アーサー・コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの回想』

(「最後の事件」のネタバレをしています-断る必要ないでしょうけれど。)

 

 『シャーロック・ホームズの冒険』に続けて、『シャーロック・ホームズの回想』[i]を読み返してみた。こちらも数十年ぶりである。そしてやはり、大変楽しめた。

 『冒険』は、1891年から翌年にかけて『ストランド』誌に連載された12の短編を1892年のうちに出版したもので、続く『回想』は、1892年から翌年まで、やはり同誌に連載された短編11編を1894年に刊行している(ただし、「ボール箱」は内容がどぎついという理由-切り取られた耳が郵送されてくるという発端-で『回想』ではカットされ、後に『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』(1917年)に収録された)。以上は書くまでもない周知の事実だが、つまり、『冒険』と『回想』は、ほとんど連続して発表、公刊された短編集で、後続の断続的に刊行された短編集とは少し異なり、二冊でひとつのクロニクルをなしている。『回想』のラストを飾る「最後の事件」で、ホームズに飽き飽きしたドイルが、わざわざモリアーティ教授というミステリ史に残る名悪役まで創造して、強引にホームズを始末しようとしたからで、一旦は完結したシリーズ第一期とでも呼べるものである。ま、こんなことも改めて記す必要のないことだが。

 一般的に『回想』は『冒険』に比べると、一段落ちるとされてきた。そもそも、ミステリという小説形式自体が長短編を問わず、作品数が増えれば反比例して質が低下する、というのが定説[ii]になっている(ただし、パズル・ミステリの場合)。ホームズものもその例にもれず、「赤毛連盟」、「唇のねじれた男」、「まだらの紐」などが収められている『冒険』に対して、『回想』には、これといった代表作がない。せいぜい「シルヴァー・ブレイズ号事件」(これは、やっぱり「銀星号事件」というタイトルがしっくりくる)くらいだろう。

 もっとも、瀬戸川猛資によると、「赤毛連盟」や「まだらの紐」はちっとも面白くないとのことで、氏のホームズものの評価をみると、『冒険』からは一編も採り上げられていない。随分徹底したものだが、いかにも瀬戸川らしい捻った見方である。『回想』からは、二編挙げられているので、氏にとっては、『回想』のほうが『冒険』より上ということになるのかもしれない。その二編というのも「グロリア・スコット号事件」と「マスグレーヴ家の儀典書」というのだから、やってくれますなあ[iii]。氏の好みは要するに、謎解きよりも怪奇冒険小説風の短編にあるということのようだが、確かにドイルの小説の読み方としては、それも正しい読み方といえる。しかし、その一方で、『回想』の諸編をみると、パズル・ミステリの短編としては、『冒険』よりもこなれてきているとも感じられる。

 その典型が「シルヴァー・ブレイズ号事件」で、例の「犬が吠えなかったのがあやしいのです」という名言を始めとして、いくつもの伏線が張られて、物的データに基づくホームズの推理も鮮やかである。ホームズ人気で、各雑誌に短編ミステリがこぞって連載されるようになり、競争も激しくなって、おかげでドイル自身のミステリを書く技量も向上した結果なのだろうか。これなら、1920年代のアガサ・クリスティやF・W・クロフツの時代の作品と比べても遜色ないようだ。

 同じようなことは、例えば「ライゲートの大地主」にも言えて、なかなか鋭い推理がみられる(ただし、被害者の衣服に銃の焦げ跡がついていないとか、目撃証言にあった謎の人物の足跡が見当たらないとかの重要なデータがきちんと示されていない[iv]、という欠点もある)。が、本作で面白いのは、病み上がりという設定のホームズが、同行の警部が余計な発言をするのを止めようと、いきなりめまいを起したふりをしたりして、クサい芝居をすることで、そのあとの場面では、突然テーブルを引っくり返しておいて、ワトスンのせいにする。まるで小学生だと思っていると、それらがすべて犯人の証拠をつかむための演技とわかる。最後は犯人に首を絞められて、あわや名探偵お陀仏か、となるが、ホームズが臨機応変に策を練るプロットが面白く、彼のお茶目さかげんがよく表れている。

 しかし、実をいうと筆者が一番感心しているのは、最後から二番目の「海軍条約文書」である。なぜか、この短編のみ前後編に分けて掲載されており[v]、それだけ作者も力を入れたようにも見える(単に枚数が増えただけかもしれないが、そのこと自体が、力を入れた証拠とも取れる)が、それが優れていると思う理由ではない。

 ワトスンの古い友人である外務省の役人が、保管していた重要な外交文書を盗まれるという変事が起こる。彼、フェルプスが仕事をしていた役所の個室は、ドアを出た通路が少し先で二つに分かれて、ひとつは小使い室、もうひとつは裏口に通じている。フェルプスが一休みして小使い室にコーヒーを飲みに行くと、個室に通じているベルが鳴り、不審に思ってあわてて戻ってみると、机の上に広げていた書類がなくなっている。公僕にあるまじき、実に粗忽な男だが、家に戻ったフェルプスは、ことの重大さに打ちひしがれ、昏倒してしまう。そのまま自室に運ばれ寝込んでしまうが、今度は深夜に何者かが寝室に忍び込もうとする。一体、病に伏したフェルプスを襲撃する目的とは何なのか。

 というストーリーなのだが、盗難があった役所の見取り図[vi]が掲載されていて、謎解きミステリでお馴染みの、重要そうに見えて、さして重要ではない図解付きというのは、このあたりから始まったのだろうか(それにしても、この役所とやらの間取りを見ると、長々と続く通路の両側に部屋ひとつないようだが、一体どうなっているのだろう)。もっとも、ベルが鳴った理由についての推理はなかなか面白いが、盗難事件そのものは、やっぱり、わざわざ見取り図を付けるほどのからくりがあるわけではなかった。

 面白いのは、犯人がフェルプスの寝室に忍び込もうとした理由で、ホームズが単純だが見事な推理をみせてくれる。盗まれた文書のありかについても皮肉味があり、良い出来だと思うのだが、本編を褒めた文章はみたことがない。欧米の傑作集にも選ばれていない模様だ。残念なような、自分の批評眼のなさに自信をなくすような・・・。でも、ストーリーのなかで謎をつくるなど、なかなかの佳作だと思いますけどね。トリックより謎を中心に据えたところも現代的である(我ながら、必死になってるなあ)。ホームズ・シリーズのベストのひとつではないかと思う、・・・いやっ、断言する!(引くに引けなくなりました。)

 とはいえ、本短編集の白眉といえば、やはり「最後の事件」だろう。昔読んだときは、独立した短編とも言い難いし、単なる付け足しか、おまけの一編としか思っていなかったが、読み返してみると、なかなか訴えかけてくるものがある。

 とりわけ、嘘の伝言におびき出されて宿に戻ったワトスンが、騙されたと気づいて急ぎライヘンバッハの滝に引き返すと、すでにホームズの姿はない。残された足跡からホームズとモリアーティの行方を辿って、滝つぼをのぞき込む場面の臨場感と切迫感はさすがである。そして、岩の上に残されたホームズの別れの置き手紙も、彼らしくもない(?)人間味をのぞかせて、ちょっと胸が熱くなる。ホームズ譚に夢中になったイギリスの多くの読者が、まるで親しい友を亡くしたかのようなショックを受けたというのもわかる気がする。

 いかにもといったモリアーティ教授の造形もいい。ホームズとの対決の場面は、まさにヒーロー探偵対悪の天才犯罪者の定番をつくったといえるもので、ホームズもモリアーティも相手の言葉を聞いているふりをして、全然聞いていない偉そうな態度が最高だ。それに、モリアーティは元数学教師で、ヴァン・ダインの代表作もそうだが、数学界における犯罪者発生率の高さは一体どうしたことか(考えてみると、これら二作ぐらいしか思いつかないのだが、あまりにもキャラクターが強烈すぎる)。確かに、数学者というのは得体が知れぬ存在で、何を考えているのかわからない恐ろしさがある(文系人間からの、ひどい中傷だ)。

 ともあれ、「最後の事件」は、ホームズ・ファンならずとも忘れがたい、ある意味、シャーロック・ホームズ短編の最高峰と言いたくなる印象的な一編である。

 

[i]シャーロック・ホームズの回想』(大久保康雄訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1981年)。

[ii] 江戸川乱歩英米短編探偵小説吟味」『続・幻影城』(光文社、2004年)、37-38頁参照。

[iii] 瀬戸川猛資「原初の記憶をたどって-『四つの署名』」『夜明けの睡魔-海外ミステリの新しい波』(早川書房、1987年)、239-43頁。

[iv]シャーロック・ホームズの回想』、193頁。

[v] 『ストランド』の1893年10月号および11月号に分載されたらしい。『シャーロック・ホームズの回想』、訳者による解説、369頁。

[vi] 同、294頁。これがまたへたくそな図なのだが、原作に付いていたものなのだろうか。