J・D・カー『九つの答』

(犯人その他を明かしています。)

 

 『九つの答』[i](1952年)は、ディクスン・カーの最大長編のひとつである。原書がないので、翻訳で比較するだけだが、『アラビアン・ナイトの殺人』(1936年)より長いし、前年の大長編『ビロードの悪魔』[ii](1951年)よりも長い。

 しかし、超大作かというと、全然そんな印象はなく、サクサクと読める。『ビロードの悪魔』のように、17世紀の歴史風俗に関する蘊蓄のようなものもなく、途中、英国放送協会(BBC)についての、実体験に基づく具体的な描写があるが、読むのにうるさいほどではない。むしろ、あの韜晦趣味が強く出ていないので、カーの小説のなかでも読みやすいほうで、何だか軽ハードボイルド・ミステリのようである。あるいは、再読して思ったのだが、フレデリック・ブラウンみたいだなあ。ブラウンなら、こんなにだらだら長い小説にはならないだろうが。

 つまり、読後の印象は、ハードボイルドというより、いわゆるスリラー、それも心理的スリラーではなく、アクション・スリラーに近い。

 例によって、主人公は、歴史好きの学究肌の青年だが、一方でボクシングのすごい才能を持っている。イギリス人だが、恋人と仲たがいをして故郷を飛び出し、アメリカにやってきた。しかし、何事もうまく行かず、困っていたところを、弁護士から呼び出しを受ける。祖母の死によって、ささやかながら遺産を受け取ることになったのだ。

 ・・・これまで、何度、こんな主人公の履歴を読まされてきたことか。デ・ジャヴを飛び越えて、もはや記憶に焼き付いている。いちいち紹介されるまでもなく、「いつもの主人公です」、と一言書いておいてくれれば充分だ。

 そこに、こちらも恒例の、人好きがよいが、何となく胡散臭い金髪青年とその恋人が登場し、彼らと弁護士との話し合いを、つい耳にした主人公ビル・ドーソンは、金髪青年ラリー・ハーストから異常な提案を受ける。昔、子どもだったラリーを執拗に痛めつけた富豪の伯父ゲイロード・ハーストが、ラリーに遺産を残す、と言ってきた。だが、ゲイロードの魂胆は見え見えで、またラリーを手もとにおいて、とことん苛め抜くつもりなのだ。ドーソンが自分に似ていると気づいたラリーは、自分に成りすまして、代わりにイギリスに行ってくれないか、と頼む。長い間イギリスに戻っていないし、伯父とも会っていないから、と説得されても躊躇していたドーソンだが、その後、三人で入ったバーで、ラリーが毒を飲まされ-一体、どういう事態なのか、読者も唖然とする-、倒れるのをみると、彼の頼みを聞いてゲイロードと対決する決意を固める。しかも、ヒースローに向かう機上で、ドーソンは、かつての恋人マージョリと再会し、たちまちラヴ・シーンに突入する。どういう偶然だ、まったく!

 ここまでで全体の三分の一近くを費やして、続いて、ゲイロードとその使用人、というより、用心棒であるハットーとの初対決の場面で、早くも半分を越える。ゲイロードは、あっさりとドーソンが偽者であることを見抜き、さらにとんでもない提案を持ち掛ける。1万ドルの代わりに、ドーソンの命を懸けたゲームをしよう、という。期限を決めて、ゲイロードがあらゆる手段を用いて、ドーソンを殺そうとする。生きながらえればドーソンの勝ち、金が手に入るというわけだ。かくして、ハードボイルドからスリラーへ、そこから今度は冒険小説風に展開して、パズル・ミステリはどこへやら、これなら、話がどんどん進むはずである。

 もちろん、最後にどんでん返しがあって、意外な犯人(でもないか)が明らかになる。目新しいトリックではないが、相当大胆な一人二役で、その辺りもブラウンを連想させる。

 しかし、それにしても、このプロットで、なんでこんなに長いのか。話がスピーディといっても、ポケット・ミステリで400頁も読むのは大変だ。登場人物も少なくて、主人公と恋人マージョリ、ゲイロードとラリーのハースト家、ラリーの恋人ジョイ、それにハットーと、他にも出てくるが、主要登場人物はこんなもので、犯人もこの中にいる。というか、隠すまでもなく、ラリー・ハーストなのだが、人物設定からしても、当然こいつが犯人である(カー作品に対する偏見に基づく推理)。

 バーで彼が毒を飲まされ、死亡する、という冒頭の事件自体が、まずもって怪しい、怪しすぎる。実際、殺されたというのは嘘だったとわかるのだが、この見え透いたトリックをカヴァーしているのが、表題の「九つの誤った答え(Nine Wrong Answers)」である。

 読者が立てるであろう(というか、実際は、カーが一度考えついて、やめたアイディアなのだろう)推理をあらかじめ予測して、九つの注で、それは間違っているから捨てなさい、と忠告してくれる。かつての『読者よ、あざむかるるなかれ』と似た趣向である。そして、その狙いは当然のことながら、読者を正しく導こうなどという親切心ではない。単にだまくらかそうとしているだけである。要するに、本当に書きたかったのは二番目の注だけで、他は全部、注の二を目立たなくさせるためのレッド・へリングに過ぎない。で、ラリーが毒を飲まされたのは、そう見せかけたのではなく、本当に殺されそうになったのですよ、と念を押してくる[iii]。・・・でも、死んだとは言っていない、って、またか、このやり口。

 九番目の注を読むと、こう書いている。「また作者はラリーが死んだとも言っていない。ラリーが死んだことになっているのは次の場合だけである。すなわち事件がビルの目を通して眺められていて、しかもその旨が明示してある場合だけである。なぜならビルは実際にそう信じているからである。」そして、「これは読者を迷わせる正当な手段である」[iv]

 読者は、本書の注を使った叙述トリックを汚いペテンと考えるかもしれないが、それは誤解ダヨ、というわけである。とうとう、この作者、注でまで言い訳を始めたぞ。

 本書がなぜ、こんなに長いのか、もう一度考えると、登場人物がやたらと饒舌なのだ。主人公を始め、全員がしゃべりだすと止まらない。回想を交えて、連想があっちこっちに飛ぶのも原因である。最初のヴァル・ギルグッド[v]への献辞で、本書が「性格描写」を特徴とした「好事家のための小説」だと作者は宣言している[vi]が、そして、訳者があとがきで注釈しているように、そんな文学的で上等なもんではないが、それでも、カーにしてみれば、登場人物を最小限に絞って、十分にその人物像を書きこんだ、という自負を感じていたのだろう。

 確かにゲイロードのような(いかれた)カー的キャラクターが面白く描かれていて、深みはなくとも、大長編を面白く読ませる。戦後、あまり元気のなさそうだったカーがノッて書いたのだとすれば、何よりです。

 

[i] 『九つの答』(青木雄造訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1958年)。

[ii] 『ビロードの悪魔』(吉田誠一訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1965年)。『九つの答』が437頁に対して、『ビロードの悪魔』は439頁。ただし、後者は「好事家のための覚書9頁を含んでおり、本文は430頁、て、細かいね。ちなみに、私が持っている『ビロードの悪魔』のペンギン・ブックス版は352頁あるが、字が小せえーっ。でも『皇帝のかぎ煙草入れ』は、字が見やすくて298頁もある。結局、一頁当たりの語数が異なるので、ページ数を比較しても、意味はない(じゃ、やるなよ)。John Dickson Carr, The Emperor‘s Snuff-Box (Carroll & Graf, 1986);Do, The Devil in Velvet (Penguin Books, 1957).

[iii] 『九つの答』、79頁。

[iv] 同、432-33頁。

[v] ギルグッドは、カーがラジオ・ドラマを書いていた頃のBBCの幹部(?)。詳しくは、ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、251-52頁。

[vi] 『九つの答』、5頁。