E・クイーン『九尾の猫』

(本書の内容に触れているほか、横溝正史悪魔の手毬唄』に言及しています。)

 

 『九尾の猫』(1949年)は、『災厄の町』と並ぶエラリイ・クイーンの最高傑作である。・・・と、いうのが、アメリカでの評価らしい。フランシス・ネヴィンズ・ジュニアの『エラリイ・クイーンの世界』[i]でそれを知らされた日本の読者は吃驚したに違いない(私も驚いた)。

 そもそも、本書は、1978年にハヤカワ・ミステリ文庫で復刊される[ii]まで、長い間入手不可能な長編だった。解説で訳者の大庭忠男が述べているとおり、前年にフレデリック・ダネイが来日した、その影響による復刊だったのだろう[iii]。読みたくとも読めない状態が続き、評価しようにもできない時期が長かったのだ。

 かといって、それでは1978年以降、評価が急上昇したのか、と言われると、なんとも言い難い。正直、国名シリーズなどと比較すると、あるいは、『災厄の町』あたりと比べても、パズル・ミステリとしては、それほど感心できない、という人が多かったのではないだろうか。テーマはミッシング・リンクで、連続殺人が起こるが、被害者の間に殺害動機となるような共通の要素は見当たらない、という謎である。この被害者の間の共通項について、中盤で意外な事実が明らかとなるが、ここは確かに、あっと言わせる。しかし、ほかには大した推理は楽しめず、犯人らしき人物は自然と明らかになる。終盤、追跡と逮捕の場面が延々と描かれ、その後、もう一段ひっくり返されて、真犯人が判明する。しかし、国名シリーズのような意外な犯人ではなく、意外な推理も見られない。最初に犯人と思われた人物がかばっているのが犯人だ。かばう相手は一人しかいない、というわけで、ほぼ自動的に犯人が暴かれて、幕となる。クイーンの偏執狂的推理を期待したい向きには、肩透かしのような謎解きで、その意味では、長く絶版だった理由がわかる。端的に言って、さして面白くないし、クイーンらしくもない。

 しかし、今日では、日本でも、エラリイ・クイーンの代表作として認識されているらしい。パズル・ミステリとしてというより、名探偵エラリイ・クイーンの年代記における節目の作品として評価されているようだ。それが、果たして、ミステリの正しい評価の在り方なのかどうかは別として、確かにシリーズ全体のなかでみれば、道標のような小説であり、その意味で最高傑作とも言える。

 1980年代以降、空前のブームとなった、サイコ・キラー、シリアル・キラーものの先駆という捉え方もある。通称「猫」による連続殺人の恐怖に、ニュー・ヨーク中が大混乱に陥る。作半ば、自然発生的な暴動シーンが描かれ、巻き込まれたエラリイが、朝の冷気のなかで呆然と自問自答する場面は、都市を舞台としたパニック小説ともとれる本書を象徴している。とはいえ、近年の狂気の殺人もので知られたジョナサン・ケラーマンやジェイムズ・ディーヴァーらの大長編と比べると、少々あっけないし、読みごたえに欠けるが、それはしようがない。現代ミステリ作家の旺盛な筆力と力技を目の当たりにすると、1930~40年代ミステリなど、吹けば飛ぶような軽量級に見えるし、現代サイコ・キラーものの驚くほど具体的で生々しい暴力描写の迫力を体験した後では、本書の描写は、お上品でお行儀が良すぎる印象である。

 だが、その分、『九尾の猫』には、生と死の対比が象徴性を高めて、文学味豊かなミステリの風格を感じさせる。連続殺人ものとは思えないような、ある種の静謐さが漂い、人間の誕生と暴力による死を結び付けた主題は、前作の『十日間の不思議』同様、ミステリらしからぬ寓話めいた輝きを放っている。

 こうしてみてくると、やはり本書は、パズル・ミステリとしてよりも、寓意小説として読むべきものなのだろうか。そこまでいわずとも、サイコ・キラーものとなれば、物的証拠よりも、犯人の精神構造の分析が問題となるわけで、本来、クイーン流の論理的推理とは相性が悪い。華麗なるパズルの完成とはいかないのも無理はない。

 けれど、最終章、エラリイとベーラ・セリグマンの対話を通じて、真相が明らかになる場面は、前作『十日間の不思議』でもそうだったが、簡潔で短いセリフの応酬で、加速度的に緊張感が高まっていく。異様なサスペンスを感じさせる本書最大の見せ場である(真相を解明するのだから、当然だが)。『十日間の不思議』の迫力には及ばないにせよ、この対話が生みだすスリルこそが、『九尾の猫』を傑作にしているとさえ思える。確かに、やや大げさで、張扇で見栄を切っているようなところはあるが、『十日間の不思議』、『九尾の猫』で確立するクイーンのスタイルが、『災厄の町』などとも、また異なる、独特のテンポとリズムを作品に与えているのは事実である。これは、どうやらダシル・ハメットらのハードボイルド・ミステリの影響によるのではないか、と思われる[iv]。あるいは、むしろアーネスト・ヘミングウェイからだろうか。

 例えば、レイモンド・チャンドラーとエラリイ・クイーンの比較研究[v]。これも、1940年代のアメリカ・ミステリを考えるうえで、重要なテーマのひとつであるようだ。

 

 と、きれいにまとまった(?)ところで、ここで終わればよいのかもしれないが、しかし、最後に言っておかなければならないことがある。本書の謎解きには、どうにも承服しがたい点があるのだ。

 この事件の犯人は、本当にカザリス夫人なのだろうか、ということである。

 いくらサイコ・キラーだとしても、夫人に9人もの男女を絞殺することができたとは到底思えないのだ。

 横溝正史の『悪魔の手毬唄』(1957-59年)も、三件の連続殺人が三夜にわたって続くが、本当にこの人物にこれだけ手際のよい犯行が可能なのか、と思うような犯人だった。鉄腕稲尾(たとえが古すぎるなあ)か、と思うような連戦連投の奮闘ぶりだが、こちらは被害者が全員年若い女性だから、まだわからなくもない。

 けれど、本書の場合は、男女合わせて9人もの大量殺人なのだ。連日連夜というわけではないにせよ、次第に警察による捜査が厳しくなり、人々の警戒感が高まるなかで、これほど要領よく殺人を繰り返すなど、とても素人とは思われない。上流階層の婦人のやれる類のことではないだろう。

 作者も、男性の被害者は三人で、しかもうち二人は小柄、最後の20代の被害者は酔っていた、と、女性犯人でも矛盾が生じないように配慮はしている(犯人にとって、僥倖過ぎる気もする)が、それにしても、この人物が犯人とは。一体どうやって被害者に疑惑を持たれることなく近づき、絞殺してまわったのか、もっと具体的に犯行方法を説明してほしいものだ。

 と、そこまで詰め寄ることもないが、犯行経過について何の説明もなく、ただ、この犯人を受け入れろ、というのは、相当無理があるのではないだろうか。

 

 そうか、わかった!犯行はカザリス博士と夫人の共犯だったのだ。エラリイは否定しているが[vi]、そうとでも考えなければ、納得ができない。

 「いや、それはないでしょう。最後のマリリン・ソームズ襲撃で、カザリスは夫人をかばって逮捕されたのですから。」

 「違うね。カザリスは誰もかばってなどいない。あの襲撃は、実際に殺そうと思って失敗したのに過ぎないんだよ。犯行を重ねるうちに、注意力が散漫になったのだ。よくあることさ。」

 「経験者みたいですね。しかし、それでは、二人の殺人動機はいったいどうなっているのですか。カザリスは生まれてくるわが子をその手で殺したと思いこみ、夫人に罪の意識を感じている。夫人は夫がわが子を奪ったと信じ、復讐のために夫が取り上げた子供を殺そうとする。その二人が協力して殺人に勤しむなど、支離滅裂ですよ。」

 「よし、わかった。犯人はベーラ・セリグマンだ。」

 「何言ってるんですか。頭がおかしいのはあなたのほうみたいですね。第一の殺人のときに、カザリスとともにチューリヒにいたセリグマンが犯人のわけないでしょ。」

 「第一の殺人は、後続の事件とは無関係だったんだ。これは模倣殺人だったのだよ。」

 「駄目駄目。単一犯による犯行だと、エラリイが証明しています。大体、ウィーンにいるセリグマンがどうやってニュー・ヨークで連続殺人を犯せるのですか。」

 「単一の犯人による犯行、というのは、エラリイの思い込みに過ぎない。それに、エラリイがウィーンに行けたんだから、セリグマンに逆のことができないわけがないだろう。第二の殺人以降のセリグマンのアリバイを調べたのかね。」

 「(むっとして)セリグマンは、どのようにして被害者を探し当てたのですか。被害者は、カザリスが取り上げた赤ん坊たちですよ。」

 「言うまでもない、カザリスの家に忍び込んで、カルテを見たのさ。最初の殺人が、たまたまカザリスが取り上げた子供だったことが、この模倣殺人の引き金となったんだ。恐らく、チューリヒから戻ったカザリスがお礼の電話か手紙をセリグマンに送ったときに、何気なくこのことを伝えたに違いない。エラリイが捜査に加わったことも、彼がセリグマンに教えたんだろう。ああ、何と恐ろしい偶然なんだ!」

 「あのね、いいですか。高齢のセリグマンに、こんな連続殺人が可能なはずないですよ。」

 「(ニンマリして)いやいや、高齢のセリグマンに不可能だというなら、カザリス夫人にだって不可能だよ。」

 「(軽蔑の眼差しで)なんでセリグマンが連続殺人など行うんです。動機は何です?」

 「もちろん、エラリイに対し、優位に立つためだよ。マウントをとる、というやつだ。彼は、クイーンのミステリのファンだったんだ。その作者を自分の支配下に置きたかったのさ。迷える名探偵を導く神の役割を務めたかったんだ。」

 「始末に負えない人だな。」

 

[i] フランシス・M・ネヴィンズJr(秋津知子他訳)『エラリイ・クイーンの世界』(早川書房、1980年)、189頁。フランシス・M・ネヴィンズJr(秋津知子他訳)『エラリイ・クイーンの世界』(早川書房、1980年)、193頁。

[ii] 『九尾の猫』(大庭忠男訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1978年)。

[iii] 同、413頁。

[iv] 江戸川乱歩の単行本未収録評論を読み直していると、様々に発見があるが、エラリイ・クイーンの戦後長編にハードボイルド・ミステリの影響があることも、乱歩がすでに指摘している。クリスティばかりでなく、江戸川乱歩にも脱帽しなくてはならない。江戸川乱歩「内外近事一束」『子不語随筆』(講談社文庫、1988年)、70頁。

[v] フレデリック・ダネイとマンフレッド・リーの書簡集を読むと、チャンドラーの『リトル・シスター』が『コスモポリタン』誌に掲載されたのに、『九尾の猫』は拒否されたことに、ダネイが憤懣をぶちまけていて、つい笑ってしまうが、リーもダネイに同調して、「〇〇な小説だ」などと言っている(正確に知りたい人は、書簡集を読んでください。私には書けません)。勝手な想像だが、ハメット(あるいはヘミングウェイ)のスタイルを正しく取り入れているのは、むしろ自分のほうだ、とリーは内心考えているのではないか、などと思ったりもする。ジョゼフ・グッドリッチ編『エラリー・クイーン 創作の秘密 往復書簡1947-1950年』(飯城勇三訳、国書刊行会、2021年)、228-29、234-38頁。

[vi] 『九尾の猫』(越前敏弥訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、2015年)、461頁。