神は死して、神は去る-『十日間の不思議』

 『十日間の不思議』は、日本では「不思議な」運命を辿ってきた作品である。かつて、小林信彦が本書について、書評のなかで取り上げていた。少し長いが、引用しよう。

 

  「ポケ・ミスにして三百頁以上の厚さで、登場人物は四、五人しか出ないので、さ

 ぞかし面白いだろうと思ってよんでいったのですが、よみ終えて呆然とするような失

 敗作でした。このおよそ単純きわまる事件をクイーンのようなオツムのよろしい名探

 偵が「不思議な事件だ」という方がよっぽどフシギなのですが、読了するに及んで、

 わがE・クイーンがこういう小説を書いたことの方が、はるかにフシギに思われてき

 ました。(以下、略)」[i]

 

 パズル・ミステリとして読めば、当然、こういう感想になるだろう。主要登場人物は、エラリイを除けば、ライツヴィルの富豪ディードリッチ・ヴァン・ホーン、その妻のサリー、養子のハワードの三人。他にディードリッチの母親、弟のウルファートがいるが、いずれにしても、舞台はヴァン・ホーン家にほぼ限定され、容疑者たりうるのも以上の数人に過ぎない。一応、偽の解決と真の解決が用意されて、ミステリとしての体裁は整っているが、なんという意外な犯人だ、などと感激する読者はいないだろう。ただ、最後に述べている「こういう小説」が、「どういう」小説を指しているのかが興味深い。単純に結末のわかりきったミステリ、という意味なのか。それとも、本書の主題についてなのか。

 ともあれ、本書については、長い間、小林のような評価が一般的だった。『十日間の不思議』は、クイーンの衰えを顕著に示す作品で、同時に、その後、クイーンが変な方向に向かっていく第一作と捉えられていたように思う。

 その評価が百八十度ひっくり返ったのが、フランシス・M・ネヴィンズ・ジュニアによる『エラリイ・クイーンの世界』が翻訳されてからで、まさに『殺人交差点』なみのどんでん返しだった。何しろ、「クイーンがやってみせるまで探偵小説とはとうてい両立しないと思われた次元の広がりを併せ持ったすばらしくも豊かな作品」であり、「汲めども尽きせぬ興味あふれる本」であって、「クイーンの作品のベスト六位以内に入ることは確実である」[ii]、というのだから、彼我の差には仰天せざるを得なかった。

 しかし、ネヴィンズ・ジュニアの評価には、パズル・ミステリとしてのそれは含まれていないようだ。いうまでもないことだが、上記の言葉は本書の型破りの主題[iii]に対する賛辞であって、小林の「こういう小説」という発言もそのつもりの意味なのかもしれない。

 で、その主題だが、もったいぶることもない。「十戒」である。

 しかし、このテーマは果たしてミステリのアイディアとして優れている、といえる類のものなのだろうか。

 確かに、ネヴィンズ・ジュニアのいうように、欧米の読者にとっては、「十戒」とミステリの結びつきは驚嘆すべきものなのかもしれない。が、旧訳の解説で鮎川哲也が述べたように、「異教徒(ペーガン)であるわれ等には、十誡がどうのこうのといわれても、ピンとくるものがない」[iv]、というのが本当のところだろう。鮎川がこれを書いたのは、半世紀近くも前のことだが、現在のミステリ読者が、この頃よりも欧米の宗教や歴史に関心を持つようになったとも思えない。果たして、現代のクイーン・ファンは、十戒殺人のアイディアを読んで、感動に打ち震えるのだろうか。それに、鮎川の解説は全体に奥歯にものが挟まったようで、クイーンの「筆力」が「傑出している」[v]ことは褒めているが、パズル・ミステリとしては・・・、と思っているらしいのが、ありありと見て取れる。

 また、ネヴィンズ・ジュニアの評伝では、「神学」とか「神々の戦い」といった言葉[vi]が用いられ、以後、本書を語る際に、クイーンの「神学テーマ」[vii]作品という形容が決まり文句のように付くことになった[viii]が、そんな大げさなものなのだろうか。真面目に論評することでもないのだが、別に、本書でキリスト教の教義の解釈をめぐって議論が戦わされているわけでもない。要するに、宗教をネタに使っているだけだろう。フレデリック・ダネイの書簡を読むと、「この十戒のテーマは、センセーショナルな題材だ」[ix]、と書いていて、(あたりまえだが)奇抜なミステリのアイディアとしてしか考えていない(ようだ)。

 むしろ、日本の読者にとって興味がわくとすれば、本書がパズル・ミステリのメタファーになっていることだろう。ミステリの名探偵は超人的な頭脳の持ち主たちで、しばしば「神のごとき名探偵」などと表現される(神津恭介という名探偵もいるくらいだ)。一方で、ミステリの犯人は、これはもう間違いなく小説中の神のような存在である。密室だったり、足跡のない殺人だったり、読者を混迷の渦に巻き込む謎の作り手なのだから。すなわち、パズル・ミステリは、「神のごとき」犯人と、「神のごとき」名探偵の覇権をかけた戦いを描く小説である。『十日間の不思議』は、そうしたパズル・ミステリの本質を、ある意味、グロテスクに誇張してみせた寓話、もしくはパロディといえる。ネヴィンズ・ジュニアが、本書について「神々の戦い(Theomachy)」と言っているのは、その意味かと思っていたのだが、違うのだろうか。

 もっとも、一神教ユダヤ教キリスト教では、「神殺し」[x]はあっても(いや、ないか)、「神々の戦い」にはならないはずだが、そしてこれはネヴィンズ・ジュニアによる言い回しに過ぎないのだが、熱心なユダヤ教徒だったというダネイにとって、本書のテーマはどのくらいシリアスなものだったのだろうか。十戒は、『旧約聖書』の話だが、もちろん、本書のディードリッチもハワードもキリスト教徒である。ユダヤ教徒のダネイには、キリスト教をミステリのテーマに取り入れることに抵抗はなかった、ということだろうか。学術的なテーマなど本書にはないだろう、といったが、本当のところ、ダネイは、このアイディアをどういう気持ちでリーに提示したのだろう。

 第一部の最後で、エラリイが真相(の一部)を解き明かすが、まるでエラリイ自身がモーセのごとき重々しさで推理を繰り広げるのに対し、聞かされたチャランスキイ検事らがきょとんとしているのを読むと、十戒殺人のアイディアにいきり立つダネイを、まあまあ、とリーが宥めているようにもみえる。書簡集を読んだ後では、いよいよこの感が強い[xi]

 ミステリとしての技巧の面に眼を向けると、本書の犯人は、「神のごとき犯人」のなかでもきわめつけの超越者で、人間を自在に操る。それはもう、「人形使い[xii]さながらであるが、実際には、ハワードの記憶喪失というか、夢中遊行という都合のよい設定を利用してのことである。この設定抜きでは、本書の犯人の企みも実行不可能で、墓荒らしの場面など、まさにそうである。ダネイもいろいろ苦心したのだろうが、神のごとき犯人にしては、少々せこい。他の工作に関しても、あまりにも犯人の計画通りに進んで、エラリイを含めた全員が操り人形のごとく行動するのは、やはり都合がよすぎる気もする。犯人の思惑通りには事件が進まないことによって謎が生まれる[xiii]、というのが、いわゆるモダン・ディティクティヴ・ストーリー[xiv]だろうし、要するに、不自然さの少ない方向にミステリは変化していった。すでに第二次大戦後のミステリで、このような超人的犯人が寸分の狂いもなく計画を遂行していくのは、ミステリの変化に逆行しているともいえ、はなはだしく人工的に見える。本書が、寓話ないしパロディ足らざるを得ない所以だろう。

 また書簡集からの情報になるが、「十戒殺人」を構成する一連の事件が陳腐であるというリーの批判に、ダネイが、平凡であることがリアリティを保持する、そうでなければ全体がファンタジーになってしまう[xv]、と説明しているのは頷ける。ダネイにしてみれば、本書を、人工的ではあっても、幻想ミステリではなく、あくまで日常の現実のなかで進行する象徴的な寓話として仕上げたかったのだろう。

 いろいろと批判的なことも述べてきたが、最後に、本書に対する個人的な好みをいうと、エラリイ・クイーンの長編小説のベスト・ファイヴに入る。なぜかというと、第二部の「十日間の不思議」が何とも言えず面白いからだ。それまでの前半は、確かに、平凡な出来事の連続で、正直退屈だが、長い後日談のような第二部は違う。本作あたりから顕著になる、短い文章を頻繁に改行して畳みかけていくスタイルが、見事に効果をあげている。エラリイが、サリーの名前のアナグラムに思い当たる場面などは、クイーンの小説のなかでも、もっともスリリングな箇所である。

 犯人との対決のシーンも、それまでの作品にない異様な熱気が感じられて(錯乱状態のエラリイにあてられたのかもしれないが)、引き込まれる。この第二部だけ、何度読みかえしたことか。まさしく、エラリイ・クイーンの最高傑作である(第二部限定だが)。

 さらに、本書の最後の文章も、すべてのクイーン長編のラスト・シーンのなかの白眉といってよい。ここだけは、見事に文学的だ(ちょっと、ヘミングウェイっぽいが)。

 

  「だが彼は、ヴァン・ホーン家の車道に足を下ろして、ライツヴィルまでの長い夜

 道を歩きはじめた。」[xvi]

 

[i] 小林信彦『地獄の読書録』(筑摩書房、1989年)、38頁。

[ii] フランシス・M・ネヴィンズJr(秋津知子他訳)『エラリイ・クイーンの世界』(早川書房、1980年)、189頁。しかし、2013年の『推理の芸術』では、「最も興味をそそり、最も論議の的となったクイーンの本」というにとどめている。フランシス・M・ネヴィンズ(飯城勇三訳)『推理の芸術』(国書刊行会、2016年)、243頁。

[iii] ネヴィンズ・ジュニアも最初に、「クイーンの作品中一番の異色作」と断っている。同、185頁。

[iv] 『十日間の不思議』(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)、417頁。

[v] 同、416頁。

[vi] 『エラリイ・クイーンの世界』、187-88頁、『推理の芸術』、245頁。

[vii] 「神学テーマ」というなら、相応しいのはG・K・チェスタトンの『木曜の男』だろう。『木曜の男』(吉田健一訳、創元推理文庫、1960年)、『木曜だった男 一つの悪夢』(南條竹則訳、光文社文庫、2008年)。江戸川乱歩「『不可能派作家の研究』-前田隆一郎君の広島大学修士論文-」『子不語随筆』(講談社文庫、1988年)、183-84頁参照。

[viii] 飯城勇三エラリー・クイーン パーフェクトガイド』(ぶんか社文庫、2005年)、70頁。

[ix] ジョゼフ・グッドリッチ編(飯城勇三訳)『エラリー・クイーン 創作の秘密 往復書簡1947-1950年』(国書刊行会、2021年)、56頁。

[x] 『十日間の不思議』、407-409頁。

[xi]エラリー・クイーン 創作の秘密』、49-97頁。

[xii] ロバート・A・ハインラインSF小説のタイトル。

[xiii] 好例は、ニコラス・ブレイクの『野獣死すべし』(1938年)。

[xiv] 都筑道夫『黄色い部屋はいかに改装されたか?』(晶文社、1975年)。

[xv]エラリー・クイーン 創作の秘密』、56-57頁。

[xvi] 『十日間の不思議』、414頁。新訳は読んでいないので、青田訳から。

狐を嗅ぎ出せ-『フォックス家の殺人』

 『フォックス家の殺人』(1945年)は、『災厄の町』とともに、第二次大戦後のエラリイ・クイーンを代表する長編と見られてきた・・・日本では。

 戦後間もない随筆で、江戸川乱歩は、これら二編を取り上げて、クイーンの作風の変化の大きさに触れながら、『フォックス家の殺人』について、「殊に後者は全く挑戦のない、ごく地味なきめの細かい作風であって、一口で云えばクィーンが大人になったという感じである」[i]、と記している。これを受けてか、中島河太郎は、『災厄の町』を「ロス名義の作品に現れたあの重厚な作風となっている。ライツヴィルといういなか町の地方色をあざやかに浮かばせながら、登場人物の描写にも深味を見せ、意外性や動機などにも周到な用意があって、・・・地味ながらも彼の新しい傾向を示す力作である」、と激賞し、続けて「それは、『フォックス家殺人事件』(四五年)にも受けつがれており、クイーンの再生を語るものとして期待された」[ii]、と述べている。どうやら、クイーンは一度死んでいるらしい。

 これらの評論のせいか、クイーンの長編で読むべきは、『災厄の町』『フォックス家の殺人』まで、という一般的な評価が定着していたように思われる。

 ところが、フランシス・ネヴィンズ・ジュニアのクイーン伝が翻訳されて、風向きが変わった。『災厄の町』はクイーンの最高傑作と認められるが、それと比肩するのは『十日間の不思議』と『九尾の猫』で、その中間の『フォックス家』は、エアポケットに落ちたような印象だった。無論、「クイーンの作品中、真実探求の興奮をこれほどよく伝える作品は他にはない」、「知的昂揚のイメージがここにはある」、と一応称揚してはいるが、「登場人物がうまく描けているとはとうていいえず、他の作品に比べて文章もかなり平板、プロットの出来も劣っている」[iii]、と、よく読むと、全部駄目、と言っているような辛辣さである。その後に出た増補版では、こうした酷評はカットされたようだ。その代わりに、マンフレッド・リーの愚痴(フレデリック・ダネイに、うるさく指示されたことに対する)が紹介されている(リーには申し訳ないが、すごいおかしい)[iv]

 もうひとつ、ネヴィンズ・ジュニアは、はっきりとそうは口にしていないが、日米の評価に共通するのは、どうやら一言で言える。「地味」、ということらしい。

 確かに、クイーンの作品のなかでも、これ以上地味なものはないかもしれない。12年前に起きた殺人事件の調査に、エラリイが再びライツヴィルを訪れる。しかし、町を描くことが目的のひとつであったらしい『災厄の町』と比較すると、本書では、ライツヴィル、あるいはそこに住む人々はほとんど登場せず、物語はもっぱら一家族の間で進行する。果たして、ライツヴィルを再登場させる必要があったのかとも思うが、ネヴィンズ・ジュニアの解釈では、ニュー・ヨークではこのプロットはうまくいかない。過去の殺人事件の解決を扱う場合、人々の記憶と事件現場の保存が頼りとなるが、大都会では、それは現実的ではない。人々の記憶も犯罪の場も短い間に消失してしまう、というのである。逆に、事件解決に必要な情報収集のために、登場人物があまりに鮮明に事件の細部を記憶しているというのも本当らしくない。その辺を、クイーンは不自然でなく描いている、という。

 物語の焦点は、『災厄の町』同様、毒殺事件で、夫が渡したグレープ・ジュースを飲んだ妻が死亡する。疑いは、当然、夫にかかり、審理にかけられ、有罪が宣告され、今でも服役している。夫妻には、まだ幼かった息子がおり、彼デイヴィー・フォックスは、第二次大戦に参加して、歴戦の勇士となって故郷に戻ってくる。若妻リンダに迎えられて、ライツヴィルの名士となった彼だが、その精神は、戦闘中の友人の死によって、ひどく傷ついていた。トラウマは、殺人者の息子であるという事実と結びついて増幅し、デイヴィーは次第に妻との結婚生活に不安と恐怖を覚えるようになる。そして、ある夜、ついに彼は隣に眠る妻の首を絞めて殺しかけてしまう。

 という具合に、戦後、流行したニューロティック・サスペンスのような出だしで、デイヴィーが次第に精神を蝕まれていく過程が、クイーンにしては珍しく、じっくりと書き込まれている。リーが、これなら書きたいと思って、力を入れたのだろうか。ストーリーは、デイヴィーとリンダが、エラリイのもとを訪れ、父親であるベイアード・フォックスの無実の証明を求めるまでが第一部である。父の無実が証明できれば、デイヴィーの精神不安も解消されるのでは、というのが二人の希望なのだ。

 以下、第二部では、第一部の心理サスペンス的展開とうって変わって、毒殺トリックをめぐるディスカッションと相成る。これまでの毒殺テーマのミステリの総ざらえという感じで、突然、推理クイズのような話になって、この急展開には吃驚する。

 被害者ジェシカ・フォックスがどのようにして毒を飲まされたのか、エラリイはあらゆる可能性を俎上に載せるが、ベイアード以外を犯人とする推理はすべて否定されて、捜査は行き詰まる。物語も行き詰まって、このあと、第三部になると、突如、新しい証拠が発見されて、むしろベイアードの有罪が決定的になるやに思われる。

 この第三部の唐突さ加減は、読んでいてひっくり返りそうになる。本来、中編小説程度のプロットを長編に仕立てようとした苦心の策なのだろうが、あるいは、あまりに静的なストーリーにいくらかでも動きを与えようとしたのか。いずれにしても、これほどあからさまにプロットの引き伸ばしをはかった小説は初めて見た、いや、読んだ。まるで取って付けたようで、違和感丸出しである。要するに、この第三部はまったく必要ない。第二部のあとに、直ちに第四部に繋げれば、もっと短時間で読了できる。首尾一貫もしている。しかし、それでは、あまりにあっけなさすぎる、と作者も思ったのだろう。ジョルジュ・シムノンのメグレ・シリーズなみのヴォリュームになってしまう(悪口ではありません。私は、メグレものも大好きです)、と、考えたのか。

 しかし、第四部で、ピッチャーに残ったジュースの滓のあとから意外な推理が導かれ、意外な訪問者があったことが明らかになる過程は、いかにものクイーン調である。最後に明かされる真相も、クイーン自身の代表作(タイトルは挙げるまでもない)とかぶるが、これはこれで意外性充分である。

 もっとも、この犯人のアイディア、本来クイーンの独創ではないのはもちろんだが、1930年代の長編では、基本アイディアに卓抜なアレンジを施して、傑作に仕上げていた。『フォックス家』は、しかし、むしろ、このアイディアの原型に回帰したかたちになっている。つまり、練りに練った計画犯罪ではない。つまり、後から書かれた『フォックス家』のほうが、タイプとしては古い。これをどうとらえるかは、人によって異なるだろうが、本書のほうが自然だと感じる人はいるだろう。

 もう一点、本作のラストで、真相を聞かされたベイアードがエラリイに語る言葉は、ミステリの枠にとどまらない感動を読者に与えるが、批判的な見方もある。都筑道夫の発言が典型であろう。ベイアードが真相を隠したまま残りの人生を生きていく、と決意した場面をとらえて、それではなんの解決にもならない、と断じたあと、こう述べている。

 

  ・・・ライツヴィルものでクイーンはそれまでのパズル趣味の小説から、小説とし

 ての推理小説に歩み出した気で当人はいるらしいけれども、小説にはなってないんじ

 ゃないかと[v]

 

 言いますねえ、都筑先生。

 確かに、小説として考えると、都筑の言っていることの方が正しいのかもしれない。あるいは「論理的」に考えると。しかし、現実に、もし同じような立場になったとすれば、世の親たちの反応は、むしろベイアードに共感しそうであるし、また読者受けもよさそうである。

 ともあれ、本書は、クイーンの長編ミステリのなかでも、もっとも自然で無理のないプロットをもった作品といえるだろう。『十日間の不思議』以降の、無理ありまくりのヘンテコ長編と比べると、不自然さが少ない(構成はものすごく不自然だが)。その意味でもシムノン=メグレ風ミステリと言えるかもしれない。

 

 最後に蛇足を。小説のラスト、町の噂屋であるエミリーン・デュプレの姿を見かけたエラリイは、こうつぶやく。「あなたにも、ライツヴィルの誰にも、この秘密(殺人の真相のこと-筆者)は嗅ぎ出せるものじゃない」[vi]。うかつなことに、これまで気がつかなかったが、この「嗅ぎ出す」は、無論、タイトルの「狐」に引っ掛けたもので(「秘密を嗅ぎつける」-「狐の匂いを嗅ぎつける」)、原文もちゃんとsmell out[vii] となっている。いかにもクイーンらしい締めくくりかただが、どうも、作者は、この文章で小説を終わらせたくて、一家の名前をフォックスにしたらしい。そんな風に思えてきた。

 

[i] 江戸川乱歩推理小説随想」『随筆探偵小説』(1947年、光文社文庫、2005年)、327頁。

[ii] 『Yの悲劇』(鮎川信夫訳、創元推理文庫、1959年)、「解説」、429頁。

[iii] フランシス・M・ネヴィンズJr(秋津知子他訳)『エラリイ・クイーンの世界』(早川書房、1980年)、184頁。

[iv] フランシス・M・ネヴィンズ(飯城勇三訳)『推理の芸術』(国書刊行会、2016年)、201-202頁。(追記)読み返したら、「指示された」のは、「出版社に」だったようだ。

[v] 都筑道夫・二木悦子・中島河太郎・青田 勝「回顧座談会 クイーンの遺産」『ミステリマガジン』No.320(エラリイ・クイーン追悼特集、1982年)、126頁。

[vi] 『フォックス家の殺人』(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1981年)、386頁。一部改変。新訳のほうも、もちろん、同じような文章になっている。

[vii] Ellery Queen, The Murderer Is A Fox (Ballantine Books, 1973), p.232.

横溝正史『獄門島』

(本書のほかに、アガサ・クリスティの長編小説の犯人やトリックに言及しています。)

 

 『獄門島』(1947-48年)は、日本ミステリ史上、圧倒的な傑作として君臨し続けている。

 知名度なら『犬神家の一族』(1950-51年)か『八つ墓村』(1949-51年)だろうが、1970年代の横溝正史再評価の波の中で、『獄門島』こそ我が国のミステリの最高峰との見方が定着した。

 筆者が、講談社の『横溝正史全集』(1970年)[i]で横溝作品を愛読した頃、もっとも面白いと思った長編小説は『悪魔の手毬唄』(1957-59年)だった。その後、客観的に見て、やはり『獄門島』が最上作と認識するようになったが、考えの変化を促した要因として、都筑道夫の評論の影響がある。

 すでに『獄門島』は、完結当初から、江戸川乱歩高木彬光らによって、日本ミステリの傑作との評価は一定していた[ii]。しかし、初読のとき感じたのは、犯人が複数というのはちょっと、・・・というものだったと記憶している。しかも、単に共犯者がいるという程度のものではなく、三人の犯人がそれぞれ単独で殺人を決行する、という、意外といえば意外な結末だが、これでは、とても真相当てられないだろう、と思った。実は、高木が絶賛しているのがこの複数犯人というアイディアだったのだ[iii]が、犯人を当てさせないからすごい、という高木の評価に、それにしてもルールを少々逸脱しているのではないか、と感じたものだ[iv]。また、乱歩の殺害動機についての指摘、「こういう殺人罪を犯さなくても、もっと穏便な手段がいくらでもあった」[v]という批判ももっともだ、と思った。

 そんなときに読んだ都筑の『獄門島』論は、乱歩の批判を打ち消すだけの力があった。しかも、複数犯人であるからこそ事件が成立した理由も示唆している。

 実は、と言わずとも、読んだ人には説明不要だが、『獄門島』の犯人は三人ではない。真の犯人が背後にいて、実は四人である。四人目の犯人は計画者で、他の三人が実行者であるのだが、計画者は自分は実行しなくとも済むので、どんなに突飛で遊戯的な殺人計画を立てても不思議ではない。しかし、実行者の三人がなぜ、そろいもそろって、そのような計画を遂行してしまったのか。まして、計画者は死亡しているのに。この疑問に対し、都筑の議論は、偶然の力というものを強調する。「この偶然の重なりが、実行者に決意させるのですが、ここらの設定は出色です。・・・この運命の重みが、実行者に考案者の考えた通り、殺人をおこなわせることになるのですから、この偶然は生きています。・・・見立て殺人そのものの必然性は閑却されていても、考案者のおかれた状況と性格、偶然の重なったショックから、実行者がその計画に盲従せざるをえなくなる、という構成によって、必然性が出てくるのです。」[vi]

 この都筑の論は、『獄門島』の欠点と見える部分を実に的確に分析擁護しているといえる。作者の横溝正史でさえ思いつかなかったのではないか、と思えるほど見事な弁論だ。

 都筑の解説を踏まえて、『獄門島』を読みかえすと、実行者達が偶然の積み重ねに怯え、計画の遂行へ向かわざるを得なくなる様子が点々と描写されていて、息詰まるようなスリルを醸成していく。それでいて、読んでいる間は、実行者達の言動が何を意味しているのか、金田一耕助でも読みとることはできない。ミステリは伏線の文学というが、これほど恐るべき伏線の妙はない。『獄門島』の傑作たる所以はこれら一連の描写にある、と断定しよう。

 

  「吊り鐘-?ああ、戦争で供出したあの吊り鐘でござりますな、あの吊り鐘がまだ 

 ありましたか」

  「ふむ鋳つぶされもせずに無事に生き残っていよったよ。」[vii]

 

  「そうそう、復員で思い出しましたが、分家の一さんもちかく復員するそうでござ

 りますな。」

  「分家の一さんが」

  和尚は急に相手の顔を見直した。」[viii]

 

  「・・・これで本家の千万さんが生きていると、いうことはござりませんな。」

  「ふむ、本家が生きていればいうことはない。」

  和尚は眼をつむって、口のなかのものを吐き出すような調子でつぶやいた

 が、・・・[ix]

 

 ・・・やがて和尚が吐き出すような調子でこういった。

  「本家は死んで、分家は助かる、これも是非ないことじゃ」[x]

 

  「で、・・・・・・?千万さんは?」

  「死んだそうじゃよ。復員船のなかで・・・・・・・」

  突然、幸庵さんはがっくり肩を落とした。山羊ひげがぶるぶるふるえた。村長はう

 うんとうなると、への字なりに結んだ口が、おそろしくひんまがった。・・・[xi]

 

  「ああ、金田一さん」

 と、和尚が沈んだ声で呼んで、

  「今日、とうとう公報が入ったそうな」

 と、村長のほうへ、あごをしゃくった。そのあとにつづいて、村長の荒木さんがこう

 付け加えた。

  「あんたのおことばを疑うたわけじゃないが、やはり広報が入らんうちは、一縷の

 望みにすがっていたい気持ちでいたが・・・・・・」

  「これで、なにもかもはっきりした。公葬は禁じられているにしても、とにかく一

 日も早く葬式を出したほうがええじゃろうな」

  暗い顔をして、山羊ひけをふるわせたのは幸庵さんだった[xii]

 

  山門のところで和尚に会うと、

  「和尚さん!」

  と、幸庵さんは頬の筋肉をピクピクふるわせたが、それきりあとはことばが出なく

 て、大きなのど仏がぐりぐり動いた。村長の荒木さんはくちびるをかたく結んだま

 ま、ただ、黙って和尚の顔をながめていた。・・・[xiii]

 

 これらの描写は、推理のためのデータという意味での伏線とはいえないかもしれないが、読了後、読みかえすと、隠されていた意味が浮かび上がってきて、その瞬間のショックは比類ない。ことに最後に引用した場面において荒木村長と幸庵医者の抱いた恐怖は読み手をも戦慄させる。『獄門島』は第一級の恐怖小説でもある。これらの伏線のすさまじさに比べれば、「きちがいじゃが仕方がない。-」[xiv]のアイディアなど、こじつけ気味の言葉遊びに過ぎない。

 それにしても、複数犯人というアイディアは、蒸し返すようだが、読者によっては受け付けない人もあるだろう。三人も四人も犯人が出てきては、まるでアガサ・クリスティの某有名長編のようだ。

 そうした観点から見て、興味深い一節が本書のなかにある。作品冒頭にKという人物からの聞き書きとして、島社会の実態、よそ者に対しては、それが警察であっても、住民は一致団結してあたる、それで犯罪がおこっても警察が捜査する前に解決、もしくは犯罪自体がなかったことになってしまう、という話が紹介されている[xv]。これは実際に作者が岡山在住の頃に聞いた事実だったようだ[xvi]が、まるで島民全員が犯人というクリスティ作品顔負けの結末を暗示しているみたいではないか。これは島という閉鎖社会の特質を紹介するページふさぎに過ぎないのかもしれないが、案外、作者は、複数犯人の真相を受け入れやすくしようとして、こうしたエピソードを紹介したのだろうか(本書では、このエピソードに相当するような事態は生じない)。あるいは、クリスティの焼き直しではないか、と読者に予想させておいて、そのヴァリエーションともいえる結末を提示する意図で、この話を予め挿し込んでおいたのか。いずれにしても、本書の複数犯人の着想に、百パーセント喝采というわけにはいかないが、『獄門島』が横溝正史の最高作との評価は揺るがないようだ。

 

[i] 同全集でも第一回配本は第5巻の『八つ墓村』、第二回は第4巻の『犬神家の一族』だった。島崎 博編「横溝正史書誌」『別冊幻影城』、創刊号(1975年9月)、347頁。

[ii] 江戸川乱歩「『俳諧殺人』の創意-『獄門島』を評す」(1949年)中島河太郎編『名探偵読本8 金田一耕助』(パシフィカ、1979年)、144-45頁、高木彬光「『獄門島』について」『別冊幻影城』創刊号、288-89頁。

[iii] 高木「『獄門島』について」、289頁。

[iv] 複数犯人のアイディアが夫人の示唆によることはよく知られている。横溝正史「『獄門島』あとがき」(1948年)『新版横溝正史全集18 探偵小説昔話』(講談社、1975年)、54-56頁。

[v] 江戸川「『俳諧殺人』の創意-『獄門島』を評す」、144頁。

[vi] 都筑道夫『黄色い部屋はいかに改装されたか?』(晶文社、1975年)、61-62頁。

[vii] 『獄門島』(角川文庫、1971年)、9頁。

[viii] 同、10頁。

[ix] 同、11頁。

[x] 同、13頁。

[xi] 同、25頁。

[xii] 同、52-53頁。

[xiii] 同、96頁。

[xiv] 同、80頁。

[xv] 同、5-6頁。

[xvi] この「K」こと加藤一氏については「獄門島 あとがき」以来、本人や家族による思い出話のなかで、繰り返し触れられている。『探偵小説昔話』、55頁。

横溝正史「百日紅の下にて」

(本作のアイディア等に触れています。)

 

 「百日紅の下にて」(1951年)は、横溝正史の敗戦後に書かれた傑作短編ミステリである。戦後中短編に限れば、ベスト・ファイヴに入るだろう。他の四作品は、「探偵小説」、「黒猫亭事件」・・・、残りは、適当に選んでください。

 舞台は戦後間もない東京で、空襲で崩れ果てた屋敷の庭に立つ一本の百日紅の木。その下で、当家の主人と謎の復員服の男とが、過去の殺人事件について語り合う。

 テーマは、毒殺トリックで、この当主の屋敷で開かれた会合の席、同じ飲み物を飲んだ数人のうち、ひとりだけが毒を飲まされて死亡する。しかし、被害者が手に取ったグラスは、彼が任意に選んだものだった。狙って彼に毒入りグラスを渡せたものは誰もいない、という一種の不可能犯罪ミステリである。

 当主は、極端な人見知りで、金はあるが、女性に声がかけられない。これはという美少女を見つけて、将来妻とするべく、養女に引き取る。中島河太郎の解説では、『源氏物語』などが引かれて[i]、なにやら優雅な雰囲気だが、現代なら、間違いなく通報される。しかも、年頃になった彼女と無理やり関係を持って、計画通り妻とする、という、とんだ変態である(うらやましい・・・、いや、そんなことはない)。

 ところが、いかんせん、彼女の周りには、うさんくさい男どもがうじゃうじゃ集まってくる。そして、当主が出征していた期間に何かが起こり、戻ってきた夫を拒み続けた挙句、妻は毒を呷って自殺してしまう。どうやら、群がってきた男たちのひとりに犯されたものらしい。殺人事件が起きたのは、ちょうど彼女の一周忌で、その場に集まったのは、かつて彼女目当てに日参していた男たちだった。

 当然、一番怪しいのは当主で、動機は妻の復讐と推測できる。しかし、殺された男が、彼女を死に追いやった張本人であるという証拠はなく、殺害方法もわからない。捜査が進むと、どうやら、当主が別の客に差し出した盆に載っていた二つのグラスのひとつに毒が入っていたらしい、と判明する。そのグラスが、被害者に渡った。つまり、被害者は誤って殺されたことになる。だが、当主は盆ごと差し出したので、受け取った客が毒入りグラスを引き当てる確率は半分しかない。そんな、自分が毒を飲むことになるかもしれない殺人方法を選択するはずがない。しかも、当該の客に対する主人の動機も見当たらない、という難問。

 このテーマは横溝には珍しい[ii]が、作例は豊富である。近時の作品としては、エラリイ・クイーンの『災厄の町』(1942年)、『フォックス家の殺人』(1945年)、アガサ・クリスティの『忘れられぬ死』(1945年)、ジョン・ディクスン・カーの『五つの箱の死』(1938年)などに類似のシチュエイションが見られる。これらの諸作のうちからヒントを得たのかどうか、憶測するしかないが、もちろん、解決方法は同じではない。いかにも日本的というか、横溝らしいアイディアで、西欧風の合理的な解決方法とは異なるが、盲点を突いた鮮やかなものである。

 しかし、本作の評価を高めているのは、最後に明らかとなる復員者の正体と読後の余韻だろう。当主から盆を差し出された例の客から話を聞いた、という謎の男は、アームチェア・ディテクティヴさながらに、伝聞の情報だけから見事にトリックを見破る。意外な名探偵の正体が最後に明かされる、というアイディアの小説は、トマス・フラナガンやカーの短編小説(タイトルを注で書くので、注意してください)[iii]が有名だが、作者の念頭にあったのは、江戸川乱歩の中編小説(前に同じ)[iv]だったかもしれない。しかし、乱歩の作品は、主役の探偵の薄気味悪いくらいの飄逸さのほうが印象に残るが、本作は、坂を下っていく復員服の男の後ろ姿が、廃墟となった戦後東京のイメージと相まって、得も言われぬ読後感を残す。最後の一行は、楽屋落ちめいているが、横溝ファンには懐かしく、忘れがたいものだろう。

 

[i] 横溝正史『殺人鬼』(角川文庫、1976年)、275頁。

[ii] 捕り物帳で同一のトリックを用いたものとして、「春姿七福神」(1955年)『完本 人形佐七捕物帳 九』(春陽堂書店、2021年)、271-302頁。

[iii] トマス・フラナガン「玉を懐いて罪あり」(1949年)『アデスタを吹く冷たい風』(宇野利奏訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1961年)、171-94頁、ジョン・ディクスン・カー「パリから来た紳士」(1950年)『カー短編全集3/パリから来た紳士』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1974年)、9-60頁。

[iv] 江戸川乱歩「何者」(1929年)『江戸川乱歩名作集4 D坂の殺人』(春陽堂、1962年)、1-60頁。

J・D・カー『九つの答』

(犯人その他を明かしています。)

 

 『九つの答』[i](1952年)は、ディクスン・カーの最大長編のひとつである。原書がないので、翻訳で比較するだけだが、『アラビアン・ナイトの殺人』(1936年)より長いし、前年の大長編『ビロードの悪魔』[ii](1951年)よりも長い。

 しかし、超大作かというと、全然そんな印象はなく、サクサクと読める。『ビロードの悪魔』のように、17世紀の歴史風俗に関する蘊蓄のようなものもなく、途中、英国放送協会(BBC)についての、実体験に基づく具体的な描写があるが、読むのにうるさいほどではない。むしろ、あの韜晦趣味が強く出ていないので、カーの小説のなかでも読みやすいほうで、何だか軽ハードボイルド・ミステリのようである。あるいは、再読して思ったのだが、フレデリック・ブラウンみたいだなあ。ブラウンなら、こんなにだらだら長い小説にはならないだろうが。

 つまり、読後の印象は、ハードボイルドというより、いわゆるスリラー、それも心理的スリラーではなく、アクション・スリラーに近い。

 例によって、主人公は、歴史好きの学究肌の青年だが、一方でボクシングのすごい才能を持っている。イギリス人だが、恋人と仲たがいをして故郷を飛び出し、アメリカにやってきた。しかし、何事もうまく行かず、困っていたところを、弁護士から呼び出しを受ける。祖母の死によって、ささやかながら遺産を受け取ることになったのだ。

 ・・・これまで、何度、こんな主人公の履歴を読まされてきたことか。デ・ジャヴを飛び越えて、もはや記憶に焼き付いている。いちいち紹介されるまでもなく、「いつもの主人公です」、と一言書いておいてくれれば充分だ。

 そこに、こちらも恒例の、人好きがよいが、何となく胡散臭い金髪青年とその恋人が登場し、彼らと弁護士との話し合いを、つい耳にした主人公ビル・ドーソンは、金髪青年ラリー・ハーストから異常な提案を受ける。昔、子どもだったラリーを執拗に痛めつけた富豪の伯父ゲイロード・ハーストが、ラリーに遺産を残す、と言ってきた。だが、ゲイロードの魂胆は見え見えで、またラリーを手もとにおいて、とことん苛め抜くつもりなのだ。ドーソンが自分に似ていると気づいたラリーは、自分に成りすまして、代わりにイギリスに行ってくれないか、と頼む。長い間イギリスに戻っていないし、伯父とも会っていないから、と説得されても躊躇していたドーソンだが、その後、三人で入ったバーで、ラリーが毒を飲まされ-一体、どういう事態なのか、読者も唖然とする-、倒れるのをみると、彼の頼みを聞いてゲイロードと対決する決意を固める。しかも、ヒースローに向かう機上で、ドーソンは、かつての恋人マージョリと再会し、たちまちラヴ・シーンに突入する。どういう偶然だ、まったく!

 ここまでで全体の三分の一近くを費やして、続いて、ゲイロードとその使用人、というより、用心棒であるハットーとの初対決の場面で、早くも半分を越える。ゲイロードは、あっさりとドーソンが偽者であることを見抜き、さらにとんでもない提案を持ち掛ける。1万ドルの代わりに、ドーソンの命を懸けたゲームをしよう、という。期限を決めて、ゲイロードがあらゆる手段を用いて、ドーソンを殺そうとする。生きながらえればドーソンの勝ち、金が手に入るというわけだ。かくして、ハードボイルドからスリラーへ、そこから今度は冒険小説風に展開して、パズル・ミステリはどこへやら、これなら、話がどんどん進むはずである。

 もちろん、最後にどんでん返しがあって、意外な犯人(でもないか)が明らかになる。目新しいトリックではないが、相当大胆な一人二役で、その辺りもブラウンを連想させる。

 しかし、それにしても、このプロットで、なんでこんなに長いのか。話がスピーディといっても、ポケット・ミステリで400頁も読むのは大変だ。登場人物も少なくて、主人公と恋人マージョリ、ゲイロードとラリーのハースト家、ラリーの恋人ジョイ、それにハットーと、他にも出てくるが、主要登場人物はこんなもので、犯人もこの中にいる。というか、隠すまでもなく、ラリー・ハーストなのだが、人物設定からしても、当然こいつが犯人である(カー作品に対する偏見に基づく推理)。

 バーで彼が毒を飲まされ、死亡する、という冒頭の事件自体が、まずもって怪しい、怪しすぎる。実際、殺されたというのは嘘だったとわかるのだが、この見え透いたトリックをカヴァーしているのが、表題の「九つの誤った答え(Nine Wrong Answers)」である。

 読者が立てるであろう(というか、実際は、カーが一度考えついて、やめたアイディアなのだろう)推理をあらかじめ予測して、九つの注で、それは間違っているから捨てなさい、と忠告してくれる。かつての『読者よ、あざむかるるなかれ』と似た趣向である。そして、その狙いは当然のことながら、読者を正しく導こうなどという親切心ではない。単にだまくらかそうとしているだけである。要するに、本当に書きたかったのは二番目の注だけで、他は全部、注の二を目立たなくさせるためのレッド・へリングに過ぎない。で、ラリーが毒を飲まされたのは、そう見せかけたのではなく、本当に殺されそうになったのですよ、と念を押してくる[iii]。・・・でも、死んだとは言っていない、って、またか、このやり口。

 九番目の注を読むと、こう書いている。「また作者はラリーが死んだとも言っていない。ラリーが死んだことになっているのは次の場合だけである。すなわち事件がビルの目を通して眺められていて、しかもその旨が明示してある場合だけである。なぜならビルは実際にそう信じているからである。」そして、「これは読者を迷わせる正当な手段である」[iv]

 読者は、本書の注を使った叙述トリックを汚いペテンと考えるかもしれないが、それは誤解ダヨ、というわけである。とうとう、この作者、注でまで言い訳を始めたぞ。

 本書がなぜ、こんなに長いのか、もう一度考えると、登場人物がやたらと饒舌なのだ。主人公を始め、全員がしゃべりだすと止まらない。回想を交えて、連想があっちこっちに飛ぶのも原因である。最初のヴァル・ギルグッド[v]への献辞で、本書が「性格描写」を特徴とした「好事家のための小説」だと作者は宣言している[vi]が、そして、訳者があとがきで注釈しているように、そんな文学的で上等なもんではないが、それでも、カーにしてみれば、登場人物を最小限に絞って、十分にその人物像を書きこんだ、という自負を感じていたのだろう。

 確かにゲイロードのような(いかれた)カー的キャラクターが面白く描かれていて、深みはなくとも、大長編を面白く読ませる。戦後、あまり元気のなさそうだったカーがノッて書いたのだとすれば、何よりです。

 

[i] 『九つの答』(青木雄造訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1958年)。

[ii] 『ビロードの悪魔』(吉田誠一訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1965年)。『九つの答』が437頁に対して、『ビロードの悪魔』は439頁。ただし、後者は「好事家のための覚書9頁を含んでおり、本文は430頁、て、細かいね。ちなみに、私が持っている『ビロードの悪魔』のペンギン・ブックス版は352頁あるが、字が小せえーっ。でも『皇帝のかぎ煙草入れ』は、字が見やすくて298頁もある。結局、一頁当たりの語数が異なるので、ページ数を比較しても、意味はない(じゃ、やるなよ)。John Dickson Carr, The Emperor‘s Snuff-Box (Carroll & Graf, 1986);Do, The Devil in Velvet (Penguin Books, 1957).

[iii] 『九つの答』、79頁。

[iv] 同、432-33頁。

[v] ギルグッドは、カーがラジオ・ドラマを書いていた頃のBBCの幹部(?)。詳しくは、ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、251-52頁。

[vi] 『九つの答』、5頁。

J・D・カー『ビロードの悪魔』

(本書のほかに、アガサ・クリスティの『アクロイド殺害事件』、ヘレン・マクロイの『殺す者と殺される者』、エラリイ・クイーンの『盤面の敵』の真相に触れています。)

 

 1950年から始まったディクスン・カーの歴史ミステリのシリーズは、新世代のカー評価のなかで、高い人気を誇っている。

 もっとも印象に残っているのは、少々古いが、『ロンドン卿が落ちる』[i]が久々のカー長編として翻訳刊行されたとき、瀬戸川猛資が書いた解説である。そのなかで同氏は、『ニューゲイトの花嫁』、『ビロードの悪魔』、『喉切り隊長』、『火よ燃えろ!』の四作を代表に挙げて「正直なはなし、普通の本格物よりもこちらの方が、ぼくには全然面白い」[ii]、と断言している。瀬戸川を始めて意識した解説ということでも記憶に残っているが、まだ上記の諸作を一冊も読めなかった時期で、おおいに期待を抱かせられたものである。しかし、その後、カーの歴史ミステリをひととおり読んだ結果、現在では瀬戸川の意見には同意しかねる。もっとも、『ロンドン卿が落ちる』(1962年)自体は、個人的には好きな長編である。氏の解説にもかかわらず、同書は全然評判はよくないが。この作品を褒めた文章なぞ読んだことがない。

 話を戻すと、『ビロードの悪魔』[iii]の解説でも、山口雅也が、A・デュマなどと比較して、「カーの本書も、これら名作と比べて、なんら遜色のない出来ばえを示している」、と褒めているが、そして解説なのだから、誉めないわけにもいかないのもわかるが、果たして、そうかなあ。子どもの頃に読んだデュマの『三銃士』以下のダルタニャンもの-従って、ジュニア向けの翻訳だったかもしれない-のほうがはるかに面白かった思い出がある。もっとも、大デュマと比べたのでは、さすがにカーも赤面するだろう。しかし、私は、カーのパズル・ミステリのほうがデュマの歴史小説より「全然面白い」し、好きである。従って、三段論法で、カーの現代ミステリのほうが歴史ミステリより面白い。

 という前提のうえで、『ビロードの悪魔』(1951年)については、カーの歴史ミステリのなかでも一、二を争う傑作との評判が高い、そして、それには完全に同意する。さらにまた、本書は、カーの全長編のなかでベスト・テンに入れてもよい。こういっては何だが、ディクスン・カー最後の傑作ではないだろうか。

 作品は冒頭から、ミステリらしからぬ、いや戦後に書かれた小説とは思えないようなファンタジーで始まる。もっとも、舞台となるのは第二次大戦前の1925年である。ある夜、主人公のニコラス・フェントン教授は、同僚の娘であるメアリー・グレンヴィルに向かって、悪魔に魂を売って(!)、その代わりに、18世紀末のイギリスに転生するつもりだ、と告げる。過去に戻って、同名のニコラス(ニック)・フェントン卿に乗り移る、というのだが、SFとも、幻想小説ともつかないこのアイディア(恐らく、カーには両者の区別など、わかっていないのだろう)は、明らかに『ファウスト』から採ってきたもののようだ。ゲーテもギョエテっである。

 1675年(すなわち、作中の現代より250年前)、フェントン教授とメアリーが話をしている当の屋敷で、ニック卿の妻リディアが毒殺され、犯人が逮捕、処刑された。しかし、それを記した執事のガイルズの手記は肝心な箇所が失われており、犯人がわからない。フェントン教授は、自分なら、リディアの命を救い、犯人を明らかにできる、そのために悪魔と取引きをしたのだ、と話す。ミステリというより、幻想怪奇小説だが、さすがにカーの筆は、悪魔との取引きも子供だましにはみせない。読者の冒険心を捉えて、作中に惹きこむ語りの技巧をもっている。

 翌朝、目覚めたフェントン教授は、自分がニック卿となって、18世紀に生きていることに気づく。かくして、一か月後のリディア殺害の日までに、真相を突き止め、彼女の命を救うことはできるのか、というサスペンス・ドラマのごとき枠組みが出来上がり、毒殺トリックの解明に加えて、暗殺者との剣戟、暴徒集団との絶体絶命の対決、と波乱万丈、大衆冒険小説のお膳立てがすべて揃ったサービス満点のドラマが展開される。その一方で、チャールズ2世やシャフツベリー卿などの実在の人物が作中を闊歩、あるいは暗躍し、歴史小説としての側面も有している。もはやカー作品の準レギュラーと化したチャールズ2世王ばかりではなく、アイザック・ニュートンのような著名人が点景のように姿を見せ、まるで山田風太郎の明治小説である(カーのほうが早いが)。

 そして風太郎と同様、歴史小説としての本書は、カーの細密な描写によってリアリティを得ている。とにかく、主人公やリディアその他の女性達が何を身につけているのか-タイトルは、主人公がいつもビロードの服を着ていることによる-、室内の家具がどのようなものか、当時の生活慣習は、とか、しつこいくらいに書き込まれて、それが『三銃士』のようにはテンポがよくない原因である。しかし、最後の恒例の「好事家のための覚書」に作者が得々と書いているように、そこがカーのこだわりだから、読者は辛抱して付き合わなければならない。

 歴史小説としてのもうひとつの特徴は、1936年の『エドマンド・ゴッドフリー卿殺害事件』[iv]がそうであったように、宗教と政治をめぐる陰謀のドラマであることで、カトリックに寛容なステュアート王家と、大衆の反カトリック心情を反王室派の主張に結び付けたいシャフツベリー卿との対決が事件の背景となっている。そのなかで近づくリディア殺害の期限を間近に迎えて、フェントン教授は、同じく18世紀に転生していたメアリーことメグ・ヨークの住まいで、悪魔と再会を果たす。ここからのスリリングな展開は見事で、実は、前日の暴徒との戦いの疲れで日付けを一日間違えていた主人公が、必死に自宅に戻ると、リディアはすでに死んでいる。ショックで昏倒したニック卿が目覚めると、王の派遣した兵士達が現れ、卿はロンドン塔へと連行、幽閉されてしまう。リディア殺害の謎が解けないまま、王の真意をはかりかねていた主人公が、処刑の危機を免れようと脱出を企てる終盤まで、息も継がせぬ緊迫のシーンの連続となる。この畳み込みの手際はさすがである。

 最後、王からの手紙を携えたメグが、ニック卿ことフェントン教授に、リディア殺害の真相を告げるが、パズル・ミステリとしての『ビロードの悪魔』の最大の魅力は、この犯人の意外性にある。歴史ロマンスとしての面白さもさることながら、やはり本作が歴史ミステリのなかでも別格といえるのは、最後のこの大技にあるといってよいだろう。

 本書の犯人のアイディアは、いってみればアガサ・クリスティの『アクロイド殺し』(1926年)のヴァリエーションともいえる。つまり、主人公の視点で描かれたミステリの犯人が主人公自身で、しかも彼は自分が犯人であることを知らない、というものである。

 主人公は、必死でリディアの命を救おうと奔走し、犯人の正体を明らかにしようと頭を絞る。それが主観的描写として描かれるのだが、それでいて、犯人が主人公だというのだから、普通のミステリでは成立しないアイディアである。しかし、冒頭の悪魔との取引きが、実は重大な伏線となっていたことに、読者は気づく。

 この手の話ではおなじみの悪魔の罠を避けようと、主人公が様々な条件を考え出し、要求するのに対し、悪魔は引き換えに、主人公が怒りで我を忘れると、十分間だけ、もとのニック卿の意識に支配される、という条件を持ち出す。実際に、この後の決闘の場面では、フェントン教授の意識が失われ、ニック卿が(逆に)憑依する場面が描かれている。非現実な前提であっても、最初にそれを世界観として提示しておけば、アンフェアにはならない、というSFミステリのルールにならって、トリックを仕掛けているわけである。

 上記の条件があれば、犯人がニック卿であっても、意外でも何でもないのだが、カーは、例によって、巧妙な、もしくはずる賢い手口で読者を煙に巻こうとする。主人公は、チャールズ王から、リディアが自分をシャフツベリー派に売り渡した、という(嘘の)情報を聞かされて、妻に対する激しい怒りに囚われるが、そこでニック卿の意識に憑りつかれる。しかし、その場面は主人公の主観で描かれるため、その後ニック卿が何をしたかは省略されている。意識が飛んだ、というわけである。『アクロイド』的な叙述トリックで、カー十八番のペテンではあるのだが、その常習的手口がもっとも効果的に使用されている、といえるだろう。

 本書の犯人のアイディアは、第二次大戦後に隆盛となる精神分析を扱ったミステリのうち、二重人格をテーマとした長編小説の発想に近似していると見ることができる。この手のミステリには、エラリイ・クイーンの『盤面の敵』(1963年)などがあるが、もっとも著名なのはヘレン・マクロイの『殺す者と殺される者』(1955年)だろう。これら諸作でも、犯人は自分が殺人者であることを知らない。もちろん、そこが意外性でもあるのだが、カーの本作は、同種のアイディアを、精神病理などとは無縁のアンリアルな手法で処理して、パズル・ミステリに仕上げた異色作といえるだろう。しかもマクロイより早いのだから、えらいものである。

 果たして、江戸川乱歩は本書を読んでいたのだろうか。もし、読んでいたとしたら、どのような感想をもっただろうか(『皇帝のかぎ煙草入れ』にあれだけ夢中になったのだから[v]、と思うと興味がわく)。無論、犯人の意外性だけが、本書の長所ではないし、むしろ、それ以外の部分に作品の魅力を見いだす人も多いことだろう。とはいえ、本作が、歴史ミステリの代表作という以上に、カーの傑作のひとつであることは、間違いないと言えそうだ。

 

[i] 『ロンドン卿が落ちる』(川口正吉訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1973年)。

[ii] 同、313頁。

[iii] 『ビロードの悪魔』(吉田誠一訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1981年)、548頁。

[iv]エドマンド・ゴッドフリー卿殺害事件』(岡 照雄訳、創元推理文庫、2007年)。

[v] 江戸川乱歩「イギリス新本格派の諸作」『幻影城』(光文社文庫、1987年)、136頁。

J・D・カー『ニューゲイトの花嫁』

(犯人その他に触れています。)

 

 1950年、いよいよディクスン・カーの歴史ミステリが始まる。1934年にはRoger Fairbairn名義の歴史ロマンスDevil Kinsmere があり、1936年にはノン・フィクション『エドマンド・ゴッドフリー卿殺人事件』の出版があったが、謎解きを中心としたフィクションの歴史ミステリは『ニューゲイトの花嫁』(1950年)が最初といえる。

 カーの歴史ミステリは、A・デュマなどで培った、彼の歴史冒険小説好きが嵩じて始まった趣味的な創作と捉えられているが、最後に必ず付いてくる「好事家のための覚書」を見ると、極めて学究的なところが特徴で、完全なエンターテインメントでないのがカー流の歴史ミステリである。あるいは、カーには学術研究への志向というか、憧れがあって、知識をひけらかしたいという欲求があったのかもしれない。歴史ミステリに先立って、まず、歴史ロマンスの『デヴィル・キンズミア』と、純然たる歴史推理の『サー・エドマンド・ゴッドフリー』を書いているのは、その点からしても暗示的だ。本業のミステリから離れて、歴史ロマンスと歴史推理という、書きたくてたまらなかった小説を半ば余技として公表したものの、この時点では、二つの志向は分離していた。それらを弁証法的(?)に合一したものが1950年代以降の歴史ミステリだったわけだ。

 その最初の一作は、しかし、カーお気に入りのチャールズ2世時代ではない(次作の『ビロードの悪魔』で、王政復古時代が舞台となる)。より現代に近いナポレオン戦争終結の1815年を背景としている。まさにウォータルー(ワーテルロー)の戦いが起こった同年6月18日が重要な日付けとなるが、直接、ストーリーには関係しない。プロットの要となるのは、何といっても、上流階級の令嬢キャロライン・ロスが、祖父の遺産を相続するためだけに、死刑囚のリチャード・ダーウェントと結婚する、という奇想天外なアイディアである。恐らく、このアイディアが浮かんだ瞬間に、カーは、書ける、と思ったのだろう。歴史小説ならではの発端であり、カーらしいずば抜けた発想である。

 主人公とヒロインの二人も、いかにものカー作品世界の住人っぽい。ダーウェントは、フェンシングの師範だが、ある夜、怪しい覆面の御者に襲われ、貴族のフランシス・オーフォードの邸宅に連れていかれる。そこで、オーフォードの刺殺死体を見たダーウェントは、再び頭を殴られ、気がつくと、オーフォードの死体とともに、自宅近くの道端に倒れているところを発見される。殺人の罪で有罪となり、ニューゲイト監獄に収監されている彼のもとに、弁護士とともに現れたのがキャロラインである。彼女は、25歳の誕生日前に結婚することを条件に、祖父から莫大な遺産を相続できることになっている。ところが、それに不満な彼女は、絞首刑になることが決まっているダーウェントと結婚することで、独身の自由を謳歌しながらぜいたくな暮らしを満喫しようと企んでいるのである。

 しかし、当然予想されるとおり、ダーウェントの処刑は土壇場で取り消される。ここのアイディアが本書のもう一つの工夫で、近代以前の身分制度による貴族特権を利用したもので、ここで冒頭のナポレオン戦争終結が関わってくる。都合のよい偶然の活用ではあるが、作中、キャロラインが口にするように、戦勝による恩赦で解放されると読者に予想させておいて[i]、裏をかいて、爵位の継承と結びつけたところが秀逸である。そこは面白いのだが、ダーウェントが罪を着せられて死刑宣告されるまでの過程が、19世紀とはいえ、あまりに安易で杜撰な展開すぎるように思う。主人公が死刑を免れる方法の考案に苦心するあまり、冤罪で有罪判決が下されるまでの経緯がなおざりになってしまったようだ。

 ミステリの謎は、主人公が連れていかれた贅沢で豪奢に飾り立てた屋敷が、発見されてみると、とうに荒れ果てた廃屋となっている、というものだが、あまり冴えた解決ではなく、そちらのトリックには期待しないほうがよい[ii]。犯人の設定はというと、二段構えで、主人公を拉致した御者と殺人犯は別で、それぞれが、いかにも冒険スリラーで犯人になりそうな連中である。簡単にいえば、主人公の味方と思われた登場人物のなかに犯人が隠れている、というもの。

 というわけで、トリックもおざなり、犯人も定型的というわけで、一向映えない小説のようだが、そして、カー長編恒例の、回りくどく、思わせぶりな会話の応酬で読みづらくもあるが、物語としては面白い。その面白さは、ダーウェントとキャロラインの性格と、二人の関係の変転にありそうだ。

 ダーウェントは、この後の歴史ミステリでも登場するお馴染みのカー的ヒーローで、逆境にあってもへこたれない、誇り高く、腕の立つ伊達男である。しかし、いささか執念深く、キャロラインにいいように利用されそうになったことを根にもって、愛人の女優ドロシーを、病気(実は盲腸炎で、この時代には原因も治療方法もわからない)で苦しんでいることを口実に、キャロラインの邸宅に連れて来させる。おまけに、キャロラインが入浴中に浴室に乱入する、という素敵な場面が描かれる。

 キョロラインのほうも、獄中のダーウェントを訪問する際、ちゃんと彼は死刑になるんでしょうね、とか、指輪の交換はいらないでしょ、薄汚い囚人に触られるなんて、ごめんだわ、などと口走って、嫌な女全開であるが、我儘なお嬢様っぷりが際立って、いっそ清々しいくらいである。それに、えらそうな亭主のいいなりになるなんて我慢できないわ、などと言い放って、女権拡張論者のような口ぶりなのは、フランス革命後という時代背景を考慮してのことなのか、それとも、妻と娘たちという女性だらけの家庭で男一人だったカーが日頃聞かされ続けた愚痴だったのか[iii]

 とはいえ、ダーウェントが、ドロシーとキャロラインとの間で、ぐらぐら揺れ動くのは相変わらずで、キャロラインのほうも、ダーウェントを始めて見た瞬間から気になる風情なのは、こちらも恒例のカー的ロマンスで、はいはい、最後はそうなるよね、と、読者も、犯人は当たらずとも、二人の行く末ははずしようがない。最終局面、ドロシーの死をめぐって、二人の間に最大の危機が訪れるが、それが解消されて、めでたく大団円となる。

 あれっ、犯人は誰だったっけ、などと言ってはいけない。二人の末永い幸せを願って、私たちも本を閉じるとしようではないか。

 

 最後に蛇足。395頁に、「マームズベリー卿」という名前が出てきて、訳注で「イギリスの歴史家」と書いてある[iv]が、12世紀の歴史家であるウィリアム・オヴ・マームズベリは修道士なので、貴族ではない[v]フランス革命時代に活躍した外交官で、後のマームズベリ卿ジェイムズ・ハリス(1746-1820年[vi]のことだろう。

 

[i] 『ニューゲイトの花嫁』(工藤政司訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1983年)、27頁。

[ii] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、382頁も参照。

[iii] 本書は、クラリスに捧げられているが、ひょっとして、キャロラインの人物造形は、彼女がモデルなのだろうか。いや、我儘な性格が、ではなく、自立心ある女性らしいところですが。

[iv] 『ニューゲイトの花嫁』、395頁。

[v] 原文では、Lord Malmesbury。John Dickson Carr, The Bride of Newgate (New York, 1986), p.240.

[vi] ウィキペディア:ジェームズ・ハリス(初代マームズベリー伯爵)。