クリスチアナ・ブランド『猫とねずみ』

(本書の真相のほか、アガサ・クリスティとジョン・ディクスン・カーの長編ミステリのアイディアについて、注で作品名を挙げているので、ご注意ください。)

 

 クリスチアナ・ブランドの第六長編『猫とねずみ』(1950年)[i]は、名探偵の登場しない「ロマンティック・サスペンス」[ii]である。

 処女作から十年目にしての、この方向転換が何に起因するのか考えると、本書のもつ意味が想像できる。1940年代の長編、とりわけ直近の『自宅にて急逝』(1946年)と『ジェゼベルの死』(1948年)は、アクロバティックな演技を決める、才気あふれんばかりのミステリだった。『ジェゼベル』などは、飛び石伝いに場面々々を点描しながら、読者を煙に巻く語り口でテクニックをひけらかすゲーム小説だったので、もう少しじっくりと登場人物間の関係や、そこから生まれる不安と焦燥を書き込みたいと思ったのだろう。サーカスの曲芸のようなトリック小説から、じりじりと緊迫感をかきたてる心理サスペンスへ方針転換した。というより、むしろ気分転換というところだろうか。1950年代に入ると、同じパズル・ミステリでも、『疑惑の霧』(1952年)、『はなれわざ』(1955年)と、人物描写と雰囲気づくりに凝るようになって、物語のテンポもゆったりしてくる。作家的成熟ということかもしれないが、『猫とねずみ』は、そうしたブランド・ミステリの変化の分岐点にあたる長編小説である。

 ロンドンにある雑誌社の婦人雑誌編集部に、アミスタを名乗る読者からの投書が届く。手紙はウェールズのスワンジーから送られてきたもので、書き手は、山間の屋敷に住むカーライアンという男性に恋心を抱いているらしい。身の上相談係のカティンカ・ジョーンズは、次々に送られてくる手紙から、アミスタの恋の行方に興味を抱くが、彼女がついにカーライアンに結婚を申し込まれたと書いて寄こすと、アミスタに直接インタヴューしようと思い立つ。自身ウェールズ生まれだということもあって、休暇を使ってスワンジーを訪問することを決める。

 ところが、イギリス西部の谷間を超え、橋もかからぬ川をボートで渡ってまで到着したカーライアンの屋敷で、カティンカは、驚くべき事実を知らされる。アミスタへの面会を求めると、けげんな顔の当主は、そのような人物はいないと告げるのだった。

 なかなか魅力的な書き出しだが、いかにも女性作家らしいのは、このあと偶然から屋敷に滞在することになるカティンカが、次第にカーライアンに魅かれていく。恋愛要素が強まる一方で、正体不明のアミスタとカーライアンの屋敷の異様な空気が彼女の不安を煽っていく。こうした展開は、いわゆるゴシック・ロマンス風で、本書はそのパロディとも取れるが、案に相違して、このあとすぐに隠されていた秘密が露わになる。カーライアンには事故で顔にひどい傷を負った妻がおり、人目につかないように屋敷に隠れ住んでいたのである。

 妻が登場する場面の彼女の容貌の描写[iii]は、北村薫が「生理的に不快」[iv]だったと書いている通りで、あまり読み返したくない。しかし、物語はここからが本題で、読者が当然予想するように、このカーライアン夫人は本物なのか、別人が入れ替わっているのではないか、との疑惑が浮かんできて、カティンカ自身、その疑いにとらわれていく[v]。このあたり、セバスチャン・ジャプリゾの『シンデレラの罠』(1962年)を連想したり、アガサ・クリスティの長編ミステリ(注で書名を挙げます。ネタバレになりますので、ご注意ください[vi])を思い浮かべたりするが、実はそうはならないのがブランドである。

 ほとんど口もきけないカーライアン夫人のアンジェラと顔を合わせたのち、カティンカが、彼女につきまとうチャッキー警部とともに屋敷を立ち去ろうとすると、突然アンジェラが屋敷を飛び出していくのが目にはいる。彼女は屋敷裏の山道を一心に駆け上がっていくと、あとを追うカーライアンやカティンカを振り切って、断崖の上から身を投げて墜落死してしまう。

 そのあと、物語の進展にギアがはいって、アンジェラの正体や、依然不明なままのアミスタの存在をめぐって、次々に意外な手がかりが見つかり、様々な仮説が浮かんでは消えていく。サスペンス・ミステリとはいえ、このあたりのプロットは、まさにブランドならではの手綱さばきで、目まぐるしく嘘と真実が交錯して読者を翻弄する。大まかな粗筋は大体記憶していたので、正直なところ、積極的に再読する気にならなかったのだが、読み始めてみると、ことに後半は大変面白い。コックリル警部シリーズと比べても遜色ないほどだ。

 ただ、結末が意外だとか、仰天する真相が隠されているとかいうことはない。要するに、本書は「青髭もの」なのだ。次々に女性を口説いて結婚しては、殺して財産を奪うという常習的殺人鬼を描いた小説で、アミスタとアンジェラの正体をめぐる謎で引っ張っていきながら、最後は、カーライアンが結婚詐欺と殺人を繰り返すサイコ的犯罪者だったというプロットなのである。

 この筋書きは、本書の数年前にジョン・ディクスン・カーが書いた長編ミステリ(注で書名を挙げますが、ネタバレにはなりません[vii])がヒントになっているのかもしれないが、そうだとしても、いかにもブランドらしいプロットづくりに個性が発揮されている。

 ブランドのミステリは、全般的にみて、独創的なトリックが使われるわけではない。犯人も特別意外なわけではないことが多い。その代わり、容疑が順に登場人物にふりかかっては晴れていく展開で読者を惑わせる仕組みになっている。もっとも、それだけなら大して面白くないのだが、最後に真犯人が明らかになるところで、あっと言わせるアイディアが飛び出して、一気に作品全体が引き締まる。終わりよければ、の典型で、幕切れの鮮やかさでは他の追随を許さないところがある。『自宅にて急逝』、『ジェゼベルの死』、本書のあとの『疑惑の霧』(1952年)、『はなれわざ』(1955年)など、ブランドの全盛期の諸作品は、いずれも、こうした卓抜な技巧が発揮された名品である。短編小説でも同様の妙技が披露されるのが常で、名人と言われるのも無理はない。ただ、技巧的ではあるが、クリスティのような大胆な、もしくは、あっけらかんとした「おおらかな」トリックとは異なり、ルビンの壺のように黒白が反転して、今までと違った画像が見えてくる、繊細なものである。ありふれた題材とみせかけて、こちらの隙をついて背負い投げを食わせるところは、やはり戦後作家ないし「新本格派」ということなのだろう。

 『猫とねずみ』には、そこまでのアイディアは用いられていないので、同時期のパズル長編ほどの感銘は受けないが、ブランドのミステリ作法について、いろいろ考える材料をくれる小説である。

 ところで、小説のラストで、カティンカはどうやらチャッキー警部と恋仲になったらしい。ゴシック・ロマンスを一ひねりして、一周回ってこうなったとも受け取れるし、それとも、最後は定石どおりということだろうか。

 

[i] 『猫とねずみ』(三戸森 毅訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1959年)。

[ii] 『招かれざる客たちのビュッフェ』(深町眞理子他訳、創元推理文庫、1990年)、ロバート・E・ブライニー編「クリスチアナ・ブランド書誌」、538頁。 

[iii] 『猫とねずみ』、94頁。

[iv] 『招かれざる客たちのビュッフェ』、「解説」(北村 薫)、555頁。

[v] 『猫とねずみ』、192頁。

[vi] 『満潮に乗って』(1948年)。

[vii] 『別れた妻たち(青ひげの花嫁)』(1946年)。