ジョン・ディクスン・カー『三つの棺』(その2)

(本書のトリックのほか、G・K・チェスタトン「マーン城の喪主」の内容に触れています。)

 

 松田道弘は、ジョン・ディクスン・カーの『三つの棺』(1935年)[i]で作者がやりたかったことについて、次のように述べている。

 

  「カーがやりたかったのは、この作品の最後でフェル博士に棺の中の死体を指ささ 

 せて、『この男が犯人だ』と大見得を切らせたかったのだと思う。つまり死人が犯人 

 という飛び切りの意外性を狙ったのだろう。」[ii]

 

 なるほど、確かにクライマックスの場面としてはそうかもしれないが、犯人の着想としては、違った見方もできるかと思う。本書では、二件の不可能殺人事件が相次いで起こるが、二人の被害者は同時に犯人でもある。すなわち二重の「被害者=犯人」というアイディアである。詳しくいえば、最初の事件の犯人がもう一つの事件の被害者で、その犯人が最初の事件の被害者である(何言ってんだ)。決闘で相打ちになったようなものだ、と別稿で書いた。

 G・K・チェスタトンの短編に「マーン城の喪主」というのがある。ブラウン神父のシリーズの一編で、決闘をテーマに、「被害者=犯人」のトリックを用いている。『三つの棺』は、アイディアは異なるが、発想をそこから得ているのではないか。決闘でともに倒れた二人の死体を別々の場所に運べば、不可思議な連続殺人のように見えるだろう。同じ銃で撃たれているとすれば、不可解状況の度合いはさらに増す。

 本書を構成する「密室」と「足跡のない殺人」の謎は、上の基本アイディアの副産物のようなもので、しかも、一般的に『三つの棺』の代名詞とされている密室殺人のトリックよりも、後者のトリックのほうが格段に優れている(トリックの原理は両方とも一緒であるが)。

 前者は、始末に困る小道具(大道具?)を用いねばならず、ややこしい図解まで提示して、作者は面白がっているが、トリックとしては実に不格好だ。犯人消失の謎が素晴らしいだけに、長々とした複雑な解説で、どうしても見劣りしてしまう。この密室トリックの唯一の長所は、「密室講義」をミスディレクションに用いたことぐらいだろう。

 それに比べると、雪の街路を歩いていた男が銃声とともに倒れ、傍らに拳銃が落ちているが、周囲には本人の足跡以外、真っ白な雪が広がっている、という謎には、大方の読者の予想を越えた解決が用意されている。とりわけ、銃声とともに目撃者が耳にした、「二発目はお前に」[iii]、という叫び声の意味が明らかになる瞬間は、思わず目からうろこが落ちるというか、目やにが落ちるというか、自分で自分の横っ面をひっぱたきたくなる。一瞬で被害者が犯人へと反転し、すべての謎が解ける爽快感は真夏のビーチで飲む生ビールどころではない。これこそパズル・ミステリを読む快感というものだろう。

 この叫び声の謎の解明がもたらす驚きは、いわば殺人の順序に関する錯覚がもたらす意外性だが、ただし、その時間的錯覚というアイディアを実現するトリックとなると、ここでもまた、とたんに手際が悪くなる。

 複数の証人が、それも警官まで含めて、そろって狂った時計で時間を誤認するというのは、やはり、あまりにお手軽過ぎた[iv]。作者も、「遅かれ早かれ、このことには誰かが気づいただろう。もう気づいた人がいるかもしれない」[v]、とフェル博士に言わせているが、これでは不可能殺人も形無しである。

 松田は、本書について「まるでヤジロベエ的なきわどさ」[vi]という形容をしているが、けだし言い得て妙である。密室トリックも、この「時間の錯覚」トリックも、まことに危なっかしい。命綱なしで空中ブランコをしているようで、ハラハラする。正直、欠陥が大きすぎて、『三つの棺』は傑作なのか、失敗作なのか、見極めが難しい。そこがまたカーらしいと言えなくもないが。

 とはいえ、根本の二重の「被害者=犯人」の着想に、あれこれ尾ひれをくっつけて、ここまで見事な不可能犯罪ミステリに仕上げた作者の技巧は、やはり天才的と認めざるを得ない。大小様々な謎が、次から次へと途切れることなく繰り出されて、解決直前になっても、まだ不可解な事件が起こるので、こんな謎の供給過多で収拾つくのだろうか、と思うのだが、結末を読むと、これがまた、すべて説明されつくしてしまう。

 これ以上の謎とインポッシブル・クライムに満ちたパズル・ミステリが今後登場することは、期待できそうにない。

 

[i] 『三つの棺』(加賀山卓朗訳、早川書房、2014年)。

[ii] 松田道弘『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、228-29頁。

[iii] 『三つの棺』、180頁。

[iv] 「密室」における小道具の扱いと、「足跡のない殺人」における目撃者の時刻の誤認についての問題点は、江戸川乱歩がすでに戦中に指摘している(例の戦前の悪訳に基づいてであるが)。さすがに乱歩大人、見逃していない。江戸川乱歩『書簡 対談 座談』(講談社文庫、1989年)、154-55頁。伝説の井上良夫との往復書簡から。

[v] 『三つの棺』、356頁。

[vi] 松田前掲書、227頁。