横溝正史『悪魔の寵児』

(本書の内容のほか、戸川昌子猟人日記』の内容に触れていますので、ご注意ください。)

 

 都筑道夫の『二十世紀のツヅキです 1986-1993』というエッセイ集を読んでいたら、昔、『妖奇』という雑誌に、男と性行為を行った女が、別の女を殺して、その膣内に男から取った精液を注入し罪を着せる小説が載った。批評家の顰蹙を買ったが、その後、別の作家が同じトリックを用いたときには、ほとんど問題にならなかった、という話を書いていた[i]

 おやおや、と思ったのは、この「別の作家」というのが明らかに横溝正史で、作品もすぐにピンときた。本書『悪魔の寵児』(1959-60年)である。同じトリックを扱った探偵小説がすでにあったとは初耳だったが、横溝の本書に「眉をひそめるひとは少かった」[ii]というのは、伝え聞いていた話とだいぶ違うな、と感じたのである。

 ところが、さらに驚いたのは、少し後のほうで、都筑が、もう一度その話を振り返っていて、別の作家の別の作品とは、戸川昌子の『猟人日記』(1963年)だというのである[iii]。『猟人日記』は読んでいたはずだが、トリックが『悪魔の寵児』と共通していたことは、まったく覚えていなかった。しかも、同一のトリックを使用した作家が三人もいたとは・・・。

 いずれにしても、上記のトリックに象徴されるように、『悪魔の寵児』は、「性的犯罪」あるいは「性的関係」が主題になっていて、そのためか、評判はすこぶるよろしくなかった。「最低の悪作」で「大横溝の名を汚す以外の何ものでもない」[iv]という、仁賀克維の批評が代表である。角川文庫版の解説を書いている大坪直行は、こうした連載当時の手厳しい評価を紹介したうえで、こうした酷評に横溝も悩み、自己嫌悪を感じていたと打ち明けている[v]。一方で、しかし、そうした悪評は誤りだと反論、本書の本質は草双紙趣味と現代風俗を組み合わせたところにあるとして、(「解説」だから当然のごとく)高く評価した。

 同様のことは『僕たちの好きな金田一耕助』においても主張されていて、「ミスディレクションを活用した犯人の意外性と、トリックの先進性」に優れた「まだまだホメ足りない秀作」だと賞賛している[vi]。以上の近年の再評価によって、そして、もちろん横溝の名声のおかげもあって、『悪魔の寵児』は、面白いミステリとして多くの読者を獲得しているようだ。

 しかし、まあ、あまり上品とは言いかねるのも確かである。上記のトリックのみならず、そもそも、怪奇「雨男」(これが作中の怪人の自称)によって次々に殺害される女たちが、いずれも男の死体や人形と全裸で抱き合うなど、あられもない姿(などという表現では足りないが)で発見される。『幽霊男』(1954年)や『吸血蛾』(1955年)などと同工異曲、いや、それ以上に、お下劣で、いささか辟易させられる。お高くとまるつもりはないが、横溝作品の中でも、断トツにエグい小説であることは否定できない。

 ただ、『幽霊男』や『吸血蛾』と比べて、微妙な相違があるとも感じる。昭和20年代のエロ(ティック)・グロ(テスク)通俗スリラーに顕著だった見世物小屋的な非日常性、ないしは江戸川乱歩風の(よい意味でも悪い意味でも)子どもらしさが薄まって、もっと現実的な、といってしまうと、『悪魔の寵児』が現実的か?と詰め寄られそうだが、トリッキーな探偵小説から現代的な犯罪を描く推理小説に一歩踏み出した印象である。

 本書の殺人には、例によって横溝作品に欠かせない共犯トリックが使われているが、他には綱渡り的な奇術トリックは出てこない。新しいアイディアが浮かんでこなくなったということもあるかもしれないが、人間消失とか密室犯罪のような手品は使われていない。全体のストーリーは、犯罪そのものよりも、むしろ、犯罪を通して、水上三太と風間欣吾の二人の主役の間の「対抗関係」を描くことに主軸が置かれている。水上は風間を疑い[vii]、風間も水上に不信感を抱く[viii]。そこに金田一耕助が絡んで、いってみれば、本書は彼ら三人の対立と共闘を描く物語で、被害者となる女たちは、水上と風間の間でヒロイン役を務める石川早苗も含めて、案外、影が薄い。三人の男のうち、とりわけ水上三太は、三津木俊介や多門修とも、また違ったキャラクターで、お坊ちゃんタイプでありながら頭もきれる[ix]。エロティックでグロテスクな死体凌辱殺人の演出に幻惑されるが、水上の心情と行動に即して読んでいくと、雰囲気は意外にハードボイルド・ミステリ風である。

 この変化が何に起因するものかを考えると、時系列的に、前記『幽霊男』、『吸血蛾』と『悪魔の寵児』の間に来るのが、二木悦子の『猫は知っていた』(1957年)と松本清張の『点と線』(1958年)である。タイプは異なるが、どちらも新時代を切り開いた歴史的作品であり、共通するのは日常性と現実感だろう。これら諸作に比べれば、昭和20年代のミステリが大時代で非現実なことは認めざるを得ない。20年代を代表する作家横溝正史も、『猫は知っていた』や『点と線』のなかに、来るべき推理小説の時代の予兆を感じ取っていたのだろうか。『悪魔の寵児』と同時期に連載していた、こちらは代表作と自他ともに認める『悪魔の手毬唄』(1957-59年)にしても、傾向は違えども、やはり現実的な犯罪を描く方向に向かっていた。「顔のない死体」の大掛かりなトリックが演じられるのは23年前の事件においてであって、現在(1955年)の事件は、見立て殺人の装飾を除けば、あまり奇抜過ぎない、それ自体は平凡な殺人である。

 その意味では、トリックが枯渇したというより、トリックに頼らずに、現代的な小道具(精液を詰めた注射器や麻薬など)を駆使して犯罪を描く「推理小説的探偵小説」というのが本書におけるテーマであったのかもしれない。

 全編にわたって雨が降り続き、じくじくとした憂鬱な気分が、作中で描かれる事件の陰湿さと、おぞましさとを倍増させる。もちろん、それが作者の狙いなのだが、それだけに、等々力警部とともに、金田一と水上が風間を迎えるラスト・シーンは、梅雨明けのからりと晴れた空を感じさせて(実際は、すでに九月になっているのだが)、陰と陽の鮮やかな対照が清々しい。

 

 ちなみに、本書の事件が始まるのは、昭和33年6月18日[x]。連載開始が『面白倶楽部』の昭和33年7月号だから、ほぼ現在進行形の事件として始まっていることになる。はなはだメタ的だが、一体作者は、日月堂に雨男がやってくることを、どうやって知ったのだろう。最初の事件が起こったのは6月28日だが、この時点では、まだ事件は公けになっていないし、金田一も、依頼さえ受けていない。

 ちなみに、冒頭に出てくる「心中挨拶状」[xi]は、実話に基づいているらしい[xii]。『横溝正史読本』の小林信彦との対談を読んで、そのことを知ったとき、もう、とうに過ぎたこととはいえ、小説に書いちゃって大丈夫だったの、と思った。それと、雨男が本屋で挨拶状を注文する場面で、体格が五尺六寸のがっちりした男[xiii]と形容されている。一方、犯人はというと、五尺四寸で華奢[xiv]と書かれているのだ(共犯者は、もっと小柄のはず。多分)。最初に出てきたこいつは、一体誰なのだ?(風間と水上はふたりとも五尺七寸の大柄と説明されている[xv]。)最後の謎解きで、金田一は、雨男の扮装はしごく便利にできていて、「身長の二寸や三寸」[xvi]は、どうにでもなったのです、などと言うが、「がっちりした」体格は、肩パッドでも入れていたということですか?登場人物の身長体形を細かく書いておいてこれでは、なんか釈然としませんが・・・。

 それでも、本書の犯人は、なかなか思い切った設定になっている。モルヒネ等の過剰投与によって中枢神経を侵され心身喪失している、そう診断された人物[xvii]が犯人というのは、相当に大胆な着想である。『僕たちの好きな金田一耕助』で指摘されている「犯人の意外性」も、この点を指しているのだろう。「偶発性精神分裂症に起因する突発的自己喪失症」[xviii]という病名まで出てくるのだが、まさか適当にでっち上げたのではないだろう。医療関係者に取材したのだろうか。要するに佯狂(という言葉が適切かわからないが)の犯人ということになるが、そんな仮病の演技は不可能です、と医学界から異論はなかったのだろうか(そこまで評判にはならなかったのか)。

 この犯人像で連想したのは、アガサ・クリスティの某長編(注で書名を挙げます[xix])だが、あちらは、記憶喪失を装うというアイディアだった。本書の麻薬による記憶の混濁を装うトリックは現実に可能なのだろうか。取材型の作家とも思えない横溝にしては、随分挑戦的なアイディアに思える。恐らく、岡山もののような(力の入った、もしくは真面目に取り組んだ?)小説なら、使用していなかったのではなかろうか。

 そう考えると、横溝の実験的作品は、『幽霊男』などもそうだが、むしろ軽く扱われているB級猟奇スリラーのほうに見出せる気がしなくもない。「発表時期が早かったのかも知れない」[xx]とは、大坪の言葉だが、意味は多少異なっても、この指摘は正しかったようだ。

 

[i] 都筑道夫『二十世紀のツヅキです 1986-1993』(フリースタイル、2023年)、「『妖奇』の時代」、387頁。

[ii] 同。

[iii] 同、「時の流れ」、465-66頁。

[iv] 仁賀克維「横溝正史論」(1962年)『幻影城 横溝正史の世界』(5月増刊号、1976年)、77頁。

[v] 『悪魔の寵児』(角川文庫、1974年)、「解説」、372頁。

[vi] 『僕たちの好きな金田一耕助』(宝島社、2007年)、99頁。

[vii] 『悪魔の寵児』、61-62頁。

[viii] 同、247-48頁。

[ix] 同、54-55頁の、はがきに関する推理などは、なかなかである。

[x] 同、3頁。

[xi] 同、20頁。

[xii] 小林信彦編『横溝正史読本』(角川書店、1976年)、27頁。

[xiii] 『悪魔の寵児』、5頁。

[xiv] 同、52頁。

[xv] 同、10、35頁。

[xvi] 同、367頁。

[xvii] 同、207頁。

[xviii] 同、218頁。

[xix] アガサ・クリスティ『秘密機関』(1921年)。

[xx] 『悪魔の寵児』、「解説」、375頁。