クリスチアナ・ブランド『ゆがんだ光輪』

(本書の内容を、かなり、ばらしていますので、ご注意ください。ただし、犯人は明かしていません。いないから。)

 

 数十年ぶりに『ゆがんだ光輪』[i]を読み返した。もちろん初版本ではない(でも、『切られた首』と『疑惑の霧』は初版本を持っている。エッヘン)。1984年にハヤカワ・ポケット・ミステリの「ベスト・コレクション」の一冊として再版されたやつである。

 『ゆがんだ光輪』は、前作『はなれわざ』と同様、サン・ホアン・エル・ピラータというコルシカ島の近くにある(架空の)孤島で小国家を舞台にしたミステリ・・・なのかなあ?一応主人公といえるのは、コックリル警部ならぬハリエット・コックリル、すなわち警部の妹で、兄に劣らず性格が悪い。『はなれわざ』でも異彩を放ったミスター・セシルも登場して、どこからどこまでも『はなれわざ』の続編なのだが、前作の評判につられて本書を読んでしまった読者の多くは、失望を通り越して激怒したことだろう。いや、あっけにとられたか。多分、同じ経験をした小林信彦の評価は次の通りである。

 

  自分ひとりで凝って面白がっている困った作品だ[ii]

 

 その挙句の結論は、「この小母さん、結局、大したことないんじゃないかしら」[iii]

 な、なんて、恐ろしいことを・・・。

 現在、『はなれわざ』の評判は、日本の幸福度ランキング並みに下落しているが、その原因の一端は本書にもあるのかもしれない。いや、そんなに読まれていないか。・・・間違えた、全然読まれていない。

 サン・ホアン・エル・ピラータ公国には、先年亡くなったホアニータ、別名サン・マルガリータという聖処女がいた。彼女は、聖地巡礼のあと、テーブルをかついで(???)郷里に戻り、そのテーブルの上で一生を過ごしたことで知られている(どういう聖女だ)。敬虔なカトリック教徒が多数を占める公国の人々は、君主であるホアン・ロレンゾ大公が、彼女を列聖候補としてローマ教会に申請するのを、今か今かと待ち焦がれている。ところが、大公は一向に法王への申し出を行おうとしない。業を煮やした大司教が、大公妃に世継ぎが生まれないこともあって、公国大祭前の教会ミサで大公を激しく桔問してしまう。怒り狂った大公は、大祭当日の大聖堂の祈りの場でホアニータが奇蹟を演じるなら、ローマへの列聖申請を行おう、しかし、もしそれがなされないなら、大司教の命を奪うと言明する(無茶苦茶ですな)。

 一方で、錺り職人で過激派のトマーソ・ディ・ゴヤなる男が、大祭の日に大聖堂で大公を暗殺し、自身が取って代わろうと企んでいる。そこに巻き込まれたのがミス・コックリルの従妹のウィンゾム・フォレイで、ホアニータの日記の翻訳を生きがいにしていた彼女は、純情無垢なところをつけこまれて、警察署長までもが加担する国家転覆の陰謀に引き込まれてしまう。

 といったような話なのだが、「自分ひとりで凝って面白がっている」と言われれば、そのとおりである。『招かれざる客たちのビュッフェ』の解説を書いている北村薫は、小林ほど辛辣ではない(ブランド本の解説を書いているんだから、当然か)が、「よく訳してくれたと思うほどの異色作である」と内心呆れているようだ。そもそも、氏の場合、解説依頼がきたので(仕方なく?)本書を初めて手に取ったらしい[iv]。プロ作家のマニアックなファンでさえこうなのだから、そうでない人たちが本書を読んだら、一体どう思うのか。その感想が空恐ろしい、いや、楽しみだ。

 と、こう書いてくると、さぞかしつまらない作品なのだろうと皆考えるに違いないが、そして実際そうなのだが(えっ!?)、再読してみたら、「ある意味」面白かったのである。別に、へそ曲がりを気取っているわけではなく、むしろ、へそが曲がっているのはブランドのほうなので、あの癖の強い文体に馴染んでいるなら、案外楽しく読めるだろう。

 北村によると、本書の謎は、上述のように、ホアン大公がホアニータを列聖申請しようとしないのはなぜか、で、確かにそうではあるのだが、小説のクライマックスは、大聖堂で大公暗殺計画が実行されんとするなか、突如として、中空にホアニータの幻影が出現する場面である。本書は「幻想味の濃い作品」[v]ではあるが、ファンタジー小説ではないので、当然、この「幻影」は「聖女降臨」ではなく、人知による茶番なのだが、ホアニータと見まごうほどの人間(替え玉)は誰なのか、というのが、ちょっとした謎になっている。登場人物のなかには、替え玉が務まりそうな人物はいない。可能性があるとすれば、ホアニータの母親の老婆がいるので、奇蹟をでっちあげた側と敵対してはいるが、ひょっとして、こいつかと思っていると、ブランドの撒いた餌(レッド・へリング)でした。

 もっとも、この謎も、長編ミステリを支えるほどの力はない。ただ、聖女にまつわる伝説に隠された真相が、ことのほか下世話な(などといっていいのかなあ)というか、ゴシップ・ネタなところは、いかにもブランドらしい人の悪さ、いやシニカルなところである。

 考えてみると、本書は意外なほど宗教的な雰囲気が漂っている、というか、キリスト教カトリック)がプロットに関わっている。ブランドの宗教観などといっても、まるで見当がつかないが、ミドル・ネームのクリスティアーナを筆名に選ぶくらいだから(メアリ・アン・アッシュ名義もあるが)、実は信心深かったのだろうか[vi]。(上記の謎なども、見ようによっては、イエスの復活を揶揄しているようにも取れるが、まさかね。)

 それはともかく、オットー・ペンズラーによるブランドの追悼記事によると、『はなれわざ』と『ゆがんだ光輪』に描かれたサン・ホアン・エル・ピラータの印象があまりに鮮やかなので、「旅行業者は、現地を訪れたがる熱烈なブランド・ファンを失望させたほど」[vii]だったという。なんか眉つばっぽいなあ、という気もするが、見てきたように嘘を書くブランドの筆力は、さすがのもので、普段から「話がうまかった」というから[viii]、そこにブランドの本質があったらしい。つまりは、ほら話の達人であって、ミステリの枠にとらわれない、聞き手(読み手)をたぶらかす語りの技巧にこそ、ブランドの才能は発揮された。そこに彼女の最大の武器があったのだろう。

 

[i] 『ゆがんだ光輪』(恩地三保子訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1959年)。

[ii] 小林信彦『地獄の読書録』(筑摩書房、1989年)、89頁。

[iii] 同。

[iv] 『招かれざる客たちのビュッフェ』(深町眞理子他訳、創元推理文庫、1990年)、北村薫による「解説」、560頁。

[v] 同、ロバート・E・ブライニーによる序論、11頁。

[vi] いうまでもないことだが、ブランドの本名はメアリ・クリスティアーナ・ミルン。

[vii]ミステリ・マガジン』No.392(1988年12月)、33頁。

[viii] マーティン・エドワーズ『探偵小説の黄金時代』(森 英俊・白須清美訳、国書刊行会、2018年)、336頁。「信用ならないゴシップ屋」とも書かれている。なんか、言い方が・・・。同、226頁。