ジョン・ディクスン・カーと語りの詐術

(『夜歩く』、『五つの箱の死』、『テニスコートの殺人』、『九人と死で十人だ』、『殺人者と恐喝者』、『皇帝のかぎ煙草入れ』、『爬虫類館の殺人』、『囁く影』、『疑惑の影』、『墓場貸します』、『ビロードの悪魔』、『九つの答』、『ハイチムニー荘の醜聞』、『雷鳴の中でも』、『亡霊たちの真昼』、『血に飢えた悪鬼』の記述トリックに触れています。)

 

 ジョン・ディクスン・カーは、様々な不可能犯罪トリックを考案したことでミステリの歴史に名を残した。その代表が「密室トリック」で、密室といえばカー、というのは、日本のみならず、欧米のミステリ界においても通り相場となっている。

 しかし、カーのミステリがもっとも重視してきたものは、フェアプレイであり[i]、読者と謎解きを競い合うことだった。といっても、エラリイ・クイーンのように、犯人を推理するためのすべてのデータを提示しました、といった意味でのフェアプレイではない。パズル・ミステリのルールさえ守っていれば、すなわち、作者が読者に嘘さえついていなければ、どんな悪どい・・・、いや、反則すれすれのトリックでも許容される、というのがカーの信条であった。ときに、境界線を飛び越えたように見えることもあったが・・・。

 そうしたカーの姿勢が顕著にあらわれるのが文章によるトリックである。ミステリも小説なのだから、あらゆるトリックは文章のトリックに過ぎないとも言えるが、この場合は、フェアプレイの範囲内(場合によっては境界線上)で、文章を意図的に操作することで作者が読者に仕掛ける騙しのテクニックのことである。

 ある意味、カーの天才が最大限に発揮されるのは、この、いわゆる「叙述トリック」とか「記述トリック」といわれる分野であったのではないか。もちろん、カーも最初からそうした手管に長けていたわけではなく、読者との騙し合いや同業作家との競い合いの修練を経て、その技術を磨いていったのだろう。長編小説を素材に、その技芸向上の鍛錬のあとを辿ってみよう。

 例えば、処女作『夜歩く』(1930年)には、作中、犯人が、殺害現場となる部屋に入る人物の後姿を指して「ラウールだわ、ほら。カード室へ入るところよ」[ii]と叫ぶ場面がある。しかし、その人物は被害者のラウールではなく、共犯者である。無論、これは叙述トリックというほどのものでもなく、作中で犯人がいくら嘘をつこうと、そこは何ら問題ない。ところが、1969年作の『亡霊たちの真昼』では、疾走する自動車を追跡する場面で、「レオは憑かれたように前方を凝視していた」[iii]、という地の文が出てくる。地の文だから、これは作者による客観描写である。それなのに、この「レオ」も実際はレオではなく、別人なのである。これは一見してアンフェアと言わざるを得ない。作中人物の主観描写なら、いくら嘘を書こうが、それは、その人物の故意の虚言もしくは思い違いなのでアンフェアではない。しかし、作者が客観描写で嘘を書くことはフェアプレイに反する。御法度である。これがパズル・ミステリの基本ルールといえる。『亡霊たちの真昼』の事例は、カーらしくもない失態に映る(この評価は誤りだったので、訂正します。追記を参照のこと)。

 『亡霊たちの真昼』は、作者が嘘を書いているという意味でアンフェアだが、叙述トリックで代表的なものといえば、「語り手が犯人」のアイディアにおける省略の技法[iv]だろう。代表的なのが、言うまでもなくA・クリスティの某長編であるが、カーの場合は、『五つの箱の死』(1938年)が、作中人物の手記というクリスティのアイディアをそのまま借りて、しかし、記述者は犯人ではなく目撃者で、思惑があって、意図的に肝心な事実を隠すというアレンジを加えている。たとえば、「私は衣装戸棚を見ていたが、ふと気づいて外に出ていった」[v]などと書かれるのだが、そこには記述者がわざと書いていない事実が隠されているという具合である。一方、翌年の『テニスコートの殺人』では、記述者ではなく、作者の客観描写のなかに省略のテクニックが使われている[vi]

 「省略の技法」ではなく、「客観描写と主観描写の錯誤」では、次のような例がある。『墓場貸します』(1949年)のプールにおける人間消失のシーンで、「プールの反対側に、ジーンとデーヴィスが並んで浮び上がり、手すりにつかまって、楽しそうにおでこをくっつけ合っていた」[vii]、という客観描写が出てくる。ところが、ここでも「デーヴィス」はデーヴィスではない別人である。しかし、同作の場合、その前の箇所で、作者はわざわざ読者に語りかけるかたちで、主人公の眼を通して事件を見て行こう、と書いていて、つまり上記の描写は作者による客観描写ではなく、登場人物の主観描写である、というのである。これはペテンなのか、巧妙なトリックなのか、微妙なところであるが、これこそがまさにカーの典型的な手口である。

 さらに巧妙なのが歴史ミステリの『ビロードの悪魔』(1951年)で、現代人のニック・フェントン教授は17世紀の貴族ニック卿に憑依して、過去の殺人事件の謎を解こうとする。ところが犯人はニック卿で、フェントン教授が怒りに我を忘れると、卿に意識を取り返されてしまう、という条件があらかじめ(悪魔との契約によって!)課されている。こうしたSF的(?)シチュエイションを用いることで、本作の犯人は、いわゆる「記述者が犯人」、すなわち一人称小説の語り手が犯人というアイディアのヴァリエーションになっている。主人公視点で語られているので、フェントン教授が怒りにかられて意識を失うと、時間が飛んでしまい、従ってその間(犯行時)の客観描写は省略される[viii]というずるい手が可能なのだ。しかも、フェントン教授がニック卿に意識を奪われる様が、その前のページで客観描写として描かれている[ix]。それなのに肝心な殺人の場面は主人公の主観描写で省略しているので、なおのこと、読者はこの省略の技法に気づきにくいという仕組みになっている。作者にしてみれば、ちゃんと予め手がかりは示しているよ、といいたいのだろう。

 「ビロードの悪魔」は、いわば二重人格テーマのミステリと同じで、主人公は自らが殺人者であることを知らないのだが、二年前の『疑惑の影』(1949年)は、殺人犯人が自分が犯していない別の殺人事件で裁判にかけられるというアイディアを使って、犯人の心理描写を取り入れている。犯人は心の中で「自分は無実だ」と叫ぶ[x]のだが、それは確かに嘘ではない(別件では犯人だが)、というインチキくさいトリックである。(別の事件で自分が殺人を犯したことをチラとも心に思い浮かべないというのは不自然ではないのか?)

 カーの作品のなかで、叙述トリックとしてもっとも有名なのは『殺人者と恐喝者』(1941年)かもしれない。本作冒頭で、「Aという人物がBを殺害した」と書いておいて、それは「認められた事実だった(That was the admitted fact.)」[xi]、と付け加えている。実際は事実ではなく、犯人は他にいるのだが、作者の言い分は、「認められた事実」というのは、あくまで関係者がそう認めたというだけであって、私(作者)はそんなことは言っていない、というのである。何という、ずうずうしい言い草であろう。もっとも、このトリックはあからさま過ぎて、さほど面白くないという気もする。

 このように見てくると、代表作の『皇帝のかぎ煙草入れ』(1942年)の意外な犯人も、同様の口から出まかせの詐欺師まがいのトリックにほかならないといえる。犯人は、暗示を受けやすいヒロインに一緒に殺人の瞬間を目撃したと思わせるため、「僕たちがみたものを覚えているだろう?」としつこく繰り返す。すると、ヒロインの主観描写で、「その光景がまざまざと浮かんできた」、と書かれる。読者もつられて、犯人とヒロインは被害者がまだ生きているところを目撃したのだと思い込むのだが、地の文では、実際にヒロインが目撃したとは一言も書いていなくて、それは彼女が暗示にかかっただけだった、とわかる[xii]。ヒロインの事実誤認を主観描写で描いて、客観描写のように思わせる。なんだか本当にペテン師にまるめこまれた気分になる。

 上記の事例によると、カーが語りのトリックを多用するようになるのは1940年前後からといえそうだ。1930年代の派手な奇術ショーから、40年代の小味なメンタル・マジック風のミステリに移行するに際し、カー自身、読者とのポーカーのごとき騙し合いの駆け引きに楽しみを見いだすようになったらしい。

 ありふれた記述トリックを注釈というメタ・フィクション的手法でカヴァーして、読者を瞞着しようとしたのが、『九つの答』(1952年)である。作中、登場人物のひとり(実は犯人)が毒を飲んで昏倒する。主人公はその場を逃れて、以後、犯人の生死は不明のまま小説は続く。当然、読者は、本当に毒を飲まされたのか、本当に死んでいるのか、と疑うのだが、作者はわざわざ注をつけて、犯人が毒を飲まされたのは本当だ(でも、死んだわけではないけどね)、と念を押す[xiii]。こんな姑息なトリックのために、注を九つも考えるとはご苦労千万な話だが、「木の葉を隠すには、森をつくれ」というわけだろうか。

 また『九つの答』は、前記の『墓場貸します』で見せた「Aに扮しているBをAと書いてはいけない」というルールを守るため、綱渡り的描写を数十ページにわたって続けるという、一種のはなれわざをみせてくれる。伯父に変装した犯人が最初に登場するとき、彼は「主人」と表現される[xiv]が、名前は記されていない。その後、犯人が彼自身ではなく、彼が扮している伯父の名前で呼ばれるが、それは主人公の内心のつぶやきであることがわかる[xv]、といった具合である。こうした描写の工夫については、作者自身が注で嬉しそうに説明しており、「これは読者を迷わせるための正当な手段である」[xvi]、と勝ち誇って宣言する。確かに、その労力には頭が下がる、というか、むしろ呆れる。

 次にカーが考案したテクニックが、登場人物同士の会話で双方が誤解しているために話がかみ合わない、というものである。『ハイチムニー荘の醜聞』(1959年)で、恋する女性に犯罪者の血が流れているかもしれないと知った主人公は、彼女の父親に向かって、(彼女とその姉と)どちらに悪い血が伝わっているのか、はっきり言ってくれ、と迫る。父親のほうは、おわかりのはずだ、と曖昧な返答しかしないが、実は、犯罪者の子どもというのは息子のほうだった、という結末[xvii]。主人公の思い込みによる誤解が読者にも伝わるように会話を組み立てるという、蛇のようなずる賢さである。

 この手口が気に入ったのか、それとも、まだ十分堪能していなかったのか、翌年の『雷鳴の中でも』(1960年)においても同様の手法を用いている。被害者の元女優がヒロインに向かって、「よくも彼をたらしこんだりしたわね、この薄汚い女狐め!(そんな言葉は使ってないか)」、と罵るのだが、ヒロインのほうは、女優の夫のことと思って抗弁する。ところが、実は義理の息子のほうだった、というのが真相である[xviii]。父親もヒロインに気があるような描写を織り交ぜて、被害者の真意を隠蔽し、巧みに犯人の動機を隠す。相変わらず、悪魔のような狡猾さといわねばならない。

 登場人物のセリフを用いた叙述トリックといえば、名探偵のフェル博士やヘンリ・メリヴェル卿はどうか、という興味もある。彼らの、読者を散々焦らして煙に巻く、はぐらかし発言の数々は政治家の選挙公約以上に信用ならないが、例えば、初期の『死時計』(1935年)で、こんな会話が出てくる。

 

  「○〇〇○〇?そいつが殺人犯人なんですか?」

  「いや、殺人をするつもりだと認めただけなんだ。(一部改変。以下、略)」[xix]

 

 既読の読者には説明不要だが、犯人なのか違うのか、と聞かれているのだから、イエスかノーで答えればいいものを、こんな曖昧な返事しかしないのはどういうつもりなのか、と思っていると・・・、いや、もうすでに半分ネタ晴らしをしてしまったが、どうやら、カーが叙述トリックに味をしめるようになったのは、この辺りからなのかもしれない。

 前述の『墓場貸します』[xx]では、さらに手口が悪質になって、ヘンリ卿が、実は犯人なのに、あいつは犯人じゃないよ、と猫なで声で口にする。ところが、犯人が逮捕されたあとになると、あれは、犯人の婚約者にショックを与えないためのやむを得ない嘘だったんだ、と神妙につぶやく。また、だましやがったな、このオヤジ!(ガラが悪いなあ。)

 叙述トリックとまで言えないが、『囁く影』(1946年)[xxi]のタイトルにも狙いがありそうだ。He Who Whispersという原題は、作中の奇怪な殺人方法のトリックを暗示しているが、犯人は男性であると明かしてしまっているように思える。だが、よく考えると、あの奇抜なトリックをフェル博士より早く解き明かせる読者はまずいないだろう。最後の謎解きが済んで、初めて題名の意味がピンとくるようにできている。これもカーらしいお遊びといえる。  (題名を伏線に用いる手法は、『九人と死で十人だ』(1940年)[xxii]、『爬虫類館の殺人』(1944年)[xxiii]にも見られる。)

 以上、ディクスン・カーの語りの詐術について、代表的な諸編をトレースしてきた。実は最後にもうひとつ『血に飢えた悪鬼』(1972年)[xxiv]という掟破りの怪作があるのだが、果たしてこれは叙述トリックといえるのか決め難く、ひとまず保留とする。

最後に、ここまでの記事の大半は以前に書いた別の記事と重複する結果になってしまった。諒とされたい(一度、この言い回しを使ってみたかった)。

 

(追記)

 『亡霊たちの真昼』(1969年)の殺人場面で、実際はAである人物をBと書いているのを本文でアンフェアと書いたが、どうやら、これは筆者が間違っていたようだ。三人称小説でも、登場人物の主観で描写することは可能だし、近年ではそうした手法は承認されている。

 つまり、問題の個所は、主人公ジム・ブレイクの主観描写であり、運転手がレオ・シュプレーと呼ばれるのはジムの視点で語られる場合と解釈できる[xxv]

 すると、『墓場貸します』(1949年)で、わざわざ、主人公の視点で経過を見ていこう、と作者が断りを述べていた[xxvi]のとは手法が異なるわけだが、20年間の間に、カーの考え方が変わったのだろうか?

 その解答は、三年後に書かれた『九つの答』(1952年)をみると解決する。上記にも引用した「注の9」を読み返すと、次のように書かれていた。「にせ者のゲイが現われる場面においても、作者自身はそれが本物のゲイロード・ハーストだとは言っていない。・・・しかし彼の登場する場面では、この場合もビルの目に対してのみゲイロード・ハーストなのである。」[xxvii]すなわち、ビルの視点による場合は、本当はAであるけれどもBと書いている、ということである。

 従って、『九つの答』の段階で、すでにカーは、登場人物の視点による場合、AをBと書いてもよいという立場に立っており、『墓場貸します』では、意図的に断り書きを入れる手法を取ったに過ぎないと考えるのが適切なようである。

 『亡霊たちの真昼』執筆の際には、もはや『九つの答』のように、弁明(自慢?)する必要を感じず、「登場人物の視点」を利用することによって叙述の問題をクリアしようとしたと見ることができる。

 ということで、筆者の『亡霊たちの真昼』に対する評価は間違っていたようなので、訂正します。(2024年2月4日)

 

[i] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、471頁。

[ii] 『夜歩く』(和邇桃子訳、創元推理文庫、2013年)、31頁。

[iii] 『亡霊たちの真昼』(池 央耿訳、創元推理文庫、1983年)、174頁。

[iv] アガサ・クリスティの代表作が適例。

[v] 『五つの箱の死』(西田政治訳、1957年)、237頁。

[vi] 『テニスコートの殺人』(三角和代訳、創元推理文庫、2014年)、55頁。

[vii] 『墓場貸します』(斎藤数衛訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1980年)、90頁。

[viii] 『ビロードの悪魔』(吉田誠一訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1981年)、402頁。

[ix] 同、131-64頁。

[x] 『疑惑の影』(斎藤数衛訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1982年)、60頁。

[xi] 『殺人者と恐喝者』(高沢 治訳、創元推理文庫、2014年)、7頁。

[xii] 『皇帝のかぎ煙草入れ』(駒月雅子訳、創元推理文庫、2012年)、33-34、65-66頁。

[xiii] 『九つの答』(青木雄造訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1958年)、79頁。

[xiv] 同、181頁。

[xv] 同、182頁。

[xvi] 同、433頁。

[xvii] 『ハイチムニー荘の醜聞』(真野明裕訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1983年)、71-77頁。

[xviii] 『雷鳴の中でも』(永来重明訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1979年)、134頁。

[xix] 『死時計』(吉田誠一訳、創元推理文庫、1982年)、10頁。

[xx] 『墓場貸します』、324頁。

[xxi] 『囁く影』(斎藤数衛訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1981年)。

[xxii] 『九人と死で十人だ』(駒月雅子訳、創元推理文庫、2018年)。

[xxiii] 『爬虫類館の殺人』(中村能三訳、創元推理文庫、1960年)。

[xxiv] 『血に飢えた悪鬼』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1980年)。

[xxv] 『亡霊たちの真昼』、174-75頁。

[xxvi] 『墓場貸します』、89頁。

[xxvii] 『九つの答』、433頁。