クリスチアナ・ブランド『ハイヒールの死』

(本書の内容に立ち入っています。ただし、犯人は明かしていません。)

 

 クリスチアナ・ブランドは、日本ではカリスマ的な人気を誇っているようだ(欧米のことはよく知らない)。

 もっとも、アントニー・バウチャーが言った「ブランドに匹敵する作家を探すとすれば、クリスティ、クイーン、カーのような偉大な巨匠たちのなかに見つけるしかあるまい」という言葉は有名で、あっちこっちで目にする[i]

 ブランドを最初に紹介したのは、都筑道夫であるようだ。『ミステリ・マガジン』に連載した「ぺいぱあ・ないふ」の第一回(1956年9月号)で『はなれわざ』を取り上げて、「近来まれな本格作品」、「ユーモラスでしゃれた小説」[ii]と、その後のブランド評価を先取りしたかのような慧眼を発揮している。一年後に、今度は『疑惑の霧』(1957年8月号)を選んで、やはり高い評価を与えている[iii]

 最初の翻訳は1958年の『緑は危険』(1944年)[iv]だったが、翌年、いよいよ『はなれわざ』(1955年)[v]が出版されて、大きな反響を呼んだ。

 当時の小林信彦の批評を読むと、「ハイブラウな文章が、トリックをうまくカヴァーしている」と都筑に同調し、「近年の本格物にはロクなものがないというのが定説ですが、この作品など、ピカ一ではないでしょうか」とほめちぎっている[vi]

 こうした評判のせいもあってか、1958-59年の二年間に、ブランドの1957年以前の長編ミステリは、一冊を除き八作すべてが翻訳刊行されるという快挙を達成している[vii]。このときが、ブランドの第一次ブームといえそうだ。もっとも、『はなれわざ』を大絶賛した小林だったが、その後のブランド長編には、あまりそそられなかったようで、最後に『ゆがんだ光輪』を取り上げた際には、「この小母さん、結局、大したことないんじゃないかしら」[viii]と、ブランド・ファンが激怒しそうな一言を残している。

 次が1970年代後半で、山口雅也が火付け役となった。とくに氏が高く評価したのが、実は、上記で一冊だけ残っていたという『ジェゼベルの死』(1948年)である(1960年になって翻訳されている。これが、短編を除くと、ハヤカワ・ポケット・ミステリでの最後のブランド作品)。同書がハヤカワ・ミステリ文庫で復刊されたときには、熱量の高い解説を書いて、ブランドは、ニコラス・ブレイクらの「新本格派」に括られているが、むしろクイーン、カーら黄金時代の直系だと定義し、「巧妙な伏線、ミスディレクション、謎づくり、レッド・ヘリング操作等々」に抜群の冴えをみせると称賛したうえ、『ジェゼベルの死』のトリックに関しては、「カーもチェスタトンも蒼くなるような悪魔的発想のトリック」と、独特の形容で最大級の賛辞を寄せた[ix]

 そのおかげか、1991年に早川書房が発表した「海外ミステリ・ベスト100」では、『はなれわざ』(31位)とともに『ジェゼベルの死』(65位)がランク・インしている[x]

 そして、第三次ブームと呼べるのは、短編集『招かれざる客たちのビュッフェ』[xi]が翻訳されてからだろう。それ以前から、ブランドは短編の名手として知られ、とりわけ「ジェミニィ・クリケット事件」は、早川書房の『37の短篇』[xii]に収録されると、以後、短編ミステリの傑作として知られるようになった。しかし、上記短編集で、主要短編が一冊にまとめられたことで、ブランドが書く短編ミステリの凄味が多くの読者の脳裏に強烈に刻み込まれたといえる。

 こうして、現在では、とくに『ジェゼベルの死』と「ジェミニィ・クリケット事件」によって、クリスチアナ・ブランドの名声は確たるものとなり、クリスティのライヴァルもしくは後継女王のひとりと称されるまでに至った。山口雅也を始めとする「新本格派世代」作家による高い支持がそうした印象を強めているようにみえる。

 しかし、その割には、『ゆがんだ光輪』以降の長編は、少しずつ翻訳が進んでいるとはいえ、作品数がそれほど多くないにもかかわらず、未訳作品も残っている。人気作とそれ以外との差が大きいようにも思える。『猫とねずみ』や『ゆがんだ光輪』などは、そう読まれているようには見えず、小林の「大したことないんじゃない」発言も、その意味で、まんざら的外れともいえない。

 デビュー作の本書も、さほど取り上げられることも、論じられることもないようである。ということで、ようやく『ハイヒールの死』の話に入る。

 本書の舞台はロンドンの服飾店で、登場するのは若い美女ばかり。華やかで明るくユーモアに富んだ作風に特色が出ている。しかし、その裏では、恋愛や昇進をめぐる女の嘘や嫉妬がドライに描かれ、女性作家ならではの観察眼と文章力が光っている。この舞台設定が、実際に作者が経験した職業体験に基づいている[xiii]ことも、よく知られた事実だろう。

 販売員のレイチェルとヴィクトリアが帽子の汚れ落としに買ってきた蓚酸が、昼食のカレーに入れられて、それを口にした仕入部主任のマグダ・ドゥーンが死亡する。店舗のオーナーであるフランク・ベヴァンはフランスにも店をもち、その新責任者として候補になっていたのがドゥーンと、秘書のグレゴリイだった。おまけに、ベヴァンは女に手が早いことで有名で、グレゴリイもドゥーンも彼の愛人である。他にも、フランス行きを熱望していた販売部のイレーネ、やはりベヴァンの恋人だったモデルのアイリーン、ドゥーンに恋人を奪われた、もう一人のモデルのジュディなど、様々な人間関係を抱えた容疑者の美女の群れに飛び込んでくるのが若い警部のチャールズワースだが、この探偵がまた惚れっぽい好男子で、ヴィクトリアを見た瞬間に恋心を抱く。もっとも、ヴィクトリアには画家の夫がいるので、探偵が捜査そっちのけで恋愛に身を焦がすのかと思うと、そういうわけでもない。警察官と容疑者の恋愛という、ミステリではお定まりの味付けと見せて、そうさせないのもブランドの皮肉なのだろうか(例えばジョン・ディクスン・カーに対する)?

 殺人のあった日の朝、ベヴァンは、皆の予想に反し、ドゥーンではなく、グレゴリイをフランスに送り出す決定をしていた。望んでいたはずのポストからはずされたドゥーンのほうが殺されたことで、殺人動機があやふやになって、しかも、蓚酸を手に入れる機会があった容疑者は限られている。この動機と機会について、チャールズワースはいろいろと推理はするが、決定的な手がかりを見つけられない。さて、真相は?

 登場人物の性格はある程度書き分けられているが、ベヴァンともうひとり、セシルという同性愛者のマネージャー兼デザイナーの男性を除くと、容疑者のほぼ全員が若い女性で、しかも、口調が似通っているので、誰と誰がどういう関係になっているのか、なかなか覚えていられない(年のせいだって?)。しかも、彼女たち、いずれも、お互いに「あなたのこと、大好きよ」などと気軽に口にするが、当人がいなくなると、とたんに「何よ、あいつ」とか言い出すので、人物描写が生き生きしているというか、何か生々しい。この辺のあけすけな会話と適度な陰湿さが、実体験という以上に、ブランド独特のタッチである。

 ミステリとしての特徴は、少ない登場人物の間で容疑が転々としていく。誰もが、どこかしら怪しい振る舞いや発言をするので、読者の疑惑を一人に絞らせない書き方で、もちろんミステリの手法としてはごく普通なのだが、後年のブランドの、あの大胆かつ狂気じみたプロットは、まだ見られない。しかし、犯人逮捕の直前に、チャールズワースがヴィクトリアを相手に、容疑者の一人ひとりを犯人に名指ししては否定して、はぐらかす発言を重ねる[xiv]あたりに、読者を手玉に取るテクニックの兆しが垣間見られる。

 犯人は意外というほどではないが、ブランドの持ち味として、上述のように、限られた容疑者が順繰りに犯人であるかのような言動を繰り返す。これでもか、といわんばかりにひっくり返して読者の鼻面を引き回すプロットづくりに手腕があるので、論理性よりも、読み手の想像の上をいくアイディアが捻り出せるかどうかに、作品の優劣がかかってくる。本書では、そうした秀逸なアイディアを繰り出すには至っておらず、登場人物が個々の思惑で行動することで事件が紛糾する、そのプロットで犯人を隠す仕掛けに頼っている印象である。

 推理の手がかりのひとつは、人物の動きに関するもので、洋装店の間取りがわからない-見取り図は付いていない-と、チャールズワースの説明を聞いても飲み込みにくい[xv]。もうひとつは犯人の失言の手がかりだが[xvi]、こちらもそこまで効果的ではない。結局、一番大きな手がかりといえるのは犯行動機に関するものだろう[xvii]。その意味で、犯人が意外ではない代わりに無理がない。あるいは、登場人物リストを見るかぎり、「妥当な」犯人といえそうである。

 今回再読して、例によって、内容をまったく覚えていなかったので、初読時のように犯人を予想しながら読んだが、セシルは犯人ではないとわかっていたので、そこは初読時と勝手が違った。犯人でないというのは、この男、その後のブランド作品に登場するからである[xviii]。登場人物を別作品で使いまわすのもブランドの好むところ-彼女に限らないが-で、チャールズワースも、この後のコックリル警部シリーズに顔を出す[xix]。あまり多用すると、順番通りに読んでいない読者には、犯人の予想がつけやすくなるという弊害もありそうだが、ファンにとっては楽しみの一つということだろう。それに、このセシルというキャラクターは、確かに妙に印象に残る。

 

[i] クリスチアナ・ブランド『緑は危険』(中村保男訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1978年)、山口雅也による解説、303頁、森 英俊編著『世界ミステリ作家事典[本格派篇]』(国書刊行会、1998年)、568頁、クリスチアナ・ブランド『薔薇の輪』(猪俣美江子訳、創元推理文庫、2015年)、福井健太による「解説」、311頁。

[ii]都筑道夫ポケミス全解説』(小森 収編、フリースタイル、2009年)、432-33頁。

[iii] 同、475頁。

[iv] 『緑は危険』(中村保男訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1958年)。

[v] 『はなれわざ』(宇野利奏訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1959年)。

[vi] 小林信彦『地獄の読書録』(筑摩書房、1989年)、40-41頁。

[vii] 『疑惑の霧』(1958年)、『ハイヒールの死』、『猫とねずみ』、『自宅にて急逝』、『切られた首』、『ゆがんだ光輪』(1959年)。

[viii] 『地獄の読書録』89頁。

[ix] 『ジェゼベルの死』(恩地三保子訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1979年)「パズラーの限界(リミット)に挑戦」、291-95頁。

[x] 『ミステリ・ハンドブック』(早川書房編集部編、1991年)、24頁。

[xi] 『招かれざる客たちのビュッフェ』(深町眞理子他訳、創元推理文庫、1990年)。

[xii] 『37の短篇』(世界ミステリ全集第18巻、早川書房、1973年)。言うまでもないが、同書収録の「ジェミニィ・クリケット事件」は、『招かれざる客たちのビュッフェ』収録のヴァージョンと結末が異なる。ほとんどの人が前者のほうを好むようだ。

[xiii] 『緑は危険』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、307頁

[xiv] 『ハイヒールの死』、390-98頁。

[xv] 同、404-407頁。

[xvi] 同、412-13頁。

[xvii] 同、403-404頁。

[xviii] 『はなれわざ』。

[xix] 『ジェゼベルの死』ほか。