江戸川乱歩『吸血鬼』

(本書の犯人等の内容を明かしていますので、ご注意ください。)

 

 江戸川乱歩の『吸血鬼』(1930-31年)には、吸血鬼は出てこない。九割方読み終わった(言うまでもないが、再読)あたりで、ふと思ったのが、何でこの小説は「吸血鬼」という題名だったのだろうということであった。そう思ったとたんに、出てきました。犯人を指して「鬼だ。人外の吸血鬼だ」[i]というのだが、確かに吸血鬼は人外で、そんなことは言われずともわかるという揚げ足取りはともかく、言い方がまた乱歩らしくてうれしくなる。しかし、本書の犯人に「吸血鬼」という形容は、果たしてふさわしいだろうか[ii]。血を吸わないのは当然だが、それほどおしゃれでもないし、八重歯とも書いていない。復讐が犯罪動機なのだが、復讐欲に取り憑かれているからといって、吸血鬼みたいとは言わないだろう。要するに無理やりなタイトルというほかないのだが、内容も無理やりなことでは、乱歩長編のなかでも定評ある(?)作品である。

 大内茂男の「華麗なユートピア[iii]は、乱歩の全長編小説の分析という暇人、いや、大変な労作だが、『吸血鬼』は、「話の首尾一貫しないことも、また随一である」[iv]と評されている。散々な言いようだが、そもそも大内の評価では、乱歩長編は「実に支離滅裂な作品が多かった」[v]と総論でも述べられているのに-そんな風に思っているのなら、検討作業などよせばいいのに、と思わないでもない-、さらに支離滅裂だということであるから、これは大変だ。

 最初に読んだ何十年か前には、(他の作品に比べて)そこまでとは感じなかったので、今回その辺に注意して読んでみたのだが、なるほど、支離滅裂でした。

 書き出しは、温泉地の旅館の一室で、何やら二人の男が深刻に対峙する光景から始まる。二人の男-岡田道彦と三谷房男-は、一人の女一柳倭文子-をめぐって命がけの決闘をしようというのだ。ふたつ置かれたコップのひとつを呷った三谷は、自分が毒入り(!)を選んでしまったのか、と一瞬絶望するが、恐怖に青ざめたのは相手のほうだった。残ったグラスを飲み干す勇気もないまま、岡田は悄然と姿を消し、残された三谷が倭文子を勝ち取る。ところが彼女には秘密があって、すでに結婚して子供まであるというのだが、それよりもなによりも、夫だった畑柳は獄死していた。法の網をかいくぐって富を築いてきた悪徳実業家だった男だが、ついに罪が露見して捕えられ、獄中で死亡したというのである。そんな過去の秘密はあれども、しかし、もはや三谷との恋に障害はないはずだったが、ことはそれだけで終わらなかった。その地を去ったはずの岡田が、顔の見極めもつかない水死体(ということは・・・)となって発見され、温泉地はざわめきたつ。続いて今度は、唇のない蛭田峯蔵と名乗る不気味な男が旅館に現れ、ある晩、露天風呂で三谷と倭文子を盗み見ていたことがわかる。そして東京に戻った彼らの周囲で、さらに恐るべき怪事件が起こり始める。

 という具合で物語が転がり始めるのだが、冒頭の決闘場面からして、温泉町のどこで毒を調達したんだと突っ込みたくなるように、まあ、突拍子もないのは確かではあるが、この辺はまだ探偵小説として許容範囲である。いきなり乱歩の大好きな決闘シーンで始まり、相変わらずだなあ、と思う一方、心理闘争のスリルを描く書き出しは、『蜘蛛男』のような怪異な幕開けではなく、おや、今回はもっとリアルな路線で行くのかな、とも思わせる。しかし、この後がすごい。

 突然息子の茂が誘拐されて(!)、三谷が倭文子の代わりに女装して(!)取引場所に出向くが、犯人は現れず、かえって倭文子がさらわれてしまう。いよいよ明智小五郎が登場すると、早速恋人の文代までが連れ去られ、国技館の菊人形展会場で怪人と探偵の対決となる。薄暗がりの建物内を敵はピョンピョンと逃げ回り(これも乱歩らしい)、最後は気球(?)に乗って逃亡する。実にもって乱歩的怪人、というか、まさに怪人二十面相のごとき逃走劇である。気球が海上に漂着すると、警察のランチを追い抜いて、謎のモーターボートが接近する。ボートの乗り手、実は三谷で、怪人との格闘になるが、そこで、突然モーターボートが爆発するのである。なんで?と思うが、もちろん、そうしないと話の都合上、困るからである。そのほかにも、殺人あり、死体消失あり、と盛りだくさんの内容で、結局、何が問題かといえば、個人的復讐が動機の犯罪なのに、やっていることは蜘蛛男とおんなじなのである。そもそも最初の場面からして、復讐相手の女のために命を懸けるとか、一体何がしたいのかと思う、しっちゃかめっちゃかの大暴れで、その挙句に、亡き兄を裏切った倭文子に思い知らせてやりたかったのです、などと言われても、これじゃ、完全に頭のおかしいやつだよ、という有様なのだ。確かに、支離滅裂と言われても仕方がない。

 『蜘蛛男』は、一種の愉快犯でサイコ・キラーだから、その行動に矛盾はなかった(いや、ないわけでもないが)、しかし、本書の犯人は、ある意味、普通の常識的な(?)殺害動機をもっているはずなのに、実際の行動がこれだから、困るのである。

 ただ、一応謎解き小説らしい仕込みは随所でされていて、例えば前半、両側に高い塀がそびえる通りに逃げ込んだ犯人が一瞬のうちに姿を消してしまう。道の向こうからは、三谷青年が歩いてくる[vi]。はは~ん、と思わせるのだが、実はマンホールに仕掛けがあって、塀の向こうの屋敷に地下で通じていることを明智が解き明かす[vii]。見え透いた撒き餌ではあるが、ガストン・ルルウなどの古典的消失トリックの二番煎じとはいえ、そのまま丸写しにはしていない。作者もひととおりは考えているわけで、そこは認めてあげなければならない(大乱歩に失礼な言い方ですが)。

 このほかにも、上記のとおり、岡田らしいが顔の見分けのつかない死体が発見されると、入れ替わりに蛭田という、名前からして怪しい人物が登場するので、当然多くの読者が、こいつが岡田に違いないと推測するはずだが、作者はそれを見越して、意外な人物を用意している。意外というより、ものすごく強引な設定なのだが、冒頭に一応伏線は張ってある[viii]。張ってはいるが、伏線というには雑過ぎて、やっぱり強引すぎるが。

 つまり本書が支離滅裂とは、作者自身認めていることではある[ix]のだが、例えば上記の犯人消失のトリックでも、ばねの付いた靴でビヨーンと塀を飛び越えるなどという、ひどいものではない。動機もトリックも、一応矛盾のないように考えられてはいるのである。しかし、そのトリックが空想的なうえに使い古したもので、かつ犯人の行動が非常識で常識的心理に反しているのである。

 最後の倭文子殺しの場面では、なんと自作の「人間椅子」をそのまま転用した奇想天外な密室トリックが出てくる。「人間椅子」は、あまりに着想が突飛だったので、最後は「嘘」で逃げたと弁明していたはずの乱歩が[x]、本書では、堂々と密室殺人のトリックに使っている。通俗ものだからとか、素人の読者が相手だからという言い訳なのだろうが、代表作と自負する短編を躊躇も臆面もなく自ら茶化す態度は、ある意味、あっぱれではあるが、さすがにどうかと思う。「陰獣」(1928年)でも自作のパロディ化をやっていたとはいえ、メタ・ミステリ的趣向というには、あんまりな暴挙である。

 もっとも、乱歩は通俗ミステリの読者を見くびっていたかもしれないが、読者たる一般大衆も、多くはわかったうえで面白がって愛読していたのではないだろうか。当時の読者のほうが大人で、知った風な顔で、やたらと揚げ足を取る現代の読み手のほうが子どもなのかもわからない(え、誰のこと?)。

 それに、何だかんだいって、最後にはなんとかまとめてしまうのが乱歩である。結末も考えないまま、あやふやに書き始めるのが常だったと言いながら、あれだけいろいろ見せ場を工夫して筋をつくって、そして最後は大団円にもっていく。これはもう天才としか思えない(皮肉を言っているわけではありません。本当に天才です)。

 小説としての『吸血鬼』については、都筑道夫が、なかなか厳しいことを言っていて、ストーリー展開がいい加減だ、というのは大内の意見と同一だが、ほかにも、描写がない、とか、まるで児童読み物だ、とか[xi]。最後の二つは『吸血鬼』だけを指してのものではないが、乱歩宅で何度もご馳走してもらっておいて、ひどい言い草である[xii]。それでも、中盤の国技館の菊人形大会の場面は、わりあい描写されている[xiii]、と述べている。読んでみると、情景描写がさほど詳しいわけではないが、暗闇で人形たちが蠢めいているかのような恐怖心理は、乱歩が好きでたまらない場面だから、そこは筆も走ったのだろう。

 しかし、個人的に、それよりも印象に残ったのは、序盤の畑柳邸から犯人が逃亡するシーンで、警察の追跡を尻目に、ひと気のないお屋敷町をマント姿の怪人が走り抜ける[xiv]。これぞまさしく乱歩的怪人の乱歩的逃走なのだが、この辺りの描写は萩原朔太郎の詩「殺人事件」[xv]を連想させる。このあと、上記の人間消失場面になるのだが、その謎よりもなによりも、月の下をすべるように走り去る曲者のイメージは、「殺人事件」さながら、そして、やっぱり怪人二十面相さながらで、乱歩を読む楽しさは、こういった場面を読む楽しさでもあるようだ。

 

[i] 『吸血鬼』(『江戸川乱歩長編全集6』、春陽堂、1972年)、313頁。

[ii] もっとも、『蜘蛛男』にしても、なんで「蜘蛛」なのか、あまり意味はなさそうだ(多分、罠を張って獲物を待ち構えている、とかなのだろうが)。

[iii] 大内茂男「華麗なユートピア」(『幻影城増刊 江戸川乱歩の世界』、1975年7月)、215-35頁。

[iv] 同、222頁。

[v] 同、216頁。

[vi] 『吸血鬼』、64-65頁。

[vii] 同、85頁。

[viii] 同、29頁。獄中で死亡した、と記述しておいて、あとになって、実は生きていました、というのは、あまりといえばあんまりである。それを見越しての先回りか、作中の警部の発言が読者の気持ちを代弁している-「小説ではあるまいし(後略)」。同、274-75頁。

[ix] 『探偵小説四十年(上)』(光文社、2006年)、424頁。

[x] 江戸川乱歩「楽屋噺」『謎と魔法の物語 自作に関する解説』(江戸川乱歩コレクション・Ⅵ、河出文庫、1995年)、43-44頁。

[xi]都筑道夫の読ホリデイ 上巻』(フリースタイル、2009年)、353、355-56頁。

[xii] 同、354頁。

[xiii] 同、356頁。

[xiv] 『吸血鬼』、62頁。

[xv] 萩原朔太郎と乱歩の交友、朔太郎の詩(とくに「猫町」)に対する乱歩の偏愛は、ミステリ・ファンなら知らぬ人のない有名な事実である。『探偵小説四十年(上)』、206-18頁、「猫町」(1948年)『幻影城』(講談社、1987年)、349-59頁。「殺人事件」は、『月に吠える』(1917年)収録だが、同作に関する乱歩の発言は残っていないようだ。わたしが「殺人事件」を知ったのは次の小説からで、一読をお勧めしたい。中井英夫「干からびた犯罪」(1980年)『名なしの森』(河出書房新社、1985年)、83-114頁。