江戸川乱歩『魔術師』

(本書の犯人・トリックのほか、『孤島の鬼』のトリック等に触れています。)

 

 『魔術師』(1930-31年)は、『蜘蛛男』(1929-30年)に続いて『講談倶楽部』に連載された長編ミステリである。連載が開始された1930年は、ジョン・ディクスン・カーが『夜歩く』で英米デビューを飾った年で、ヴァン・ダインが第五長編の『甲虫殺人事件』を、エラリイ・クイーンが第二長編の『フランス白粉の謎』を発表している。まあ、それらと比較するのも気の毒だが、著者自身は、「私の通俗長篇のうちでは、やや纏まりのよいものの一つ」[i]と、控えめながら自信を示している。これを受けて、創元推理文庫版の解説を担当した有栖川有栖も「まとまりのよさという点で頭ひとつ抜き出ている」[ii]と断言している。

 だが、冒頭の密室殺人事件の謎は、解決も検討もされないまま放置され、以後、時計塔の針に首をへし折られそうになったり、奇術の舞台で観衆の面前で被害者の四肢を切断するなど、胸が悪くなりそうな残酷でショッキングな殺人場面が描かれて、すっかり猟奇スリラーとなる。犯人の「魔術師」が自殺したあと、再びまた同じ密室殺人が繰り返されて、読者に、ああ、そんなのがあったっけ、と思い出させる演出は意図したものなのか。ミステリの謎が、完全にほったらかしというのは、作品の構成としてどうなのか。

 また、本長編での明智小五郎(言い忘れたが、本書は明智小五郎シリーズのひとつ)は、悪逆非道な「魔術師」を前に、悠然と豪もたじろがず、莞爾として笑顔を浮かべて動じないのはあっぱれであるが、窮地を切り抜ける手立ては一切思いつかず、ピンチを脱するのはすべて敵の娘である文代の裏切りのおかげというのは、攻撃と反撃のアクション・ミステリが、こんな雑なアイディアの繰り返しでいいのだろうか。

 しかしまあ、連載長編を書き始めて、まだ日が浅い時期なので、トリックも殺人のアイディアも新味はないとはいえ、乱歩自身が執筆に飽きてはいないので、独特の文体にも乱歩らしさがあふれて、まだマンネリズムに陥ってはいない。玉村二郎が恋人の花園洋子[iii]の行方を探しあぐねて、さ迷い歩くうちに奇怪な小劇場に行き当たる場面などは(どんな偶然だ、とは思うが)、乱歩ならではの語り口に魅了される[iv]

 まとまりという点では、上記で触れた、明智が文代に助けられてばかりいるのが、名探偵にしては情けなさすぎるが、逆に首尾一貫しているといえなくもない。つまり、明智と文代の恋愛物語として読むこともできるということだが、乱歩には、最初から「名探偵の恋愛」というテーマが頭にあったのだろうか。小説冒頭の湖畔の場面では、玉村妙子に対する明智の恋心が強調されているが、こちらは明らかに読者の疑いをそらすことが狙いで、ということは、最初は、読者に対するミスディレクションとして「名探偵の恋愛」をもってきたのだろうか。ちょうど、『蜘蛛男』で、明智の登場を遅らせることで、畔柳博士と蜘蛛男の対決を強調して読者の眼を眩まそうとしたのと同じ効果を、明智と妙子の恋愛話で目論んだように見える。しかし、それなら、もうちょっと妙子とのラヴコメを引っ張ったほうがよかったろう。生憎、早々に明智が文代に目移りし始めるので、この騙しの仕掛けは、あまり効いていない。乱歩としても、明智のような名探偵が、いつまでも妙子の手練手管にデレデレして、本性を見抜けないようでは、本当に情けない探偵に落ちぶれてしまうので、そこを危惧したのだろうか。だとしても、明智が簡単に妙子から文代に心変わりしてしまっては、かえって妙子に疑いが向いてしまうが、それも最初からの狙いだったのか。まあ、かりに当初の計算どおりではなかったとしても、おかげで、本書は全編を通じて、明智と文代の初心(うぶ)な恋愛ラプソディの様相を呈することになった。

 密室殺人のほうは、犯人(共犯者のほう)の設定からして『孤島の鬼』(1929-30年)の変形で、少々興が削がれる。ただ密室のトリック自体[v]は、方法は異なるが、横溝正史の戦後長編(題名を注で挙げます)[vi]に影響を与えているようにみえるところが興味深い。ただし、気になる点があって、作品終盤の第二の密室殺人の状況は、廊下を書生が見張っているのだから、第一の密室と同じ方法は取れないのではないか。共犯者が○○から廊下に出てきたら、誰だってギョッとするだろう。大体、第一の殺人も、被害者は一人暮らしの老人で、同居する家族親族はいない(二郎青年だけが、警備のために泊まり込んでいる)。つまり、犯人は、密室状態の寝室に脅迫の手紙を届けるにも、そして殺人当日にしても、真夜中にわざわざ出かけていかなければならない。ご苦労千万な話だが、深夜、二人そろって家を抜け出して、本当に誰にも気づかれなかったのだろうか。

 それ以前に、犯人の動機が、そして、「魔術師」がこの犯人と意を通じて実行犯に仕立てた経緯が、どう考えても無理やりなことは、とうに指摘されている[vii]ことだが、やっぱり、どう考えても無理やりだった。しかし、例えばジョン・ディクスン・カーの代表作のひとつ『曲がった蝶番』(1938年)も、意外な共犯者の組み合わせが、相当強引で説得力がない。『魔術師』の共犯関係の無理は、程度の差で済まされることではないとはいえ、ミステリではありがちなことで、乱歩だけの欠点ではないようだ。

 このほかに気になる点といえば、ミステリにおける叙述の作法の問題がある。玉村家に引き取られている進一少年について、「家族一同の苦しみを、・・・恐怖もし心配もしていたのだ」[viii]と作者視点の地の文で描写されている。しかし、これは進一少年の設定を考えると、読者を意図的に誤導するアンフェアな、あるいは少なくとも、曖昧な文章である(それとも本当に無邪気(?)なので、というか、少々アレな少年なので、実際にそんな風に感じていたのだろうか)。

 また、最後の最後に、妙子が明智に指定された屋敷を訪ねて、犯人の姿を目にする場面は怪奇小説風で、本書で最も面白い個所だが[ix](同時に皮肉味もある)、ここでも、妙子の視点で、「早く敵の顔が見たいという憎しみ、一体誰だろうという好奇心」[x]とか、「犯人の隙見をあきらめる気にはなれぬ」[xi]、「もう少しで、ほんの数秒の後には、真犯人を見ることができるのだ」[xii]といった内面描写をしているのは問題である。この場面で妙子が「敵」、「犯人」と内心思っているのは、一体誰のことだろう。この点の説明がないようでは、彼女の心理に矛盾があると言わざるを得ない。もちろん、書き方によっては、アンフェアにならずに読者を誤解させる文章のトリックになりうるが(「明智の考える真犯人とは誰だろう、と妙子は思った」、という風に)、原文のままでは、単に読者を欺く嘘と捉えられてしまうだろう。もう少し文章を考えてほしかった気がする。

 とはいえ、この時代の乱歩、あるいはミステリ作家たちは、そこまでミステリのフェア、アンフェアの問題を重大に捉えてはいなかったのだろう。いろいろと不満はあるが、『魔術師』は、展開の速さとわかりやすいプロットに適度な謎解き要素をまぶして、乱歩長編の代表作にふさわしい素敵に面白い小説になっている。それでいて、乱歩短編の変な凄味を味わい返せるエピソードが諸所に配されて、単なる大ざっぱな通俗ミステリに終わっていない。

 乱歩体験は、依然としてスリルと興奮に満ちている。

 

[i] 江戸川乱歩「自注自解」『魔術師』(創元推理文庫、1993年)、326頁。

[ii] 同、「解説」(有栖川有栖)、327頁。

[iii] 『蜘蛛男』でも、ヒロインなのに、散々ひどい目に合って最後は殺されてしまうのが富士洋子だった。乱歩は、「洋子」という名に、うらみでもあったのだろうか。

[iv] 『魔術師』、120-21頁。

[v] ドアの上の細い小窓について、作中で、まったく触れられていないのは、ずるいなあ、と思うが、別の箇所(「魔術師」の屋敷の描写のところ)で、言及がある。『魔術師』、163頁。これも一応伏線のつもりだったのだろうか。

[vi] 横溝正史悪魔が来りて笛を吹く』(1951-53年)。

[vii] 『魔術師』「解説」、332頁。

[viii] 同、269頁。

[ix] H・P・ラヴクラフトの「アウトサイダー」みたいだな、とも思った。

[x] 『魔術師』、298頁。

[xi] 同、299頁。

[xii] 同、300頁。