カーター・ディクスン『殺人者と恐喝者』

(本書の内容に触れています。)

 

 『殺人者と恐喝者(Seeing Is Believing)』[i](1941年)は、前作の『九人と死で十人だ』(1940年)などと同様、典型的な1940年代前半のカー(ディクスン)長編である。単純だが、巧妙なアイディアで一気に読ませる。長く絶版だったのが不思議なくらいの佳作である。

 しかし『殺人者と恐喝者』という邦題は、かなりネタ晴らしに近い。原題は、「論より証拠」、「百聞は一見に如かず」と訳される諺だが、確かに日本語にすると、しっくりくるような、こないような微妙なタイトルになりそうだ。かつては『この眼で見たんだ』[ii]だったが、これも、原題のニュアンスを伝えるには、あまりに直接的に過ぎるかもしれない。

 原題は、本書のテーマのひとつである「催眠術による殺人」を暗示しているのだろうが、もう一つのアイディア(事実は見た目通りではない)をもほのめかしているのかもしれない。だとすると、ますます訳が難しい。

 催眠術というのもミステリではおなじみで、カー(ディクスン)にも『赤後家の殺人』の先例がある。しかし、怪奇趣味濃厚の『赤後家』に比べて、本書の催眠術は、むしろ第二次大戦後に流行したニューロティック・ミステリの味わいがある。あるいはそれら諸作の先駆的な作品といえようか。

 催眠術師を招いたディナーの席で、当主の妻が催眠術をかけられ、夫をナイフで刺すよう指示される。催眠術でよく言われる、その人が本来するはずのないことは催眠中でも実行させることはできない、という条件を、ある意味利用して、いつのまにか短剣が本物にすり替わっている。ゴム製と信じていた妻は、夫を刺し殺してしまう。この殺人自体にはミステリ的仕掛けはなく、どうやら、この場面を書いて見たかっただけらしい。カーの作品で、直接、殺人場面が描かれることはそうないが、確かに、臨場感を出そうと、苦労して書いているのが伝わってくるようだ。

 トリックは、凶器のナイフのすり替えのほうにあるが、これがまた子どもだましというか、本当に子どものおもちゃのようなトリックで、がっかりさせてくれる。この辺のはずし具合も毎度のことで、むしろうれしくなる(そんなことはない)。

 しかし、本書の見所は、無論、もうひとつの仕掛けのほうにある。心理的錯覚というか、心理的裏返しというか、読者に先入観を与えておいて、それを一言でひっくり返して、あっと言わせてくれる。その一言とは、(以下、真相)

 

 殺人者と恐喝者が逆だった。

 

 殺された弁護士は、以前殺人を犯したところを遊び人の伯父に目撃され(!)、恐喝されている、と妻や周囲には思わせている。ところが、実は、彼のほうが伯父を恐喝していた、というアイディア。これが秀逸なのは、恐喝者が恐喝している相手を殺害するはずはないが、逆なら、これ以上ない明白な動機が生じる、というところ。役割を反転させるだけで、動機から何から、全部自然と説明されてしまう。謎解きも何も不用なのだ。このあたりのスマートさが、40年代前半のカーの持ち味で、本作はその典型である。

 もっとも、冒頭の一文が物議を醸した。創元推理文庫版では、「それが事実として認められた」[iii]国書刊行会版では、「それは認められた事実であった」[iv]。訳者も苦労しているのが、訳文から伝わるが、この文章のもつ、これもまた微妙なニュアンスが、アンフェアか否か、問題を引き起こした。アントニー・バウチャーが、「曖昧な言葉を使った最低のいかさま」と罵ったという逸話は実に面白いが、カーが「後悔はしていない」、と応じた[v]のも、まるでギャンブル好きが競馬かなにかで全財産摩ってしまったかのような神妙さで爆笑させてくれる。

 原文は、”That was the admitted fact.”[vi]らしいが、なるほど「ファクト」そのものではなく、”admitted”がついている。カーに言わせれば、これはヴィッキー(被害者の妻)によってか、他の誰によってでもいいが、「認められた」事実に過ぎず、事実そのものではない、というわけか。英米人は、この文を読んで、「くさいぞ」とは思わないのだろうか。一つひとつの単語に拘ったりはしないか。いずれにせよ、英語のお勉強にもなる有益なミスリである。

 江戸川乱歩は、「カー問答」の時点で本書をすでに読んでおり、同時期の『嘲るものの座』や『死が二人をわかつまで』などとともに第三位に挙げている[vii]。解決が「何となくあっけない」[viii]という評価で、40年代前半の諸作のなかで最上の評価を下しているのは、『皇帝の嗅ぎ煙草入れ』のみである。乱歩の評価は、さほど間違っていない。解決部分というより、小説全体がややあっけないのは事実である。小説のなかでは1938年の出来事だが、当時のカーは、空襲で幾度も生命の危険にさらされ、一方、作家としては、ラジオ・ミステリの脚本執筆に忙しかった[ix]。長編小説など、おちおち書いていられない、というわけでもないだろうが、腰を据えてじっくりと描写にも凝るという余裕はなかったのかもしれない。

 とはいえ、本書の舞台は、グロスタシャのチェルトナムという保養地で、いかにもイギリスの田園地方らしい雰囲気が描写から感じられる。グロスタシャは、クラリスの実家のブリストルのすぐ北の州で、空襲で住む場所を失ったカーは、クラリスとともにしょっちゅうブリストルに戻っていた[x]というから、チェルトナムに足を運ぶ機会もあったのかもしれない。戦争が激しさを増すなかで、カーも戦争前のイギリスの田園風景を懐かしむ気持ちが大きくなっていたのだろう。

 相変わらず、ヘンリ・メリヴェル卿の自伝執筆などのギャグで楽しませるが、本書のどこか郷愁を感じさせるラストは、古きよき時代へのカーの惜別の感情を表わしているようでもある。

 

[i] 『殺人者と恐喝者』(森 英俊訳、原書房、2004年)、『殺人者と恐喝者』(高沢 治訳、創元推理文庫、2014年)。

[ii] 『この眼で見たんだ』(長谷川修二訳、『別冊宝石』63、1957年)。1959年に創元推理文庫に収録された際に、現行のタイトルに変更されている。森 英俊編著『世界ミステリ作家事典[本格派篇]』(国書刊行会、1998年)、115頁、『殺人者と恐喝者』(国書刊行会)、森による解説、301頁。

[iii] 『殺人者と恐喝者』(創元推理文庫)、7頁。

[iv] 『殺人者と恐喝者』(国書刊行会)、5頁。

[v] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、280-81頁。

[vi] 『殺人者と恐喝者』(国書刊行会)、304頁。

[vii] 江戸川乱歩「J・D・カー問答」『続・幻影城』(光文社文庫、2004年)、342頁。

[viii] 同、343頁。

[ix] グリーン前掲書、第十章「対戦とラジオ・ミステリ」参照。

[x] 同、265頁。