『ガラスの村』もしくはE・Qの不在

(犯人は伏せていますが、推理部分について詳しく紹介していますので、未読の方はご注意ください。)

 

 エラリイ・クイーンの全著作中、最大の驚きは『ガラスの村』(1954年)[i]だろう。処女作から25年。四半世紀を迎えたところで、ついにクイーンはクイーンを見限った。

 といっても、エラリイはレーン先輩のあとを追ったわけではない。主役の交代である。アメリカの田舎町、ライツヴィルより、はるかに鄙びた、むしろ小集落というべきシンの辻(ライツヴィルに近いらしい[ii])を舞台に、戦争(第二次大戦と朝鮮戦争)帰りのジョニー・シンという青年が、年長の従兄のシン判事とともに、平和な共同体に起こるはずのなかった無慈悲な殺人事件の謎に直面する。

 ジョニーが元軍人という設定が暗示するように、戦争体験によって人間らしさを失った主人公が、「徐々に人間に戻っていく様子に、焦点をあてている」[iii]。作品全体がマッカーシズム批判となっていること[iv]は、今さら言うまでもないが、世相と関わりの薄そうなパズル・ミステリ作家が、極めて政治的かつ社会的なテーマを取り上げたことが、なによりもまず意外だった。しかし、現代の若い世代の読者にとって、一番意外なのは、エラリイ・クイーンの姿が消えたことだったのではないだろうか。

 確かに、本書のあらすじをみれば、探偵の交代には納得がいく。共産主義嫌い、外国人嫌いに凝り固まったシンの辻の住民たちを宥めすかし、ときに怒鳴りつけて公正な裁判へ向かわせようとするジョニーと判事の苦闘する姿をみると、到底、エラリイ・クイーン向きの事件とは思えない。作者の判断は正しいが、しかし、それでも「エラリイの不在」こそ『ガラスの村』の最も注目すべき点であることも、また事実である。

 ところが、当初、エラリイを主人公として本書は書き始められた、という驚愕の事実が、F・M・ネヴィンズによる評伝において明らかにされている[v]。にわかには信じがたいが、しかし、もしも本書がエラリイ・クイーンのシリーズとして書き上げられていたとしたら、その場合も、エラリイの「人間性の回復」が、作品のテーマとなっていたのだろうか。意地悪く聞こえたかもしれないが、エラリイ・クイーンのミステリは、パズル・ミステリであるとともに、大きな物語としては、主人公エラリイの成長のストーリーでもあった(ようだ)。1930年代の「国名シリーズ」では、感情のない推理機械(そこまでひどくないか)だったエラリイが、人間味あるキャラクターへと変貌していくというのが、1940年代にかけてのE・Qのミステリであった(ようだ)。日本の評論家もファンも、そのような変化を「ライツヴィル・シリーズ」のなかに読み取っていたのではなかったか。

 かかる観点から『ガラスの村』を見るとき、同書における「エラリイの不在」が意味するものとは、エラリイ・クイーンが人間として成長する機会を失ってしまった、ということである。

 1930年代のエラリイ・クイーンは、一言でいえば、才能はあるが精神的に未熟な若者という印象だった。『ローマ帽子の謎』(1929年)に初登場した際のイメージは、まさに高慢な青年貴族そのものであった[vi]。その後、事件を重ねるにつれて、徐々に(犯人を含む)人々の心情を汲みとり、人間の感情を理解しようと努力するようになる。『スペイン岬の謎』(1935年)では、はっきりとそう口に出すようになった[vii]。だが、同書の場合、被害者が唾棄すべき悪人であったからこその発言であり、つまりは、子どもっぽい正義感の発露に過ぎなかった。殺人を犯す人間のこころを、本当の意味で理解してはいなかったように思われる。1940年代になると、『十日間の不思議』(1948年)や『九尾の猫』(1949年)において、自分の誤った推理が、他人の人生のみならず、生命さえ左右しかねない重さに、ようやく気づくようになる。あやまちに向き合うことで、探偵としての自己を見つめ直す機会を得ることができたのだ。しかし、いいかげん、いい年になっても『ダブル・ダブル』(1950年)のように恋愛感情が絡むと、とたんに人間的な未熟さをさらけ出してしまう[viii]。『緋文字』(1953年)では、事件にのめり込み過ぎたのか、父親にすがって泣き出す[ix]が、犯罪捜査のヴェテランが、こんなことでは情緒不安定すぎる。作家という肩書きがあるから、職業人としての常識は持ち合わせているようだが、要するに、甘やかされて育ち、自分の世界に閉じこもる「おとなこども」なのである。

 若かったときは、エラリイ・クイーンのような、あくのないスマートな青年探偵に魅力を感じた。属性の濃い探偵は苦手であった。かといって、ブラウン神父のような「わけしり顔」の探偵にも好感はもてなかったので、むしろエラリイの平凡だが颯爽とした好青年ぶりに魅力を感じていたのかもしれない。ところが、年を取って読み返してみると、気取った態度や軽薄な言動が、やたらと気に障るようになってしまった。今や、自己本位で、他人がどう思うかに無関心な人間は、日本中にあふれているらしいが、自分もそうだから、よくわかる。エラリイ・クイーンも似たように思えて[x]、どうにも共感できなくなった。

 もっとも、だからといってフィリップ・マーロウのような探偵なら、成熟した大人の魅力に共感できるのかと聞かれれば、全然そんなことはなくて、少なくともエラリイ・クイーンのほうが、わたしにとってリアルである。ピストルをバンバンぶっ放して(マーロウは、バンバンぶっ放したりしないか)、さよならをいうのは少しの間死ぬことだ、などとつぶやく人間は、わたしのまわりには一人もいない。パパの胸にすがって泣きじゃくる中年のおじさんのほうが、リアリティがある(おぞましいけど)。

 そう考えると、『ガラスの村』は、名探偵エラリイ・クイーンが自己の閉鎖世界を壊して生まれ変わる千載一遇の機会だったのかもしれない。このあと『最後の一撃』(1958年)で、「過去」という名の居心地の良い世界に戻っていったエラリイは、そのまま1970年代に至るまで、ついに自ら壁を打ち破る努力をみせぬままに終わった。(1964年の『第八の日』は例外かもしれないが、同書でも、最後にエラリイは泣き出してしまう[xi]。)

 

 『ガラスの村』について書くはずが、エラリイ・クイーンの話ばかりになってしまった。

 

 しかし、実をいうと、『ガラスの村』に関しては、あまり語るべきことがない。何しろ立派すぎて、ケチをつけにくいというか。「人間の権利を守り、(中略)真実を求めようとするジョニーの姿を通して、マッカーシズムの欺瞞を暴いていく」[xii]と紹介されているとおりの内容で、からかったりしては申し訳ない、恐れ多い(本当は、小馬鹿にしているんだろうって?いやいや)。

 

 小説としての『ガラスの村』は、アメリカの一小村が独立して国家に反抗する、いわば近未来ポリティカル・スリラーと見ることができる。国法を否定して領土侵犯に武力で対抗する一方、民主的裁きによって建国以来の人民の権利を守ろうとするコミュニティの異様さと、意図的に違法な裁判手続きを進めることで、逆に法の支配の原則を守ろうとする主人公たちの努力の皮肉さに、何よりも面白味がある。よく、こんなプロットを思いついたと思う。この奇抜な着想だけで、本書はクイーンの代表作と呼ぶにふさわしいだろう。

 ただし、シン判事やジョニーの策謀によって、裁判が最初から茶番と化す展開ゆえ、一番手に汗握るはずの陪審評議の章が、さほど見せ場がないまま終わってしまうのは、計算違いというわけでもなく、こうなるしかないだろうと思っていても、やはり拍子抜けする。あの名作映画『十二人の怒れる男』(1957年。元々のテレビドラマは本書と同じ1954年放映だったそうだ)に比べると、ミステリの面白さも、ドラマとしての緊迫感も足りず、だいぶ落ちますね、としか言いようがない。

 クイーンには珍しいアリバイ調べ(それも自動車の)が出てくるのは、なかなか興味深い。対象となる車の所在を、証人尋問の場面にさりげなく織り交ぜる手際は、読み返すと、わざとらしく思えるほどなのだが、やはり見事な手並みだ。アリバイ工作そのものは、たわいないもので、この手のトリックが、クイーンは得手でないことが、よくわかるが、証拠となるたきぎと車とを結びつける推理は、結構意外性がある。

 ただし、幾つか都合が良すぎたり、不自然な点もある。以下、列挙する。

 電話を盗み聞きする癖のある住民が、殺人事件が起こったことを勝手に村中に吹聴してしまうのだが[xiii]、犯行前に犯人が被害者宅にかけた電話、犯行後に被害者宅からかけた電話は、盗み聞いていなかったのだろうか?

 犯人は、車を被害者宅前の車道に停めたと自供するが[xiv]、豪雨のなかとはいえ、誰の眼にもとまらなかったのか?通りの斜め向かいの雑貨店には、犯行時間前後に数名の客が訪れていたはずなのに。

 犯人は、たきぎを車のトランクに運んだのだが、いっぺんに持てるのは五、六本だと書いてある[xv]。車を被害者宅の敷地内に移動させておかないと、いちいち車道まで往復しなければならないだろう。目撃される危険が、さらに増えやしないか?

 犯人が、トランクに入れたたきぎのことを、まったく失念していたというのは[xvi]、確かに、実際の犯罪でもそういう思考のエアポケットはよくあることだろうが、やっぱり都合がよすぎる気もする。

 これは記述のミスの問題で、翻訳の間違いの可能性もあるが、ジョニーが、雨は午後2時頃から降り始めたと述べる個所がある[xvii]。シン判事と釣りに行き、土砂降りにあって、ずぶぬれになったのは、昼過ぎだったのではなかったか?[xviii]それとも、ふたりが出かけた池とシンの辻とでは、雨の降りだしに二時間の差が出るほど距離が離れているのか。

 しかし、一番問題なのは、ジョニーの推理が、犯人が気づかれることなくシンの辻を出入りできたことを前提としていることで、つまり、恣意的に容疑者を限定している。犯人以外にも何者かがシンの辻に侵入していた可能性を排除できていない。その結果、住民の(車の)アリバイ調べは始めから無意味だったことになって(住民全員のアリバイを立証したとしても、××××が犯人である証明にはならない)[xix]、結局、最後に、たきぎが発見される場面を描くことで、物的証拠でもって問答無用に読者を納得させるしかなくなってしまった。

 まあ、そんなことを言っていたら、パズル・ミステリの推理など成立しなくなってしまうから、いいんだけど(だったら、うるさく文句をつけるんじゃない、ってか?)。

 

 本書は、テーマはりっぱだし、ミステリとしても優れた着想の小説と言いたいが、読み終わると、意外にあっけなかったという思いもある。村の空気に充満する緊張感とか、住民とジョニーや判事らとの対立など、やはり、もっと具体的に詳しく書くべきだったのではないだろうか。とくに、登場人物のなかで、ヒューバート・ヒューマスは、ジョニーや判事と対立する住民のリーダーなのだから、もっと存在感があってもよかったと思う。長く書けばよいというものでもないし、正直、個人的な好みとしては、あまり面白いとは思わないので、つまり、これ以上長くても退屈だとは思うが、人物も事件も、もっともっと細部までみっちり書けば、より評価もあがり、傑作と認められたのではなかろうか。

 

 語るべきことがないと言いながら、書き始めたら止まらなくなった。あしからず、ご了承願います。

 

[i] 『ガラスの村』(青田 勝訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1960年、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)。

[ii] フランシス・M・ネヴィンズJr(秋津知子他訳)『エラリイ・クイーンの世界』(早川書房、1980年)、231-32頁。

[iii] 同、217頁、フランシス・M・ネヴィンズ(飯城勇三訳)『エラリイ・クイーン 推理の芸術』(国書刊行会、2016年)、288頁でも、同様の文章となっている。

[iv] 『エラリイ・クイーンの世界』、215-16頁、『エラリイ・クイーン 推理の芸術』、287頁。

[v] 『エラリイ・クイーン 推理の芸術』、287頁。

[vi] 『ローマ帽子の秘密』(越前敏弥・青木 創訳、角川文庫、2012年)、44-45頁。

[vii] 『スペイン岬の秘密』(大庭忠男訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、2002年)、433頁。飯城勇三エラリー・クイーン完全ガイド』(星海社、2021年)、68頁も参照。

[viii] 『ダブル・ダブル』(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)、345頁。

[ix] 『緋文字』(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)、230頁。

[x] 例えば、『顔』(1967年)。わたしがいうのは、他人の結婚式に横やりをいれたことではない。そのあと、くどくどと言い訳をするところである。『顔』(尾坂 力訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1979年)、297-98頁。

[xi] 『第八の日』(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)、239頁。

[xii] 飯城勇三編著『エラリー・クイーンPerfect Guide』(ぶんか社、2004年)、64頁。

[xiii] 『ガラスの村』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、72、223-24頁。

[xiv] 同、301頁。

[xv] 同、294頁。

[xvi] 同、303-304頁。

[xvii] 同、268頁。

[xviii] 同、63-66頁。

[xix] まったく無意味というわけではなく、住民全員のアリバイが立証されれば、外部の者が犯人ということになる。あとは、動機の有無や犯行時刻前後のアリバイを調査していけば、犯人に到達することは可能である。本書は、その過程をすっ飛ばしたということになる。状況が状況なので、ジョニーは、あてずっぽうで犯人を指摘した。そうしたら、うまい具合に当たったということだろう。(追記2024年6月10日)