クリスチアナ・ブランド『自宅にて急逝』

(最後のほうで、かなり犯人、トリックについて突っ込んで言及しているので、未読の方はご注意ください。)

 

 『自宅にて急逝』[i]は、クリスチアナ・ブランドの長編ミステリ第四作だが、いよいよ、この作者の本領が発揮され始めたようだ。

 訳者あとがきに「この異常な一家」と二度も書かれているように、どうみてもイカレているとしか思えない一族を描いて、全編にわたって「愛情と疑惑と、憐憫と憎悪との奏でる狂ったラプソディ」[ii]が響いている。実に的確に作品をとらえた解説である。

 『切られた首』(1941年)に続き、ケント州の田舎屋敷を舞台にしたパズル・ミステリで、離れのロッジで一晩過ごしていた老当主がアドレナリンを過剰投与されて死亡する。ロッジの周囲には、前の晩に砂が撒かれていて、夜中に誰かが近づけば跡が残らずにはいない。しかるに、翌朝、孫娘のひとりが祖父の様子を見に行くと、老人は意識を失ってぐったりしているのが窓越しに見える。ロッジの周囲に残された足跡は、その孫娘のものだけという「足跡のない殺人」である。

 次いで、今度は事件について何事かを知っていると思われた庭師が、同じロッジのホールでストリキニーネによって死亡しているのが見つかる。周囲には薄いほこりが積もっており、またもや、誰も近づいた形跡のない不可能犯罪である(ただし、こちらのトリックは、しょぼくてがっかりする)。

 この事件に挑むのがお馴染みコックリル警部だが、容疑者はいずれも顔見知りばかり(コックリルものは、この手の話が多い)で、当主のサー・リチャード・マーチは、バレリーナだった亡妻セラフィタの愛したスワンズ・ウォーターの屋敷で暮らしている。セラフィタが亡くなったあと、愛人のベラと再婚し、今では彼女が屋敷の采配を揮っている。三人の息子とその妻は、いずれも死去するか再婚して屋敷を離れ、住んでいるのはピータ、フィリップ、クレアの孫たちと、フィリップの妻エレンと赤ん坊。それに、ベラの孫息子に当たるエドワードを加えた八人で、サー・リチャードを除いた六人のなかに、犯人がいる(さすがに、赤子は犯人ではない)。

 ところが、いとこ同士のフィリップとクレアは恋愛関係にあり、エレンとの間で別れ話が持ちあがっている。さらに、まだ少年のエドワードは精神が不安定で、ショックを受けると、すぐ失神したり、一時的な記憶喪失の発作を起こしたりする。他のいとこ達も含めて、皆が皆、思ったことをすぐ口に出す無作法な若者たちで、肉親でも、そこまで言わないだろうと思うことを平気でしゃべり倒す。その物言いに癇癪を起こしたサー・リチャードが、孫たちには遺産を渡さない、と言い出して、ロッジに引きこもってしまう。ちょうど年に一度のセラフィタの命日で、毎年一晩ロッジで過ごすのが習慣となっていたのだ。リチャードは、一家の弁護士のスティーヴン・ガードに遺言書の用紙を届けさせ、実際に作成したらしいのだが、翌日、遺体が発見されてみると、遺言書はどこにも見当たらない。

 フィリップが離婚してクレアと再婚するには、遺産を必要とする。スティーヴンもピータ(ピーターと間違えやすいが、女性である)と憎からぬ関係にあるので、利害関係がないわけではない。新しい遺言書が見つかれば、スワンズ・ウォーターを含めた、すべての遺産を相続するベラは、内心ではセラフィタの思い出が染み付いた屋敷に住み続けることに嫌気がさしている。孫のエドワードにしても、自身の症状を自虐的に揶揄して平静を装っているが、自分が知らぬ間に祖父を殺害したのではないかと恐れを隠せない。

 こうした疑心暗鬼の探り合いのなかで、四人のいとこ達が、上記のとおり、調子の狂ったラジオのように好き勝手におしゃべりする様は、いかにもブランド・スタイルである。

 後半の検死審問では、陪審がエレンを殺人犯人と宣告し、そのまま収監されるという珍しい場面が描かれる(検死審問で有罪の評決が出るなんてことがあるんですね)。このあとさらに「狂騒曲」に拍車がかかり、いとこ同士の間で罪のなすりつけ合いが始まる。その過程で、様々なトリックの可能性が提示されるので、つまり、ブランド作品に恒例の、仮説が出てはひっくり返される推理ゲーム展開となる。次作の『ジェゼベルの死』(1948年)で、さらにヴォルテージがあがるブランディッシュ・メソッドだが、身内の間の見境のない泥仕合なので、ひときわ見苦しく、ひときわ愚劣で、大笑いできる。素敵です!ブランド先生!

 もっとも、精神状態に問題のあるエドワードが犯人という結末は、過去の長編に似た例があるので、それはなさそうである。またピータは、ブランド作品ではお馴染みの天然系美少女で、このタイプは、まず犯人ではない(毎回、この手のキャラクターが出てくるのは、ブランドが、美少女が好みなのか、自身を投影しているのか)。

 いずれにせよ、少ない登場人物の間で容疑が転々するブランド流パズルなのだが、クライマックスは唐突に訪れ、イギリス空域に侵入した爆撃機が気球とぶつかって墜落(そういえば、戦時中だった)、そのままスワンズ・ウォーターに突っ込んでくる。屋敷は吹っ飛んで崩壊し、犯人も瓦礫の下敷きになって死亡するが、このラストは、意外を通り越して、とんでもなさ過ぎる。ミステリ史に残る犯人暴露場面で、読んでるこちらも、あっけにとられて二の句が告げない。

 しかし、本書の見どころは、無論、このあと真相が明らかとなる最後の七行である。とくにラスト二行は鮮やかで、小説全体のオチのごとき切れ味の幕切れといえる。長編ミステリというより、むしろ長大な短編ミステリを読んだかのような読後感なのである。

 トリック自体は、本当に短編向きのシンプルさで、そこまでのものではないのだが、とにかく、おしゃれで粋な、このサプライズ・エンディングの効果は素晴らしい。そう考えると、ここまで登場人物の奇矯かつ道化じみた会話で繋いできたのは、狙いどおりのものだったとわかる。軽薄で騒々しいがユーモラスでくどくない、徹底した軽みと遊戯感覚で読者に考える隙を与えず(犯人当てミステリで、それでは困るが)、一直線に結末へと向かうテクニックなのだろう。それでも、決して水増しとは思わせない筆の運びはさすがである。ブランドらしい皮肉味の利いた文章で引きずり回して、ラストの種明かしで、さっと幕を下ろすスマートな演出を賞味すべき作品である。

 『自宅にて急逝』は、これぞクリスチアナ・ブランドというべきセンスにあふれた傑作「短編的長篇ミステリ」であると断言しよう。

 

 (追記。以下、重大なネタバレをしているので、ご注意ください。)

 ところで、ブランドのこれまでの四長編のうち、実に、三作までが女性犯人である。多分、男性作家では、ここまで多くはないような気がするが、そうでもないだろうか。統計をとったことはないのでわからないが、本書の場合、トリックの性質上、女性犯人でなければ不可能もしくは困難ではある。

 もうひとつ疑問に思った点を挙げると、最初の死体発見の場面で、犯人は、フランス窓に駆け寄ってノブを鳴らし、中を覗き込むや、すぐさま母屋に走って戻る。その様子が描かれる[iii]のだが、犯人が、誰も見ていないのに、あたかも初めて死体を発見したように驚きうろたえるさまを見せるのは、読者に対して芝居をしていることになり、不自然である。ただし、本書の場合、家族の誰かが覗き見ていることを想定して、あえて、そうふるまったようでもある[iv]。コックリル警部(すなわち、作者)は、その点にまったく触れないので、少し気になった。

 同様の場面は、実は1950年代の長編にも見られるが(注で題名を挙げます)[v]、そちらは、まさに、「犯人が死体を発見する」シーンが、謎解きの要になっている。発想がワン・パターンのようにも見えるが、作者にすれば、それだけ拘りのあるアイディアだったのかもしれない。

 

[i] 『自宅にて急逝』(恩地美保子訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1959年)。アメリカのほうが刊行が先で、イギリスでは1947年刊だったらしい。クリスチアナ・ブランド『招かれざる客たちのビュッフェ』(創元推理文庫、1990年)、(ロバート・E・ブライニー編)「クリスチアナ・ブランド書誌」、536頁。

[ii] 『自宅にて急逝』、235-36頁。

[iii] 同、59-60頁。

[iv] 同、209-10頁には、そう思わせる登場人物のセリフがある。

[v] 『疑惑の霧』(1952年)。