カーター・ディクスン『貴婦人として死す』

(本書およびアガサ・クリスティアクロイド殺害事件』の内容に触れています。)

 

 『貴婦人として死す(She Died A Lady)』(1943年)は、近年、評価が急上昇したカー(ディクスン)作品だろう。もともと、ハヤカワ・ポケット・ミステリ[i]の裏表紙の解説には、「ディクスン名義の作品中で指折りの名篇と定評ある傑作」、とあった。依然、江戸川乱歩の影響が根強かった頃なので、誰が言ったんだよ、乱歩はこの作品のことなんか書いてないぞ、と思ったことを記憶している。

 その後、本書に対する評価で目に付いたのは、カーが亡くなったとき(1977年)、『ミステリ・マガジン』の追悼号に載った、都筑道夫のエッセイだった。

 

  「・・・そこへ行くと、『貴婦人として死す』のトリックには、無理がない。もち

 ろん、トリックに無理がなければいい、というものではないが、この作品は洗練され

 ていることでも、カーの諸作ちゅう群をぬいている。」[ii]

 

 この文章は、『ユダの窓』をこきおろしたあとで「そこへ行くと」と受けているのだが、ちなみに、他に都筑がカーのベストに挙げている諸作は、『連続自殺事件(連続殺人事件)』、『グリーン・カプセルの問題(緑のカプセルの謎)』、『パトリック・バトラー弁護に立つ(バトラー弁護に立つ)』である[iii]。邦題をきちんと覚えていないのは困ったものだが(というか、原題を直訳。カーを原文で読んだことは一度もない、と言っているのに)、冒頭が「ひところ、カーが大嫌いだった」[iv]で始まるくらいだから、仕方ないか。

 そのあと、いよいよ松田道弘の「新カー問答」が登場して、本作をべた褒めしたのは記憶に新しい。松田も、本書を自身のベスト6に挙げているが、1940年代の諸作におけるトリック等の単純化傾向を指摘したうえで、「『貴婦人として死す』の足跡トリックも小気味のいいくらい単純化されている」、と述べ、さらに次のように締めくくっている。

 

  「『貴婦人として死す』をいま読んでも新鮮なのは、犯人が何ひとつ小細工(トリッ

 ク)を弄していないのに、いいかえれば犯人はヘマばかりやっていたにもかかわらず、

 不可能状況が成立してしまうという皮肉さがあるせいだろうね。」[v]

 

 都筑の「無理がない」、「洗練されている」という表現と、松田の「犯人が何ひとつ小細工を弄していない」という評言は、通じるものがある。都筑の提唱するモダン・ディテクティヴ・ストーリー[vi]に適う作品ということなのだろう。

 一方、二階堂黎人も、本作を高く評価するものの、見方が少し異なっているようだ。

 

  「最初に読んだ時、あまりに複雑なので、足跡トリックの全体像に圧倒された覚え

 がある。それほど、足跡のない殺人を構成するのには、考えに考え抜かれた方法が使

 われている。」[vii]

 

 確かにトリック自体は、かなり手が込んでいる。イギリスのデヴォンシャにある海沿いの屋敷で、当主の妻とその愛人の心中事件が起きる。屋敷の裏口から断崖絶壁まで、二組の足跡が続いているが、戻ってきた足跡はない。崖下の岩場まで20メートルはあって、飛び降りたら岩に激突して助からない。やがて、二人の死体が上がるが、その体には間近から銃弾が撃ち込まれていたことがわかる。果たして、自殺か、それとも空中を浮遊する犯人による殺人か、というシチュエーションで、パズルが完成する。早速、一人が崖まで歩いていって、靴を履き替えてから後ろ向きに戻ってくる、という、すぐにばれるようなトリックが持ち出されて、たちまち否定されるが、一方、潮が満ちてくれば海面が上がり、飛び込みの要領で泳いで逃れられる。これらの要素を組み合わせると、あ~ら不思議、トリック完成となる。しかし、これらの少々考えすぎのトリックは、すべて被害者の二人が考案したもので、犯人はただ、そこに乗じただけである。その辺が、都筑をして「無理がない」と言わせ、松田が「犯人は小細工を弄していないのに」と評した所以だろう。

 また、ダグラス・G・グリーンは、本書を「幾重ものドンデン返しと困惑させられる不可能状況を伴った巧みなプロットを有している」と称揚し、続けて、「殺人者の正体は巧妙に隠されて」いる、と指摘している。これと関連して、本書の叙述形式について、「カーは『貴婦人として死す』で、彼としては珍しい語り手を起用している」、と言い、老齢の医師の日記という形式を取ったのは、アガサ・クリスティの『アクロイド殺害事件』(1926年)を意識してのことだろう、と喝破している。つまり、クリスティ作品と同様のアイディアを使用する、と見せかけて読者に一杯食わせる狙いなのだ、と[viii]

 さらにグリーンは、本書に戦争の影が色濃く表れている点にも言及している。実際に書かれたのはアメリカだったとみられるが、それだけに本作におけるカーの筆致には、より強くロマンティックな色合いが加わっている、という[ix]

 同様の論点は、創元推理文庫の新訳版解説からもうかがわれる。山口雅也は、本書の特長を、「意外な犯人を隠蔽する詐術の巧みさのほうに感心させられるんだね。本作でカーは、フーダニットとしては、犯人を隠す詐術を異なる位相で二重に仕掛けている」[x]、と論じている。山口の指摘は、グリーンが述べている『アクロイド殺し』と同じと見せかけて、裏をかく、という点と、ただ裏をかくのではなく、別の方向から読者の盲点を突く仕掛け(語り手にとって、あまりに身近な人間は意識されないという真理)を施していることを指しているのだろう。

 以上の諸氏の評価のなかに、本書の魅力はほぼすべて言い尽くされている、と思われる。一ひねりしたトリックと伏線の妙。小体な小説ながら、みっちりと詰まった手がかりの数々。それでいて、物語としても印象に残るのは、登場人物のミステリらしからぬ穏やかな日常が懐かしく描かれているせいだろうか。そしてそれは、グリーンが、そして山口も指摘している戦争の落とす影のせいかもしれない。

 ちなみに、題名について、ハヤカワ・ポケット・ミステリおよびハヤカワ・ミステリ文庫版の訳者である小倉多加志は、「これは問題の女性リタ・ウェインライトが死んだ表面の理由を示したものだ」[xi]、と記しているが、なぜこのタイトルなのか、いまひとつピンとこなかった。新しい高沢訳を読むと、殺された婦人が(偽の)書置きとして残していった紙片に、「ジュリエットは貴婦人として世を去りました」[xii]、と書かれている(事件当夜、ラジオで「ロミオとジュリエット」を放送していたという設定)。原文を見ると、確かに ”Juliet died a lady.”[xiii] で、なるほどね、と合点がいった次第。小倉訳では、「ジュリエットは操を立てて死にました」[xiv]、となっている。もう、小倉先生、わかるように訳してくださいよ[xv]

 さて、筆者の初読の感想はといえば、実は「指折りの名篇」との惹句に素直に納得した。つまり、大変楽しく読めたのだが、もっとも強く魅かれたのは、手がかりの面白さだった。とりわけ、犯人を特定するための手がかりである。

 自殺事件で片づけようとする地元警察に対し、ヘンリ・メリヴェル卿と語り手の医師は殺人を主張するが、卿が、自殺を否定する決定的な証拠となる手がかりに思い至る。愛人と駆け落ちをはかった妻は、夫の所有する宝石を持ち出したはずだ。宝石箱は空になっている、と卿は推理し、夫妻の寝室に残されていた宝石箱を調べる。すると、宝石はちゃんと箱に収まっていた。医師も、読者も、ぎゃふんとなるが、実はそれで終わりではなかった。最終章で、ヘンリ卿は、宝石箱に宝石が残っていたのは、犯人が戻したからだ、と仰天する推理を披露する。これは、そうかもしれないし、そうでないかもしれない、といった程度の推測でしかないが、その発想は意表を突く。そして振り返ってみると、この犯人、車のなかに閉じ込められていた女性を助けたり、うっかりポケットに開いていた穴に気づかずに凶器の拳銃を落としたり(拳銃が落ちるなんて、どんだけ大きな穴をあけてんだよ)、さらに殺人の話になると、とたんにしどろもどろになったり、と、松田が指摘した「ヘマばかりしている」のだが、それ以上に、親切な気のいい男なのである。

 「人のいい殺人者」。これが本作の新機軸で、それがトリックや手がかりと有機的に結びついている点に創意がある。その人のよさから、犯人は至る所に犯罪の痕跡を残してまわっている。それなのに、語り手の医師はまったく気づかない、というのが、この叙述形式を採用した理由であるのだが、その結末は、皮肉ではあっても、ほのぼのとした温かみを残す。作者の汚いだましのテクニックで、しんみりしてしまうなど前代未聞だ。

 本書は、パズル・ミステリとしては相当に奇抜な発想で書かれた変態的作品だが、「指折りの名篇」であることもまた事実である。

 

[i] 『貴婦人として死す』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ481、1959年)。

[ii] 都筑道夫「私のカー観」『ハヤカワ・ミステリ・マガジン』No.255(1977年7月号)、133頁。

[iii] 同。

[iv] 同、132頁。

[v] 松田道弘「新カー問答」『トリックものがたり』(筑摩書房、1986年、原題『とりっくものがたり』、1979年)、232-33頁。

[vi] 都筑道夫『黄色い部屋はいかに改装されたか?』(晶文社、1975年)参照。

[vii] 二階堂黎人「ジョン・ディクスン・カーの全作品を論じる」『名探偵の肖像』(講談社、1996年、文庫版、2002年)、378頁。

[viii] ダグラス・G・グリーン(森英俊・高田朔・西村真裕美訳)『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』(国書刊行会、1996年)、291-92頁。

[ix] 同。

[x] 『貴婦人として死す』(高沢 治訳、創元推理文庫、2016年)、山口雅也の解説「結カー問答」、309頁。

[xi] 『貴婦人として死す』(小倉多加志訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1977年)、310-11頁。

[xii] 『貴婦人として死す』(創元推理文庫)、87頁。

[xiii] Carter Dickson, She Died A Lady (Berkley Publishing Corporation, 1966), p.52.

[xiv] 『貴婦人として死す』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、87頁。小倉は、「内容と題名との関係は、読者が御自由に解釈していただきたい」(311頁)、と付け加えている。そんなん言われても。

[xv] でも、小倉訳に親しんできたので、やはりこちらが懐かしい(よいしょではないです)。