J・D・カー『盲目の理髪師』

(本書の内容に触れています。)

 

 『盲目の理髪師』(1934年)は『剣の八』同様、1934年に刊行されたカー名義の第九長編である。

 創元推理文庫で版を重ね[i]、長らく手軽に読めるカー作品として親しまれてきたが、最近新訳版も出版された[ii]

 全作品中、いわゆるカーのユーモアがもっとも強く現われた長編として知られている。このことを最初に指摘したのは江戸川乱歩だが、クレイグ・ライスと比較して、「ライスのように通俗ではない。カーはチェスタトンの脈を引いているだけに、ファースにもライスなんかより深い皮肉味がある」[iii]、と言っているのは、ライス・ファンからしたら心外だろう。松田道弘は、この乱歩の「ひいきの引き倒し」的発言に憤慨したわけでもないだろうが、「私はカーの最大の欠点は、彼の音階の狂った悪趣味なユーモア感覚と、場ちがいのサービス精神だと思う」[iv]、と断じているが、今度はこの松田の手厳しい評価に対して、瀬戸川猛資らが弁護に立ち上がっている[v]

 カーのユーモアが、アメリカ流なのか、イギリス風なのか、ドタバタなのか、「深い皮肉味」があるのか、わからないが、松田が付け加えているように、「ユーモア・センスは所詮好みの問題」[vi]とすれば、あまりこの問題で言い争っても始まらない。カーが「喜劇的な小説」[vii]を書こうとしていたのは確からしく、イギリス移住後に書かれた『帽子収集狂事件』以降のフェル博士ものでは、イギリス・ミステリらしいユーモアが必要と思っていたふしもある[viii]。パット・ロシターの『毒のたわむれ』を挟んで、バンコラン・シリーズの残虐味から、フェル博士シリーズのユーモアへの方向修正だが、『盲目の理髪師』を新訳で再読してみると、前半は意外に面白くない。後半、ウォーレン青年が船倉から脱走するあたりから、ドタバタ・コメディがエスカレートしていって楽しくなる。どうやら、この時期、会話で笑わせるセンスはカーには欠けていたようで、この点では、やはりイギリス作家のニコラス・ブレイクやレジナルド・ヒルに及ばない。

 しかし、ここまでファース味の濃いミステリを書く気になったのは、トラベル・ミステリもしくは船上ミステリを書こうとしたことも影響しているのだろう。『盲目の理髪師』の舞台となるクイーン・ヴィクトリア号-この名前もいかにもといったところだが-は、カーが妻のクラリスとともにロンドンに渡った時に乗船したキャプラン号という貨物船をモデルにしている[ix]というが、1930年のヨーロッパ旅行の際に、クラリスと出会ったペンランド号という定期船での船旅の経験ももとになっているのだろう。いずれにしても、最愛の女性との楽しい船旅の記憶が、カーに船上ミステリを書かせたものと思える。

 トラベル・ミステリ、とくに船上のミステリとなれば、非日常世界であり、通常のミステリとは違った雰囲気を描き出すことができる。『盲目の理髪師』の極端なコメディ色は、この非日常の世界ならではの味つけであり、ちょっとした冒険的試みでもあったのだろう。登場人物が巻き起こす大騒動は、フェル博士ものには相応しいかもしれないが、まだ四作目でキャラクターが完全に固まっていないフェル博士のイメージを傷つけてしまうかもしれない。そこで、博士は最後に登場して事件を解決する役割のみを果たすことになった。従って、安楽椅子探偵物になったのは、積極的な理由からではなかったように思える[x]

 同様に、事件そのものも船上ミステリに合わせて考案された、と見られる。密室殺人でもよいだろうが、それでは船上であってもなくても、あまり効果は変わらない。航行中の船舶で起こる事件でもっともミステリアスなものはなにか、死体がいつのまにか消え失せて、しかし、誰も行方不明になった者はいない、これだ!というわけで、人間消失の謎がメインとなったのではなかろうか。

 従って、消失のトリックはそれほど独創的なものにはなりえない。犯人も、行方不明になっても特定されにくい人間を側に置ける者ということで、かなり限定される。船上ミステリという枠組みから逆算すると、こういった事件、犯人になったことがよくわかる。

 しかし、それは読み終わってから思うことで、読んでいる間は、様々な手掛かりや突拍子もない出来事の連続で読者を引きずり回すカーの手腕は健在である。

 この後、翌年のカーの長編は、不気味で、ある種陰湿な人間関係を描いた『死時計』と、絢爛たる不可能犯罪ミステリの『三つの棺』が続く。これら二作品ではユーモアは抑えられ、ダークな雰囲気のほうが強い。ところが、次の『アラビアン・ナイトの殺人』では、再び奇矯な登場人物によるファース味の濃いミステリへと転換する。さらにその翌年の1937年には、フェル博士のシリーズは中断して、バンコランが再登場する『四つの凶器』が書かれる。この間、カーの試行錯誤が続いたとみるべきか、それとも、様々な傾向のミステリに幅を広げていった時期と捉えるべきだろうか。

 どちらにしても、1934年から1938年にかけては、カーのもっとも実り多き時代であったことは間違いない。『盲目の理髪師』は、そのなかで、特別傑作というわけではないが、異色作として残っている。

 

[i] 『盲目の理髪師』(井上一夫訳、創元推理文庫、1962年)。

[ii] 『盲目の理髪師』(三角和代訳、創元推理文庫、2018年)。

[iii] 江戸川乱歩「カー問答」、ディクスン・カー『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』(創元推理文庫、1983年)、316-17頁。もっとも、別のエッセイでは、ライスの作のほうを高く評価している。江戸川乱歩「フダニット随想」(『随筆探偵小説』所収)『鬼の言葉』(光文社文庫、2005年)、355-56頁。

[iv] 松田道弘『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、209頁。

[v] 瀬戸川猛資・鏡 明・北村 薫・斎藤嘉久・戸川安宣「内外ミステリ談義2 ジョン・ディクスン・カーの魅力」『ユダの窓』(高沢 治訳、創元推理文庫、2015年)、394-95頁。

[vi] 松田前掲書、209頁。

[vii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(1995、国書刊行会、1996年)、161頁。

[viii] 同、160頁。

[ix] 同、130頁。

[x] この後、『アラビアン・ナイトの殺人』(1936年)で、同様のスタイルに取り組んでいるが、同作品で、フェル博士が最初から登場しないのは、博士なら簡単に事件の謎を解いてしまうからだろう。