エラリイ・クイーン『最後の一撃』

(本書の手がかり、トリック等のほか、『アメリカ銃の謎』のトリック等を明かしています。)

 

 1958年出版の本書[i]は、エラリイ・クイーンの30冊目の長編ミステリである。1929年の処女出版から丁度30年目で30冊。多作とはいえないが、順調な作家生活ではあっただろう。ちなみに一年後輩のジョン・ディクスン・カーは、30年目の1959年に、早くも60冊目の長編を刊行している(共作を含む)。クイーンの場合は、1932年と1933年に突発的に4冊ずつ長編ミステリ-しかも傑作ぞろい-を出して、一気に数をかせいだが、その後「発作」がおさまると、1940年代には寡作作家となってしまった。

 それから、本書で作家生活を終わらせるつもりだった、という話は、いつ頃聞いたのだったろうか[ii]。初読は30年どころかそれ以上前だが、そのときすでに、本作が最終作となるはずだった作品と知って読んだような記憶がある。それとも、あれは、単に三十周年記念の区切りの作という認識の記憶が、その後聞いた情報によって、いつのまにか書き換えられてしまったに過ぎないのだろうか。

 思い出話の詮索はともかく、そのときは楽しく読んだ覚えがある。「雪の山荘」テーマ風で、謎のギフトが送り付けられるという、そのときすでにマンネリ感のあったプロットも、それなりに楽しめた。だが、最後の謎解きには失望した。謎の答えがアルファベット(しかもフェニキアの!)で、原稿の校正記号が手がかりというのは、物知りクイズならともかく、300頁近くも読まされた挙句がこれでは、まったくあきれるほかはない。フェアもアンフェアもあったものではない。本の出版に縁はないが、原稿の校正ならしたことがある。無意識のうちに、「トル」とか「イキ」とか、いたずら書きをした経験などなかったですよ。

 結局、読了してわかったのは、本書がエラリイ・クイーンによるエラリイ・クイーンのためのミステリであるということだった。最後の作かどうかはともかく、作者たち(とくにフレデリック・ダネイ)が作家生活の中で長年関わってきた題材(書物の出版)を選んで記念すべき30冊目の長編小説を制作しようとしたのだろう。悪くいえば自己満足で、処女作で始めた「読者への挑戦」を引用している[iii]のも、冗談としか思えない。作者も本気で、本書が読者にフェアな犯人当てを挑んでいるとは思っていないだろう(フェニキア人のアルファベットは、アメリカ人にとっては常識の範囲なのだろうか)が、どうも面白がっているのは作者だけのような気がする。

 謎の贈り物が意味するパターン探し、名探偵を操る「人形使い」の犯人など、従来のクイーンの持ちネタをことごとくなぞったプロットも、出し惜しみなしというより、セルフ・パロディというか、クイーンがクイーンの声色をしているようで、何だかお尻がむずむずする。一体、笑えばいいのか、それとも腹を立てるべきなのか。実に困った作品だ。

 面白いところを探すと、作家クイーンと名探偵作家エラリイの人生が、ほぐすのが難しいほど絡まり合っていることで、自分が解決した事件を小説化している作家を主人公にした小説を書いている作家が巻き込まれた事件を小説化した作品、という究極のメタ・ミステリというべきなのか、単に作家と探偵が同名という初期設定がこんぐらかって、作家も読み手も混乱しているだけなのか。

 もうひとつ興味深かったのは、ミステリではお馴染みの双子を用いたトリックに捻りを加えているところで、25年前の『アメリカ銃の謎』の結末に非難の手紙が殺到したので、再度、同様のテーマに挑戦したのだろうか(そんな風に思っているのは、わたしだけ?)。

 『アメリカ銃の謎』は、双子でもないのに犯人にそっくりな他人を最後にいきなり登場させると、こっちが被害者だと種明かしして、意外な犯人を作り出そうとした作品である。そのときの作者の言い分は、論理で証明できれば、双子以外のそっくりさんを突然登場させてもアンフェアではない、というものだった(その割には、瓜二つの赤の他人の存在を少しでも受け入れやすくさせるためか、映画スターの吹き替えという設定を持ち込んでいるのは姑息だった)。

 『最後の一撃』では、最初から双子である、と種を割っておいて、実は三つ子でした(!)という奇想天外な結末(!)である。「今度は、ちゃんと双子であることを最初に明かしているんだから、三つ子の可能性も想定しておけよ」、というわけか。

 しかし、三つ子のうちの一人を引き取るだけならまだしも、もう一人こっそり隠しておいて白を切るとか、この田舎医者とその妻、イカレすぎてやしないか。おまけに、赤ん坊の片方は死んだ記録が残っているのに、もう片方は誰にも気づかれることなく成人するまで隠し通したとか、いくらアメリカが広いといっても、あんまりではないか。

 さらにネヴィンズ・ジュニアも指摘している[iv]ように、殺人事件が起こったというのに、生き別れの兄弟を発見したことをいつまでも黙っているジョン・セバスチアン(ギフトを贈られている当人)という青年も、父親に負けず劣らずの異常人格者である。その他の登場人物も変な奴ぞろいで、本書の犯人は、クイーン長編でお馴染みの人間の精神を操る超越者なのだが、それ以前の問題として、そもそも登場人物が、全員操り人形のように何かに憑りつかれたかのごとく、ぎくしゃくしている。クイーン作品のキャラクターは、ときとして役者のセリフめいたしゃべり方に思えて、つまり、性格や性癖が、生まれつきのものというより、そうふるまうよう指示された俳優の演技のようにみえるときがある。それも、結局は人工的なプロットのせいかもしれず、それが本書では、とくに強く感じられる。

 そうみてくれば、本書は1950年代のクイーンに見られるプロットの人工性が極点に達した作品といえる。本書がクイーンの最後の長編となるはずだった[v]、という話もまんざら嘘ではないと思わせる。つまりは、マンフレッド・B・リーがダネイの人工的プロットについていけなくなった、ということではないのか。こんなプロットでは小説にならないよ、とリーが堪忍袋の緒を切ったのか、あるいは、無理に小説に仕立てようとしてノイローゼになったのか。五年間の沈黙のあと、1963年の『盤面の敵』での執筆再開から数年間、クイーン名義の作品は、リー以外による代作と判明している(しかし、これは代作なのか、ダネイにとって?)。その理由は、リーのスランプ(と健康上の理由)[vi]というのだが、しかし、リーの「スランプ」とは、要するに、ダネイのプロットでは、もう書けない、ということだったのではなかろうか?作家が書けなくなるというのはよほどのことで、長年ダネイのプロットの小説化に難渋してきたストレスがスランプの原因だったのでは?リーにしてみれば、これからは自分ひとりで書くか、でなければダネイ以外の誰かと組んで書きたかったのではないだろうか[vii]

 

 近年、クイーンの作品を素材に、ミステリを作者と読者という視点から捉えなおす論が盛んになったようだ。作中世界における推理データの真偽決定は不可能である、という指摘によって、メタ・レヴェルにおける作者=読者関係にまでミステリ世界の領域拡大が起こり、それが通常となってしまった(らしい)。

 小説や文学作品は、もともと読者の自由な「読み」を許容するものであるが、ミステリの場合、一番重要な「犯人探し」において、読者の任意の解釈を禁じる構造になっている(それでも、読者が勝手に小説と異なる犯人を指摘することは自由だが、それで作品自体に影響が及ぶわけではない)。

 もっとも、この問題について述べたいわけではなく、こうした問題がクイーンのミステリをきっかけに顕在化したのは、なんだか面白いという話題である。作者と読者の関係性というテーマは、エラリイ・クイーンという作家の存在そのものに関わると思うからである。つまり、クイーンのミステリの最初の読者が誰かといえば、それはマンフレッド・B・リーである。フレデリック・ダネイの「プロット(梗概)」の最初の読者はリーに違いない。そしてクイーンの「小説」の最初の読者はフレデリック・ダネイである。

 クイーンのミステリは、常に作者と読者が相互互換の関係にある。作者は読者であり、読者は作者である。共作者というのが常にこのような関係にあるわけではないだろうが、クイーンのように完璧な役割分担がなされている場合、こうした「読者=作者」という役割の反復交代、ないしは流動化が起こる。

 最大の「クイーン問題」とは、創作におけるダネイとリーの関係に関するそれではないだろうか。

 そして、ここからさらに次の問題として、クイーンのミステリの最大の特徴ともいえる「人形使い」または「操り」テーマが浮上してくる。

 

[i] 『最後の一撃』(青田 勝訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1958年)。

[ii] フランシス・M・ネヴィンズJr(秋津知子他訳)『エラリイ・クイーンの世界』(早川書房、1980年)には、それらしい記述がある(228頁)。本書の翻訳者である青田 勝は、あとがきで、クイーンが「今や新しい転機を迎えようとしているのではあるまいか」、と記している。『最後の一撃』、304頁。このあとがきは文庫版でも同じである。『最後の一撃』(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1977年)、375頁。

[iii] 『最後の一撃』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)、265頁。

[iv] 『エラリイ・クイーンの世界』、230-31頁。

[v] 飯城勇三エラリー・クイーン パーフェクトガイド』(ぶんか社、2005年)、136頁。

[vi] 同、79頁。飯城雄三『エラリー・クイーン完全ガイド』(星海社新書、2021年)、175頁。

[vii] フランシス・M・ネヴィンズ『エラリー・クイーン 推理の芸術』(飯城勇三訳、国書刊行会、2016年)、319-20頁を読むと、どうやらこの推測で正しいらしい。