カーター・ディクスン『赤い鎧戸のかげで』

(本書の犯人およびトリックに触れています。)

 

 1950年代に入って、カーはタガが外れてしまったようだ。それとも外れたのはブレーキか(カーだけに)。

 『赤い鎧戸のかげで』(1952年)で、ヘンリ・メリヴェル卿は、自分を狙った賊を相手に、短刀で喉を切り裂いて殺してしまう。御大、なにやってんすか・・・。

 

  H・Mの・・・右手の短刀が、賊ののどぼとけの下あたりにぐさっと突きたつ。

  さっと刀を抜きとり、血しぶきを避けるために、つかんでいた髪ではずみをつけ、

 くるっと後向きにすると、ピクピク痙攣している男のローブで刀の血を拭いとる[i]

 (以下、略)

 

 何ですか、これ。中村主水ゴルゴ13?まさか、ヘンリ卿がこれほど華麗な殺しのテクニックを身につけていたとは、たまげたなあ。卿が(いや、カーの探偵たちは皆そうだが)殺人犯に寛大なのは、彼自身が殺しのプロだったからか。名探偵の殺人者といえば、ド〇〇〇・レ〇〇とか、エ〇〇〇〇〇・ポ〇〇とか、珍しくはないが、こんな玄人はだしのテクニシャンは初めてだ。

 同年の『九つの答』以上に、もはやカーの小説はパズル・ミステリを踏み越えて、一千光年の彼方。冒険活劇と化した。

 本書のテーマは、アイアン・チェストと呼ばれる怪盗とヘンリ卿との対決だが、この謎の強盗は、常に鋼鉄製と見られる箱を抱えている(ア〇〇〇の配達員?)。顔を隠すわけでもないのに、正体を知られることなく、警官隊に囲まれても、煙のように消え失せてしまう。まるで怪盗ルパンか、二十面相か。しかし、小説のクライマックスといえるのは、例によって、ボクシングの対決で、作者はよほど拳闘が好きらしい。趣味丸出しで、もはや隠す気もないようだ。当時のカーは、女性読者のことなぞ頭の片隅にもなかったのか。どう考えても、これは男性読者のための読み物である。それとも、こちらも例によって、カー的ロマンスのカップルが二組も出てくるので(一組は夫婦だが)、女性読者向けのサーヴィスのつもりだったのだろうか。カー作品に出てくるヒロインで、女性に支持されたキャラクターなぞ聞いたことがないが。

 小説の舞台は、モロッコのタンジール。この異国の地におけるヘンリ卿の活躍を描くのが、もうひとつの主題で、実際に、カーがタンジールに滞在した経験に基づいて書かれている[ii]。取材のためというわけでもなかったようだが、こういったところは、カーは実にわかりやすい。自身の体験がそのまま小説に活かされている。冒頭に、タンジールの町を眺望する描写が出てくるが、まさに絵葉書のように景色が眼に浮かぶ[iii]。ヘンリ卿がはちゃめちゃに、いや、名うてのアサシンのようになってしまったのも、地中海の海風にやられたせいか。それとも、旅先ではめをはずしただけなのか。(旅の恥はかき捨て、といったレヴェルの話ではない。)

 肝心のミステリのアイディアのほうだが、怪盗アイアン・チェストは、なぜ、いつも鋼鉄の箱を抱えているのか。なぜ、何度でも監視の目を潜り抜けて消え失せてしまうのか。素晴らしく魅力的な謎だが、その答えは、何じゃ、そりゃ、というもの。人間の心理を突いたトリック、とか言われても、どう考えても、顔を見られたくなければマスクをするだろう[iv]。いくら、鋼鉄ではなく、紙でできた箱だといっても、そんなかさばる代物を抱えてうろうろする強盗など、お目にかかりたいものだ(本当に出くわしたら困るが)。

 実は、上記の個人的趣味で書いただけに見えたボクシング対決の場面が、本作の最大のミステリ・アイディアで、敵意むきだしで殴り合う二人が、実は共犯だった、という驚くべき真実が明らかとなる。一見、共犯とは考えられない二人が芝居をしていた、というスパイ・スリラー的引っ掛けで、登場人物のリストを見ても、ボクシング対決で敵役になる元ボクサーのほかは、皆、捜査官かその友人で、誰も犯人になりそうもない。つまり、味方と思っていた者のなかに犯人が潜んでいた、という結末しか考えられないのだが、やっぱり、この悪役ボクサーと颯爽たる快男児(犯人)とが共犯関係にあったというのは、(パズル・ミステリとしては)無理があったようだ。

 事件は鮮やかに解決するものの、またまた、恒例のごとく、ヘンリ卿は犯人を見逃してしまう。それどころか、タンジール警察を堂々と出し抜いて、逃がしてしまうのだ。でもまあ、いつものことだから、驚かないし。すでに、自分でも一人殺ってるわけだし。

 今回の事後従犯の言い訳は、アイアン・チェストはロビン・フッドだから、ということらしい。犯罪者であっても、人を殺さない信義を守るアウトロー、あいつは立派な男だ、というわけだ。毎度のことながら、卿の正義の観念は偏り過ぎていて、遵法精神とどう折り合いをつけているのやら。ついでだが、ロビンを指して、ヒロインが、「でもあれはお話の中だけのことかしら」[v]、とつぶやくが、さすが、カー。ロビン・フッド実在説にも通暁しているようだ。チャールズ2世ばかりでなく、ロビン・フッド関連の文献も読み込んでいたのだろうか[vi]。それとも、イギリス人なら当然なのか。タンジールくんだりまでやってきて、ロビン・フッドでもないだろうが。

 

[i] 『赤い鎧戸のかげで』(恩地三保子訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1982年)、308頁。

[ii] 1950年の夏から、カー一家は何度かタンジールに滞在している。これは、エイドリアン・ドイルからの誘いだった、という。ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、374-79頁。

[iii] 『赤い鎧戸のかげで』、49頁。

[iv] 実際、ヘンリ卿が、そう推測している。同、403頁。

[v] 『赤い鎧戸のかげで』、431頁。

[vi] J・C・ホウルト『ロビン・フッド』(有光秀行訳、みすず書房、1994年)等を参照。

ビー・ジーズ1984(2)

バリー・ギブ「シャイン・シャイン」(1984.9)

1 「シャイン・シャイン」(Shine, Shine, B. Gibb, M. Gibb and G. Bitzer)

 バリー・ギブの14年ぶりのソロ・シングルは、ハーブ・アルバートもびっくりのカリビアン風ポップ・ナンバー。マイアミでレコーディングを始めてから、この手の曲はおなじみだが、間奏にブラスが入ったりして、ひときわラテン風味が強い。

 しかし、この間奏パートが一番目立っているのでは、やはりまずい。バリーらしい、早口言葉のようなヴァースや「シャイン、シャイン」に始まるコーラスも親しみやすく、アレンジも派手目だが、シングル向きかというと、首を傾げざるをえない。

 もっとも、この曲を含むアルバム自体、シングル向きの曲は少ない。案の定、全米37位という成績は、かつて「この惑星で最高にホットだったソングライター」[i]にしては物足りないことおびただしい。バーブラ・ストライサンドケニー・ロジャースのようにはいかないのは仕方ないが。とはいえ、これが当時の現実だった。

 

2 「シー・セッズ」(She Says, B. Gibb)

 後述のとおり、アルバムには収録されているが、映画には未使用の楽曲。

 しかしアルバムのなかではメロディに魅力のある数少ない作品のひとつ。こちらもシングル向きとは言えない陰気なバラードで、もう一曲欲しい、ということになって、その場で書き飛ばしたような安直さも感じるが、さすがバリー・ギブと思える美しさを持っている。

 ところで、アルバムでは最後から2番目に収録されているが、ストリングスのアレンジは最後の「ザ・ハンター」に似て、重厚だが、どこか不穏な雰囲気をかきたてる。アルバムのクライマックスとなる「ザ・ハンター」のいわば序奏という位置づけなのだろうか。

 

バリー・ギブ『ナウ・ヴォイジャー』(Now Voyager, 1984.9)

 バリー・ギブの初のソロ・アルバムは、1984年になって、思わぬ形でお目見えした。とはいえ、上記のとおり、この時期になったのは必然だったとも考えられる。ソロ・アルバムの計画は、1970年に実現寸前までこぎつけていたようだが、ビー・ジーズの再結成を優先して、見送られた。その後、ビー・ジーズの活動そのものがバリーを中心に回り始め、恐らくソロ活動の余裕もなかったはずだ。しかし、『サタデイ・ナイト・フィーヴァー』後のバックラッシュによって、グループの活動が制約されるようになった結果、むしろソロ・アルバム制作に向かう条件がそろった。その代わり、ビー・ジーズの顔ともいえるバリー・ギブのアルバムに対しては、ビー・ジーズ同様の反発が予想されるところであり、現実にセールスは思わしくなかった。

 結果から見れば、このアルバムは失敗作以外の何物でもないが、アルバムの形式としては非常に興味深いものでもある。「思わぬ形」というのは、そのことを含んでいるが、つまり、一種のサウンドトラックとしてリリースされたのである。

 より正確には「ヴィジュアル・アルバム」[ii]ということになるのか、本人が出演する映画に使われた楽曲から構成されているのだから、サウンドトラックというのも間違いではない。もっとも、映画といっても、9つの短い短編を集めたもので、1つの短編に1つの曲が使われている。各エピソードは、ほとんどセリフもなく、音楽だけで進行する。つまりヴィデオ・クリップ集のようなものだ。しかし、ただ集めただけではなく、全体を貫く仕掛けが施されている。一応、一本の映画の体裁をとっているわけだ。

 映画[iii]は、まず主人公(バリー・ギブ)が、いかにもイギリスといった田園風景のなかを、車を走らせる場面から始まる[iv]。何やら急いでいるらしい主人公が、小橋に差し掛かると、向かい側からやって来たトラックをよけようとして、ハンドルを切り損ね、車は橋から墜落する!水中に沈んだ車から、なんとか脱出した主人公が水面から顔を上げると、そこは室内プールだった。

 視聴者同様、?(ハテナ)・マークを顔に浮かべた主人公は、プールサイドで長椅子に横になっているガウン姿の老人を見つけ、状況を問いただそうとする。この老人役を務めるのが、名優のマイクル・ホーダーンで、ここから彼が狂言回しとなって、主人公を様々な夢もしくは異世界へと誘う。それが9つのエピソードとなっているわけだ。この不思議な老人の正体は最後に全体のオチとして明かされるが、映画としての出来は、素人の筆者にはわからない。短編小説集と同じで、面白いエピソードもあるが、つまらないものもある。まあまあ楽しめた、というのが感想だろうか。

 アルバムの曲順と、映画で使用される曲の順番は異なっており、最初の「アイ・アム・ユア・ドライヴァー」と最後の「ザ・ハンター」は一緒だが、他は「テンプテーション」、「レッスン・イン・ラヴ」、「シャッタープルーフ」、「ステイ・アローン」、「シャイン・シャイン」、「ワン・ナイト」、「ファイン・ライン」の順となっている。

 シングル同様、アルバムの出来も、バリー・ギブのメロディを期待すると、はなはだ物足りない。むしろ映画で使われない「フェイス・トゥ・フェイス」と「シー・セッズ」が数少ない収穫と思えるほどだが、映画の一部としてみると、それぞれ楽しめないことはない。どこまでバリーのアイディアが脚本に反映しているのかわからないが、このエピソードにこの曲、と当てはめて考えると、なるほど、と思うところも多い。とくに前半のエピソードは、観客の関心を引くためか、派手目で刺激的な映像が多いので、楽曲もアップ・テンポの曲が続く。「シャッタープルーフ」までがそうだ。その後、落ち着いた画面とストーリー性を重視したエピソードに移ると、音楽もスローなバラードになる。そのあたりに注目すると、このアルバムの音楽を、バリーがどのように捉えていたのかが想像できて興味深いが、いかんせん、アップ・テンポの楽曲にこれといったものがないし、バラードも今一つという印象だ。

 やはり映画と一緒でないと、あまり面白くないが、映画自体も傑作というわけではないので、果たして、このアルバムをどう楽しむのが最善なのか、判断に苦しむ。しかし、もともと映画好きで、映画界に魅かれたこともあったバリーにしてみれば、本当に作りたいと思ったアルバムであったのだろう。2枚目のソロ・アルバムが正真正銘のサウンドトラックだったことからみても、バリーの嗜好が見て取れる。

 

A1 「アイ・アム・ユア・ドライヴァー」(I Am Your Driver, B. Gibb, G. Bitzer and M. Gibb)

 最初のエピソードは、主人公と老人が話をしているプールサイドを、スーツ姿の男性(アジア系、というか日本人っぽい眼鏡男)が通り過ぎていく、という視聴者の意表を突く演出が施されている。男が出口から姿を消すと、その先は未来の空港、いや宇宙ロケットの乗客ロビーになっている。

 ここでの登場人物たちは、奇天烈な衣装を着ていたり、異形の異星人のような扮装をしていて、『スター・ウォーズ』(1977、1980、1983年)のパロディのようだ。ロケットのキャビン・アテンダントが、これまた珍妙なメイキャップをしたバリーで、実は彼はアンドロイドで、途中で壊れてしまう。すると、ロケットも光の乱舞する中を、制御不能のまま突っ込んでいく。このロケットが宇宙空間を疾駆していく映像は、日本の特撮映画以下のチープさで、顎が外れる。

 もっとも、エピソードの最後で、ロケットが進む前方に巨大な手のひらが現れる(孫悟空か!)。その手がロケットを掴んで、水槽から引き上げると、それはおもちゃで、引き上げたのは謎の老人、というオチなので、あえて安っぽく作ったのかもしれない(苦しい擁護だが)。

 肝心の曲はと言えば、宇宙船の離陸を思わせるイントロから、一転してテクノ・ポップ風のリズムになる。レゲエ風でもある。メロディは少々エキゾティックで、この時期のバリーの曲らしい、幾つものパートから構成された複雑なものだが、はっきり言って、『ステイン・アライヴ』からの不調を引きずっているようだ。「チャッ、チャッ」という妙な掛け声だけが耳につく。

 

A2 「ファイン・ライン」(Fine Line, B. Gibb and G. Bitzer)

 2曲目だが、映画では最後から2番目のエピソードで使われている。

 バリーがロック・シンガー(?)に扮し、50年代風のバンドをバックに、ステージで歌う。ジャンパーにリージェントというのは、エルヴィス・プレスリーをイメージしているのだろうか。

 ところで、このエピソードでバリーはひげを落としている。思えば、『キューカンバー・キャッスル』のあたりから、バリーはひげをたくわえ始め、それがトレードマークとなってきた。本人はいやだったらしい[v]が、ひげのないバリーは相変わらずハンサムで、女性に一番人気だったのが改めてよくわかる。少なくとも、ルックスでは、ブライアン・ウィルソンポール・マッカートニーに勝っているだろう(今や、太りすぎて見る影もないが)。

 もうひとつ気になるのは、声の劣化というか、声が出なくなっているように感じることだ。「ファルセットの使い過ぎには気をつけましょう」、という忠告を贈りたい(もう手遅れだが)。

 音楽のほうは、ロックン・ローラーらしく、アップ・テンポのノリノリの曲だが、曲そのものはソウル風。途中、ラップのようなパートが混じる。最後のコーラスでは、オリヴィア・ニュートン・ジョンやハリー・ウェイン・ケーシィのほかに、ザ・フーのロジャ・ダルトリィが参加している。これも意外なゲストだ。

 

A3 「フェイス・トゥ・フェイス」(Face to Face, B. Gibb, M. Gibb and G. Bitzer)

 この曲は、映画には未使用で、いわばボーナス・トラックのような作品。しかし、曲自体の出来は、アルバムでも群を抜いている。これもこの時期の特徴である、うねるようなメロディがドラマティックに展開し、オリヴィア・ニュートン・ジョンとバリーのデュエットも熱い。

 バーブラ・ストライサンドやディオンヌ・ウォーリクへ提供した楽曲の系列に属しており、その決定版ともいえる。シングル・カットするなら、この曲だったろうが、映画では聞かれないということで避けられたのだろうか。

 このアルバムでは、大半がキーボードのジョージ・ビッツァーとの共作となっているが、かつてブルー・ウィーヴァーやアルビィ・ガルテンが担当した作曲のパートナーを、ビッツァーが務めたということなのだろう。なんとも甘美なメロディの傑作バラードだ。

 

A4 「シャッタープルーフ」(Shatterproof, B. Gibb)

 この曲が使われたエピソードでは、バリーが若者を連れて、覗き部屋のような場所を案内していく。覗き窓から見えるのは裸の女性ではなく、アクロバットやらポール・ダンス、フリーク・ショーのようなアトラクションで、かなりビザールな映像。バリーと連れの男を描く場面はモノクロだが、覗き部屋のなかはカラーで、いつの間にかバリーだけがその中に導かれて、不気味な仮面をつけた男女に翻弄される。彼らが消えると、主人公はひとり鏡の部屋に取り残されたことに気づくが、鏡は次々に割られていく。驚く主人公が周囲を見回すと、いつの間にか、またプールに戻っていて、老人が彼をぐるぐる回していた、という結末。

 楽曲については、ファンキーなソウル・ロック・ナンバー。画面には合っているが、曲自体はつまらない。

 

A5 「シャイン・シャイン」

 老人が主人公に水槽を指し示し、のぞき込むと、いつの間にか彼は真っ白なスーツを着たまま川の中から姿を現わし、南国のような風景(植民地のイメージか)のなかを屋敷の庭らしき場所に入っていく。そういえば、この映画でバリーはやたらと水に飛び込んだり、川を泳いだりするが、あんたは河童か。

 主人公が入りこんだ屋敷では今しも結婚式が始まろうとしていて、庭ではバンドによる演奏が始まる。その演奏に乗って、「シャイン・シャイン」が歌われるという段取りである。途中で、時間停止のように人々が動きを止めたり、最後に記念写真の撮影で、ちゃっかり主人公も画面に収まるなど、楽しい話になっているが、演者たちは大変そうだ(人間たちが動作を止めても、風船が風に揺れているので、あまり効果的ではない)。

 

B1 「レッスン・イン・ラヴ」(Lesson in Love, B. Gibb, M. Gibb and G. Bitzer)

 売春宿にやってきた一人の若者が、ある娘に眼を奪われる。しかし、彼を誘ったのは別の女で、そこに警察の手入れがあって、大騒動になる。若者は、ようやく外に逃れ、再び最前の娘を見かけるが・・・。最後は、少々苦い結末で、バリーは伊達男の格好で、黒子のような傍観者の役だが、歌うのが「レッスン・イン・ラヴ」ということになる。

 やはりソウル風のポップ・ナンバーで、1930年代風の画面には合わなそうだが、それほど違和感はない。他の曲もそうだが、一応聞かせどころというか、フックはあるが、全体としては大した曲ではない。

 

B2 「ワン・ナイト」(One Night, B. Gibb and G. Bitzer)

 今度の舞台は、海辺のリゾート・ホテルで、呼び出されたボーイに客の一人(ドア越しで姿は見せない)がバラの花束を渡す。ボーイは、バラを一本ずつ、孤独な滞在客の部屋に届けていく。バリーもその一人で、一人ぼっちだった滞在客たちが次第にテラスに集まると、いつしかそれぞれカップルとなって踊りだす。最後に、ボーイは一本だけ余ったバラを最初の客のところに持ち帰るが、「それは君の分だよ」、と言われる、というストーリー。

 その後、最初の客の正体についてオチがあるが、一番よくできたエピソードといえるだろう。画面も落ち着いた色調で、結末も気が利いている。音楽はそこまでの出来ではないが、ボサノヴァ調のバラードで、しっとりとした質感を漂わせて、映像とマッチしている。

 

B3 「ステイ・アローン」(Stay Alone, B. Gibb and G. Bitzer)

 映画では、「アイ・アム・ユア・ドライヴァー」から「シャッタープルーフ」までのどぎつい映像から、このエピソードで、一転して歴史ドラマのような画面になり、雰囲気を変える効果をもたらしている。

 主人公は、今度は帆船の船長となり、貴族の令嬢らしき恋人と別れて航海に旅立つ場面が描かれる。時がたって、戻ってきた彼が街角でたたずんでいると、その脇を令嬢が通り過ぎる、という結末で、どうということもないストーリーだが、ピアノをバックにしたスロー・バラードの本曲とうまく呼応している。曲自体は、これも平凡といえば平凡だが、画面と一緒に聞くと、バリーはやはり映像を前提として曲を書いているらしいことが実感できる。

 

B4 「テンプテーション」(Temptation, B. Gibb, G. Bitzer and M. Gibb)

 映画では、2番目のエピソードで、主人公は車いすに拘束されて、次々にスクリーンに映る浮気の現場映像を見せられる、という恐ろしい内容。まさか実体験ではないよな、といった話。

 妻と愛人が鉢合わせするなど、「テンプテーション」のタイトルが、なるほど、と思わせる。曲は、「シャッタープルーフ」や「レッスン・イン・ラヴ」などと似たり寄ったりの出来。

 

B5 「シー・セッズ」

B6 「ザ・ハンター」(The Hunter, B. Gibb, M. Gibb, G. Bitzer and R. Gibb)

 映画でも最後のエピソードだが、9つのなかで、もっともシリアスな内容。

 ヴェトナム戦争をモチーフにしているのか、特派員かなにからしい主人公が、安ホテル(?)の一室で、戦争に怯える現地の親子や少女の幻影を見る。そこに、白人の特務課か大使館員のような連中が飛び込んできて、主人公を捕えようとする、というスパイ映画もどきの展開となる。バリーは、ジェイムズ・ボンドよろしく大立ち回りを見せるが、窓から脱出しようとして、ついに捕まってしまう。車に押し込まれた彼は、格闘で受けた傷の痛みに次第に気が遠くなっていく・・・。

 このエピソードで使われる「ザ・ハンター」は、9曲のなかで唯一傑作と言える作品だろう。バリーにしては珍しく、政治的な主張を込めたような歌詞だが、曲自体が素晴らしい。急き立てられるような切迫したリズムに乗って、ドラマティックだがハードなヴォーカルを聞かせる。メロディアスというわけではないが、スケールの大きな印象的な旋律で、最後の”when the hunter comes.”で曲が断ち切られるラストはスリリングだ。

 

 「ザ・ハンター」のラストで意識を失った主人公がわれに返ると、彼はまだ車を運転していることに気づく。車を止めて、自分を落ち着かせようと、あたりを見回す主人公の耳に聞こえてきたのは・・・、ということで、映画の結末のオチに続く。主人公がやたらと水に飛び込むのは、この結末の伏線になっていたからだった、とわかる。

 レコードを聴いてから映像を見ると、改めて、眼と耳と両方で楽しむのが正解である、との結論に至る。それはバリーの計算通りであるとも取れるし、音楽が弱いからとも思える。

 ヴィデオ・クリップ集というのは、わかりやすい説明ではあるが、一つ異なるのは、音楽ではなく、映像が先にあって、そこに音楽が付け加えられた、ということである(それとも、逆だろうか)。バリー・ギブのソロ・アルバムとしては物足りないのは事実であるが、このアルバムの性質を考えると仕方がないのかもしれない。

 

モーリス・ギブ「ホールド・ハー・イン・ユア・ハンド」(1984.9)

1 「ホールド・ハー・イン・ユア・ハンド」(Hold Her in Your Hand, B. and M. Gibb)

 バリー同様、モーリスのセカンド・シングルは、1970年以来、14年ぶりのリリースとなった。

 映画A Breed Apartのために、1981年に書かれたというが、ファースト・シングルの「レイルロード」と同じカントリー・ソング、しかも負けず劣らず地味な作品だ。三拍子のスローなバラードだが、前作と違うのは、いつもの軽いタッチのヴォーカルではなく、彼には珍しいくらい力強い歌唱を聞かせるところか。

 しかし、せっかくバリーと共作した割には、印象的なフックのない平凡な出来に終わった。

 

2 「ホールド・ハー・イン・ユア・ハンド」(Instrumental)

 

[i] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, pp.556-57.

[ii] Ibid., p.554.

[iii] DVDは、Barry Gibb, Now Voyager (Universal Music Group International, 2005)。

[iv] 撮影は、フロリダ、ロンドン等で行われたらしいが、最初のシーンはイングランド東部のノーフォクで撮られたようだ。The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.556.

[v] Ibid.

ビー・ジーズ1984(1)

 1984年は、ある意味記念すべき年となった。この年、バリーとロビンが初めて同じ年にソロ・アルバムをリリースし、モーリスもソロ・シングルを発表した。

 1970年に、ロビンが初のソロ・アルバムをリリースしたとき、バリーとモーリスもソロ・アルバムを準備していた。しかし、グループの活動再開とともに制作は見送られ、3人がそれぞれソロ・シングルを発表するだけに終わっていた。それが、バリーとロビンが同時にソロ・アルバムを制作、発表したのが、この1984年だった。

 ただし、結果は、期待に反して、というか、当人たちもあまり期待はしていなかったかもしれないが、残念なものに終わった。1970年のときも、状況を考えれば、ビー・ジーズのメンバーのソロ・アルバムが受け入れられるとは思えなかったが、あのときはグループの再結成に一縷の望みがかけられた。しかし、1984年当時は、そもそもグループとしての活動に見通しが立たない状況だった。残された方向性は、ソングライティングとプロデュースだったが、この後のダイアナ・ロスのアルバム・プロデュースの成果をみると、それもそろそろ限界に近づいていたといえる。

 つまり、八方ふさがりのなかでの苦し紛れのソロ・アルバム制作だったように映るが、実際は、1970年のときのような、そこまで切羽詰まった情勢ではなかっただろう。何といっても『サタデイ・ナイト・フィーヴァー』による世界的なブームがあり、その後の『ギルティ』の成功がビー・ジーズの名を(アメリカでのバックラッシュは続いていたものの)非常に大きなものにしていた。グループとしての活動はしづらい環境ではあったが、音楽を作り続けることが次のステップへ繋がる道であり、その発表の場は確保できていた。

 その意味では、結果は二の次であり、ソングライターとしての能力が健在であることを示すことが重要だった。

 

ロビン・ギブ「ボーイズ・ドゥ・フォール・イン・ラヴ」(1984.5)

1 「ボーイズ・ドゥ・フォール・イン・ラヴ」(Boys Do Fall in Love, R. & M. Gibb)

 「ジュリエット」同様のアップ・テンポの軽快なポップ・ロック・ナンバー。ただし、「ジュリエット」にあったようなヨーロピアン・ポップ的な哀愁は薄まり、よりクールでメカニカルなアメリカン・ポップになった。

 ロビンのヴォーカルもこれまでトレードマークでもあった悲壮感が消えて、前作以上にドライな印象を与える。「ボ、ボ、ボ、ボーイズ」の演出は「ジュリエット」でくせになったのだろうか。

 

2 「ダイアモンズ」(Diamonds, R, and M. Gibb)

 こちらもA面同様の乾いたサウンドのテクノ・ポップ。A面ほどキャッチーなサビではないが、「ダイアモンズ」と繰り返すフレーズは、印象に残る。

 

ロビン・ギブ『シークレット・エイジェント』(Secret Agent, 1984.6)

 2年続けて、ロビンのソロ・アルバムがリリースされたとき、やはりバリー主導の70年代後半は、ロビン(とモーリス)にとって色々とフラストレーションがたまっていたのだろうな、と推察した。翌年にはWalls Have Eyesが発表されるから、この際、一気にうっぷんを晴らしたということなのだろう。

 しかし、これら3枚のソロ・アルバムがロビンのやりたい音楽だったのかどうかは、当時も今も計りかねるところがある。あまりに『ロビンズ・レイン』との落差がありすぎる。3枚すべてがロビンとモーリスのプロデュースだが、本アルバムでは、サウンドづくりの主体はモーリスよりも、共同プロデューサーのマーク・リジェットとクリス・マーボサにあったらしい。サウンドの要となるシンセサイザーもロブ・キルゴアに任された。これらのミュージシャンは、シャノンの”Let the Music Play”を制作したスタッフ、という[i]。この起用は、ロビンが積極的にこうしたサウンドを目指した、ということもあるだろう。前作以上に、新しい音楽動向に対応しようとした様子が見て取れる。すべて、いわゆる80年代前半に主流だったテクノ・ポップあるいは打ち込みサウンドで、アルバムを重ねるごとにその傾向が強まっている。無論、セールス面を考慮しただろうし、ロビン自身にも、流行の音楽に対する好奇心と積極性があったようだが[ii]ビー・ジーズのアルバムとも異なり、自分の声を楽器のようにサウンドに組み込むようなプロデュースの方針は、本心から彼の望んだことだったのだろうか。

 『シークレット・エイジェント』のサウンドは、前作以上に機械的で人工的なものとなり、ELOというより、当時人気爆発したフィル・コリンズあたりのサウンドやヴォーカルを意識しているようにも見える。『ハウ・オールド・アー・ユー』の楽曲には、まだ60年代のキャッチーでポップな香りが残っていたが、本作では、曲作りの手法も少し変化したようでもある。『サイズ・イズント・エヴリシング』(1993年)あたりの技法に近いのかもしれない。

 

A1 「ボーイズ・ドゥ・フォール・イン・ラヴ」

A2 「イン・ユア・ダイアリー」(In Your Diary, R, M. and B. Gibb)

 2曲目にして、早くもデジャ・ヴュのような感覚に陥る。どれもこれも同じような曲に聞こえるのは、前作もそうだったが。

 「イン・ユア・ダイアリー、オー、イン・ユア・ダイアリー」とワン・フレーズを繰り返す手法は、本アルバムではこの後もほとんどの曲で踏襲される。いわば「トラジディ」・メソッドだが、この時期のロビンの作曲の発想だったのだろうか。あるいは、この曲の作曲に加わっているバリーのアイディアだったのか。

 

A3 「ロボット」(Robot, R. and M. Gibb)

 本アルバムについて、「未来的」[iii]とのロビンのコメントがあるが、この曲なぞが差し詰めそれに該当するのだろうか。何しろ、タイトルが「ロボット」だ。「ロ、ロ、ロ、ロボット」のフレーズを聞くと、すっかりこの唱法が気に入ってしまったのだな、と少々うんざり気味につぶやく。

 

A4 「レベッカ」(Rebecca, R. and M. Gibb)

 タイトルは、ダフネ・デュ=モーリアの『レベッカ』から取られているのだろうか。

 このシンセサイザーサウンドにゴシック・ロマンスは似合わないと思うのだが、楽曲は、本アルバムの中でもベストと言えるだろう。あまり区別はつかないのだが。

 「レベッカ~」のリフレインは、またかと思わせるが、ロビンらしい哀感も漂う。

 

A5 「シークレット・エイジェント」(Secret Agent, R. and M. Gibb)

 前曲の「レベッカ」は、小説よりヒッチコックの映画のほうをモチーフにしているのかもしれない。続く「シークレット・エイジェント」も何となく映画的と感じるのは、ジェイムズ・ボンドを連想してしまうせいか。

 サビのメロディは、従来のロビンっぽさを残しているようだ。

 

B1 「リヴィング・イン・アナザー・ワールド」(Living in Another World, R, M. and B. Gibb)

 この曲も、バリーが作曲に参加している。「リヴィング・イン・アナザー・ワールド、ウォ、ウォ、リヴィング・イン・アナザー・ワールド」と繰り返すのは、他の曲と同工異曲だが、この早口言葉のような小刻みなメロディは、バリーの提供したものだろうか。

 サウンドは、さらにテクノ・ポップ風味が増して、ロビンが言うところの「未来風」か。

 

B2 「エクス・レイ・アイズ」(X-Ray Eyes, R. and M. Gibb)

 前曲をさらにメカニカルにしたかのようなナンバー。「シー・ガット・エクス・レイ・アイズ、シー・ガット・エクス・レイ・アイズ」と繰り返すのも、もはや既視感を通り越して、左の耳から右に抜けていく。

 曲そのものは決して悪くはないのだが。

 

B3 「キング・オヴ・フールズ」(King of Fools, R. and M. Gibb)

 この曲になると、比較的ロビンらしさが伝わってくる。「アーハ、キング・オヴ・フールズ」の繰り返しは、本アルバムでは毎度おなじみだが、「アーハ」は、「アイランズ・イン・ザ・ストリーム」の名残だろうか。

 

B4 「ダイアモンズ」

 

[i] Joseph Brennan, Gibb Songs, Version 2: 1984.

[ii] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.553.

[iii] Ibid.

ビー・ジーズ1983(2)

ケニー・ロジャースドリー・パートンアイランズ・イン・ザ・ストリーム」(1983.8)

1 「アイランズ・イン・ザ・ストリーム」(Islands in the Stream, B, R. and M. Gibb)

 最初はデュエット曲ではなかったらしい。経緯はわからないが、最終的にケニー・ロジャースドリー・パートンの競演となった。「ギルティ」の成功が誰かの頭にあったのだろうか。

 しかも最初はカントリーではなく、ソウル・ミュージックとして書かれたらしい[i]。言われてみれば、そんな風に聞こえないこともない。連発される”Ah, ha.”のあたりがそうだ。『メイン・コース』のように、もともとアメリカ人でもないが、ソウルにもカントリーにも魅かれてきたギブ兄弟ならではの芸だろうか。

 いずれにしても、比較的地味なこの曲が、カントリーとしてはまれにみる大ヒットになった。ビルボード誌で2週間1位だったが、プラチナ・シングルとなり、ロジャースの代表作『レイディ』をも上回るセールスを記録した。サビの旋律の美しさと、上述の「アッハ~」のおかげだろうか。「ギルティ」のバリーは残念ながら邪魔に感じてしまうが、さすがにロジャースとパートンは貫録を見せて、息のあったデュエットを聞かせる。この二人の掛け合いの妙も、国民的ヒットになった要因だろう。

 ビー・ジーズにとっては、「ウーマン・イン・ラヴ」、「ギルティ」、「ハートブレイカー」と並ぶ80年代の代表作となった。またソングライターとしては、バリー・ギブにとって7曲目の全米ナンバー・ワン曲である(ビルボード誌)。

 

2 「アイ・ウィル・オールウェイズ・ラヴ・ユー」(I Will Always Love You, B. and M. Gibb)

 カントリーというより、歌い上げるタイプのポップ・バラード・ナンバー。むしろバリー・マニロウあたりが歌いそうだ。バリーとモーリスの共作としては、珍しい曲調かもしれない。

 それほど個性的な曲とは言えないが、ヴォーカルと掛け合いになるコーラスの部分には、ビー・ジーズらしさがあふれている。

 

ケニー・ロジャース『愛のまなざし』(Kenny Rogers, Eyes That See in the Dark, 1983.8)

 男性シンガーのプロデュースは、アンディ・ギブ以来だったが、アンディが身内だったことを考えると、ケニー・ロジャースの楽曲を書くということも、新しい挑戦だったといえる。

 しかもロジャースがカントリーの大物だったことから、必然的に、アルバムの性格は、ストライサンドやウォーリクとは異なることになった。二人の女性シンガーのアルバムでは、ピアノやシンセサイザーのキーボードがサウンドの要になっていたが、『アイズ・ザット・シー・イン・ザ・ダーク』は、思いのほかギター中心の曲が多い。

 当然カントリー調の作品が多く含まれているが、カントリーというよりポップ、あるいはカントリーでもポップな楽曲が大半なのは、やはりビー・ジーズならではだろう。今回、とくにモーリスの存在が目立っているのは、そのせいもある。作曲も、ギブ兄弟による楽曲が5曲というのはこれまでどおりだが、残りのうち2曲だけがバリーとガルテンの共作で、残りの3曲はバリーとモーリスの共作となっている。

 全体としては、『ギルティ』や『ハートブレイカー』よりも地味な印象だが、楽曲は粒がそろっている。「アイランズ・イン・ザ・ストリーム」を除くと、強力な曲が見当たらないが、高品質な楽曲を提供してヒット・アルバムに仕上げたのは、さすがの手腕といえるだろう。

 

A1 「ジス・ウーマン」(This Woman, B. Gibb and A. Galuten)

 意外なほど豪快なギターで始まるカントリー・ロック。まるでイーグルズのようだ。ガルテンとの共作から始まるのは珍しいが、曲自体はバリーの好みのほうが出ている感じがする。

 サード・シングルで全米23位に入った。

 

A2 「ユー・アンド・アイ」(You And I, B, R. and M. Gibb)

 1曲目とは打って変わって、メロディアスなスロー・バラード。とにかく、イントロのバリーによるコーラスが美しい。まるごとビー・ジーズという感じで、「アイ・スティル・ラヴ・ユー」のサビを思わせる。

 もちろんヴァースとコーラスのメロディもよいが、イントロが最高というのは、やや皮肉な言い方になるか。とはいえ、本作でも一、二を争う佳曲だ。

 

A3 「ベリード・トレジャー」(Buried Treasure, B, R. and M. Gibb)

 再び、がらりと変わって、どカントリー・ナンバーが登場する。サビの展開はモーリスの作風に近く、彼が中心となって書いている、と感じさせる。

 この辺はカントリー・シンガーのケニー・ロジャースを充分意識した曲作りだ。

 

A4 「アイランズ・イン・ザ・ストリーム」

A5 「リヴィング・ウィズ・ユー」(Living with You, B, R. and M. Gibb)

 カントリー・ポップの「アイランズ・イン・ザ・ストリーム」に続いて、A面ラストは、ソウル・ポップ・ナンバーで締めくくられる。70年代のビー・ジーズのスタイルを連想させる。

 こうしてみると『アイズ・ザット・シー・イン・ザ・ダーク』のA面は、様々な傾向の曲で構成されており、かなり多彩な印象だ。

 

B1 「イヴニング・スター」(Evening Star, B. and M. Gibb)

 「ベリード・トレジャー」に続き、再びカントリー一色のナンバーがB面トップに出てくる。作者がバリーとモーリスで、こちらも明らかにモーリスの個性が出ている。

 カントリーのガトリン・ブラザーズによるコーラスも、「ベリード・トレジャー」と同じで、ストライサンドやウォーリクのアルバムとは一味違うアクセントを与えている。

 

B2 「ホールド・ミー」(Hold Me, B, R. and M. Gibb)

 再び曲調は変わって、今度は三拍子のバラード。カントリーというより、ソウル・バラードの雰囲気で、ロジャースは巧みに歌いこなしている。

 こうして聞くと、ロジャースのハスキーな声はソウル風でもあり、要するに、ソウルでもカントリーでも歌えるポップ・シンガーということだろう。

 

B3 「ミッドサマー・ナイツ」(Midsummer Nights, B. Gibb and A. Galuten)

 「ジス・ウーマン」以来のガルテンとの共作で、同様に本アルバムでは数少ないアップ・テンポのナンバー。「ジス・ウーマン」はカントリー・ロックだったが、こちらは都会的なポップ・ロックで、ガルテンの味が強く出ているようだ。

 後半、バラードが続くなかで、口直しのような役割か。

 

B4 「アイ・ウィル・オールウェイズ・ラヴ・ユー」

B5 「愛のまなざし」(Eyes That See in the Dark, B. and M. Gibb)

 正攻法のバラードといった感じの前曲の後、アルバムを締めるのは、同じバラードだが、もっとさりげない弾き語りのような作品。サビで高音にホップするというのではなく、いってみれば「ハウ・ディープ・イズ・ユア・ラヴ」のような、メロディがなだらかに展開していく曲調だ。

 シングル・カットされたが、アメリカ、イギリスともヒットしなかった。

 

[i] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, pp.540-41.

ビー・ジーズ1983(1)

 1983年は、ビー・ジーズにとって非常に活発な活動が見られた年だった。

 ロビン・ギブの『ハウ・オールド・アー・ユー』、サウンドトラック『ステイン・アライヴ』、ケニー・ロジャース『愛のまなざし』と3枚もの関連アルバムがリリースされた。これだけのアルバムが同一年に出るのは、ロビンの『ロビンズ・レイン』、ビー・ジーズの『キューカンバー・キャッスル』と『2イヤーズ・オン』が発売された1970年以来のことだ[i]。当然、その結果は悲喜こもごもというか、いろいろだった。

 ロビンのソロ・アルバムは、シングルの「ジュリエット」がドイツで大ヒットしたほかはさっぱりだった。『ステイン・アライヴ』は、アルバムは全米チャートでトップ10に入るヒットとなったが、『フィーヴァー』とは異なって、ヒットしたのはビー・ジーズの楽曲のおかげではなかった(と思われる)。今となっては、映画もアルバムも忘れ去られている。ケニー・ロジャースのアルバムは唯一成功作といってよく、アルバムは全米7位のヒット。とくにシングル「アイランズ・イン・ザ・ストリーム」はギブ兄弟の最後の全米ナンバー・ワン・ソングとなり、プラチナ・ディスク獲得のメガ・ヒットとなった。ちなみに1983年といえば、マイクル・ジャクソンの『スリラー』とポリスの『シンクロニシティ』の年だが、前者の「ビート・イット」と「ビリー・ジーン」、後者の「エヴリ・ブレス・ユー・テイク」はいずれもナンバー・ワン・シングルだったが、プラチナ・ディスクにはなっていない(もっともアルバムの売り上げが段違いに異なるが)。

 まとめれば、グループまたはシンガーとしてはじり貧だったが、ソングライターとしては成功をキープした1年だった。

 

ロビン・ギブ「ジュリエット」(1983.5)

1 「ジュリエット」(Juliet, R. & M. Gibb)

 宇宙空間をイメージしたような(『2001年宇宙の旅[ii]?)神秘的なイントロから、いかにも80年代なプログラミングされたドラムに乗って、ロビンが快調に歌い飛ばす。実に快調で、後に何も残らないようなポップ・ソングだが、けなしているわけではない。

 出だしのメロディは、この後のロビンの曲作りのパターンのひとつになる(1993年の「フォールン・エンジェル」が同じメロディで始まる)が、続く「ジュ、ジュ、ジュ、ジュリエット」のサビからモーリスのようにも聞こえるファルセット、最後の「オ、オ、オ、オ、オー」のフェイド・アウトまで、キャッチーなメロディがてんこ盛りの快作だ。

 アメリカ、イギリスではかすりもしなかったが、ドイツではナンバー・ワン、と地域格差がひどかったが、あまりにポップすぎて古臭く聞こえてしまったのか。しかし、80年代のロビンの代表作に数えてよいだろう。

 

2 「ハーツ・オン・ファイアー」(Hearts on Fire, R, and M. Gibb)

 A面と比べると、マイナー調で聞かせるタイプの曲ということになるだろうが、全体的な印象は似たり寄ったりという感じか。要するにサウンドが同じということで、それはアルバム全体について言えることだ。

 

ロビン・ギブ『ハウ・オールド・アー・ユー』(How Old Are You, 1983.5)

 13年ぶりに登場したロビン・ギブの2枚目のソロ・アルバムは、1970年の『ロビンズ・レイン』とは非常に対照的な作品となった。

 『ロビンズ・レイン』は、まるで白黒のサイレント映画(そんな音楽は嫌だが)を思わせる静寂感漂うアルバムだったが、『ハウ・オールド・アー・ユー』は、サーカスのアクロバットを見ているような、あるいはおもちゃ箱をひっくり返したような、とでも言おうか、エレクトロニック・ポップ・アルバム[iii]だった。しかも、むしろ映画にちなんでいるのは後者のほうで、アルバム・ジャケットには、ロビンが映画館らしき建物の壁にもたれて佇み、壁には”How Old Are You?”とタイトルが書かれた映画のポスターが貼ってある。裏カヴァーでは、映画館の席に座ったロビンが、後方の席で抱き合っているカップルを眺めている、というデザインになっている。”How Old Are You?”という映画があるのか、寡聞にして知らないが、ポスター自体は、クラーク・ゲーブルエヴァ・ガードナーグレイス・ケリー主演の『モガンボ(Mogambo)』(1953年)という映画のものを流用したらしい。歌詞が映画をもじっているわけでもないようで、単純に映画好きのロビンのしゃれっ気によるものなのだろう。

 音楽に戻ろう。収められた10曲は、いずれもポップな作品で、大きく二つのタイプに分けられそうだ。派手で明るめのポップ・ナンバー(A1、A2、A4、B3)とマイナーで憂鬱なバラード・タイプの楽曲(A5、B1、B2、B4、B5)。A3のように、バラードだけれど、前者に近い雰囲気の曲もある。しかし、全体としては、どれもこれも似たり寄ったりの作品で、よくもこれだけ同じような曲を書いたものだというのが、率直な感想だ。同じようなことは、『ロビンズ・レイン』についても感じた。そのときにも述べたように、ロビンの作曲における書き分けの能力は、実はそれほど高くない。もっとも、同年のビー・ジーズの『キューカンバー・キャッスル』のバリーについても同様のことが言えるので、まるでギブ兄弟は同じような曲しか書けないような言い方になってしまうが。

 しかし、見方を変えると、『ロビンズ・レイン』と『ハウ・オールド・アー・ユー』では、楽曲のタイプはまるで異なる。そういう意味では、ある時期のロビンは同傾向の曲ばかり書く、といったほうがよいのかもしれない。

 似かよっているのは、サウンドも同じで、上述のように、エレクトロニック・ポップ、エレクトリック・ライト・オーケストラに似ている、との評価も当時あった。確かに共通する部分はあるが、ELOほど先鋭的でも、華やかでもない。ジェフ・リンのぎっしりと音が密集するような緻密なサウンド構成には遠く及ばず、どことなくチープに聞こえる。

 プロデュースは、ロビンはもちろんだが、モーリスの名前が先に来る。そして、なつかしや、デニス・ブライオン。もっとも、ブライオン自身の回想では、彼が参加したときにはほとんど作業は終わっていたというから[iv]、基本的には、プロデュースはモーリスの仕事のようだ。アレンジもサウンドの組み立ても恐らくそうで、楽器も、サウンドの基礎となるシンセサイザーやプログラミングも彼が担当している。すなわち、ロビンのソロ・アルバムといっても、モーリスが組み上げたバック・トラックにロビンがヴォーカルをかぶせた、というのが正しいようだ。その意味では、ロビンとモーリスの共同作品[v]で、作曲も全曲ふたりの共作。『ロビンズ・レイン』との違いは、その点にも起因するらしい。ヴォーカル・スタイルなどもモーリスの示唆によるのだろうか。

 それにしても、改めて言うが、ここまでポップなアルバムはビー・ジーズとしても珍しい。バリーが加わっていれば、いやロビンのソロとしても、もう少しスローなバラードが入っていてもよさそうだが、バラードといっても、いずれもテンポよくリズミカルで、「救いの鐘」のような曲はひとつもない。この割り切り方は、何によるものなのか。そういう気分だったのか。本当のところはわからないが、しかし最後に述べておこう。

 本作は、素敵なポップ・アルバムだ。

 偉大な作品でも、力作でもないが、実に楽しく聞ける。終わりまで聞くと飽きてくるが、また改めて聞きたくなる。『ロビンズ・レイン』のような「孤高の美」は感じないが、ポップ・アルバムとしてはひけをとらない。いや、ロビン・ギブの最高傑作といっておこう。

 

A1 「ジュリエット」

A2 「ハウ・オールド・アー・ユー」(How Old Are You)

 「ジュリエット」に続き、快調なテンポのポップ・ナンバー。どこかカントリー風なのは、モーリスの趣味か。コーラスでの彼の「ハウ・オールド・アー・ユー」の掛け声もアクセントになっている。

 

A3 「イン・アンド・アウト・オヴ・ラヴ」(In and Out of Love)

 本作は、メロディの良さでは一番だろう。とくにサビのコーラスは、絶妙なフレーズをビー・ジーズもかくやという見事なハーモニー[vi]で歌う。ビー・ジーズの代表作に劣らぬ素晴らしい出来だ。

 

A4 「キャシーズ・ゴーン」(Kathy’s Gone)

 「ハウ・オールド・アー・ユー」のテンポを少し落としたようなカントリー風のポップ・ソング。こちらもサビのキャッチーなメロディが聞きもの。

 

A5 「ドント・ストップ・ザ・ナイト」(Don’t Stop the Night)

 少しダークな雰囲気のマイナー調の作品。このアルバムでのロビンのヴォーカルは、どこか人工的で楽器の一部のような印象を与えるが、この曲はとくにその印象が強い。もっとも、サビの「ドント・ストップ・ザ・ナイト」とシャウトするところは、例のくせで、悲鳴のようだ。

 

B1 「アナザー・ロンリー・ナイト・イン・ニュー・ヨーク」(Another Lonely Night in New York)

 このアルバムでは、「ジュリエット」と並んで、印象に残るメロディの1曲。フォリナーの”Waiting for A Girl Like You”(1981年)にメロディが似すぎている[vii]というが、どうだろうか。この手の曲調やアレンジは他にもありそうな気がする。

 アンソロジー・アルバムにも収録しているので、ロビンは気に入っているようだ[viii]。確かに彼が好きそうなメロディでもある。

 

B2 「デンジャー」(Danger)

 A5同様、マイナー・キーの作品。バラードではないが、陰鬱でブルーな曲調。このあたりになると、そろそろ曲の見分けがつかなくなってくる。

 

B3 「ヒー・キャント・ラヴ・ユー」(He Can’t Love You)

 「ハウ・オールド・アー・ユー」や「キャシーズ・ゴーン」と同系統の曲。しかしサビのコーラスは、「イン・アンド・アウト・オヴ・ラヴ」とともに、本アルバムでも随一のキャッチーなメロディといえる。”He can’t love you baby like I do.”まで、いささかの渋滞もなく、耳をさらわれる快感をここでも味わえる。

 カントリー風のメロディとコーラスは、モーリスの力が大きいのかもしれない。

 

B4 「ハーツ・オン・ファイアー」

B5 「アイ・ビリーヴ・イン・ミラクルズ」(I Believe in Miracles)

 最後は、前曲に続き、ややシリアスな表情で、ロビンが情感をこめて熱唱する。切迫感のある曲調は、快適なだけで終わらせたくはない、という意気込みからだろうか。サビの“I believe in miracles.”もいかにもビー・ジーズらしいフレーズだ。

 

ビー・ジーズ「ウーマン・イン・ユー」(1983.5)

1 「ウーマン・イン・ユー」(Woman in You, B, R. & M. Gibb)

 ビー・ジーズのシングルのなかでは、もっともロックらしい作品といえるかもしれない。少なくともディスコ・ソングらしくはない。

 この時期に特徴的な、かなり複雑な構成の曲で、パワフルなコーラスから始まり、中盤のヴァースでメロディアスな展開を見せる。しかし、メロディにあまり魅力がないし、ロック風の割にはパンチが足りない(表現が古いか)。当時のビー・ジーズを取り巻く状況で、全米28位は健闘したほうか。

 

2 「ウーマン・イン・ユー」(Instrumental)

 この頃はシングル盤を買わなかったので、聞いたことがない。

 

サウンドトラック『ステイン・アライヴ』(Staying Alive, 1983.6)

 このサウンドトラックは、ビー・ジーズがRSOレコードと和解した後、契約上1枚残っていたアルバム制作をこなすために作られたものだという。なるほど、それでなのね、と思うような出来だが、さすがにそこまで(どこまで?)手を抜いてはいないだろう。しかし、契約上必要なアルバム制作をサウンドトラックで果たせることで、彼らもほっとしたのかもしれない。そうでなければ、『サタデイ・ナイト・フィーヴァー』から5年もたって、続編映画の音楽を引き受ける理由がわからない。しかも、アンチ・ディスコの風潮のなかで成功するはずがないのだから。

 ところが、アルバムは全米6位のヒットとなり、プラチナ・ディスクまで獲得する、一応の成功を収めた。しかし、これはビー・ジーズの功績ではない。シルヴェスター・スタローンが監督を務めたという話題性のおかげか。はたまた、彼の弟で音楽を担当したフランク・スタローンの「ファー・フロム・オウヴァ」のヒットによるものか。『フィーヴァー』の驚異的なセールスの9割はビー・ジーズの楽曲に起因するが、『ステイン・アライヴ』の売り上げにビー・ジーズが貢献した割合は1割に満たないだろう。

 このアルバムに関しては、楽曲の出来も結果に見合っているといえる。出来不出来のバランス云々以前に、凡作ばかり、というのは言い過ぎか。本作は、これまでのビー・ジーズのアルバムのなかで、もっともロック寄りの作品だが、そのことが楽曲の出来栄えに関係しているのかもしれない。要するに、相変わらずロックが書けないという欠点を露呈してしまったということだ。さすがに、このアルバムは作らなくてもよかった、と言わざるを得ない。

 

A1 「ウーマン・イン・ユー」

A2 「アイ・ラヴ・ユー・トゥー・マッチ」(I Love You Too Much, B, R. & M. Gibb)

 ダンス・ミュージックにしてはスローで、リズム・アンド・ブルースのバラードを狙ったのかもしれない。ヴァースではっきりしないメロディが続くが、サビのところは、わかりやすい調子のよいフレーズを繰り返す。悪くはないが、とにかく地味だ。

 

A3 「ブレイクアウト」(Breakout, B, R. & M. Gibb)

 一転して、軽快なポップ・ロック・ナンバー。こちらもとっつきやすい軽妙なフレーズが耳に残る。サビのコーラスもノリが良い。彼らのロック・スタイルの楽曲としては、まあまあの出来といったところだろう。

 

A4 「サムワン・ビロンギング・トゥー・サムワン」(Someone Belonging to Someone, B, R. & M. Gibb)

 唯一のバラードだが、この頃のバリーらしく、メロディがどんどん展開していって、なかなか戻ってこない。そのメロディもあまり魅力がなく、右から左に流れていってしまう。これだというフレーズを探り当てることができず、仕方なくだらだらメロディをつなげていった印象だ。

 アルバムの1曲としてなら充分だが、シングルは無謀だった。

 

A5 「ライフ・ゴーズ・オン」(Life Goes On, B, R. & M. Gibb)

 最後になって、ようやくビー・ジーズらしいメロディアスな佳曲に出会える。

 冒頭のメロディから聴き手を引きつけ、コーラスでは彼ららしいハイ・トーンのハーモニーが胸を打つ。やはり地味だが、これなら充分満足できる。

 

A6 「ステイン・アライヴ」(Stayin’ Alive)

 最後は、『フィーヴァー』の熱狂を思い出す「ステイン・アライヴ」のさわりのみのヴァージョン。おかげで、アルバム表題曲が収録されない、という『キューカンバー・キャッスル』以来の「怪」挙は回避された。もっともアルバム・タイトル(映画も)はStaying Aliveで、微妙に異なっている。実にどうでもよい話だが。

 『ステイン・アライヴ』は、一曲一曲を取り上げると、さほど悪くはない。それぞれによいところもある。凡作ばかり、というのは取り消そう。が、全体としては、やはり失望する出来だ。ビー・ジーズを聞いたという充実感が感じられない。それがすべてだ。

 

[i] 1980年も、アンディ・ギブ『アフター・ダーク』、ジミー・ラフィン『サンライズ』、バーブラ・ストライサンド『ギルティ』の3枚がリリースされたが、これらはいずれもプロデュース&ソングライティング担当の作品だった。

[ii] Joseph Brennan, Gibb Songs, Version 2: 1982.

[iii] Ibid.

[iv] Ibid.

[v] Ibid.

[vi] Ibid.

[vii] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.537; Joseph Brennan, Gibb Songs, Version 2: 1982.

[viii] Tales from the Brothers Gibb: A History in Song 1967-1990 (1990).

ビー・ジーズ1982

 1982年になると、ギブ兄弟は様々なプロジェクトを並行して進めるようになる。

 『リヴィング・アイズ』の失敗で、当面グループでの活動には見切りをつけた、とも見ることができる。ディオンヌ・ウォーリク、ケニー・ロジャースのアルバム制作、ロビンのソロ・アルバム、そして例外的な『ステイン・アライヴ』のサウンドトラックと、これらが1983年にかけての彼らの主な音楽成果である。ソングライター・チームとしての活動はむしろ活発になったといえる。

 とくに『ギルティ』の世界的成功で、バリー・ギブ、カール・リチャードソン、アルビィ・ガルテンのチームは、ソングライター、プロデューサーとして高い名声を得た。グループへの反動は依然強かったが、ギブ兄弟にとっては、80年代前半は非常に実りの大きな時期であった。

 

レオ・セイヤー「ハート」Leo Sayer, Heart (Stop Beating in Time) (1982.6) 

1 Heart (Stop Beating in Time), B, R. and M. Gibb

 バーブラ・ストライサンドやディオンヌ・ウォーリクのアルバムの陰に隠れて、あまり目立たないが、なかなかの快作。緩やかなテンポに乗って、やたらと上下する複雑な旋律を、セイヤーが素晴らしい歌唱力でパワフルに歌いこなしている。

 際立ったフックがあるわけではないが、セイヤーの声とアレンジの妙で、聞きごたえのあるレコードが出来上がった。

 

 

ディオンヌ・ウォーリク「ハートブレイカー」(1982.9)

1 「ハートブレイカー」(Heartbreaker, B, R. & M. Gibb)

 音の塊が充満しているような強烈なイントロに始まり、それがほどけていくと、ウォーリクの毅然とした歌声が聞こえ、ドラマティックな曲の緊張感をさらに高めていく。「ウーマン・イン・ラヴ」のフェミニンな曲調に比べると、同じマイナー調でも、力強さを感じさせるナンバーである。

 「ギルティ」のようなバカラック風のアーバン・ポップを期待していたウォーリクには、この情熱的なバラードはあまり好みに合わなかったようだが、さすがにトップ・シンガーに相応しく、自分流のアレンジを利かせながら、自在に曲をコントロールしている。

 全米チャートで10位、イギリスでは2位。ランキング以上に、「ウーマン・イン・ラヴ」、「ギルティ」と並ぶ、80年代のギブ兄弟の代表作である。

 

2 「アイ・キャント・シー・エニシング(・バット・ユー)」(I Can’t See Anything (but You), B, Gibb, A. Galuten, M. Gibb)

 めずらしくバリー=ガルテンのコンビにモーリスが加わって書かれた。

 三拍子の軽いタッチのバラードで、アルバムのなかでも地味な曲だが、サビのメロディは、いかにもバリーらしい。まずまずの出来、といったところか。

 

ディオンヌ・ウォーリク『ハートブレイカー』(Dionne Warwick, Heartbreaker, 1982.10)

 ディオンヌ・ウォーリクのアルバム制作は、バリーからの申し出だった、とは、日本盤の解説で、湯川れい子氏が書いている[i]が、当初は、ウォーリクを含めた3人の女性シンガーをヴォーカルに起用するというアイディアで、ガルテンが提案したものらしい。しかし、結果的には、バリーが電話したクライヴ・デイヴィスの意向で、ウォーリクのソロ・アルバム制作に落ち着いた[ii]、という。

 いずれにせよ、このチョイスは妥当な選択だろう。バーブラ・ストライサンドの成功を見れば、同タイプの女性ポップ・シンガーのプロデュースをバリー・ギブに任せようという発想に、当然なる。ストライサンドに匹敵するビッグ・ネームといえば、その筆頭はダイアナ・ロスかディオンヌ・ウォーリクあたりだろう。

 しかもウォーリクは、長年バート・バカラック=ハル・デイヴィッドの専属シンガーだった。ギブ兄弟が、レノン=マッカートニーと並んで、最高のソングライターに挙げるコンビである[iii]バカラック路線を狙って成功した「傷心の日々」の例もある。バリーが、ウォーリクと聞いて、興味を示すのも当然だろう。かくして、ストライサンドのときとほぼ同じ制作プロセスを経て出来上がったのが『ハートブレイカー』である。

 『ギルティ』もそうだが、成熟した女性シンガーのアルバムに相応しく、ドラマティックな構成を重視しつつもポップなフィーリングをちりばめ、それを華やかなアレンジで味つけする、というやり方が取られている。スティーヴ・ガッドら、お馴染みのセッション・プレイヤーでサウンドを固め、ビー・ジーズでは果たせなかったような完成され、洗練されたレコードを作り上げることに成功している。

 違いと言えば、ストライサンドがハリウッド・スターでもあったためか、演劇的な趣向のアレンジなど、より多彩なスタイルの楽曲を揃えたのに対し、ウォーリクの場合は、当然のことながら、黒人シンガーであることもあって、ソウル・ポップに統一された印象を受ける。「ハートブレイカー」について、モーリスが、「僕らがやるべきじゃないか、と思った」、と語っているように[iv]、1970年代後半のビー・ジーズに近いサウンドといってもよいかもしれない。『ギルティ』に比べると、やや一つのスタイルにまとまりすぎたかもしれない。楽曲も『ギルティ』ほどのクォリティには達していない。まあ、それは仕方がない。『ギルティ』のレヴェルを続けられるとしたら、とんでもないことだ。

 タイトル曲のほかでは、バラードの「ユアーズ」、ポップなメロディの「オール・ザ・ラヴ・イン・ザ・ワールド」あたりが印象に残る。他は、それほど強いインパクトがある楽曲ではないが、いずれもソフィスティケイトされた軽やかなタッチのナンバーが多い。ウォーリクは、それらを、ときに軽快に、ときに力強く歌い、トップ・シンガーの実力を見せつけている。

 ライターは、バリーとロビン、モーリスによる5曲と、バリーとガルテンによる4曲(1曲は、モーリスが参加)と、『ギルティ』と同じバランス。『ギルティ』ほどの成功には至らなかったが、「ハートブレイカー」はギブ兄弟の代表作のひとつとして残った。

 

A1 「ハートブレイカー」(Heartbreaker)

A2 「イット・メイク・ノー・ディファレンス」(It Makes No Difference, B. Gibb and A. Galuten)

 2曲目はバリーとガルテンの共作。ガルテンよりバリーのスタイルに近いだろうか。サビの例によって小刻みなメロディ進行が彼らしい。

 いきなり「ギルティ」「ウーマン・イン・ラヴ」の二枚看板で幕を開ける『ギルティ』に比べると、いささか地味な並びだが、これはこれで、スマートなポップ・ナンバー。

 

A3 「ユアーズ」(Yours, B, R. and M. Gibb)

 いかにもギブ兄弟らしいスローなバラード。この曲などは『ギルティ』からの流れを感じさせる。メロディのよさでは、アルバムを代表する佳曲といえるだろう。

 

A4 「テイク・ザ・ショート・ウェイ・ホーム」(Take the Short Way Home, B. Gibb and A. Galuten)

 再びガルテンとの共作で、彼らしいしゃれたメロディで、バカラック・シンガーであったウォーリクの魅力を存分に引き出している。曲自体はそこまでの出来ではないが。

 

A5 「ミスアンダーストッド」(Misunderstood, B, R. and M. Gibb)

 いかにも、この時代のギブ兄弟、というより、バリー・ギブらしい曲。

 ムーディなイントロから、例によって、早口言葉のような小刻みなメロディのソウル・ポップ・バラード。

 しかし、気になるのは、ヴァース、展開部、コーラスがバラバラな感じで、ぎくしゃくするとまでは言わないが、まとまりが悪く感じる。そのくせ、各パートは型通りに展開するので、無理やり作った感が拭えない。

 ラスト、ウォーリクのヴォーカルを追いかける輪唱のような掛け合いコーラスは悪くないが。

 

B1 「オール・ザ・ラヴ・イン・ザ・ワールド」(All the Love in the World, B, R. and M. Gibb)

  『ハートブレイカー』のなかでは、もっともわかりやすいポップなナンバー。どこかカントリー風でもある。

 何といっても、サビのキャッチーなメロディが耳に残る。郷愁を感じさせる曲調は、「ハートブレイカー」とは別の意味で、本アルバムの代表作といってよいだろう。全米ではヒットしなかったが、イギリスでは10位にランクした。

 総じて、『ハートブレイカー』はアメリカより、イギリスで受けたようだ。

 

B2 「アイ・キャント・シー・エニシング(・バット・ユー)」(I Can’t See Anything (but You))

B3 「ジャスト・ワン・モア・ナイト」(Just One More Night, B. Gibb and A. Galuten)

 バラードだが、ウォーリクの力強い歌唱が目立つ。コーラスから始まるスタイルだが、ヴァースのメロディがバリーっぽいだろうか。

 メロディも印象的で、なかなかの佳作と思える。

 

B4 「ユー・アー・マイ・ラヴ」(You Are My Love, B, R. and M. Gibb)

 ギブ兄弟による軽いタッチのソウル・ポップ・ソング。軽やかでキャッチーな曲だが、あまり強い個性が感じられない。『ギルティ』に比すると、その辺が『ハートブレイカー』は少し弱かったようだ。

 

B5 「燃ゆる初恋」(Our Day Will Come)

 最後は、1963年の大ヒット・ナンバー。確かにウォーリクにはうってつけの曲だろうが、ここで出てくるのは、やはり唐突過ぎる。バリーのコーラスも不要だった。

 

[i] ディオンヌ・ウォーリク『ハートブレイカー』。

[ii] The Bee Gees: Tales of the Brothers Gibb, p.524.

[iii] Ibid., p.525.

[iv] Ibid.

E・クイーン『九尾の猫』

(本書の内容に触れているほか、横溝正史悪魔の手毬唄』に言及しています。)

 

 『九尾の猫』(1949年)は、『災厄の町』と並ぶエラリイ・クイーンの最高傑作である。・・・と、いうのが、アメリカでの評価らしい。フランシス・ネヴィンズ・ジュニアの『エラリイ・クイーンの世界』[i]でそれを知らされた日本の読者は吃驚したに違いない(私も驚いた)。

 そもそも、本書は、1978年にハヤカワ・ミステリ文庫で復刊される[ii]まで、長い間入手不可能な長編だった。解説で訳者の大庭忠男が述べているとおり、前年にフレデリック・ダネイが来日した、その影響による復刊だったのだろう[iii]。読みたくとも読めない状態が続き、評価しようにもできない時期が長かったのだ。

 かといって、それでは1978年以降、評価が急上昇したのか、と言われると、なんとも言い難い。正直、国名シリーズなどと比較すると、あるいは、『災厄の町』あたりと比べても、パズル・ミステリとしては、それほど感心できない、という人が多かったのではないだろうか。テーマはミッシング・リンクで、連続殺人が起こるが、被害者の間に殺害動機となるような共通の要素は見当たらない、という謎である。この被害者の間の共通項について、中盤で意外な事実が明らかとなるが、ここは確かに、あっと言わせる。しかし、ほかには大した推理は楽しめず、犯人らしき人物は自然と明らかになる。終盤、追跡と逮捕の場面が延々と描かれ、その後、もう一段ひっくり返されて、真犯人が判明する。しかし、国名シリーズのような意外な犯人ではなく、意外な推理も見られない。最初に犯人と思われた人物がかばっているのが犯人だ。かばう相手は一人しかいない、というわけで、ほぼ自動的に犯人が暴かれて、幕となる。クイーンの偏執狂的推理を期待したい向きには、肩透かしのような謎解きで、その意味では、長く絶版だった理由がわかる。端的に言って、さして面白くないし、クイーンらしくもない。

 しかし、今日では、日本でも、エラリイ・クイーンの代表作として認識されているらしい。パズル・ミステリとしてというより、名探偵エラリイ・クイーンの年代記における節目の作品として評価されているようだ。それが、果たして、ミステリの正しい評価の在り方なのかどうかは別として、確かにシリーズ全体のなかでみれば、道標のような小説であり、その意味で最高傑作とも言える。

 1980年代以降、空前のブームとなった、サイコ・キラー、シリアル・キラーものの先駆という捉え方もある。通称「猫」による連続殺人の恐怖に、ニュー・ヨーク中が大混乱に陥る。作半ば、自然発生的な暴動シーンが描かれ、巻き込まれたエラリイが、朝の冷気のなかで呆然と自問自答する場面は、都市を舞台としたパニック小説ともとれる本書を象徴している。とはいえ、近年の狂気の殺人もので知られたジョナサン・ケラーマンやジェイムズ・ディーヴァーらの大長編と比べると、少々あっけないし、読みごたえに欠けるが、それはしようがない。現代ミステリ作家の旺盛な筆力と力技を目の当たりにすると、1930~40年代ミステリなど、吹けば飛ぶような軽量級に見えるし、現代サイコ・キラーものの驚くほど具体的で生々しい暴力描写の迫力を体験した後では、本書の描写は、お上品でお行儀が良すぎる印象である。

 だが、その分、『九尾の猫』には、生と死の対比が象徴性を高めて、文学味豊かなミステリの風格を感じさせる。連続殺人ものとは思えないような、ある種の静謐さが漂い、人間の誕生と暴力による死を結び付けた主題は、前作の『十日間の不思議』同様、ミステリらしからぬ寓話めいた輝きを放っている。

 こうしてみてくると、やはり本書は、パズル・ミステリとしてよりも、寓意小説として読むべきものなのだろうか。そこまでいわずとも、サイコ・キラーものとなれば、物的証拠よりも、犯人の精神構造の分析が問題となるわけで、本来、クイーン流の論理的推理とは相性が悪い。華麗なるパズルの完成とはいかないのも無理はない。

 けれど、最終章、エラリイとベーラ・セリグマンの対話を通じて、真相が明らかになる場面は、前作『十日間の不思議』でもそうだったが、簡潔で短いセリフの応酬で、加速度的に緊張感が高まっていく。異様なサスペンスを感じさせる本書最大の見せ場である(真相を解明するのだから、当然だが)。『十日間の不思議』の迫力には及ばないにせよ、この対話が生みだすスリルこそが、『九尾の猫』を傑作にしているとさえ思える。確かに、やや大げさで、張扇で見栄を切っているようなところはあるが、『十日間の不思議』、『九尾の猫』で確立するクイーンのスタイルが、『災厄の町』などとも、また異なる、独特のテンポとリズムを作品に与えているのは事実である。これは、どうやらダシル・ハメットらのハードボイルド・ミステリの影響によるのではないか、と思われる[iv]。あるいは、むしろアーネスト・ヘミングウェイからだろうか。

 例えば、レイモンド・チャンドラーとエラリイ・クイーンの比較研究[v]。これも、1940年代のアメリカ・ミステリを考えるうえで、重要なテーマのひとつであるようだ。

 

 と、きれいにまとまった(?)ところで、ここで終わればよいのかもしれないが、しかし、最後に言っておかなければならないことがある。本書の謎解きには、どうにも承服しがたい点があるのだ。

 この事件の犯人は、本当にカザリス夫人なのだろうか、ということである。

 いくらサイコ・キラーだとしても、夫人に9人もの男女を絞殺することができたとは到底思えないのだ。

 横溝正史の『悪魔の手毬唄』(1957-59年)も、三件の連続殺人が三夜にわたって続くが、本当にこの人物にこれだけ手際のよい犯行が可能なのか、と思うような犯人だった。鉄腕稲尾(たとえが古すぎるなあ)か、と思うような連戦連投の奮闘ぶりだが、こちらは被害者が全員年若い女性だから、まだわからなくもない。

 けれど、本書の場合は、男女合わせて9人もの大量殺人なのだ。連日連夜というわけではないにせよ、次第に警察による捜査が厳しくなり、人々の警戒感が高まるなかで、これほど要領よく殺人を繰り返すなど、とても素人とは思われない。上流階層の婦人のやれる類のことではないだろう。

 作者も、男性の被害者は三人で、しかもうち二人は小柄、最後の20代の被害者は酔っていた、と、女性犯人でも矛盾が生じないように配慮はしている(犯人にとって、僥倖過ぎる気もする)が、それにしても、この人物が犯人とは。一体どうやって被害者に疑惑を持たれることなく近づき、絞殺してまわったのか、もっと具体的に犯行方法を説明してほしいものだ。

 と、そこまで詰め寄ることもないが、犯行経過について何の説明もなく、ただ、この犯人を受け入れろ、というのは、相当無理があるのではないだろうか。

 

 そうか、わかった!犯行はカザリス博士と夫人の共犯だったのだ。エラリイは否定しているが[vi]、そうとでも考えなければ、納得ができない。

 「いや、それはないでしょう。最後のマリリン・ソームズ襲撃で、カザリスは夫人をかばって逮捕されたのですから。」

 「違うね。カザリスは誰もかばってなどいない。あの襲撃は、実際に殺そうと思って失敗したのに過ぎないんだよ。犯行を重ねるうちに、注意力が散漫になったのだ。よくあることさ。」

 「経験者みたいですね。しかし、それでは、二人の殺人動機はいったいどうなっているのですか。カザリスは生まれてくるわが子をその手で殺したと思いこみ、夫人に罪の意識を感じている。夫人は夫がわが子を奪ったと信じ、復讐のために夫が取り上げた子供を殺そうとする。その二人が協力して殺人に勤しむなど、支離滅裂ですよ。」

 「よし、わかった。犯人はベーラ・セリグマンだ。」

 「何言ってるんですか。頭がおかしいのはあなたのほうみたいですね。第一の殺人のときに、カザリスとともにチューリヒにいたセリグマンが犯人のわけないでしょ。」

 「第一の殺人は、後続の事件とは無関係だったんだ。これは模倣殺人だったのだよ。」

 「駄目駄目。単一犯による犯行だと、エラリイが証明しています。大体、ウィーンにいるセリグマンがどうやってニュー・ヨークで連続殺人を犯せるのですか。」

 「単一の犯人による犯行、というのは、エラリイの思い込みに過ぎない。それに、エラリイがウィーンに行けたんだから、セリグマンに逆のことができないわけがないだろう。第二の殺人以降のセリグマンのアリバイを調べたのかね。」

 「(むっとして)セリグマンは、どのようにして被害者を探し当てたのですか。被害者は、カザリスが取り上げた赤ん坊たちですよ。」

 「言うまでもない、カザリスの家に忍び込んで、カルテを見たのさ。最初の殺人が、たまたまカザリスが取り上げた子供だったことが、この模倣殺人の引き金となったんだ。恐らく、チューリヒから戻ったカザリスがお礼の電話か手紙をセリグマンに送ったときに、何気なくこのことを伝えたに違いない。エラリイが捜査に加わったことも、彼がセリグマンに教えたんだろう。ああ、何と恐ろしい偶然なんだ!」

 「あのね、いいですか。高齢のセリグマンに、こんな連続殺人が可能なはずないですよ。」

 「(ニンマリして)いやいや、高齢のセリグマンに不可能だというなら、カザリス夫人にだって不可能だよ。」

 「(軽蔑の眼差しで)なんでセリグマンが連続殺人など行うんです。動機は何です?」

 「もちろん、エラリイに対し、優位に立つためだよ。マウントをとる、というやつだ。彼は、クイーンのミステリのファンだったんだ。その作者を自分の支配下に置きたかったのさ。迷える名探偵を導く神の役割を務めたかったんだ。」

 「始末に負えない人だな。」

 

[i] フランシス・M・ネヴィンズJr(秋津知子他訳)『エラリイ・クイーンの世界』(早川書房、1980年)、189頁。フランシス・M・ネヴィンズJr(秋津知子他訳)『エラリイ・クイーンの世界』(早川書房、1980年)、193頁。

[ii] 『九尾の猫』(大庭忠男訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1978年)。

[iii] 同、413頁。

[iv] 江戸川乱歩の単行本未収録評論を読み直していると、様々に発見があるが、エラリイ・クイーンの戦後長編にハードボイルド・ミステリの影響があることも、乱歩がすでに指摘している。クリスティばかりでなく、江戸川乱歩にも脱帽しなくてはならない。江戸川乱歩「内外近事一束」『子不語随筆』(講談社文庫、1988年)、70頁。

[v] フレデリック・ダネイとマンフレッド・リーの書簡集を読むと、チャンドラーの『リトル・シスター』が『コスモポリタン』誌に掲載されたのに、『九尾の猫』は拒否されたことに、ダネイが憤懣をぶちまけていて、つい笑ってしまうが、リーもダネイに同調して、「〇〇な小説だ」などと言っている(正確に知りたい人は、書簡集を読んでください。私には書けません)。勝手な想像だが、ハメット(あるいはヘミングウェイ)のスタイルを正しく取り入れているのは、むしろ自分のほうだ、とリーは内心考えているのではないか、などと思ったりもする。ジョゼフ・グッドリッチ編『エラリー・クイーン 創作の秘密 往復書簡1947-1950年』(飯城勇三訳、国書刊行会、2021年)、228-29、234-38頁。

[vi] 『九尾の猫』(越前敏弥訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、2015年)、461頁。