クリスチアナ・ブランド『ザ・ハニー・ハーロット』

(なるべく種明かしはしないようにしますが、保証はできません。)

 

 クリスチアナ・ブランドの『ザ・ハニー・ハーロット』[i]を読んだ。

 随分昔に買ったが[ii]、そのまま放りっぱなしだったのは、(これでも)仕事があったし、のんびり原書を読んでいるゆとりはなかった。それに、あのメアリ・セレスト号事件の小説化[iii]ということなので、こりゃあ、そのうち翻訳されるだろうと思っていた。『招かれざる客たちのビュッフェ』が刊行されて、何度目かのブランド・ブームが来た頃のことだった。

 しかし、あれから幾年月、未訳作品もぼつぼつ翻訳されているが、『ザ・ハニー・ハーロット』に関しては音沙汰なし。近刊予定に入っているかもしれないが、暇もできたので手を伸ばしてみた。

 最初は一日10頁がせいぜいで、なかなか捗らない。半分読むのに一週間くらいかかったのは、さすが「ハイブラウな文章」[iv]で知られるブランドらしく、なんだか意味の取れないセンテンスがたくさん出てきて、おまけに船舶関係の専門用語が頻出するので難儀する。しかも、あまり面白くない。だが、我慢して読んでいると、半ば付近で物語が急展開して、以後、先が読めないストーリーに引きこまれた。後半は二日ほどで読み終わった。

 ただし、メアリ・セレスト号事件の小説化といっても、トリッキーな謎解きを期待すると、がっかりするだろう。もちろん、なぜ帆船から乗組員全員が消え失せたのか、その理由を推理しようという内容なのだが、あっと驚く解決が待っているわけではない。久生十蘭の「遠島船」[v]のような不可能犯罪のパズルを期待しても失望するだけである。むしろ、本書は三角関係の恋愛ドラマなのだ。

 メアリ・セレスト号事件[vi]は、いうまでもなく「世界の怪奇」に必ず取り上げられる海難事件である。1872年にポルトガル沖で、ニュー・ヨーク港を出てジェノヴァに向かっていた二本マストの大型帆船が漂流しているのが見つかる。船体には特に目立った異常はなく十分航行可能であるにもかかわらず、船内には人っ子一人見当たらない。つい最前まで平常な航海を続けていたはずの船から、十名の乗員すべてが突然空中に吸い込まれてしまったかのような現場だったという。

 この事件については、コナン・ドイルが脚色した小説を発表したり、我が国でも上記の十蘭の短編小説が知られているが、現在まで、どれだけの創作や研究があるのかは知らない。1978年になってブランドが発表したのが本書である。

 先に引いた「ブランド著作リスト」には、「架空の人物を登場させて事件を語らせている」[vii]とあるが、これは正確ではない。語り手は、船長のベンジャミン・ブリッグズの妻サラ・ブリッグズで、実際に乗船していた。その他の船員、一等航海士のリチャードソン、二等航海士ギリング、四名のドイツ人とオランダ人の船員、料理人のヘッドまで、すべて実在の人物である[viii]。カットされているのは、ブリッグズ夫妻の娘ソフィア(二歳)で、その代わり、架空の登場人物が一人いる。それが、タイトルになっているハニー・ハーロット、金髪の娼婦メアリ・セラーズである。つまり、船長夫婦の幼い娘をはずして、港の売春婦メアリを登場させることで、「神を恐れる男(God-fearing man)」ベンジャミン・ブリッグズと結婚まもない若妻サラ(実際は30歳だったそうだ。娘がいたのだから当然か)、そして「ハニー・メアリ」をめぐる激烈な愛憎劇に仕立てたのが本書である。

 ロバート・E・ブライニーによると、本作は「性的な強迫観念を中心に据え」ているというが、サラがニュー・イングランドの生まれで牧師の娘[ix]となっているように(事実かどうかは知らない)、個人の性意識より、むしろ19世紀の北米社会における清教徒的な性道徳観念が重要な背景になっている。この時代の人々が、現実にどの程度そうした倫理観にとらわれていたのか、そんな風には聞くけれど、実際のところはわからない。しかし、冒頭、港で涙ぐんでいる金髪の美しい女性を見かけたサラは、その女メアリ・セラーズを船内に導いて話を聞こうとする。しかし、そこに現れた夫のベンジャミンは、売春婦である彼女に侮蔑的な言葉を投げかけ、追い払ってしまう。それでもメアリのことが気がかりなサラは、彼女を追いかけ、助けてくれるよう夫に頼むのだった。メアリの後を追ったベンジャミンは夜遅くに戻ってくるが、彼女との間にどのような経緯があったのかは語ろうとしない。数日後、再び現れたメアリは態度を一変させ、なれなれしくブリッグズに近づく。ちょうどアマゾン号に新たな名をつけようとしていたブリッグズは、メアリとの会話のあと、船名を(メアリ・セラーズを少しだけ変えた)メアリ・セレストに改めた(ただし、史実では、メアリ・セレストに名前が変わったのは、もっと以前のことだったらしい[x])。

 つまり、ブリッグズとメアリがただならぬ関係(といっても、メアリからすれば、単なる顧客に過ぎないが)に陥り、信仰心が厚いと評判だった(現実にも、そうだったらしい)彼の不道徳な行為をメアリが脅しの種にしたのだった。現代の感覚からは理解しにくいが、売春婦とのセックスがスキャンダルとなる時代で、その後の彼やサラの行動を律することになる。もっとも、ブリッグズの同業のデイ・グラツィア号船長のモアハウスが、ブリッグズの酒と女に潔癖な性格を揶揄する場面もあるので、社会というより、ブリッグズ個人の問題なのかもしれない。メアリの行動も、そもそもモアハウスの差し金によるもので、この男、というよりデイ・グラツィア号の存在がクライマックスでプロットの鍵となる(同船はメアリ・セレストを発見した船舶で、モアハウスも実在の人物)。

 九人の乗員を乗せたメアリ・セレスト号は、ニュー・ヨーク港を出帆して、順調に大西洋を航行していくが、サラは夫との性関係を通じて、次第にその暴力的で狂暴な性格に気づく。そんななか、ある晩、女性の笑い声を聞いたサラが甲板に出てみると、そこにはメアリが立っていた。

 唐突なこの出現には面食らう。主人公が幻覚でも見たのかと思ったら、本物のメアリ・セラーズだった。確かに、彼女が登場しないことには物語が発展しないのだが、この規模の帆船(全長約30メートル)で密航などできるのだろうかと思ったのである。

 リチャードソンは自分らは関与していないと弁解するが、どうやら、船員たちは、すでにメアリの手管に丸め込まれてしまっている。ベンジャミンに知られるのを防ごうと、サラまで彼女を匿うはめになる。どうやらメアリは、高潔ぶったブリッグズの心底に潜む獣性と肉欲を暴いて、自分を蔑んだ復讐を果たすつもりらしい。夫を守ろうとしつつも、メアリにどこか共感するサラだが、彼女の処置についてリチャードソンと会話しているところを、ブリッグズに見つかってしまう。航海士との関係を疑われ、厳しく詰られるサラ。そこに突然メアリが姿を現わすと、ブリッグズの偽善を激しく罵しり始めるのだった。彼女の存在に驚くブリッグズは、しかし、密航者を隠していた部下たちを叱りとばし、女を軟禁するよう命じる。こうしてメアリを中心に、ブリッグズと船員たち、そしてサラとの間に緊張と不安が高まっていく。

 ここから物語が一気に動き出し、船員らのブリッグズに対する不満と不信を煽るメアリが、積み荷のアルコール(実はメチル・アルコール)を飲ませたことから、乗員たちが苦しみだす。いっときブリッグズが船を離れる事態が生じると、ついに彼と船員たちの間に一触即発の危機が訪れる。ところが、ここでそれまでの人物関係が劇的に変わり、メアリがブリッグズの側につくのである。「あなたが地獄に落ちるなら、私もいっしょに行く」などと言い出して、とんだツンデレだが、なぜ彼女が密航したのか、その真意がここで明らかとなる。

 ブリッグズは、もとから彼に反抗していたギリングを銃で撃ち殺し、忠実だったリチャードソンにまで致命傷を負わせてしまう。自分に対し同情的だったリチャードソンが理不尽に死んだことで、サラは夫に嫌悪を抱くが、同時に償いをさせることで夫を救おうと考えるようになる。一方、ブリッグズへの執着を隠さなくなったメアリに対しては、敵意と好意とが入り混じった奇妙な感情が湧き上がってくる。

 こんな具合にストーリーが進んで、二人の航海士がまず消えると、次は誰をどのように始末するのかが興味の対象となる。なぜ、すべての乗員が突然船を捨てて去ったのか、そこに至る経緯をどう描くかが、作者の関心であることがわかってくるからである。

 この後のあらすじを手短かに述べると、五人の船員たちはまとめて始末される(殺されるわけではない。死ぬけど)。残った三人-ブリッグズ、サラ、メアリ-は、非常用ボートでメアリ・セレスト号から脱出する。最後はサラだけが生き残って、彼女の手記という本書の設定と平仄が合うようになっている。そこまでのもっていき方は、無理やりだなあ、と思うところもあるが、作者としては、ありそうもなくとも、ありえなくはない偶然の連鎖によってメアリ・セレスト号の謎が生まれた。その成り行きを、ほら、こんな風にも説明できるでしょう、と示してみせたというわけなのだろう。

 もちろん、サラの年齢を変更したり、娘はいなかったことにするなど、事実を改変してしまっているので、真相とはいえないのであるが、メアリ・セレスト号の謎は決して不可解なものではなく、合理的に(かどうかはともかく)説明可能であると実証するのが、ブランドの狙いだったようだ。最後に残ったサラは、その正体を気づかれぬまま、その後の人生を歩むことになるのだが、そんなことがなぜ可能だったのか、メアリ・セラーズという、もともと存在しない人間を存在させた本書の仮定により説明される(ここまで言えば、想像がついてしまうだろうけれど)。そこはミステリ的な趣向で、うまくできている。

 結果的に面白く読んだが、本書がブランドのファンに諸手を挙げて歓迎されるかというと、何とも言えない。しかし、『領主館の花嫁たち』[xi]のような作品に本書を加えてみれば、ブランドの本質は物語作家にあるようなので、テクニカルなパズル・ミステリは、あくまで彼女の一面に過ぎなかったのだろう。

 本書でも、ある意味当然のことながら、もっとも生き生きと描かれているのはメアリ・セラーズで、驚くほど自己中心的で凄まじいばかりの情熱の持ち主。作中でも、デリラとかサロメとか、雌虎(tigress)などと様々に形容されるが、そんな、いかにもブランド的な狂気のヒロインが最後に見せるブリッグズへの壮絶な愛情は、結構胸を打つ。やはり、この作者らしい一編といえそうだ。

 

[i] Christianna Brand, The Honey Harlot (W. H. Allen, 1978).

[ii] トットナム・コート・ロードにあるミステリ専門の古書店で購入したのだが、店名は忘れた。あの店、まだ、あるのだろうか。

[iii] 「クリスチアナ・ブランド著作リスト」『ミステリ・マガジン』392号(1988年12月)、37頁。これはオットー・ペンズラーの作成によるものなのでしょうか。

[iv] 小林信彦『地獄の読書録』(筑摩書房、1989年)、40頁。

[v] 久生十蘭「遠島船」『日本探偵小説全集8 久生十蘭集』(創元推理文庫、1986年)、164-87頁。

[vi] 古いところでは、牧逸馬の「世界怪奇実話」に取り上げられたのが有名である。牧逸馬「海妖」『浴槽の花嫁-世界怪奇実話Ⅰ-』(社会思想社、1975年)、257-81頁。

[vii] 「クリスチアナ・ブランド著作リスト」、37頁。

[viii] ウィキペディアメアリー・セレスト号事件。

[ix] The Honey Harlot, p.7.

[x] Ibid.

[xi] 『領主館の花嫁たち』(猪俣美江子訳、東京創元社、2014年)。