ニコラス・ブレイク『証拠の問題』

(本書の犯人およびトリックのほかに、G・K・チェスタトンの短編小説のトリックを明かしています。)

 

 ニコラス・ブレイクこと、セシル・デイ・ルイスは1904年にアイルランドに生まれた桂冠詩人で、俳優ダニエル・デイ・ルイスの父親としても知られている。といっても、ルイスの詩は一つも読んだことはない。知っているのは、ミステリ作家としてのニコラス・ブレイクのほうである。生まれがアイルランドであることは、ブレイクの翻訳書をみると、大抵書いてあるのだが、アイルランドのどこで生まれたのかまでは記載されていない。興味が湧いたので、セシル・デイ・ルイスのウィキペディアを検索したら、アイルランドのBallintubbertだと書いてある[i]。こんな地名、読めやしないが、どうやらダブリンのあるアイルランド東南部レンスターの所在らしい。

 最初から妙なところで手古摺ったが、ブレイクのミステリは、『死の翌朝』[ii]が出版されて、20冊すべてが日本語になった。多作というほどではなかったが、翻訳に恵まれた作家のひとりといってよいだろう。日本での知名度は、クリスティやクイーンのような巨匠に、はるかに及ばないのだから、むしろ快挙とさえいえそうである。さほど人気があるとも思えないし、傑作ぞろいというわけでもないのに、なぜだろう。不思議だ。皆、そんなにブレイクのミステリが読みたいのか。

 しかし、わたしは読みたい。ブレイクを読んでいると、何ともいえず気分が良い。ミステリとしての出来を云々する以前に、読んでいて楽しい。こういうミステリ作家は、他にあまりいない。エラリイ・クイーンも、ディクスン・カーも、謎解きの見事さや結末の意外性と切り離して、純粋に小説として面白いと思ったことは、あまりない。しかし、ブレイクはある。他の作家で探すと、レジナルド・ヒルなどもそうだが、ヒルの場合は、キャラクターと会話の面白さ、そしてユーモアと、勘所は割合はっきりしている。ブレイクは、正直、何で面白いのか、よくわからないのだが、内容はまったく覚えていないくせに、読んだときの楽しさが記憶として残っているのが何冊もある。かつて、江戸川乱歩がブレイクを日本に紹介したとき、「文体にはおっとりした滋味があり、・・・私などには遥かに親しみ易い」[iii]と書いていたが、結局それが当たっているのかもしれない(原書を読んだことは一度もないが)。しかし、まだほかにも何かありそうな気もする。生憎、『くもの巣』だけ読み残しているのだが、そのあたりを再度確認してみようと思って、せっかくなので、年代順に読み返すことにした。最初は、もちろん『証拠の問題』である。

 『証拠の問題』(1936年)[iv]は、イギリス伝統の学園ミステリである。冒頭で、予備校[v]と訳されているので、パブリック・スクールへの進学を目指す児童生徒のための私立のプレップ・スクールらしい。体育競技会の日、運動場脇に積み重ねられた干し草の山の陰で、憎まれ者の生徒が殺害されていたという事件である。殺害時刻と同じ頃に、現場付近で教師のひとりが校長の妻と秘密の逢引きをしていた。彼は不倫が暴露されるのではと恐れるが、さらに捜査が進むと、今度は、父兄とのクリケット試合の最中に校長が刺殺されるという事件が起こる。疑いは、当然、不倫を隠している教師マイケル・エヴァンズと校長の妻ヘロ・ヴェールにかかるが・・・。といった具合に、いかにもお膳立て通りの連続殺人事件に学校の教師や生徒がてんやわんやになる。事件は、主にマイケルの視点で語られ、彼の友人として登場するのが、素人探偵のナイジェル・ストレンジウェイズである。名前からして、「変人」探偵であるが、しかし、その変人ぶりは、主に、饒舌なおしゃべりと、やたらと紅茶を飲みたがるという英国人らしいふるまいに表われている程度で、作者が狙っているほどの奇人には見えず、ブレイクのミステリ全体がそうであるように、むしろ控えめな変人(?)である。

 ストレンジウェイズの探偵法は、よく言われるように、心理的なそれであり、本作でも物的なデータからの推理はほとんど見られない。作半ばを過ぎたあたりで、早くも、犯人はわかった、と明言するが、証拠がつかめないんだ、ともいう。「証拠の問題」なんだ、というわけで、探偵小説の良い題名だ、などと自画自賛のメタ・フィクション的発言をする[vi]。しかし、その後も、決定的な「証拠」をみつけるというわけでもなく、最後は、犯人を罠にかけて自滅を誘う。彼の探偵法は、要するに、不倫関係の男女に対する、ゆがんだ正義感に基づく怒り、自分を嘲弄する生意気な生徒に対する怒り、といった、ある意味、20世紀後半のサイコ・スリラーに登場しそうな精神病質者的犯人を、関係者の性格分析から割り出すというものである。1930年代当時、ミステリとして、これがどこまで新鮮な印象を与えたのかは、わからないが、文学的なミステリを書こうとしたというより、物的な証拠を収集する警察の捜査との対比を考えて、このような探偵法を採用したのだろう。犯行時刻の前後における犯人の挙動などを手がかりとしているように、観察に基づく断片的な手掛かりを根拠とする[vii]クリスティ的な推理も見せるので、従来のイギリス・ミステリから、それほど逸脱した新奇なものではない。

 もうひとつのアイディアは、殺害方法のトリックで、競技会やクリケット試合のさなか、皆の注意がレースやゲームに集中している隙をついて殺人を決行するというものである。これは、G・K・チェスタトンの「銅鑼の神」[viii]という短編で使われているトリックと原理は一緒だが、意図的にチェスタトンを下敷きにしたのか、それとも偶然なのかは判別しがたい。ただ、ブレイクは、『血塗られた報酬』(1958年)のプロットがパトリシア・ハイスミスの『見知らぬ乗客』(1950年)に酷似していると気づくと、わざわざ同書の「追記」で、ハイスミスの了解を取った、と書く[ix]くらいなので、剽窃や盗作の問題については慎重な性格なのだろう(というより、ミステリ作家としては当然か)。従って、「銅鑼の神」のことは気がつかなかったのか、もしくは、こうしたトリックは定石と考えたのかもしれない。

 いずれにしても、『証拠の問題』は、際立ったトリックがあるでもなく、目覚ましい推理が披瀝されるでもない、さして特徴のない処女作ということになりそうである。多分、クイーンやカーを読みなれた眼には、いかにもポスト黄金時代の現実的だが地味なミステリとしか映らないだろう。

 むしろ注目すべきは、教師同士の、あるいは教師と生徒間の日常的な会話の背後に隠された悪意や敵意と、それらを観察するストレンジウェイズのシニカルな眼で、現代ミステリのような過剰な描写や派手なプロット展開は見られないものの、そこに今日のクライム・ノヴェルに通じるものがあるし、一方で、古きよきイギリス・ミステリのもつ「滋味」があふれているともいえる。

 やはり、ニコラス・ブレイクらしい処女作だった、といえるだろう。

 

[i] Cecil Day Lewis: Wikipedia. その後、改めて各訳書のあとがきを調べたら、『血塗られた報酬』の解説で、小倉多加志氏が、ルイスは「アイルランドのBallintogher(またはBallitubber)に生まれた」と、ちゃんと書いてあった。『悪の断面』のあとがきでは、「アイルランドのバリンタバー」の生まれだと読み方も書いてくれている。失礼しました。『血塗られた報酬』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1983年)266頁、『悪の断面』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1981年)、309頁。

[ii] 『死の翌朝』(熊木信太郎訳、論創社、2014年)。

[iii] 江戸川乱歩幻影城』(講談社文庫、1987年)、127頁。

[iv] 『証拠の問題』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1962年)。

[v] 同、9頁。

[vi] 同、147頁。

[vii] 同、222-23頁。

[viii] G・K・チェスタトン「銅鑼の神」(1914年)『ブラウン神父の知恵』(中村保男訳、創元推理文庫、1982年)、224-49頁。

[ix] 『血塗られた報酬』、264頁。

ビー・ジーズ・トリビュート・アルバム1996-1998

Soul of the Bee Gees (US, 1996)

01 Al Green, How Can You Mend A Broken Heart (1972)

02 Rufus featuring Chaka Khan, Jive Talkin’ (1975)

03 Candi Staton, Nights on Broadway (1977)

04 Portrait, How Deep Is Your Love (1995)

05 Dionne Warwick, Heartbreaker (1982)

06 Percy Sledge, I’ve Gotta Get A Message to You (1975)

07 The Staple Singers, Give A Hand, Take A Hand (1971)

08 Richie Havens, I Started A Joke (1969)

09 Nina Simone, Please Read Me (1968)

10 Jerry Butler and Thelma Houston, Love So Right (1977)

11 Yvonne Elliman, If I Can’t Have You (1977)

12 Tavares. More Than A Woman (1977)

13 Samantha Sang, Emotion (1977)

14 Robin Gibb, Toys (1985)

 1996年に発売されたビー・ジーズのトリビュート・アルバムだが、1993年の『ソングブック』とかなり重複しており(01、02、03、05、07、12、13)、さらに、イヴォンヌ・エリマンもわざわざここで聞かせてもらうまでもない。ロビンの「トイズ」も1990年のボックス・セットに収録済みだった[i]。『ソングブック』に比べると、かなり見劣りする残念な出来である。

 ブレナンが指摘している[ii]ように、ブラック・アーティスト中心の選曲なので、タイトルも『ソウル・オヴ・ザ・ビー・ジーズ』なのだろうが、コンセプト・アンド・ディレクションがSaul Davisという人物なので[iii]、それも理由なのだろうか。

 それでも、何曲か、初めて耳にする曲があって、それらはなかなか楽しめる。

 ポートレイトの「ハウ・ディープ・イズ・ユア・ラヴ」は、アコースティック・ギターをバックに、原曲よりさらにスローだが、瑞々しく爽快なカヴァーになっている。翌年にイギリスでナンバー・ワンになったテイク・ザットのヴァージョンと似た印象で、一年早くイギリスで41位にランクされた[iv]。1996年にテイク・ザットとボーイゾーンの「ワーズ」がナンバー・ワンとなって、イギリスにおけるビー・ジーズのカヴァー・ブームに火が付くのだが、生憎ポートレイトのヴァージョンは火付け役にはなれなかった。しかし、フィンガー・スナップなどを交えた若々しいコーラス・ワークは、テイク・ザットのヴァージョン以上に洗練された味わい。

 パーシィ・スレッジの「獄中の手紙」も艶のあるヴォーカルが大人の魅力を感じさせて、やはり黒人アーティストが歌う本曲は映える。

 リッチー・ヘイヴンズの「アイ・スターテッド・ア・ジョーク」も飄々とした味のあるヴォーカルで聞かせる。ワン・コーラスで終わってしまうのは惜しい。

 ニーナ・シモンの「プリーズ・リード・ミー」は意外な選曲だが、ライヴらしく、ピアノをバックにソウルフルというより、しっとりとした歌声を聞かせる。さすがの歌心で、原曲のあっけらかんとしたコーラスと違い、切々と訴えかけるような情感あふれるヴォーカルが原曲のイメージを一新させている。

 ジェリィ・バトラーとセルマ・ヒューストンの「ラヴ・ソー・ライト」もライヴだが、実際は「ラヴ・ソー・ライト」とシカゴの「イフ・ユー・リーヴ・ミー・ナウ(If You Leave Me Now)」のメドレーになっている。どちらも1976年のヒット曲で、メドレーというより、自在に二曲を接ぎ木しながら、「ラヴ・ソー・ライト~」のコーラスで盛り上げるサビは圧巻だ。5分超を飽かせることなく歌に引きこんでいく二人の熟練の掛け合いが素晴らしい。

 

We Love the Bee Gees (Germany: BMG, 1997.12)

01 Take That, How Deep Is Your Love (1996).

02 Sash! Featuring Debbie Cameron, Too Much Heaven.

03 Captain Jack, You Win Again.

04 Masterboy, Nights on Broadway.

05 U96, World.

06 Element of Crime, I Started A Joke.

07 Vivid, Massachusetts.

08 Trieb, More Than A Woman.

09 Nana, Too Much Heaven.

10 3 Deep, Juliet.

11 Andreas Dorau, Die Menschen Sind Kalt (Wind of Change).

12 Whirlpool Production, Tragedy.

13 Three ‘N One, You Should Be Dancing.

14 Ex-It, Night Fever.

15 Marusha, World.

16 ‘N Sync, Bee Gees Tribute: Jive Talkin・’Too Much Heaven・How Deep Is Your Love・Stayin Alive.

 ドイツ産のトリビュート・アルバム[v]。若手アーティストによって、主として1970年代後半のディスコ・エイジにおけるヒット曲を中心にカヴァーされている。

 何しろ、若手(当時)のヒップ・ホップやテクノのバンド中心なので、かなり大胆なカヴァーが多い。

 03の「ユー・ウィン・アゲイン」や09の「トゥ・マッチ・ヘヴン」、14の「ナイト・フィーヴァー」などがヒップ・ホップによるアレンジで、大体予想通り。しかし、09は、ヴォーカル・パートも強力で、14も、オリジナル顔負けのファルセットで大いに盛り上がる。

 12の「トラジディ」、13の「ユー・シュッド・ビー・ダンシング」は、サンプリングを使って、原曲を解体して継ぎ合わせたナンバーで、これらもいかにもといったところか。

 08の「モア・ザン・ア・ウーマン」は、軽やかだが落ち着いたヴォーカルと、弾むようなサウンドが相まって、好ましい出来。10の「ジュリエット」も原曲がそもそもテクノ・ポップ風なので、それを90年代風に強化したサウンドだが、思ったよりオリジナルを忠実に再現している。

 02の「トゥ・マッチ・ヘヴン」は、09と比べて、オリジナルに近いが、女性ヴォーカルのソウルフルな歌声が曲にうまく合っている。04の「ナイツ・オン・ブロードウェイ」も、原曲よりもシャープなサウンドで、同時に原曲のコーラスを上手くアレンジしている。

 05の「ワールド」は冒頭がオペラかと思うようなヴォーカルで始まるが、全体の印象は、随分スペイシーなアレンジで、まるでプログレッシヴ・ロックのように聞こえる。一方、15の「ワールド」は、ダンス・ビート・ヴァージョンだが、インストルメンタル・パートを増やして、新しい魅力を生み出している。

 07の「マサチューセッツ」や08の「アイ・スターテッド・ア・ジョーク」の60年代の楽曲は、かなり自由なアレンジで、原曲を聞きなれた耳には新鮮というか、別の曲に聞こえる。

 だが、目玉となるのは何といっても01のテイク・ザットの「ハウ・ディープ・イズ・ユア・ラヴ」だろう。イギリスでナンバー・ワンとなって、ドイツでも7位にランクした[vi]。このトリビュート・アルバムの企画も、恐らくテイク・ザットの成功に刺激されたものなのだろう。ギターの弾き語りのようなシンプルなスタイルだが、ビー・ジーズのオリジナルとは、また違った巧みなコーラス・ワークで、原曲の魅力を存分に引き出している。

 もうひとつの聞きものは16のメドレーで、ヴォイス・パーカッションを交えて、ア・カペラで見事に曲をつないで3分足らずでまとめている[vii]

 変わったところでは、11のドイツ語版「ウィンド・オヴ・チェンジ」で、サビのメロディアスなコーラスを中心に構成して、なかなか聞かせる。

 全体を見渡した特徴は、何曲か重複して収録されていることで、「トゥ・マッチ・ヘヴン」など、聞き比べることができる。「ワールド」も複数カヴァーされているが、さすが同曲がチャート1位を記録したドイツならではということだろうか。そういえば、ロビンのソロの「ジュリエット」もドイツでは1位になっている。

 このアルバムからはCDシングルもリリースされた[viii]そうで、ナナの「トゥ・マッチ・ヘヴン」が、ドイツで2位まで上昇するヒットになった[ix]

 

Gotta Get A Message to You (UK: Polydor, 1998.10)

01 911, More Than A Woman.

02 Ultra Naté, How Deep Is Your Love.

03 Steps, Tragedy.

04 Boyzone, Words ’98.

05 Cleopatra, Gotta Get A Message to You.

06 Adam Garcia, Night Fever.

07 Space, Massachusetts.

08 Louise, If I Can’t Have You.

09 Robbie Williams & the Orb, I Started A Joke.

10 Monaco, You Should Be Dancing.

11 Dana International, Woman in Love.

12 Spikey T & Gwen Dickey, Guilty.

13 Lightning Seeds, To Love Somebody.

 1998年のトリビュート・アルバムは、テレビ局のライヴ・チャレンジ99(Live Challenge ’99)というチャリティ企画(?)の一環として制作されたものらしい[x]。北西イングランドのホームレスの若者救済のためのプロジェクト[xi]で、ギブ兄弟の故郷マンチェスターも含まれている。本命(?)のイギリス・ポリドールからの発売で、チャリティ企画ということでお金もかけているのか、アルバム・ジャケットは安っぽいが、各アーティストのコメント入り写真を掲載したブックレットは、なかなか立派。すべて新作ということでか、収録も13曲と押さえ目(ただし、ボーイゾーンの「ワーズ」はリメイク版)。

 新世代(当時)のコーラス・グループが入っているせいか、えらく元気のいい曲が多い。911の「モア・ザン・ア・ウーマン」、ステップスの「トラジディ」が典型だが、前者など、派手々々しくキラキラした印象で、まるでオズモンズが歌っているような、何とも若々しくて爽やかなカヴァーである。「トラジディ」も同様だが、女声のリード・ヴォーカルがファルセットとは一味違う落ち着きを見せて、しかし、スピーディで華やかで屈託がない。ボーイゾーンの「ワーズ」は1996年のヒットと基本的に変わらないようだが、原曲の構成を大胆に組み替えて、クライマックスを先に持ってくることで人気を博したようだ。これらのカヴァーは、いずれもオリジナルに忠実で、そのことはステップスの「あまり変えなかった。90年代風にアップ・デートしただけ」というコメントからもうかがえる[xii]

 02の「ハウ・ディープ・イズ・ユア・ラヴ」は、最初、テクノ風?と思うイントロだが、ヴォーカルは原曲以上にロマンティックで、しかもセクシーで引き込まれる。08の「イフ・アイ・キャント・ハヴ・ユー」も、オリジナルをくずした、随分おしゃれな導入から、基本的には原曲を活かしたアレンジで、こちらもチャーミングな出来。クレオパトラのアルバム・タイトル曲は、ガールズ・グループのカヴァーで大変キュートな「獄中の手紙」になっている。ソウル・バラード風のしなやかなアレンジは、シュープリームスがカヴァーしたらこうなりそうな印象。

 これまで自由な解釈のトリビュート・アルバムも多かったせいで逆にそう思うのか、あるいはチャリティ企画なので、より広いリスナーをターゲットにしたせいか、はたまた人気アーティストたちによるカヴァー集だからか、オリジナルを大胆に改変したカヴァーは比較的少ない。そのなかで異彩を放っているのが、07の「マサチューセッツ」と09の「アイ・スターテッド・ア・ジョーク」だろう。前者は、パンク・バンドがお遊びでカヴァーしているような奔放さで、コメントには「俺たちがこの曲を選んだのは、マネージャーがマサチューセッツと書けるかどうか知りたかったからさ」[xiii]って、さすがです、イングリッシュ・ジョーク。後者は、SF的、あるいはテクノ・レゲエ的なアレンジで、さらにアヴァンギャルドというか、シュールリアリスティックというか、すごいです。10の「ユー・シュッド・ビー・ダンシング」もダンスはダンスでも、90年代風メカニカルなモダン・ポップ・サウンドなので、原曲のおとなしめなディスコとは大違いだ。

 アダム・ガルシアの「ナイト・フィーヴァー」は、ロンドン・ミュージカルの『サタデイ・ナイト・フィーヴァー』の主演者によるカヴァーだけあって、まさにステージの、そして映画の、あのダンス・シーンが目の前に浮かんでくるようだ。

 バーブラ・ストライサンドのアルバムからの2曲もいずれも聞きごたえがある。11の「ウーマン・イン・ラヴ」は、あえて原曲に忠実で、ストライサンドに張り合うかのようなヴォーカルを聞かせる。12の「ギルティ」も、原曲よりラフでライヴ感いっぱいのデュエットだが、どこか南国リゾート風、あるいはレゲエ風のニュアンスで、しかし、オリジナルのストライサンドに負けない(バリーには勝っている?)歌唱で魅了する。

 ラストは、ギターの弾き語りによるフォーク・ソング版の「トゥ・ラヴ・サムバディ」だが、けれん味のないアレンジで、飾らない歌声とコーラスが原曲の魅力をさらに高めている。

 このアルバムからは、何曲かシングル・カットされたようで、イギリスのチャートでは、911の「モア・ザン・ア・ウーマン」が2位、ステップスの「トラジディ」は1位に輝いた[xiv]

 

[i] Bee Gees, Tales from the Brothers Gibb: History in Song 1967-1990 (Polydor, 1990), Disc 4.

[ii] Gibb Songs, Version 2: 1996.

[iii] Soul of the Bee Gees (The Right Stuff, 1996).

[iv] Melinda Bilyeu, Hector Cook and Andrew Môn Hughes, The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb (New edition, Omnibus Press, 2001), p.708.

[v] J. Brennan, Gibb Songs, Version 2: 1997.

[vi] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.708.

[vii] ドイツでの音楽賞の授賞式でライヴで披露したものを、本アルバムのためにレコーディングしたのだという。We Love the Bee Gees (BMG, 1997).

[viii] Gibb Songs, Version 2: 1997.

[ix][ix] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.708.

[x] Ibid., p.642.

[xi] Gotta Get A Message to You.

[xii] Ibid.

[xiii] Ibid

[xiv] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.708.

ジョン・ディクスン・カーと語りの詐術

(『夜歩く』、『五つの箱の死』、『テニスコートの殺人』、『九人と死で十人だ』、『殺人者と恐喝者』、『皇帝のかぎ煙草入れ』、『爬虫類館の殺人』、『囁く影』、『疑惑の影』、『墓場貸します』、『ビロードの悪魔』、『九つの答』、『ハイチムニー荘の醜聞』、『雷鳴の中でも』、『亡霊たちの真昼』、『血に飢えた悪鬼』の記述トリックに触れています。)

 

 ジョン・ディクスン・カーは、様々な不可能犯罪トリックを考案したことでミステリの歴史に名を残した。その代表が「密室トリック」で、密室といえばカー、というのは、日本のみならず、欧米のミステリ界においても通り相場となっている。

 しかし、カーのミステリがもっとも重視してきたものは、フェアプレイであり[i]、読者と謎解きを競い合うことだった。といっても、エラリイ・クイーンのように、犯人を推理するためのすべてのデータを提示しました、といった意味でのフェアプレイではない。パズル・ミステリのルールさえ守っていれば、すなわち、作者が読者に嘘さえついていなければ、どんな悪どい・・・、いや、反則すれすれのトリックでも許容される、というのがカーの信条であった。ときに、境界線を飛び越えたように見えることもあったが・・・。

 そうしたカーの姿勢が顕著にあらわれるのが文章によるトリックである。ミステリも小説なのだから、あらゆるトリックは文章のトリックに過ぎないとも言えるが、この場合は、フェアプレイの範囲内(場合によっては境界線上)で、文章を意図的に操作することで作者が読者に仕掛ける騙しのテクニックのことである。

 ある意味、カーの天才が最大限に発揮されるのは、この、いわゆる「叙述トリック」とか「記述トリック」といわれる分野であったのではないか。もちろん、カーも最初からそうした手管に長けていたわけではなく、読者との騙し合いや同業作家との競い合いの修練を経て、その技術を磨いていったのだろう。長編小説を素材に、その技芸向上の鍛錬のあとを辿ってみよう。

 例えば、処女作『夜歩く』(1930年)には、作中、犯人が、殺害現場となる部屋に入る人物の後姿を指して「ラウールだわ、ほら。カード室へ入るところよ」[ii]と叫ぶ場面がある。しかし、その人物は被害者のラウールではなく、共犯者である。無論、これは叙述トリックというほどのものでもなく、作中で犯人がいくら嘘をつこうと、そこは何ら問題ない。ところが、1969年作の『亡霊たちの真昼』では、疾走する自動車を追跡する場面で、「レオは憑かれたように前方を凝視していた」[iii]、という地の文が出てくる。地の文だから、これは作者による客観描写である。それなのに、この「レオ」も実際はレオではなく、別人なのである。これは一見してアンフェアと言わざるを得ない。作中人物の主観描写なら、いくら嘘を書こうが、それは、その人物の故意の虚言もしくは思い違いなのでアンフェアではない。しかし、作者が客観描写で嘘を書くことはフェアプレイに反する。御法度である。これがパズル・ミステリの基本ルールといえる。『亡霊たちの真昼』の事例は、カーらしくもない失態に映る(この評価は誤りだったので、訂正します。追記を参照のこと)。

 『亡霊たちの真昼』は、作者が嘘を書いているという意味でアンフェアだが、叙述トリックで代表的なものといえば、「語り手が犯人」のアイディアにおける省略の技法[iv]だろう。代表的なのが、言うまでもなくA・クリスティの某長編であるが、カーの場合は、『五つの箱の死』(1938年)が、作中人物の手記というクリスティのアイディアをそのまま借りて、しかし、記述者は犯人ではなく目撃者で、思惑があって、意図的に肝心な事実を隠すというアレンジを加えている。たとえば、「私は衣装戸棚を見ていたが、ふと気づいて外に出ていった」[v]などと書かれるのだが、そこには記述者がわざと書いていない事実が隠されているという具合である。一方、翌年の『テニスコートの殺人』では、記述者ではなく、作者の客観描写のなかに省略のテクニックが使われている[vi]

 「省略の技法」ではなく、「客観描写と主観描写の錯誤」では、次のような例がある。『墓場貸します』(1949年)のプールにおける人間消失のシーンで、「プールの反対側に、ジーンとデーヴィスが並んで浮び上がり、手すりにつかまって、楽しそうにおでこをくっつけ合っていた」[vii]、という客観描写が出てくる。ところが、ここでも「デーヴィス」はデーヴィスではない別人である。しかし、同作の場合、その前の箇所で、作者はわざわざ読者に語りかけるかたちで、主人公の眼を通して事件を見て行こう、と書いていて、つまり上記の描写は作者による客観描写ではなく、登場人物の主観描写である、というのである。これはペテンなのか、巧妙なトリックなのか、微妙なところであるが、これこそがまさにカーの典型的な手口である。

 さらに巧妙なのが歴史ミステリの『ビロードの悪魔』(1951年)で、現代人のニック・フェントン教授は17世紀の貴族ニック卿に憑依して、過去の殺人事件の謎を解こうとする。ところが犯人はニック卿で、フェントン教授が怒りに我を忘れると、卿に意識を取り返されてしまう、という条件があらかじめ(悪魔との契約によって!)課されている。こうしたSF的(?)シチュエイションを用いることで、本作の犯人は、いわゆる「記述者が犯人」、すなわち一人称小説の語り手が犯人というアイディアのヴァリエーションになっている。主人公視点で語られているので、フェントン教授が怒りにかられて意識を失うと、時間が飛んでしまい、従ってその間(犯行時)の客観描写は省略される[viii]というずるい手が可能なのだ。しかも、フェントン教授がニック卿に意識を奪われる様が、その前のページで客観描写として描かれている[ix]。それなのに肝心な殺人の場面は主人公の主観描写で省略しているので、なおのこと、読者はこの省略の技法に気づきにくいという仕組みになっている。作者にしてみれば、ちゃんと予め手がかりは示しているよ、といいたいのだろう。

 「ビロードの悪魔」は、いわば二重人格テーマのミステリと同じで、主人公は自らが殺人者であることを知らないのだが、二年前の『疑惑の影』(1949年)は、殺人犯人が自分が犯していない別の殺人事件で裁判にかけられるというアイディアを使って、犯人の心理描写を取り入れている。犯人は心の中で「自分は無実だ」と叫ぶ[x]のだが、それは確かに嘘ではない(別件では犯人だが)、というインチキくさいトリックである。(別の事件で自分が殺人を犯したことをチラとも心に思い浮かべないというのは不自然ではないのか?)

 カーの作品のなかで、叙述トリックとしてもっとも有名なのは『殺人者と恐喝者』(1941年)かもしれない。本作冒頭で、「Aという人物がBを殺害した」と書いておいて、それは「認められた事実だった(That was the admitted fact.)」[xi]、と付け加えている。実際は事実ではなく、犯人は他にいるのだが、作者の言い分は、「認められた事実」というのは、あくまで関係者がそう認めたというだけであって、私(作者)はそんなことは言っていない、というのである。何という、ずうずうしい言い草であろう。もっとも、このトリックはあからさま過ぎて、さほど面白くないという気もする。

 このように見てくると、代表作の『皇帝のかぎ煙草入れ』(1942年)の意外な犯人も、同様の口から出まかせの詐欺師まがいのトリックにほかならないといえる。犯人は、暗示を受けやすいヒロインに一緒に殺人の瞬間を目撃したと思わせるため、「僕たちがみたものを覚えているだろう?」としつこく繰り返す。すると、ヒロインの主観描写で、「その光景がまざまざと浮かんできた」、と書かれる。読者もつられて、犯人とヒロインは被害者がまだ生きているところを目撃したのだと思い込むのだが、地の文では、実際にヒロインが目撃したとは一言も書いていなくて、それは彼女が暗示にかかっただけだった、とわかる[xii]。ヒロインの事実誤認を主観描写で描いて、客観描写のように思わせる。なんだか本当にペテン師にまるめこまれた気分になる。

 上記の事例によると、カーが語りのトリックを多用するようになるのは1940年前後からといえそうだ。1930年代の派手な奇術ショーから、40年代の小味なメンタル・マジック風のミステリに移行するに際し、カー自身、読者とのポーカーのごとき騙し合いの駆け引きに楽しみを見いだすようになったらしい。

 ありふれた記述トリックを注釈というメタ・フィクション的手法でカヴァーして、読者を瞞着しようとしたのが、『九つの答』(1952年)である。作中、登場人物のひとり(実は犯人)が毒を飲んで昏倒する。主人公はその場を逃れて、以後、犯人の生死は不明のまま小説は続く。当然、読者は、本当に毒を飲まされたのか、本当に死んでいるのか、と疑うのだが、作者はわざわざ注をつけて、犯人が毒を飲まされたのは本当だ(でも、死んだわけではないけどね)、と念を押す[xiii]。こんな姑息なトリックのために、注を九つも考えるとはご苦労千万な話だが、「木の葉を隠すには、森をつくれ」というわけだろうか。

 また『九つの答』は、前記の『墓場貸します』で見せた「Aに扮しているBをAと書いてはいけない」というルールを守るため、綱渡り的描写を数十ページにわたって続けるという、一種のはなれわざをみせてくれる。伯父に変装した犯人が最初に登場するとき、彼は「主人」と表現される[xiv]が、名前は記されていない。その後、犯人が彼自身ではなく、彼が扮している伯父の名前で呼ばれるが、それは主人公の内心のつぶやきであることがわかる[xv]、といった具合である。こうした描写の工夫については、作者自身が注で嬉しそうに説明しており、「これは読者を迷わせるための正当な手段である」[xvi]、と勝ち誇って宣言する。確かに、その労力には頭が下がる、というか、むしろ呆れる。

 次にカーが考案したテクニックが、登場人物同士の会話で双方が誤解しているために話がかみ合わない、というものである。『ハイチムニー荘の醜聞』(1959年)で、恋する女性に犯罪者の血が流れているかもしれないと知った主人公は、彼女の父親に向かって、(彼女とその姉と)どちらに悪い血が伝わっているのか、はっきり言ってくれ、と迫る。父親のほうは、おわかりのはずだ、と曖昧な返答しかしないが、実は、犯罪者の子どもというのは息子のほうだった、という結末[xvii]。主人公の思い込みによる誤解が読者にも伝わるように会話を組み立てるという、蛇のようなずる賢さである。

 この手口が気に入ったのか、それとも、まだ十分堪能していなかったのか、翌年の『雷鳴の中でも』(1960年)においても同様の手法を用いている。被害者の元女優がヒロインに向かって、「よくも彼をたらしこんだりしたわね、この薄汚い女狐め!(そんな言葉は使ってないか)」、と罵るのだが、ヒロインのほうは、女優の夫のことと思って抗弁する。ところが、実は義理の息子のほうだった、というのが真相である[xviii]。父親もヒロインに気があるような描写を織り交ぜて、被害者の真意を隠蔽し、巧みに犯人の動機を隠す。相変わらず、悪魔のような狡猾さといわねばならない。

 登場人物のセリフを用いた叙述トリックといえば、名探偵のフェル博士やヘンリ・メリヴェル卿はどうか、という興味もある。彼らの、読者を散々焦らして煙に巻く、はぐらかし発言の数々は政治家の選挙公約以上に信用ならないが、例えば、初期の『死時計』(1935年)で、こんな会話が出てくる。

 

  「○〇〇○〇?そいつが殺人犯人なんですか?」

  「いや、殺人をするつもりだと認めただけなんだ。(一部改変。以下、略)」[xix]

 

 既読の読者には説明不要だが、犯人なのか違うのか、と聞かれているのだから、イエスかノーで答えればいいものを、こんな曖昧な返事しかしないのはどういうつもりなのか、と思っていると・・・、いや、もうすでに半分ネタ晴らしをしてしまったが、どうやら、カーが叙述トリックに味をしめるようになったのは、この辺りからなのかもしれない。

 前述の『墓場貸します』[xx]では、さらに手口が悪質になって、ヘンリ卿が、実は犯人なのに、あいつは犯人じゃないよ、と猫なで声で口にする。ところが、犯人が逮捕されたあとになると、あれは、犯人の婚約者にショックを与えないためのやむを得ない嘘だったんだ、と神妙につぶやく。また、だましやがったな、このオヤジ!(ガラが悪いなあ。)

 叙述トリックとまで言えないが、『囁く影』(1946年)[xxi]のタイトルにも狙いがありそうだ。He Who Whispersという原題は、作中の奇怪な殺人方法のトリックを暗示しているが、犯人は男性であると明かしてしまっているように思える。だが、よく考えると、あの奇抜なトリックをフェル博士より早く解き明かせる読者はまずいないだろう。最後の謎解きが済んで、初めて題名の意味がピンとくるようにできている。これもカーらしいお遊びといえる。  (題名を伏線に用いる手法は、『九人と死で十人だ』(1940年)[xxii]、『爬虫類館の殺人』(1944年)[xxiii]にも見られる。)

 以上、ディクスン・カーの語りの詐術について、代表的な諸編をトレースしてきた。実は最後にもうひとつ『血に飢えた悪鬼』(1972年)[xxiv]という掟破りの怪作があるのだが、果たしてこれは叙述トリックといえるのか決め難く、ひとまず保留とする。

最後に、ここまでの記事の大半は以前に書いた別の記事と重複する結果になってしまった。諒とされたい(一度、この言い回しを使ってみたかった)。

 

(追記)

 『亡霊たちの真昼』(1969年)の殺人場面で、実際はAである人物をBと書いているのを本文でアンフェアと書いたが、どうやら、これは筆者が間違っていたようだ。三人称小説でも、登場人物の主観で描写することは可能だし、近年ではそうした手法は承認されている。

 つまり、問題の個所は、主人公ジム・ブレイクの主観描写であり、運転手がレオ・シュプレーと呼ばれるのはジムの視点で語られる場合と解釈できる[xxv]

 すると、『墓場貸します』(1949年)で、わざわざ、主人公の視点で経過を見ていこう、と作者が断りを述べていた[xxvi]のとは手法が異なるわけだが、20年間の間に、カーの考え方が変わったのだろうか?

 その解答は、三年後に書かれた『九つの答』(1952年)をみると解決する。上記にも引用した「注の9」を読み返すと、次のように書かれていた。「にせ者のゲイが現われる場面においても、作者自身はそれが本物のゲイロード・ハーストだとは言っていない。・・・しかし彼の登場する場面では、この場合もビルの目に対してのみゲイロード・ハーストなのである。」[xxvii]すなわち、ビルの視点による場合は、本当はAであるけれどもBと書いている、ということである。

 従って、『九つの答』の段階で、すでにカーは、登場人物の視点による場合、AをBと書いてもよいという立場に立っており、『墓場貸します』では、意図的に断り書きを入れる手法を取ったに過ぎないと考えるのが適切なようである。

 『亡霊たちの真昼』執筆の際には、もはや『九つの答』のように、弁明(自慢?)する必要を感じず、「登場人物の視点」を利用することによって叙述の問題をクリアしようとしたと見ることができる。

 ということで、筆者の『亡霊たちの真昼』に対する評価は間違っていたようなので、訂正します。(2024年2月4日)

 

[i] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、471頁。

[ii] 『夜歩く』(和邇桃子訳、創元推理文庫、2013年)、31頁。

[iii] 『亡霊たちの真昼』(池 央耿訳、創元推理文庫、1983年)、174頁。

[iv] アガサ・クリスティの代表作が適例。

[v] 『五つの箱の死』(西田政治訳、1957年)、237頁。

[vi] 『テニスコートの殺人』(三角和代訳、創元推理文庫、2014年)、55頁。

[vii] 『墓場貸します』(斎藤数衛訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1980年)、90頁。

[viii] 『ビロードの悪魔』(吉田誠一訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1981年)、402頁。

[ix] 同、131-64頁。

[x] 『疑惑の影』(斎藤数衛訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1982年)、60頁。

[xi] 『殺人者と恐喝者』(高沢 治訳、創元推理文庫、2014年)、7頁。

[xii] 『皇帝のかぎ煙草入れ』(駒月雅子訳、創元推理文庫、2012年)、33-34、65-66頁。

[xiii] 『九つの答』(青木雄造訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1958年)、79頁。

[xiv] 同、181頁。

[xv] 同、182頁。

[xvi] 同、433頁。

[xvii] 『ハイチムニー荘の醜聞』(真野明裕訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1983年)、71-77頁。

[xviii] 『雷鳴の中でも』(永来重明訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1979年)、134頁。

[xix] 『死時計』(吉田誠一訳、創元推理文庫、1982年)、10頁。

[xx] 『墓場貸します』、324頁。

[xxi] 『囁く影』(斎藤数衛訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1981年)。

[xxii] 『九人と死で十人だ』(駒月雅子訳、創元推理文庫、2018年)。

[xxiii] 『爬虫類館の殺人』(中村能三訳、創元推理文庫、1960年)。

[xxiv] 『血に飢えた悪鬼』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1980年)。

[xxv] 『亡霊たちの真昼』、174-75頁。

[xxvi] 『墓場貸します』、89頁。

[xxvii] 『九つの答』、433頁。

エラリイ・クイーン「国名シリーズの犯人達」

(言うまでもないですが、国名シリーズ(およびドルリー・レーン・シリーズ)の犯人を明らかにしています。他に、G・K・チェスタトン、E・A・ポーの小説の内容に触れています。)

 

 エラリイ・クイーンの「国名シリーズ」は、1929年から1935年にかけて9作が書かれた。1932年と1933年に2作ずつ出版されたので、7年間で9冊になる。

 この7年間は、クイーンが、ヴァン・ダインを引き継いでアメリカのミステリを大きく発展させた時期であり、より具体的には、ミステリにおける推理もしくは論理の要素を、これまでにないレヴェルにまで引き上げることで、作者と読者の知的ゲームとしてのパズル・ミステリを完成させた時期といえる。

 しかし、同時にこの時代のクイーンは(バーナビイ・ロス名義の作品を含めて)犯人の意外性にことのほか力を入れ、大げさに言えば、意外な犯人のあらゆる類型をその作品のなかで試している。クイーンのように論理的推理をミステリの最重要要素ととらえるなら、犯人の意外性はむしろ必要ないはずで、例えば、最初から、「犯人はこの三人のなかにいます」、と宣言して、「犯人が誰か、推理によって示してください」、と問うほうが、クイーンの主張には適っている。読者が容易に思いつけない人物を犯人に設定する必要はない。しかし、実際には、「国名シリーズ」の諸作は意外な犯人の宝庫ないし展示会の様相を呈している。これは、推理が重要と言いながら、犯人当てゲームで読者に勝利することを、クイーンが優先したことを表わしているのだろうか。どうみても一般的な読者にはお手上げの難解な推理はともかく、動機や機会を憶測するだけでは当たりそうにない犯人を設定することで、あくまで読者を屈服させようとしたのだろうか。

 しかし、この点については別な見方もできる。「国名シリーズ」の犯人達は、様々な「意外な犯人」のタイプに属しているが、クイーンによって新たに発案されたアイディアはない。いずれも既成の作品に登場した「意外な犯人」の、悪くいえば二番煎じである。つまり、パズル・ミステリを読み慣れた読者には想定の範囲内ということになる。ミステリを読みつくした猛者なら、その知識によって犯人の見当をつけてしまうだろう。こうしたミステリ・マニアを相手にするなら、意外な犯人の先行例を踏襲するのではなく、動機も明白で、意外な犯人の類型に属さない登場人物のなかから犯人を当てさせるほうが、クイーンが読者に勝利する可能性が高いとさえいえる。

 以上を踏まえると、クイーンのミステリに意外な犯人は必要ない。それでも、クイーンが意外な犯人に拘ったのは、なぜだろう。もちろん、ミステリ・マニアだけが読者ではない。当然、犯人が意外であるほうが印象に残り、売れ行きも伸びるだろう。評論家の評価も高くなるはずだ。

 恐らく、初期のクイーンは、色々なバランスを考えて、売れるミステリを書こうと努力しただろう。推理、具体的には「読者への挑戦」を売りものとしながら、同時に、意外な犯人の設定に工夫をこらして、評判となる小説を生み出そうと頭を絞ったに違いない。ダネイとリーの二人は、すでに職業人であり、ビジネスマンだった。生活を犠牲にして、創作に打ち込む芸術家気質は皆無ではないにせよ、将来を見据えて、専業作家となるか、副業として余暇を執筆にあてるのか、どちらが合理的かを判断できる常識を備えていた。「読者への挑戦」も、推理重視の宣言も、商売上手な二人の販売促進戦略に過ぎなかったともいえる。

 しかし、一方で、とくにダネイが持っていたと思われる論理愛好癖は、クイーンの初期ミステリに特異ともいえる個性を与えており、そこには、なにかしら野心的な試みが含まれていた可能性を感じさせる。果たして、それは何だったのだろう。さらに検討を進める前に、「国名シリーズ」に登場する犯人達を簡単に概観してみよう。

 

 「国名シリーズ」の初期三作は、公共の場における殺人を扱い、不特定多数の容疑者のなかから犯人を特定する方式を採っている。『ローマ帽子の謎』の劇場、『フランス白粉の謎』のデパート、『オランダ靴の謎』の病院、と舞台は異なるが、共通するのは、いずれの犯人も、それら公共の施設の関係者であるということである。ただし、それ以外にも、それぞれの犯人は、異なる「意外な犯人」の特性を持ち合わせている。

 『ローマ帽子の謎』では、犯人は舞台に出演中の俳優で、殺人は観客席で行われる。すなわち、舞台に出演している俳優が犯人だった、という一種の不可能犯罪である。もちろん、舞台と観客席に同時に存在することはできない(SFミステリではない)ので、舞台袖にはけている時間を狙って実行するのだが、しかし、舞台で演じているはずの俳優が犯人だった、というのは、十分に意外である。このアイディアは、目新しいようにみえるが、G・K・チェスタトンのブラウン神父シリーズに前例がある[i]

 『フランス白粉の謎』では、犯人はデパートの関係者だが、同時に探偵であり、事件発生後、捜査陣に加わる。従って、「探偵(警察官)=犯人」の類型でもあるわけである。この類型は、作例が無数にあるので、例を挙げるまでもないだろう。いうまでもないが、バーナビイ・ロス名義の一作は、この類型の極端なヴァリエーションである。

 『オランダ靴の謎』は、病院の看護士(看護婦)が犯人であるが、これは、やはりチェスタトンの短編で有名な「盲点犯人」[ii]の類型といってよいだろう。同じ類型で、さらに、チェスタトン作に近い例としては、やはりロス名義の長編がある。また、本書の犯人は、医師に成りすまして、二人の人物が同時に室内にいるようにみせかけるので、一人二役トリックによる意外な犯人でもある。

 『ギリシア棺の謎』では、犯人は検事補で、捜査陣の一員。すなわち、「探偵=犯人」の一種である。『フランス白粉』と同一パターンで、そういう意味では、読者も予想しうる犯人ともいえる(順番に読んでいれば、の話だが)。この事件の犯人は、偽の手がかりによって、エラリイを間違った推理に誘導する高踏的犯罪者なので、この類型の犯人を設定せざるをえなかったともいえる。クイーンを順番に読んでいる愛読者なら当てやすい、と作者が考えたとすれば、先行諸作以上に、犯人を「当てる」のではなく、「推理」してほしい、と強調するのも理解できる。

 『エジプト十字架の謎』では、犯人は被害者と思われていたひとりである。本書以降、この類型の犯人が増える。ただし、いずれも異なるヴァリエーションで、本作では「顔のない死体」トリックが用いられている。言うまでもないが、「被害者=犯人」というのは、ミステリの基本中の基本アイディアである。「顔のない死体」のトリックも、作例は腐るほどある。

 『アメリカ銃の謎』も前作同様、「被害者=犯人」である。しかし、「顔のない死体」ではなく、まったく別の発想によっている。

 『シャム双子の謎』は、初期三作とは対照的に、ごく限られた範囲の容疑者のなかから犯人を推理する。そのため容疑が二転三転する。そのプロットに応じて、犯人の設定も決められており、「最初から疑わしい人間が犯人」という逆説的な発想による犯人を考案している。あるいは、「一度疑いが晴れた人物がやっぱり犯人」、もしくは「名探偵が無実を証明した人物が犯人」。この類型の犯人も、類似例には事欠かない。

 『チャイナ橙の謎』では、これまでのような既成作品の応用ではない。いや、そうだといってもよいのだが、一種のアリバイ・トリックというか、犯人のみ犯行が不可能とみせかける。具体的には、外部から施錠され、出入りを見張られていた部屋のなかにいる人物が犯人。あるいは、密室に閉じ込められていた人物が犯人というアイディアである。

 『スペイン岬の謎』は、三度、「被害者=犯人」が使用されている。『エジプト十字架』、『アメリカ銃』とは異なり、誘拐拉致された人物が犯人だった、というヴァリエーション。

 

 以上のように、「国名シリーズ」では、それまでにミステリで使用されてきた「意外な犯人」の棚卸しのような感じで、様々なタイプが網羅されている。初期クイーンの作品は、フェアな手掛かりに基づく推理によって、という以上に、意外な犯人の多彩さによって特色づけられているのである。しかし、繰り返しになるが、これらの意外な犯人達は、それまでのミステリの歴史のなかで一度は登場したことのある連中で、彼等が犯人とわかっても、あまりの意外さに呆然とする、とまでには至らないだろう。

 そこで、改めて「国名シリーズ」でクイーンが「意外な犯人」に執着した理由を考えてみると、パズル・ミステリは作者と読者の知的ゲームであるべきで、そのためには、推理に必要なすべてのデータが示されなければならない。根拠に基づく論理的証明という作業はあらゆる学問に共通する方法的基礎であって、人間の知的活動の根本的な要素である。クイーンのミステリは、それをエンターテインメントの領域で最高度に強調したところに特徴がある。ミステリという小説形式の本質的要素は「謎」であるから、論理的証明を適用するということは、「謎」が論理によって「謎でなくなる」過程を示すことに他ならない。

 そもそも、このような論理的証明による謎の解消という作業を意識的に小説化したのが、エドガー・アラン・ポーであったことは言うまでもない。「モルグ街の殺人事件」(1841年)は、密室殺人の謎と意外な犯人で有名だが、結末の意外性で読者を驚かすことが目的ではない。例えば同作の密室は、謎とも言えないお粗末さという声もあるが、作者には密室のトリックのつもりはなかったのだろう。閉ざされた室内から犯人が煙のように逃げ去るなどということはありうるはずもない。ドアからも、煙突からも出入りすることは不可能となれば、釘が打ち込まれた窓が実は開閉できるのではないかという可能性が浮上する。すると、実際に釘が途中で折れていた事実が明らかになる。馬鹿馬鹿しいトリックのように見えるが、つまりは、論理を突き詰めていけば謎は謎でなくなることを証明しているわけである。また、窓の外には避雷針が走っているが、人間ではそれに飛びついて地上に降りることは不可能である。であるならば、論理的に犯人は人間以外の存在、この場合はオランウータンということになる。ポーのミステリは、一見不合理に見える謎を論理によって合理的に解釈する過程を描こうとしたものである。

 ところが、その後のミステリの歴史は、謎の論理的説明よりも意外な結末に傾注することで発展を遂げてきた。一見不可能な犯罪や奇抜な犯人など、謎解きの答えは意外であればあるほど好ましく、反面、その論理的証明はさほど重視されなくなった。エラリイ・クイーンが登場した意味は、謎の論理的解明の過程に再び重きを置いたところにある。すなわち、論理によれば意外な犯人が実は意外でないことを証明するためにあらゆる意外な犯人のパターンを意識的になぞった。これが「国名シリーズ」全体の狙いであったと思われる。つまり、ポーへの回帰であって、「国名シリーズ」でクイーンが目指したのは、20世紀のポーたらんとすることだったのではないか。

 

[i] G・K・チェスタトン「俳優とアリバイ」『ブラウン神父の秘密』(中村保男訳、創元推理文庫、1982年)、所収。初出は、1926年。

[ii] G・K・チェスタトン「見えない男」『ブラウン神父の童心』(中村保男訳、創元推理文庫、1982年)、所収。初出は、1911年。

カーター・ディクスン『第三の銃弾』

(本書のトリック等のほかに、ヴァン・ダイン『グリーン家殺人事件』の犯人に言及しています。)

 

 「第三の銃弾」は、ディクスン・カーの短編集に収録されている中編小説として親しまれてきた(そうでもないか)[i]が、実は単行本として出版されたものが原型[ii]で、しかも短縮されていたのだという。おまけに、あれこれカットしたのがエラリイ・クイーン(フレデリック・ダネイ)[iii]だというから、豪華な組み合わせに興奮するというか、余計なことをしてくれたというか・・・。

 本書のテーマは「密室殺人」だが、密閉された部屋ではなく、窓は開け放たれており、ドアも施錠されてはいない。ただ、事件発生時には、ドアの外にも、窓の外にも、警察官が駆けつけているという、犯人の逃亡する余地のない密室状況である。

 温厚で知られる判事が、ある犯罪の審理で過酷な判決を下す。恨みを隠さない被告は、判事を殺害すると広言し、釈放後判事邸を訪れ、離れで一人執筆を続けていた判事を襲う。彼を追っていた二人の警察官が離れに近づくと、二発の銃声が聞こえ、飛び込んだ彼らの眼前には、銃弾に倒れた判事と、銃を握りしめて呆然と立ち尽くす被告の姿があった。ところが、被告の銃から発射された銃弾は壁にめり込んでおり、しかも、発射されたのは一発のみ。室内を捜索すると、部屋の隅に置かれた花瓶のなかから、もう一丁の銃が発見されるが、そちらの弾丸も窓から飛び出して樹木に当たっているのが発見される。二発の弾丸が別々の銃から発射されたのに、どちらも凶器ではないという不可解な状況が明らかとなる。果たして、凶器となる銃はどこに行ったのか、その銃を撃ったのは何者なのか・・・。

 主人公のマーキス大佐が捜査を進めると、判事の二人の娘-キャロリンとアイダ-が被告であるゲイブリエル・ホワイトと名乗る青年と知り合いであったことが判明し、さらに妹のアイダと親密な弁護士アンドルー・トラヴァーズ卿も不審な行動を取るなど、複雑な人間関係が徐々に明らかになってくる。

 という具合で、かなり入り組んだ人物関係と密室構成で、読者の頭をこんぐらがらせようとしてくる。ホワイトが関係しているのは当然だが、彼のこねくり回したようなトリックが上手くいかず、そこに第三者が介入して不可解な密室状況が出来上がるという組み立てで、いかにもカーらしいひねくれ方である。真犯人の行動が案外単純-窓の外から室内の被害者を狙っただけ-で、容疑者のホワイトの複雑で仰々しいトリックが目くらましになるあたり、横溝正史の有名長編ミステリを思わせる。『プレーグ・コートの殺人』のようなシンプルなアイディアで密室を作るのとは異なり、人物の動きの中で不可能状況が成立するという手法は、カーの密室ミステリとしては珍しく、むしろ『火刑法廷』のトリックのひとつに近いかもしれない。絶対的な不可能状況ではないので、複雑な手順の割に解決があっけなく、物足りなく思う読者もいるだろう。トリックとしては新しいのだが、こういう場合、得てしてそうなるというか、トリックのためのトリックという印象を与え、小説としての効果はいまひとつかもしれない。

 そもそも、短縮前の原型作品でも長編というより中編なので、やはり他のカー長編と比べると、読みごたえとコクが足りない、というのが正直な感想である。もうひとつ、アリバイ・トリックが使われているのだが、そちらもかなり雑なトリックで、犯人も雑な性格なのか、あとのことを考えずに、思い付きだけで実行してしまったようで、信じられないほど杜撰な計画にみえる。

 余談だが、このアリバイ工作で、犯人が出向いたと称する行き先がロンドンのヘイスティングズ・ストリート66番地という場所で、この住所について証言した執事が、番地に10を付けるとヘイスティングズ1066になって覚えやすい、だから66で間違いない、と付け加える。これは作注にあるように、1066年のヘイスティングズの戦いのことで、この戦いに勝利したノルマンディ公ギヨームがイングランドの異民族王朝であるノルマン朝を開く[iv]。有名な「ノルマンの征服」だが、やはりイギリスでは暗記必須の歴史事象のようだ。日本なら、さしずめ「1600年、関ヶ原の戦い」のようなものだろうか。

 無駄話ついでに、事件が解決した後、マーキス大佐が、この事件が画期的なのは、従来のミステリの小説作法を覆したからだ、と、いかにもカー作品の登場人物らしく、メタ・フィクション的なセリフを口にする。どういうことかというと、普通ミステリに二人のヒロインが登場すると、例えば、一人が黒髪で無口、いかにも腹黒そうで、もうひとりはブロンドの美人で無邪気な天然。ところが、最後の犯人暴露の場面になると、黒髪のほうが善良で無垢な娘とわかり、ブロンドのほうが実は悪魔のような殺人鬼であると判明する、というのが定番だ、と述べて、しかし、この事件では、いかにも裏のありそうな黒髪の陰険美女がやっぱり犯人で、ブロンドの美少女は見た目通りの天使だった、これでミステリの古い因習を打ち破ることができた、などとうそぶく。そのまま小説も終わってしまうのだが、これって、ヴァン・ダインの『グリーン家殺人事件』(1928年)をあてこすってるの?

 カーの長編の傑作に比べると一段落ちる出来で、やはりカーは長編に限るという結論をはからずも実証したような作品だが、もちろん駄作というわけではなく、トリック小説としては充分楽しめる。カーのファンなら、あるいは不可能犯罪の愛好者にとっては、見逃せない小説だろう。

 

[i] 『カー短編全集2/妖魔の森の家』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1970年)、177-342頁。原著は、The Third Bullet and Other Stories (New York and London, 1954)。『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』(宇野利奏・永井 淳訳、創元推理文庫、1983年)、256頁。

[ii] カーター・ディクスン『第三の銃弾[完全版]』(田口俊樹訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、2001年)。『ミステリ・マガジン』No.541(2001年4月号)に先行掲載された。原著は、The Third Bullet (London, 1937)。『カー短編全集5』、265頁。

[iii] 同、232-35頁(森 英俊による解説)。ダネイの編集の徹底ぶり-というか、タイトルまで含めて他人の原稿に必要以上に手を入れたがる悪癖?-については、多くの証言がある(というより、ダネイの想い出話には、必ずその点への言及があるような)。『EQ』No.31(1983年1月号)、132-40頁参照。

[iv] 同、134頁。作注で「ノルウェー人のイギリス征服」とあるが、これはやはり「ノルマン人」と書くのが適切だろう。より正確には、「ノルマンディその他のフランス騎士」かな。

アーサー・コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』

(『シャーロック・ホームズの冒険』を読んだことのない人が、こんな文章を読むわけがないと思いますが、何編か真相を明かしていますので、一応お断りしておきます。)

 

 何十年ぶりかで『シャーロック・ホームズの冒険』を読んでみた。昔読んだのは創元推理文庫[i]だったが、今回はハヤカワ・ミステリ文庫[ii]である。「ボスコム渓谷の謎」のように細部を忘れていたり、そもそも「緑柱石の宝冠」などはストーリー自体をまったく覚えていなかったのだが、「唇のねじれた男」や「赤毛連盟」あたりの有名作に関しては当然筋書きを忘れるはずもなく、読みかえすこともなかったかな、という印象であった。

 昔読んだ頃は、まだ江戸川乱歩の「ホームズ短編傑作」[iii]のような評論の影響が強く、トリックを評価基準にして、その辺ばかりに注目して読んでいたので、本当に楽しんで読書していたのか疑わしい。今回はさすがに、ホームズ短編のベスト・テン選びなどという、ミステリ入門者の初々しさは失い果てたので、今読んだらどんなものかいな、という興味で目を通してみたのである。

 で、その結果はというと、もちろん大変楽しかった。やはり、ホームズは面白い、と実感したのだが、意外なことに、いや、この数十年で様々なミステリを読んできて当然かもしれないが、シャーロック・ホームズというのはものすごく非常識な変人探偵だと思いこんでいたのだが、全然そんなことはなく、良識と真っ当な正義感を備えた英国紳士そのものであった。例えば「消えた花婿」のラスト・シーン[iv]などからは、そんなホームズの生真面目なまでの正義感が伝わってくる。ホームズに比べれば、レジナルド・ヒルのダルジール警視などは、本当に不作法で失礼なオヤジである(でも、ヒルも面白いけどね)。

 よく言われるとおり、ドイル自身は常識人なので、ホームズのエキセントリックな性格や悪癖も、ワトソン医師が間接的に紹介するだけで、たとえば、ヤクでラリったホームズが、よだれを垂らしながらワトソンに絡んだり、発作を起こして暴れまわったりするわけではない。そもそも本短編集ではコカイン中毒のことなど言及もされないので、『ストランド』誌の晴れ舞台で、ホームズも身仕舞をただしたのだろう。プロットもそのとおりで、『緋色の研究』や『四つの署名』は長編だからか冒険活劇的な要素が強いが、シリーズ短編では陰惨で暴力的な描写は少ない(「技師の親指」や「ボール箱」のような例もあるが)。大体、ほとんどが殺人事件ではなく、日常的な相談から犯罪が発覚したり(「赤毛連盟」)、厳密には犯罪ですらない場合も多い(「消えた花婿」、「未婚の貴族」)。少なくとも『冒険』の諸作は、ホームズほどの名探偵をわずらわす事件じゃないだろう、と思わせるものが多い。

 最初に書いたことと関わるが、名作短篇と定評のある作品がそれほど面白くなかったのも、単に代表作は細部まで覚えているからというだけの理由ではないのかもしれない。「赤毛連盟」は、独創的なアイディアの傑作とされるが、小説としての出来はさほどではない。そもそも相談にやってきたのが、デブでハゲの(いや、ハゲとは書いてないか。そもそも、ハゲていたら「赤毛連盟」にならない)いかにも愚鈍そうな小商人(こあきんど)というところからして期待薄で、どうせ大した事件でもないだろうと思っていると、やっぱり大したことなかった。乱歩の解説がなければ、面白いのか面白くないのか、判別がつかない。ただ、犯人がとっ捕まったあとに、いきなりいばりだして「殿下と呼べ」などと調子づくところ[v]は、いかにも通俗娯楽小説的な面白さで、さすがよく心得ている。

 ホームズものの魅力の一端は、どうも、こうしたユーモアとしゃれっ気にある気がする。言い換えれば、軽さであるが、それがドイルの作家的センスでもあったのだろう。

 そういった意味で、『冒険』のベストの短編(結局、ベスト選びをしている)はといえば、それはもう断然「ボヘミア国王の醜聞」である。掲載順が執筆順だったのかは知らないが、名探偵がへこまされる話をシリーズの第一作にもってくるというのが、まずもって素晴らしい。しかも相手がボヘミア国王を魅惑したという設定の美女である。「赤毛連盟」のデブとは大違いで、面白くならないはずがない。ホームズが件の美女のアイリーン・アドラーの結婚式で立会人にされる[vi]という、コメディ要素にもこと欠かない。国王の秘密の写真の隠し場所を探るために、ワトソンがアイリーンの自宅の外で「火事だ」と怒鳴ると、通行人たちが、男も女も一斉に声を揃えて「火事だ」と叫ぶ場面は爆笑ものである。ミュージカルかよ。

 一番面白いのは、結末でホームズが意気揚々と国王を案内して、アイリーンの住まいを訪れると、すでに家はもぬけの殻。あからさまに動揺するホームズ探偵。彼女の置き手紙を読んだ国王が、なんと素晴らしい女性だったことか、と嘆息すると、ホームズがそれに応えて、「彼女は陛下に相応しい女性ではございません」というところ[vii]。不貞腐れた中学生みたいですよ、シャロぽん。

 乱歩は、エドガー・アラン・ポーについて語った評論のなかで、このホームズがワトソンをつかって手紙のありかを探り出すトリックを「盗まれた手紙」の模倣だと断じたうえで、「ボヘミア国王の醜聞」には他に創意あるトリックもなく、ポーに比すれば、「模して及ばざるの甚しきものであろう」[viii]とくさしているが、ひどいです~、乱歩先生。

 強い意志をもった聡明な女性を主人公に据えた先見性もさることながら、これだけ軽妙で気の利いた短編小説を1890年代に書いているのだから、お見事です。ライトでスマートな短篇小説という観点でいえば、むしろポーなど「及ばざるの甚しきものであろう」。

 今回、次に面白かったのは「五つのオレンジの種」であった。「ボヘミア国王の醜聞」とは対照的に、第四短編の「ボスコム渓谷の謎』に続く殺人事件を扱ったサスペンスフルな作品だが、個人的な怨恨などではなく、なんとKKK(キュー・クラックス・クラン)の登場する秘密結社犯罪である。

 あんな、ろくに推理もない短編のどこがいいんだ、といわれそうだが、他のドメスティックな短編と異なる、「過去の罪が尾を引く」というドイルらしい因果譚が本書では珍しい。全編ほぼ、深夜の依頼人ジョン・オープンショウ青年の打ち明け話と翌日の新聞記事だけで構成されているが、そうした動きのないプロットにもかかわらず、不気味な恐怖がじわじわと高まっていくのは冒険小説家ドイルの真骨頂だろう。しかし、最後、ホームズは犯人達に出し抜かれ、報復を誓うことになる。彼らが脅迫に用いた「五粒のオレンジの種」を逆に送りつけるのだが、事件は思わぬ形で決着がつく。その手前の文章がいい。

 

  ジョン・オープンショウ殺害の犯人たちは、結局オレンジの種を受けとらず、した

 がって、彼らに劣らぬ知恵と決断力を備えた人物が彼らを追跡していたことも、つい

 に知ることなく終った[ix]

 

 なんともわくわくするカッコいい文章ではありませんか。最後、犯人達の乗る帆船が大西洋上で消息を絶ち、彼らの行方について知るものはない、とワトソンが語って物語は締めくくられる。焦らしておいて拍子抜け、とも、ご都合主義とも映る結末であるが、考えてみれば、個人の探偵にこのような犯罪集団が対処できるはずがない。確かな証拠もなしに国外に逃れた犯人たちを断罪できるはずもないうえに、このまま続けたら短編ではすまなくなってしまう。結末はこんな風につける以外にないだろう。しかし、上の文章を読むと、超人探偵ホームズの追跡を免れるすべは大自然の猛威を除いてはなかった、という風にも読め、何やら、あり得たかもしれない名探偵と秘密結社の闘争を思い描かせて余韻を残す。スケールの大きな物語の背景を感じさせる幕切れである。親子三代にわたる因縁話から、一転して、大洋の波間に消えた帆船の運命を伝えるラストの一文は鮮やかであった。

 ついでに付け加えると、ワトソン役などといわれるように、名探偵の助手(というか、ヨイショする係)は、平均的読者よりも知能程度の低い凡庸な人間というのが通り相場だが、その悪しき定評をつくったワトソン自身は意外に(というのは失礼?)教養もあって、頭も回る。本編でも、ホームズの問いかけに即座に答えるし[x]、ホームズがよく知らないことにも知識があるらしい[xi]。こうしてみると、むしろ一般の鈍重な読者などより頭が良いようだ(あ、すいません、「私などよりは」と訂正します)。

 以上、再読して特に面白かった二編を取り上げた。もちろん『冒険』には、他にも「まだらの紐」や「唇のねじれた男」のような傑作短編が収められているが、本短編集の魅力は、個々の作品の出来不出来より、ヴァラエティに富んだ諸作が詰め合わされて、一作毎に異なる味の短編小説を読める楽しさにあり、何よりも、ホームズという人物の真っすぐで純粋なキャラクターにあるといえる。作品もおおらかな内容が多く、プロットも主人公も現代ミステリのように複雑ではなく、無邪気なところがとてもよい。やはり、シャーロック・ホームズの短編ミステリは不滅のようだ。

 

[i]シャーロック・ホームズの冒険』(阿部知二訳、創元推理文庫、1960年)。

[ii]シャーロック・ホームズの冒険』(大久保康雄訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1981年)。

[iii] 江戸川乱歩英米の短編探偵小説吟味」『続・幻影城』(光文社、2004年)、28-35頁。

[iv]シャーロック・ホームズの冒険』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、111頁。

[v] 同、80頁。

[vi] 同、29-30頁。

[vii] 同、44頁。

[viii] 江戸川乱歩「探偵作家としてのエドガー・ポー」『幻影城』(講談社、1987年)、203頁。

[ix]シャーロック・ホームズの冒険』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、186頁。

[x] 同、178頁。

[xi] 同、185頁。

エラリイ・クイーン『靴に棲む老婆』

(本書の推理やトリック、犯人のほかに、注で『Yの悲劇』のアイディアに言及しています。)

 

 ライツヴィル・シリーズが書かれた1940年代のエラリイ・クイーンの諸作品のなかで、『靴に棲む老婆』(1943年)は、ひときわ異彩を放っている。

 1942年の『災厄の町』以降のライツヴィルを舞台とした長編ミステリは、『九尾の猫』を含めて、1930年代の長編に特徴的だった、あまりに理詰めな推理が抑制され、新たな特徴となった夫婦や親子の間の愛憎のドラマと推理とのバランスが意図的に測られている。

 しかし、本書では、完全に30年代のパズルが復活して、とくに、決め手となる告白状の署名偽造に関する精妙な推理は、国名シリーズを彷彿とさせる。これは、クイーンにとって、書こうと思えば、いくらでもこうしたパズル・ミステリが書けたということを示しているのだろうか(だったら、もっと同タイプのミステリを書いてくれればよかったのに、と多くのクイーン・ファンが怨嗟の声をあげそうだ)。

 また、登場人物の設定でも、暴君である女当主コーネリア・ポッツと彼女に支配される奇矯で風変わりな子どもたち、という人物配置が、バーナビィ・ロス名義の『Yの悲劇』に似かよっており、二番煎じというより、むしろ『Y』をカリカチュアライズしたセルフ・パロディに見える(もっとも、『Yの悲劇』自体、パズル・ミステリのパロディっぽい特異な作品といえなくもない[i])。1943年といえば、ロス名義の四作もクイーン作品であることをすでに公開済みだから、ロスの真似だと言われる心配がなくなって、堂々と自作をパロディ化できるようになったのだろう。

 国名シリーズ作品にはあまり見られなかったユーモアが前面に現れているのも特徴で、むしろクレイグ・ライスのような、あるいはそれ以上の狂気に満ちたファース・ミステリといえる[ii]。本書がパロディとなるのも必然だったのかもしれない。

 さらに、ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』(1929年)やアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』(1939年)のように、本格的にマザー・グースないし童謡殺人をテーマにした作品でもある。もっとも、上記二作に共通する童謡殺人の戦慄とスリルは微塵もなく、いささか調子の狂ったユーモアが生む黒い笑いが特徴なのは上述のとおりである。『僧正』では、いかれているのは犯人だけだが、本書は小説自体がいかれている。

 しかも、本書でもっともいかれた登場人物が実は犯人(実行犯)で、一方、殺人手段のトリックは極めて合理的、殺人動機も完全に常識的、というのは、フランシス・M・ネヴィンズが指摘しているように[iii]、プロットとキャラクターが水と油のように乖離していて、そのギャップはすごい。そうしたギャップも含めて、なんとも異様なパズル・ミステリである。

 しかし、その辺に目をつぶれば、完全なアリバイをもつ犯人が、空包にすり替えられたはずの拳銃を使って衆人環視のなかで被害者を射殺するという、一種の不可能犯罪がテーマとなって、そのトリックは、単純な手品に過ぎないが、単純なだけに盲点を突いている。さらに、すでに触れた犯人特定の推理では、一旦、コーネリアの告白状の署名が別のメモに書かれた署名を引き写した偽物と判明する。ところが、実は告白状の署名のほうが本物でメモの署名が偽筆だった、という逆説的推理が鮮やかで、かつての国名シリーズで見せた論理的でありながら意外な推理を思いださせて、ファンなら随喜の涙を流すところだろう。

 ただ、ちょっと気になるのは、この推理のポイントは、署名の偽造を行えるのが、遺言書とともに告白状が封入された封筒を保管していた人物、すなわち死んだコーネリアの手に握られていた封筒を、クイーン警視から手渡された弁護士以外にはない、というところにあるのだが、しかし、遺体が発見される前に、すでに偽造が行われていた可能性が検討されていない。

 確かに、遺体の発見は死亡時刻から1時間ほど[iv]と判明して、この短時間に、封筒を開封して告白状を発見したうえ、署名の偽造を思いついて実行するというのは、不可能に近い。しかし、不可能に近いが、不可能ではないのだから、その可能性をまったく検証しないのは、クイーンらしくないのではないか。そもそも、告白状の偽造を最初に検討した際には、偽造はコーネリアの遺体発見以前になされた、とエラリイは推理している[v]。それなのに、最後の謎解きになった途端、署名の偽造は遺体発見後だと決めつけているのはおかしくないか。犯人が、告白状自体も、遺言状も破棄することができなかったのは、エラリイが証明した通りで[vi]、だとすれば、遺体発見前でも、発見後でも、偽造が企てられた可能性は変わらないだろう。

 ただし、偽造に用いられたメモにコーネリアが署名するのを目撃したのは、クイーン親子のほかには、犯人と医師のみなので[vii]、そこから犯人は特定できるといいたいのかもしれない。だが、それならそれで、医師が犯人ではないことを証明してもらわなくてはならない。

 それとも、エラリイ自身、自分の推理の穴は承知していたが、とっさに推理を組み立てなければならず、あえてそこには触れなかったのだろうか。しかし、最初に偽造に関する議論が交わされたのは、犯人とエラリイの間の会話においてである。ちょっと冷静になれば、すぐ気がつくことで、やはりエラリイらしからぬ(それとも、らしい?)一か八かの賭けのように思える。

 まあ、その辺に目をつぶれば(さっきも書いたか)、本書は、クイーンのファンなら、久しぶりのパズル・ミステリの佳品として喝采をあげたくなる一編だろう。

 

 ここまで、実は、ほぼ記憶だけに頼って書いてきたのだが、思い立って再読してみた。何十年ぶりかで、今回で三、四回目である。それでも面白く読了したが、評価はだいぶ変わってしまった。一言で言うと、小説として大雑把すぎるのではないかと感じた。なんだか短時間で書き飛ばしたように見えるのだ。文章はわかりやすく、すらすらと読み終えて、もちろん、再読で筋がわかっているのだから当然でもあるし、読みやすいのが悪いというわけではない。

 本書のファース・ミステリとしての特色についてはすでに述べたが、実際読み返してみると、あまりユーモアは感じられない。登場人物の設定や行動が突飛なだけで、どうやら、プロットの非現実性を隠すために、滑稽な人物設定にしただけのようだ。決闘を利用した殺人のトリックも、同じ銃が複数あることを目立たなくさせるために大量の銃を購入するというトリックも、現実的なミステリにはそぐわない。グロテスクな人物造形は、ファンタスティックなミステリを書こうとしたからではなくて、非現実的なプロットをカヴァーするために、そうせざるを得なかったかららしい。もちろん、そうではなくて、ファンタスティックなミステリを書こうとして、それに相応しいトリックを考えていたら、ああなったということなのかもしれない。

 しかし、そうとも思えないのは、実行犯とその妹弟たちの風変わりな性格が上っ面だけのもので、ちょっと変な人たちという程度にしか見えないせいだろうか。これは、前世紀末にサイコ・スリラーが大流行りして、異常性格の登場人物に、こちらが慣れてしまった弊害なのかもしれないが、『チャイナ橙の謎』でもそうだったように、自分達に向いていない作風で、無理して不可思議なミステリを書こうとしているように思えてしまう。

 ちょっと脱線するが、本書を再読したあと、ジョン・サンドフォードの『冬の獲物』[viii]を読んだ。今頃になって、と言われるだろうが、サンドフォードは随分前に、二、三冊読んでいる。先日、ネットで安い古書を見かけて、同書の評判が良かったのを思い出したら、つい買う気になった。本が届いて、ぱらぱらとめくっていたら、止められなくなって、半日で読み終わってしまった。わざわざこんな話をするのは、『冬の獲物』にも、署名偽造のトリックが出てきて[ix]、偶然ながら面白いと思ったからである。しかも、『冬の獲物』は『靴に棲む老婆』のちょうど50年後の1993年に出版されている。結果、両者の間の五十年という時間と、その間のミステリの変化について考えこまされた。はっきりいって、『冬の獲物』のほうが断然面白い。正直、これではエラリイ・クイーンが読まれなくなったというのも無理はないなと思った。もちろん、同書はサイコ・スリラーであって、クイーン作品のような論理的推理が味わえるわけではない。上記の署名の偽造トリックも、クイーンの真似(というわけでもないのだろうが)で、そこは大したことはない。しかし、『冬の獲物』はパズル・ミステリとしても抜群に面白い。何章かが犯人の視点で書かれていて、登場人物の誰なのかを当てるミステリだが、犯人の独白で警察の動きを逐一知っているように描かれるので、警察関係者のなかに犯人がいるとしかみえない。その謎で引っ張っていきながら、都筑道夫が「古めかしいトリック」[x]を上手く使っていると評価した、目撃証言をめぐるトリック(都筑は、はっきり書いていないが、多分あのトリックのこと[xi]だろう)で、あっと言わせる。しかも、襲撃や追跡のスリリングなシーンが眼に浮かぶように描かれている。これに比べると、『靴に棲む老婆』は、残念ながら、炭酸の抜けたサイダーのようだ。

 本来、ミステリとしてのジャンルも書かれた時代も異なる二冊を比較して、優劣を論じてもフェアではないし、クイーンに気の毒ではあるが、書き込みの差は、やはり気になる。

 『靴に棲む老婆』に戻ると、パズルに直接結びつく以外のことが、ほぼ描かれていないのも、物足りなく感じる要因のようだ。ある意味余分な、しかし、小説をふくらませるための細部の描写というものが、まったくといっていいほど見られない。大雑把に感じてしまう原因は、その辺にあるのかもしれない。もちろん、クイーン嫌いの人たちにすれば、そんなことは昔から散々言われてきたことじゃないかと言うだろうが、それにしても、『災厄の町』や、国名シリーズなどと比べても、描写不足、書き込み不足が目立つような気がする。やはり、エラリイ・クイーンのような作家は若いときに読むに限るのだろうか。少なくとも、年を取ってから読み始めたのでは、感銘の度合いがだいぶ変わってきそうである。

 もしかしたら、『災厄の町』の執筆で、くたびれたリーのために、骨休めの一編としてダネイが意図的にライトなプロットを提供したのかもしれない。もっといえば、消耗したリーに代わって、ダネイが執筆したのだろうか。書き込み不足とかいっておいて、このような推測をするのは、ダネイに失礼だが、何となく、そんな気もしてきた。

 しかし、『災厄の町』でノヴェルに挑戦した以上、「不思議の国のミステリ」であっても、それなりの重みは必要だったのではないだろうか。1930年代のパズルに戻るにしても、40年代のノヴェルを経た、新しいクイーン流パズル・ミステリの姿を示すべきだったように思う。

 というわけで、印象は悪くなってしまったが、パズルの部分は充分面白いし、クイーン後期作品に恒例の「人形使い」テーマが本格的に取り上げられた長編でもあるので[xii]、そういった点からも注目に値する作品だろう(最後は取りつくろってみました)。

 ついでだが、本作は、ニッキー・ポーター誕生編としても知られている[xiii]。この女性、自分の結婚式の最中に、介添えの男(エラリイ)が、突然、新郎を殺人犯だと糾弾し始めて、動転し、とまどうはずなのに、あっさりエラリイの推理を受け入れる(そんなに頭脳明晰なのか、エラリイ並みに)。そのうえ、将来の伴侶となるはずだった相手をいきなり「嫌悪の情をこめて眺めた」[xiv]りして-それも、父親が引くくらいの眼つきで-、変わり身が早すぎやしないか(普通、「嘘でしょう、あなた。嘘だと言って」と縋りつきそうなものだが。ドラマの見過ぎか?)。エラリイ君、こういう女性といい仲になって[xv]大丈夫ですか?考え直したほうがいいのでは。

 

[i] エラリイ・クイーン『Yの悲劇』(宇野利奏訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1988年)、新保博久による解説、503-505頁を参照。

[ii] フランシス・M・ネヴィンズJr(秋津知子他訳)『エラリイ・クイーンの世界』(早川書房、1980年)、178-79頁、フランシス・M・ネヴィンズ(飯城勇三訳)『推理の芸術』(国書刊行会、2016年)、179-80頁。

[iii] 『エラリイ・クイーンの世界』、182頁、『推理の芸術』、182-83頁。

[iv] 『靴に棲む老婆』(井上 勇訳、創元推理文庫、1959年)、222頁。ところで、創元推理文庫版は、いつの間にか『生者と死者と』から改題されてしまったが、『靴に棲む老婆』もたいして魅力的な題名とは思えない。原題は、「むかし、おばあさんがおりました(There was an old woman)」、で、どちらにしても日本語ではあまり面白そうな題名にはならないようだ。

[v] 同、271-72頁。

[vi] 同、366頁。

[vii] 同、140、275頁。

[viii] ジョン・サンドフォード『冬の獲物』(真崎義博訳、ハヤカワ・ノヴェルズ、1996年)。

[ix] 同、199-200頁。

[x] 都筑道夫都筑道夫の読ホリデイ 下巻』(古森 収編、フリースタイル、2009年)、56頁。

[xi] 都筑は、E・S・ガードナー他の有名作家が使用している、と述べている。同。

[xii] このテーマの最初の例として、『Yの悲劇』が挙げられることがあるが、『Y』の場合は、操り手は、そう意図していたわけではないし、事件発生時にはすでに死亡している。クイーンの「人形使い」テーマの最大の特徴は、操り手が意図して他人を操ろうとする点にある。

[xiii] 『靴に棲む老婆』、390-91頁(塚田よしとによる解説)。

[xiv] 同、359頁。

[xv] 同、382頁。飯城勇三編著『エラリー・クイーンPerfect Guide』(ぶんか社、2004年)、35頁、同『エラリー・クイーン パーフェクト・ガイド』(ぶんか社、2005年)、63頁、によれば、創元推理文庫の旧訳は、最後の場面の訳が間違っていたらしい。となると、正しい訳が意味するのは、つまり、エラリイもうかつにニッキーを恋人にする気はなくて、お友達から始めて、しばらく様子を見るつもりだった、という解釈でいいのだろうか。