(『十日間の不思議』のトリックと『ダブル・ダブル』の犯人を明かしていますが、『十日間の不思議』の犯人と『ダブル・ダブル』のトリックには触れていません。)
(追記。すいません。『十日間の不思議』の犯人にも触れていました。)
『ダブル・ダブル』(1950年)は、エラリイ・クイーンのライツヴィル・シリーズの完結編である。
ライツヴィル・シリーズは、エラリイ・クイーンが、1930年代までの都市(ニュー・ヨーク)を舞台としたパズル・ミステリから脱して、アメリカの地方社会における人間関係の軋轢や葛藤から生まれる謎をテーマとした、新たな方向を切り開いた作品群と捉えられている。1942年の『災厄の町』で、地方都市ライツヴィルが紹介されると、『フォックス家の殺人』(1945年)、『十日間の不思議』(1948年)を経て、1950年の『ダブル・ダブル』まで、一連の長編が発表されるが、全四作でひとまず完結したと考えられる。
この後、1952年の『帝王死す』でライツヴィルが登場するが、事件の背景調査にエラリイが短期間訪れるのみである。その後、1970年の『最後の女』に至るまで、ライツヴィルものの長編は書かれない。ただし、中短編小説では、「ライツヴィルの盗賊」(1953年)、「GI物語」(1954年)、「ライツヴィルの遺産」(1956年)、「ドン・ファンの死」(1962年)、「菊花殺人事件」(1966年)と定期的に執筆され、作者のこの架空の地方都市への愛着がうかがえる。
とはいえ、ライツヴィル・シリーズがエラリイ・クイーンの創作活動において重要な意味をもっていたのは、やはり1940年代の十年間のことだったといえるだろう。小説のかたちを取った推理パズルから、人間性の謎を解き明かす小説への転換がライツヴィル・シリーズの具体的目標だったとされるが、これは、それまでのエラリイ・クイーンのミステリが単なるパズル小説に過ぎない、という批判にこたえ、ミステリが時代とともに、よりシリアスに、より社会性を深めていく趨勢に対応すべく選択された方向だったと理解されている。
ライツヴィル・シリーズの、とりわけ『災厄の町』と『フォックス家の殺人』は、日本でも江戸川乱歩や中島河太郎らによって高く評価され、クイーンの新たな代表作と見なされてきた。その後、フランシス・M・ネヴィンズ・ジュニアのクイーン評伝[i]が翻訳されたあたりから、第二次大戦後のクイーン長編の(再)評価が進み、『十日間の不思議』などもクイーンの傑作として挙げられるようになった。さらに、『十日間の不思議』以上に評価が高まったのが1949年の『九尾の猫』だが、この長編はライツヴィル・シリーズのある意味番外編のような位置づけになっている。いわば、ポーカーのフォー・カーズにジョーカーが加わったような関係である。
そもそも1940年代には、クイーンの長編小説はわずか五冊しか書かれていない。1943年に『靴に住む老婆(生者と死者と)』が刊行されているが、それを加えた五冊である。年表を眺めると、『災厄の町』、『フォックス家の殺人』、『十日間の不思議』の執筆に時間をかけた(かかった)様子がうかがえるが、『九尾の猫』以降になると、1954年の『ガラスの村』まで年一冊のペースが順調に守られている。
『十日間の不思議』の完成に時間を要したのは、フレデリック・ダネイが梗概の書き直しをするなどの事情があったと伝えられているが、それだけ、ライツヴィル・シリーズにおける同作の意味が大きかったことを示唆する。すなわち、『災厄の町』と『フォックス家の殺人』における探偵クイーンは、本質的に従来の傍観者の立場を変えていない。もちろん、「国名シリーズ」の諸作にはほとんど感じられなかった登場人物への共感や人間性への洞察力を見せ、事件で関わった人々との関係性に深くコミットしていく。それがライツヴィル・シリーズのテーマでもあったわけだが、しかし、あくまで外部の観察者としてであって、探偵クイーンは依然としてドラマの外側から俯瞰する立場だった。その意味で、エラリイの位置づけは1930年代の長編におけるものと変わっていない。
しかし、『十日間の不思議』では、犯人がエラリイ・クイーンを自身の犯罪計画の駒のひとつとみなしたため、否応なく事件そのものを自らの問題として捉えるよう強いられるに至った。名探偵としてのエラリイ・クイーンという問題を、である。『ギリシア棺の謎』も同様のプロットを持つが、1940年代のクイーンは30年代と小説への姿勢が異なる。結果、名探偵としての存在意義を見失ったエラリイは、探偵としてのアイデンティティを放棄する。このことでエラリイ・クイーンのミステリ自体も崩壊した。作中探偵が作者を務めるというクイーン小説の枠組みも成り立たなくなってしまった。
それを解決したのが『九尾の猫』である。再び事件の解明に失敗して、探偵失格の烙印を自ら押したエラリイに対し、メンターのセリグマン博士が探偵としてのアイデンティティを取り戻すためのアドヴァイスを与える。『九尾の猫』がライツヴィル・シリーズのジョーカー的役割をもつ所以である。
かくして、『十日間の不思議』と『九尾の猫』は、探偵エラリイ・クイーンが自己を喪失し、自己を再生する、彼自身の物語となった。
しかし、シリーズにはもう一冊『ダブル・ダブル』が存在する。作者が、『九尾の猫』で、エラリイ・クイーンのアイデンティティの回復を描いたのち、あえてライツヴィルものを書き、そしてそれでシリーズを事実上終わらせたことには恐らく意味があるのだろう。『ダブル・ダブル』でシリーズが完結したとするならば、それでは実際に何が完結したのだろう。
『ダブル・ダブル』のラストは、シリーズの最後に相応しい、明るい希望を滲ませる結びとなっている。
「(エラリイは)・・・古めかしい形容だが、暗い世界に太陽が照り始めたよう
だ、と思いつづけていた。」[ii]
その前の犯人暴露のあとでは、しかし、次のような自虐的な回想が綴られている。
「・・・エラリイは、今まで彼がライツヴィルで成功したときは、いつも必ず唇を
自嘲にゆがめて立ち去ったことを思い起こしていた。」[iii]
つまり、エラリイは、まだライツヴィルにおいては、名探偵としての自己を取り戻していない(『九尾の猫』はニュー・ヨークを舞台とした物語だった)。『十日間の不思議』で直面した問題にようやく決着をつけたのが『ダブル・ダブル』だった、という風に解釈することができる。しかし、そのように単純な話かというと、疑問も残る。エラリイは『ダブル・ダブル』の事件の解決に失敗したわけではない。にもかかわらず、彼の自己否定癖は治っていない。ヒロインのリーマをあざむいて犯人逮捕にこぎつけたことで、かつてと同じ、人間の感情より事件の解決を優先する「非人間的な」自分に幻滅した、ということだろうか。だが、そうなると小説のラストの述懐は、リーマが案外機嫌よく相手してくれたので嬉しくなった、という彼の手前勝手な自己満足による感慨に過ぎなくなる。随分、薄っぺらい話だ。それで、何かエラリイ・クイーンにとっての問題が解決したのだろうか。
そもそも『ダブル・ダブル』とは、どのような話だったのだろうか。(以下、犯人に触れる。)
ミステリの部分を除けば、それはエラリイ・クイーンとリーマ・アンダーソンの物語である。エラリイは事件を通じてリーマと出会い、その天真爛漫な魅力の虜になる。しかし、リーマは医師のケネス・ウィンシップに魅かれ、彼と結婚してしまう。苦闘の末、エラリイは、ケネスが真犯人であることを突き止める。エラリイは、リーマが犯人であるかのような推理を披瀝して、ケネスから告白を引き出す。事件は解決するが、ショックを受けたリーマになすすべもなく、エラリイは立ち去る。最後に、リーマと再会したエラリイは淡い希望を感じながら、ライツヴィルを去る。
以上から、『ダブル・ダブル』は、自分が気に入っていた女性を横から搔っさらっていった男の犯罪を暴き、溜飲をさげる小説だといえよう。
失礼なことを言うな?
作品の半ばで、リーマとケネスが結婚を決めて、エラリイに付添い役を依頼する場面がある。彼は、「冗談じゃない!」と叫ぶ。「・・・この僕も、この女性のために心臓の心室を二つほど破ったことのある男なんだぜ」[iv]。
もちろんこれは、エラリイがちょっとばかりリーマに魅かれたこともあった、女性の魅力に気づかないほどの朴念仁でもない、と匂わしているに過ぎないのだろう。
しかし、エラリイが初めてリーマに出会った時の印象は次のように綴られている。
「・・・彼は思わず知らず思索していた-小説の世界は女主人公で出来上がってい
る。彼らは、作者が苦心惨憺の末、実在の女には到底あり得ないような女性として作
り上げた女たちなのだ。それにもかかわらず、彼の眼の前には、本の中から歩み出て
来たような女が、現実に肉と血をそなえて立っていたのだった。」[v]
これはもう一目ぼれではないのだろうか。それとも、本作のヒロインの特別な魅力を伝えるためのやや誇張気味の表現に過ぎないのか。
この後も、エラリイは、リーマが「信じ難いほど完成された女だった」、「彼は妖精か鳥を想像した」、「彼女は熟しきった小さな果実のようだった」[vi]、などと一頁に渡って賛美の言葉を並べる。クイーンの小説は作中のエラリイが実体験に基づいて書いた書物であるから、以上は彼自身の感じたままを表現した文章である。無論、小説のヒロインを際立たせるための過剰な表現に過ぎない、ともいえる。
その後、疑惑の対象となったドッド医師を調査するため、リーマが彼の病院で雇われるように仕組むが、一日で彼女はエラリイの指令を拒否する。エラリイはむっとして、「ニュー・ヨークに帰る」と言い出し、そして本当に帰ってしまう(駄々っ子か)[vii]。
一週間後、リーマから(仲直りの)連絡を受けたエラリイは(ほくほくして)戻ってくるが、彼女がケネスのことをケンと呼ぶことに目ざとく気付く[viii]。
本書で異様な印象を与える箇所は、エラリイとドッドが釣りに出かけている間に、ケネスがリーマに愛を告白する場面である。異様なのは、この場面がエラリイの視点から書かれているのではない、ということである。ケネスの言葉に、リーマは「あなたを愛しています、ケン。あなたを愛しています。愛とは何かわかりませんが、何であっても、あたしは愛でいっぱいです」[ix]、と答える。
繰り返すが、『ダブル・ダブル』は、作中探偵でもある作家エラリイ・クイーンが実体験に基づいて書いた小説だから、以上もエラリイの文章である。リーマに聞いたのか、想像して書いたのか。いずれにしても、・・・(いや、気持ち悪いとか言いませんが)[x]。
事件が急展開して、ドッドが亡くなり、相次いで死者が出るようになると、さすがにエラリイも色ボケ状態でいるわけにはいかなくなる。捜査が進むにつれ、あるいはリーマとケネスの結婚によって、リーマは(エラリイにとって)魅力を失い、ただの女になってしまっていくようだ。
事件が終わり、ケネスが逮捕された後、言葉を失うリーマに、エラリイは慰めの言葉を連ねる。それでも黙り込むリーマに、最後にエラリイはおずおずと「ぼくに出来ることがあったら、いってくれないか?」[xi]と無神経極まりないセリフを吐き、墓穴を掘る(そもそも、黙ってさっさと立ち去るべきなのだ)。それで、上に引用した自虐的な感想を抱いて引き下がる。
と、まあ、こんな具合である。作中のエラリイに恋愛を経験させようと、作者のクイーンが考えたのかどうか、確証はないが、そうとっても差し支えないだろう。
そして、そうなると、前作の『十日間の不思議』はどうなのか、気になってくる。 『ダブル・ダブル』と『十日間の不思議』を比較すると、主要登場人物とエラリイ・クイーンとの関係性にはかなり相似があることがわかる。
前者では、ケネスとリーマが結ばれるが、ケネスが犯人であることを、エラリイが明らかにする。
後者では、ハワード・ヴァン・ホーンと義理の母であるサリー・ヴァン・ホーンが結ばれるが、ハワードが犯人である、とエラリイが断定する(ただし、誤っていた)。
もっとも、『十日間の不思議』でサリーを奪われるのは、夫であるディードリッチ・ヴァン・ホーンであって、エラリイ・クイーンではない。
だが、果たしてそうだろうか?
エラリイはサリーに魅かれていなかっただろうか?
エラリイは、サリーに初めて会ったとき、どこかですでに会ったことがあるのではないか、と不思議に思う[xii]。
彼はサリーに向かって、なぜ、ハワードは美しい妹がいることを言わなかったのだろう、と話しかける。そして、彼女がディードリッチの妻であると知って驚く[xiii]。
一旦事件が終結した後、ハワードの日記の一部を発見したエラリイは、サリーが「モナ・リザの微笑」の持ち主だったことに気づく。
「あれがこれだ。あれだった。あの微笑だ。あのなにごとかを知っている、悲しそ
うな、謎めいた、ときどき顔に浮かぶ矛盾を含んだ微笑だ!彼はあのとき、以前どこ
かでサリーに会ったような気がしたと思ったが、サリーに会ったことは一度もなかっ
たのだ。サリーは、ラ・ジョコンダの代りに、ダ・ヴィンチのモデルになれるほど、
すっかり同じのモナ・リザの微笑をもっていたのだ。そして・・・・・・
そして、ディードリッチは、それに気づいていたのだろうか?
勿論ディードリッチは気づいていたに違いない。ディードリッチは恋をしていたの
だ。」[xiv]
恋をしていたのは、エラリイも同じだったのではないか。
ハワードとサリーが不倫の関係を告白したとき、エラリイは愕然とする。
そして自問自答する。
エラリイは、ハワードがサリーを恋したのは、父親を奪った彼女に対する憎しみがすり替わった偽りの愛情からだ、と考える[xv]。サリーに関しては、「ハワードを愛して幸福になれるはずがないのだ」[xvi]、と。
これは、不倫話を聞かされた第三者の冷静な分析である。
しかし、それだけだろうか。
エラリイは、二人から詳しい事情を聴きながら、心のなかで、「さあ、傷口が見えた。これからそれに塩を振りかけるのだ。」「おお、サリー。」「家を出てしまえばよかったのに。」「まずいことをしたものだ」[xvii]などとつぶやく。
どうやら、動揺しているのは、エラリイ・クイーンのほうのようだ。
ハワードは、サリーと寝て、彼女を汚すことでディードリッチを傷つけた。
しかし、サリーを汚された、と思ったのはエラリイも同じではなかったか。
最後、真犯人であるディードリッチに向かって、エラリイは、ミステリ史上に残る逆上っぷりを披露する。
それは、ディードリッチの計画に踊らされ、ハワードを犯人と断罪して死に至らしめたから、ではない。
サリーを汚し、あげく殺害したハワードを論理という剣で罰することができたと思ったのに、それがすべて誤りだったと知らされたからだ。
思えば、エラリイがハワードを断罪した推理は、はなはだ頼りないものだった。ハワードが十戒を破った、という事実を並べ立てるだけで、あとは犯人の残した偽の証拠に惑わされた(警察もだが)。いつもの冷静なエラリイなら犯すはずのない、お粗末な失態だった。
このトラウマは『九尾の猫』事件で、探偵としての存在意義を取り戻した後も、解消されることはなかった。
そして、『ダブル・ダブル』の事件を迎える。
またしても、エラリイは同じ事態に直面する。
犯人は、(今回も)聖なる存在であるリーマを汚したケネスだった。
彼を、論理の刃をふるって罰さねばならない。
しかし、わたしの推理は正しいのか?
いや、心配はいらない。『十日間の不思議』との決定的な違いは、今度は、エラリイは間違えなかった、ということである(少なくとも、小説の終わった時点では)。
『ダブル・ダブル』のラスト、リーマとの関係を修復したエラリイは安堵するが、それは、今度こそ、彼の唯一の武器である論理によってリーマを取り戻した、という確信によるものである。
自分が惚れた女性を取り戻すために、相手の男が犯人である推理を組み立てる、などというのはまったく名探偵らしからぬ下賤な話だが、人間らしくはある。
エラリイ・クイーンは、『十日間の不思議』と『ダブル・ダブル』で、ついに非人間的な神の座を降りて、女性のことで嫉妬し、逆上する、卑小な、しかし人間らしい存在となった。
これがライツヴィル・シリーズで完結したエラリイ・クイーンの物語である。
とまあ、こんなところで、どうでしょう[xviii]。
[i] フランシス・ネヴィンズ・ジュニア『エラリイ・クイーンの世界』(早川書房、1980年)。現在では、その増補版が刊行されている。フランシス・M・ネヴィンズ『エラリー・クイーン 推理の芸術』(飯城勇三訳、国書刊行会、2016年)。
[ii] 『ダブル・ダブル』(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)、371頁。
[iii] 同、345頁。
[iv] 同、260-61頁。
[v] 同、26頁。
[vi] 同、27頁。
[vii] 同、179頁。
[viii] 同、181頁。
[ix] 同、189頁。
[x] それとも、この文章は、『ダブル・ダブル』がミステリ作家エラリイ・クイーンの小説に過ぎないことを示しているのだろうか。すなわち、国名シリーズは、名探偵兼作家のエラリイ・クイーンが実体験を小説化したものだが、ライツヴィル・シリーズは、探偵を廃業した作家エラリイ・クイーンが純粋に想像力のみで書いたフィクションということだろうか。
[xi] 『ダブル・ダブル』、345頁。
[xii] 「十日間の不思議」(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)、47頁。
[xiii] 同、48頁。
[xiv] 同、335頁。
[xv] 同、114頁。
[xvi] 同、115頁。
[xvii] 同、118-121頁。
[xviii] 個人的意見だが、『十日間の不思議』で、エラリイがサリーに魅かれていたとも勘ぐれる描写を付け加えたのは、マンフレッド・リーの解釈によるのではないだろうか。フレデリック・ダネイは、そんなことは考えていなかっただろうが、リーは、エラリイがサリーに無意識のうちに恋心をいだいたことが、その後、彼が事件に深入りしていく動機の一端となった、そんな風に理解したのだろうと思う。