ニコラス・ブレイク『証拠の問題』

(本書の犯人およびトリックのほかに、G・K・チェスタトンの短編小説のトリックを明かしています。)

 

 ニコラス・ブレイクこと、セシル・デイ・ルイスは1904年にアイルランドに生まれた桂冠詩人で、俳優ダニエル・デイ・ルイスの父親としても知られている。といっても、ルイスの詩は一つも読んだことはない。知っているのは、ミステリ作家としてのニコラス・ブレイクのほうである。生まれがアイルランドであることは、ブレイクの翻訳書をみると、大抵書いてあるのだが、アイルランドのどこで生まれたのかまでは記載されていない。興味が湧いたので、セシル・デイ・ルイスのウィキペディアを検索したら、アイルランドのBallintubbertだと書いてある[i]。こんな地名、読めやしないが、どうやらダブリンのあるアイルランド東南部レンスターの所在らしい。

 最初から妙なところで手古摺ったが、ブレイクのミステリは、『死の翌朝』[ii]が出版されて、20冊すべてが日本語になった。多作というほどではなかったが、翻訳に恵まれた作家のひとりといってよいだろう。日本での知名度は、クリスティやクイーンのような巨匠に、はるかに及ばないのだから、むしろ快挙とさえいえそうである。さほど人気があるとも思えないし、傑作ぞろいというわけでもないのに、なぜだろう。不思議だ。皆、そんなにブレイクのミステリが読みたいのか。

 しかし、わたしは読みたい。ブレイクを読んでいると、何ともいえず気分が良い。ミステリとしての出来を云々する以前に、読んでいて楽しい。こういうミステリ作家は、他にあまりいない。エラリイ・クイーンも、ディクスン・カーも、謎解きの見事さや結末の意外性と切り離して、純粋に小説として面白いと思ったことは、あまりない。しかし、ブレイクはある。他の作家で探すと、レジナルド・ヒルなどもそうだが、ヒルの場合は、キャラクターと会話の面白さ、そしてユーモアと、勘所は割合はっきりしている。ブレイクは、正直、何で面白いのか、よくわからないのだが、内容はまったく覚えていないくせに、読んだときの楽しさが記憶として残っているのが何冊もある。かつて、江戸川乱歩がブレイクを日本に紹介したとき、「文体にはおっとりした滋味があり、・・・私などには遥かに親しみ易い」[iii]と書いていたが、結局それが当たっているのかもしれない(原書を読んだことは一度もないが)。しかし、まだほかにも何かありそうな気もする。生憎、『くもの巣』だけ読み残しているのだが、そのあたりを再度確認してみようと思って、せっかくなので、年代順に読み返すことにした。最初は、もちろん『証拠の問題』である。

 『証拠の問題』(1936年)[iv]は、イギリス伝統の学園ミステリである。冒頭で、予備校[v]と訳されているので、パブリック・スクールへの進学を目指す児童生徒のための私立のプレップ・スクールらしい。体育競技会の日、運動場脇に積み重ねられた干し草の山の陰で、憎まれ者の生徒が殺害されていたという事件である。殺害時刻と同じ頃に、現場付近で教師のひとりが校長の妻と秘密の逢引きをしていた。彼は不倫が暴露されるのではと恐れるが、さらに捜査が進むと、今度は、父兄とのクリケット試合の最中に校長が刺殺されるという事件が起こる。疑いは、当然、不倫を隠している教師マイケル・エヴァンズと校長の妻ヘロ・ヴェールにかかるが・・・。といった具合に、いかにもお膳立て通りの連続殺人事件に学校の教師や生徒がてんやわんやになる。事件は、主にマイケルの視点で語られ、彼の友人として登場するのが、素人探偵のナイジェル・ストレンジウェイズである。名前からして、「変人」探偵であるが、しかし、その変人ぶりは、主に、饒舌なおしゃべりと、やたらと紅茶を飲みたがるという英国人らしいふるまいに表われている程度で、作者が狙っているほどの奇人には見えず、ブレイクのミステリ全体がそうであるように、むしろ控えめな変人(?)である。

 ストレンジウェイズの探偵法は、よく言われるように、心理的なそれであり、本作でも物的なデータからの推理はほとんど見られない。作半ばを過ぎたあたりで、早くも、犯人はわかった、と明言するが、証拠がつかめないんだ、ともいう。「証拠の問題」なんだ、というわけで、探偵小説の良い題名だ、などと自画自賛のメタ・フィクション的発言をする[vi]。しかし、その後も、決定的な「証拠」をみつけるというわけでもなく、最後は、犯人を罠にかけて自滅を誘う。彼の探偵法は、要するに、不倫関係の男女に対する、ゆがんだ正義感に基づく怒り、自分を嘲弄する生意気な生徒に対する怒り、といった、ある意味、20世紀後半のサイコ・スリラーに登場しそうな精神病質者的犯人を、関係者の性格分析から割り出すというものである。1930年代当時、ミステリとして、これがどこまで新鮮な印象を与えたのかは、わからないが、文学的なミステリを書こうとしたというより、物的な証拠を収集する警察の捜査との対比を考えて、このような探偵法を採用したのだろう。犯行時刻の前後における犯人の挙動などを手がかりとしているように、観察に基づく断片的な手掛かりを根拠とする[vii]クリスティ的な推理も見せるので、従来のイギリス・ミステリから、それほど逸脱した新奇なものではない。

 もうひとつのアイディアは、殺害方法のトリックで、競技会やクリケット試合のさなか、皆の注意がレースやゲームに集中している隙をついて殺人を決行するというものである。これは、G・K・チェスタトンの「銅鑼の神」[viii]という短編で使われているトリックと原理は一緒だが、意図的にチェスタトンを下敷きにしたのか、それとも偶然なのかは判別しがたい。ただ、ブレイクは、『血塗られた報酬』(1958年)のプロットがパトリシア・ハイスミスの『見知らぬ乗客』(1950年)に酷似していると気づくと、わざわざ同書の「追記」で、ハイスミスの了解を取った、と書く[ix]くらいなので、剽窃や盗作の問題については慎重な性格なのだろう(というより、ミステリ作家としては当然か)。従って、「銅鑼の神」のことは気がつかなかったのか、もしくは、こうしたトリックは定石と考えたのかもしれない。

 いずれにしても、『証拠の問題』は、際立ったトリックがあるでもなく、目覚ましい推理が披瀝されるでもない、さして特徴のない処女作ということになりそうである。多分、クイーンやカーを読みなれた眼には、いかにもポスト黄金時代の現実的だが地味なミステリとしか映らないだろう。

 むしろ注目すべきは、教師同士の、あるいは教師と生徒間の日常的な会話の背後に隠された悪意や敵意と、それらを観察するストレンジウェイズのシニカルな眼で、現代ミステリのような過剰な描写や派手なプロット展開は見られないものの、そこに今日のクライム・ノヴェルに通じるものがあるし、一方で、古きよきイギリス・ミステリのもつ「滋味」があふれているともいえる。

 やはり、ニコラス・ブレイクらしい処女作だった、といえるだろう。

 

[i] Cecil Day Lewis: Wikipedia. その後、改めて各訳書のあとがきを調べたら、『血塗られた報酬』の解説で、小倉多加志氏が、ルイスは「アイルランドのBallintogher(またはBallitubber)に生まれた」と、ちゃんと書いてあった。『悪の断面』のあとがきでは、「アイルランドのバリンタバー」の生まれだと読み方も書いてくれている。失礼しました。『血塗られた報酬』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1983年)266頁、『悪の断面』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1981年)、309頁。

[ii] 『死の翌朝』(熊木信太郎訳、論創社、2014年)。

[iii] 江戸川乱歩幻影城』(講談社文庫、1987年)、127頁。

[iv] 『証拠の問題』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1962年)。

[v] 同、9頁。

[vi] 同、147頁。

[vii] 同、222-23頁。

[viii] G・K・チェスタトン「銅鑼の神」(1914年)『ブラウン神父の知恵』(中村保男訳、創元推理文庫、1982年)、224-49頁。

[ix] 『血塗られた報酬』、264頁。