エラリイ・クイーン『クイーンのフルハウス』

(収録作品の犯人、トリック等のほかに、クリスチアナ・ブランドの代表作について注で触れていますので、未読の方はご注意ください。)

 

 エラリイ・クイーンの第五短編集『クイーンのフルハウス(Queens Full)』(1965年)[i]は、またまた「らしい」短編集となっている。ポーカーのフルハウスにかけて、中編三編、ショート・ショート二編からなる凝った構成の、しゃれた一冊である(短編集ではなかった)。

 もっとも「ライツヴィルの遺産」は中編と呼べるほどのヴォリュームではないように思うが、これも中編(ノヴェレット)なのだろうか。翻訳では比較は難しいだろうが、『犯罪カレンダー』(1952年)の収録作は、皆このくらいの長さだったような。それとも『カレンダー』は中編集だったのだろうか。

 それはともかく本短編集、いや、中編ショート・ショート集も内容は充実している。五編では物足りなくはあるが、うち一編は傑作、一編は佳作といえる。正直、初期の『エラリイ・クイーンの冒険』(1934年)、『エラリイ・クイーンの新冒険』(1940年)より、『犯罪カレンダー』、『クイーン検察局』(1955年)、そして本作品集のほうが良いパズル小説が入っているのではなかろうか。

 もうひとつ、本書は重大な問題を孕んでいる。「ドン・ファンの死」(1962年)および「Eの殺人」(1960年)は、誰が執筆しているのだろうか、ということである。

 この期間(1959-66年)は、マンフレッド・B・リーがスランプで書けなかった時期といわれている。長編は代作者がはっきりしているが、中短編およびショート・ショートはそうではない。代作者がいるのか、それとも、なんとかリーが書き上げたのか。あるいは、フレデリック・ダネイが満を持して自ら執筆したのか。可能性としては、このぐらいだと思うが(もしくは、リーが以前書きためておいたとか)、どうだろう。

 どうだろう、といっても、答えはどこからも返ってこないだろうから、ひとまず個別の作品に移ることにしよう。

 

01 「ドン・ファンの死」(The Death of Don Juan, Argosy, 1962年)

 本中編はライツヴィルものだが、「ライツヴィルの遺産」より後の作品で、一番大きな違いは、おなじみのデイキン署長が引退して、新しい警察署長としてアンセルム・ニュービイが登場することである。ニュービイがエラリイを目の敵にするので、二人の対立が解消されるまでを描いたエピソードという楽しみ方もできる。

 舞台が劇場で、節の見出しが「第〇幕第〇場」となっていて、『ローマ帽子の謎』(1929年)や『Xの悲劇』、『Yの悲劇』(ともに1932年)を思い出す。しかし、あれらほどガチガチの本格物ではなく、この時期らしく、軽妙なテンポで、すいすい進む「劇場殺人」ものである。

 謎の興味は、ダイイング・メッセージと凶器のナイフに関する手がかりなのだが、前者は、英語の「女性主人公(主演女優)」の発音が日本語では「ヒロイン」なので、どうもうまくいかない。わざわざ「ヘロイン」[ii]とカナを振っているので、かえって日本の読者のほうが気づきやすくなってしまったかもしれない(英語でもつづりは異なるが、原文ではeがついているのだろうか[iii])。

 それより、麻薬を他人が何気なく手に取るかもしれないメーキャップ道具のなかにしまっておくとか、どういう神経なの、この俳優?

 しかし、ナイフに残された歯型のあとから汲みだされる推理は、いかにもクイーンらしいロジックが冴えている。歯形といえば、『ドラゴンの歯』(1939年)を思い出させるが、あんなにくだらなくはない。犯人がおかれた一時的な身体状態を利用した推論[iv]は、論理的と言う以上に意外性と発想力に優れている。

 ところで、改めて問うと、本作の執筆者は誰なのだろう。冒頭部分を読むと、ドン・ファンについて蘊蓄を駄弁る、リーらしいペダンティックな書き出しになっていて、やはり彼が書いているようにもみえる。ライツヴィルものであることも、そう思わせる一因である。作者にも読者にも馴染みのあるシリーズものの小説を描くなら、やはりリーに任せるはずだろう。ニュービイ署長は初お目見えだが、デイキン署長もちょっとだけ、エラリイの回想の中に登場する。リーが書けないときに、あえてライツヴィルものの構想を立てることはない気がするのだが(掲載誌を見ても、ライツヴィルものでなければならない理由はなさそうだ)。

 仮にリーが作者であるとすれば、彼が執筆を降りたのは、長編『盤面の敵』(1963年)からだったことになる。本作はまだ我慢できたが、『盤面』のあまりに人工的なプロットに、頭にきたリーが執筆を拒否したということもありえる?果たして、真相やいかに。

 

02 「Eの殺人」(E=Murder, This Week, 1960年)

 再びダイイング・メッセージで、メモに記した文字または数字(?)が、角度を変えるたびに、EにもMにも、3にもωにも見える。その解釈をめぐるショート・ショート。解釈が幾通りも考えられるのではなく、メッセージそのものが幾通りにも読めて、その結果、解釈が幾重にも広がっていくところが面白さだろうか。

 犯人の意外性も十分だが、死にかけている人間は複雑なことは考えないと言いながら[v]、複雑な解釈をするエラリイの非常識な感性には、いつもながら脱帽だ(24人目って、死ぬ間際にそんなことに気がついたのか、この被害者)。

 ところで、このくらいの長さなら、ダネイが、ちょちょいのちょいと書き上げた可能性も考えられると思うのだが、「ドン・ファンの死」がリー作とすれば、こちらもそうか。

 

03 「ライツヴィルの遺産」(The Wrightsville Heirs, Better Living, 1956年)

 まだデイキン署長が健在だったときの事件。順番から言えば、本作をトップに置いたほうが、しっくりくると思うのだが、作者もあまり自信作ではなかったということだろうか。

 三人の義理の子どもたちに冷たくされ、腹を立てた富豪のリヴィングストン夫人が、優しく世話をしてくれたエイミーに全財産を残す遺言書をつくるが、とたんに枕で窒息死させられてしまう。エイミーはその後も睡眠薬を大量に飲まされたり、銃で狙撃されたりして、命を狙われる。

 『クイーン検察局』でも散々読まされた、三人の容疑者のなかから犯人を探すパズルに見えるが、中編小説なら、もっと結末の意外性にこだわるはず。従って、三人の兄妹以外に犯人を探すとすれば、怪しいのは命を狙われているエイミー本人だが、クイーン作品で、この手の純情娘は大抵犯人ではないので、とすると、残るは弁護士ということになる。夫人殺害時に外部からの侵入者がいたのかどうか検証されないので、犯人がどうやって殺人を実行したのか最後までわからないけど、説明不足じゃない?しかし、それ以上に、エラリイの推理がわかりにくい。

 銃撃はわざと狙いをはずしているようにみえることから、エイミーに対する殺害未遂は偽装だという仮説をたてるのだが、目的は彼女に遺産相続を放棄させることだと述べておきながら、最後には、三兄妹に嫌疑をかけることが本当の目的だったと結論する。推理がふらついているようなのだが、そう見えるのは、犯人がエイミーを襲撃した動機が薄弱だからである。発覚の危険性を上回るメリットが、これらの犯行にあるとは思えない。すでに遺言書の偽造と殺人という罪を重ねているのに、余計な工作を加えれば命取りになりかねない。

 エイミーの殺害未遂は偽装だという仮説と、遺言書を再度検討するという結論も、繋がっているようで繋がっていない。相続放棄させることが目的なら、三兄妹に動機があるのだから、改めて別角度から事件を再検討する理由にはならないだろう。

 遺言書の用紙のみから偽造の可能性を推測するのも、いささか根拠薄弱で、都合よく犯人がオリジナルの遺言書を保存していたから証明ができたが、そもそも、なぜ罪を暴露する危険な証拠物件を破棄しなかったのか、デイキン署長の説明では[vi]、いかにも苦しい。別稿で書いたとおり[vii]、探偵の論理優先で、犯人の心理がなおざりにされている印象を受ける。

 結局、エラリイが再度遺言書に眼を向けるきっかけが必要だったので、そのためにエイミー襲撃事件を起こさせた、ということで、それは作者側の都合であって、犯人の都合がそこにうまく適合していない。残念ながら、あまり上出来とは思えなかった。

 

04 「パラダイスのダイヤモンド」(Diamonds in Paradise, EQMM, 1954年)

 パラダイス・ガーデンズという賭博場でダイヤの盗難事件が起こる。犯人は逃亡しようとして腐ったはしごから転落して死亡する。最後の言葉が「ダイヤモンズ・イン・パラダイス」というわけで、またしてもダイイング・メッセージである。

 最後にちょこっと登場するエラリイが、クイーン警視から話を聞いただけで真相を突き止める。これ以上ないくらい軽いパズルで、そこが身上ともいえる。これぞクイーンズ流ショート・ショートというべき一編。

 

05 「キャロル事件」(The Case Against Carroll, Argosy, 1958年)

 最初に読んで以来、エラリイ・クイーンの中短編(ショート・ショートを含む)の最高傑作ではないかと思っていた。どうやら世評を見ても、あながち間違っていないらしい[viii]

 弁護士のジョン・キャロルは、共同経営者メレディス・ハント殺害の疑いをかけられたうえ、アリバイを証明してくれるはずのハントの妻フェリシアまでが殺されてしまう。窮地に陥ったキャロルは、エラリイに助けを求めるが・・・。

 本書の特徴は、なんといっても文章のトリックにある。ミステリのトリックは、つまるところ、すべて文章のトリックに過ぎないともいえるが、その点はひとまず置くとして、犯人であることを自ら明らかにしているのに、読者にはそうは見えないという摩訶不思議な技巧を駆使している。数年前に発表されたクリスチアナ・ブランドの代表作との類似を思わせる[ix](注で書名を挙げます)が、同長編からヒントを得たのだろうか。

 たとえそうだったとしても、このアイディアは素晴らしい。これまでのクイーン作品には見られなかった非常に精緻な叙述の技法に挑戦したミステリで、戦後クイーンの最高傑作と言って過言ではない。

 ただ、である。最初に読んだとき、実は、ひどく奇妙な感覚におちいった。どういうことかというと、キャロルがフェリシアにアリバイを証明する陳述書にサインさせるくだりを読んでいるときだが、あれ、これ倒叙ミステリなのか、と一瞬思ったのだ[x]。結局キャロルが犯人で、偽のアリバイ工作を企んでいるように読めた。しかし、作者は、犯人当てミステリとして書いているようだが・・・。それとも、わざとキャロルが犯人ともとれる描写をすることで、読者を惑わせる狙いなのか?

 文庫本でいうと、220頁から221頁にかけてのあたりだが、なんとも変てこな気分で怪訝な気持ちのまま読み終えたのを覚えている。読了して、やっぱりキャロルが犯人で納得はしたのだが、同じような感じを受けた人は、多かったのではないだろうか。

 ひょっとして、クイーンは倒叙ミステリを書いているのだが、読者である自分はそれに気がついていないのか。いや、そうではなく、犯人当てミステリの形式を取った倒叙ミステリとして書かれているのか。どちらが正しいかといえば後者なのだろうが、前者であるかのような妙な気分だった。そう感じた要因は何だったのか考えると、どうも、クイーンの書き方に問題があった気がする。フェアに書こうとするあまり、狙いが半分透けて見えてしまったようなのだ。

 翻訳のせいもあるのかもしれないが、この玄妙不可思議な文章のマジックを成功させるには、叙述も、もっと繊細である必要があったのではないかと思う。例えば、まさにブランドのような韜晦趣味的なスタイルが必要だったのではなかろうか?クイーンの文章は簡潔すぎ、明晰すぎたかもしれない。

 もっとも、キャロルが犯人であるとも、そうでないとも、どちらともとれる曖昧な書き方を、わざとしているようにも思えて、そうなると、また作者の狙いがわからなくなる。そこまで回りくどいことはしないとは思うが、どうもいろいろと考えさせられる小説である。

 ともあれ、本作をクイーンの代表作とする考えは変わっていない。(ひとまず犯人当てミステリという前提で)アイディアは素晴らしいと思うし、独創性から言えば、エラリイ・クイーンの全作品中でもずば抜けている。犯人を特定する失言の手がかり[xi]も巧みだ。そして、全体のダークな雰囲気とサスペンスに富む語り口は、同時期のクイーン作品のなかでも際立って印象的で、ハードで硬質な手触りを感じさせる。

 1950年代のクイーンは、少なくともパズル・ミステリとしては、中短編およびショート・ショートで評価されるべきものと思う。

 

[i] 『クイーンのフルハウス』(青田 勝訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1968年;ハヤカワ・ミステリ文庫、1979年)。

[ii] 同(ハヤカワ・ミステリ文庫)、45頁。

[iii] “heroine”と書いてあるとすれば、エラリイにはそう聞こえたということだろうか。

[iv] 「ライツヴィルの盗賊」(『クイーン検察局』所収)を思わせる。

[v] 『クイーンのフルハウス』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、117頁。

[vi] 同、165-66頁。

[vii] 『エラリイ・クイーンの冒険』に関する拙文を参照。

[viii] フランシス・M・ネヴィンズJr『エラリイ・クイーンの世界』(秋津知子他訳、早川書房、1980年)、243頁、フランシス・M・ネヴィンズ(飯城勇三訳)『推理の芸術』(国書刊行会、2016年)、329頁、飯城勇三エラリー・クイーン完全ガイド』(星海社新書、2021年)、187-88頁。

[ix] クリスチアナ・ブランド『はなれわざ』(1955年)。

[x] 『クイーンのフルハウス』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、218-24頁。

[xi] 同、251、264-65頁。

エラリイ・クイーン『クイーン検察局』

 1950年代のエラリイ・クイーンを読むなら、まず『犯罪カレンダー』(1952年)と『クイーン検察局』(1955年)をお勧めしたい。

 

 以下、収録された各作品の犯人や推理のポイントを明らかにしていますので、ご注意ください。

 

 エラリイ・クイーンの創作方法は、フレデリック・ダネイが原案を作成して、マンフレッド・B・リーが小説化すると明らかになっているが、まだ不確かな点がいくつか残されている。リーがスランプで書けなかった時期に発表された中短編小説の代作者が、例えば、謎のままである[i]

 だが、個人的には、本書『クイーン検察局(Queen‘s Bureau of Investigation)』[ii]の収録作品についても疑問に思うことがあった。ショート・ショートのような掌編小説もリーが執筆したのだろうか、ということである。ショート・ショートのシノプシスって、下手したら完成稿より長かった、などということはなかったのだろうか。それとも、ショート・ショートの場合は推理のポイント、本書収録作品でいえば、英語と米語とか、ボクシングの専門用語とかのメモだけで、具体的な筋書きやキャラクターづくりはリーに任せる、といった方法を取ったのだろうか。いろいろ思い巡らせたが、F・M・ネヴィンズのクイーン評伝を読むと、やっぱりリーが書いていたのだという[iii]。考えるだけ、無駄だった。

 しかし、本当に、本当に、すべてリーの執筆だったのだろうか。ダネイにしても、作家を志した以上、自ら書きたい欲求を持っていたのではないのか。『ゴールデン・サマー』[iv]などをみれば、そうした意欲がなかったとは思えない。ダネイが執筆した小説もあったのでは、との疑問が捨てきれないのだ。けれども、リーの死後、ダネイはショート・ショートさえ発表しなかった[v]。やはり小説執筆は、もっぱらリーだったということなのか。あるいは、ダネイに小説が書けないわけではないが、リーとの間の信義を最後まで守ったということなのだろうか。もし、そうなら、共作におけるダネイのストレスというのも計り知れないものがあったようにも感じられる。

 それでも、しつこいようだが、上記の代筆者不明の中短編について、いまだに不明のままということは、結局ダネイが書いたんじゃないのか、と想像してみたくなるのだが、果たして?それが明らかになる日は来るのだろうか。いつか、すべてが明らかになる。そんな日が来ることを願って、ひとまず筆をおくことにしたい(パソコン入力だけど)。

 

 ・・・ちがった。これで終わりじゃなかった。『クイーン検察局』を読み直すんだった。執筆がダネイかリーかを確かめようとかいうつもりではなく(そんなことは読んでもわからん[vi])、短編集を読み直そうと思い立ったからである。あらさがしをする楽しさを知ってしまったということもある(人が悪い趣味だ)[vii]

 本書のショート・ショート18編の大半は、『ディス・ウィーク(This Week)』という新聞の日曜版と一緒に配達された週刊誌に掲載されたものだという[viii]。なにしろ、ショート・ショートなので、小説のコクとか、人物描写とか、あったものではないが、全体的に『犯罪カレンダー』(1952年)あたりから目立つようになった推理クイズ風のものが多くなっている。「〈小説読み〉にはもの足りないだろう」[ix]という小林信彦の批評はもっともである。しかし、数編、クイーンらしい冴えたロジックが光る傑作が含まれていたと記憶している。そこを確認したい。

 言い忘れたが、タイトルはF・B・I(アメリカ連邦捜査局)をもじったもの。それで、各作品には、犯罪の種別が付記してある。「恐喝」とか、「横領」とか。「魔術」とか、「不可能犯罪」なんてのもあるが、ま、こんなこと、私が説明するまでもなく、皆知っていることだ。ところで、そうなると、『クイーン検察局』という日本語版タイトルは、これでいいのだろうか?

 

01 「金は語る」(1950.4)

 下宿に住む三人の住人のなかから恐喝者を探すという謎で、謎解きのポイントは、イギリス英語とアメリカ英語の違い。重要な単語に、原語がカナでふってあるので、ここがクサいと気づく人も多いだろう。

 だが、普段使わない単語が出てくれば、アメリカ人なら(イギリス人でも)、すぐにわかってしまうのではないのだろうか。それとも、アメリカの読者は、そんなことは気にせずに読んでいるのか?

 

02 「代理人の問題」(1953.8)

 やはり言葉が手がかりで、ボクシングの専門用語が鍵となる。

 素人のエラリイも知っている程度の用語を知らないというのは、よほどのもの知らずとしか思えないけどなあ。それで評論家に成りすまそうとするなら、知ったかぶりせずに、極力しゃべらないようにするんじゃない?

 

03 「三人の寡婦」(1950.1)

 三人の寡婦のうち、ひとりが被害者で、ふたりが容疑者。一種の不可能トリックだが、タイトルで寡婦に注意を向けさせておいて、実際の犯人から疑いをそらすのは、なかなか上手い。

 このトリックは、日本人にはあまりピンとこないだろうか。外国のテレビや小説に普通に出てくるから、そうでもないか。いや、いまどき体に密着させるのは時代遅れか。

 

04 「変り者の学部長」(1953.3)

 本作も、まさに言葉遊びで、スプーナリズムという言い間違いの癖(?)が問題になる。

 謎解きよりギャグを楽しむ作品で、52ページからあたりは、とくに笑わせてくれる。

 

05 「運転席」(1951.3)

 今回も三人の容疑者がいて、うち一人が義姉殺害の犯人という問題で、手がかりは右袖が濡れたレインコート。やはりイギリスとアメリカの、今回は乗用車の仕様の相違が鍵となる。しかし、わざわざ腕を出して合図するとか、これも時代を感じさせる。

 ほぼ毎回容疑者が三人というのは、二人だと、あてずっぽうでも確率50パーセントになってしまうし、四人以上になると設定を考えたり、書き分けるのが面倒くさいからだろうか。

 

06 「角砂糖」(1950.7)

 いよいよ出ました、ダイイング・メッセージ。これがないと、クイーンは始まらないですよね。

 例によって三人の容疑者が拘束されて、死者が残した角砂糖の解釈が焦点となる。といっても、実はダイイング・メッセージの解釈より、第四の人物が犯人とわかる意外な結末で読ませる。ここまでのなかの佳作だろう。

 「運転席」のあとに本作を置いたのも、企んでるなあ。また三人のなかから犯人を見つける話かと思わせて、背負い投げを食わせるところはさすがです。作品の順番を工夫したところが一番のアイディアで、冒頭の一文が読者を欺く伏線になっているところも巧妙だ。

 ただ、容疑者三人が乗馬服姿なのは、騎馬巡査に呼びとめられる設定で仕方ないのだろうが、乗馬の習慣のある無しに関係なく、単に乗馬服をみてダイイング・メッセージを残した可能性を否定できないのではないだろうか。

 

07 「匿された金」(1952.3)

 今度は、強盗が隠した金のありかが問題となる。が、謎の中心は、隠し場所ではなく、元服役囚を殺害した犯人が誰かで、ホテルが現場であることが最重要手がかりである。

 「三人の寡婦」同様、容疑者は二人だが、「三人の寡婦」の意外性はない。エラリイの推理は、ちょっと荒っぽいのではないかな(実際は、犯人がルーム・メイドらしいというところまでしか推理していない)。

 

08 「九官鳥」(1952.12)

 例によって、三人の容疑者のひとりが金持ちの女性を殺害する。目撃したのは、数十羽の九官鳥だけで、彼らの声真似がエラリイに解決のヒントを与える。

 一種のダイイング・メッセージで、九官鳥の声色が何を伝えているのか、という謎だが、鳥の発する言葉の意味そのものより、そこから犯人を特定する推理の組み立て方が一風変わっている。論理よりも、ひらめき一発で、そこが面白い。

 

09 「名誉の問題」(1953.9)

 本作は、本書に収録の『ディス・ウィーク』掲載作品のなかで、最後に書かれたもののようだ。そのせいか、ミステリの定型を、わざとはずしているところがある。

 またまた三人の容疑者が出てきて、自殺と見せかけた殺人事件が起こる。被害者が残した遺書が偽物であることを証明するパズルで、またまたアメリカ英語とイギリス英語の相違がキーとなる(日本人も教わることなので、こっちのほうがやさしいか)。三人にはいずれもアリバイがあるのだが、ところが、最後まで読むとキョトンとする。なんとアリバイ・トリックも解明されないし、誰が犯人かも不明のまま終わる。どういうこと?あとは自分で考えろ、ってこと?

 ニュー・スコットランド・ヤードシェイクスピア好きの警部が登場して、事件が高貴な婦人の恋文の盗難をめぐるものなので、なんだかホームズ短編のパロディのようだ。

 

10 「ライツヴィルの盗賊」(Today‘s Family, 1953.2)

 本ショート・ショート集で、唯一短編と言える作品。掲載誌も異なる。しかもライツヴィルもので、ちょうど折り返しの十番目に置いたということは、ここらで小説らしい小説を一本、ということだろうか。

 強盗事件で、義父とも折り合いの悪い、町の嫌われ者の青年が疑惑の対象となる。母親から頼まれたエラリイが捜査に乗り出すが、盗まれた金を発見したことで、一気に事件解決へと繋がる。意外な推理で犯人を特定するシャープな短編ミステリで、本集の最高作と思う。

 他の作品にも登場している人物が犯人なのだが、これもライツヴィルもののようなシリーズならではのアイディアで、いつか、やってやろうと思っていたのだろうか。なつかしや、ウルファート・ヴァン・ホーンも出てきて、相変わらず不愉快で胡散臭いが、さすがに、そろってというのはねえ(おっと!)。

 いくらか枚数にゆとりもあるので、人物設定など細かいが、一方で、余分な説明や描写を省いて、登場人物が無駄なく簡潔に描かれているので、正直、同じライツヴィルものの長編より、むしろ良く書けているのではないだろうか。

 ただし、エラリイの推理は、登場人物に限れば、という条件つきの解答で、つまり、この犯人と同じ状態に置かれている人間が他にもいる可能性を否定できていない。関係者が第三者に金の移送時間をしゃべった可能性を、エラリイ自身が指摘しているので[x]、なおさら推理が徹底していないように見えてしまう。それに、なぜエラリイが盗まれた金の捜索にこだわったのか、そこも疑問だ(発見されないと、推理できないのではあるが)。

 

11 「あなたのお金を倍に」(1951.9)

 一種の密室の謎で、エラリイとクイーン警視の目の前で部屋に入った男が、15分後には消え失せている。他に唯一の出入り口である窓には鍵がかかっているという不可能トリック。エドワード・D・ホックみたいで、シンプルですっきりしたパズルだが、無理な一人二役トリックが使われているのは、そんな必要あったのかな。

 犯人が、電話で部下を呼び寄せて、部屋に入らせて鍵をかけさせたとしても、結果は同じだろう。窓の外側を伝ったりしていたら、通行人に見られるかもしれないし(窓が路地裏に面しているとかは、書かれていないようだ)。もちろん、一人二役のほうが不可能犯罪ものとしては面白いのだが。

 

12 「守銭奴の黄金」(1950.6)

 隠し場所の謎というか、金持ちの金貸しが隠した札束がどこにあるのかを探すミステリ。

 O・ヘンリーの短編集が手がかりになるところは、ビブリオマニアのダネイらしいというか、メタ・ミステリっぽくなりそうな一編。むしろ『クイーン検察局』を手がかりにしていたら、もっとメタっぽくなったんじゃなかろうか(本作のタイトルを「守銭奴の黄金」ではなく、「ビトウィーン・ザ・ラウンズ」にしておいたら面白かったと思うが、どう?)。

 

13 「七月の雪つぶて」(1952.8)

 また不可能犯罪もので、列車が消失するというスケールの大きな謎に、エラリイが挑戦する。

 答えが嘘というのは面白いのか、というイチャモンを別稿[xi]で書いたが、やっぱり、なんか拍子抜けするなあ。

 少なくとも、証言の嘘を証明するエラリイの推理があればと思うが、残る可能性は駅長の嘘しかない、という説明だけでは、つまらない。ショート・ショートだから、大真面目にトリックを考えることもないと思ったのか。つまりは、作者が最後に舌を出して、読者は苦笑いしながら面白がる冗談小説ということだろうか。

 そう考えると、突っ込むこともないのだが、実在する路線なのかどうかも知らないけど、襲撃の目撃者通報も入らないくらいだから、だだっ広い平原を走る鉄道なのだろう。だったら、遠くからでも銃撃の音とか聞こえるんじゃない?買収されたとかいう駅長も、いつまでも駅に残っているわけもなく、さっさとトンずらしているはずだろうし。

 

14 「タイムズ・スクエアの魔女」(1950.11)

 またしても守銭奴の女性が長年音信不通だった甥に財産を遺そうとしたら、なんと二人も現れたというお話。

 大岡政談みたいな結末になるのかと思ったら、ある意味そのとおりで、論理ではなく頓智でエラリイが事件を解決する。いかにもショート・ショートらしい、軽いけれど気の利いた作品。「読者への挑戦」がついているのも笑わせてくれる[xii]。結末も楽しい[xiii]

 

15 「賭博クラブ」(1951.1)

 今度は、ガチガチのパズル。例によって、三人の容疑者から犯人を探す。

 仲間をカモにしようとする詐欺漢は誰か、郵送されてきた手紙とその封筒から、エラリイが意表を突く見事な推理を組み立てる。収録作品中でも群を抜く鮮やかな論理で、これはもう、「ライツヴィルの盗賊」とともに、1950年代のエラリイ・クイーンを代表する傑作と言ってよいのではないだろうか(はっきり言って、『帝王死す』とか『緋文字』より上だと思います)。

 もっとも、月に数通しか封書を受け取らない私からすると、こんなに都合よくピッタリの封筒があったなんて信じがたくはある。仮に適当な封筒が見つからなかったとしたら、「捨ててしまった」と言い訳するしかなかっただろう。その場合でも、推理の結論は変わらないから、ま、いいか。

 

16 「GI物語」(EQMM, 1954.8)

 再びダイイング・メッセージもの。『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』掲載なので、パズル興味強めで、若干ページ数が多い。

 やっぱり三人の容疑者を登場させて、誰が犯人かを当てさせるのだが、肝心の「死に際の知らせ」が『緋文字』(1953年)の二番煎じなのだ。そこから先はクイーンの好きなアメリカの歴史クイズ(歴代大統領の名前関連)で、わざわざライツヴィル・シリーズにすることもなかったんじゃなかろうか(読者サーヴィスか)。

 

17 「黒い台帳」(1952.1)

 こちらも隠し場所トリックで、ただし、隠すのはエラリイというのが、いつもと違うところ。

 麻薬王の罪を暴く証拠文書をワシントンまで運ぶ任務を引き受けたエラリイが、敵に捕まって、身ぐるみはがされて隅々まで調べられる(エラリイのファンは興奮するのだろうか)。

 こういう謎は、結局、ああ、なるほど、の感想で終わることが多いが、本作も、そんなところか。

 でも、マイクロ・フィルムでいいのなら、100くらいコピーをつくって100人の捜査官に一斉にワシントンに向かわせたほうが確実じゃないのかな?それ以前に、電話じゃ駄目なの?

 ま、野暮な突っ込みはやめておこう。

 

18 「消えた子供」(1951.7)

 夫の浮気で離婚話がもちあがった夫婦の一人息子がいなくなる。誘拐犯の手紙が届くが、そこに書かれていたのは、・・・というあらすじで、意外な真相が明らかになる。

 最後は心温まるお話で、ショート・ショート集らしく軽いが後味の良い締めくくりになっている。

 でも、自分の息子の筆跡なのに、まったく見当もつかないってのは、どうなんだろうか。おや、とも思わないのか。大文字のブロック体とはいえ、子どもの手だし。識別は難しいのか?それに指紋もついているだろうから(手袋をしていたとしたら、とんでもないガキだ)、指紋で大人と子どもの違いって、わからないのかね?

 ま、野暮な突っ込みはやめておこう。

 

 全18編からパズルとしてベストを選ぶなら、「ライツヴィルの盗賊」、「賭博クラブ」、それに「角砂糖」を、ショート・ショートとして楽しいのは「タイムズ・スクエアの魔女」、「変り者の学部長」、あとは「名誉の問題」、「九官鳥」あたりか。

 単なるクイズもあるが、ショート・ショートと思えば腹も立たない。1950年代のいろいろ不満の多い変てこな長編を読むくらいなら、『犯罪カレンダー』や『クイーン検察局』を読むことをお勧めする。

 ああ、このことは最初に書いておこう。

 

[i] フランシス・M・ネヴィンズ『エラリー・クイーン 推理の芸術』(飯城勇三訳、国書刊行会、2016年)、327-29、365-69頁参照。

[ii] 『クイーン検察局』(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫)1976年)。

[iii]エラリー・クイーン 推理の芸術』、291頁。

[iv] ダニエル・ネイサン『ゴールデン・サマー』(谷口年史訳、東京創元社、2004年)。

[v] エラリイ・クイーン名義で発表された「トナカイの手がかり」がエドワード・D・ホックの代筆だったことは有名。『エラリー・クイーン 推理の芸術』、401-402頁。

[vi] 都筑道夫は、『ミステリ・マガジン』編集長時代の逸話として、ダネイとリーの寄こした書簡を見比べたら、どちらが小説を執筆しているのか、すぐにわかった、と豪語していたくらいなので、都筑先生にクイーンの原書すべてを読んでもらって(どんな苦行だ)、判定しておいてもらえばよかったですね。都筑道夫・二木悦子・中島河太郎・青田 勝「回顧座談会 クイーンの遺産」『ミステリマガジン』No.320(エラリイ・クイーン追悼特集、1982年)、132頁。ちなみに、中島河太郎は、国名シリーズとレーン四部作は、リーとダネイが分担して書いたと考えていたらしい。『Yの悲劇』(創元推理文庫、1959年)、「解説」(中島河太郎)、428頁も参照。

[vii] 江戸川乱歩小林秀雄の有名な対談記事を読むと、小林もミステリのあら捜しが大好きだったらしいことがわかる。だから、わたしも、というわけではないが。「ヴァン・ダインは一流か五流か(対小林秀雄)」江戸川乱歩『書簡 対談 座談』(講談社、1989年)、218-49頁。

[viii] 飯城勇三エラリー・クイーン完全ガイド』(星海社、2021年)、156頁。

[ix] 小林信彦『地獄の読書録』(筑摩書房、1989年)、115頁。

[x] 『クイーン検察局』、148頁。

[xi] 『帝王死す』に関する拙文を参照。

[xii] と思ったら、どうも原書の単行本には「読者への挑戦」はないらしい。なんで?本編には、絶対必要でしょ?訳者の青田氏もそう思ったから、残したんじゃないの。飯城勇三エラリー・クイーン完全ガイド』(星海社、2021年)、159頁。

[xiii] 最後のエラリイのセリフの「手数料」って、原文は何だろう。hand money(辞書では手付金とあるが)?

横溝正史『迷路荘の惨劇』

(本書の犯人、トリック等のほか、坂口安吾『不連続殺人事件』、アガサ・クリスティ『ナイルに死す』のトリックに触れていますので、ご注意願います。追記:不正確な部分がありましたので、修正しました。2024年1月21日。)

 

 『迷路荘の惨劇』(1975年)[i]は、改稿魔とでもいうべき横溝正史が、最後から三番目に発表した長編ミステリである。原型は、昭和31年(1956年)に雑誌掲載された「迷路荘の怪人」[ii]で、それを中編に書き伸ばした同名作品[iii]が、昭和34年(1959年)になって、東京文藝社から『金田一耕助推理全集5』として刊行された模様だ[iv]。『惨劇』は、中編版「怪人」を更に長編に引き伸ばして、堂々文庫版で500頁に迫る大作[v]に仕上げたものである。

 『惨劇』の初版の帯には、「絶版の中編〝迷路荘の怪人″200枚を骨格とし、・・・800枚の書下し作品となった」と記されており、中短編の長編化の一編であることは理解していたが、まさか短編から中編、そして長編と、ホップ・ステップ・ジャンプの三段跳びミステリだったとは想像もしていなかった。改稿大好きヨコセイにしても度が過ぎており、一体全体、なんでそんなにしつこいのか、まず興味津々である。

 著者の告白によれば、「かつて単行本として刊行された中編物のなかに、一編だけ意にみたぬものがあり、その後絶版にしておいた小説」[vi]を長編にしたのが『惨劇』だというのだが、意に満たぬものは他にもあるでしょ、などという嫌味は抜きにして、そこまで執着していたとは、作家の執念というものには驚かされる。「尻すぼみだった」[vii]というのが、理由のようだが、さすがに、一度短編を中編に改稿していながら、それをさらに長編に、それも十数年もたってからとは、無論、横溝ブームの後押しによるとはいえ、正史の全作品のなかでも、他には見当たらないのではないだろうか。

 この横溝の強い拘りの要因は、どうやら本作品の構想なりアイディアなりに、自信を持っていたからだったと思われる。自信あればこそ、中編に改稿しても、まだ飽き足らず、執筆の機会を得たことで、それならあれを満足できるものにしようと決意したのだろう。

 あいにく、最初に読んだのは、もう随分昔になるが、そのときは「なんか面白くねエなあ」と、寝っ転がって腹をかきながら、うそぶいたのを思い出す。というのは、もちろん冗談だが、面白くなかったのは本当である。話は派手で、迷路荘ならぬ名琅荘という、抜け穴やどんでん返しがいたるところにある忍者屋敷のごとき邸宅で次々に登場人物が殺されていく。地下道や地下洞窟まで出てきて、『八つ墓村』のような地下迷宮のスリルまであるとなれば、つまらぬわけがないのだが、事件そのものがやたらと複雑で、(おのれの読解力のなさを告白するようなものだが)真犯人が誰なのか、一読しただけでは頭に入らなかった。一体誰が誰を殺そうとしているのか、誰が誰に殺されたのか、読み終わっても、すぐには整理がつかないほどゴタゴタしているのである。

 そんなこともあって再読する気にならず、しかも上で述べたように500頁近くもあるので、なかなか手を伸ばせなかったのだが、思い切って短編、中編、長編を順番に読み返してみた。三作とも読めるようになったとは、実に良い時代になったものだが、短編および中編版を発掘してくれた浜田知明氏には、まったく感謝のほかはない。

 それで、読み直した感想は、というと――。

 感動した!よく頑張った!じゃなくて、感心した。それも、すごく。

 これは、相当に考えられている。考え抜かれている。横溝がこだわったのも無理はない。あえていえば、『迷路荘の惨劇』は、『犬神家の一族』などと比べても、はるかに独創的で野心的なミステリである。

 どこがそうかを述べるには、まず内容を見ていく必要がある。富士を見晴らす迷路荘は、伯爵の古舘種人が建てた広壮な建物で、あとを継いだのが息子の一人である。ところが一人は、日頃から妻の加奈子と遠縁の尾形静馬という青年との仲を疑い、ついにある日、激情にかられて日本刀で加奈子を切り捨てるという惨事を引き起こす。一人は静馬の片腕も切り落とすが、逆に殺されてしまい、逃走した静馬は屋敷の裏手にある洞穴に飛び込むと、そのまま行方知れずになってしまった。

 一人には先妻との間に一人息子の辰人がいるが、戦後の激動で身分も財産も失い、迷路荘まで手放し、おまけに妻の倭文子を、屋敷を買い取った闇成金の篠崎慎吾に奪われる羽目となる。そして、かつての一人伯の惨劇から二十一回忌に当たる昭和25年10月、慎吾は、今ではホテルとして開業を間近に控えた迷路荘に、辰人のほか、彼の叔父にあたる天坊邦武、加奈子の実弟で、辰人との結婚以前に倭文子の恋人だった柳町善衛などの因縁浅からぬ人々を招待する。一方、迷路荘では、かつて種人の愛妾だった糸という老婦人が今でも健在で采配をふるっているが、年忌の数日前、慎吾と思しき人物から電話で、知り合いが迷路荘に宿泊するとの連絡が入る。その男真野信也は黒眼鏡にマスクの謎の人物で、しかも片腕がなかった(ように見えた)。実は、迷路荘の周辺では、以前から片腕の怪人物が何度も目撃されており、尾形静馬がまだ生きていて、古舘家に復讐しようとしているのではないかとの噂が絶えなかったのである。真野という怪人物は客室に通されると、いつの間にか姿を消しており、部屋は内部から鍵がかけられたまま空っぽになっていた。

 不吉な予感を抱いた慎吾が招き寄せたのが金田一耕助で、ここから、いよいよ「迷路荘の惨劇」が開始される(金田一が来たからというわけではない。誤解のないように)。

 まず辰人が、屋敷のわきにある倉庫のなかで、馬車に乗せられた絞殺死体となって発見される。異様なことに、彼の左腕はベルトで体に固定され、まるで片腕が失われているかのようだった。次いで、金田一らが、真野が消えた客室の暖炉から地下道に潜入している間に、隣の客室に寝泊まりしていた天坊が浴槽に浸かったまま息絶えていた。死因は溺死で、部屋は内側から鍵がかけられ、マントルピースの上に置いてあるという密室である。しかも、この部屋には、秘密の通路は存在しない。次に、姿が見えなくなっていた女中のタマ子が地下迷路の中で絞殺死体となって見つかる。最後は、慎吾が就寝中に、床の間に隠された抜け穴から何者かに銃で撃たれ、隣に寝ていたはずの倭文子は地下道に連れ去られる。警察が捜索すると、撃ち殺された倭文子の死体と崩れた岩の下敷きとなった柳町を見つける。彼の手には、慎吾を狙い、倭文子を殺害した凶器の銃が握られていた。

 これがほぼ二日間の出来事なので、何しろもう、てんやわんやである。天坊殺しの密室は、針と糸を使った古くさいトリックの流用なので、取り立てて言うこともないが、この密室殺人とその後の地下洞窟の探索と追跡が、新たに書き加えられた場面で、全体の半分近くを占めている。短編版および中編版「怪人」は、いずれも、辰人殺しのあと、すぐに慎吾に対する殺人未遂が起こり、倭文子と柳町の死の謎へと展開するので、本来の構想が「辰人殺し」と「慎吾の殺害未遂」および「柳町による倭文子殺し」にあることは明らかである。「天坊殺し」と「タマ子殺し」は付加的な殺人ということになる。

 本編は、そもそも『まぼろし館』という題名で、昭和25年1月から『宝石』に連載を予告していた長編小説がオリジナルもしくは元になっているのだという[viii]。当時の作者の連載予告によると、新作長編は、『獄門島』から『八つ墓村』へと、次第に「草双紙」ないし「伝奇小説」的になっていたものを、もう一度本格ミステリに引き戻して、「謎の面白さと、論理的な正確さ」を重視した作風へ回帰するものにしたい[ix]。つまり『本陣殺人事件』のような作品を、ということだったらしい。作者の意欲のほどが伝わってくるが、戦後の没落華族の世界を描いたものとしては他に『悪魔が来りて笛を吹く』があり、同作で重要な役割を果たすフルートは、本作でも柳町をフルート奏者とすることで活用されている。さらに密室のトリックにしても類似性があって(注でトリックに触れていますので、ご注意ください)[x]、横溝が言う謎と論理に重きを置いた長編『まぼろし館』とは『悪魔が来りて』だった可能性もあるようなのだが[xi]浜田知明が示唆するように、『まぼろし館』から『悪魔が来りて』と『迷路荘』双方が派生したのだとすれば、先に述べた作者の本編に対する自信らしきものの因って来たるところがわかるのではないか。

 そこで、本作の「謎の面白さ」とは一体何かということであるが、基本構想となるのは、辰人と倭文子の共犯トリックである。

 辰人と倭文子は、慎吾の財産を狙って、わざと離婚し、倭文子は慎吾と結婚する。次に、辰人が慎吾を殺害し、遺産を相続した倭文子と再婚するという計画なのである。それを緒方静馬の犯行に見せようとしたのが、あの異様な死体の状況のわけだった。

 こう書けば、ミステリ愛好家には一目瞭然だが、これは坂口安吾の『不連続殺人事件』(1947-48年)の基本構想と同じであり、『不連続』の元ネタになっているアガサ・クリスティの『ナイルに死す』(1937年)の基本構想と同じである。

 もちろん、『不連続』や『ナイル』と同一の発想だから、素晴らしいとかいうのではない。それでは二次使用、三次使用に過ぎない。『迷路荘』が独創的なのは、殺人を計画した辰人と倭文子の二人組が、結果的に、犯人ではなく被害者になってしまうところにある。もともと『不連続』や『ナイル』の共犯トリックは、あっと驚く意外性で評価されるが、反面、持って回った、およそ現実にはありそうもない不自然なトリックでもある。『迷路荘』とは、すなわち、その複雑なトリックを弄する犯人たちが、逆に殺されてしまうというミステリである。殺そうと企んでいる者たちが殺される、逆転の発想が『迷路荘』の基本アイディアで、『不連続』と『ナイル』のトリックを下敷きにしながら、この共犯トリックが破綻する様を描いたところに独自性がある。

 さらに別な観点を加えれば、本作における真犯人である柳町は、偶然に辰人の殺人の予行演習を目撃し、乱闘の末、辰人を殺してしまう(実際は死んでいなかった)。かつて恋人だった倭文子の隠された本性を知った柳町は、彼女を殺して自らも命を絶つ決意をする。そして、柳町の辰人殺しを偶然目撃したのが糸で(目撃しすぎです。偶然ではなく、もはや必然です)、彼女もまた、辰人への憎悪から共犯者となって柳町を助け、自らも手を下す。すなわち、横溝得意の事後工作者でもあるのだが、『迷路荘』は、辰人と倭文子の殺人計画者コンビが、柳町と糸の殺人実行者コンビに敗北する、共犯者トリックの弁証法的統一、「迷路」のごとき複合化に挑戦した作品である。

 これだけ入り組んだプロットは、一朝一夕には出来上がらない。どうやってこんなややこしいプロットを思いついたのかわからないが、考えに考え抜いて生み出したものなのだろう。意気込んで取り組み、幾度も改稿を試みたのも意外ではない。それだけ自信のある作品だったのだ。

 ただし、練りに練った構想の小説だからといって、出来上がった作品が傑作になるとは限らない。中編版のどこが不満だったのか明確ではないが[xii]、「怪人」の場合、クライマックスの慎吾銃撃場面と地下洞窟での死体発見のあたりが、ややあっけない印象はある。『惨劇』では、この殺人未遂事件に至るまでの地下洞窟における捜索と追跡の場面が大幅に加筆されていることを見ても、山場をもっと劇的に盛り上げたいという気持ちがあったのだろう。長編版は、登場人物のほぼすべてに役を割り振るサーヴィスぶりで(大半が殺されるので、本人たちにとってみれば割に合わないが)、そのせいでか殺人大安売りになって、上記のメイン・アイディアが、かえって伝わりにくくなったように思われる。「尻すぼみ」が不満で改稿したものの、ドラマティックな効果を狙って、横溝本来の持ち味である物語要素を強調した結果、逆に本作の特色を目立たなくさせてしまったとすれば、いささか皮肉である。浜田が「謎解きの一点へと進行していく収束感は、この中編版が最も充実している」[xiii]と適確に指摘しているように、本作の狙いが最もよく伝わるのは、中編版「怪人」だろう。

 そもそも、本作が、『八つ墓村』や『犬神家の一族』のように代表作とみなされていない(らしい)のは、横溝の長編書下ろし作品が一段低いものとされ(そんなことはない?)、侮られる傾向にあるのを別にしても、捻りすぎたプロットのせいもある。やはりアイディアはシンプルなほうが効果がある。『迷路荘』の場合、『不連続』や『ナイル』がまずあって、そのうえにトリックをかぶせるトリック(この本家取りの手法は、江戸川乱歩に習ったのだろうか)なので、もともと複雑な共犯のトリックが、さらに複雑になって、わかりづらいものになってしまった。これも浜田が指摘するように[xiv]、本書の「論理的な正確さ」を代表すると思われる、辰人と倭文子の共犯関係を暴く推理[xv]が、中編版「怪人」に比べ、『惨劇』ではあまり強調されず[xvi]金田一の推理全体が憶測と当てずっぽう(といっては、可哀そう?)に終始するのも、物足りなく思わせる。速水譲治という新しい登場人物を創造して、幾つもの重要な役回りを与えたのは、物語としてのふくらみを出すには効果的だったが、『迷路荘』が本来目指していたと思われる「謎と論理」の要素を減殺するデメリットをもたらしてしまったともいえる。そこは、作者の計算が狂ったというべきだろうか。

 ただし、複雑であることが悪いわけではない。本書の核となる構想自体、すでに充分複雑だが、作者は考えに考えぬいて書いているのだから、読むほうも頭を働かせて気を入れて読まなければならない(ミステリの読書に、そんな苦行を課すこともないのだが)。再読して、ようやく本書の真価が分かったが、つくづく思うのは、横溝は頭が良すぎる。ついていくだけで大変だ。

 

 本作は、改稿を繰り返したことで、短編版、中編版そして長編版それぞれに長所とデメリットが見て取れる。しかし、読みごたえからいっても、やはり長編が完成稿だろう。その発想には特筆すべきものがあり、他の代表作に劣らぬオリジナリティを有しているといえる。

 そして、最後にもうひとつ付け加えるとすれば、本作もまた坂口安吾の存在を抜きにして語ることはできないだろう。『夜歩く』や『八つ墓村』について言われてきたのと同様に、安吾の『不連続殺人事件』が昭和20年代半ばの正史に与えた影響力の大きさを感じさせるのも『迷路荘の惨劇』の特徴である。

 

[i] 『迷路荘の惨劇』(東京文芸社、1975年)。

[ii]金田一耕助の帰還』(出版芸術社、1996年)、199-238頁。

[iii] 『迷路荘の怪人』(出版芸術社、2012年)、99‐222頁。

[iv] 島崎 博編「横溝正史書誌」『横溝正史 本陣殺人事件・獄門島』(『別冊幻影城』、1975年9月)、337頁。

[v] 『迷路荘の惨劇』(角川文庫、1976年)。

[vi] 『真説金田一耕助』(毎日新聞社、1977年)、28-29頁。

[vii] 同、29頁。

[viii] 『迷路荘の怪人』、229-230頁(浜田知明による「解説」)、234-38頁(「付録資料」のうち「新年号予告 新連載長篇小説 まぼろし館作者の言葉」および「陳謝をかねて-今年の抱負」)。

[ix] 同、237-38頁。

[x] 両作とも、ドアの上に通風用の小窓があって、トリックに利用される。ただし、『迷路荘の惨劇』の密室は、新たに加筆された部分であって、最初から構想に入っていた可能性は低そうだ。

[xi] 『迷路荘の怪人』、229-30頁参照。

[xii] 同、228頁参照。

[xiii] 同、228頁。

[xiv] 同、230頁。

[xv] 同、215、221頁。

[xvi] 『迷路荘の惨劇』、260頁。

江戸川乱歩『吸血鬼』

(本書の犯人等の内容を明かしていますので、ご注意ください。)

 

 江戸川乱歩の『吸血鬼』(1930-31年)には、吸血鬼は出てこない。九割方読み終わった(言うまでもないが、再読)あたりで、ふと思ったのが、何でこの小説は「吸血鬼」という題名だったのだろうということであった。そう思ったとたんに、出てきました。犯人を指して「鬼だ。人外の吸血鬼だ」[i]というのだが、確かに吸血鬼は人外で、そんなことは言われずともわかるという揚げ足取りはともかく、言い方がまた乱歩らしくてうれしくなる。しかし、本書の犯人に「吸血鬼」という形容は、果たしてふさわしいだろうか[ii]。血を吸わないのは当然だが、それほどおしゃれでもないし、八重歯とも書いていない。復讐が犯罪動機なのだが、復讐欲に取り憑かれているからといって、吸血鬼みたいとは言わないだろう。要するに無理やりなタイトルというほかないのだが、内容も無理やりなことでは、乱歩長編のなかでも定評ある(?)作品である。

 大内茂男の「華麗なユートピア[iii]は、乱歩の全長編小説の分析という暇人、いや、大変な労作だが、『吸血鬼』は、「話の首尾一貫しないことも、また随一である」[iv]と評されている。散々な言いようだが、そもそも大内の評価では、乱歩長編は「実に支離滅裂な作品が多かった」[v]と総論でも述べられているのに-そんな風に思っているのなら、検討作業などよせばいいのに、と思わないでもない-、さらに支離滅裂だということであるから、これは大変だ。

 最初に読んだ何十年か前には、(他の作品に比べて)そこまでとは感じなかったので、今回その辺に注意して読んでみたのだが、なるほど、支離滅裂でした。

 書き出しは、温泉地の旅館の一室で、何やら二人の男が深刻に対峙する光景から始まる。二人の男-岡田道彦と三谷房男-は、一人の女一柳倭文子-をめぐって命がけの決闘をしようというのだ。ふたつ置かれたコップのひとつを呷った三谷は、自分が毒入り(!)を選んでしまったのか、と一瞬絶望するが、恐怖に青ざめたのは相手のほうだった。残ったグラスを飲み干す勇気もないまま、岡田は悄然と姿を消し、残された三谷が倭文子を勝ち取る。ところが彼女には秘密があって、すでに結婚して子供まであるというのだが、それよりもなによりも、夫だった畑柳は獄死していた。法の網をかいくぐって富を築いてきた悪徳実業家だった男だが、ついに罪が露見して捕えられ、獄中で死亡したというのである。そんな過去の秘密はあれども、しかし、もはや三谷との恋に障害はないはずだったが、ことはそれだけで終わらなかった。その地を去ったはずの岡田が、顔の見極めもつかない水死体(ということは・・・)となって発見され、温泉地はざわめきたつ。続いて今度は、唇のない蛭田峯蔵と名乗る不気味な男が旅館に現れ、ある晩、露天風呂で三谷と倭文子を盗み見ていたことがわかる。そして東京に戻った彼らの周囲で、さらに恐るべき怪事件が起こり始める。

 という具合で物語が転がり始めるのだが、冒頭の決闘場面からして、温泉町のどこで毒を調達したんだと突っ込みたくなるように、まあ、突拍子もないのは確かではあるが、この辺はまだ探偵小説として許容範囲である。いきなり乱歩の大好きな決闘シーンで始まり、相変わらずだなあ、と思う一方、心理闘争のスリルを描く書き出しは、『蜘蛛男』のような怪異な幕開けではなく、おや、今回はもっとリアルな路線で行くのかな、とも思わせる。しかし、この後がすごい。

 突然息子の茂が誘拐されて(!)、三谷が倭文子の代わりに女装して(!)取引場所に出向くが、犯人は現れず、かえって倭文子がさらわれてしまう。いよいよ明智小五郎が登場すると、早速恋人の文代までが連れ去られ、国技館の菊人形展会場で怪人と探偵の対決となる。薄暗がりの建物内を敵はピョンピョンと逃げ回り(これも乱歩らしい)、最後は気球(?)に乗って逃亡する。実にもって乱歩的怪人、というか、まさに怪人二十面相のごとき逃走劇である。気球が海上に漂着すると、警察のランチを追い抜いて、謎のモーターボートが接近する。ボートの乗り手、実は三谷で、怪人との格闘になるが、そこで、突然モーターボートが爆発するのである。なんで?と思うが、もちろん、そうしないと話の都合上、困るからである。そのほかにも、殺人あり、死体消失あり、と盛りだくさんの内容で、結局、何が問題かといえば、個人的復讐が動機の犯罪なのに、やっていることは蜘蛛男とおんなじなのである。そもそも最初の場面からして、復讐相手の女のために命を懸けるとか、一体何がしたいのかと思う、しっちゃかめっちゃかの大暴れで、その挙句に、亡き兄を裏切った倭文子に思い知らせてやりたかったのです、などと言われても、これじゃ、完全に頭のおかしいやつだよ、という有様なのだ。確かに、支離滅裂と言われても仕方がない。

 『蜘蛛男』は、一種の愉快犯でサイコ・キラーだから、その行動に矛盾はなかった(いや、ないわけでもないが)、しかし、本書の犯人は、ある意味、普通の常識的な(?)殺害動機をもっているはずなのに、実際の行動がこれだから、困るのである。

 ただ、一応謎解き小説らしい仕込みは随所でされていて、例えば前半、両側に高い塀がそびえる通りに逃げ込んだ犯人が一瞬のうちに姿を消してしまう。道の向こうからは、三谷青年が歩いてくる[vi]。はは~ん、と思わせるのだが、実はマンホールに仕掛けがあって、塀の向こうの屋敷に地下で通じていることを明智が解き明かす[vii]。見え透いた撒き餌ではあるが、ガストン・ルルウなどの古典的消失トリックの二番煎じとはいえ、そのまま丸写しにはしていない。作者もひととおりは考えているわけで、そこは認めてあげなければならない(大乱歩に失礼な言い方ですが)。

 このほかにも、上記のとおり、岡田らしいが顔の見分けのつかない死体が発見されると、入れ替わりに蛭田という、名前からして怪しい人物が登場するので、当然多くの読者が、こいつが岡田に違いないと推測するはずだが、作者はそれを見越して、意外な人物を用意している。意外というより、ものすごく強引な設定なのだが、冒頭に一応伏線は張ってある[viii]。張ってはいるが、伏線というには雑過ぎて、やっぱり強引すぎるが。

 つまり本書が支離滅裂とは、作者自身認めていることではある[ix]のだが、例えば上記の犯人消失のトリックでも、ばねの付いた靴でビヨーンと塀を飛び越えるなどという、ひどいものではない。動機もトリックも、一応矛盾のないように考えられてはいるのである。しかし、そのトリックが空想的なうえに使い古したもので、かつ犯人の行動が非常識で常識的心理に反しているのである。

 最後の倭文子殺しの場面では、なんと自作の「人間椅子」をそのまま転用した奇想天外な密室トリックが出てくる。「人間椅子」は、あまりに着想が突飛だったので、最後は「嘘」で逃げたと弁明していたはずの乱歩が[x]、本書では、堂々と密室殺人のトリックに使っている。通俗ものだからとか、素人の読者が相手だからという言い訳なのだろうが、代表作と自負する短編を躊躇も臆面もなく自ら茶化す態度は、ある意味、あっぱれではあるが、さすがにどうかと思う。「陰獣」(1928年)でも自作のパロディ化をやっていたとはいえ、メタ・ミステリ的趣向というには、あんまりな暴挙である。

 もっとも、乱歩は通俗ミステリの読者を見くびっていたかもしれないが、読者たる一般大衆も、多くはわかったうえで面白がって愛読していたのではないだろうか。当時の読者のほうが大人で、知った風な顔で、やたらと揚げ足を取る現代の読み手のほうが子どもなのかもわからない(え、誰のこと?)。

 それに、何だかんだいって、最後にはなんとかまとめてしまうのが乱歩である。結末も考えないまま、あやふやに書き始めるのが常だったと言いながら、あれだけいろいろ見せ場を工夫して筋をつくって、そして最後は大団円にもっていく。これはもう天才としか思えない(皮肉を言っているわけではありません。本当に天才です)。

 小説としての『吸血鬼』については、都筑道夫が、なかなか厳しいことを言っていて、ストーリー展開がいい加減だ、というのは大内の意見と同一だが、ほかにも、描写がない、とか、まるで児童読み物だ、とか[xi]。最後の二つは『吸血鬼』だけを指してのものではないが、乱歩宅で何度もご馳走してもらっておいて、ひどい言い草である[xii]。それでも、中盤の国技館の菊人形大会の場面は、わりあい描写されている[xiii]、と述べている。読んでみると、情景描写がさほど詳しいわけではないが、暗闇で人形たちが蠢めいているかのような恐怖心理は、乱歩が好きでたまらない場面だから、そこは筆も走ったのだろう。

 しかし、個人的に、それよりも印象に残ったのは、序盤の畑柳邸から犯人が逃亡するシーンで、警察の追跡を尻目に、ひと気のないお屋敷町をマント姿の怪人が走り抜ける[xiv]。これぞまさしく乱歩的怪人の乱歩的逃走なのだが、この辺りの描写は萩原朔太郎の詩「殺人事件」[xv]を連想させる。このあと、上記の人間消失場面になるのだが、その謎よりもなによりも、月の下をすべるように走り去る曲者のイメージは、「殺人事件」さながら、そして、やっぱり怪人二十面相さながらで、乱歩を読む楽しさは、こういった場面を読む楽しさでもあるようだ。

 

[i] 『吸血鬼』(『江戸川乱歩長編全集6』、春陽堂、1972年)、313頁。

[ii] もっとも、『蜘蛛男』にしても、なんで「蜘蛛」なのか、あまり意味はなさそうだ(多分、罠を張って獲物を待ち構えている、とかなのだろうが)。

[iii] 大内茂男「華麗なユートピア」(『幻影城増刊 江戸川乱歩の世界』、1975年7月)、215-35頁。

[iv] 同、222頁。

[v] 同、216頁。

[vi] 『吸血鬼』、64-65頁。

[vii] 同、85頁。

[viii] 同、29頁。獄中で死亡した、と記述しておいて、あとになって、実は生きていました、というのは、あまりといえばあんまりである。それを見越しての先回りか、作中の警部の発言が読者の気持ちを代弁している-「小説ではあるまいし(後略)」。同、274-75頁。

[ix] 『探偵小説四十年(上)』(光文社、2006年)、424頁。

[x] 江戸川乱歩「楽屋噺」『謎と魔法の物語 自作に関する解説』(江戸川乱歩コレクション・Ⅵ、河出文庫、1995年)、43-44頁。

[xi]都筑道夫の読ホリデイ 上巻』(フリースタイル、2009年)、353、355-56頁。

[xii] 同、354頁。

[xiii] 同、356頁。

[xiv] 『吸血鬼』、62頁。

[xv] 萩原朔太郎と乱歩の交友、朔太郎の詩(とくに「猫町」)に対する乱歩の偏愛は、ミステリ・ファンなら知らぬ人のない有名な事実である。『探偵小説四十年(上)』、206-18頁、「猫町」(1948年)『幻影城』(講談社、1987年)、349-59頁。「殺人事件」は、『月に吠える』(1917年)収録だが、同作に関する乱歩の発言は残っていないようだ。わたしが「殺人事件」を知ったのは次の小説からで、一読をお勧めしたい。中井英夫「干からびた犯罪」(1980年)『名なしの森』(河出書房新社、1985年)、83-114頁。

横溝正史『夜の黒豹』

(本書および原型短編の犯人、トリック等を明かしています。)

 

 『夜の黒豹』は、1963年3月号の『推理ストーリー』誌に掲載された「青蜥蜴」[i]を改稿して1964年8月に東京文藝社より刊行された[ii]。いわゆる横溝正史の長編化書下ろし作品の事実上の最終作である。

 「事実上」と、わざわざ断ったのは、このあと1975年に同じ東京文藝社から『迷路荘の惨劇』が出版されているからである[iii]。しかし、『夜の黒豹』との間には十年余の空白があり、『惨劇』を一緒くたにはしにくい。1956年の『毒の矢』から始まった横溝の「中短編の長編化」シリーズは、ひとまず本書で終わって、『迷路荘』は番外編のようなものというべきだろう。

 ちなみに『推理ストーリー』には、1962年の「百唇譜」から1964年の「蝙蝠男」まで、「青蜥蜴」を含めて五編の短編が掲載されている[iv]。いずれも作者晩年のパッとしない謎解き小説で、「青蜥蜴」も最後のほうは尻つぼみで、枚数が足りなくなって無理やり終わらせた「やっつけ感」が濃厚に漂っている。

 長編『夜の黒豹』も、社会派推理全盛の時代に、忘れられかけた旧世代作家の、そして本人もミステリへの情熱を失いかけていた老作家の最後のあがきのように見える。

 とはいえ、同作は原型短編の約十倍の改稿[v]とのことで、分量は、中短編の長編化作品のなかでも群を抜いている。文庫本で400頁近いのは『犬神家の一族』(1950-51年)クラスで、作者もかなり力を入れて書いたとも受け取れる。(実際は、そうはならなかったが)これが最後の長編ミステリとの思いと覚悟もあって、力を振り絞って本書を完成させたのだろうか。(こう書くと、それまでの数作は手を抜いていたかのようであるが、そういうことではない。・・・多少その気はある。)

 だが、力を入れたからといって傑作になるとは限らないわけで、本作の場合も、(当然ながら)『本陣殺人事件』や『悪魔の手毬唄』のようなわけにはいかない。それ以前に、どうも全体としてのバランスが悪いように思えるが、それは後の話ということで、とりあえず、テーマは「無差別連続殺人」、手っ取り早くいえば「切り裂きジャック[vi]の日本版」である。

 短編版も長編版も、おおよそのストーリーは一緒で、安ホテルの一室で街娼が絞殺される。女は手足を拘束されたばかりか、死後犯されており、両の乳房の間にマジックインクで蜥蜴の稚拙な絵が描かれている。犯人は明らかに同伴客で、黒ビロードのコートをはおり、顔をサングラスで隠した中肉中背の人物。どうやら非常階段から逃亡したものらしい。ところが、この事件が報道されると、別のホテルのボーイと支配人が警察に出頭し、同様の事件が以前にもあったことが明らかになる(小説は、こちらの事件から始まっている)。ただし、ボーイによると、女は殺されてはおらず、しかし、同じように手足を縛られ、口を塞がれて、胸には青蜥蜴の絵が描かれていた。犯人はやはり黒いコートにサングラスをかけており、これで日本にも売春婦を次々に殺害する切り裂き魔ならぬ絞殺魔が出現したと全国的なニュースとなる。

 しかし、その後、最初の被害者の顔を間近に見ているボーイが車に轢かれる事件が起こり(短編では生存するが、長編では死亡)、単なる狂人による街娼殺しとも言えなくなってくる。

 そして次に起きたのが和風旅館における殺人で、被害者は娼婦ではなく、一般家庭の女性で、何と高校生だった。ここから事件の焦点は彼女の周辺の人間関係に移って、犯人の狙いが、日本版ジャック・サ・リッパー事件を装った偽装殺人にあったのではないかという疑いが強まっていく。

 ここまでは短編版、長編版に共通する部分で、短編では、この後、金田一が犯人を指摘して終わるのだが、長編版では、むしろ、ここからが本筋になってくる。ちなみに、原型版で、犯人らしき人物は、「貂」[vii]のように、つやつやした黒いコートを着ているのだが、長編版では、「黒豹のように」[viii]つやつやしたコート、と書き換えられている。「夜の黒貂(クロテン)」では凄味がなさすぎて、面白タイトルになってしまうからだろうが、長編題名を「青蜥蜴」にしなかったのは、江戸川乱歩の『黒蜥蜴』に比べ、なんとなく気が抜けたように聞こえると思ったのだろうか。それとも乱歩を真似るのは申し訳ないという気持ちがあったのか。「夜の黒豹」というのも、B級スリラー映画みたいであるが。

 原型版の「青蜥蜴」のタイトルのほうが良かったという意見もある[ix]が、どちらがいいかというより、「青蜥蜴」と「黒豹」とで犯人のイメージが分裂した感もある。前者は、短編・長編両方でアナグラムの手がかりになるのではずせないし、「夜の黒豹」のほうが連続殺人鬼のイメージには合っている。

 この「分裂」というのが、ある意味、本書の特徴で、第一の殺人未遂事件から、第二の街娼殺しと第三のひき逃げ事件までは、作者が強調する「切り裂きジャック」テーマで、横溝の作風としては、『幽霊男』(1954年)や『吸血蛾』(1955年)のようなエロティック・スリラー路線といえる。それが、第四の女子高校生殺害事件からあとは、連続殺人ものですらなくなり、二つの家の複雑な人間関係を扱う、こちらも横溝らしい「因果家族もの」になっていく。『犬神家の一族』(1950-51年)や『悪魔が来りて笛を吹く』(1951-53年)の系列である。

 第四の事件の被害者である星島由紀は15歳の不良少女(言い方が古くさい)で、母親が再婚後に亡くなり、義理の父親である医師の佐々木裕介と同居している。裕介のほうは、先妻の麻耶子の友人でもあった画家の中条奈々子と交際中である。

 一方、由紀殺害の容疑者と目されたのが、以前、由紀と駆け落ちまでした過去のある従兄妹の岡戸圭吉で、丘朱之助のペンネームで漫画を描いている25歳の青年である。この後、圭吉が幼い少女を家に連れ込んでサディスティックに苛む精神病質者(とは書いていないが)であることが明らかになる。父親の岡戸竜平は元暴力団のボスで、現在は息子の竜太郎とともにキャバレーなどを手広く展開するやり手実業家であるが、竜太郎の母親が亡くなって、再婚して生まれたのが圭吉で、この再婚相手が麻耶子の先夫である星島重吾の妹の志保子、従って、圭吉と由紀は従兄妹同士という、横溝らしい複雑な家庭環境である。現在、竜平は三人目の妻の操と暮らし、息子の竜太郎は珠美というダンサーあがりの女と結婚している。

 とまあ、これだけ入り組んだ親戚・姻戚関係があって、しかも由紀は父親の重吾から大きな遺産を受け継いでいる。その財産は、由紀が死ねば圭吉に渡ることになるので、物的動機もある。しかも「青蜥蜴(あおとかげ)」の五文字が、岡戸圭吉の「おかど」と丘朱之介の「あけのすけ」のなかに含まれていることが金田一の指摘で判明し、圭吉こそ連続殺人魔であるとの疑いが濃厚となる。

 このような物語の展開で、無差別連続殺人の大筋は一貫しているのだが、長編版は、前半と後半で異なるミステリであるかのような印象を受けるのである。街娼殺しが偽装である以上、やむを得ないともいえるが、前半の娼婦殺害(および未遂)事件が一転して、後半は一族の間での遺産相続をめぐる殺人事件の様相を呈する。無論、「切り裂きジャック」事件が偽装だということは、大半の読者が予想することだろうが、それにしても、作品の雰囲気ががらりと変わりすぎる。しかも、ミステリ的な技巧が凝らされているのは前半の街娼をめぐる事件のほうなので、例えば、第二の事件で、黒づくめの男が非常階段のある路地から出てくるのを見かけた目撃者の証言と、男がホテルにやってきた時間とが食い違う手がかりなどは、本書でもっとも面白い部分だが、由紀殺害事件では、そうした細部の工夫は見られない。つまり、中心となる星島・岡戸家をめぐる事件よりも、前半の街娼殺しのほうがパズル的興味が濃いのである。短編の街娼殺しを中心としたプロットを、長編化に当たって、星島・岡戸家の事件に比重を移した結果なので、仕方のないことではあるが。

 しかし、さらに問題なのは、本書のミステリとしての一貫性も、長編化によって歪みが生じてしまったかに見える点である。短編も長編も犯人は同じで、佐々木と中条の共犯なのだが、短編では、最後の事件で殺されるのは佐々木の妻で、殺人動機を隠すために、先に売春婦を殺害して連続殺人犯の仕業に見せかけるわけである。それに対し、長編版では、由紀殺害の犯人を圭吉に見せかけ、さらに彼がサイコ・キラーであると思わせる目的で売春婦を殺害する。

 しかし、圭吉に由紀殺害の動機があるのであれば、さらに連続殺人魔にまで見せかける必要はないのである。遺産相続という動機があるのだから、わざわざ街娼を殺害する危険を犯してまで、彼をサイコ・キラーに仕立てる必要はない。前半の街娼殺し(および轢き逃げ殺人)の部分が不要に見えてしまうのだ。「切り裂きジャック」をテーマにした短編が基になっているため、構想を根底から変えるわけにはいかなくなってしまったのだろうし、上記のように、前半の工夫を凝らした殺人のトリックを捨てることもできなかったのだろう。その結果、犯人たちが、いかにも無駄な殺人を繰り返しているように映る。これもテーマやプロットが分裂していることによる弊害で、無理やり二つの小説をくっつけたように見えるのだ。

 ただ。後半の星島と岡戸の二家間の複雑な関係は、いかにも横溝らしく、上記に挙げた長編以外にも、『仮面舞踏会』(1962-63年)や最晩年の『病院坂の首縊くりの家』(1975-77年)などを連想させるところがある。横溝は、作品のメモを作らないことで有名であるが、これだけ複雑な家系図をすべて頭に入れていたとすれば、その記憶力は尋常ではない。不謹慎な想像かもしれないが、横溝の生い立ちが、そもそも相当複雑な家族関係であって、腹違いの兄弟姉妹が大勢いた。彼にとっては、こうした幾重にも入り組んだ人間関係は、よく見知った、身近で当たり前のものだったのかもしれない。

 もうひとつの注目点は、第四の被害者の由紀である。既述のように、短編版では、本命となる殺人の被害者は、佐々木の妻の麻耶子(短編版では「敏子」となっている。佐々木裕介も短編では「赤尾登喜次」である。なぜ、このような(変わった)名前なのかは、短編を読んでみてください)である。それが長編では、娘の由紀になっている。ここで重要なのは、母親が娘に変わっていることではない。被害者が十五歳の少女で、しかも犯人の中条奈々子の同性愛の相手だということである。由紀は奈々子の弱み(過去の殺人)を握っていて、彼女を黙らせるために、奈々子は性的関係を結ぶ。しかし、由紀は次第に大胆に、我が物顔にふるまうようになり、秘密を隠し通すには彼女の口をふさぐしかなくなる。それが殺人の動機なのだが、印象的なのは由紀の性格で、つまり、彼女は被害者ではあるが、晩年の横溝が好んで描いた「悪魔のような少女たち」のひとりである。どうやら、横溝は、幼さの残る少女たちのもつ魔性にすっかり魅せられてしまっていたようだ。

 

[i] 「青蜥蜴」『金田一耕助の新冒険』(出版芸術社、1996年)、142-68頁。

[ii] 島崎 博編「横溝正史書誌」『本陣殺人事件・獄門島』(『別冊幻影城』創刊号、1975年9月)、322、341頁。

[iii] 『迷路荘の惨劇』は、1956年の「迷路荘の怪人」が原型。同、321、355頁。

[iv] 同、322頁。

[v]金田一耕助の新冒険』、「作品解説」(浜田知明)、253頁。

[vi] 本書では「切り裂くジャック」と書かれていて、当時は、これが一般的表記だったのですかね。

[vii] 「青蜥蜴」、145、149頁。

[viii] 『夜の黒豹』、7頁。

[ix] 『僕たちの好きな金田一耕助』(『別冊宝島』1375号、2007年)、112頁。

江戸川乱歩『魔術師』

(本書の犯人・トリックのほか、『孤島の鬼』のトリック等に触れています。)

 

 『魔術師』(1930-31年)は、『蜘蛛男』(1929-30年)に続いて『講談倶楽部』に連載された長編ミステリである。連載が開始された1930年は、ジョン・ディクスン・カーが『夜歩く』で英米デビューを飾った年で、ヴァン・ダインが第五長編の『甲虫殺人事件』を、エラリイ・クイーンが第二長編の『フランス白粉の謎』を発表している。まあ、それらと比較するのも気の毒だが、著者自身は、「私の通俗長篇のうちでは、やや纏まりのよいものの一つ」[i]と、控えめながら自信を示している。これを受けて、創元推理文庫版の解説を担当した有栖川有栖も「まとまりのよさという点で頭ひとつ抜き出ている」[ii]と断言している。

 だが、冒頭の密室殺人事件の謎は、解決も検討もされないまま放置され、以後、時計塔の針に首をへし折られそうになったり、奇術の舞台で観衆の面前で被害者の四肢を切断するなど、胸が悪くなりそうな残酷でショッキングな殺人場面が描かれて、すっかり猟奇スリラーとなる。犯人の「魔術師」が自殺したあと、再びまた同じ密室殺人が繰り返されて、読者に、ああ、そんなのがあったっけ、と思い出させる演出は意図したものなのか。ミステリの謎が、完全にほったらかしというのは、作品の構成としてどうなのか。

 また、本長編での明智小五郎(言い忘れたが、本書は明智小五郎シリーズのひとつ)は、悪逆非道な「魔術師」を前に、悠然と豪もたじろがず、莞爾として笑顔を浮かべて動じないのはあっぱれであるが、窮地を切り抜ける手立ては一切思いつかず、ピンチを脱するのはすべて敵の娘である文代の裏切りのおかげというのは、攻撃と反撃のアクション・ミステリが、こんな雑なアイディアの繰り返しでいいのだろうか。

 しかしまあ、連載長編を書き始めて、まだ日が浅い時期なので、トリックも殺人のアイディアも新味はないとはいえ、乱歩自身が執筆に飽きてはいないので、独特の文体にも乱歩らしさがあふれて、まだマンネリズムに陥ってはいない。玉村二郎が恋人の花園洋子[iii]の行方を探しあぐねて、さ迷い歩くうちに奇怪な小劇場に行き当たる場面などは(どんな偶然だ、とは思うが)、乱歩ならではの語り口に魅了される[iv]

 まとまりという点では、上記で触れた、明智が文代に助けられてばかりいるのが、名探偵にしては情けなさすぎるが、逆に首尾一貫しているといえなくもない。つまり、明智と文代の恋愛物語として読むこともできるということだが、乱歩には、最初から「名探偵の恋愛」というテーマが頭にあったのだろうか。小説冒頭の湖畔の場面では、玉村妙子に対する明智の恋心が強調されているが、こちらは明らかに読者の疑いをそらすことが狙いで、ということは、最初は、読者に対するミスディレクションとして「名探偵の恋愛」をもってきたのだろうか。ちょうど、『蜘蛛男』で、明智の登場を遅らせることで、畔柳博士と蜘蛛男の対決を強調して読者の眼を眩まそうとしたのと同じ効果を、明智と妙子の恋愛話で目論んだように見える。しかし、それなら、もうちょっと妙子とのラヴコメを引っ張ったほうがよかったろう。生憎、早々に明智が文代に目移りし始めるので、この騙しの仕掛けは、あまり効いていない。乱歩としても、明智のような名探偵が、いつまでも妙子の手練手管にデレデレして、本性を見抜けないようでは、本当に情けない探偵に落ちぶれてしまうので、そこを危惧したのだろうか。だとしても、明智が簡単に妙子から文代に心変わりしてしまっては、かえって妙子に疑いが向いてしまうが、それも最初からの狙いだったのか。まあ、かりに当初の計算どおりではなかったとしても、おかげで、本書は全編を通じて、明智と文代の初心(うぶ)な恋愛ラプソディの様相を呈することになった。

 密室殺人のほうは、犯人(共犯者のほう)の設定からして『孤島の鬼』(1929-30年)の変形で、少々興が削がれる。ただ密室のトリック自体[v]は、方法は異なるが、横溝正史の戦後長編(題名を注で挙げます)[vi]に影響を与えているようにみえるところが興味深い。ただし、気になる点があって、作品終盤の第二の密室殺人の状況は、廊下を書生が見張っているのだから、第一の密室と同じ方法は取れないのではないか。共犯者が○○から廊下に出てきたら、誰だってギョッとするだろう。大体、第一の殺人も、被害者は一人暮らしの老人で、同居する家族親族はいない(二郎青年だけが、警備のために泊まり込んでいる)。つまり、犯人は、密室状態の寝室に脅迫の手紙を届けるにも、そして殺人当日にしても、真夜中にわざわざ出かけていかなければならない。ご苦労千万な話だが、深夜、二人そろって家を抜け出して、本当に誰にも気づかれなかったのだろうか。

 それ以前に、犯人の動機が、そして、「魔術師」がこの犯人と意を通じて実行犯に仕立てた経緯が、どう考えても無理やりなことは、とうに指摘されている[vii]ことだが、やっぱり、どう考えても無理やりだった。しかし、例えばジョン・ディクスン・カーの代表作のひとつ『曲がった蝶番』(1938年)も、意外な共犯者の組み合わせが、相当強引で説得力がない。『魔術師』の共犯関係の無理は、程度の差で済まされることではないとはいえ、ミステリではありがちなことで、乱歩だけの欠点ではないようだ。

 このほかに気になる点といえば、ミステリにおける叙述の作法の問題がある。玉村家に引き取られている進一少年について、「家族一同の苦しみを、・・・恐怖もし心配もしていたのだ」[viii]と作者視点の地の文で描写されている。しかし、これは進一少年の設定を考えると、読者を意図的に誤導するアンフェアな、あるいは少なくとも、曖昧な文章である(それとも本当に無邪気(?)なので、というか、少々アレな少年なので、実際にそんな風に感じていたのだろうか)。

 また、最後の最後に、妙子が明智に指定された屋敷を訪ねて、犯人の姿を目にする場面は怪奇小説風で、本書で最も面白い個所だが[ix](同時に皮肉味もある)、ここでも、妙子の視点で、「早く敵の顔が見たいという憎しみ、一体誰だろうという好奇心」[x]とか、「犯人の隙見をあきらめる気にはなれぬ」[xi]、「もう少しで、ほんの数秒の後には、真犯人を見ることができるのだ」[xii]といった内面描写をしているのは問題である。この場面で妙子が「敵」、「犯人」と内心思っているのは、一体誰のことだろう。この点の説明がないようでは、彼女の心理に矛盾があると言わざるを得ない。もちろん、書き方によっては、アンフェアにならずに読者を誤解させる文章のトリックになりうるが(「明智の考える真犯人とは誰だろう、と妙子は思った」、という風に)、原文のままでは、単に読者を欺く嘘と捉えられてしまうだろう。もう少し文章を考えてほしかった気がする。

 とはいえ、この時代の乱歩、あるいはミステリ作家たちは、そこまでミステリのフェア、アンフェアの問題を重大に捉えてはいなかったのだろう。いろいろと不満はあるが、『魔術師』は、展開の速さとわかりやすいプロットに適度な謎解き要素をまぶして、乱歩長編の代表作にふさわしい素敵に面白い小説になっている。それでいて、乱歩短編の変な凄味を味わい返せるエピソードが諸所に配されて、単なる大ざっぱな通俗ミステリに終わっていない。

 乱歩体験は、依然としてスリルと興奮に満ちている。

 

[i] 江戸川乱歩「自注自解」『魔術師』(創元推理文庫、1993年)、326頁。

[ii] 同、「解説」(有栖川有栖)、327頁。

[iii] 『蜘蛛男』でも、ヒロインなのに、散々ひどい目に合って最後は殺されてしまうのが富士洋子だった。乱歩は、「洋子」という名に、うらみでもあったのだろうか。

[iv] 『魔術師』、120-21頁。

[v] ドアの上の細い小窓について、作中で、まったく触れられていないのは、ずるいなあ、と思うが、別の箇所(「魔術師」の屋敷の描写のところ)で、言及がある。『魔術師』、163頁。これも一応伏線のつもりだったのだろうか。

[vi] 横溝正史悪魔が来りて笛を吹く』(1951-53年)。

[vii] 『魔術師』「解説」、332頁。

[viii] 同、269頁。

[ix] H・P・ラヴクラフトの「アウトサイダー」みたいだな、とも思った。

[x] 『魔術師』、298頁。

[xi] 同、299頁。

[xii] 同、300頁。

横溝正史『悪魔の百唇譜』

(本書および短編の「百唇譜」の犯人その他について、またジョン・ディクスン・カーおよび高木彬光の長編小説のトリックについて注で触れていますので、ご注意ください。)

 

 「百唇譜」などという、いかにもエロティックでいかがわしくて、読まずにいられないタイトルの短編が書かれたのは1962年1月で、その10か月後には、長編に書き伸ばした『悪魔の百唇譜』が東京文藝社から出版された。

 同社からは、「続刊金田一耕助推理全集」が1961年に第10巻『獄門島』まで刊行されたあと、翌年、『貸ボート十三号』を皮切りに五冊の横溝作品集が公刊されているが、唯一新作長編として出たのが本書だったようだ[i]。他の四冊に収録の諸編は既刊のものばかりで、短編の引き伸ばしとはいえ、新作書下ろしだったということは、作者が乗り気になって執筆を出版社に提案したのだろうか。

 この時期の横溝が探偵小説にそれほどの情熱を抱いていたか疑問ではあるが、読んでみると、なかなか手の込んだ長編ミステリになっている。

 テーマは冒頭のとおり、関係をもった女性の唇から魚拓ならぬ、唇拓(?)を取って恐喝材料とする元人気歌手で下衆男の死にまつわる話。実際は隠し撮りの写真をゆすりのネタにするのだが、それだけではありふれているので、百唇譜などという「暗示的」でけったいな代物を考案したようだ。

 脅迫者だった都築克彦は、すでに何者かに殺害されているが、かつて唇紋を取られた女たちに対する恐喝が再び始まったらしい。その一人である本郷朱実の刺殺死体が車のトランクから発見されるのが発端である。朱実は中国人実業家の李泰順の愛人で、車は李と朱実が住む家にほど近い路上に停められていた。李の乗用車だが、故障で動かなくなっている。朱実は外出着を着ており、どうやら自宅から出ようとしたところを殺害され、犯人は死体を運び出そうとしたが、途中でエンストしたらしい。自宅には、人が争った痕跡が残されていた。

 当然、疑いは当日大阪に出かけた李にかかるが、実際に彼は怪しい行動を取っており、李の会社の入っているビルの外に駐車してあった乗用車が盗難にあっている。その車はやがて見つかるが、今度はその車のトランクから十代の男性の死体が発見される。男は園部隆治という名で、都築の死体の発見者であった。しかも彼は都築のファンであり愛人であり、そして都築のあとを継いだ恐喝者であったこともわかってくる。さらに都築の住んでいたアパートの管理人である藤野磯吉、李の部下の坂巻啓蔵といった一癖ありげな登場人物が絡んできて、かなり複雑なストーリーである。

 原型版の「百唇譜」[ii]は短編なので、当然、もっと単純な構成で、死体も朱実のみである。園部や坂巻などは登場しない。メイン・アイディアは、朱実の死体を乗せた車が停められた位置に関する謎で、要するに、横溝が大好きなジョン・ディクスン・カーの代表長編(注で書名を挙げます[iii])のトリックの変形である。いわゆる「死体移動トリック」なのだが、そこに逆説の発想を盛り込んでいる。すなわち、家から運び出そうとしたのではなく、家に運び入れようとしたのである。しかるに、車が故障したため、死体を運び出そうとしたかに見せる偽装を施したというわけなのだ(本当の殺害現場を隠すため)。このアイディアは、高木彬光の代表作(注で書名を挙げます[iv])をも連想させるのだが、どうやら、カーと高木の両作品からヒントを得たように思える。

 短編版は、このトリックを中心にしつつ、もうひとつ、ハートのクイーンとジャックのトランプ・カードが発見され、真ん中に裂け目があって、凶器のナイフで貫いた跡とわかる。有名な黒岩涙香の『死美人』からの引用で、決定的な手がかりというわけではないが、犯人暴露に繋がる趣向である[v]

 以上の短編版に対し、長編『悪魔の百唇譜』[vi]のほうは、犯人が変更されているばかりか、事件そのものが大きく変えられている。二人目の被害者の園部が、朱実と同様に車のトランクから発見される展開は、ミステリとしての狙いも修正されていることを示している。朱実の死体が李宅へ運び込まれる途中で、車の故障により犯人の計画が狂う展開は同じだが、園部の死体が加わることで、死体移動のトリックはあまり目立たなくなり、複数の乗用車を使ってプロットを複雑化する方向に方針が変わっている。朱実が乗って出たオースチン、李がくすねて園部の死体が入っていたトヨペット、容疑者の一組が所有するブルーバードと、三台の車を将棋の駒のように動かして、入り組んだ犯罪工程を組み上げていく手際は、相変わらず巧みである。横溝は執筆に当たってメモを取らないことで有名[vii]だが、この車と人間のややこしい配置と移動も頭のなかだけで考えたのだろうか。

 しかし、比重が「死体移動トリック」から「複数の自動車の動きを追うプロット」に移ったため、上記の通り、死体移動トリックに関する部分が、少々なおざりにされてしまった。短編版では、朱実の死体が最初後部座席に置かれていて、後にトランクに移されたことが判明すると、なぜそんな手間をかけたのか、つまり、なぜ最初からトランクに詰めなかったのか、という謎が提起される。金田一が面白い推理を披露するのだが、それが長編版ではカットされている[viii]

 主題の変更に合わせて、犯人も単独犯(ただし事後工作者が絡む)から二人組に変わった。うち一人は、文庫本で200頁になって、ようやく登場するが(名前だけはその前に出てくる)、そもそも短編版には登場しないので、取って付けたような犯人ではある。『扉の影の女』(1961年)ほど、ひどくはないが。それ以上に問題は、動機の不鮮明さで、一体犯人たちが何を目的としているのかがわかりにくい。恐喝の証拠を奪い取るためなのか、殺人の罪を李に着せるためとしても、余計な手間をかけすぎる。長編化によるデメリットが、このあたりに出てきているように思われる。

 ただ、『僕たちの好きな金田一耕助』では「トリックや解決法に特筆すべきことはない」[ix]の一言で片づけられてしまったが、死体移動トリックにしても、カーを丸写しするのではなく、この時期になっても、まだ新らしさを出そうと工夫している点は評価できる。複数の乗用車を動かすアイディア[x]は、角川文庫版解説で中島河太郎が触れており[xi]、さすがは河太郎先生である。

 事後工作者を複数配してプロットを作っている『仮面舞踏会』(1974年)を連想させるところもある。同長編も同じ1962年に連載されているのは興味深い(翌年中絶したが、1974年に完成)。登場人物を自在に動かすのは横溝の最も得意とするテクニックだが、それを自動車に応用してみせたのが本書ということかもしれない。ただ、その動かし方がやたら複雑で、その割に、ミステリとして面白いのかと言われると、ごたごたしていて、そうでもない。低い評価にも、もっともな点がある。それに、自動車を動かすということは、結局、それを運転する人間を動かすということで、本書の犯人は、致命的なトラブルに見舞われながら、それを臨機応変に切り抜けようとするのだが、えらく手際が良い。良すぎるくらいで、犯人ばかりでなく、登場人物が互いに互いの後を付け回しあって、少しの無駄もなく動き回るのは、やはり、ちょっと都合がよすぎる。車の故障が犯人の計画を狂わせ、それが事件を難しくするアイディアは良いのだが、それに対処する犯人たちの動きが、偶然に恵まれすぎて無理も多い。いたずらに事件の真相が複雑になって、ミステリとして単純明快な魅力に欠ける結果になってしまったようだ。

 とはいえ、その複雑さは「考えられた作品」であることの証左でもあり、この時期は惰性で書いていたと、本人は謙遜するかもしれないが、これだけのプロットを組み立てるのは、経験だけでは無理で、才能がものをいう。上記のとおり、頭の中だけで構成したのだとすれば、大した頭脳で、横溝の頭は多分完全に理系脳だったのだろう。どれだけきれいに情報が区分けされていたのか、覗いてみたいくらいだ。

 この時期の書下ろし長編は、『壺中美人』(1960年)などもそうだが、奇抜なトリックではなく(事件や登場人物は奇抜だが)、比較的現実味のある犯罪を描くようになってきたといえる。それが、社会派推理小説の隆盛に合わせた方向性の変化であったのかはわからないが、少なくとも、『悪魔の手毬唄』(1957-59年)などに比べて、派手な演出の少ない日常的なミステリになっているのは確かである。そうした変化は、横溝の良さ(良い意味(?)でのこけおどし的装飾)を消してしまっているともいえるし、別な魅力を引き出して見せているともいいうる。書下ろし長編も馬鹿にならないですよ、と結論しておこう。

 ところで、本書で自動車を使った筋立てを考案しているのは、横溝の私生活を考えると、ちょっと面白い。正史が閉所恐怖症で乗り物恐怖症なことは、ファンならお馴染みである。電車などは、わざわざ各駅停車を選んで、一駅ごとに途中下車して休憩したというが、乗用車なら、いつでも止められるので、好んで利用するようになったそうである[xii]。本書も、そうした自動車偏愛症(?)がもたらした成果だったのだろうか。

 

[i] 島崎 博編「横溝正史書誌」『本陣殺人事件・獄門島』(『別冊幻影城』、1975年9月)、339-41頁。

[ii] 「百唇譜」『金田一耕助の新冒険』(出版芸術社、1996年)、107-41頁。

[iii] ジョン・ディクスン・カー『帽子収集狂事件』(1933年)。

[iv] 高木彬光『刺青殺人事件』(1948年)。

[v] 「百唇譜」、139頁。

[vi] 『悪魔の百唇譜』(角川文庫、1976年)。

[vii] 横溝正史小林信彦横溝正史の秘密」『横溝正史読本』(小林信彦編、角川書店、1976年)、54頁。

[viii] 「百唇譜」、135-36頁。

[ix] 『僕たちの好きな金田一耕助』(『別冊宝島』1375号、2007年)、105頁。

[x] このアイディアは、『壺中美人』(1960年)でも部分的に用いられている。

[xi] 『悪魔の百唇譜』、246頁。

[xii] 「私の乗物恐怖症歴」『探偵小説五十年』(講談社、1977年)、254-57頁、「横溝正史の秘密」69-70頁。