エラリイ・クイーン「国名シリーズの犯人達」

(言うまでもないですが、国名シリーズ(およびドルリー・レーン・シリーズ)の犯人を明らかにしています。他に、G・K・チェスタトン、E・A・ポーの小説の内容に触れています。)

 

 エラリイ・クイーンの「国名シリーズ」は、1929年から1935年にかけて9作が書かれた。1932年と1933年に2作ずつ出版されたので、7年間で9冊になる。

 この7年間は、クイーンが、ヴァン・ダインを引き継いでアメリカのミステリを大きく発展させた時期であり、より具体的には、ミステリにおける推理もしくは論理の要素を、これまでにないレヴェルにまで引き上げることで、作者と読者の知的ゲームとしてのパズル・ミステリを完成させた時期といえる。

 しかし、同時にこの時代のクイーンは(バーナビイ・ロス名義の作品を含めて)犯人の意外性にことのほか力を入れ、大げさに言えば、意外な犯人のあらゆる類型をその作品のなかで試している。クイーンのように論理的推理をミステリの最重要要素ととらえるなら、犯人の意外性はむしろ必要ないはずで、例えば、最初から、「犯人はこの三人のなかにいます」、と宣言して、「犯人が誰か、推理によって示してください」、と問うほうが、クイーンの主張には適っている。読者が容易に思いつけない人物を犯人に設定する必要はない。しかし、実際には、「国名シリーズ」の諸作は意外な犯人の宝庫ないし展示会の様相を呈している。これは、推理が重要と言いながら、犯人当てゲームで読者に勝利することを、クイーンが優先したことを表わしているのだろうか。どうみても一般的な読者にはお手上げの難解な推理はともかく、動機や機会を憶測するだけでは当たりそうにない犯人を設定することで、あくまで読者を屈服させようとしたのだろうか。

 しかし、この点については別な見方もできる。「国名シリーズ」の犯人達は、様々な「意外な犯人」のタイプに属しているが、クイーンによって新たに発案されたアイディアはない。いずれも既成の作品に登場した「意外な犯人」の、悪くいえば二番煎じである。つまり、パズル・ミステリを読み慣れた読者には想定の範囲内ということになる。ミステリを読みつくした猛者なら、その知識によって犯人の見当をつけてしまうだろう。こうしたミステリ・マニアを相手にするなら、意外な犯人の先行例を踏襲するのではなく、動機も明白で、意外な犯人の類型に属さない登場人物のなかから犯人を当てさせるほうが、クイーンが読者に勝利する可能性が高いとさえいえる。

 以上を踏まえると、クイーンのミステリに意外な犯人は必要ない。それでも、クイーンが意外な犯人に拘ったのは、なぜだろう。もちろん、ミステリ・マニアだけが読者ではない。当然、犯人が意外であるほうが印象に残り、売れ行きも伸びるだろう。評論家の評価も高くなるはずだ。

 恐らく、初期のクイーンは、色々なバランスを考えて、売れるミステリを書こうと努力しただろう。推理、具体的には「読者への挑戦」を売りものとしながら、同時に、意外な犯人の設定に工夫をこらして、評判となる小説を生み出そうと頭を絞ったに違いない。ダネイとリーの二人は、すでに職業人であり、ビジネスマンだった。生活を犠牲にして、創作に打ち込む芸術家気質は皆無ではないにせよ、将来を見据えて、専業作家となるか、副業として余暇を執筆にあてるのか、どちらが合理的かを判断できる常識を備えていた。「読者への挑戦」も、推理重視の宣言も、商売上手な二人の販売促進戦略に過ぎなかったともいえる。

 しかし、一方で、とくにダネイが持っていたと思われる論理愛好癖は、クイーンの初期ミステリに特異ともいえる個性を与えており、そこには、なにかしら野心的な試みが含まれていた可能性を感じさせる。果たして、それは何だったのだろう。さらに検討を進める前に、「国名シリーズ」に登場する犯人達を簡単に概観してみよう。

 

 「国名シリーズ」の初期三作は、公共の場における殺人を扱い、不特定多数の容疑者のなかから犯人を特定する方式を採っている。『ローマ帽子の謎』の劇場、『フランス白粉の謎』のデパート、『オランダ靴の謎』の病院、と舞台は異なるが、共通するのは、いずれの犯人も、それら公共の施設の関係者であるということである。ただし、それ以外にも、それぞれの犯人は、異なる「意外な犯人」の特性を持ち合わせている。

 『ローマ帽子の謎』では、犯人は舞台に出演中の俳優で、殺人は観客席で行われる。すなわち、舞台に出演している俳優が犯人だった、という一種の不可能犯罪である。もちろん、舞台と観客席に同時に存在することはできない(SFミステリではない)ので、舞台袖にはけている時間を狙って実行するのだが、しかし、舞台で演じているはずの俳優が犯人だった、というのは、十分に意外である。このアイディアは、目新しいようにみえるが、G・K・チェスタトンのブラウン神父シリーズに前例がある[i]

 『フランス白粉の謎』では、犯人はデパートの関係者だが、同時に探偵であり、事件発生後、捜査陣に加わる。従って、「探偵(警察官)=犯人」の類型でもあるわけである。この類型は、作例が無数にあるので、例を挙げるまでもないだろう。いうまでもないが、バーナビイ・ロス名義の一作は、この類型の極端なヴァリエーションである。

 『オランダ靴の謎』は、病院の看護士(看護婦)が犯人であるが、これは、やはりチェスタトンの短編で有名な「盲点犯人」[ii]の類型といってよいだろう。同じ類型で、さらに、チェスタトン作に近い例としては、やはりロス名義の長編がある。また、本書の犯人は、医師に成りすまして、二人の人物が同時に室内にいるようにみせかけるので、一人二役トリックによる意外な犯人でもある。

 『ギリシア棺の謎』では、犯人は検事補で、捜査陣の一員。すなわち、「探偵=犯人」の一種である。『フランス白粉』と同一パターンで、そういう意味では、読者も予想しうる犯人ともいえる(順番に読んでいれば、の話だが)。この事件の犯人は、偽の手がかりによって、エラリイを間違った推理に誘導する高踏的犯罪者なので、この類型の犯人を設定せざるをえなかったともいえる。クイーンを順番に読んでいる愛読者なら当てやすい、と作者が考えたとすれば、先行諸作以上に、犯人を「当てる」のではなく、「推理」してほしい、と強調するのも理解できる。

 『エジプト十字架の謎』では、犯人は被害者と思われていたひとりである。本書以降、この類型の犯人が増える。ただし、いずれも異なるヴァリエーションで、本作では「顔のない死体」トリックが用いられている。言うまでもないが、「被害者=犯人」というのは、ミステリの基本中の基本アイディアである。「顔のない死体」のトリックも、作例は腐るほどある。

 『アメリカ銃の謎』も前作同様、「被害者=犯人」である。しかし、「顔のない死体」ではなく、まったく別の発想によっている。

 『シャム双子の謎』は、初期三作とは対照的に、ごく限られた範囲の容疑者のなかから犯人を推理する。そのため容疑が二転三転する。そのプロットに応じて、犯人の設定も決められており、「最初から疑わしい人間が犯人」という逆説的な発想による犯人を考案している。あるいは、「一度疑いが晴れた人物がやっぱり犯人」、もしくは「名探偵が無実を証明した人物が犯人」。この類型の犯人も、類似例には事欠かない。

 『チャイナ橙の謎』では、これまでのような既成作品の応用ではない。いや、そうだといってもよいのだが、一種のアリバイ・トリックというか、犯人のみ犯行が不可能とみせかける。具体的には、外部から施錠され、出入りを見張られていた部屋のなかにいる人物が犯人。あるいは、密室に閉じ込められていた人物が犯人というアイディアである。

 『スペイン岬の謎』は、三度、「被害者=犯人」が使用されている。『エジプト十字架』、『アメリカ銃』とは異なり、誘拐拉致された人物が犯人だった、というヴァリエーション。

 

 以上のように、「国名シリーズ」では、それまでにミステリで使用されてきた「意外な犯人」の棚卸しのような感じで、様々なタイプが網羅されている。初期クイーンの作品は、フェアな手掛かりに基づく推理によって、という以上に、意外な犯人の多彩さによって特色づけられているのである。しかし、繰り返しになるが、これらの意外な犯人達は、それまでのミステリの歴史のなかで一度は登場したことのある連中で、彼等が犯人とわかっても、あまりの意外さに呆然とする、とまでには至らないだろう。

 そこで、改めて「国名シリーズ」でクイーンが「意外な犯人」に執着した理由を考えてみると、パズル・ミステリは作者と読者の知的ゲームであるべきで、そのためには、推理に必要なすべてのデータが示されなければならない。根拠に基づく論理的証明という作業はあらゆる学問に共通する方法的基礎であって、人間の知的活動の根本的な要素である。クイーンのミステリは、それをエンターテインメントの領域で最高度に強調したところに特徴がある。ミステリという小説形式の本質的要素は「謎」であるから、論理的証明を適用するということは、「謎」が論理によって「謎でなくなる」過程を示すことに他ならない。

 そもそも、このような論理的証明による謎の解消という作業を意識的に小説化したのが、エドガー・アラン・ポーであったことは言うまでもない。「モルグ街の殺人事件」(1841年)は、密室殺人の謎と意外な犯人で有名だが、結末の意外性で読者を驚かすことが目的ではない。例えば同作の密室は、謎とも言えないお粗末さという声もあるが、作者には密室のトリックのつもりはなかったのだろう。閉ざされた室内から犯人が煙のように逃げ去るなどということはありうるはずもない。ドアからも、煙突からも出入りすることは不可能となれば、釘が打ち込まれた窓が実は開閉できるのではないかという可能性が浮上する。すると、実際に釘が途中で折れていた事実が明らかになる。馬鹿馬鹿しいトリックのように見えるが、つまりは、論理を突き詰めていけば謎は謎でなくなることを証明しているわけである。また、窓の外には避雷針が走っているが、人間ではそれに飛びついて地上に降りることは不可能である。であるならば、論理的に犯人は人間以外の存在、この場合はオランウータンということになる。ポーのミステリは、一見不合理に見える謎を論理によって合理的に解釈する過程を描こうとしたものである。

 ところが、その後のミステリの歴史は、謎の論理的説明よりも意外な結末に傾注することで発展を遂げてきた。一見不可能な犯罪や奇抜な犯人など、謎解きの答えは意外であればあるほど好ましく、反面、その論理的証明はさほど重視されなくなった。エラリイ・クイーンが登場した意味は、謎の論理的解明の過程に再び重きを置いたところにある。すなわち、論理によれば意外な犯人が実は意外でないことを証明するためにあらゆる意外な犯人のパターンを意識的になぞった。これが「国名シリーズ」全体の狙いであったと思われる。つまり、ポーへの回帰であって、「国名シリーズ」でクイーンが目指したのは、20世紀のポーたらんとすることだったのではないか。

 

[i] G・K・チェスタトン「俳優とアリバイ」『ブラウン神父の秘密』(中村保男訳、創元推理文庫、1982年)、所収。初出は、1926年。

[ii] G・K・チェスタトン「見えない男」『ブラウン神父の童心』(中村保男訳、創元推理文庫、1982年)、所収。初出は、1911年。