クリスチアナ・ブランド『切られた首』

(犯人は明示していませんが、ほぼほぼ、わかってしまいそうなので、未読の方はご注意ください。)

 

 『切られた首』[i]は、クリスチアナ・ブランドの第二長編で、1941年に出版されている。アメリカでは翌年の刊行だが、第一作の『ハイヒールの死』の公刊が1954年らしいので、同国ではデビュー作だったようだ[ii]アメリカの出版社が、『ハイヒールの死』に難色を示し、本書にはO・Kを出したのだとすれば、なかなか興味深い。対照的な二冊と思えるからである。

 『ハイヒールの死』は、ロンドンの服飾店を舞台に、大勢の若い美女たちが、しゃべりちらすミステリで、こちらのほうがアメリカの読者向きのような気もする。『切られた首』は、ロンドン近郊の屋敷で勃発する連続殺人を描く、イギリスらしい田園ミステリである。タイトル通り、首を切られた女性の死体が転がる陰惨な事件で、全体の雰囲気も鬱々としている。

 探偵役も、処女作のチャールズワース警部から代わって、ブランド作品でお馴染みとなるコックリル警部の初登場作である。「ケントの恐怖」という、まるでこちらが連続殺人鬼であるかのごとき異名の名探偵で、舞台となるピジョンフォード邸があるのがケントという設定のようだ。ケントといえば、ロンドンのすぐ南の州で、その昔にアングロ・サクソン系のジュート族が定住したとされる地域である(「世界史」で習いました)。イギリス国教会大主教座であるカンタベリ大聖堂やドーヴァの港町などがある。お隣のサセックス州には、11世紀に、ノルマンディ公ギヨームとハロルド二世イングランド王が王位をめぐって激突したヘイスティングズ(またはセンラックの丘)がある。「ノルマンの征服」として有名で、つまり、歴史的事件や遺跡に事欠かない地域である。

 冒頭、ピジョンフォード邸のテラスを借りて、教会堂の絵を描いているオールド・ミスのグレイス・モーランドが、同屋敷の主人ペンドックのことを考えて、物思いにふけっている。そこへヴィニシアとフランセスカ(フラン)の姉妹がお茶の時間を告げに現れる。二人は祖母のレディ・ハートとともに、昔馴染みのペンドックを訪ねてきていたのだった。ヴィニシアは夫のヘンリ・ゴールドと一緒だが、美しいフランセスカは独身で、ペンドックが彼女に惹かれているのではないかと疑うグレイスは心穏やかではない。お茶の席で、フランが買ってきた奇抜な帽子を披露していると、つい「そんな帽子を被って、溝のなかで野垂れ死になんかしたくない」と口にしてしまう。実は、前年の夏に、首を切り離された台所女中の死骸が近くの森で発見されるという猟奇的事件が起こっていたのだ。

 気まずい雰囲気のまま、グレイスはペンドックに送られて少し離れた自宅に戻るが、真夜中過ぎ、外出から帰った給仕頭のバンスンが、屋敷の車廻しの溝のなかに女が倒れているのを発見する。ペンドックらが駆けつけると、女はグレイスで、首と胴体が切り離されたうえに、頭にはフランの帽子がかぶせてあった。

 ピジョンフォード邸に滞在しているのは、ペンドックのほかに、ハート家の三人の女性とヘンリ、そしてペンドックの友人で休暇中のジェイムズ・ニコル大尉の六人。グレイスの上記の発言を聞いたのも彼らのみなので、このなかに犯人がいるらしい。ところが、翌日、グレイスと同居していた従妹で女優のピピ・ル・メイがロンドンから戻ってくると、犯人はグレイス自身から帽子に関する彼女の発言を聞いたかもしれない、と、皆が思いもしなかった可能性を指摘する。そして、次の日の真夜中、今度はピピが首を切り離された死体となって発見される。

 この後、フランに結婚を申し込んでいたジェイムズが、実はピピの夫だったという意外きわまる事実が暴露され、コックリル警部は、紛糾する事態に頭をかきむしることになる・・・。

 『ハイヒールの死』でも、その兆しはあったが、比較的限られた登場人物の間で、容疑が転々とするブランドの定番スタイルが、ほぼ固まってきたようだ。終盤には、容疑者同士が互いに「あなたが犯人だ」「お前がやったんだろう」とののしり合い、告発を始めるが、これもブランド作品の恒例行事となる。ただし、戦後の代表作のように、アクロバティックな捻りをきかせた大技はないので、全体としては地味な謎解き小説である。黄金時代も末期になって、読者が疑わない登場人物などありえないという前提で、すべての人物に均等に疑いがかかるプロットを組み立てているのだろう。

 第二の殺人では、死体の周囲に雪が積もって犯人の足跡が見つからない古典的不可能状況になるが、解決方法は肩透かしで、犯人側のトリックはない。ただ、素人探偵が奇術的仮説を持ち出してくるので、それが読者を誘導する結果となって、犯人に対する疑いを逸らす効果を得るところは面白い。もっとも『ジェゼベルの死』(1948年)などを先に読んだ読者が、はなれわざ的大手品を期待してしまうと、当てが外れて失望するかもしれない。

 『ジェゼベル』といえば、首が切り離された死体という本書の主題もかぶっているが、いわゆる「顔のない死体」テーマなどではなく、犯人を特定する手がかりとして(犯人の失言のそれ[iii])使用されるのみで、結局、本書の場合、トリックらしいトリックは使われていない。

 犯人も意外というほどではなく、むしろ消去法で容疑者を減らしていくと-例えば、高齢の女性にはこの殺人は難しいだろう、など-最後に残る人物なので、不自然さはないが、驚きもしないだろう。後年の『疑惑の霧』(1952年)や『はなれわざ』(1955年)のような大胆不敵な心理的錯覚が用いられているわけではないので、やはり、まだまだ習作の域を出ないと言わざるを得ない。

 一向、映えないミステリのようだが、面白いのは、ニューロティック・サスペンスのような書き方がされていることで、同じ頃に書かれたマーガレット・ミラーの『鉄の門』(1945年)を連想した[iv]。もっとも、ミラーが生真面目にというか、正面から「狂気」を描こうとしているのに対し、ブランドは、自らのイメージにまかせて書いている印象で、『鉄の門』のように、作品のテーマにまではなっていない。

 それとわからせない書き方で、犯人の主観描写を取り入れている(注を読むと、犯人が露見します)[v]が、自分が殺人者であると、はっきり認識(記憶)していないという真相は、いわゆる二重人格テーマのミステリとして読むこともできる。このタイプとしては、かなり早期の例であり、このあたりが、『ハイヒール』を差し置いて、アメリカでのデビュー作に選ばれた要因だったのだろうか。

 現代ミステリとの関連でいえば、「狂気の連続殺人」テーマのヴァリエーションといえるかもしれない。こうした狂気を扱った作品は、ブランドには珍しくない(とくに短編では)が、イングランドの、いつも薄曇っているような憂鬱な情景描写と相まって、独特の空気感が漂う。そこが本書の一番の魅力ではないかと思う。

 それでいて、最後は騒々しい結婚式になって、センチメンタルな回想シーンで終わるのだが、その辺はブランドらしいとも、イギリス・ミステリらしいとも言えそうだ。

 

[i] 『切られた首』(三戸森 毅訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1959年)。

[ii] クリスチアナ・ブランド『招かれざる客たちのビュッフェ』(創元推理文庫、1990年)、「クリスチアナ・ブランド書誌」、536-37頁。

[iii] 『切られた首』、30、73、209頁。

[iv] マーガレット・ミラー『鉄の門』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ、松本恵子訳、1953年、創元推理文庫、宮脇裕子訳、2020年)。ミラーは、随分翻訳にも恵まれるようになったが、やはり江戸川乱歩が戦後書いたいくつかの文章が印象に強い。江戸川乱歩英米探偵小説界の展望」(1947年)『幻影城』(講談社、1987年)、103頁、「マーガレット・ミラー」(『海外探偵小説作家と作品3』(講談社、1989年)、83-89頁。

 本書の連想で、数十年ぶりに新訳版で読み返してみたが、最初にポケット・ミステリで読んだときと、当然ながら、だいぶ印象が変わった。この手の心理スリラーが珍しくなくなったこともあるのだろう。達者だなあと思う一方で、随分懸命になって書いてるなあ、とも感じたのは、こちらが年を取ったせいか。

[v] 犯人が夢にうなされる描写が繰り返し現れる。『切られた首』、29、76頁。