エラリイ・クイーンは手がかりが気がかり-「国名シリーズ」+(プラス)

(「国名シリーズ」と『途中の家』の犯人に言及していますので、未読の方は、ご注意ください。)

 

 エラリイ・クイーンの小説を読み直していたとき、『ギリシア棺の謎』をめぐって難解な議論が戦わされていたことを知った。飯城勇三の『エラリー・クイーン論』[i]を通じてだったが、もっと以前には法月綸太郎の「一九三二年の傑作群をめぐって」[ii]というエッセイ論文を読んでいたことを、あとから思い出した(内容については、正直、わけがわからなかったが)。

 『ギリシア棺の謎』以来、メタ犯人の登場によって、ミステリの手がかりが作者による真の手がかりなのか、犯人による偽の手がかりなのか、決定不可能になったという[iii]

 はあ、そうでしたか、と言うほかないが、エラリイ・クイーンのミステリは名探偵自身が作者である。この点に着目した場合、「作者=探偵」と「手がかりの真偽」の関係はどうなるのだろうか。

 それが今回のわたしの疑問である。

 こんな疑問をもったのは、S・S・ヴァン・ダインのミステリが、ワトスン役のヴァン・ダインが作者でもあることに改めて興味を抱いたからで、作中の探偵が作者であるエラリイ・クイーンの小説と構造が似ている、というか、クイーンがヴァン・ダインからヒントを得て「作者=探偵」のアイディアを思いついたのだろう。

 

 ミステリにおいて、犯人が探偵を欺く偽の手がかりを残した場合、作品のなかの探偵にはその真偽の判別がつかない(ただし、飯城は、犯人は疑いを逃れるためというメリットがあってこそ偽の手がかりをつくる等々のルールを定めることで、作中探偵にも手がかりの真偽判定は可能だとする[iv])。一方、作品の外部にいる作者は、当然、どの手がかりが真で、どれが偽ものであるかわかっている(わかっていなかったら、おかしい)。

 しかし、エラリイ・クイーンのミステリは作者のエラリイが作中の探偵を務めているのだから、探偵エラリイに手がかりの真偽の判別がついていないとすれば、作者のエラリイにも不可能である。それとも作者のエラリイは手がかりが真か偽か、知っているはずだから、探偵エラリイにも真偽の判別は可能ということだろうか。

 こんな空論にかかずらっていても(空論って言っちゃったよ)、らちが明かないので、クイーン作品のもうひとつの根本的特徴を考慮に入れると、エラリイ・クイーンのミステリは、名探偵エラリイが現実の事件を解決して、作家として小説化し公表したものである[v]。つまりエラリイは作者といっても、現実に起きた事件を書いているのであるから、手がかりは創作したのではなく発見したのである。従って真偽を前もって知ってはいないという設定である(設定って言っちゃったよ)。

 クイーンのミステリが、実際に彼が遭遇した事件を描いているということは、事件そのものは世間に知られていたわけで、J・J・マックの「まえがき」からも、それは明らかである[vi]。ということは、アガサ・クリスティの『アクロイド殺害事件』(1926年)のように、事件の語り手が事実をきちんと書いているかどうかという問題をまず解決しておかなければならない。クイーンの場合、小説は三人称形式で書かれているが、作者がエラリイ自身なのだから、彼が本当に事実だけを書いているのか疑ってみる必要がある。例えば迷宮入りした事件を、さも自分が解決したかのように自慢しているのではないか、と。

 この疑惑についてはマックのまえがきがあることで一応否定されており[vii]、そもそも、そんな事実に反する嘘を書いて得意がっても自分が馬鹿に見えるだけだから、そう考えれば、少なくとも事件の概要と犯人の正体については事実を歪曲することなく忠実に記していると考えてよいだろう。

 ただ本当にエラリイの推理によって解決したのかどうか、そこは断言できない。通常事件の報道は、単に警察が犯人を逮捕したとしか伝えないだろう。誰それの推理によって、とかは報道しない。マックはエラリイの功績だったと言っているが、エラリイの舌先三寸に騙されているだけかもしれない。しかし、これについても、実際は推理もなにもしていないのに、あたかも自分の力で事件を解決したかに書いておいて、もしもばれたら恥ずかしすぎる。かつての捜査関係者に暴露されでもしたら死にたくなるだろう。そんな見栄で名探偵を気取ったところで空しいだけだから、とりあえず事件の解決はエラリイの推理によるものだったと仮定しよう。

 だが、その推理が正しいかどうかは別の話である。

 作中探偵には手がかりの真偽の区別がつかないのだとすれば、いや飯城の主張のとおり、推理によって識別可能だとしても、判明した犯人が真に犯人であるとは限らない。たとえエラリイの推理によって犯人が捕えられ、法廷で裁かれ処罰されたとしても、そうして事件が解決したとしても、彼または彼女が犯人ではない可能性は常に存在する。それは現実の犯罪で起こりうることだからである(あ、現実って言っちゃった)。つまりクイーンの小説が彼の現実世界で起きた事件を描いたものであるとすれば、その現実世界に「作者」は存在しない。作者に近い存在は犯人であるが、逮捕された犯人が本当に犯人であるかどうか、犯人以外の他者にはわかりようがない。わたしたちの現実世界でそうなのだから、エラリイの現実世界でも同じことである。手がかりの真偽を区分けする「作者」は、わたしたちの現実世界にも、エラリイの現実世界にも存在しない。正しい手がかりか偽のそれかは、犯人に聞かなければわからない。推理によって「そうらしい」、「恐らくそうに違いない」と言えるだけである。

 それにフィクションとは異なる現実世界において、推理のみで犯人を逮捕することはあり得ない。さすがに、いくら論理的な推理でも無理である。『緋文字』(1953年)では、ダイイング・メッセージの解釈だけからエラリイは犯人を指摘するが、さすがに裁判官を説得するには物的証拠が必要だった[viii](そりゃそうだ)。

 ましてやクイーンの作品には「メタ犯人」が珍しくないとのことであるし、最初にメタ男ないしメタ子が登場した『ギリシア棺』はエラリイの初手柄となった事件である。ということは、他のクイーン作品すべてが、その後の事件であるから、同じようにメタ犯人が登場しているのかもしれない。『ローマ帽子の謎』の「公式」犯人は舞台衣装のまま劇場を後にした俳優だったが、真犯人は、彼に疑いがかかるように彼に扮して被害者と会い、殺害後帽子を持ち去ったのかもしれない(そして細かく切り刻んで便所に流したとか。便所が水洗かどうか、知らんけど)[ix]。『オランダ靴の謎』の真犯人はジャニー博士の秘密の愛人で、彼に甘えて後ろからしなだれかかって、ジャニーがにやけたところを一丁上がりと締め上げたのかもしれない。それで被害者はニタニタ、いや平穏な顔をしていたというわけである。スワンソンをおびき出すのも、愛人ならお手の物だろう。切れた靴紐も、病院関係者に罪を着せるために、わざと前もって切っておいて、絆創膏も用意していたのかもしれない(ジャニーを通じて絆創膏を手に入れるくらい簡単なはずだ)。

 クイーンのミステリは事件を解決したエラリイ自身による執筆だから、もちろん彼にとって都合の良い手がかりしか書かれていない。この言い方に語弊があるとすれば、彼の気がつかなかった手がかりは出てこない。彼の気づかない手がかりが真の手がかりだったとしても、それは作品には書き込まれていない(あるいはエラリイ自身が知らない間に記載している可能性はある)。

 そうするとエラリイは解決したと思っても、実はメタ犯人に一杯食わされている可能性は少なからずある。『三角形の第四辺』(1965年)事件では、実際偽の手がかりに翻弄され、クイーン警視に指摘されて、やっと気がついた。『心地よく秘密めいた場所』(1971年)事件でも、調子に乗って犯人を指摘したつもりが、完全なアリバイを示されて、ぎゃふんとなった。これらの事件では、何とか間違いに気づく機会があったからよかったが、他の作品についても、やはり手がかりの真偽が判別できず、誤った結論に至ったケースもあるのではないか。

 要するに手がかりの真偽を完全には識別できないエラリイによって書かれた作品では、読んでいる私たちにも手がかりが本物か偽物なのか、区別がつかない。エラリイの推理が正しいというためには、彼が突き止めた犯人が本当に犯人であると証明するほかない。しかし、その証明のためには、エラリイの推理が正しいことを確定する必要がある。すなわち手がかりが真実のものであると結論づけなければならない。しかし、それが確かめられるのは、エラリイの推理によって明らかとなった犯人が確かに犯人であることを確認しえた場合だけである。なんか、堂々めぐりしてない?

 結局エラリイにも私たちにも、現実世界における手がかりの真偽を確定することは、厳密には不可能であるが、しかし、推理の精度を上げる、または手がかりが真である可能性を高める目安となるものがないわけではない。つまり犯人の告白である。

 犯人が、自分が犯人であると認めてくれれば、犯人であることが一応確定できて、推理の精度、手がかりが真実である可能性は高まる。もちろん、犯人の自白が常に真実とは限らないのは、これまた現実の事例からも明らかである。偽りの犯人が(真犯人をかばうため等の理由で)偽りの告白をすることは、ままある。クイーンのミステリでも、そんな事件が幾つもある。

 なにごとも百パーセントではありえないということだ(ついにぶっちゃけた)。それでも犯人が罪を告白すれば、ひとまず探偵の推理が正しかった証拠となる。すなわち推理の基礎となる手がかりが真実のものだった証拠ともなり得る。かくして、手がかりの真偽は、それに基づく推理によって特定された人物が本当に犯人であることによって保証される。しかし、犯人が犯人であるか否かは、探偵の推理が正しいと、すなわち探偵の採用した手がかりが真実のものであると確信できるかどうかにかかっている(またしてもループが始まった)。

 それにクイーンのミステリが現実に起きた事件の謎を解き明かしたものであるとすれば、そして読者への挑戦で推理の競い合いを挑むものであるなら、作者が犯人の逮捕や自白まで描くことは必須である。エラリイが、推理によれば犯人はA氏です、でも、あとのことは警察に任せましょう、などと言って、そこで終わってしまえば、読者のなかには、いやいや、その手掛かりは、こうも解釈できる。だから犯人はBだ、などと言いだす輩(輩って言っちゃったよ)が現われるかもしれない。そんな発言を封じるには、犯人Aの逮捕と自白まで描くことが必要である。そこまで書いてはじめて小説世界の現実は確定して(なんとかの猫みたいに)、クイーンの勝利は動かしがたいものとなる(なんか嫌味な言い方だなあ)。

 ・・・とりあえず、気を取り直して、現実の事件であることが最も明確な国名シリーズプラス『中途の家』十作品について、犯人が告白したか、犯人が確定したと言えるのか、検証していこう。

 

『ローマ帽子の謎』(1929年)

 この処女作では、最後に犯人は捕えられて事件は決着している[x]。自白したかどうかは書かれていないが、同じ毒を使って囮の警察官を殺害しようとしたところをみれば(この顛末は、さすがに嘘じゃないよね)、自白も同然であろう。従って、本書における手がかりは真実だったと判定してよいであろう。

 

『フランス白粉の謎』(1930年)

 本書では、犯人は最後に自殺してしまう[xi]。当然、自白していないので、麻薬組織の一員であることは証明されたとみてよさそうだが、犯人と断定できるかどうか。エラリイの推理は、デパート関係者の男性というところまでは進むが、結局最後の決め手は指紋検出用の粉によるので、女性を除外する推理は必要だったのだろうか、という気もする。それに別稿で述べたとおり、指紋検出用の粉を持ち歩いているなら○○が犯人だ、というエラリイの推理は結構ずさんなので、疑問が残るというべきだろう。

 

『オランダ靴の謎』(1931年)

 犯人は逮捕され、自白の場面はないが(あとで共犯者がへたれて白状したらしい、男は駄目ですねえ)[xii]、どうやら犯人であることに疑いはないようだ。「秘密の愛人」説は撤回する。動機を有する共犯者と殺人の実行犯との法的関係も公文書の発見によって明白になっているので[xiii]、冤罪ではないようだ。

 

ギリシア棺の謎』(1932年)

 問題の作品である。本書の犯人も最後に銃撃戦の挙句に射殺されてしまう[xiv]。犯人の口から真相が語られることはない。ただ犯人は事件の動機となる絵画を保持しているところを確認されているので[xv]、ひとまず犯人であると断定してよかろう。疑惑の余地はあるが。

 

『エジプト十字架の謎』(1932年)

 犯人は派手な追跡劇のあと逮捕される[xvi]。エラリイの推理に狂いはなさそうだが、なにしろ殺人が多いので、すべてについて犯人であるかどうかは判定が難しい。逮捕後は「正気を失っている」[xvii]らしいので、自白もしていなさそうだし。二度も死んだふりをして警察を欺いているのだから、犯人であることに疑問の余地はないと思われるが。

 

アメリカ銃の謎』(1933年)

 犯人は出頭して自白している[xviii]。死んだと考えられていた人物だし、事件の核心を承知していることは間違いない。ただし、厳密にはエラリイの推理は被害者が生きているということまでしか証明していない。従って一番怪しくはあるが、本当に犯人なのだろうか。まあ、ほかに犯人になりそうな人物はいないか・・・。ただ誰かをかばっている可能性はゼロではない。

 

『シャム双子の謎』(1933年)

 犯人は最後に罪を認めている。ただ、そのあと火のなかに飛び込んで死んでしまう[xix]。エラリイの推理も意外性はあるが、論理的かというと、他の可能性がないか少々不安になる。例によって左利き右利きの推理も説得力ないし(個人的感想)。つまり最後の犯人の告白[xx]も、エラリイの捏造だったという疑いをぬぐい切れない。そう考える理由のひとつは、他の、例えば『ローマ帽子の謎』のような警察による逮捕という結末ではないからである。非常に特殊な条件下の事件なので、関係者全員が口裏を合わせて事実を隠蔽したということもあり得ないことではない(クイーン警視もエラリイに説き伏せられた?)。マックのまえがきも、本書の場合、なんの証拠にもならないだろう[xxi]

 案外、双子の少年たちがやっぱり犯人で、遺体がみな燃えてしまったのをいいことに、エラリイが偽の解決をでっちあげたのではなかろうか。とすれば、本書において名探偵を惑わす偽の手がかりをつくり出したメタ犯人はエラリイ自身だったということか!なんということ!まさに『戦慄の王女』(クイーン、1973年)[xxii]である(ママ~~ッ)。

 いや、そればかりではない。本書にそんないかさまが秘められていたとすれば、国名シリーズ全体にも何らかの仕掛けが施されているのではないか。そう、(『途中の家』を含む)九作品すべてが「シャム双子事件」の欺瞞を覆い隠すために、すなわち木の葉を隠す森をつくるために[xxiii]執筆されたのかもしれない。なんたること!『九尾の猫』(1949年)ならぬ「九尾の鰊」であったのか(ニャ~ッ)。

 本書には「読者への挑戦」がない。エラリイも無用な詮索をされたくないのだ。彼の心中を察して、読者諸君も余計な憶測は慎むように(そりゃ、お前のことだろう)[xxiv]

 

『チャイナ橙の謎』(1934年)

 本書の場合も犯人は自白している。ただし、その直後にビルの窓から飛び出して、哀れペシャンコになってしまう[xxv]。エラリイの推理は、彼が解明したと称するトリックが、本当にそのとおりなら、この犯人で正しいのだろうが、なんとなくすっきりしないのは、作品自体が、いつにもまして、こしらえもののようなので、つまりすべてがエラリイの創作という可能性もあり?(だって引っ越し屋じゃあるまいし。部屋中の家具をひっくり返すなんて、そんなこと本気でやる奴、いないでしょ。)

 

『スペイン岬の謎』(1935年)

 犯人の自白のシーンはないが[xxvi]、罪を認めているらしいので、問題なさそうだ。なんで犯人が被害者を全裸にしていったのか、いまいち、よくわからないが。辱めのため?

 とはいえ、国名シリーズのなかでも一番潔い犯人のようだから、エラリイもほっとしたことだろう。

 

『途中の家』(1936年)

 犯人は、またまた銃撃戦の末に射殺される[xxvii]。ただ、その前に告白しているので[xxviii]、真犯人と結論してよさそうだ。告白は、犯人が好意ないし愛情を抱いている人物に向けてのものなので、何かしら気持ちを偽っていたり、嘘が混じっている可能性もなくはない。

 

 以上で本考察を終わるが、こうしてみると、結構たくさん死んでますね。とくにニュー・ヨークの事件では『フランス』、『ギリシア』、『チャイナ』と、六件中半数で犯人は死亡している。大丈夫ですか、クイーン警視、死人に口なしとかじゃ・・・。他にも『シャム』は状況が状況だけに、ひときわ怪しいし(死んだ人間に全部押し付けてるんじゃ・・・)、『途中の家』でも死なせている。なんだ、十冊中半分は犯人が死んでるじゃないか!いいのか、名探偵。死人に口なしじゃあ・・・。

 ところで本稿では、国名シリーズと同時期のドルリー・レーン四部作は対象外とした。これらはエラリイ・クイーン(正確にはバーナビー・ロス名義)の純粋な創作であり、ドルリー・レーンは探偵作家エラリイが創造した架空の人物に過ぎないからである。エラリイ自身が探偵した事件を小説化した国名シリーズとは事情がまったく異なると判断した。

 

[i] 飯城勇三エラリー・クイーン論』(論創社、2010年)。

[ii] 法月綸太郎「一九三二年の傑作群をめぐって」『名探偵の世紀 エラリー・クイーン、そしてライヴァルたち』(森英俊山口雅也編、原書房、1999年)、283-96頁。

[iii] 同、290頁。

[iv]エラリー・クイーン論』、228-36頁。

[v] この点に関しても、飯城によってすでに取り上げられていた。さすがにクイーン研究の第一人者となると、いかなる問題にも目配りしていることに感服した。『エラリー・クイーン論』、132-60、286-314頁。

[vi] 『ローマ帽子の秘密』(越前敏弥・青木創訳、角川文庫、2012年)、17-25頁。

[vii]エラリー・クイーン論』、149頁。

[viii] 『緋文字』(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)、282-89頁。

[ix] もっとも、公式犯人が舞台衣装のまま劇場を出ていくかどうかは真犯人には予測不可能だから、「真犯人」が存在する可能性は低いだろう。

[x] 『ローマ帽子の秘密』、428-33頁。

[xi] 『フランス白粉の秘密』(越前敏弥・下村純子訳、角川文庫、2012年)、498-99頁。

[xii] 『オランダ靴の秘密』(越前敏弥・国弘喜美代訳、角川文庫、2013年)、401、438頁。

[xiii] 同、443頁。

[xiv]ギリシア棺の秘密』(越前敏弥・北田絵里子訳、角川文庫、2013年)、542頁。

[xv] 同、539-40頁。

[xvi] 『エジプト十字架の秘密』(越前敏弥・佐藤 桂訳、角川文庫、2013年)、500頁。

[xvii] 同。

[xviii]アメリカ銃の秘密』(大庭忠男訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1989年)、366頁。

[xix]シャム双生児の秘密』(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1978年)、339頁。

[xx] 同、337-38頁。

[xxi] 同、3-4頁。

[xxii] 最近「クイーン」で検索すると、真っ先に出てくるのはフレディ・マーキュリーのクイーン。やっぱりエラリイ・クイーンの人気が低落しているというのは本当らしい(いや、それジャンル違いだから)。

[xxiii] G・K・チェスタトン「折れた剣」(『ブラウン神父の童心』、1911年)を参照。

[xxiv]シャム双生児』は「国名シリーズ」第七作で、この位置も大変意味ありげである。クイーンのミステリが書店に並ぶようになり、目立たなくなった頃合いを見はからっての出版ということだろう。じゃあ、なぜ、そんな隠したいはずの秘密を本に書いて公表なんかしたのかって?印税が欲しいからです(エラリイが印税にうるさいことに関しては『エジプト十字架の謎』を参照)。

[xxv] 『チャイナ・オレンジの秘密』(乾 信一郎訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1980年)、315-16、321頁。

[xxvi] 『スペイン岬の秘密』(大庭忠男訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、2002年)、433頁。

[xxvii] 『途中の家』(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1979年)、344-45頁。

[xxviii] 同、342-43頁。