エラリイ・クイーン『クイーンのフルハウス』

(収録作品の犯人、トリック等のほかに、クリスチアナ・ブランドの代表作について注で触れていますので、未読の方はご注意ください。)

 

 エラリイ・クイーンの第五短編集『クイーンのフルハウス(Queens Full)』(1965年)[i]は、またまた「らしい」短編集となっている。ポーカーのフルハウスにかけて、中編三編、ショート・ショート二編からなる凝った構成の、しゃれた一冊である(短編集ではなかった)。

 もっとも「ライツヴィルの遺産」は中編と呼べるほどのヴォリュームではないように思うが、これも中編(ノヴェレット)なのだろうか。翻訳では比較は難しいだろうが、『犯罪カレンダー』(1952年)の収録作は、皆このくらいの長さだったような。それとも『カレンダー』は中編集だったのだろうか。

 それはともかく本短編集、いや、中編ショート・ショート集も内容は充実している。五編では物足りなくはあるが、うち一編は傑作、一編は佳作といえる。正直、初期の『エラリイ・クイーンの冒険』(1934年)、『エラリイ・クイーンの新冒険』(1940年)より、『犯罪カレンダー』、『クイーン検察局』(1955年)、そして本作品集のほうが良いパズル小説が入っているのではなかろうか。

 もうひとつ、本書は重大な問題を孕んでいる。「ドン・ファンの死」(1962年)および「Eの殺人」(1960年)は、誰が執筆しているのだろうか、ということである。

 この期間(1959-66年)は、マンフレッド・B・リーがスランプで書けなかった時期といわれている。長編は代作者がはっきりしているが、中短編およびショート・ショートはそうではない。代作者がいるのか、それとも、なんとかリーが書き上げたのか。あるいは、フレデリック・ダネイが満を持して自ら執筆したのか。可能性としては、このぐらいだと思うが(もしくは、リーが以前書きためておいたとか)、どうだろう。

 どうだろう、といっても、答えはどこからも返ってこないだろうから、ひとまず個別の作品に移ることにしよう。

 

01 「ドン・ファンの死」(The Death of Don Juan, Argosy, 1962年)

 本中編はライツヴィルものだが、「ライツヴィルの遺産」より後の作品で、一番大きな違いは、おなじみのデイキン署長が引退して、新しい警察署長としてアンセルム・ニュービイが登場することである。ニュービイがエラリイを目の敵にするので、二人の対立が解消されるまでを描いたエピソードという楽しみ方もできる。

 舞台が劇場で、節の見出しが「第〇幕第〇場」となっていて、『ローマ帽子の謎』(1929年)や『Xの悲劇』、『Yの悲劇』(ともに1932年)を思い出す。しかし、あれらほどガチガチの本格物ではなく、この時期らしく、軽妙なテンポで、すいすい進む「劇場殺人」ものである。

 謎の興味は、ダイイング・メッセージと凶器のナイフに関する手がかりなのだが、前者は、英語の「女性主人公(主演女優)」の発音が日本語では「ヒロイン」なので、どうもうまくいかない。わざわざ「ヘロイン」[ii]とカナを振っているので、かえって日本の読者のほうが気づきやすくなってしまったかもしれない(英語でもつづりは異なるが、原文ではeがついているのだろうか[iii])。

 それより、麻薬を他人が何気なく手に取るかもしれないメーキャップ道具のなかにしまっておくとか、どういう神経なの、この俳優?

 しかし、ナイフに残された歯型のあとから汲みだされる推理は、いかにもクイーンらしいロジックが冴えている。歯形といえば、『ドラゴンの歯』(1939年)を思い出させるが、あんなにくだらなくはない。犯人がおかれた一時的な身体状態を利用した推論[iv]は、論理的と言う以上に意外性と発想力に優れている。

 ところで、改めて問うと、本作の執筆者は誰なのだろう。冒頭部分を読むと、ドン・ファンについて蘊蓄を駄弁る、リーらしいペダンティックな書き出しになっていて、やはり彼が書いているようにもみえる。ライツヴィルものであることも、そう思わせる一因である。作者にも読者にも馴染みのあるシリーズものの小説を描くなら、やはりリーに任せるはずだろう。ニュービイ署長は初お目見えだが、デイキン署長もちょっとだけ、エラリイの回想の中に登場する。リーが書けないときに、あえてライツヴィルものの構想を立てることはない気がするのだが(掲載誌を見ても、ライツヴィルものでなければならない理由はなさそうだ)。

 仮にリーが作者であるとすれば、彼が執筆を降りたのは、長編『盤面の敵』(1963年)からだったことになる。本作はまだ我慢できたが、『盤面』のあまりに人工的なプロットに、頭にきたリーが執筆を拒否したということもありえる?果たして、真相やいかに。

 

02 「Eの殺人」(E=Murder, This Week, 1960年)

 再びダイイング・メッセージで、メモに記した文字または数字(?)が、角度を変えるたびに、EにもMにも、3にもωにも見える。その解釈をめぐるショート・ショート。解釈が幾通りも考えられるのではなく、メッセージそのものが幾通りにも読めて、その結果、解釈が幾重にも広がっていくところが面白さだろうか。

 犯人の意外性も十分だが、死にかけている人間は複雑なことは考えないと言いながら[v]、複雑な解釈をするエラリイの非常識な感性には、いつもながら脱帽だ(24人目って、死ぬ間際にそんなことに気がついたのか、この被害者)。

 ところで、このくらいの長さなら、ダネイが、ちょちょいのちょいと書き上げた可能性も考えられると思うのだが、「ドン・ファンの死」がリー作とすれば、こちらもそうか。

 

03 「ライツヴィルの遺産」(The Wrightsville Heirs, Better Living, 1956年)

 まだデイキン署長が健在だったときの事件。順番から言えば、本作をトップに置いたほうが、しっくりくると思うのだが、作者もあまり自信作ではなかったということだろうか。

 三人の義理の子どもたちに冷たくされ、腹を立てた富豪のリヴィングストン夫人が、優しく世話をしてくれたエイミーに全財産を残す遺言書をつくるが、とたんに枕で窒息死させられてしまう。エイミーはその後も睡眠薬を大量に飲まされたり、銃で狙撃されたりして、命を狙われる。

 『クイーン検察局』でも散々読まされた、三人の容疑者のなかから犯人を探すパズルに見えるが、中編小説なら、もっと結末の意外性にこだわるはず。従って、三人の兄妹以外に犯人を探すとすれば、怪しいのは命を狙われているエイミー本人だが、クイーン作品で、この手の純情娘は大抵犯人ではないので、とすると、残るは弁護士ということになる。夫人殺害時に外部からの侵入者がいたのかどうか検証されないので、犯人がどうやって殺人を実行したのか最後までわからないけど、説明不足じゃない?しかし、それ以上に、エラリイの推理がわかりにくい。

 銃撃はわざと狙いをはずしているようにみえることから、エイミーに対する殺害未遂は偽装だという仮説をたてるのだが、目的は彼女に遺産相続を放棄させることだと述べておきながら、最後には、三兄妹に嫌疑をかけることが本当の目的だったと結論する。推理がふらついているようなのだが、そう見えるのは、犯人がエイミーを襲撃した動機が薄弱だからである。発覚の危険性を上回るメリットが、これらの犯行にあるとは思えない。すでに遺言書の偽造と殺人という罪を重ねているのに、余計な工作を加えれば命取りになりかねない。

 エイミーの殺害未遂は偽装だという仮説と、遺言書を再度検討するという結論も、繋がっているようで繋がっていない。相続放棄させることが目的なら、三兄妹に動機があるのだから、改めて別角度から事件を再検討する理由にはならないだろう。

 遺言書の用紙のみから偽造の可能性を推測するのも、いささか根拠薄弱で、都合よく犯人がオリジナルの遺言書を保存していたから証明ができたが、そもそも、なぜ罪を暴露する危険な証拠物件を破棄しなかったのか、デイキン署長の説明では[vi]、いかにも苦しい。別稿で書いたとおり[vii]、探偵の論理優先で、犯人の心理がなおざりにされている印象を受ける。

 結局、エラリイが再度遺言書に眼を向けるきっかけが必要だったので、そのためにエイミー襲撃事件を起こさせた、ということで、それは作者側の都合であって、犯人の都合がそこにうまく適合していない。残念ながら、あまり上出来とは思えなかった。

 

04 「パラダイスのダイヤモンド」(Diamonds in Paradise, EQMM, 1954年)

 パラダイス・ガーデンズという賭博場でダイヤの盗難事件が起こる。犯人は逃亡しようとして腐ったはしごから転落して死亡する。最後の言葉が「ダイヤモンズ・イン・パラダイス」というわけで、またしてもダイイング・メッセージである。

 最後にちょこっと登場するエラリイが、クイーン警視から話を聞いただけで真相を突き止める。これ以上ないくらい軽いパズルで、そこが身上ともいえる。これぞクイーンズ流ショート・ショートというべき一編。

 

05 「キャロル事件」(The Case Against Carroll, Argosy, 1958年)

 最初に読んで以来、エラリイ・クイーンの中短編(ショート・ショートを含む)の最高傑作ではないかと思っていた。どうやら世評を見ても、あながち間違っていないらしい[viii]

 弁護士のジョン・キャロルは、共同経営者メレディス・ハント殺害の疑いをかけられたうえ、アリバイを証明してくれるはずのハントの妻フェリシアまでが殺されてしまう。窮地に陥ったキャロルは、エラリイに助けを求めるが・・・。

 本書の特徴は、なんといっても文章のトリックにある。ミステリのトリックは、つまるところ、すべて文章のトリックに過ぎないともいえるが、その点はひとまず置くとして、犯人であることを自ら明らかにしているのに、読者にはそうは見えないという摩訶不思議な技巧を駆使している。数年前に発表されたクリスチアナ・ブランドの代表作との類似を思わせる[ix](注で書名を挙げます)が、同長編からヒントを得たのだろうか。

 たとえそうだったとしても、このアイディアは素晴らしい。これまでのクイーン作品には見られなかった非常に精緻な叙述の技法に挑戦したミステリで、戦後クイーンの最高傑作と言って過言ではない。

 ただ、である。最初に読んだとき、実は、ひどく奇妙な感覚におちいった。どういうことかというと、キャロルがフェリシアにアリバイを証明する陳述書にサインさせるくだりを読んでいるときだが、あれ、これ倒叙ミステリなのか、と一瞬思ったのだ[x]。結局キャロルが犯人で、偽のアリバイ工作を企んでいるように読めた。しかし、作者は、犯人当てミステリとして書いているようだが・・・。それとも、わざとキャロルが犯人ともとれる描写をすることで、読者を惑わせる狙いなのか?

 文庫本でいうと、220頁から221頁にかけてのあたりだが、なんとも変てこな気分で怪訝な気持ちのまま読み終えたのを覚えている。読了して、やっぱりキャロルが犯人で納得はしたのだが、同じような感じを受けた人は、多かったのではないだろうか。

 ひょっとして、クイーンは倒叙ミステリを書いているのだが、読者である自分はそれに気がついていないのか。いや、そうではなく、犯人当てミステリの形式を取った倒叙ミステリとして書かれているのか。どちらが正しいかといえば後者なのだろうが、前者であるかのような妙な気分だった。そう感じた要因は何だったのか考えると、どうも、クイーンの書き方に問題があった気がする。フェアに書こうとするあまり、狙いが半分透けて見えてしまったようなのだ。

 翻訳のせいもあるのかもしれないが、この玄妙不可思議な文章のマジックを成功させるには、叙述も、もっと繊細である必要があったのではないかと思う。例えば、まさにブランドのような韜晦趣味的なスタイルが必要だったのではなかろうか?クイーンの文章は簡潔すぎ、明晰すぎたかもしれない。

 もっとも、キャロルが犯人であるとも、そうでないとも、どちらともとれる曖昧な書き方を、わざとしているようにも思えて、そうなると、また作者の狙いがわからなくなる。そこまで回りくどいことはしないとは思うが、どうもいろいろと考えさせられる小説である。

 ともあれ、本作をクイーンの代表作とする考えは変わっていない。(ひとまず犯人当てミステリという前提で)アイディアは素晴らしいと思うし、独創性から言えば、エラリイ・クイーンの全作品中でもずば抜けている。犯人を特定する失言の手がかり[xi]も巧みだ。そして、全体のダークな雰囲気とサスペンスに富む語り口は、同時期のクイーン作品のなかでも際立って印象的で、ハードで硬質な手触りを感じさせる。

 1950年代のクイーンは、少なくともパズル・ミステリとしては、中短編およびショート・ショートで評価されるべきものと思う。

 

[i] 『クイーンのフルハウス』(青田 勝訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1968年;ハヤカワ・ミステリ文庫、1979年)。

[ii] 同(ハヤカワ・ミステリ文庫)、45頁。

[iii] “heroine”と書いてあるとすれば、エラリイにはそう聞こえたということだろうか。

[iv] 「ライツヴィルの盗賊」(『クイーン検察局』所収)を思わせる。

[v] 『クイーンのフルハウス』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、117頁。

[vi] 同、165-66頁。

[vii] 『エラリイ・クイーンの冒険』に関する拙文を参照。

[viii] フランシス・M・ネヴィンズJr『エラリイ・クイーンの世界』(秋津知子他訳、早川書房、1980年)、243頁、フランシス・M・ネヴィンズ(飯城勇三訳)『推理の芸術』(国書刊行会、2016年)、329頁、飯城勇三エラリー・クイーン完全ガイド』(星海社新書、2021年)、187-88頁。

[ix] クリスチアナ・ブランド『はなれわざ』(1955年)。

[x] 『クイーンのフルハウス』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、218-24頁。

[xi] 同、251、264-65頁。