横溝正史『三つ首塔』

(本書の犯人等のほか、『八つ墓村』、『犬神家の一族』、『女王蜂』、「妖説血屋敷」、「七つの仮面」等の内容に触れています。)

 

 私はとうとう三つ首塔をはるかにのぞむ、たそがれ峠までたどりついた[i]

 

 本書の書き出しだが、角川文庫版では236頁にも、まったく同じ文章が登場する。物語は、主人公宮本音禰の上記の述懐から始まり、すぐに回想に移って、事件の発端から語り直される構成である。冒頭の文章が繰り返されて最後のクライマックスに突入するのだが、山場となる第二部の始まりを意図的に小説の頭にもってくる語りの手法は、なかなか技巧的で劇的な演出といえる。

 続くシーンも劇的で、男連れの主人公は、いきなり、お相手の高頭五郎に縋りつくと「私を捨てないで」と哀願するが、キスされると、すぐその気になってしまう(?)。どんなアバズレかと思っていると(なんか、言い方がアレだが)、回想に入ったら途端に、わたくし、つつましく花嫁修業などしていましたの、と箱入り娘を強調するので、どこがどうすれば、ここまで落ちぶれるのか。すっかり横溝の手管に乗せられて、読まずにいられなくなる。

 うら若い美女の一人称手記とか、男性作家の正史が随分思い切ったものだが、翌年にも短編ながら「七つの仮面」[ii]を女性一人称の手記の形式で書いている。戦前にも、「妖説血屋敷」(1936年)がある。また一人称小説ではないが、女性主人公の家庭小説として、戦前から戦中にかけて『雪割草』(1941年)[iii]という大長編がある。時代も異なるので、『三つ首塔』とは似ても似つかぬ品の良さだが、ヒロインが運命に翻弄される波乱万丈の物語は共通している。

 といっても、『三つ首塔』の音禰-ところで、「音禰(おとね)」という名前は、わりとオーソドックスな名の多い横溝的女性主人公としては珍しい響きだが(意外に今風?)、どこから取ってきたのだろう。「乙女(おとめ)」から?-は、最初から、いきなり怪しげな快男児(形容が矛盾しているか)高頭五郎に襲われて無理やり関係を持たされる。横溝作品でも、一番ひどい目に合わされるといっても過言ではないヒロインだが、その後も繰り返し男に呼び出されて、いやいや体の関係を続けるうちに、いつの間にか良くなってしまうという同人誌的展開となる(いや、薄い本とか、私はそんなもの知りませんよ。知りませんとも!)。けっこう現代的な主人公で、時代の先を読む横溝の先見性はさすがである。

 そんなわけで、『三つ首塔』は、いわゆる横溝正史のエロ・グロB級スリラーの位置づけ[iv]だが、同時期の『幽霊男』(1954年)や『吸血蛾』(1955年)が、エロティックでグロテスクといっても、あくまで謎解き小説の型を守っていたのに対し、本書は、前年に連載された『迷路の花嫁』(1954年)に続き、トリックや犯人探しより、スリリングなシーンと場面転換の速さで繋ぐ読み本仕立ての冒険ロマンという趣きである。

 同時に、それまでの様々な横溝作品の特徴が色々と現れている、いやむしろ、既成作品の(焼き直しといってしまうのも酷なので)奏でるこだまがそこここに響いている。一人称の伝奇ミステリといえば、男女の違いはあれど、『八つ墓村』(1949-51年)が直ちに思いつく。遺産相続が犯罪動機となるところも一緒だが、遺産相続とくれば『犬神家の一族』(1950-51年)である。もっとも、金銭的動機と見せかけて、実は愛情による殺人という解決が、いかにも横溝らしいのだが、これも『八つ墓』や『犬神』と共通する。『三つ首塔』でも、一番大きなミステリ的技巧はここで、遺産相続が動機と考えていると、思いもよらぬ意外な犯人が明らかになる(上記の横溝作品を読んでいれば、意外でもない?)。この犯人と音禰との関係は、また、『女王蜂』(1951-52年)に類似しており、老いらくの恋というか、(実際は、そうではないが)近親相姦的な危ない愛情が事件の引き金になる。そこもまた横溝らしい。

 他方、一人称小説ということは、当然「記述者=犯人」という結末が、ミステリを多少とも読みなれた読者には浮かぶはずで、ということは『八つ墓村』より、むしろもうひとつの一人称小説(注で書名を挙げます。いや、挙げる必要もないか)のほうを連想するかもしれない。とくに、本書は、『八つ墓』のように主人公の手記の前に作者の「まえがき」が置かれるわけではないので、なおさらである(音禰の手記に嘘はない、とは誰も保証していない)。まあ、いきなり奪われてしまった音禰を疑ったりしては気の毒であるが、横溝作品では(いや、ミステリなら、大抵そうだが)、きれいな女性にうかつに心を許してはならない。女は怖いのだ(女性の皆さん、すいません)。

 そこで、本書の真犯人は音禰なのか、改めて考えてみよう(どういう話の振り方だ)。すると問題になるのは、当然、音禰が見たという、横溝作品でも他に例のない奇怪な幻覚(?)の件である。地下の穴倉から救出された音禰と五郎がいっとき地面に寝かされている間に、炭焼き窯から這い出てきた古坂史郎と佐竹由香利が真田紐で音禰の首を締めようとしたという幻影[v]。というより、二人の幽霊が音禰を殺そうとした超常現象だというのだが[vi]、これはもちろん真実ではない。こんな怪談まがいの出来事が現実にあるはずがない。という以上に、このようなオカルトで非論理的な手がかりなど、パズル・ミステリにあってはならないのだ(メタです)。いうまでもなく音禰のつくり話である。

 そして、この話が音禰の嘘であるならば、史郎と由香利の死体とともに発見されたシガレット・ケースを埋めておいたのも彼女である。ケースが誰のものか、うっかり(うっかり?)口にしてしまったのも音禰だったことを忘れてはならない(これって、決定的でしょ)[vii]。いやはや、女性は怖い・・・。自分の幸福のためには、他に誰を犠牲にしようとも悔いない。高頭五郎君、いやさ、俊作君、手玉に取られたのは、どうも君のほうらしいよ!そういう女性は、でも、嫌いじゃない。なにしろ美人だし。素敵ですよ、音禰さん。結婚してください(錯乱してきたようだ)。

 我に返ると、上に挙げた二短編、「妖説血屋敷」も「七つの仮面」も、実は「記述者=犯人」の小説である。薄幸の、さらに美女の殺人鬼というのは、ある意味定番でもある。もしや音禰も、と考えるのは、決して下衆の勘繰りではない。

 それにしても、最初に人生のどん底に突き落とされて、そのあと、本当に穴に落とされたにもかかわらず、最後は愛する男性と幸福をつかんだ横溝作品でも屈指のヒロインである宮本音禰(しかし、いきなり力づくで、いたしてしまう五郎、いやさ、俊作は、やはり、とんでもない鬼畜だと思うのだが。そもそも犯罪だし)。描いた横溝は、当時53歳。どういう心境だったのでしょうね。それに、本書の公式(?)の犯人は還暦を過ぎた61歳[viii]。こちらも、横溝作品では屈指の高齢者犯人である(これも時代を先取りしているのか)。「老いらくの恋」といったが、現在ならそれほどでもないが、昭和30年当時は、結構ショッキングな犯人だったかもしれない[ix]

 ところで、執筆時に横溝が53歳だったということは、8歳年長の江戸川乱歩は、ちょうど還暦を迎えて、前年(昭和29年)盛大に祝賀会を開いていた。横溝夫妻も出席している[x]

 おやおや、本書の犯人のモデルは乱歩でしたか。

 

乱歩「横溝君。ぼくが犯人とはひどいよ。」

正史「乱歩さん[xi]、それは誤解でっせ。この本の犯人は、オツムはふさふさですさかい[xii]。」

 

 そんな失礼なこと言わないか。(関西言葉はよくわからないので、何分、ご容赦願います。)

 しかし、そのせいでか、二年後、乱歩が『宝石』の編集を引き受けたとき、長編連載の依頼を、正史が断ることはなかった。こうして生まれたのが名作『悪魔の手毬唄』(1957-59年)である[xiii]

 

 その辺にして、まとめに入ろう。

 『三つ首塔』は、「エロ・グロ」路線の風俗ミステリという印象だが、根本は、横溝作品ならではの、過去が現在に影を落とす秘密と冒険の伝奇ロマンであり、その無類の面白さから人気のほども不思議ではない[xiv]。凝った映画的演出や清々しい後味も含めて、代表作の列に加えて不足のない作品といえるだろう。

 

(追記)

 本文で、音禰の手記が真実とは限らない、と書いたが、実は、金田一がお墨付きを与えていたことに、再読して気がついた。

 「法然和尚」の章で、音禰嬢は、突然、事件はもう終わっています、と、わたしたち(読者)に向かって宣言する。最後まで書くのは、金田一耕助氏(さすがに、それまでのように呼び捨てにはしていない)にそう言われたからです、と[xv]

 『八つ墓村』の寺田辰弥は、事件後、金田一に促されて、ようやく手記を書き始めるのだが、音禰は自分から筆を取っていて、高頭五郎の悪口などを散々書きちらかしていた。事件が終結して、もう続きを書く気はなかったのに、金田一が「あのひとにも悪いではありませんか」と言うから[xvi]、仕方なく書くんです、とおっしゃるのだが、「あのひと」とは、誰かな?焦らしますね、音禰さん。金田一も、なかなか商売が上手い。

 それにしても、『夜歩く』に『八つ墓村』、そして本書と、金田一は、どうして、やたらと関係者に手記を書かせたがるのか。出版社の回し者か(横溝正史が書きやすくなるだろうという親切心なのか)。

 しかし、音禰の手記がすべて真実である保証は、依然として、ない。犯人は自白していないし、それと特定できるような推理も示されていない。物的証拠となるのは、音禰=俊作コンビ-この二人が信用できないことは、言うまでもない-が証言(シガレット・ケース)、もしくは提供(ボタン[xvii])したものだけである。金田一が、犯人のあとを追跡していただろうって[xviii]金田一など、当てにならん(暴言だあ)。

 

[i] 『三つ首塔』(角川文庫、1972年)、3頁。

[ii] 実際は、1948年の「聖女の首」が原型。

[iii] 『雪割草』(戎光祥出版、2018年)。

[iv] 大坪直行の解説からして、そういう評価だった。『三つ首塔』(角川文庫)、347頁。

[v] 『三つ首塔』、300-305頁。枚数の関係で、合理的な結末をつけられなかった、という話は有名らしい。『僕たちの好きな金田一耕助』(『別冊宝島1375号』、2007年)、62頁。しかし、枚数のせいで、というのは言い訳っぽい(『八つ墓村』などは、単純で見事な手がかりを考案している)。上手い手がかりが思いつかなかったというのが、本当のところだったのではないだろうか。

[vi] 『三つ首塔』、329頁。

[vii] 同、330頁。

[viii] 同、12-13頁。

[ix] 本書冒頭の記述では、昭和30年は「去年」と書かれている!?つまり音禰が手記を書いているのは、昭和31年のようなのだ。本書の連載は30年で完結しているはずだが・・・。音禰は未来からやってきた「時をかける(元)少女」だったのか!同、7頁。

[x] 江戸川乱歩『探偵小説四十年(下)』(光文社、2006年)、494頁。実際に、作中の還暦祝賀会の模様は乱歩のそれをモデルにしている、と中島河太郎が書いていた記憶がある。

[xi] 実際は、ある時期から、正史は乱歩のことを「乱歩さん」とは呼ばなくなったらしい。横溝正史「探偵小説昔話 2 乱歩と稚児の草紙」『探偵小説昔話』(講談社、1975年)、12頁。

[xii] 実際は、犯人の頭髪に関する描写は、作中には見当たらないようだ。江戸川乱歩「薄毛の弁」『奇譚/獏の言葉』(講談社、1988年)、18-20頁、『探偵小説四十年(上)』(光文社、2006年)、535-36頁、横溝正史「探偵小説昔話 6 浜尾四郎と春本」『探偵小説昔話』、23-24頁等を参照(参照してどうするんだという話ではあるが)。

[xiii] 江戸川乱歩「『宝石』編集の一年」『うつし世は夢』(講談社、1987年)、225-26頁を参照。

[xiv] 横溝正史「私のベスト10」『真説金田一耕助』(毎日新聞社、1977年)、98頁参照。本書の人気は、最初の「横溝正史全集」(講談社、1970年)に収録されたことも大きかったように思われる(第9巻が『三つ首塔』。『悪魔の寵児』を併録)。同全集には、『夜歩く』や『びっくり箱殺人事件』は選定されなかった。

[xv] 『三つ首塔』、247-48頁。

[xvi] 同、248頁。

[xvii] 同、342頁。

[xviii] 同、283、334頁。