横溝正史『悪霊島』

(本書の真相等を明かしています。あと『犬神家の一族』、『仮面舞踏会』についても、トリック等に触れていますので、ご注意ください。)

 

 『悪霊島』は、言うまでもなく、横溝正史の遺作となった長編小説である。1979年から翌年にかけて連載され、1980年7月には単行本が刊行された[i]。空前の横溝正史ブームのさなかに連載刊行され、大きな話題を呼んだ。その余韻が残るなか、翌1981年12月に横溝は逝去している。享年79歳、現在なら長命というほどでもないが、現役ばりばりの作家のまま生涯を終えた稀有なひとりといえるだろう。

 しかも、横溝は本書に対して、意外なほどといっては失礼だが、大きな手ごたえを感じていたらしい。単行本の帯には「これは、私の小説の中で最も自信のある作品である-横溝正史-」[ii]と記してある。これはまあ、出版社に乗せられて、うっかり宣伝文句に同意してしまっただけなのかもしれない。しかし、「あとがき」を読むと、次のような一節も出てくる。

 

  「しかし、いま完成したところを読み直してみるに、よく出来た小説であると思わ

 ざるをえない。」[iii]

 

 自作に対して、常に控えめで、誇らしげな言辞を残すことの少なかった横溝の言葉とは思えない堂々たる発言である。「よく出来た小説である」と「思わざるをえない」、はあ~っ。言葉尻を捉えたくはないが、「思わざるをえない」、その自信は、いったいどこから来ているのだろう。無論、前代未聞のブームで何百万部も売りつくして、自信を持つなというほうがどうかしている。もって当然なのだが、それにしても、「思わざるを」、「えない」とは。すごい。すごすぎる文章である(しつこいなあ)。

 なぜ、そんなにこだわるかというと、作者の高い自己評価に水を差す気はないし、「私の小説の中で最も自信のある作品」というのが仮に本音だとして、わざわざ異を唱えようとも思わない。思わないが、しかし、横溝作品の最高峰かといわれれば、同意するのは難しい。それどころか、上位十作に入るとも思えない。はっきり言って、『夜歩く』とか『女王蜂』のほうが、よいのではないか(これはこれで異論が多そうだが)。

 つまり、一介の読者として言わせてもらえば、なんで、作者がそんなに自信満々なのか、今ひとつ理解できないのである。トリックが素晴らしいわけでもないし、犯人が意外ということもない。謎解きの推理が面白いかといえば、そんなこともない。パズル・ミステリらしいアクロバティックなひねりがあるかというと、それもない。ないないづくしのようだが、最初に読んだ時の感想は、うーん、と首をひねった。当時の評価はどうだったのだろう。例えば、中井英夫はエッセイのなかで非常に褒めている。なかなか殺人が起こらないのでじれったい、といいつつも、最後まで読むと、「つくづく感服した。その幾分退屈な前半は、考えに考え抜いた伏線が張りめぐらされているので、さしずめ『赤毛のレドメインズ』に匹敵するといえよう」[iv]と大絶賛である。『赤毛のレドメイン家』を持ち出すのには驚いたが、なるほど、確かに70代後半の作家の作とは思えないほど細部まで練られていて、構成も複雑である。そして、『病院坂の首縊くりの家』(1975-77年)には及ばないが、文庫本で上下二巻[v]というヴォリューム。その筆力には感動するが、果たしてそこまでの作品だろうか。

 瀬戸内海に浮かぶ刑部島に、かつて島を追われるように去っていった越智竜平が、大実業家となってアメリカから凱旋帰国してくる。越智は島の旧家の跡取りだったが、故郷を去った原因は、村の権力者たる刑部大膳の孫娘、巴と恋仲になって駆け落ちまでしたからである。まもなく巴は連れ戻され、竜平は兵役にとられると、そのまま島に戻ることはなかった。巴は結婚して双子の娘をもうけ、婿養子の守衛は巴の父親の跡を継いで刑部神社の神主となっている。そこへ竜平が、刑部島を一大レジャー・ランドへと変貌させるべく、そして恐らく巴について何かしら思惑を隠しながら、二十数年ぶりに島に乗り込んできたのである。

 ところが、島民の反応をみるために密かに送り込まれていた青木修三が島で消息を絶ち、数日後、瀕死の状態で発見される。テープ・レコーダーに残された最後の言葉は、シャム双子を見た、鵺の鳴く夜に気をつけろ、という奇怪な遺言だった。越智の依頼を受けて島に渡った金田一耕助は、青木修三の事件以前にも、二十年ほどの間に三人のよそ者が島で行方知れずになっていることを知る。そして、かつて島で消息を絶った男たちにゆかりの人々が島に集まってきた祭りの夜、守衛が、越智によって奉納された黄金の矢で胸を串刺しにされた死体となって発見される。しかも前日には、巴の双子の娘のひとり、片帆が姿を消しており、やがて彼女もまた無残な絞殺死体となって見つかる。

 果たして連続殺人の犯人は誰か。次々と失踪する男たちの謎は、そして何よりも、島のどこかに潜んでいるはずのシャム双子の正体は何者なのか。

 調査を進める金田一は、竜平と巴が出奔したとき、巴が妊娠していた可能性があることを突き止める。そして、竜平を父と呼ぶ謎の青年、三津木五郎が現れ、さらに磯川警部の行方知れずとなった子どもの消息まで絡んで、刑部島をくるむ謎はますます深まっていく。

 と、筋は複雑だが、しかし、殺人の謎は割合単純で、第三者が犯人をかばって事後工作をしたというもの。このアイディアは、『犬神家の一族』(1950-51年)や『仮面舞踏会』(1974年)と同タイプだが、それら諸作より、むしろシンプルで、あまり犯人を隠そうという意識は作者にはなさそうだ。小説が進んでいくと、ある人物に対する疑いが複数の登場人物の口から聞かれる[vi]ので、逆に、何かどんでん返しがあるのかと疑うと、結局、そういうこともなく、そのままその人物が犯人なのである。伏せておく必要もないが、要するに巴で、作者も、自然と犯人が割れてくる展開に任せて、あえて隠そうとはしていない。犯人の意外性に関しては、横溝自身、重きを置いていないようなのだ。

 とすれば、作者の狙いはどこにあるのだろう。本書には、密室だとか、顔のない死体だとか、横溝が好んだ、いわゆるパズル・ミステリに典型な謎やトリックは出てこない。発想の起点がシャム双子にあることは「あとがき」で作者自身が述べている[vii]。知人の医師から、日本でもシャム双子は生まれることがある、と聞かされて、それで本書のアイディアを得たというのだが、同時にまた、シャム双子を扱ったミステリはすでに幾つかあるとも付記している。横溝の頭にあった一冊がエラリイ・クイーンの『シャム双子の謎』(1933年)であることは明らかだろう。実は、同作に言及している横溝の文章があるのだが、その評価は大変に厳しく、というか「あまりにも冗らないのに驚いた」[viii]という辛辣なものなのである。横溝がシャム双子をテーマとするミステリの着想を得たのは、『悪霊島』完結より十数年前のことだった[ix]というから、『シャム双子の謎』に関するエッセイ執筆時には、すでにアイディアを練っていたのだろう。とすれば、クイーン長編に対する、そっけない、というかボロクソの評価のなかに、実は、横溝が『悪霊島』に抱いた自負の裏付けとなる何かが隠されているのかもしれない。

 要するに、シャム双子のような珍しいテーマを扱っていながら、怪奇もミステリアスなムードも感じられない『シャム双子の謎』に失望した。同時に、これなら、俺のほうが面白い小説を書けると思った、ということだろう。もっとも、いたずらに怪奇を強調せず、シャム双子の兄弟を普通の無邪気な少年たちとして描いたクイーン作品は、これはこれで正しい描き方をしたといえるし、実際読んでいて好感がもてる[x]。横溝流の発想は大時代すぎるし、現代の感覚から言えば、差別意識につながりかねない危うさをもっている。

 しかし、シャム双子のような特殊なテーマをミステリで取り上げるなら、非日常的な舞台とプロットでなければならないというのが横溝の判断だったとみえる。

 その良し悪しは置くとして、作者が本書に絶大な自信を抱いたのは、シャム双子というテーマと刑部島の物語世界とをうまく調和させることができた、その意味で、満足のいく作品になった、と実感したからだったのだろう。

 ただし作者は、本書でシャム双子を、ただ怪異な存在として描こうとはしていない。ある意味、パズル小説らしい捻りを加えていて、むしろ、おどろおどろしい雰囲気を煽っておいて現実的な結末を用意している。つまり、謎のシャム双子は島に潜んでいるわけではなく、生れ落ちて間もなく亡くなっていた(ただし、自然死ではない)のである。

 そして、本書のミステリとしての最大の特徴は、このシャム双子の死と蒸発した男たちの行方が明らかとなる事件それ自体の意外な真相にある。犯人の正体や殺人のトリックではなく、事件そのものが「謎」(何が起こったのか)なのである。それはもう、現代ミステリでは、およそありえないような奇想天外な真相で、むしろ伝奇小説、それも伝奇時代小説のごとき結末というべきである。横溝の作品でいえば、『髑髏検校』(1939年)や『神変稲妻車』(1938-39年)のような、とでもいえばよいだろうか。金田一ら一行が、巴の共犯者(というか下僕)の吉太郎と地下洞窟で対決するクライマックスは、まさに本書の伝奇小説的要素を凝縮した場面になっている。

 そう、『悪霊島』の本質は伝奇小説で、それを探偵小説の外装でくるんだ二層構造のミステリなのである。

 しかし、同時に、本書の犯人である巴は、極めて現代的な狂気の殺人者である[xi]。『悪霊島』以前の「岡山もの」の集大成である『悪魔の手毬唄』が「狂気の殺人」ものという評価がある[xii]が、本書の犯人である巴こそ、混じりっけなしの(?)純正「狂気の殺人者」だといわねばならない。1990年代以降、欧米でブームとなるサイコ・スリラーであれば、殺人者は、獲物となった被害者の眼球や脳髄をホルマリン漬けにして自室に飾るのだろうが、『悪霊島』の犯人は、かつて自分が手にかけたシャム双子の遺骨を地下洞窟の祭壇に飾り、彼らの霊を慰めるために、屈強な男たちを次々に屠ると、骸骨を従者のように傍らに侍らせる。演出は伝奇小説だが、物語の骨格(骨だけに)はサイコ・スリラーである。

 かつて、横溝は、『八つ墓村』で探偵小説と伝奇小説を組み合わせたハイ・ブリッドなミステリを書いた。『悪魔が来たりて笛を吹く』では、ゴシック・ロマンス的主題を探偵小説に接ぎ木して見せた。『悪霊島』もまた、西欧的探偵小説と伝奇小説を混ぜ合わせた横溝ならではの和洋折衷型ミステリである。しかも、作者が意図せずとも、同時に本書は狂気の殺人者が連続殺人を繰り返す現代的サイコ・スリラーでもある。西欧と東洋、古風な怪異譚と現代ミステリとが融解して一編の小説をなしている。まさに「鵺」のようなミステリといえるだろう。

 作品のキーワードが小説の本質を言い当てているとは、なるほど、確かに、本書は「よく出来た小説と思わざるをえない」ようである。

 

[i]悪霊島』(角川書店、1980年)。

[ii] 同。帯には、「あの、金田一耕助が戦慄した恐るべき連続殺人事件!」と白抜きで書かれており、その下に、黒抜きの小さなポイントで上記の言葉が並ぶ。

[iii] 同、「あとがき」、388頁。

[iv] 中井英夫『La Battée 砂金を洗う木皿』(立風書房、1981年)、130頁。

[v]悪霊島』(上下巻、角川文庫、1981年)。

[vi] 同(上巻)、274‐75、313‐14頁、(下巻)、86、114‐15頁。

[vii]悪霊島』(角川書店)、387‐88頁。

[viii] 横溝正史「私の推理小説雑感」(1972年)『探偵小説五十年』(講談社、1977年)、298-99頁。

[ix]悪霊島』(角川書店)、387頁。

[x] もっとも、シャム双子の一方が殺人犯である場合、もう一人の運命はどうなるのか、とエラリイが問いかけているのは、思考実験としても、かなりグロテスクではあるが。作者はこの問いについて書きたくて、シャム双子を登場させたのだろうか。エラリー・クイーン『シャム双子の謎』(井上 勇訳、創元推理文庫、1960年)、327-28頁。

[xi] 『仮面舞踏会』(1974年)の犯人も同様のタイプだった。晩年の横溝は、狂気の殺人者に多大な興味を抱いていたようだ。いずれも女性犯人であるのは、横溝にとって、女性は謎だった?

[xii]悪魔の手毬唄』(『横溝正史自選集6』、出版芸術社、2007年)、「解説」(浜田知明)を参照。