(本書の犯人とトリックを明かしているほかに、アガサ・クリスティの『オリエント急行の殺人』の内容について、注で言及しています。)
フェル博士のカムバックを祝した、前作『死者のノック』(1958年)から一転して、再び歴史ミステリに戻ったのが本書である。しかし、前作とそれほど雰囲気が変わっているわけではない。歴史ミステリといっても、どんどん時代が下っていっており、『火よ燃えろ!』の1829年から、さらに進んで1865年が舞台となる。『死者のノック』とは、百年ほどの隔たりがあるとはいえ、『ビロードの悪魔』のごとき騎士道小説のような舞台背景ではなくなっている。
よく知られているとおり、『火よ燃えろ!』(1957年)と本書『ハイチムニー荘の醜聞』(1959年)[i]は、スコットランド・ヤード三部作の第一作、第二作ということになっている。イギリス警察の草創期を描くシリーズで、さながら山田風太郎の『警視庁草紙』(1973年)である(カーのほうが先だが)。もっとも、本書では、さほどスコットランド・ヤードについて詳しく語られているわけでもなく、警察官が主人公で大活躍するというわけでもない。大体、『火よ燃えろ!』の段階では、まだ三部作の構想はなかったらしい[ii]。
タイトルに「醜聞(スキャンダル)」とあるが、具体的に何をもって醜聞といっているのかもよくわからない。レディング近郊のハイチムニー荘の主人である弁護士のマシュー・デイマンが、かつて自身が関わった殺人事件の裁判で死刑を宣告された被告人の女性に言い寄った、という噂を、第1章で、登場人物のひとりが述べるので、これが醜聞ということなのだろうか。もちろん、本当の意味でのスキャンダルは、この後の二重殺人事件の真相であるわけだが。ドメスティックな印象の題名も含めて、ある一家における出生の秘密とそこから生じる殺人を描く本書は、ヴィクトリア朝を描いた歴史ミステリというより、その時代に書かれたクラシカル・ミステリの趣である。作中でも言及されているが、ウィルキー・コリンズの『月長石』(1868年)か、あるいは、少し後だが、シャーロック・ホームズ風のミステリ、もしくはそのパロディのようにも見える。イギリス警察の創成と同時に、近代ミステリの創世記を題材としたという意味での「歴史」ミステリともいえそうだ。
内容もそれに見合った、ヴィクトリア朝ミステリ的なプロットである。デイマン家には、金髪のシーリアと黒髪のケイトという美しい姉妹がいる。物語は、この姉妹のいずれが「悪い血」を受け継いでいるか、を中心に展開する。何やら、『眠れるスフィンクス』(1947年)の焼き直しのような設定だが、筋書きは無論異なる。主人公のクライヴ・ストリックランドは、姉妹の兄であるヴィクター・デイマンの頼みで、姉妹に対する結婚申し込みの代人としてデイマン家に向かう。途中、パディントン駅で、デイマン家の当主マシューと後妻のジョージェットと邂逅し、車中で、マシューから、前日深夜、コートを着た謎の男が邸内に現れ、執事の娘を脅した、という話を聞かされる(産業革命時代の列車の旅を描くのも、歴史ものとしての狙いのひとつなのだろう)。ヴィクターの悪質ないたずらを疑うマシューとの間で険悪な雰囲気になるが、デイマン家に着いたクライヴは、ケイトを一目見た瞬間に恋に落ちる[iii]。カー作品のお約束なので、もはや読者もいちいち反応せずに読み進めるだけだが、クライヴの思い込みの激しさは情熱を通り越して、少々怖い。いずれにしろ、クライヴがケイトに惚れることで、この後、例によって、犯人がケイトでは、と、いらぬ苦悩を抱えることになる。これまたお馴染みの展開であるが、作者にしてみれば、サスペンスを高める手っ取り早い手法なのだろう。多くの読者は、読み飽きた展開に麻痺していると思うが。
改めて、何やら不安に駆られている様子のマシューに呼ばれたクライヴは、異様な昔話を聞かされる。噂通り、かつてデイマンは、最初の妻を亡くしたころ、パトロンを殺した容疑で起訴されたハリエット・パイクという女の裁判で検察側に立って、彼女を厳しく追及した。女は死刑判決を受けたが、あまりに一方的で厳しい態度だったのでは、と後悔を覚えたデイマンは、獄中の彼女に面会する。彼女の打ち明け話から、その無実を信じたものの、ハリエットは結局処刑されてしまう。デイマンは罪滅ぼしのつもりで、彼女の遺児を自分の子どもとして引き取った、というのである。ところが、時を経て、デイマンはパイクのもっともらしい告白が嘘だったことを知る。そして引き取った子どものその後を見てきた彼は、母親から犯罪者の血を受け継いでいるのでは、と恐れを抱くようになった。
このような打ち明け話を聞かされたクライヴが、シーリアとケイトのどちらがパイクの娘なのか、とデイマンに詰め寄ったそのとき、突然ドアが開き、コート姿の怪人物がデイマンに向けて銃を発射した。デイマンが倒れると、犯人はドアに鍵をかけて逃げ去ってしまう。クライヴは、デイマンの遺体とともに、部屋に閉じ込められるが、その後、事件勃発前から屋敷はドアも窓も施錠され、何者も出入り不可能だった、とわかる。そのうえさらに、妻のジョージェットも殺害されて、クライヴは、愛するケイトとその姉のシーリアのいずれがパイクの娘で、殺人犯人なのか、懊悩することとなる。
本書の趣向のひとつが、探偵役を実在の人物であるジョナサン・ウィッチャー元警部が務めることである。有名なコンスタンス・ケント事件を捜査し、コンスタンスを逮捕したものの、無実が証明された結果、警察を追われるが、事件後、五年たって、コンスタンスが殺人を告白した、というのが事実のようだ。それが1865年だった。
旧訳の訳者である村崎敏郎が解説で述べているように、本書の事件がコンスタンス・ケント事件にわざと似せて考案されているのが趣向なのだが、さらに村崎が指摘しているとおり、ケント事件を模倣していると見せかけて、その裏をかく、というのが本書のミステリとしての狙いになっている[iv]。
つまり、女性が犯人というコンスタンス・ケント事件と同じく、二人の娘のどちらが犯人かを謎の中心と思わせておいて、実は真犯人は息子のヴィクターだった、という捻りを加えている。ケント事件で、犯人が男装していた事実に合わせて、謎のコートの怪人物が男装の女だと読者に思わせて、ひっかけようというわけである。
しかし、本書の注目点は、こうしたどちらかと言えば平凡なトリックにあるのではない。ジョナサン・ウィッチャーを探偵役にすることで、いかにも本作はコンスタンス・ケント事件のような女性犯人のミステリと思わせるのだが、それだけではない。
カーの小説における会話の渋滞は、もはや東名高速道路どころではないが、本書はまたさらに悪化して、むしろ、評論家に批判されて、むきになっているのではないかとしか思えない[v]。しかし、それは表面上、そう見えるだけで、本書の場合は、二階堂黎人が指摘しているように、そこにこそミステリとしての最大の技巧が準備されている[vi]。つまり、第5章のクライヴとマシュー・デイマンとの会話で、前者はパイクの遺児は娘だと思って話しているのだが、デイマンのほうは、息子であると「ほのめかして」いるのである。しかも、ほのめかしているだけで明言はしていない。
要するに、これは『墓場貸します』あたりから、カーがことのほか「熱中」している叙述トリックのヴァリエーションである。同作や『疑惑の影』、『ビロードの悪魔』、『九つの答』といった諸作品で、カーは手を変え品を変え、曖昧な文章で誤解させたり、省略の技法を用いて、読者をペテンにかけ・・・、いや楽しませてきた。それが今度は、いよいよ登場人物に曖昧な話し方をさせて、読者を騙そう(男を女だと思わせよう)としているのである。
それにしても、このマシューという男、とにかく話が回りくどい。もっとはっきりしゃべれよ、と胸ぐらをつかんで揺さぶりたくなるが、他の登場人物も、継母のジョージェット、そしてケイトと、いずれも犯人がヴィクターであると薄々感付いていながら、それでも容易に疑いを口にしようとしない。知らないのはクライヴだけという、まるでクリスティの有名長編のパロディ[vii]のようだが、身内のことだから、疑っていてもはっきりとは言いにくい、ということのほかに、これがヴィクトリア時代の人々の態度であり、会話なのだ、という作者の弁解も含まれていそうだ。本書の会話のぼかしのテクニックが、どこまで巧みにできているかは、評価が分かれそうだが、作者がそこまで考えてヴィクトリア時代を舞台にミステリを書いたのだとすれば、カーの作家魂もまだまだ健在のようだ。
[i] 『ハイチムニー荘の醜聞』(村崎敏郎訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1960年)、『ハイチムニー荘の醜聞』(真野明裕訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1983年)。
[ii] 『引き潮の魔女』(1961年)を書いてあとになって、三部作構想を思いついたように見える。ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、436頁。
[iii] 『ハイチムニー荘の醜聞』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、55頁。
[iv] 『ハイチムニー荘の醜聞』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)、293-94頁。
[v] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、428頁。
[vi] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、388頁。