横溝正史『迷路の花嫁』

(本書の真相のほか、アガサ・クリスティの長編小説の内容に注で触れていますので、ご注意ください。)

 

 『迷路の花嫁』(1954年)を最初に読んだときは、『獄門島』や『八つ墓村』はもちろん、同時期の『幽霊男』(1954年)や『吸血蛾』(1955年)と比べても、随分毛色の変わった小説だなと思った。

 冒頭から、いきなり宇賀神薬子という仰々しい名前の霊媒が一軒家で全身血まみれになって死んでいる。辺りには幾匹もの猫が血をすすり、口を真っ赤にしてうろついている。カーター・ディクスンの『プレーグ・コートの殺人』(1934年)あたりを連想させる幕開きで[i]、これはまたトリッキーな謎解きが読めそうだぞ、と期待していると、案に相違して、殺人の謎はほとんど追及されず、発見者の松原浩三という作家と、薬子を背後で動かしていた建部多門という怪物じみた心霊術師の間の闘争と駆け引きで物語が進んでいく。多門がその妖しい力で我がものとしてきた女達を松原が解放していく、善玉悪玉がはっきりしたスリルとサスペンスの冒険読み物である。

 この頃の横溝作品と比較しても、いや、戦前の由利麟太郎シリーズなどと比べても、異色のミステリで、もちろん、作者のストーリーテリングの技量に引き込まれて、すらすらと読み進めることができたが、なんとも当てが外れたような気にもなった。

 そもそも本書は、その成り立ちが、あまりよくわかっていなかった作品である。単行本は、1955年に桃源社から出たものが最初らしく[ii]、1957、1960年にも同社から新版が出ている(結構売れたみたいですね)[iii]。私が読んだのは春陽堂文庫版だったと思うが[iv]、同文庫は解説がついていないのが通例で、書誌的なことはわからなかった。角川文庫版は、お馴染み中島河太郎の解説付きで、そこでは「長編化の一つ」[v]と書かれていた。ああ、そうなのか、と思ったが、実は、これが間違いで、1950年に「迷路の花嫁」[vi]という作品が『講談倶楽部』に三か月連載されているので、河太郎先生も、この短編もしくは中編の長編化作品だと思い誤ったらしい。こちらの「迷路の花嫁」は、由利シリーズの「カルメンの死」の原題だったそうだ[vii]。横溝の癖で、気に入ったタイトルを複数の作品につけるので、とんだ誤解を生んでしまったらしい[viii]

 長編の『迷路の花嫁』は、単行本刊行の前年1954年に『いはらき』に連載された長編で[ix]、要するに新聞小説だったようだ。どおりで、19ある章のそれぞれが、細かくナンバリングされて短い節に分かれている。新聞一回分の分量なのだろう。『女が見ていた』(1949年)などと同じ新聞連載だったわけだ。

 作品に戻ると、冒頭の殺人事件では、被害者には無数の刺し傷が残されており、同居している弟子の奈津女、書生の河村は外出していた。女中のすみ江は行方が知れず、やがて死体となって見つかる。番犬までが殺されており、何かしら計画的な殺人のようにみえるというものである。

 殺人を発見したのは、作家の松原浩三のほかに本堂千代吉という浮浪者の男で、本堂は家の中から、人殺し、助けて、という悲鳴が聞こえたと証言する。通りかかった警官を呼びとめた二人が、警官とともに家の中に入っていき、惨劇を発見することになった。

 薬子の後援者には、老舗呉服店主人の滝川直衛という人物がおり、当夜、薬子のもとを訪れるはずだったが、急用で果たせなかった。ところが、娘の恭子が密かに薬子を訪ねたらしく、慌てて家を飛び出すところを、本堂と松原に目撃されている。

 といった、例によって複雑な状況設定で、薬子はなぜ体中に刺し傷を受けて殺されるという凄惨な死を遂げたのか、犯人が女中の死体を一時隠したあと人目につくように持ち出したのはなぜか、番犬を殺したのは顔見知りの人間としか思えないが、薬子自身なのか、その理由は、などの疑問が浮かんできて、なかなか面白い謎解きミステリになりそうなのだが、上述の通り、殺人事件のほうはほったらかしにされて(無論、作中の警察によって捜査は続いており、等々力警部も出てくるが、全然活躍させてもらえない)、以後、怪物多門の毒牙にかかった女性たち、すなわち「迷路の花嫁」をめぐる松原と多門の死闘が描かれる。

 殺人の謎はどうなっちゃったの、と思っていると、ようやく半ばすぎたところで、警察の捜査会議が始まる。奈津女は薬子と直衛の娘であるという爆弾発言が放り込まれて、突然、あの複雑怪奇な血の縁が絡まりあう「横溝正史劇場」が開幕するので[x]、おおっ、来たぞ、と思うが、事件の真相に決定的に作用するというほどでもないので、どうも作者は、こういった何重にも入り組んだ血縁関係を考えるのが、ただ好きなだけではないかという気がしてくる。

 そういえば、本書は金田一耕助シリーズの一編なのだが、肝心の名探偵は、忘れたころに姿を現わすと、思わせぶりなセリフを吐いて、また去っていく。ちっとも仕事をしないので、不精なことこの上ない。

 ただ、一応ミステリらしい伏線はそこそこ張られていて、前半のある個所で、本堂と松原が出会って別れた後、その様子を隠れて見守っていた河村を、松原がからかう場面がある[xi]。何かありそうと思っていると、あとのほうで、河村が実は本堂のスパイだったことが明かされる[xii]。横溝らしい細かい伏線が楽しい。

 それと、と、ついでに言うことではないのだが、本書には、ひとつ大きなトリックが仕掛けられていて、意外な犯人のそれである。意外な、といっても、最後まで読むと、あまり意外ではないのだが・・・。つまり物語が進行して、松原と多門ないし薬子の間に何かしら因縁があることがわかってくるので、結局、松原が犯人なのだが、真相が自然と割れてくる展開なのだ。

 しかし、最初の薬子殺害事件では松原は発見者であるから、すなわち「発見者=犯人」というアイディアなのである。この型の犯人ではアガサ・クリスティの長編が有名である(注で作品名を挙げます)[xiii]。明らかに、同作品を下敷きにしていると思われるが、このクリスティ長編には、ひとつ問題点が指摘されていたと記憶する(注で書きます)[xiv]。本書は、その点について抜かりはなく、松原は本堂や警官とともに死体を発見して、当然のごとく、おおいに驚愕してみせる。犯人が現場に戻ってこなければならなかった理由も一応用意されていて、松原の内面描写にも目立った不自然さはない(冒頭、戦後の東京の風景に感慨を抱きながら歩く場面は、殺人直後の犯人にしては、のんきすぎるとは思う[xv])。

 かなり思い切ったトリックを仕掛けているのだが、上記のとおり、ストーリーの流れで段々と松原に何か隠し事があるとわかってくるので、せっかくのトリックがあまり活かされていない。それに金田一の解説では、松原は、薬子に殺されたすみ江の死体を運び出して隠したと説明されるのだが[xvi]、この冷静さは、殺人後に指紋のついた凶器のナイフを残して慌てて逃げ出した行動と釣り合っていない。(ただし、死体の隠匿は、薬子を殺害する前に行われた可能性もある。しかし、松原が着いた時には、女中は殺されていたとすれば、薬子がその後も当初計画していたお芝居を続けるとは思えない。薬子が松原に背中に刺し傷をつけるよう頼んだとすれば、それは、自分も被害者であると装うことで、女中殺しの罪を免れるためだったと考えるほうが理に適う。そして、その場合、松原に女中の死体を隠すよう依頼することはなさそうだ。しかしまあ、金田一の解説は詳細にわたってはいないので、この辺の経緯は、よくわからない。)

 被害者の薬子の行動も不可解で、そもそも自分の体に傷をつけようと思った理由が今一つはっきりしない。奇跡を見せようとしたというのはどういう意味か[xvii]。思いがけなくすみ江が早く帰ってきたので殺してしまったとか、飼い犬が邪魔だったので殺してしまったとか、あまりにも行動が異常すぎて、果たして説明になっているのか[xviii]。被害者の不自然な行為やそれらに関する説明不足が目に付くのは、やはり新聞連載ということで、少々論理の組み立てに甘さが出たようである。

 ただ、改めて、金田一ものとしてみると、過去の長編には見られなかった大きな特質がみてとれる。仕事をしていないと書いたが、ある意味で、本書ほど、金田一が事件に対して優位に立っている作品はない。要所々々で松原の前に現れ、遠回しに情報を提供して、次の行動の指針を示す[xix]。事件を最終的に決着させた山村多恵子を巧みに誘導して、未来の行動に決意を促す暗示ときっかけを与えている[xx]。多門など目ではない、事件の裏で糸を引くラスボス感が半端ない。

 恐らく、金田一はかなり早い段階、恭子が現場から持ち出した凶器のナイフを入手するよりも、はるか以前に犯人を突き止めており、そのうえで意図して泳がしていたのだろう。松原が本懐を遂げるまで、その行動を見守っていたと思われる。『獄門島』や『八つ墓村』では翻弄されっぱなしだった金田一だが、本作において、ついに彼は事件を完全に掌握し、人々を動かして望む結末に導く超越的な地位についた。なにしろ、松原が多門の襲撃にあって人事不省になるやいなや、待ってましたとばかりに指紋を採取する周到さである(みんな、引いてますよ[xxi])。『迷路の花嫁』は、名探偵金田一の底の知れない智略と謀略が読者の前に露わになった記憶すべき作品であるといえるだろう。

 本書こそ、金田一耕助の最高にして最大の事件なのである。

 

[i] 実際は、江戸川乱歩の中絶作『悪霊』の冒頭部分をなぞる、あるいはパロディ化しているそうだ。『悪霊』は一応読んでいるはずだが、今手元にない。あらすじを検索してみると、どうやら本当らしい。

[ii] 島崎 博編「横溝正史書誌」『本陣殺人事件・獄門島』(『別冊幻影城』創刊号、1975年9月)、333頁。

[iii] 同、336、338頁。その後も新版が繰り返し出ている。

[iv] 『迷路の花嫁』(『横溝正史長編全集19』、春陽文庫、1975年)。

[v] 『迷路の花嫁』(角川文庫、1976年)、375頁。

[vi]横溝正史書誌」、318頁。

[vii] 詳しくは、『蝶々殺人事件』(『由利・三津木探偵小説集成4』、柏書房、2019年)、「編者解説」(日下三蔵)、533頁。

[viii] 「女王蜂」など。

[ix] 4月から9月にかけて掲載されたらしい。(ダ・ヴィンチ特別編集)『金田一耕助 The Complete』(メディアファクトリー、2004年)、「発表年代順による作品番号リスト」㉒。

[x] 『迷路の花嫁』(角川文庫)、232-40頁。

[xi] 同、107-108頁。

[xii] 同、307頁。

[xiii] アガサ・クリスティ『シタフォードの秘密』(1931年)。

[xiv] 殺人犯人が殺人後に被害者宅を訪れ、何度もベルを鳴らして返事を待つ。まわりに誰もいないのに、見られているかのようにふるまうのは、「読者に対して」芝居をしていることになって、不自然ではないかというもの。

[xv] 『迷路の花嫁』(角川文庫)、5頁。

[xvi] 同、369頁。

[xvii] 同、366-67頁。

[xviii] 同、368頁。

[xix] 同、276頁。

[xx] 同、276、279、281、283頁。

[xxi] 同、363頁。