エラリイ・クイーン『帝王死す』

(本書の犯人、トリックを明らかにしているうえに、「クリスマスと人形」、「七月の雪つぶて」の真相、他にアガサ・クリスティ横溝正史の作品のアイディアに言及しています。)

 

 飛び切りの異色作、というのが『帝王死す』(1952年)[i]に与えられた一般的評価と言ってよいだろう。この後、『盤面の敵』(1963年)だとか、『第八の日』(1964年)だとか、とんでもない作品が陸続と現れるので、すっかり目立たなくなったが、本書が異色作であり、それ以上に、「怪作」であることは間違いない。

 世界有数の大富豪が支配する孤島に招かれたエラリイとクイーン警視が、不可能犯罪の謎に挑戦するという内容だが、その突拍子もない状況設定は、すでに言い尽くされたように、第二次大戦後の国際政治に対するクイーン、もしくはフレデリック・ダネイの観察結果を反映したもの[ii]なのだろう。しかし、専制国家を思わせるこの島の描写と、富豪ケイン・ベンディゴの造形があまりに突き抜けているので、果たして本当にまじめな意図があって本作を執筆したのか、計りがたいところがある。

 何しろ、島全体が世界最大規模の軍需工場で、何千という人間が雇用されて、家族とともに居住している。島には飛行場や港湾まであって、私有の軍艦が何隻も停留している。それでいて、島の所在は、世界の限られた政治指導者達以外に知られていないというのだから、さすがに飛躍しすぎている。

 おまけに、ケイン・ベンディゴは、弟のジュダとエーベルとともにライツヴィル(!)の生まれで、とくにエーベルを参謀としてから「死の商人」として、のし上がってきた。第二次大戦中は、ヒトラーを背後で操って(!)戦争に踏み切らせて莫大な富を築き、今や、アメリカ政府の手も及ばない権力者として君臨している、というのだから、まるで『サイボーグ009』のブラック・ゴーストみたいですね。もっとも、ブラック・ゴーストは、それでも三人の合議体(脳みそだけだが)だったが、ベンディゴの王国は、王様はひとりだけ。ライツヴィルもとんだ怪物を産み出してしまったものだ(その割に、街の人々の反応がのんきなのは、これが世界を動かす闇の秘密組織の実体、隠された歴史の真実というものなのか)。

 その帝王ケインに対する殺害予告が届いたことから、エーベルがクイーン親子の自宅に、事件の調査を依頼すべく訪れるところから、小説は始まる。しかし、そのやり口は乱暴極まりなく、大勢で乗り込んでくると、いきなり銃を突きつけて、まるでギャングの襲撃だが、そのくせ、エラリイと警視が頑固に同行を拒否していると、とうとうアメリカ大統領の親書まで取り出す。そんなものを持っているなら、最初から出せばいいので、突然現れてホールド・アップするなど、まったく無意味な行動だろう。作者としては、最初が肝心で、劇的な幕開けにしたかったのだろうが、すでにこの時点で、馬鹿馬鹿しさが滲み出してくる。エラリイが大統領に電話をして、直々に出馬を要請される場面もあほらしさの極みで、クイーン警視はともかく、エラリイは単なる民間の素人探偵だろう。この時期のエラリイ・クイーンは大統領も一目置く名探偵だったのだと言いたいのかもしれないが、元腕利きの秘密諜報員だとかいうのならまだしも、政府と無関係の民間人にこんな重大事を任せるなど、出だしからして、このうえなく嘘くさい。

 つまり、1940年代以降のクイーン作品に見られるような寓話[iii]かパロディのようなのだが、それら長編でも、事件の背景には現実味があった。初めから作者がリアリティを無視するほど誇張した書き方をしてもらっては困る。不可能犯罪の謎を含めて、何ひとつ本当に見えないような書きぶりでは、真剣に読み進めることができない(それとも、アメリカン・コミックか何かの原作のつもりで書かれたのだろうか?)。結局、マンフレッド・B・リーの筆に問題があるのか、ダネイの構想自体に無理がありすぎるのか、多分、両方なのだろうが、基本的にリーはリアリズムの作家なので、かつての『チャイナ橙の謎』や『靴に棲む老婆』などもそうだったが、不可思議な雰囲気のミステリを書こうとすると、必要以上に戯画的になる。本書のような多元宇宙的パラレル・ワールドに説得力を持たせるなら、もっと根本から設定をつくって、具体的な細部を書き込む必要があっただろう。ヴォリューム不足も気になるが、それ以前に、エラリイ・クイーンなぞ出すべきではなかった。

 とはいえ、パズル・ミステリとしての部分は、なかなか魅力的だ。ベンディゴの島には、多くの人間が住んでいるが、容疑者と言えるのは、ケインの身内の二人の弟と美貌の妻カーラの三人だけで、クイーン親子の捜査により、脅迫状の犯人は簡単に弟のジュダと知れる。正体を明かされた彼は、逆に開き直って、兄に対し、日付けと時間まで指定して殺害を予告する。当日、ケインの部下に厳重に見張られたジュダは、空の拳銃をケインがカーラとともに閉じこもる金庫同然の機密室めがけて発射する。もちろん実弾は出ない。ところが、エラリイ達が機密室に入ると、ケインは銃で胸を撃たれ、瀕死の重傷を負っているのが見つかる。カーラもまた気絶して倒れている、という密室の謎である。

 これ以上ないくらいの完璧な密室で、読んでいてわくわくさせるが、あまりにも完璧すぎるので、答えは一つしかないとすぐにわかる。直後にクイーン警視が指摘するように[iv]、つまり、カーラ以外の犯人は考えられないので、問題は、凶器の銃をどこに隠したかに絞られることになる。もちろん、部屋のなかに銃は見つからない。しかし、これも、ベンディゴ家の住まいには、酔いどれのジュダがブランデーの壜をいたる所に隠している、という胡散臭い設定があるので、当然、機密室でもブランデー壜が見つかる。当然、これが一番怪しいので、どうにかして銃を壜のなかに隠したのだろう、と推測するが、どうやらそうではない。そうではないのだが、ではどのようにして銃を隠したのかというと、なんだ、結局そんな手か、というような、みみっちい方法なので、密室のシチュエイションが完璧なわりに、感銘は薄い。

 どうも、クイーンの不可能犯罪小説は、海外の評価は高い[v]ようだが、それほどとも思えない場合が多い。この手の作品としては、中編の「神の灯」(1935年)、短編の「クリスマスと人形」(1948年)、ショート・ショートの「七月の雪つぶて」(1952年)あたりが代表だろうが、手がかりが秀逸な「神の灯」はともかく、他の二編は傑作かと言われると躊躇する。「七月の雪つぶて」の、駅と駅との間で列車が消失する、という謎は、他にも傑作短編[vi]があって、大変魅力的だが、列車が通過したというのは駅長の嘘でした、という解決はそんなに素晴らしいのか[vii]?(もっとも、作者も半分ジョークのつもりなのかもしれないが。)「クリスマスと人形」にしても、警察が監視するなかで、高価な人形がいつのまにか偽物にすり替えられていた、という謎の答えが、人形の持ち主が「偽物だ!」、と叫んで、皆の注意が逸れた瞬間にこっそりすり替えた、というのでは、確かに盲点をついてはいるが、何となく拍子抜けする。江戸川乱歩の常套的なトリックを連想するからだろうか。乱歩を馬鹿にしているかのような言い方だが、そうではなくて、そのトリックというのが「少年探偵団」のシリーズで使い回されたものだからである。怪人二十面相から、宝石を頂戴する、と予告状を送り付けられた富豪が、探偵とともに密室のなかで宝石を監視している。いつの間にか二人が眠りこけて、眼が覚めると宝石がなくなっている。犯人は富豪(あるいは探偵)で、実は二十面相の変装でした、というのは、何度も読まされたお馴染みの手である。「クリスマスと人形」も、これとあまり変わらない、つまりジュニア・ミステリ並みのトリックという印象なのだ。

 脱線はそのくらいにして、本作のトリックもプレゼンテーションは見事だが、解決法はいささかしょっぱい。

 もうひとつのミステリのアイディアは、犯人の正体で、密室トリックから明らかなように、カーラとジュダは共犯である。そこにさらにエーベルが加わって、実は、ケイン以外の三人ともグルだった、とわかる。まるで横溝正史の代表作のようでもあるし、アガサ・クリスティの有名長編のパロディのようでもある。しかし、このような複数犯人で、一体、誰が最初に兄(または夫)を殺そう、と言い出したのだろうか。そしてまた、妻と弟たちの真意をまったく感じ取れなかったケインも鈍感すぎるだろう。独裁者の末路を描きたかったのかもしれないが、まわり皆が自分の命を狙っているって、むしろ、不憫に思えてくる。

 しかし、一番問題なのは、フランシス・ネヴィンズ・ジュニアが指摘している[viii]ように、この回りくどいケイン殺害計画がまったく無意味なことだろう。小説のラスト、回復したケインがエラリイにプールに突き落とされて(なんて乱暴な探偵なんだ!)、そのあと、再び銃で撃たれ、今度は本当に死んで発見される。エーベルら三人は、ケインの部下たちに指図して、全員が島から撤退、島はケインの遺体とともに爆破され(!)、海の藻屑と消えた(のかな?)。一体、何のために、わざわざクイーン親子を島に呼び寄せたのか。それも、あんなに無理やりに。

 実は、これが冒頭からエラリイが抱いていた疑問だった[ix]。なぜ、エーベルは、ケイン自身は反対していたにもかかわらず、エラリイとクイーン警視に事件の解決を要請したのか、と。その答えは、二人を事件の目撃者にして、ケインは不可能な状況で殺害された、と証言させるためだった、というのだが、ケインの部下たちがいそいそとエーベルらに従うのなら、ケイン殺害の目撃者をでっちあげる必要などどこにもない。三人全員が共犯なのだから、ことが終わったあと口裏を合わせてごまかせば済むことだ。さらにいえば、実質クーデタなのだから、ごまかす必要さえない。新しい君主が号令をかければ、それで収まる。ひとつ考えられるとすれば、クイーン親子からアメリカ政府に、ケインの不可解な死を報告させるのが目的、ということだが、実際には、エラリイ達に洗いざらい真相を知られてしまっている。エーベルの目的はなにか、という本書の最重要手がかりとなるはずの謎の答えが無意味とあっては、まったく始末が悪い。鏡よ鏡、一体、なぜに、エラリイ親子は拉致同然に連れて来られなければならなかったのですか。・・・それは、エラリイ・クイーンが主人公のミステリだから・・・。

 というわけなので、上述のとおり、本書は、エラリイ・クイーンなぞ出さないで、ベンディゴ一家だけでストーリーを組み立てればよかったのである(名案)。

 

(追記)

 『帝王死す』は、『フォックス家の殺人』などとともに、原書で読んだ数少ないクイーン作品である。そのときは、楽しく読んだことを覚えている。本文では、結構ひどいことを書いてますが、決して過小評価しているわけではありませんので、・・・あ、これも悪口か。

 

[i] 『帝王死す』(大庭忠男訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1977年)。

[ii] フランシス・M・ネヴィンズJr(秋津知子他訳)『エラリイ・クイーンの世界』(早川書房、1980年)、206-210頁、フランシス・M・ネヴィンズ(飯城勇三訳)『推理の芸術』(国書刊行会、2016年)、273-76頁。

[iii] 『エラリイ・クイーンの世界』、209頁参照。

[iv] 『帝王死す』、202-204頁。

[v] 『エラリイ・クイーンの世界』、205-206、223-24頁。

[vi] ヴィクター・L・ホワイトチャーチ「ギルバート・マレル卿の絵」、コナン・ドイル「消えた臨急」など。

[vii] もっとも、日本でも、小林信彦が誉めている。小林信彦『地獄の読書録』(筑摩書房、1989年)、114頁。ところで、偽証した駅長は、事件後、首になるどころか、共犯で逮捕されただろうが、割に合うのか(それとも、駅長に扮した一味の者だった)?

[viii] 『エラリイ・クイーンの世界』、208頁、『推理の芸術』、275頁。

[ix] 『帝王死す』、67-68頁。