ニコラス・ブレイク『殺しにいたるメモ』

(本書の真相を明らかにしているほか、他のブレイク長編の犯人についても、注で言及しています。)

 

 『殺しにいたるメモ』(1947年)[i]は、ニコラス・ブレイクの第八長編ミステリだが、前作の『雪だるまの殺人』(1941年)からは六年ぶりの発表である。

 自伝[ii]でも読めば、はっきり書いてあるのかもしれないが、五年のブランクの原因は、恐らく第二次世界大戦の影響なのだろう。ブレイクも戦時中は情報省に勤務し、本業の詩作の刊行は続けていたようだが、ミステリの執筆にまでは手が回らなかったようだ。

 戦後第一作の本書は、まさに、そんな戦争の時代を背景に、架空の戦意昂揚省の宣伝広告局なる部署を舞台としている。ドイツ降伏直後の解放感と、しかし、戦争の終結とともに組織は解体されようとして、そのなかで目的を見失いつつある人々の空虚で不安な感情を全編に漂わせている。そうした空気の中で、動員職員として勤務していたナイジェル・ストレンジウェイズが殺人事件の解決に挑むという内容である。

 局長のジミー・レイクの妻アリスの双子の兄で、やはり同省職員だったチャールズ・ケニントン少佐は、ドイツで死んだものと思われていたが、実は諜報員として活動し、ドイツの大物スパイを逮捕して、イギリスに凱旋してくる。かつての職場を訪れたケニントンをレイクやナイジェルらが出迎えるが、レイクの秘書ニタ・プリンスは、もともとケニントンと婚約していたのに、彼が消息不明となった後、レイクの愛人になったと、もっぱらの噂だった。しかもケニントンがアリスを同伴してきたため、居合わせた人々の間に緊張が走る。おまけに、ケニントンはドイツのスパイから奪ったという自決用の青酸入りカプセルを戦利品として持参して、それを皆に披露しようと回覧させるので、当然、読者は凶事の勃発を予想する。案の定、コーヒーを飲んで、突如苦しみだしたニタがそのまま死亡すると、青酸による毒殺だったと判明する。その場には、ニタに思いを寄せるブライアン・イングルや、彼女に言い寄ったことのあるメリアン・スクワイアーズといった職員たちが集まっており、疑わしい人間ぞろいである。さらにそのあと、今度はレイクに対する殺人未遂事件が起こって、ニタの死は、レイクを狙って誤って起きた間違い殺人だった可能性も浮上する。果たして、連続する事件の真相は・・・。

 本書は、森 英俊が、パズル・ミステリの傑作と称揚し、翻訳まで手掛けた作品で、同氏によると、あの『野獣死すべし』をもしのぐ出来ばえだという[iii]。さらに、本書あとがきでは「エラリイ・クイーンばりの緻密な論理、フェアプレイに徹したもの」[iv]と激賞している。

 確かに長いブランクのあとで、満を持してというか、再びパズル・ミステリに意欲をもって取り組んでいることをうかがわせる力作である。不倫関係にあった男女が続けて狙われるというプロットなので、ブレイクのことだから、また、こういう「ただれた関係」(?)に天誅を下そうとするサイコパス的犯人なのだろう[v]と予想していると、案に相違して、局長の殺人未遂のほうは、秘密ファイルを持ち出して金に換えようとしたドッグ・レース狂いの職員の仕業とわかる。ファイルの紛失を局長に知られることを恐れての犯行だったのである。この作半ばでの第二の事件の真相解明で容疑者が整理されると、結局、ニタ殺しの犯人は、レイク、アリス、ケニントンの三人に絞られてくる。ニタを中心とした四者間の複雑な愛憎関係に事件を解く鍵があることが読者にも示され、事件は山場を迎える。こうした容疑者を減らして枝を刈りこんでいくようなプロット展開は、ある意味、作者の自信の表われであるようにも見えるし、ブレイクらしい技巧的な筋立てとも映る。

 しかし、「エラリイ・クイーンばり」の推理というと、少し異なるようにも感じる。クイーンの、あの数学的な、図形を描くような均衡のとれた推理に比べると、ブレイクの、いやナイジェルの推理は、容疑者の性格を推し量り、彼らの発言の意味を推測していくというやり方なので、解釈はひととおりではない。それらの可能性のある複数の解釈のうちから、全体の推理とうまく組み合わされる最適解を選んで、矛盾のないように積み上げていくというやり方なので、クイーンほど明快ではないし、意外性もない。

 とはいえ、ねちねちと推論を重ねていくナイジェル、いやブレイクの理屈好きは本作でも健在で、例えば、レイク殺害未遂事件における犯人の行動を細かく推論して、被害者は犯人の顔を目撃していない、と証明する手際[vi]などを見ると、ニコラス・ブレイクという作家の推理好みが、戦中のブランクを経ても枯れていないのが確認できる。

 その一方で、本作には、ストレートなパズル・ミステリにとどまらない特異性があるように思える。最大の謎となるのは、犯人が青酸入りのカプセルをこわしてコーヒーに注いだ後、残った容器をどのように処分したのか、ということである。犯行直後に床に捨てておけば、直接疑いをかけられる恐れはない(指紋がつく心配はないのかな、とは思う)。むしろ身につけているのを発見されれば致命的となるのだが、ところが、カプセルは誰の身体からも、室内からも発見されない。例えば、本来の隠し場所である口中の奥に隠せば、容器に残った数滴の青酸を飲み込むことになり、とても平静ではいられないだろう。にもかかわらず、警察の捜査によっても、部屋のどこからもカプセルは発見されないという一種の不可能犯罪である。ところが、実は、この謎は、ある人物の嘘によって成り立っていることが最後に明らかになる。嘘というか、ある重要な事実を隠しているのだが、もちろん、その人物には真実を打ち明けない理由がある。しかし、不可能状況が嘘に寄りかかっているというのは、少々引っかかるところではある。ただし、この嘘がフェアプレイに抵触するとまではいえない。

 特異なのはクライマックス・シーンで、上記の嘘を推測して、カプセル消失のトリックを看破したナイジェルが、ケニントンとレイクとを招いて、二人を対決させる。こうなると、読者にも、どちらかが犯人とわかるのだが、実はここからが本書の最大の見せ場である。ケニントンがある事実を隠していたことを暴露したナイジェルは、アリスとの共犯による犯行の可能性を示唆する。すると、いきなりケニントンがレイクこそ犯人だと名指して、まるでナイジェルのような精緻な推理を開陳するのである。それはもう、見事な論証で、例えば、事件発覚の直前にレイクがニタの腕を取って、彼女を誘導して机を離れた意味の解釈[vii]など、名探偵顔負けの頭脳の冴えを見せつける。ところが、ケニントンの弾劾が終わると、今度はレイクがケニントンの推理を打ち砕く論証を始める。ナイジェルは、ぼーっとしたまま(?)二人の論戦を黙って眺めるだけなので、読者はどちらが犯人で、どちらの言い分が正しいのか迷わされることになる。まるで、ミステリにおける名探偵の推理など、いくらでも引っくり返せると言わんばかりの光景である。

 これより前にも、レイク襲撃の犯人である職員が副局長のことを、自分を犯罪に引きずり込んだ敵方のスパイだと詰ると、相手の副局長も負けじと、自分はスパイのふりをして件の職員の忠誠心を試しただけだ、と反論する[viii]

 どうも、本書は、推理などとえらそうなことをいっても、物は言いようで、いくらでももっともらしく論じられるし、どうとでも言いくるめられる、と主張しているようなのだ。

 これはパズル・ミステリに対する皮肉なのだろうか。それとも、ブレイクの理屈好きがいささか暴走しているだけなのか。

 いずれにせよ、本書はパズル・ミステリとしても面白いが、パズル・ミステリのパロディとして見ても、はなはだ興味深い作品である。

 

[i] 『殺しにいたるメモ』(森 英俊訳、原書房、1998年)。

[ii] セシル・デイ・ルイス『埋もれた時代-若き詩人の自画像』(土屋 哲訳、南雲堂、1962年)、筆者未読。『短刀を忍ばせ微笑む者』、「訳者あとがき」、340頁参照。

[iii] 森 英俊編著『世界ミステリ作家事典[本格派篇]』(国書刊行会、1998年)、604-605頁。

[iv] 『殺しにいたるメモ』、313頁。

[v] ブレイクが以前書いた長編がそうでした。『証拠の問題』。同じような犯人像としては、『死のとがめ』、『死のジョーカー』、『死の翌朝』などもそうです。

[vi] 『殺しにいたるメモ』、131-32頁。

[vii] 同、278頁。

[viii] 同、184-96頁。