エラリイ・クイーン『靴に棲む老婆』

(本書の推理やトリック、犯人のほかに、注で『Yの悲劇』のアイディアに言及しています。)

 

 ライツヴィル・シリーズが書かれた1940年代のエラリイ・クイーンの諸作品のなかで、『靴に棲む老婆』(1943年)は、ひときわ異彩を放っている。

 1942年の『災厄の町』以降のライツヴィルを舞台とした長編ミステリは、『九尾の猫』を含めて、1930年代の長編に特徴的だった、あまりに理詰めな推理が抑制され、新たな特徴となった夫婦や親子の間の愛憎のドラマと推理とのバランスが意図的に測られている。

 しかし、本書では、完全に30年代のパズルが復活して、とくに、決め手となる告白状の署名偽造に関する精妙な推理は、国名シリーズを彷彿とさせる。これは、クイーンにとって、書こうと思えば、いくらでもこうしたパズル・ミステリが書けたということを示しているのだろうか(だったら、もっと同タイプのミステリを書いてくれればよかったのに、と多くのクイーン・ファンが怨嗟の声をあげそうだ)。

 また、登場人物の設定でも、暴君である女当主コーネリア・ポッツと彼女に支配される奇矯で風変わりな子どもたち、という人物配置が、バーナビィ・ロス名義の『Yの悲劇』に似かよっており、二番煎じというより、むしろ『Y』をカリカチュアライズしたセルフ・パロディに見える(もっとも、『Yの悲劇』自体、パズル・ミステリのパロディっぽい特異な作品といえなくもない[i])。1943年といえば、ロス名義の四作もクイーン作品であることをすでに公開済みだから、ロスの真似だと言われる心配がなくなって、堂々と自作をパロディ化できるようになったのだろう。

 国名シリーズ作品にはあまり見られなかったユーモアが前面に現れているのも特徴で、むしろクレイグ・ライスのような、あるいはそれ以上の狂気に満ちたファース・ミステリといえる[ii]。本書がパロディとなるのも必然だったのかもしれない。

 さらに、ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』(1929年)やアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』(1939年)のように、本格的にマザー・グースないし童謡殺人をテーマにした作品でもある。もっとも、上記二作に共通する童謡殺人の戦慄とスリルは微塵もなく、いささか調子の狂ったユーモアが生む黒い笑いが特徴なのは上述のとおりである。『僧正』では、いかれているのは犯人だけだが、本書は小説自体がいかれている。

 しかも、本書でもっともいかれた登場人物が実は犯人(実行犯)で、一方、殺人手段のトリックは極めて合理的、殺人動機も完全に常識的、というのは、フランシス・M・ネヴィンズが指摘しているように[iii]、プロットとキャラクターが水と油のように乖離していて、そのギャップはすごい。そうしたギャップも含めて、なんとも異様なパズル・ミステリである。

 しかし、その辺に目をつぶれば、完全なアリバイをもつ犯人が、空包にすり替えられたはずの拳銃を使って衆人環視のなかで被害者を射殺するという、一種の不可能犯罪がテーマとなって、そのトリックは、単純な手品に過ぎないが、単純なだけに盲点を突いている。さらに、すでに触れた犯人特定の推理では、一旦、コーネリアの告白状の署名が別のメモに書かれた署名を引き写した偽物と判明する。ところが、実は告白状の署名のほうが本物でメモの署名が偽筆だった、という逆説的推理が鮮やかで、かつての国名シリーズで見せた論理的でありながら意外な推理を思いださせて、ファンなら随喜の涙を流すところだろう。

 ただ、ちょっと気になるのは、この推理のポイントは、署名の偽造を行えるのが、遺言書とともに告白状が封入された封筒を保管していた人物、すなわち死んだコーネリアの手に握られていた封筒を、クイーン警視から手渡された弁護士以外にはない、というところにあるのだが、しかし、遺体が発見される前に、すでに偽造が行われていた可能性が検討されていない。

 確かに、遺体の発見は死亡時刻から1時間ほど[iv]と判明して、この短時間に、封筒を開封して告白状を発見したうえ、署名の偽造を思いついて実行するというのは、不可能に近い。しかし、不可能に近いが、不可能ではないのだから、その可能性をまったく検証しないのは、クイーンらしくないのではないか。そもそも、告白状の偽造を最初に検討した際には、偽造はコーネリアの遺体発見以前になされた、とエラリイは推理している[v]。それなのに、最後の謎解きになった途端、署名の偽造は遺体発見後だと決めつけているのはおかしくないか。犯人が、告白状自体も、遺言状も破棄することができなかったのは、エラリイが証明した通りで[vi]、だとすれば、遺体発見前でも、発見後でも、偽造が企てられた可能性は変わらないだろう。

 ただし、偽造に用いられたメモにコーネリアが署名するのを目撃したのは、クイーン親子のほかには、犯人と医師のみなので[vii]、そこから犯人は特定できるといいたいのかもしれない。だが、それならそれで、医師が犯人ではないことを証明してもらわなくてはならない。

 それとも、エラリイ自身、自分の推理の穴は承知していたが、とっさに推理を組み立てなければならず、あえてそこには触れなかったのだろうか。しかし、最初に偽造に関する議論が交わされたのは、犯人とエラリイの間の会話においてである。ちょっと冷静になれば、すぐ気がつくことで、やはりエラリイらしからぬ(それとも、らしい?)一か八かの賭けのように思える。

 まあ、その辺に目をつぶれば(さっきも書いたか)、本書は、クイーンのファンなら、久しぶりのパズル・ミステリの佳品として喝采をあげたくなる一編だろう。

 

 ここまで、実は、ほぼ記憶だけに頼って書いてきたのだが、思い立って再読してみた。何十年ぶりかで、今回で三、四回目である。それでも面白く読了したが、評価はだいぶ変わってしまった。一言で言うと、小説として大雑把すぎるのではないかと感じた。なんだか短時間で書き飛ばしたように見えるのだ。文章はわかりやすく、すらすらと読み終えて、もちろん、再読で筋がわかっているのだから当然でもあるし、読みやすいのが悪いというわけではない。

 本書のファース・ミステリとしての特色についてはすでに述べたが、実際読み返してみると、あまりユーモアは感じられない。登場人物の設定や行動が突飛なだけで、どうやら、プロットの非現実性を隠すために、滑稽な人物設定にしただけのようだ。決闘を利用した殺人のトリックも、同じ銃が複数あることを目立たなくさせるために大量の銃を購入するというトリックも、現実的なミステリにはそぐわない。グロテスクな人物造形は、ファンタスティックなミステリを書こうとしたからではなくて、非現実的なプロットをカヴァーするために、そうせざるを得なかったかららしい。もちろん、そうではなくて、ファンタスティックなミステリを書こうとして、それに相応しいトリックを考えていたら、ああなったということなのかもしれない。

 しかし、そうとも思えないのは、実行犯とその妹弟たちの風変わりな性格が上っ面だけのもので、ちょっと変な人たちという程度にしか見えないせいだろうか。これは、前世紀末にサイコ・スリラーが大流行りして、異常性格の登場人物に、こちらが慣れてしまった弊害なのかもしれないが、『チャイナ橙の謎』でもそうだったように、自分達に向いていない作風で、無理して不可思議なミステリを書こうとしているように思えてしまう。

 ちょっと脱線するが、本書を再読したあと、ジョン・サンドフォードの『冬の獲物』[viii]を読んだ。今頃になって、と言われるだろうが、サンドフォードは随分前に、二、三冊読んでいる。先日、ネットで安い古書を見かけて、同書の評判が良かったのを思い出したら、つい買う気になった。本が届いて、ぱらぱらとめくっていたら、止められなくなって、半日で読み終わってしまった。わざわざこんな話をするのは、『冬の獲物』にも、署名偽造のトリックが出てきて[ix]、偶然ながら面白いと思ったからである。しかも、『冬の獲物』は『靴に棲む老婆』のちょうど50年後の1993年に出版されている。結果、両者の間の五十年という時間と、その間のミステリの変化について考えこまされた。はっきりいって、『冬の獲物』のほうが断然面白い。正直、これではエラリイ・クイーンが読まれなくなったというのも無理はないなと思った。もちろん、同書はサイコ・スリラーであって、クイーン作品のような論理的推理が味わえるわけではない。上記の署名の偽造トリックも、クイーンの真似(というわけでもないのだろうが)で、そこは大したことはない。しかし、『冬の獲物』はパズル・ミステリとしても抜群に面白い。何章かが犯人の視点で書かれていて、登場人物の誰なのかを当てるミステリだが、犯人の独白で警察の動きを逐一知っているように描かれるので、警察関係者のなかに犯人がいるとしかみえない。その謎で引っ張っていきながら、都筑道夫が「古めかしいトリック」[x]を上手く使っていると評価した、目撃証言をめぐるトリック(都筑は、はっきり書いていないが、多分あのトリックのこと[xi]だろう)で、あっと言わせる。しかも、襲撃や追跡のスリリングなシーンが眼に浮かぶように描かれている。これに比べると、『靴に棲む老婆』は、残念ながら、炭酸の抜けたサイダーのようだ。

 本来、ミステリとしてのジャンルも書かれた時代も異なる二冊を比較して、優劣を論じてもフェアではないし、クイーンに気の毒ではあるが、書き込みの差は、やはり気になる。

 『靴に棲む老婆』に戻ると、パズルに直接結びつく以外のことが、ほぼ描かれていないのも、物足りなく感じる要因のようだ。ある意味余分な、しかし、小説をふくらませるための細部の描写というものが、まったくといっていいほど見られない。大雑把に感じてしまう原因は、その辺にあるのかもしれない。もちろん、クイーン嫌いの人たちにすれば、そんなことは昔から散々言われてきたことじゃないかと言うだろうが、それにしても、『災厄の町』や、国名シリーズなどと比べても、描写不足、書き込み不足が目立つような気がする。やはり、エラリイ・クイーンのような作家は若いときに読むに限るのだろうか。少なくとも、年を取ってから読み始めたのでは、感銘の度合いがだいぶ変わってきそうである。

 もしかしたら、『災厄の町』の執筆で、くたびれたリーのために、骨休めの一編としてダネイが意図的にライトなプロットを提供したのかもしれない。もっといえば、消耗したリーに代わって、ダネイが執筆したのだろうか。書き込み不足とかいっておいて、このような推測をするのは、ダネイに失礼だが、何となく、そんな気もしてきた。

 しかし、『災厄の町』でノヴェルに挑戦した以上、「不思議の国のミステリ」であっても、それなりの重みは必要だったのではないだろうか。1930年代のパズルに戻るにしても、40年代のノヴェルを経た、新しいクイーン流パズル・ミステリの姿を示すべきだったように思う。

 というわけで、印象は悪くなってしまったが、パズルの部分は充分面白いし、クイーン後期作品に恒例の「人形使い」テーマが本格的に取り上げられた長編でもあるので[xii]、そういった点からも注目に値する作品だろう(最後は取りつくろってみました)。

 ついでだが、本作は、ニッキー・ポーター誕生編としても知られている[xiii]。この女性、自分の結婚式の最中に、介添えの男(エラリイ)が、突然、新郎を殺人犯だと糾弾し始めて、動転し、とまどうはずなのに、あっさりエラリイの推理を受け入れる(そんなに頭脳明晰なのか、エラリイ並みに)。そのうえ、将来の伴侶となるはずだった相手をいきなり「嫌悪の情をこめて眺めた」[xiv]りして-それも、父親が引くくらいの眼つきで-、変わり身が早すぎやしないか(普通、「嘘でしょう、あなた。嘘だと言って」と縋りつきそうなものだが。ドラマの見過ぎか?)。エラリイ君、こういう女性といい仲になって[xv]大丈夫ですか?考え直したほうがいいのでは。

 

[i] エラリイ・クイーン『Yの悲劇』(宇野利奏訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1988年)、新保博久による解説、503-505頁を参照。

[ii] フランシス・M・ネヴィンズJr(秋津知子他訳)『エラリイ・クイーンの世界』(早川書房、1980年)、178-79頁、フランシス・M・ネヴィンズ(飯城勇三訳)『推理の芸術』(国書刊行会、2016年)、179-80頁。

[iii] 『エラリイ・クイーンの世界』、182頁、『推理の芸術』、182-83頁。

[iv] 『靴に棲む老婆』(井上 勇訳、創元推理文庫、1959年)、222頁。ところで、創元推理文庫版は、いつの間にか『生者と死者と』から改題されてしまったが、『靴に棲む老婆』もたいして魅力的な題名とは思えない。原題は、「むかし、おばあさんがおりました(There was an old woman)」、で、どちらにしても日本語ではあまり面白そうな題名にはならないようだ。

[v] 同、271-72頁。

[vi] 同、366頁。

[vii] 同、140、275頁。

[viii] ジョン・サンドフォード『冬の獲物』(真崎義博訳、ハヤカワ・ノヴェルズ、1996年)。

[ix] 同、199-200頁。

[x] 都筑道夫都筑道夫の読ホリデイ 下巻』(古森 収編、フリースタイル、2009年)、56頁。

[xi] 都筑は、E・S・ガードナー他の有名作家が使用している、と述べている。同。

[xii] このテーマの最初の例として、『Yの悲劇』が挙げられることがあるが、『Y』の場合は、操り手は、そう意図していたわけではないし、事件発生時にはすでに死亡している。クイーンの「人形使い」テーマの最大の特徴は、操り手が意図して他人を操ろうとする点にある。

[xiii] 『靴に棲む老婆』、390-91頁(塚田よしとによる解説)。

[xiv] 同、359頁。

[xv] 同、382頁。飯城勇三編著『エラリー・クイーンPerfect Guide』(ぶんか社、2004年)、35頁、同『エラリー・クイーン パーフェクト・ガイド』(ぶんか社、2005年)、63頁、によれば、創元推理文庫の旧訳は、最後の場面の訳が間違っていたらしい。となると、正しい訳が意味するのは、つまり、エラリイもうかつにニッキーを恋人にする気はなくて、お友達から始めて、しばらく様子を見るつもりだった、という解釈でいいのだろうか。