(『悪魔の報酬(悪魔の報復)』、『ハートの4』、『ドラゴンの歯』のトリック等を明かしていますので、ご注意ください。)
『悪魔の報酬』
1930年代末に書かれたエラリイ・クイーンの三冊の長編ミステリは、ハリウッドものとして知られている。そして、クイーンの二人がハリウッドに対して憤懣やるかたない思いを抱いていた[i]ことも、ファンは皆知っている。
そんな嫌な思い出しかないのなら書かなければよいのでは、とも思うが、よほど腹に据えかねたのか、それなら幾らかでも元を取ってやろうと決意したのだろうか。気に食わない奴は、小説の中でいくらでも叩いてやる。ストレス解消にはうってつけで、ミステリ作家に良識ある紳士淑女が多いのは納得できる。
『悪魔の報酬』[ii]または『悪魔の報復』[iii](1938年)は、かつて『別冊宝石』に翻訳が掲載された[iv]そうなのだが、手に取りやすくなったのは、1973年にハヤカワ・ポケット・ミステリに収録されてからだろう。そのあとすぐに創元推理文庫版(1975年)も出版されて、うっかり両方買ってしまった人も多かったことだろう(そんなのはお前だけって?)。The Devil to Payだから「報酬」というのはわからなくもないが、「報復」とは?「悪魔につけを払わされた」という解釈なら間違っていないのか。慣用句の意味としては「あとのたたり」とか「後難」ということらしい。「あとあと、とんでもないことになる」というのは、ハリウッドに関わってしまったクイーンの嘆きを、後から振り返ってタイトルにしたのだろうか。
それはさておき、最初に読んだ時には、なんだ、面白いじゃん、と思った。長らく復刊されなかったのは、てっきり、つまらないからだと邪推していたのだ。正直、すでに創元推理文庫版で読んでいた『ハートの4』(1938年)より、クイーンらしいとも考えた。
日よけの裂け目とかコートのかぎ裂きとかの手掛かりから複数の条件を揃えて、ささやかながら帰納法的推理で犯人を割り出す手際は悪くない。例によって、左利き右利きの推理が出てくるが、これくらい単純なら、目くじらを立てることもないだろう。『ハートの4』のみならず、ひとつ前の『ニッポン樫鳥の謎』(1937年)と比べても、クイーンならではの推理が楽しめるのではないかと思う。
そりゃあ、確かに、国名シリーズの『オランダ靴の謎』(1931年)や『ギリシア棺の謎』(1932年)と並べると、無残なまでに見劣りするが、そんな水準をいつまでも要求するほど、わたしは大人気なくはない(?)。十分楽しめましたよ、といってあげたい(何様だ)。
まあ、再読してみると、犯人が自分の特技と直ちに結び付く殺害方法を選択するのはおかしいのでは、と思う。恨む相手に罪を着せるのが目的とはいえ、犯人にとっても危険ではないのだろうか。実際は、共犯でもない第三者が事後工作してくれたので、凶器もわからなくなり、相手を陥れる偽の手がかりまで新たに手に入るのだが、随分と犯人にとって都合の良い偶然に恵まれたことになる(この辺は、なんだか横溝正史の小説みたいだ)。これだけ見ても、どうも、この犯人、あまり利口そうではない。
実際、その通りで、ハリウッドものの特徴として、ユーモアが強調されるようになり、軽みが増したのは結構だが、だれもかれも頭が悪そうに描かれて、エラリイ・クイーンまで脳みそが軽そうで、とてもあんな推理ができるように見えないのも困りものだ。わけても、犯人が従来のクイーン作品ではお目にかかれないくらい単純で軽率な人物で(ヴェリー部長刑事を連想したのは、わたしだけ?)、正体を暴かれたとたん、凶器を掴んで「名探偵も道連れだあ」、と大見えを切る。ところが、ヒロインにちょっと説得されると、あっけなく武器を捨てて泣き出してしまう。映画化を当て込んでいたにしても[v]、安手なメロドラマ過ぎて、誰ももらい泣きしないだろう。
とはいえ、犯人のこの頭の悪さが、意外性のトリックになっているのは、ナイス・アイディアというか、怪我の功名というか。犯人の短絡的な思い違いが動機になっているので、意外といえば意外である。本書で一番面白いのは、ここかもしれない。とはいえ、後年の神のごとき深慮と明察に満ちたクイーン的犯人と比べると、そそっかしいこと、このうえない。サザエさんかお前は、と突っ込みたくなる。これじゃあ、すごんだわりに、すぐに乙女のように花に埋もれて泣き崩れてしまうのも無理はない。
ほめているのか、けなしているのか、自分でもよくわからなくなってきたが、ストーリーの背景として1920年代の大恐慌があるようだ[vi]。クイーンは世界大恐慌の年(1929年)に作家デビューしているから、いわば、あの未曽有の事態の申し子(?)のような作家のはずだが、これまでの作品で、この狂乱の時代がもたらした経済混乱や社会的困窮が言及されることはなかった(と思う)。ミステリはエンターテインメントだから、厳しい現実から眼をそらして非現実の作品世界に閉じこもったとしても文句を言うことはないが、大恐慌から十年ほどたって、そこに触れるようになったのは、アメリカ社会がようやく平常を取り戻しつつあることを暗示しているのだろうか。いずれにしても、クイーンの描く作品世界と現実との間には、まだ一定の時間のずれがあるようだ。
『ハートの4』
『悪魔の報酬』は、ハリウッドものと言っても、舞台となっているだけで、エラリイが大物プロデューサーに会おうとして会えないというお約束のギャグネタが、かろうじてハリウッドっぽいだけだった。『ハートの4』(1938年)[vii]では、とうとう、お待ちかね、伝説のプロデューサーのブッチャー(どうも、昔有名だったプロレスラーを思い出して、いけません)と会って、大スターのロイルとステュアート、二組の親子をめぐる殺人騒動に巻き込まれる。ブッチャーが、会ってみると、意外なほど良識があって礼儀正しい映画人に描かれているのは、クイーンが、ハリウッド人種はこうあってほしいという願望を具現化したものだろうか。それとも単なる皮肉なのか(こんなやつ、いねーよ、という)?
事件は、長年いがみ合っていたブライズ・ステュアートとジャック・ロイルが和解したうえに結婚を宣言したところから始まる。ステュアートのもとには、謎の差出し人からトランプ・カードが送られてきており、どうやら警告だったらしい。二人は結婚式のあと、自家用機で新婚旅行に出かけるが、途中で連絡が途絶え、山中に不時着した機内には、毒殺された二人の死体だけが残されていた。操縦士のタイ・ロイルは飛行場で殴られて気絶しているのが見つかり、彼に成りすました犯人らしき何者かはとうに姿を消していた。
ところが、親同士の反目を受け継いでいたはずのタイとボニー・ステュアートが、またしても互いに対する愛情に突然気づき、結婚宣言をするというコメディ展開になる。しかし、すでにボニーのもとにも母親同様にカードによる警告の手紙が送られていた。
もちろんタイトルは、このトランプ・カードを指しているが、このカードを送るという犯人の意図が、どうもよくわからない。ロイル=ステュアートの不和を利用して、ロイル親子がカードを送った犯人であると見せかける偽の手掛かりだというのだが、ジャックとブライズ、タイとボニーの婚約により、偽装のトリックが無駄になったあとも、同じ警告の手紙を出し続ける。親世代の突然の和解と婚約が息子と娘の間でも起こるかもしれないのに、同じようにカードによる偽装を繰り返すのは、頭が悪すぎるようだ。とくにタイとボニーが婚約発表したあとになっても、婚約解消を迫るカードを送ってよこすのは、わけがわからない。仮に二人が婚約解消したとしても、ボニーを殺害するつもりに変わりはないのに、なんでわざわざ警戒されるような手紙を出すのか?それとも、婚約解消すれば狙われることはなくなる、とボニーに油断させる狙いなのか?いくらなんでも、考え方が回りくどすぎるだろう。もっとも、『悪魔の報酬』でもそうだが、ハリウッドものの犯人は、そもそも頭が悪い設定らしいので、最初から馬鹿な犯人の馬鹿な犯罪を描くのが狙いなのかもしれない[viii]。
しかし、その割には、犯人の計画は手が込んでいて、つまり、ミステリとしては、なかなか面白い。人間入れ替わりのトリックなども駆使して、うまくまとめている。もっとも、また細部をつつくと、この入れ替わりの当人が、かなり以前から犯罪計画に加担していたらしいのに、事件の直前に、顔を見られたくないはずのブライズと連れ立ってクラブにやってくるのはおかしくないだろうか?いくら変装していたとしてもである。しかも、こちらも避けたいはずのジャックに目をつけられて、変装を見抜かれてしまうのである。大胆というより、あまりにも考え無しだろう。ただし、計画に引き込まれたのが、この事件より後だとすれば話は別だが、そうすると今度は、周到なはずの犯人にしては先のことを考えていないというか、予測可能な事態(ある人物の死亡)に対する備えが、まるでできていない。
と、文句を言えばきりがないが、全体としては、満足できるレヴェルのパズル・ミステリだといえる。ただ、『悪魔の報酬』から続けて読むと、なんといいますか、エラリイ・クイーンも段々普通のミステリ作家になってきたな、とも感じる。前作は、それでも結構クイーンらしい論理的推理が見られたが、本作の場合は、要するにトリック小説なのだ。トリックの組み合わせで読ませる、よくある一般的なパズル・ミステリと変わりなくなってきた。もっとも、このあと1940年代後半になると、また普通でないというか、変なミステリばかり書くようになるが。
動機について、エラリイが長々と推理を展開して、そこが本書でもっとも理詰めな説明なのだが、それほど意外性があるわけでもなく、さほど複雑でもない。動機を隠す一種のトリックなのだが、それを見抜くエラリイの推理は、過去とか未来とか、もったいぶって色々言っているが、さして意外でもないし、面白くもない。
大体、この動機を隠すトリックも名案かというと、結局すべての関係者が死亡してしまえば、犯人が遺産を相続することになるので、そうなれば警察の疑惑を免れるのは難しいだろう。ましてや、ステュアート親子の被相続人にあたる資産家(の替え玉)の死が迫っているという情勢のなかで、続けざまに関係者が亡くなれば、最終的に利益を得るのが犯人であることは誰の眼にも明らかになってしまう。頭がいいようにみえて、大事なところが抜けている。そして、大変失礼な物言いとは思いますが、同じことは作者本人についても当てはまりそうだ。
どうやらこうして見ていくと、ハリウッドものは、エラリイ・クイーンのミステリが、ロジックの天才による超絶パズルから普通の謎解き小説へと変化(劣化とは言いますまい)していく過程を表わすシリーズともいえそうだ。
ところで、本書は、「あの」ポーラ・パリスの登場作だが、彼女との会話のなかで、つい口がすべったのか、エラリイ君、「女は推理しない」[ix]などと口走ってしまう。作中人物とはいえ、1930年代だからよかったものの、今こんなことを言ったら大変ですな。いや、当時でも、もしクイーンがイギリス作家だったら、セイヤーズにコテンパンに言い負かされ、クリスティには軽蔑の眼差しを向けられていたことだろう。
もう一つついでに、『悪魔の報酬』では、十年たって、ようやく大恐慌の時代について触れるようになったと述べたが、本書の後半では、日華事変(日中戦争)に言及している[x]。遠いアジアのことなので、何気なく話題にしたようだ。まさか、三年後に日米開戦を迎えることになろうとは、クイーンも思っていなかったのだろう。
『ドラゴンの歯』
ハリウッド・シリーズ第三作目は『ドラゴンの歯』[xi]である。・・・と思って読み返してビックリ、本書はハリウッドものではなかった・・・。『悪魔の報酬』、『ハートの4』の続編的作品と覚えていたので、すっかり勘違いしてしまっていたが、クイーン警視が出てくるくらいなので、ニュー・ヨークの事件でした。もっとも、『悪魔の報酬』にしてもハリウッドが舞台である必然性は皆無で、映画スタジオも映画人も出てこない。そう考えれば、本書のヒロインであるケリー・ショーンはハリウッドの売れない女優という設定であるから、立派にハリウッドものと言うことができるだろう(!?)。ということなので、このままハリウッド三部作で押し通すことにする。
事件は、謎めいた富豪キャドマス・コールの二人の女性相続人をめぐって起きる殺人未遂と殺人の謎で、ケリーとマーゴ・コールは結婚していないこと、将来も結婚しないことを条件に莫大な遺産を相続することになる。ところがケリーを探し出した私立探偵のボー・ランメルが彼女に恋をして、マーゴのほうはボーに色目を使う。ケリーが繰り返し命を狙われたあげく、犯人と思われたマーゴがホテルの一室でケリーと言い争っている最中に、斜め向かいの部屋から窓越しに銃で撃たれて死亡する。警察が到着した時には、凶器の拳銃は(部屋に投げ込まれて)茫然と立ちすくむケリーの手に握られていた。
実は、ボーは探偵事務所の共同経営者であるエラリイ・クイーンの名前を借りて、マーゴやケリーと接触していた。おかげで、クイーン警視が事件を担当することになると、とんだ混乱を招くことになる。それにもめげず、ケリーに罪を着せる犯人の罠が次第に締まってくるなか、彼女を救おうとボーとエラリイが奮闘するという筋書きである。
タイトルの『ドラゴンの歯』は、ギリシア・ローマ神話に基づくが、同時に、推理の要となる手がかりが歯型のついた万年筆と鉛筆であることによる。前二作同様、軽いタッチのパズル小説で、軽妙な会話で読みやすく、話もどんどん進んでわかりやすい。
しかし、だからといって、大変結構というわけではない。初読時の印象も、久しぶりに再読した感想も結局一緒だった。
つまらん。
ものすごーく、つまらん。
確かにアクション・スリラー的展開でハラハラさせて、ストーリー進行もスピーディで飽きさせない。最後の謎解きまで一気に読ませる筆力はさすがである。しかし、例えば、ガレージに閉じ込められたケリーが車の排気ガスで窒息死させられそうになりながら必死に脱出を試みる場面、ホテルの一室でケリーの眼の前でマーゴが片目を撃ち抜かれて倒れ伏す場面など、劇的でスリリングなのだが、どうも、それほど真に迫ってこない。なぜかと考えると、要するに描写が映画的なのだ。皮肉に言えば、ハリウッドで脚本修行を経験した成果が出たともいえるが、スリラー映画の一場面としてみれば、なかなか手に汗握らせるだろう。だが、ヒロインだから死ぬはずはないというメタ的予想は別として、窮地の脱し方もおおよそ予測できるので、むしろ、何故犯人はもっと確実な方法を取らなかったのだろうという疑問のほうが先に浮かんでくる。ケリーというヒロインにも、それほど感情移入できない。
それに、そもそもの話として、こういった場面が読みたくて、エラリイ・クイーンを手に取っているのではないのだ。
もちろん、全体としては謎解きミステリとして書かれているので、エラリイの推理が最後を締める。人間入れ替わりのトリックを入れて捻りを加えながら、それなりに複雑なパズルを作っている。それでも、あまり面白いと思えないのは、その推理の部分が弱いからである。
確かに、犯人を指摘する推理を成立させるための条件や伏線は、ひととおり用意されていて、そこに遺漏はないのだが、それでも一向に感心できないのはなぜだろう。どうやら、推理が都合のよい偶然によって成り立っているせいらしい。
上記の通り、肝心かなめの手がかりは歯型のついた万年筆と鉛筆で、筆記用具を噛む癖のある犯人が歯型のついた鉛筆を殺人現場に落としていく(うかつだなあ)。その前に、歯型のついた犯人の万年筆を第三者が自分のものと間違えて持ち去ってしまい、ひょんなことからエラリイとボーの手に入る。随分とおあつらえ向きの偶然が重なって、運よく犯人を突き止められたという展開なのである。お膳立てが良すぎるプロットで、近眼なので犯人の万年筆と自分のそれを間違えるというポイントとなる推理も、論理的に緊密とは思えず、そういうこともあるかもしれないという程度の憶測にすぎないように感じられてしまう。
それと、マーゴ・コールが実は偽者で、にもかかわらず身元を証明する書類をもっていたのは、犯人が本物のマーゴ・コールと結婚していたからだ、という謎解きも、あまりに偶然の度合いがきつすぎて、ご都合主義だなあ、と思わざるを得ない。これなら、マーゴを探していた犯人が、偶然マーゴの友人で身代わりになりうる女をみつけたという設定にしたほうが、まだましだったろう。
ついでに、よけいなことだが、この程度の推理をするのに、あのエラリイ・クイーンが一晩徹夜して頭を絞るというのも信じがたい。大先生にとって、そんなに難問じゃないだろうに。
もうひとつおまけにいえば、上記のように、ボーがエラリイの名を使って殺人に巻き込まれたことで、クイーン警視を慌てさせる。ボーに自分の名を使うよう勧めた張本人もエラリイなのだから、父親に一言くらい謝ったのかと思いきや、そんな様子もない(見えないところで、そうしているのかもしれないが)。それどころか、警視に向かって、警察にはこの謎は解けないよ、なぞと偉そうにいう。私が親だったら、こんな失敬な[xii]息子は速攻家から追い出すが、クイーン警視はエラリイに弱みでも握られているのだろうか?事件を解決するのは、いつもエラリイだから、それで、こんな小生意気な息子に頭が上がらないのか。子どもの教育とは難しいものですね。
[i] フランシス・M・ネヴィンズJr『エラリイ・クイーンの世界』(秋津智子他訳、早川書房、1980年)、「映画的間奏曲」、96-105頁、フランシス・M・ネヴィンズ『エラリー・クイーン 推理の芸術』(飯城勇三訳、国書刊行会、2016年)、79-82頁参照。
[ii] 『悪魔の報酬』(尾坂 力訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1973年)。
[iii] 『悪魔の報復』(青田 勝訳、創元推理文庫、1975年)。
[iv] 『悪魔の報酬』、「クイーンとハリウッド」(解説)、245頁。
[v] 『エラリイ・クイーンの世界』、85頁、『推理の芸術』、89頁。
[vi] 『エラリイ・クイーンの世界』、84頁、『推理の芸術』、89頁。
[vii] 『ハートの4』(長谷川修二訳、創元推理文庫、1959年)、『ハートの4』(青田 勝訳、創元推理文庫、1979年)。
[viii] 『ハートの4』(長谷川修二訳、405-407頁、『ハートの4』(青田 勝訳)、400-402頁参照。
[ix] 『ハートの4』(長谷川訳)、320頁、『ハートの4』(青田訳)、315頁。
[x] 『ハートの4』(長谷川訳)、363頁、『ハートの4』(青田訳)、357頁。
[xi] 『ドラゴンの歯』(宇野利泰訳、創元推理文庫、1965年)、『ドラゴンの歯』(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1979年)。
[xii] 『ドラゴンの歯』(宇野利泰訳)、355頁、『ドラゴンの歯』(青田 勝訳)、324頁も参照。