エラリイ・クイーン『盤面の敵』

(本書のほか、スティーヴンソン、ヘレン・ユースティス、ヘレン・マクロイ、ロバート・ブロックの長編小説のアイディアに触れています。)

 

 1963年、『最後の一撃』(1958年)以来のエラリイ・クイーンの五年ぶりの長編ミステリが出版された。しかし、それはマンフレッド・B・リーの書いた作品ではなかった。

 『盤面の敵』[i]以降の数作が代作であることは、いつ頃知ったのだったか。フランシス・M・ネヴィンズ・ジュニアの『エラリイ・クイーンの世界』[ii]が翻訳出版されたのは1980年(原書は1974年刊)だが、同書では、まだ代作のことには触れられていなかった。『ミステリ・マガジン』の1979年の座談会では、権田萬治が『盤面の敵』の代作について言及していて、代作者がシオドア・スタージョンであると「いわれている」[iii]、と語っていた。1982年の同誌の追悼座談会になると、1979年にも出席していた都筑道夫が同様の発言をしていて、さらに編集部注で、『盤面の敵』、『第八の日』、『三角形の第四辺』(およびペイパーバック長編)の代筆者に関して、スタージョン他の誰それであるという「有力な噂が、・・・提出されている」[iv]、と記されている。この頃には、暗黙の了解として、代作の話が一般に知られるようになっていたようだ。当時は、クイーンの共作方法もまだ明確にはなっていなくて、これらの代作がプロットを含めてのことなのかもはっきりしていなかったように記憶している。もっとも、今にして思えば、『盤面の敵』のプロットがフレデリック・ダネイのもの以外である可能性など、想像できないが。

 そういったことからも、以後、ダネイこそがエラリイ・クイーンだ、という印象が読者の頭に植え付けられていったように思われる。ダネイが考えて、リーが書く、という役割分担が明らかになって、プロットや解決のロジックなど、クイーンならではの特性はダネイによってもたらされたもの、という理解が一般的になったようだった。リーが1971年に逝去し、ダネイがスポークスマンとして残り、来日を果たしたことも影響していたのだろう。『盤面の敵』以降の代作も、ダネイの梗概を代作者が小説化したもの、という事実が明らかになって、これら長編も改めてクイーン作品として認知されたように思う。

 私自身も、パズル・ミステリとしてのエラリイ・クイーン「らしさ」を決定づけていたのは、ダネイのロジックとプロットだと確信していた。ダネイこそがクイーンなのだ、と。

 しかし、最近考えが変わった。

 ミステリも小説であり、小説である以上、文章で成り立っている。小説家とは、文章を書く人間のことだろう。コミックの原作担当と作画担当ほど明確ではないにせよ、原案と執筆を分担する場合、文章を書いた人間のほうが小説家である、と考えるようになった。もちろん、プロットを提供したダネイの貢献は絶大だが、ダネイの文体とリーの文体は当然異なるはずである。世に出たクイーンの小説がリーの文体で書かれている以上、それはリーの小説なのだ。

 以上のように考えるに至ったので、現在の私は、リーこそがエラリイ・クイーンだと思っている(ホイホイ変わりすぎ?)。

 そういうわけで、『盤面の敵』がリーによって書かれていない以上、それはエラリイ・クイーンの小説ではない(クイーン名義の小説ではある)。

 従って、クイーンの小説の感想記事の対象とはならない。よって、本稿はここで終わることにする。完。

 

 ・・・と思ったが、なんだかんだ言ってダネイのプロットは(いろんな意味で)面白いので、節を曲げて(そんな大げさなもんでもないが)続けることにする。威勢よく宣言した割には腰砕けだが、諒とされたい。

 『盤面の敵』は、ナサニエル・ヨークという富豪が遺した四棟の建物に住む遺産相続人の従弟たちが次々に殺害されるというミステリである。スクエア状の敷地の四つの角にまったく同じ屋敷が立ち並び、それぞれに住むロバート、エミリー、マイラ、パーシヴァルのもとに「J」、「H」、「W」、「H」と記したカードが送られ、上記の順番で殺されていく(パーシヴァルのみ生き残る)。まるでチェス盤のような舞台だが、実際そのとおりで、題名に表わされているように、The player on the other sideがエラリイに挑戦する犯人というわけである。

 前作(といっても五年前の)『最後の一撃』に負けず劣らず人工的なプロットで、『十日間の不思議』や『悪の起源』を彷彿とさせる、というか、もっと症状がひどくなっている。作中、エラリイが関係者を訪ね歩いて、○〇の一つ覚えのように「ぼくは残らず知っている」[v]と告げると、皆、必死に隠していたはずの秘密をべらべらしゃべってしまう、というヘンなシーンが繰り返される。象徴劇のような、というより、まるでコントだが、プロットばかりか登場人物の行動もつくりものめいて、操り人形のようだ。

 これを見るに、やはり、どう考えてもリーのスランプの原因は、ダネイのプロットにあったようだ[vi]。むしろ、よく30作も頑張って付き合ったものだと同情を禁じ得ない(全作がリー単独の執筆なのかどうかは知らないが)。

 しかし、代作者が、あのシオドア・スタージョンであったこと[vii]は、不幸中の幸い(?)だった。『夢見る宝石』(1950年)の、『一角獣・多角獣』(1953年)のスタージョンである。はっきり言って、小説家としての力量はリーより上だろう。2000年以降のスタージョンの翻訳ブームで、我が国でも知名度が再度上昇したが、おかげで『盤面の敵』も箔がついた。

 もっとも、『盤面の敵』を読んで、リーとスタージョンの文体の違いがわかるかというと、いつもの青田勝訳であることもあって、正直まるでわからない(リーこそがクイーンだと大見えを切ったわりに、この始末です)。代作という目で読み返すと、確かに従来のクイーン作品と異なる感触がないこともないが、でも、やっぱり変わらないような気もする(すっかり、しどろもどろになってしまった)。そうか、スタージョンがクイーン作品に合わせて、調子を落として・・・、いえ、文体を変えているのではないでしょうか。いつにもまして、寓話めいていたり、登場人物が一応書き分けられているものの、個性は深く描かれず、タイプの域を出ない。記号っぽいところなどは、リーだったら、ここまで徹底して書かなかったのではないか、とも思う。

 肝心のミステリとしての狙いはというと、作品をチェス・ゲームになぞらえているくらいなので、エラリイと彼に匹敵する超越的犯人との一対一の大勝負である。一族の名前がヨークだったり、犯人が自称Yとか、『Yの悲劇』を連想するが、犯人の設定は『十日間の不思議』、『悪の起源』に登場した全能超人である。「神のごとき犯人」と「神のごとき名探偵」エラリイとのチェス対決とか、まるでロード・ダンセイニの『ペガーナの神々』[viii]だ。おまけに、手がかりのひとつが、犬(dog)がとんぼ返りすると神(God)、って、チェスタトン[ix]ですか。

 この超越的犯人が下男のウォルトを操って殺人を犯させる、という、例によって「人形使い」テーマなのだが、今回のみそは、人形使いと人形とが同一個体であること、すなわち二重人格者における人格操作がテーマになっているところである。第一の人格が第二の人格によって操られ、殺人を犯すという「意外極まる犯人」なのだ。

 ただし、このアイディアは『盤面の敵』の時期には、すでに定石化していた。ネヴィンズは、『サイコ』(ロバート・ブロック作、1959年。ただし、正確にはヒッチコックの映画(1960年)のほう)[x]にしか言及していないが、石川喬司は1960年代に書いた書評で、次のような辛口の評価を下している。

 

  さらに致命的なのは、クイーンがせっかく新しい時代に追いつこうとして趣向をこ 

 らしたはずの犯人の〝意外性〟がステーブンスン[xi]やヘレン・ユースティス[xii]やロ 

 バート・ブロックの使い古したものなので、読者はいくら彼のギャンビットに引っか

 かりたくても引っかかることができない点である[xiii]

 

 クイーン(ダネイ)としては、お得意のマニピュレーション・テーマの新しいヴァリエーションを考案したつもりだったのだろうが、犯人のアイディアが「使い古したもの」扱いされたのは生憎だった。しかし、こうした見方も止むを得ないだろう。ネヴィンズが、ヒッチコックの映画のほうに言及して、「あえて」ブロックの「小説」には触れなかった(らしい)のは、クイーンに気を使ったのかもしれないが、ブロックにも気を使うべきだった。ヘレン・マクロイ[xiv]にも。

 読み直して、ひとつ面白かったのは、事件の序盤で、エラリイがクイーン警視と事件について話していて、父親に、お前の小説には頭のきれる変なやつがたくさん出てくる、と言われて、「レックスのも、ジョンのも、ミス・クリスティ―のも・・・みんなそうですよ」[xv]、と言い返すところ。(レックス・)スタウトや(ジョン・)ディクスン・カーを引き合いに出している(クリスティは、マローワン夫人でない場合は、ミスなんですね)のは、ダネイがこんな文章を入れるよう指定したとも思えないので、スタージョンがクイーンっぽく見せようとして、書き加えたのだろうか?それとも、スタージョンもミステリ好きなのか?まあ、(スタージョンほどの作家が)好きでもないのに、代作を引き受けたりしないか。

 

(追記)

 本作では、エラリイ・クイーンのミステリに特徴的な「人形使い」もしくは「操り」テーマが極限にまで達している。なにしろ操り手が神である。これ以上の人形使いは考えられないだろう。

 そして、その極限の「操り」が主題である『盤面の敵』が、リー以外の手によって書かれたという事実は大変意味深長である。

 というのも、エラリイ・クイーンの創作方法自体が「操り」によって成り立っているからである。もちろん、この場合の操り手はフレデリック・ダネイである。ダネイのプロットに従ってリーが小説化するのだから、これは明らかな「操り」であろう。

 考えてみれば、ダネイがプロットを考えて、リーが小説化する共作スタイルが完成した瞬間から、ダネイ=人形使い、リー=人形、という二人の関係性も確定した。ダネイの人工的プロットの肉付けにリーが苦労したという逸話は、フランシス・M・ネヴィンズのクイーン伝や書簡集[xvi]からも明らかで、実作者の苦労が偲ばれる。もちろん、リーもただ操られているわけではなかった。ダネイのロジックにリーが異議を唱えたことがあったのかどうかはわからないが、ダネイのプロットの細部にわたって、リーが異見を述べることは通常のことだったらしい。それはそれでダネイにとってもストレスで、リーの「加筆」や「修正」に不満を露わにしたことも珍しくなかったようだ[xvii]

 『盤面の敵』が究極の操りを主題としているのは、執筆がリーではなかった、それゆえダネイも何ら気兼ねすることなく、このテーマを極限まで推し進めることができたのだろうか。もしくは、ダネイもダネイで、鬱憤を晴らす良い機会だと思ったのか。リーが復帰した第一作とされる『顔』(1967年)は、やはり「操り」がテーマとなっている。しかし、同作のプロットでは、途中から「人形」は「人形使い」の支配下から脱して、自立した行動を取るようになる。これは、執筆がリーだったからこそのプロットだったのだろうか。リーがそれを要求、あるいは修正を望んだのだろうか。

 真相は永久に謎のままだろうが、いずれにしても、「人形使い」テーマは、「エラリイ・クイーン」という作家にとって宿命的な主題であったようだ。

 

[i] 『盤面の敵』(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1977年)。

[ii] フランシス・M・ネヴィンズJr(秋津知子他訳)『エラリイ・クイーンの世界』(早川書房、1980年)。

[iii] 都筑道夫赤川次郎・権田萬治「アメリカを代表する探偵作家」『ミステリマガジン』(エラリイ・クイーン生誕50周年記念号)No.283(1979年11月)、87頁。

[iv] 都筑道夫・二木悦子・中島河太郎・青田 勝「回顧座談会 クイーンの遺産」『ミステリマガジン』No.320(エラリイ・クイーン追悼特集、1982年)、129頁。

[v] 『盤面の敵』、195-96頁他。

[vi] フランシス・M・ネヴィンズ(飯城勇三訳)『推理の芸術』(国書刊行会、2016年)、319頁。

[vii] 同、320頁。

[viii] ロード・ダンセイニ『ペガーナの神々』『時と神々の物語』(中野善夫他訳、河出書房新社、2005年)に収録、11-110頁。

[ix] G・K・チェスタトン「犬のお告げ」『ブラウン神父の不信』(中村保男訳、創元推理文庫、1982年)、78頁。

[x] 『推理の芸術』、323頁。

[xi]ジキル博士とハイド氏』(1886年)。

[xii] 『水平線の男』(1946年)。

[xiii] 石川喬司『極楽の鬼 マイ・ミステリ採点表(ジャッジペーパー)』(講談社、1981年)、89頁。ただし、石川は続けて、本作が「この二年間に取り上げた約二百冊のミステリの中ではベスト・テンに入れてもおかしくないほどの力作である」(90頁)とも述べている。でも、「にもかかわらず、ぼくらはあえて『クイーンよ、さようなら』といわざるをえないのだ」(同)って、わかりにくいなあ。

[xiv] 『殺すものと殺されるもの』(1957年)。

[xv] 『盤面の敵』、136頁。

[xvi] ジョゼフ・グッドリッチ編『エラリー・クイーン 創作の秘密 往復書簡1947-1950年』(飯城勇三訳、国書刊行会、2021年)。

[xvii] 前注の書簡集参照。