クリスチアナ・ブランド『はなれわざ』

(本書の犯人、トリック等を明かしていますので、ご注意願います。)

 

 クリスチアナ・ブランドの代表作は、『はなれわざ』[i]というのが通り相場だった。

 都筑道夫が日本語版『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』のコラム「ぺいぱあ・ないふ」(1956年9月号)の第一回で本書を取り上げ、「看板に偽りなく文字通り『離れ業』の大トリックがあり、(中略)綿密に伏線が張りめぐらしてある、という近来まれな本格作品」と持ち上げて、さらに「といって大時代な拵えもの臭い本格ではなく、登場人物も生き生きと描かれていて、ユーモラスでしゃれた小説になっている」[ii]と駄目押しした。

 1959年にようやく翻訳が刊行されると、今度は小林信彦が絶賛した。「小説としてのウマサは、クリスティ以上」、「ハイブラウな文章が、トリックをうまくカヴァーしている」、「近年の本格物にはロクなものがないというのが定説ですが、この作品など、ピカ一ではないでしょうか」と褒めちぎって、最後は「今月の話題の中心は、どうやら、『はなれわざ』に決ったようです」と締めくくっている[iii]

 その結果、例えば早川書房の『世界ミステリ全集』第14巻「クリスチアナ・ブランド/ジョイス・ポーター/パトリシア・モイーズ」篇(1973年)でも、『はなれわざ』が選ばれている。1985年に『週刊文春』が実施した「東西ミステリーベスト100」では38位にランクされ、依然、その牙城は揺らがないようにみえた。

 ところが、1979年に『ジェゼベルの死』がハヤカワ・ミステリ文庫に収録されたあたりから、潮目が変わった。同長編は、上記の「東西ミステリーベスト100」でも90位に入って、再評価の機運が高まっていたが、2012年版では、なんと24位に上昇する。それ以上に驚くべきは、『はなれわざ』がランク外に消えた・・・。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ(淀川長治でも、オフ・コースでも、好きなほうを当ててください)。

 これほど劇的な代表作の交代というのは、珍しいのではないか。例えば、エラリイ・クイーンの『Xの悲劇』と『Yの悲劇』、どちらが上かという議論はあるにしても、どちらも甲乙つけがたい傑作と認められてきた。『ジェゼベル』に追い抜かれたうえに、上から蹴落とされて、これでは『はなれわざ』の面目丸つぶれである。

 なにも、ことさら本書の肩をもとうというわけではないが、何でこんなことになってしまったのか。もっとも、こんなことと言っても、実はどんなことにもなってはいない(ここ、内田百閒風)。ただ人気がなくなっただけである。そういえば、「はなれわざ」って、「あはれなり」にちょっと似ているな、などと言っている場合ではない。

 新しい評価としては、例えば『招かれざる客たちのビュッフェ』の解説を書いている北村薫が、『ジェゼベルの死』を「妖刀の切れ味」とまで形容して、ブランドの最高作とする一方、『はなれわざ』のトリックについては「《こんなのあり?》と口走りたくなる」、「《背負い投げの快感より肩すかしの不満》を感じた」と批判している(ただし、同解説は、『はなれわざ』へのこうした見方が変わったという趣旨である)[iv]

 また森英俊も、『ジェゼベルの死』を『緑は危険』、『自宅にて急逝』、『疑惑の霧』とともにブランドの代表作に推し、しかし『はなれわざ』については、それらに比べて「いささか落ちる」、「中心トリックは例によって大胆不敵、盲点をついたものだが、説得力には乏しい」[v]と北村に波長を合わせている。

 面白いのは、北村、森両氏の『はなれわざ』に対する低評価が「リアリティに欠ける」点にあるよう[vi]なのだが、同作以上に非現実的なトリックを駆使した『ジェゼベルの死』に関しては、そうした不満を抱いていないらしいことである。どうやら、『ジェゼベル』は、そのあまりに常識を越えた発想が読み手を幻惑して、リアルとアンリアルの線引きの問題など吹き飛ばすインパクトを有しているらしい。

 ここが、はなはだ興味深いところで、謎解きミステリの新世代の書き手や読者にとって、『ジェゼベル』のように極端なまでに人工的なパズルがむしろ嗜好に合致して、いたくお気に召すらしい。恐らく、かつての都筑・小林世代との違いがそこにあって、旧世代(なんて言っていいのかな)にとって突飛すぎると思えるアイディアが、今日の読者にはツボにはまるのだろう。そして似たようなことは、イギリスにおける評価との差についても言えそうだ。同国におけるブランドの代表作といえば、今も昔も『緑は危険』であって、『招かれざる客たちのビュッフェ』の編纂をしているロバート・E・ブライニーも同長編を「最高傑作という折り紙がつき」と記して、しかしその一方で、『ジェゼベルの死』については、タイトルを挙げるにとどめている[vii]。北村の解説との落差があまりに大きくて、ある意味異様である。

 『ジェゼベル』との比較はそのくらいにして、話を『はなれわざ』に戻すと、本書の特徴は、あえてミステリの古典的トリックを題材にしているところにある。

 舞台はサン・ホアン・エル・ピラータという地中海に浮かぶ架空の小国家で、スペインとイタリアの言語が入り混じっているという設定。登場人物は、コックリル警部を始めとするイギリスからの観光客の一団。コックリルは、イギリスが恋しいと文句ばかり言っている、いかにも島国根性丸出しの性格の悪いオヤジに描かれている。

 容疑者となるのは、片腕を失ったピアニストとその妻、彼に恋している若く美しい女流作家、同じく、かの男に気があるらしい暗く謎めいた女、ロンドンの有名衣裳店のデザイナー(処女作に登場済み)、高価な衣装やバッグに身を固めながら妙におどおどした態度の女性、そして口の上手いツアー・ガイドの七人。作者自ら、この中に犯人と被害者がいると宣言する、いつもながらのブランディッシュ・シチュエイションで小説の幕が上がる。

 ツアー客の大半が観光に出かけた午後、残った上記八人(コックリルを含む)は、ホテルのビーチで水着になって肌を焼いたり、泳いだりと、のんびり時間をつぶしている。ところが、一同がホテルの部屋に戻ると、ひとりだけ先に帰っていたはずの謎の女、ヴァンダ・レインが自室のベッドで胸を刺されて死んでいる。彼女は、どうやら恐喝者で、他の七人の秘密を嗅ぎまわっていたらしい。そう考えると、容疑者はホテルに残った者たちしかいないが、コックリルは読書をしながら、全員の姿を絶えず視界に収めていた。全員にアリバイがある-おかげでコックリルが最初に疑われる-のだが、犯人はいかにしてビーチを離れて部屋に戻り、レインを殺害したのか?

 このあと、ブランド作品に恒例の犯人探し、ババ抜きのごとく順番にジョーカーの札(容疑)が回ってくる。しかし、焦点となるのは、片腕のレオ・ロッドをめぐる男女関係で、彼は作家のルーヴァン・バーカーと浮気中だが、死んだヴァンダはそんな二人の関係を妬ましく思い、一方、妻のヘレンも、夫の浮気はいつものことと冷静を装いながらも、内心穏やかではなかった。

 そして小説も中盤を過ぎたところで事件が大きく動き、ヴァンダとルーヴァンが実は従妹同士で、小説を書いていたのはヴァンダのほうだったことが判明する。しかも化粧を落とした二人は顔が瓜二つで、ルーヴァンが、ヴァンダ殺害後、一人二役のトリックで皆をだましていたのだと告白するのである。古典的なトリックというのは、このことで、この手の人間入れ替わりは、アガサ・クリスティらによって手垢がつくほど繰り返されてきた。

 もちろん、ブランドはそんな半端な解決で終わらせはしない。このあと、ルーヴァンの一人二役が不可能であることが証明され、事件は振出しに戻る。この展開もブランドの十八番で、『ジェゼベルの死』もそうだが、容疑者が犯行を自白しても、それが新たな証拠によって否定され、次の人物に疑いが向かうというプロットである(もっとも『ジェゼベル』では、容疑者が全員自白する無茶な展開となる)。

 このあとクライマックスで、コックリルに告発されたレオが逃亡し、海で溺れ遺体となって戻ってくる。一行はイギリスに帰国するが、死んだと思われていたレオが現れ、真犯人が暴露されて小説は終わる。真相は、ルーヴァンがヴァンダに変装したのではなく、ヴァンダがルーヴァンを殺して、入れ替わっていたというもの。要するに、定石をもう一ひねりしたのだが、これは江戸川乱歩が短編でよく試みた「トリックの裏返し技」であり、またクリスティにも似た作がある(注で書名を挙げます[viii])。

 従って、独創的とはいえないのだが、しかし、この一捻りしたトリックが本書の優れている点というわけでもない。最大の美点は、真犯人のヴァンダ・レインが真相を告白しているにもかかわらず、それが周囲に伝わらない。つまり、ヴァンダは自分がヴァンダ・レインであると自ら認めているのに、コックリル警部も、そして読者も、彼女をあくまでルーヴァンだと思い込むところである。あるいは、そう錯覚させる一種の叙述トリックともいえる。「犯人の告白を誤解する」という、このアイディアにも実は先例があって、エラリイ・クイーンの国名シリーズの一冊である(注で書名を挙げます[ix])。ただ、クイーンの長編は、本書ほどの語り(騙り)の技巧を駆使してはいない。「犯人が真相を語っているのに、名探偵が(読者も)勝手に勘違いする」というアイディアを、精妙巧緻な文章で表現するテクニックこそが本書の最大の長所である(告白の場面で、ヴァンダが、自身を「ヴァンダ・レインである」とは一言も言っていない点に注目すべきである[x])。もっとも、前作の『疑惑の霧』(1952年)も、ほぼ同じ技法で書かれているので、ブランドは意外にワン・パターンの作家ともいえる。

 北村が「そんなのあり」と不満に思ったのは、この入れ替わりのトリックのことだろうが、ルーヴァンに成りすましたヴァンダが、そのままレオと恋人関係を続けるのは、確かに、そんなのあり、と思う。もちろん、このトリックのために観光ミステリの設定にしたわけだが、いくら行きずりの恋といっても、恋人が別人と入れ代わっているのに気がつかないのは、お前の目は節穴か、と言いたくなる。

 ただ、そのあたりはブランドも気にしていたようで、ルーヴァンが変わってしまった、その変化を訝しんだレオが、ルーヴァン(実はヴァンダ)に違和感を抱くようになる主観描写や場面を繰り返し挟んでいる[xi]。また、ルーヴァンが性格や衣服のセンスまで別人になったかに見える描写をしきりと書き込んでいる[xii]

 つまり、この入れ替わりトリックに無理があることは作者も懸念していて、いろいろ言い訳しているのだが、しかし、それよりも問題なのは、事件が起こった後(つまりヴァンダがルーヴァンと入れ替わったあと)も、作者が、殺されたのは「ヴァンダ」[xiii]と、ルーヴァンを「ルーヴァン」と書いていることである。説明がわかりにくいが、死んだのはルーヴァンで、犯人はヴァンダなのだから、ルーヴァンのふりをしている「ヴァンダ」を「ルーヴァン」と書いてはいけない。登場人物がヴァンダをルーヴァンと呼んだり、心の中で考えたりするのは、それは構わない。そう信じているのだから。しかし、作者が、平然と知らぬ顔で嘘を書いてはいけません。

 もっとも、本書の場合、人間の入れ替わりが早い段階で行われるので、「ルーヴァンと呼ばれている女」だとか、「その赤毛の女流作家」などの表現で最後まで通すのは無理だろう。実は、その困難をクリアするために、二人の従妹同士がひとりの作家を演じる設定にしたのかと思ったのだ。どういうことかというと、ルーヴァン・バーカーという作家はヴァンダ・レインとルイーズ・バー(ルーヴァンの本名)がつくりあげた架空の存在なのだから、ヴァンダ・レインもルーヴァン・バーカーなのである。従って、作中でヴァンダのことをルーヴァンと書いてもアンフェアではない、と、こう強弁する目的で、この設定を考えたのかと思ったのだが、真相暴露後の回想場面でも、ヴァンダは、ルイーズのことをルーヴァン(またはルーリー)と呼んでいる[xiv]。ここは「ルイーズ」と呼ばせるべきなのに、これでは、ヴァンダは自分のことをルーヴァン・バーカーとは見なしていないと認めることになってしまう。それでは、ルーヴァン・バーカーはヴァンダのことでもあるのだ、と言い逃れできない。

 まあ、そこまで回りくどいことはブランドも考えていなかったのだろう。こういった問題は、このトリックにはつきもの[xv]なので、本書の欠点とみなすべきか否か。『はなれわざ』の評価は、こうした点をどう捉えるかによっても変わってくるのかもしれない。

 

(追記)

 ブランド(1907-1988年)と同世代作家のニコラス・ブレイク(1904-1972年)に、『メリー・ウィドウの航海』(1959年)という長編小説があって、そのプロットが『はなれわざ』に酷似している。『メリー・ウィドウ』についても感想記事を書いたから詳細は省くが、ブレイクとブランド(名前まで似ていますね)は、ディテクション・クラブでも親しい間柄だったらしい[xvi]ので、この二作品について何かゴシップ的な裏話を期待してしまう。でも、ちょっと人が悪いかもしれませんね。

 

[i] 『はなれわざ』(宇野利泰訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1959年、ハヤカワ・ミステリ文庫、2003年)。

[ii]都筑道夫ポケミス全解説』(小森 収編、フリースタイル、2009年)、432-33頁。

[iii] 小林信彦『地獄の読書録』(筑摩書房、1989年)、40-41、45頁。

[iv] クリスチアナ・ブランド『招かれざる客たちのビュッフェ』(深町眞理子他訳、創元推理文庫、1990年)、558頁。

[v] 森 英俊編著『世界ミステリ作家事典[本格派篇]』(国書刊行会、1998年)、570頁。

[vi] 『招かれざる客たちのビュッフェ』、558-59頁。

[vii] 同、9-10頁。

[viii] アガサ・クリスティ『エッジウェア卿の死』(1932年)。

[ix] エラリイ・クイーン『シャム双子の謎』(1933年)。

[x] 『はなれわざ』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、348-61頁。

[xi] 同、140、178、226、314頁。

[xii] 同、123、218、289頁。

[xiii] 同、217頁。

[xiv] 同、469-85頁。

[xv] エラリイ・クイーン『十日間の不思議』(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)、鮎川哲也による「解説」、417-18頁参照。

[xvi] マーティン・エドワーズ『探偵小説の黄金時代』(森英俊白須清美訳、国書刊行会、2018年)を参照。