横溝正史「百日紅の下にて」

(本作のアイディア等に触れています。)

 

 「百日紅の下にて」(1951年)は、横溝正史の敗戦後に書かれた傑作短編ミステリである。戦後中短編に限れば、ベスト・ファイヴに入るだろう。他の四作品は、「探偵小説」、「黒猫亭事件」・・・、残りは、適当に選んでください。

 舞台は戦後間もない東京で、空襲で崩れ果てた屋敷の庭に立つ一本の百日紅の木。その下で、当家の主人と謎の復員服の男とが、過去の殺人事件について語り合う。

 テーマは、毒殺トリックで、この当主の屋敷で開かれた会合の席、同じ飲み物を飲んだ数人のうち、ひとりだけが毒を飲まされて死亡する。しかし、被害者が手に取ったグラスは、彼が任意に選んだものだった。狙って彼に毒入りグラスを渡せたものは誰もいない、という一種の不可能犯罪ミステリである。

 当主は、極端な人見知りで、金はあるが、女性に声がかけられない。これはという美少女を見つけて、将来妻とするべく、養女に引き取る。中島河太郎の解説では、『源氏物語』などが引かれて[i]、なにやら優雅な雰囲気だが、現代なら、間違いなく通報される。しかも、年頃になった彼女と無理やり関係を持って、計画通り妻とする、という、とんだ変態である(うらやましい・・・、いや、そんなことはない)。

 ところが、いかんせん、彼女の周りには、うさんくさい男どもがうじゃうじゃ集まってくる。そして、当主が出征していた期間に何かが起こり、戻ってきた夫を拒み続けた挙句、妻は毒を呷って自殺してしまう。どうやら、群がってきた男たちのひとりに犯されたものらしい。殺人事件が起きたのは、ちょうど彼女の一周忌で、その場に集まったのは、かつて彼女目当てに日参していた男たちだった。

 当然、一番怪しいのは当主で、動機は妻の復讐と推測できる。しかし、殺された男が、彼女を死に追いやった張本人であるという証拠はなく、殺害方法もわからない。捜査が進むと、どうやら、当主が別の客に差し出した盆に載っていた二つのグラスのひとつに毒が入っていたらしい、と判明する。そのグラスが、被害者に渡った。つまり、被害者は誤って殺されたことになる。だが、当主は盆ごと差し出したので、受け取った客が毒入りグラスを引き当てる確率は半分しかない。そんな、自分が毒を飲むことになるかもしれない殺人方法を選択するはずがない。しかも、当該の客に対する主人の動機も見当たらない、という難問。

 このテーマは横溝には珍しい[ii]が、作例は豊富である。近時の作品としては、エラリイ・クイーンの『災厄の町』(1942年)、『フォックス家の殺人』(1945年)、アガサ・クリスティの『忘れられぬ死』(1945年)、ジョン・ディクスン・カーの『五つの箱の死』(1938年)などに類似のシチュエイションが見られる。これらの諸作のうちからヒントを得たのかどうか、憶測するしかないが、もちろん、解決方法は同じではない。いかにも日本的というか、横溝らしいアイディアで、西欧風の合理的な解決方法とは異なるが、盲点を突いた鮮やかなものである。

 しかし、本作の評価を高めているのは、最後に明らかとなる復員者の正体と読後の余韻だろう。当主から盆を差し出された例の客から話を聞いた、という謎の男は、アームチェア・ディテクティヴさながらに、伝聞の情報だけから見事にトリックを見破る。意外な名探偵の正体が最後に明かされる、というアイディアの小説は、トマス・フラナガンやカーの短編小説(タイトルを注で書くので、注意してください)[iii]が有名だが、作者の念頭にあったのは、江戸川乱歩の中編小説(前に同じ)[iv]だったかもしれない。しかし、乱歩の作品は、主役の探偵の薄気味悪いくらいの飄逸さのほうが印象に残るが、本作は、坂を下っていく復員服の男の後ろ姿が、廃墟となった戦後東京のイメージと相まって、得も言われぬ読後感を残す。最後の一行は、楽屋落ちめいているが、横溝ファンには懐かしく、忘れがたいものだろう。

 

[i] 横溝正史『殺人鬼』(角川文庫、1976年)、275頁。

[ii] 捕り物帳で同一のトリックを用いたものとして、「春姿七福神」(1955年)『完本 人形佐七捕物帳 九』(春陽堂書店、2021年)、271-302頁。

[iii] トマス・フラナガン「玉を懐いて罪あり」(1949年)『アデスタを吹く冷たい風』(宇野利奏訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1961年)、171-94頁、ジョン・ディクスン・カー「パリから来た紳士」(1950年)『カー短編全集3/パリから来た紳士』(宇野利奏訳、創元推理文庫、1974年)、9-60頁。

[iv] 江戸川乱歩「何者」(1929年)『江戸川乱歩名作集4 D坂の殺人』(春陽堂、1962年)、1-60頁。