

 『蠟人形館の殺人』(1932年)は実質的にアンリ・バンコランを主人公としたシリーズの掉尾を飾る長編である(1937年の『四つの凶器』では、バンコランの性格まですっかり変わってしまって、あえて同じ主人公と考える必要もない)。

 例によって、本作も日本では長い間絶版が続き、正真正銘の幻の長編と化していた。

ところが、1993年にハヤカワ・ポケット・ミステリで復刊され[i]、2012年に、ついに新訳版が創元社から出版された[ii]。2017年には、『髑髏城』の新訳により、バンコラン・シリーズ四作が同一訳者によって揃えられた。まことに画期的な出来事であった。

 といっても、忘れられていたのは評価が低かったからに他ならない。江戸川乱歩の「カー問答」では『絞首台の謎』と並んで第三位[iii]松田道弘の「新カー問答」では、「あまりとりえのない凡作」の一言で片づけられている。ただし、「閉館後のうすぐらい館内で、獣人の人形に抱かれた女性の死体を発見するシーンでの血のしずくの音響効果はすばらしい」[iv]とフォローはされている。二階堂黎人は、明白に順位付けはしていないが、「被害者となる若い女性の生活や、彼女を殺さねばならなかった犯人の動機と人物像などをみれば、カーがけっしてアンリアリズムではなかったという明白な証拠となる」[v]、つまりカーは決して時代遅れの保守的作家ではなく、現代性・社会性をもった作品を書いている、と擁護している。

 バンコランのシリーズは、毎回舞台が大きく変わるヨーロッパ漫遊記的な性格をもっているが、最終作の『蝋人形館の殺人』では再びフランスに戻ってくる。というより、バンコランはパリを根城にしているのだから、本来もっとフランスを舞台にしたミステリを書いていてもよかったはずなのだが、結局、バンコランのパリは、アメリカ人のカーが見た、あるいは夢見たパリであって、最初から幻想の街なのだろう。それは『絞首台の謎』や『髑髏城』でもそうであって、『絞首台の謎』のロンドンは、関係者以外人が住んでいないような、映画のセットの街のようだし、『髑髏城』では、ドイツの古城という閉ざされた空間のなかの非現実的犯罪を描いている。『夜歩く』と本作におけるパリは、(カーが想像する)悪徳と退廃の街として描写されている。

 というわけで、本長編では、語り手のジェフ・マールまで秘密クラブに潜入して、ハードボイルド・ミステリもかくやという大立ち回りを演じる。この仮面の男女が集う背徳的クラブと大時代的見世物の蝋人形館を対比的に描くことが、作者の興味のひとつだったのだろう。

 物語は、若い女性が水死体で発見されたという知らせがバンコランに持ち込まれるところから始まる。その女性が最後に目撃された蝋人形館をバンコランとマールが訪れると、蝋人形に抱えられた女性の死体を発見する。松田が称賛したショッキングな死体発見場面である。この蝋人形館の出口の一つは、隣接する秘密クラブの通路に出られるようになっており、ここから捜査の眼はこのクラブに向けられることになる。このクラブのオーナーのひとりはギャランという鼻のつぶれた(それもバンコランによって)美青年で、後半ではマールはこの男を向こうに回して、クラブからの脱出をはかるというハラハラドキドキの展開となる。

 パズル・ミステリとしては、バンコラン・シリーズに特徴的だが、犯人特定の推理に工夫がこらされている。とくに殺害現場で発見されたガラスの破片に基づく推理は、犯人の身体的特徴を利用したもので、エラリイ・クイーンを思わせ[vi]、小味だが気が利いている。

 一方、これといったトリックは用いられていない。『夜歩く』を除けば、このシリーズでは、カーはトリックにあまり関心を寄せていない。『髑髏城』では、一人二役を用いた列車からの消失トリックを考案しているが、過去の犯罪という設定もあって、手がかりも乏しく、さほど印象に残らない。大学文芸誌に掲載された短編シリーズ[vii]では、毎回不可能犯罪のトリックが案出されていたことを考えると、こうしたトリック軽視が何に起因するのか不思議である。

 もっとも、初期短編で使用されている不可能犯罪のトリックは、いささか凡庸であまり効果的ではない。(あくまでトリックが)一番優れているのは、第一作の「山羊の影」だと思うが、かなり無理のあるトリックで、長編を支えるのは難しいだろう。以上を総合すると、カーという作家は、もともとトリックを考えるのが得意ではなかったのではないか、とも思われる。トリック大魔王にこのようなことをいうのは気がひけるが、バンコラン・シリーズに限って見れば、そのような印象を受ける。ダグラス・G・グリーンによれば、カーの執筆方法は「最初に殺人方法を考え――たいていは、ハリー・フーディーニとかジャスパー・マスキリンといった奇術師のトリックを参考にした――それから、その方法にふさわしいプロットを作り出した」[viii]、という。「カーはミステリ作家として、独創力はあまりなかったのじゃないかと思う。むしろ彼は非常にバリエーションづくりのたくみな、修正型の職人作家だという気がしてならない」[ix]、とは松田道弘の慧眼だが、1930年代の「黄金時代」以降のパズル・ミステリ作家は、多かれ少なかれ、カーのような修正型の作家だといってよいだろう。カーも、グリーンが述べているように、奇術などを参考にこつこつトリックを組み立てていくうちに、本来もっていたミステリのセンスが目覚めて、トリックを活かす巧みな設定を案出できるようになったのかもしれない。

 本書について言えば、最も注目すべき点はプロットそのものにある。いや、むしろバンコラン・シリーズを通じて、カーの手腕がもっとも冴えを見せているのは、プロットの展開にあるといえる。どの場面をどこで描き、どのデータをどこで示すか、行き届いた計算がなされている。後半、ジェフ・マールがギャランの手から逃れる活劇場面から、物語は一気にクライマックスに向かうが、その直後、16章の終わりで、何とギャランが殺されてしまう(続く17章の終わりで、犯人がバンコランによって明かされる)[x]。最後は、黒幕のギャランとバンコランの対決を予想していたであろう多くの読者はあっけにとられるかもしれない。この殺人はなんともあっさり描かれるので、付け足しのようにしか見えないが、実は犯人が実行しようとしていた本当の殺人はこちらのほうだったのである。本書の売り物となるのは、蝋人形に抱かれた娘の刺殺事件のほうだが、ギャランが殺されることで初めて犯人の動機につじつまが合うことがわかる。最初の殺人だけを取れば、犯人もその動機も実に意外だが、ギャラン殺しによって連続殺人の動機が首尾一貫したものであったことが明らかとなる。

 同時に、本作が壮絶な復讐のドラマだったことも明白になる。ギャラン殺しは、口封じのためである、とバンコランは説明するが、それはバンコランの推測に過ぎないし、またバンコランの本心とも限らない。しかも、『絞首台の謎』『髑髏城』におけるバンコランの行動を考えると、彼は、この復讐が果たされるまで犯人の指摘を控えていたように映る。バンコラン・シリーズの犯人の動機は『夜歩く』を含めて、すべてある種の復讐なのだが、とくに『絞首台の謎』以降の三作はその度合いが徹底している。本作での犯人の復讐が読者の心情に強く訴えるのは、犯人暴露後の最後の場面も影響している。バンコランの冷徹さが表れた、あざといといえばあざとい結末だが、『絞首台の謎』といい、カーはこのラストの一行が書きたかったのではないか、と思わせる幕切れである。

 

[i] 『蝋人形館の殺人』(妹尾アキ夫訳、早川書房、1954年)。

[ii] 『蝋人形館の殺人』(和邇桃子訳、創元推理文庫、2012年)。

[iii] 江戸川乱歩「カー問答」、ディクスン・カー『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』(創元推理文庫、1983年)、316頁。

[iv] 松田道弘「新カー問答」『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、216頁。

[v] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、345頁。

[vi] 例えば、エラリイ・クイーン「針の目」『犯罪カレンダー』(1952年)所収。

[vii] 「山羊の影」(1926年)、「第四の容疑者」(1927年)、「正義の果て」(1927年)、「四号車の殺人」(1928年)『カー短編全集4/幽霊射手』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1982年)所収。

[viii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、130頁。

[ix] 松田前掲書、214頁。

[x] ちなみにバンコラン・シリーズ全四作は、すべて全19章から成っている。19という中途半端な数字は、バンコランものの、どこか読み手を居心地悪くさせるような雰囲気をさらに強めるための演出なのだろうか。

 ついでに、その後の作品の章立ての数を調べてみた。『毒のたわむれ』、18章(ただし、「プロローグ」と「エピローグ」付き)。『魔女の隠れ家』、18章。『帽子収集狂事件』、21章。『剣の八』、19章。『盲目の理髪師』、22章(「幕間」あり)。『死時計』、22章。『三つの棺』、21章。『アラビアン・ナイトの殺人』、24章(「プロローグ」「エピローグ」付き)。『四つの凶器』、20章。『火刑法廷』、五部構成(21章に分かれ、第五部は「エピローグ」)。『死者はよみがえる』、20章。『曲がった蝶番』、四部構成(21章)。『緑のカプセルの謎』、20章。『テニスコートの殺人』、20章(最後に「登場人物のその後」が付いている)。

 こうしてみると、単に、小説執筆に慣れて、全体を20のようなきりが良い数字でまとめられるようになった、ということなのだろうか。プロ作家の方々に聞いてみたいところだ。

J・D・カー『蝋人形館の殺人』

 『蠟人形館の殺人』(1932年)は実質的にアンリ・バンコランを主人公としたシリーズの掉尾を飾る長編である(1937年の『四つの凶器』では、バンコランの性格まですっかり変わってしまって、あえて同じ主人公と考える必要もない)。

 例によって、本作も日本では長い間絶版が続き、正真正銘の幻の長編と化していた。

ところが、1993年にハヤカワ・ポケット・ミステリで復刊され[i]、2012年に、ついに新訳版が創元社から出版された[ii]。2017年には、『髑髏城』の新訳により、バンコラン・シリーズ四作が同一訳者によって揃えられた。まことに画期的な出来事であった。

 といっても、忘れられていたのは評価が低かったからに他ならない。江戸川乱歩の「カー問答」では『絞首台の謎』と並んで第三位[iii]松田道弘の「新カー問答」では、「あまりとりえのない凡作」の一言で片づけられている。ただし、「閉館後のうすぐらい館内で、獣人の人形に抱かれた女性の死体を発見するシーンでの血のしずくの音響効果はすばらしい」[iv]とフォローはされている。二階堂黎人は、明白に順位付けはしていないが、「被害者となる若い女性の生活や、彼女を殺さねばならなかった犯人の動機と人物像などをみれば、カーがけっしてアンリアリズムではなかったという明白な証拠となる」[v]、つまりカーは決して時代遅れの保守的作家ではなく、現代性・社会性をもった作品を書いている、と擁護している。

 バンコランのシリーズは、毎回舞台が大きく変わるヨーロッパ漫遊記的な性格をもっているが、最終作の『蝋人形館の殺人』では再びフランスに戻ってくる。というより、バンコランはパリを根城にしているのだから、本来もっとフランスを舞台にしたミステリを書いていてもよかったはずなのだが、結局、バンコランのパリは、アメリカ人のカーが見た、あるいは夢見たパリであって、最初から幻想の街なのだろう。それは『絞首台の謎』や『髑髏城』でもそうであって、『絞首台の謎』のロンドンは、関係者以外人が住んでいないような、映画のセットの街のようだし、『髑髏城』では、ドイツの古城という閉ざされた空間のなかの非現実的犯罪を描いている。『夜歩く』と本作におけるパリは、(カーが想像する)悪徳と退廃の街として描写されている。

 というわけで、本長編では、語り手のジェフ・マールまで秘密クラブに潜入して、ハードボイルド・ミステリもかくやという大立ち回りを演じる。この仮面の男女が集う背徳的クラブと大時代的見世物の蝋人形館を対比的に描くことが、作者の興味のひとつだったのだろう。

 物語は、若い女性が水死体で発見されたという知らせがバンコランに持ち込まれるところから始まる。その女性が最後に目撃された蝋人形館をバンコランとマールが訪れると、蝋人形に抱えられた女性の死体を発見する。松田が称賛したショッキングな死体発見場面である。この蝋人形館の出口の一つは、隣接する秘密クラブの通路に出られるようになっており、ここから捜査の眼はこのクラブに向けられることになる。このクラブのオーナーのひとりはギャランという鼻のつぶれた(それもバンコランによって)美青年で、後半ではマールはこの男を向こうに回して、クラブからの脱出をはかるというハラハラドキドキの展開となる。

 パズル・ミステリとしては、バンコラン・シリーズに特徴的だが、犯人特定の推理に工夫がこらされている。とくに殺害現場で発見されたガラスの破片に基づく推理は、犯人の身体的特徴を利用したもので、エラリイ・クイーンを思わせ[vi]、小味だが気が利いている。

 一方、これといったトリックは用いられていない。『夜歩く』を除けば、このシリーズでは、カーはトリックにあまり関心を寄せていない。『髑髏城』では、一人二役を用いた列車からの消失トリックを考案しているが、過去の犯罪という設定もあって、手がかりも乏しく、さほど印象に残らない。大学文芸誌に掲載された短編シリーズ[vii]では、毎回不可能犯罪のトリックが案出されていたことを考えると、こうしたトリック軽視が何に起因するのか不思議である。

 もっとも、初期短編で使用されている不可能犯罪のトリックは、いささか凡庸であまり効果的ではない。(あくまでトリックが)一番優れているのは、第一作の「山羊の影」だと思うが、かなり無理のあるトリックで、長編を支えるのは難しいだろう。以上を総合すると、カーという作家は、もともとトリックを考えるのが得意ではなかったのではないか、とも思われる。トリック大魔王にこのようなことをいうのは気がひけるが、バンコラン・シリーズに限って見れば、そのような印象を受ける。ダグラス・G・グリーンによれば、カーの執筆方法は「最初に殺人方法を考え――たいていは、ハリー・フーディーニとかジャスパー・マスキリンといった奇術師のトリックを参考にした――それから、その方法にふさわしいプロットを作り出した」[viii]、という。「カーはミステリ作家として、独創力はあまりなかったのじゃないかと思う。むしろ彼は非常にバリエーションづくりのたくみな、修正型の職人作家だという気がしてならない」[ix]、とは松田道弘の慧眼だが、1930年代の「黄金時代」以降のパズル・ミステリ作家は、多かれ少なかれ、カーのような修正型の作家だといってよいだろう。カーも、グリーンが述べているように、奇術などを参考にこつこつトリックを組み立てていくうちに、本来もっていたミステリのセンスが目覚めて、トリックを活かす巧みな設定を案出できるようになったのかもしれない。

 本書について言えば、最も注目すべき点はプロットそのものにある。いや、むしろバンコラン・シリーズを通じて、カーの手腕がもっとも冴えを見せているのは、プロットの展開にあるといえる。どの場面をどこで描き、どのデータをどこで示すか、行き届いた計算がなされている。後半、ジェフ・マールがギャランの手から逃れる活劇場面から、物語は一気にクライマックスに向かうが、その直後、16章の終わりで、何とギャランが殺されてしまう(続く17章の終わりで、犯人がバンコランによって明かされる)[x]。最後は、黒幕のギャランとバンコランの対決を予想していたであろう多くの読者はあっけにとられるかもしれない。この殺人はなんともあっさり描かれるので、付け足しのようにしか見えないが、実は犯人が実行しようとしていた本当の殺人はこちらのほうだったのである。本書の売り物となるのは、蝋人形に抱かれた娘の刺殺事件のほうだが、ギャランが殺されることで初めて犯人の動機につじつまが合うことがわかる。最初の殺人だけを取れば、犯人もその動機も実に意外だが、ギャラン殺しによって連続殺人の動機が首尾一貫したものであったことが明らかとなる。

 同時に、本作が壮絶な復讐のドラマだったことも明白になる。ギャラン殺しは、口封じのためである、とバンコランは説明するが、それはバンコランの推測に過ぎないし、またバンコランの本心とも限らない。しかも、『絞首台の謎』『髑髏城』におけるバンコランの行動を考えると、彼は、この復讐が果たされるまで犯人の指摘を控えていたように映る。バンコラン・シリーズの犯人の動機は『夜歩く』を含めて、すべてある種の復讐なのだが、とくに『絞首台の謎』以降の三作はその度合いが徹底している。本作での犯人の復讐が読者の心情に強く訴えるのは、犯人暴露後の最後の場面も影響している。バンコランの冷徹さが表れた、あざといといえばあざとい結末だが、『絞首台の謎』といい、カーはこのラストの一行が書きたかったのではないか、と思わせる幕切れである。

 

[i] 『蝋人形館の殺人』(妹尾アキ夫訳、早川書房、1954年)。

[ii] 『蝋人形館の殺人』(和邇桃子訳、創元推理文庫、2012年)。

[iii] 江戸川乱歩「カー問答」、ディクスン・カー『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』(創元推理文庫、1983年)、316頁。

[iv] 松田道弘「新カー問答」『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、216頁。

[v] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、345頁。

[vi] 例えば、エラリイ・クイーン「針の目」『犯罪カレンダー』(1952年)所収。

[vii] 「山羊の影」(1926年)、「第四の容疑者」(1927年)、「正義の果て」(1927年)、「四号車の殺人」(1928年)『カー短編全集4/幽霊射手』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1982年)所収。

[viii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、130頁。

[ix] 松田前掲書、214頁。

[x] ちなみにバンコラン・シリーズ全四作は、すべて全19章から成っている。19という中途半端な数字は、バンコランものの、どこか読み手を居心地悪くさせるような雰囲気をさらに強めるための演出なのだろうか。

 ついでに、その後の作品の章立ての数を調べてみた。『毒のたわむれ』、18章(ただし、「プロローグ」と「エピローグ」付き)。『魔女の隠れ家』、18章。『帽子収集狂事件』、21章。『剣の八』、19章。『盲目の理髪師』、22章(「幕間」あり)。『死時計』、22章。『三つの棺』、21章。『アラビアン・ナイトの殺人』、24章(「プロローグ」「エピローグ」付き)。『四つの凶器』、20章。『火刑法廷』、五部構成(21章に分かれ、第五部は「エピローグ」)。『死者はよみがえる』、20章。『曲がった蝶番』、四部構成(21章)。『緑のカプセルの謎』、20章。『テニスコートの殺人』、20章(最後に「登場人物のその後」が付いている)。

 こうしてみると、単に、小説執筆に慣れて、全体を20のようなきりが良い数字でまとめられるようになった、ということなのだろうか。プロ作家の方々に聞いてみたいところだ。

J・D・カー『髑髏城』

 『髑髏城』(1931年)はアンリ・バンコランを主人公とした第三長編で、第一作のフランス、第二作のイギリスに続き、ドイツのライン渓谷を舞台としている。

 例によって、本作も日本では長い間絶版が続き、幻の長編と化していた。ところが、・・・いやそうではなかった。本作はずーっと創元推理文庫で読むことができていたのだった[i]

 つまり、『帽子収集狂事件』や『連続殺人事件』などとともに、カーの長編のうち、ほぼ常に読むことのできた数少ない作品のひとつで、しかしその割に評価は低かった。

 江戸川乱歩の「カー問答」では、第四位の最低ランク。この順位の作品は、乱歩によれば、「いずれも怪奇性は充分あるので、一応読ませるけれども、探偵小説としての創意が乏しい」[ii]。一方、松田道弘の「新カー問答」では、「古城の城壁から火だるまになって墜落する男が、ライン河の対岸から目撃される場面の視覚的効果などは満点」[iii]と称賛されているが、ある意味両者の評価は合致している。これに対し、二階堂黎人は、「中盤の一人二役も効果的でうまい」とし、「なかなかの佳作」[iv]と評価している。

 本長編も『夜歩く』、『絞首台の謎』同様、最近新訳版が出たが、その解説で、青崎有吾は、バンコランのライヴァルとしてフォン・アルンハイム男爵を登場させている点に着目して、後者が帰納的推理によって事件の前半を解決し、バンコランが演繹的推理によって真犯人を明らかにする構成を高く評価し、「本書の解決編は数あるカー作品の中でも指折りの完成度を誇っている」[v]と絶賛している。

 こうしてみると、本作もカーの作品につきものの、評価が割れる長編といってよいかもしれない。あるいは、評価が変わってきた、ということだろうか。

 青崎の評価で当たっていると思われるのは、本作品がトリックよりも犯人を特定する推理に比重がかかっているというところである。カーの特徴というと、多彩なトリックというのが通り相場で、その評価は、近年ストーリーテラーとしての評価が高まった後でも、本質的には変わっていない。ところが、バンコラン・シリーズについては、『夜歩く』こそトリッキーだったものの、その後の『絞首台の謎』や『蝋人形館の殺人』など、トリックらしいトリックがない。その代わり、犯人推理の部分には、かなり力が入っている。

 とくに興味深いのが、冒頭の火だるま殺人の捜査の過程で、殺人現場の髑髏城と対岸の屋敷を往復するモーターボートをめぐって、犯人がどのように屋敷と現場を行き来したのかが検討対象となる。ところが、何と川底の下を通る秘密の通路が発見されて、犯人はそれを利用したことがわかる。もしこの種明かしが最後にされていたら、大半の読者は本を床に投げつけるだろうが、さすがにそんなへまはしていない。

 それどころか、むしろ、このモーターボートの検証から地下通路の発見に至る展開にミステリとしての創意が見られる。最初、髑髏城と屋敷の間を移動する手段は、モーターボートと手漕ぎのボートのみと考えられ、しかも犯行時、何者かによってモーターボートが使用されていたことがわかる(ボートは死体発見者が使用していた)。ところが、実は、カップルが逢引きに利用していたに過ぎないことが判明し、そこから改めて犯人の移動手段について探索が進められ、秘密の通路発見に至る。そして、この地下通路が発見されたことにより、それまで疑惑の対象となっていなかった-モーターボートの操作や渡河にかかる移動時間を考えると、高齢でしかもアリバイのある人物は犯行可能とは考えられない-真犯人が容疑者のなかに入ってくるという展開になっている。この辺りは、非常に巧みである。そして、地下通路の捜索によって、青崎が指摘している重要な手掛かりが発見される。中盤まで秘密の通路を伏せておくことで、重要なデータを解決の手前まで隠しておくことができているわけだ。

 このほかにも、髑髏城には、古城が舞台ならではの、お約束の隠し部屋などがあり、17年前に驀進する列車から転落して死亡したと思われていた魔術師が監禁されていたことが明らかとなる。秘密の通路に隠し部屋と、本来現代ミステリなら呆れられそうな道具立てがうまくパズル・ミステリの組み立てに活かされている点は、本作の特長といえるだろう。

 これに比べると、17年前の魔術師の死の偽装トリックは-二階堂は評価しているが-、やはり平凡に映る。以上をまとめると、本作は、トリックよりも犯人を特定する推理の段取り、あるいはプロットの展開とひねりに見るべき点がある。とはいえ、バンコランものに共通する特徴として、トリックや謎解き以上に殺人や劇的場面の演出のほうに力が注がれているのも確かなようだ。これは、どういう狙いからなのだろうか。『夜歩く』、あるいは、それ以前のアマチュア時代のバンコランものの短編は、むしろトリック中心の組み立てになっていた。一つ手がかりになりそうなのは、ダグラス・G・グリーンが紹介しているカーの1935年の書簡で、そのなかでカーは「私はグロテスクなものをばらまいて雰囲気を盛り上げ、登場人物たちを右往左往させないと、読者に飽きられてしまうのではないかと思い込んでいた」[vi]、と述べている。

 カーがこのように「思い込んでいた」のは、作品のなかの「グロテスクなもの」を称賛するファンレターでも舞い込んだのだろうか。それとも、処女作の評判にもとづく出版社からの要望でもあったのだろうか。真相はわからないが、独創的なトリックよりも、読者を作品世界に引き込む場面描写に心血を注いだのは、カーのプロ意識のなせる業だったのかもしれない。

 とはいえ、カー自身、そうした怪奇でグロテスクな場面描写を好んだのだろうし、本作でもっとも書きたかったのは、犯人と被害者とそして監禁されていた魔術師との間の愛憎劇だったのだろう。次作の『蝋人形館の殺人』を含め、『絞首台の謎』『髑髏城』のバンコラン・シリーズは、いずれもどろどろの復讐劇である。これら諸作の犯人たちは、利害得失などではなく、ひたすら憎悪に駆られて被害者に殺意を向ける。とりわけ、『髑髏城』では、17年間監禁された魔術師による復讐、夫を奪われた妻の復讐と、非日常の舞台にふさわしい壮絶な復讐のドラマになっている。

 

[i] 『髑髏城』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1959年)。

[ii] 江戸川乱歩「カー問答」、ディクスン・カー『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』(創元推理文庫、1983年)、317頁。

[iii] 松田道弘「新カー問答」『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、216頁。

[iv] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、344-45頁。

[v] 『髑髏城』(和邇桃子訳、創元推理文庫、2015年)、287-88頁。

[vi] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、106頁。