カーター・ディクスン『時計の中の骸骨』

 (本書のほか、アガサ・クリスティの『五匹の子豚』、『邪悪の家』、エラリイ・クイーンの『フォックス家の殺人』、横溝正史の『女王蜂』、『悪魔の手毬唄』、『不死蝶』のプロット、犯人設定等について言及しています。)

 

 『時計の中の骸骨』(1948年)[i]を読みかえした。三回目か四回目になるが、やはり面白い。カーの作品のなかでは、比較的早く読んだ小説-ポケット・ミステリの古本だった-で、印象が強かったせいもあるのだろう。あるいは、過去の殺人事件を解明する、というプロットが好みなのかもしれない。偶然か、1940年代に、アガサ・クリスティ[ii]も、エラリイ・クイーン[iii]も、同様の趣向の長編を書いている。クイーン作品とは、犯人の設定も類似している。そういえば、作品は異なるが、クリスティも、同じ頃、同様の犯人設定で長編を書いている[iv]

 カー作品(ディクスン名義だが)が他の二人と異なるのは、謎解きでヘンリ・メリヴェル卿が強調しているとおり[v]、作品中の現在においても殺人が起こって、過去の殺人と犯人が同じ、という構成になっている点だ。このアイディアは、横溝正史がいくつもの長編で用いている[vi]。横溝は、本書を原書で読んでいたのだろうか(翻訳は1957年[vii])。

 もっとも、パズル・ミステリとしては、さしたる出来ではない。誰もいないはずの屋上から被害者が転落して死亡するが、銃弾のあとも、刺された傷も見つからない。事故としか見えないが、ヘンリ卿は殺人と断言する、という、相も変らぬ不可能犯罪ミステリである。が、そのトリックは、犯人が屋上の床を這って、目撃者の死角に入っていただけ、というもの。肩透かしもいいところで、おまけに、タイトルどおりの骸骨入り大時計[viii]が登場して、そこに殺害トリックの秘密が隠されているのだが、そんなものをわざわざ時計に入れて残しておくなど、頭のおかしな犯人がやること-実際は、犯人ではなく、犯人をかばう人物の仕業だが、どっちにしても、おかしいことに変わりはない-で、リアリティ・ゼロである。

 これが、過去に起きた殺人のトリックで、現在の事件は、とくにトリックらしいトリックはなし。ただの刺殺による犯行。その動機も、過去の殺人の秘密を知られたから、といった明白なものではなく、単なる激情による犯行とわかる。カーが40年代前半の幾つかの長編で見せてくれた、盲点をつく犯人特定の推理もなし。犯人も意外ではなく、むしろ、カー作品恒例の、一見人当たりのよい好青年、実はイカレポンチのサイコ野郎で、また、こいつが犯人か、と思って読んでいくと、やっぱりこいつだった、という始末。さらには、主人公の画家は、戦時中に軍隊で知り合った女性のことを、運悪くはぐれてしまった後も、ずっと思い続けている、という、毎度おなじみの通俗ロマンス的展開。たまたま、サザビーズならぬウィラビーズの競売所に出かけると、そこで想い出の女性と再会するが、彼女には婚約者がいて・・・、という、こちらもカーの二十年来の伝統芸。さすがに、ここまでくるとマンネリ感がすごい。こうしてみると、どこがどう面白いのか、どうやって説明すればよいのやら。

 だが、細かな手がかりは、いずれも断片的で暗示的な発言や証言ばかりだが、全編にわたって、無数に散りばめられており、長編ミステリに投入すべき労力は感じさせ、投下労働に見合った商品価値(=定価、文庫版税込み620円)は備わっている。なかでは、犯人の証言と目撃者の証言の時間的な矛盾を示す手がかり[ix]が面白い。

 しかし、一番の読みどころといえば、ダグラス・グリーン[x]二階堂黎人[xi]がそろって指摘している二つの場面だろう。今回、読み直して、やはりそこが印象に残った。ひとつは、主人公と友人の弁護士が、かつて刑務所だった建物のなかの、かつて処刑室だった場所で、肝試しで一夜を過ごす場面。もうひとつは、クライマックスの犯人逮捕のシーンで使われる鏡張りの迷路の描写である。

 前者では、主人公と弁護士がくじを引いて、どちらが処刑室に籠るのかを決める。当たったのは弁護士のほうで、これもカーらしいはずし方である。普通、主人公が当たりくじを引いて、かつて多くの死刑囚が絞首刑にされた室内に閉じこもる。そこになぜかヒロインが現れて、突然のラヴ・シーン。しかし、実は殺人犯が主人公を狙っており、銃声が鳴り響いて危機一髪、となりそうだが、あにはからんや、そうはならない。肝試しを終えて、ひとりで屋敷に戻ってきた主人公が、そこでヒロインと出くわすと、二人で朝のお茶を飲みましょう、じゃ、僕は先に行っているよ、と屋上に昇っていく。おや、双眼鏡があるぞ、と、覗いていると、突然何者かに突き飛ばされて、あわや一巻の終わり、という展開になる。

 処刑室のほうに話を戻すと、こちらは弁護士の回想として語られる。彼は、処刑室内の異様な雰囲気、処刑された死刑囚達の悪霊のようなものを感じて落ち着かない。部屋の真ん中には、落とし板があり、その上に立った死刑囚が首に縄を巻きつけられ、二枚の落とし板が開くと、そのままその下の穴の中にぶら下がって絶命するという仕組みである。高をくくっていた弁護士は、思った以上に恐怖を感じて、部屋の隅に椅子を置いて、本を読んで時間をつぶそうとする。ところが、気がつくと、いつの間にか椅子が部屋の真ん中の落とし板の上に来ていることに気づく[xii]。この辺が一番怖いところで、カーの書いた怪奇短編小説と比べても、むしろ出来がいいんじゃないか、と思える。この後、弁護士が怖いもの見たさで落とし板を開いてみると、穴の中に娘の惨殺死体が横たわっていることに気づく、というショッキングな結末が描かれるが、そこに至るまでのカーの筆力はさすがに冴えている。

 鏡の迷路のほうは、ヘンリ卿が犯人を罠にかけて捕えようとするのだが、主人公が卿を探して(カー作品らしく)無鉄砲に部屋を飛び出し、無謀にも迷路の中に飛び込んでしまう。自分の姿が鏡に映って何重にも重なって見えたり、通路が果てしなく遠くまで続くかのような、鏡の錯覚と迷路の恐怖が描かれて、江戸川乱歩の「鏡地獄」を連想させる。この後、主人公が、自分の影ではない誰かの後ろ姿を見かける場面が一番不気味なところである[xiii]。さらに、館内アナウンスで、何者かの声が主人公に呼びかける箇所は、ぞくぞくわくわくさせてくれる。最後、鏡と思われた壁がゆがむと、犯人が主人公とヘンリ卿の前に転げ出てくるシーンの描写も見事だ。

 結局、本書の面白さは、これら二つの場面に集約されるのかもしれない。カーの熟練の場面演出と表現力が堪能できる一作である。

 

[i] 『時計の中の骸骨』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)。

[ii] 『五匹の子豚』(1943年)。

[iii] 『フォックス家の殺人』(1945年)。

[iv] 『邪悪の家』(1949年)。江戸川乱歩が『続・幻影城』のなかで、H・C・ベイリーの短編小説について論じているが、そのついでに、1949年には、何人もの作家が、少年を犯人や重要人物とした小説を書いていることを紹介している。カーの本書(イギリスでは1949年刊行)とクリスティの上記作のほか、マイクル・イネスやニコラス・ブレイクの名が挙がっている。江戸川乱歩『続・幻影城』(光文社、2004年)、94頁。

[v] 『時計の中の骸骨』、355頁。

[vi] 『女王蜂』(1951年)、『悪魔の手毬唄』(1957-59年)、『不死蝶』(1958年)。

[vii] 森 英俊編著『世界ミステリ作家事典[本格派篇]』(国書刊行会、1998年)、115頁。

[viii] 書名は、言うまでもなく「戸棚の中の骸骨(外聞をはばかる秘密)」(skeleton in the closet, skeleton in the cupboard)をもじったもの。

[ix] 『時計の中の骸骨』、78-79、130-31、283-86頁。

[x] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、364-65頁。

[xi] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、381頁。

[xii] 『時計の中の骸骨』、247頁。

[xiii] 同、334頁。