カーター・ディクスン『わらう後家(魔女が笑う夜)』

(本書のトリックについて言及しています。)

 

 1950年代に入ると、ディクスン・カーの作品には明らかな衰えが目に付くようになった。短期的には、『コナン・ドイル伝』(1949年)で精力を使い果たしただけなのかもしれないし、一方で、『ニューゲイトの花嫁』以下の歴史ミステリで新境地を開いているので、衰えと決めつけるのは早計ともいえる。しかし、カーが戦後という時代に嫌悪感を抱き、時代にそぐわない居心地の悪さを感じ続けていたのは事実らしく[i]、この後、根無し草のように、イギリスとアメリカを行ったり来たりしているのも[ii]、居場所を失った旧世代作家の悲哀を感じさせる。そうした先入観もあってか、50年代以降のカーには、かつてのようなパズル・ミステリにかける情熱のようなものが薄れていったように見える。その熱意の低下が、アイディアの枯渇と細部への目配りに対する意欲の減退へと繋がっているとも映る。あれだけ書けば、飽きるのも不思議ではないが。

 かつてのお気に入りだった探偵たちに対する態度にもそうした変化が見て取れる。フェル博士には『疑惑の影』でもって一旦引導を渡してしまった(同作でも、大して活躍しないが)。より豪放でキャラクターの濃いヘンリ・メリヴェル卿のほうは、まだ未練が残っていたらしく、50年代に入っても、三作に登場させている。ヘンリ卿をめぐるギャグ・シーンを書くことにまだ楽しみを見いだしていたのだろう。そのうちの一作、通算20作目のH・Mものが『わらう後家(魔女が笑う夜)』(1950年)[iii]である。

 本書については、ある意味で、数ある代表作以上に、その名を知られているといえるかもしれない。ある意味で、というか、悪い意味で・・・。

 何しろ、「絶対さいしょに読んではいけないカー作品」[iv]に堂々ランクインしているくらいだが、『五つの箱の死』とともに、最初に本書の「迷声」を高めた(?)のは、瀬戸川猛資のエッセイだろう。「知る人ぞ知る怪作」「ちょっと信じがたいほど珍妙なトリック」「珍無類」「よくも、これほどバカなことを思いついたものだ」[v]といった適切かつ冷静(?)な言辞が並んでいる。

 カーの魅力は不可能トリックにあるのではない、そのストーリーテラーとしての云々、などといっても、さすがに、これほどの「珍無類」なトリックが使われると、そっちに目が行ってしまう、それでもって評価せずにはいられない。その気持ちはよくわかります。そして、こんなトリックを1950年という時期のミステリに堂々と使用するカーの無鉄砲さにも、いっそ清々しさを感じる。

 でも、個人的には『テニスコートの殺人』(1939年)などよりは、百倍ましな気がする。鏡に映った自分の顔をお化けと間違える、というのは、一種の皮肉味があって、G・K・チェスタトンを思わせる。・・・いや、褒め過ぎか。なまじっか、メイクアップなどといった小細工を弄するから、滑稽に見えるのだ。本作が馬鹿馬鹿しいというなら、ラヴクラフトの「アウトサイダー」なども滑稽小説になるだろう。

 トリックは置いておいて、本書のテーマは匿名の手紙、もしくは中傷の手紙である。日本では、ある時期から、横溝正史がこのテーマに執着して、何作も書いている。もっとも早いのは中絶した連載『神の矢』(1946年)[vi]なので、本書よりも早い。匿名の手紙テーマは、ドロシー・L・セイヤーズが『大学祭の夜』(1935年)で取り上げているが、横溝のヒントになったとすれば、アガサ・クリスティの『動く指』(1943年)のほうだろう[vii]。カーが意識しているのも、多分クリスティ作である。本書で、カーは珍しくイギリスの村社会を描いているが、これがまさにクリスティ風なのだ。もちろん、イギリスの田園地方を舞台とした長編なら、カーはいくたりも書いているが、大半は、特定の一家族や屋敷に限定されて、地域のコミュニティを扱った作品はほぼ見当たらない(『死が二人をわかつまで』や『時計の中の骸骨』などに、ある程度描かれている)。本書は、匿名の手紙がテーマであるせいか、地域社会の多様な人々が登場する。その辺が、カー長編としては目新しいといえるだろう。もっとも、物語の中心となるのは荘園主や元軍人、作家といった知識階層の連中で、結局、従来の作品と大差ないのだが。

 やたら会話が多く、しかも、無駄と思えるような会話が多いのは、そしてまた、だらだらと長いのは、カー自身がこのストークドルイド(すごい名前だ[viii])という村の住人たちを描くことに狙いを置いていたことを示すのかもしれない。

 たまたま本書を再読する前に、アンソニーホロヴィッツの『カササギ殺人事件』(2017年)を読んだのだが(今ごろ?と呆れられるだろうが)、本書と比較して、会話があまりに明晰なのに驚いた。登場人物の会話がきちんと「成立」していて、質問したことにはちゃんと皆答えるし、最初渋っていても、最期には質問に応じるので、読んでいて気持ちがよい。あまりにも、みんな素直すぎるような気もするが[ix]

 それに比べると、カーのミステリは、やはり会話が読みづらい、と実感した。本書ではさらにそれに輪をかけて、登場人物はいずれも最後まで話をさせてもらえない。突然横やりを入れられたり、自ら口ごもって話をそらせたりするので、一体、作者がその会話にどのような意味をもたせようとしているのかが不明な場合が多すぎる。カー自身は、それがリアルだと思っていたのかもしれないが、会話のまずさというより、はぐらかしの韜晦趣味が治療不可能なまでに重症化しているようだ。

 話を「毒の手紙」テーマに戻すと、作半ばの13章で、事件を担当する警部補(ガーリックという名前には、何か意味があるのだろうか。それとも、「ニンニク」のように臭いという単なる悪口?)を相手に、ヘンリ卿が、こうした悪意の手紙の書き手に関する分析を行う[x]。かつての『緑のカプセルの謎』(1939年)の「毒殺講義」ほど詳細ではないが、学究肌のカーらしく、手紙の書き手のタイプを四つに分類して、犯人の性別や思考の傾向を明らかにしようとしている。もちろん、そこに作者の罠が潜んでいるわけで、警部補が否定したタイプに犯人が属している(警部補が同意を求めると、ヘンリ卿が「ずっと無表情だった」[xi]、と書いているのも、カーらしい手管である)。恐らく、カーが本書を書く気になったのは、この「悪意の手紙」テーマにおける新しい犯人の型を描ける、と判断したからなのだろう。時代背景が第二次大戦前、しかしその直前の1938年に設定されていることも、作品中にドイツ人医師が登場し、かなりの敵意をもって描写されているのも、そうした犯人の設定に関連していると思われる。そして、犯人を特定するために、カーは、これまで時々試みてきたように、ある種心理的な手掛かりを用いている[xii]。といっても、結局はほのめかし程度のものに過ぎないのだが。

 そして、さらに勘ぐれば、この犯人が時代に疎外された、と感じ、それに対する報復感情が匿名の手紙の執筆動機に繋がっているのは、カー自身が無意識に自身の心情を犯人に投影している「心理的な」徴候であるとも取れる。犯人が「わしはいったいどんなつもりだったんだ?」[xiii]、と最後に自問するのは、案外、これも作者自身の心境を思わず知らず吐露してしまったものなのだろうか。

 

[i] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、322頁。

[ii] 同、13章以下を参照。

[iii] 『わらう後家』(宮西豊逸訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1958年)、『魔女が笑う夜』(斎藤数衛訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1982年)。題名が変更された理由は何だったのだろう。新訳でも、作中では「後家」が使われているのだし。

[iv] 『死が二人をわかつまで』(仁賀克維訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、2005年)、若竹七海による解説「やっぱりカーが好き」、328頁。

[v] 瀬戸川猛資『夜明けの睡魔 海外ミステリの新しい波』(早川書房、1987年)、46頁。

[vi]横溝正史探偵小説選Ⅴ』(論創社、2016年)、392-426頁、に収録されているのは、1949年に『ロック』に連載されたもの。1946年に『むつび』に掲載され、一回で中絶した同題の長編と同一内容で、やはり中絶した。1956年に中編として発表され、同年に書下ろし長編として刊行された『毒の矢』の原型になっていると思われるが、トリックや犯人等が同一だったのかどうかはわからない。その後も、『黒い翼』(1956年)、『白と黒』(1960-61年)で「毒の手紙」を扱っている。

[vii] 『動く指』の初訳は1958年らしいので、横溝が原書で読んでいたかどうか。森英俊編著『世界ミステリ作家事典[本格派篇]』(国書刊行会、1998年)、228頁参照。

[viii] ウェールズとグラストンベリの近くにあるという設定なので、明らかにブリテン古代史を意識しているのだろう。

[ix] ミステリとしての感想を問われれば、一言で言うと、面白かったが期待したほどではなかった、というところだろうか。

[x] 『魔女が笑う夜』、230-33頁。

[xi] 同、231頁。

[xii] 同、379-82頁。

[xiii] 同、382頁。