横溝正史『魔女の暦』

(本書のトリックのほか、『幽霊男』、人形佐七シリーズ短編、アガサ・クリスティの長編小説の内容に触れていますので、ご注意ください。)

 

 『魔女の暦』は、1958年に東京文芸社から刊行された『金田一耕助推理全集3』に「鏡が浦の殺人」とともに収録された書下ろし長編である[i]。といっても、1956年に雑誌に掲載された同名の短編小説が原型[ii]で、例によって、短編の長編化作品のひとつということになる。さらに、これも恒例のように、捕物帳にオリジナルがあり[iii]、横溝得意の三次活用の好例である。

 ストリップ劇場を舞台に、金田一に送られてきた殺人予告状のとおりに、三人の女優(ストリッパー)が殺害されていくというミステリで、最初の殺人は、舞台で踊っていた一人が突然胸を押さえて苦しみだすと、背後のオーケストラ席に墜落する。胸には、劇で使用される吹き矢の矢が突き刺さっており、猛毒が塗られていた。ちなみに、この毒の正体について、長編版は「毒」としか書いていないが、同名短編では、ちゃんとニコチン[iv]と記してある。さらに捕物帳版でもクラーレと言明している[v]のである。ニコチンは、エラリイ・クイーンの『Xの悲劇』(1932年)から、クラーレは、ジョン・ディクスン・カーカーター・ディクスン)の『赤後家の殺人』(1935年)から頂戴したのだろうが、佐七ものでさえ毒の名称を記しているのに(捕物帳でクラーレとはすごいが)、なぜ長編版で曖昧にしたのだろう。実際の犯罪に悪用されることを恐れたとも思えない(すでに有名ミステリで紹介されているわけだから)。長編小説では、より現実味を重視して具体的に書こうとするのが普通だと思うのだが、不思議である。

 妙なところで寄り道したが、佐七ものの「山吹薬師」では、このあと、第二の殺人が矢、第三で鉄串が凶器に用いられ、それがトリックになっている。『魔女の暦』のほうは、鉄の鎖で縛られた全裸美女の絞殺死体がボートに乗せられて川を漂っているというのが第二の事件で、第三の殺人では、再び劇場に戻って、舞台用のメデューサの鬘を被った生首が発見され、ところが胴体は持ち去られていて、どこにも見つからない。

 舞台設定から明らかなように、エロ(ティック)・グロ(テスク)が強調された、いわゆる通俗作品で、作中でも『幽霊男』(1954年)事件が回顧されている[vi]ように、同長編や『吸血蛾』(1955年)の続編的長編である。ストリップ・ショーにギリシャ神話のパロディ劇を取り入れたところで、観客が喜ぶとも思えないのだが、いずれにしても、横溝作品の一番悪い面が出たという印象で、とにかく、お品がよくない。エロ・グロが悪いというのではないが、国民作家らしからぬ程度の低さは気になる(さすがに今日の名声は、横溝自身、予想していなかったろうが)。江戸川乱歩が紹介した横溝の有名な発言があって、「おれは命がけで小説を書いているんだ。それを寝ころんで読んで批評されたのではたまらない」[vii]というのだが、さすがに本書を正座して読む気にはなれない。『幽霊男』や『吸血蛾』は連載だからまだしも、本書を書下ろし長編化する必要はなかったのではないか。こういう探偵小説は、島田一男らに任せておくべきだろう(島田を侮辱しているわけではない。軽妙でも俗悪にはならない面白いミステリを書かせて、氏の右に出る人はいない)。

 謎解きとしては、第一の殺人の吹き矢で殺されたと見せかけるトリック、第二の殺人の被害者を縛っておいて、アリバイ工作中にちょっと席を外して殺すトリック[viii]、さらに替え玉を使ったアリバイ・トリックなど、一応種々取り揃えている。だが、いずれも型通りのもので、第二の殺人における、鎖で死体を縛らなければならなかった謎などは、ちょっと面白いのだが、『犬神家の一族』の謎の変形なので、絶賛とまではいかない。事件の直前に、犯人が殺人計画をメモしたあと燃やす思わせぶりな演出(なんの意味があるの?)が繰り返される[ix]のだが、アガサ・クリスティの『ゼロ事件へ』(1944年)の二番煎じ、というより完全なパクリで[x]、少しも面白くないし、題名との関連が示唆されるだけで、このシーン、まったく必要ない。

 三人の女性が次々に殺されるという筋書きも、『獄門島』(1947-48年)以来、散々繰り返されてきたパターンで、最後のひとりが予想外の被害者というのも『女王蜂』(1951-52年)でやっている(ただし、こちらは被害者が男性)。『悪魔の手毬唄』(1957-59年)には先んじているといっても、褒めたことにはならない。メイン・トリックも、クリスティの有名長編(注で題名を挙げる[xi])の応用で、捕物帳でも、とうに使用済み。従って、オリジナリティはゼロ。ただ、最後の被害者が予想外の人物であることとメイン・トリックとは連動しており[xii]、その点は一応考えられている。

 と、言いたい放題言っておいてなんではあるが、本作品で注目すべき点は、別のところにある。最後に、その点に触れておこう。

 本書は、これも例によって横溝長編ではお馴染みの共犯者を使ったミステリなのだが、使い方が、従来の横溝作品から少し外れている。事件の進展とともに、犯人と共犯者の関係が変動していくのである。すなわち、「頼まれてもいないのに、犯人をかばう発言をする(潜在的共犯者というべきか)」、「かばっておいて、犯人を脅迫する(これを共犯者とは言わないか)」、「報酬と引き換えに、犯人のアリバイ工作を手伝う(やっと、まともな共犯者になった)」、「用済みになったとたん、犯人に殺される(働き損で退場)」、と、こんな具合である。横溝ミステリでは、多くの作品に共犯者が登場し、そこを批判されることもあるようだが、その形態は様々である。某有名長編のように、共犯者が勝手に殺人の後始末をしてくれたり、やはり某有名長編のように、複数の共犯者たちが殺人を分担したり、と、単純に犯人を助けるまっとうな(?)共犯者は少ない。本作では、共犯者と犯人の関係が段階的に推移していくのが特徴で、いってみれば、「おせっかい型」から「お手伝い型」へ、そして最終的に「おじゃま虫型」へと移行する(これを共犯者トリックの「お-お-お三段活用」と名付けよう)。そこが、本書の工夫である[xiii]

 このアイディアは、原型の短編ヴァージョンでは、まだ十分に活かされていないが、長編版は、犯人=共犯者の関係性の変化を、ゆとりをもって書き込むことができた。本作の長編化による最大の効用はここにある。このプロットを、さらにネチネチと練り上げて、もっと気を入れて長編ミステリを書いていたら、例えば『仮面舞踏会』クラスの出来ばえになっていたのではないだろうか。

 

[i] 島崎 博編「横溝正史書誌」『別冊幻影城 横溝正史 本陣殺人事件・獄門島』(1975年9月)、336頁。

[ii] 「魔女の暦」『金田一耕助の新冒険』(出版芸術社、1996年)、169-205頁、同(光文社、2002年)、203-56頁。

[iii] 「山吹薬師」『完本 人形佐七捕物帳七』(春陽堂書店、2020年)、179-239頁。

[iv]金田一耕助の新冒険』(出版芸術社)、193頁。

[v] 『完本 人形佐七捕物帳七』、204頁。

[vi]金田一耕助の新冒険』(出版芸術社)、194頁、『魔女の暦』(角川書店、1975年)、93-94頁。

[vii] 江戸川乱歩横溝正史」(1950年)『幻影城通信』(講談社、1988年)、316-17頁。

[viii] G・K・チェスタトン「ヴォードリーの失踪」『ブラウン神父の秘密』(中村保男訳、創元推理文庫、1982年)、146-77頁、を連想させる。

[ix] 『魔女の暦』(角川文庫、1975年)、17-20、89-91、167-69頁。

[x] アガサ・クリスティー『ゼロ事件へ』(田村隆一訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)、23-25頁。

[xi] アガサ・クリスティABC殺人事件』(1935年)。

[xii] 第三の被害者が予想されていたのとは異なる人物だったことで、本当に殺したかったのは三人のうちの一人だけだったのではないかと推理することが可能になる。

[xiii] 『幽霊男』も、実は共犯者を使っていて、『魔女の暦』に似ている(共犯者として利用したあと、殺しちゃう)が、本書のほうがもう一段階複雑になっている。